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 瑞樹が自分のその弱点に最初に気づいたのは、中学の入学式だった。

 中学の制服は、詰襟の学生服。瑞樹はいつも、上から2番目までのボタンを外していて、教師によく叱られた。
 叱られればすぐにはめるが、またすぐ外す。でも、瑞樹があまり問題を起こさない生徒であることと成績がそこそこいい位置をキープしていたこと、そして制服のボタンの1つや2つでは人間性を測ることなどできないのだという事実をちゃんと理解している教師が多かったことが幸いして、3年になる頃には、大抵の教師はそれを黙認するようになっていた。
 高校の制服は、濃紺のブレザーに、ブルーグレーのネクタイだった。瑞樹はいつも、シャツの一番上のボタンを外し、ネクタイを緩く締めていた。でも、そんな生徒は大勢いたので、特に注意されることもなかった。
 マフラーも駄目、タートルネックも駄目―――気づけば、首まわりに圧迫感を覚えるものは、何ひとつ身につけられなくなっていた。怖かった―――圧迫感を覚えた瞬間、このまま息が止まるんじゃないかと思えて。

 母が残した、負の遺産。
 ありがたいことだ。死にかけたあの日から、もう14年の歳月が過ぎているというのに、瑞樹は未だにネクタイをまともに締めることができない。

***

 「なるほど…。で、数あるコンピューター関連会社の中でも、特に当社を志望された理由は?」
 スーツを着なくて済むからです。
 ―――と言いたいところだが、それじゃあ駄目なこと位、世渡り下手な瑞樹でも分かる。それに、服装のことは、志望理由のほんの一部だ。
 「実力主義の会社だと思ったからです」
 「ほー。どの辺りが? そう言えば君は、えーと、応募書類を郵送せずにわざわざ持ってきた変り種だったね」
 社長が手元の書類をパラパラと見ながら言う。
 「会社見学の一種のつもりで、直接伺いました」
 「で、その結論が“実力主義の会社”、か―――たかだか10分弱の時間で、何故そう思ったのか、聞かせてもらえないかな」
 採用試験の一環として訊いているのか、単純な興味からくる質問か、少々微妙だ。興味津々の社長の目を真っ直ぐ見返し、瑞樹は正直に答えた。
 「システム部には、スーツ姿の方もいれば、私服の方もいました。責任者の中川部長は、履歴書を渡した時、真っ先に“学歴”欄ではなく“趣味”と“長所・短所”の欄をチェックされてました」
 「ふむ…それで?」
 「服装や出身校で人を判断する会社ではなさそうだ、と感じました。だから、他の数社の内定を蹴って、こちら一本に絞りました」
 「なるほどね。…実力主義の会社にあえて絞ったということは、それは君の自信の表れと取っていいかな?」
 「―――いえ、自信なんて、ほとんどありません」
 試すような社長の言葉に、瑞樹は苦笑した。
 「評価されるにしろされないにしろ、その理由が“実力”なら、納得できるからです。自分も、周りの人も」

 その返答が気に入られたのか、瑞樹はあっさり、その会社に入社することが決定してしまった。
 株式会社ブレインコスモス―――去年、久保田が入社した会社である。

***

 「ねぇ、成田。久保田に“絶対俺の会社に来い”って命令されたって、本当?」
 「…命令はされたけど、その命令に従った訳じゃないんで」
 面白そうに笑う佳那子を横目で睨んで、瑞樹はお猪口に入った日本酒を飲み干した。
 醸造酒系統より蒸留酒を好む瑞樹からすると、ちょっと今日は飲み過ぎかもしれない。仕方がない。システム部の歓迎会となれば、当然、新人である瑞樹は主役である。システム部なのになんで企画の久保田もいるんだ、とか、何故営業の人間までいるんだ、とかいろいろ疑問はあるものの、それらの人間が次々にお酌をしに来るので、会が始まって1時間半経つ今、瑞樹は相当量の日本酒を口にしてしまっていた。
 「…だそうよ、久保田。嬉しそうに自慢してたのに、残念ねぇ」
 佳那子が肘でつつくと、久保田は面白くなさそうな顔をしながら肩を竦めた。
 「なんだっていいんだよ、俺は。結果オーライ。瑞樹が来てくれたんなら、万々歳。よかったな、佐々木。仕事が楽になること請け合うぞ」
 「他人のことまで自信あり気に言うのって、どうかと思うけど」
 「自信があるんだから、仕方ないだろ」
 「…あんた、遠慮という美徳を、もうちょっと学んだ方がいいんじゃないの?」
 呆れた声で呟く佳那子と、平然と酒を口に運び続ける久保田を横から眺め、瑞樹は密かに笑いを押し殺した。


 佐々木佳那子は、瑞樹の1年先輩のシステムエンジニア―――つまり、久保田の同期である。
 3月の半ば、初めてシステム部に出社した時、佳那子の姿を見た瑞樹は内心「あっ」と声を上げていた。その顔には、見覚えがあった。
 会ったのは、たった一度―――昨年末の、瑞樹と久保田共通の友人の葬儀の場で。おそらくは彼女自身も故人と親しかったのだろう。佳那子は、久保田に支えられて、なんとか立っていた。その姿は、別段紹介されずとも、2人が恋人同士であることを如実に物語っていた。
 その時は既にブレインコスモスに入社することが決まっていたが―――まさか彼女がシステム部の人間だとは思っていなかった。当然、久保田と同じ企画部の人間だと思いこんでいた。久保田の彼女が上にいるんじゃ、結構やり難いな…と思った瑞樹だったが、どうやらその心配はなさそうだと、入社3日目にして瑞樹は察した。
 久保田は佳那子を、そして佳那子は久保田を「飲み友達」と称している。つまり…付き合っていることを隠しているふしがある。目の前でいちゃつく心配だけは、とりあえずせずに済みそうだ。


 ―――けど、これじゃあバレバレに近いと思うけどな。
 さっきから観察していると、他の男が佳那子にお酌をしに来ると、久保田がそれを横取りして飲んでしまっている。佳那子を必要以上に酔わせないためなのか、単に「男からのお酌」が嫌なのか―――大人げないよなぁ、と半ば呆れるものの、久保田のこういう面は大学時代にあまり見られなかったので、結構面白い。
 とにかく、恋人と紹介されなかった以上、こちらも気づかぬふりをしておこう―――瑞樹はそう思って、空になったお猪口に酒を注ぎ足した。

 その時。
 ふと、自分に注がれる鋭い視線を感じた瑞樹は、軽く眉をひそめ、その視線の主を探した。
 さほど広くない宴会場をぐるりと見回す。ほどなく、その人物は見つかった。瑞樹の向かい側に座っている男―――もう一人のシステム部の新人、小沢だ。
 今年採用されたシステム部の人間は瑞樹と小沢だけだが、同い年のこの2人は、まるで中身が違っていた。
 瑞樹は英語科を卒業したばかりで、実務経験も専門的な教育を受けた経験もゼロ。一方の小沢は、1年前に既にコンピューターの専門学校を卒業しており、他社で1年の実務経験を積んできている。つまり小沢は転職組なのだ。
 向かい側の席から向けられる小沢の視線は、妙に鋭かった。
 冷やかで、けれど内側に敵意に近い何かを隠しているような…そんな、目。何か彼の癇に障るようなことをしただろうか?
 もしかしたらこの服装が気に食わないのかもしれない、と瑞樹は思った。
 瑞樹は、入社2日目から、既に私服を着て出社している。瑞樹はその理由を、入社1日目にさせられた配線作業のせいと説明したが、勿論本音は違う。でも実際、マシントラブルともなれば、日頃掃除の行き届かない配線まわりを弄り倒さなくてはいけない仕事なので、フットワークの良い服装の方が都合がいいのは確かだった。
 一方小沢は、当然と言えば当然だが、ずっとスーツで通している。最初の紹介によれば、小沢の前職は、電算処理を専門に扱う会社のコンピューター管理部門だそうで、制服姿の女性だらけの職場で唯一男性が集中的にいる部門だったらしい。勿論、スーツ着用が当然の義務だっただろうから、その名残かもしれない。
 彼から見たら、新人の癖に即座にラフな服装になった瑞樹は、生意気と映っているのかもしれない。実際、UNIX部門のお偉方の中には、直に注意してきた者もいた。私服の方が理に適っていることを説明したら、すぐに納得してくれたが。

 ―――にしても…言いたいことあるなら、言ってくりゃいいのに。
 なんだよ、という目をして見返すと、小沢は、ぷいとそっぽを向いて、手にしたビールをあおってしまった。

 なんとなく、合わない奴。
 それが、唯一の同期に対する、瑞樹の印象だった。

***

 入社当初は、新人研修プログラムをこなす日々だった。
 瑞樹は杉本という5つ年上の男性社員の下に、小沢は佳那子の下について、彼らが手掛けているシステムの仕様書整理やらテストデータ作成やらをやらされた。たまに簡単なサブルーチン部分を投げられ、それを組むこともあったが、根幹部分のプログラムを組むところまでは、まだ任されない。
 杉本は、瑞樹に負けず劣らず無口な男で、2人の間には最低レベルの会話しかやりとりされない。が、杉本は要点を纏めるのが上手いし、瑞樹は指示の飲み込みの良いタイプだった。結果、瑞樹の新人教育は、かなりのスピードで進んでいった。
 入社から1ヶ月経つ頃、瑞樹は、新人に与えられたノルマをほぼクリアした。と思ったら、次の課題が待っていた。
 「うちの主力商品に、銀行システムがあるの、知ってるだろ」
 杉本は、山のような資料を瑞樹の目の前に積み上げて、ニヤリと笑った。
 「部長からの命令で、お前は、そっちもやることになった。これから半月で、この仕様、全部覚えろ」
 「―――…」
 半ば、自棄になって、覚えた。
 あまり得意とは思えないオンライン関係の話が大量に出てきてしまい、社内に置いてあったオンラインに関する参考書を全部読み漁った。複雑に絡み合うシステムは、仕様書を見ただけではすぐ混乱する。一目で理解できるよう書き直し、それを実際のソースコードの上で追ったりもした。結果…奇跡に近い勢いで仕様は瑞樹の頭の中に叩き込まれた。
 入社して1ヶ月半。
 システム部の部長・中川は「明日から佐々木の仕事を手伝え」と瑞樹に命じた。
 佳那子の下につくのではない。杉本や佳那子同様、1つのシステムを組むメンバーの1人として、プロジェクトに参加しろ、という意味だった。
 その時になって初めて、瑞樹は思った。
 そういえば小沢は、どうなったんだろう、と。


 「小沢は今日から、杉本さんの下よ」
 佳那子のプロジェクトに加わった日、佳那子に訊いてみたところ、佳那子は少し落ち込んだ声でそう返事した。
 「下?」
 「そ。まだ“研修”よ。まぁ、別段、予定より遅れてる訳じゃないけど…なまじ成田が早く終わっちゃっただけに、結構難しい状態になっちゃったわね」
 意外だった。実務経験もある小沢だから、自分より先に実際の仕事に入れるだろうと、瑞樹も思っていたから。
 「私の教え方がまずかったのかなぁ…」
 瑞樹と小沢の間に差が生まれてしまったことに責任を感じているのか、佳那子は大きな溜め息をついて頬杖をついた。
 「うちって、1つのソースコードをプロジェクトのみんなで共有するじゃない? だから、あまり癖のある組み方されると困っちゃうのよね。成田は、独学だけど教科書的に正解な組み方してて、うちのスタイルにシフトさせやすかったんだけど、小沢は前職でもの凄く癖のある組み方を覚えちゃったみたいで―――そこで意見が衝突しちゃって、全然進まなかったのよ」
 「なるほど…強みと思ってたのが、弱みだったのか」
 「それに―――女に教わるって段階で、ちょっと不服だったみたい。それに、経験ゼロのあんたと自分が同じ扱いされることも、ね」
 「……」
 「成田、入社してから、ひたすら仕事漬けで小沢と話もしてないでしょ。少し話しておいた方がいいわよ。反感買ってるかもしれない。どうやら私も、反感買っちゃったみたいだから」
 佳那子は、少し心配そうな顔をして、そう言った。確かに―――小沢とは、朝晩の挨拶位しかしていない。

 仕事漬けになったのは、瑞樹が「退屈するのが苦手な性格」だったせいだろう。
 瑞樹は元来、集中する時は周囲の音さえシャットアウトして集中するタイプだ。だから、仕事そのもののスピードが結構速い。早く仕事が終わってしまうと、その後に待っているのは“暇”だ。これが仕事でなければ、これ幸いと「じゃあ写真撮りに行ってきます」と言えるのだろうが、ここは会社、そうはいかない。時間を拘束された中での暇な状態というのは、たとえようもない程、苦痛だ。
 結果、「終わりました。次お願いします」となってしまう。杉本も、使えそうならばどんどん仕事を任せてしまうタイプ。需給バランスが取れたコンビは、通常の倍のペースで予定を消化してしまい…現在に至る。
 暇な時間を小沢とのコミュニケーションに費やす、という選択肢は、瑞樹にはなかった。小沢の方も瑞樹に話しかけてこなかったし、相変わらずスーツを着込み、時折非難めいた視線をこちらに飛ばしてくる小沢と、元々無口な瑞樹が話したいと思う筈もない。

 「…別に、反感買うの、慣れてるし」
 そう―――反感を買うのは、慣れている。その原因は定かではないが、自分を「気に食わない」と思う人間がかなりの数いることは、前から知っている。そういう輩が一人増えたところで、別段どうという事はない。
 佳那子の忠告に、結局瑞樹は、そういう結論を出した。

***

 そんな風に、スタート時には意外な形で差がついてしまった2人だが、仮採用の3ヶ月を過ぎた頃には、2人ともプロジェクトの一員として、それぞれの仕事を任されるようになっていた。言葉を交わす機会も何度かあった。もっとも、その大半が仕事のことであり、まだ小沢の人となりが見えるレベルではなかったが。
 相変わらずスーツ姿を通している小沢は、服が汚れがちなハード周りの作業を嫌った。もしかしたら彼は、真面目とかそういう以前に、服装にこだわりのあるタイプなのかもしれない。実際、ビシッとしたブランド物のスーツ姿は、なかなか“できる男”っぽくて、女子社員には好評のようだ。
 6月の半ば頃には、事務の女の子と一緒に帰る小沢の姿を、何度か見かけた。楽しげな笑みを見せる小沢に、どうやら彼がその女性に好意を抱いているらしいことを察した瑞樹は、あいつも見た目ほど堅物な訳じゃないんだな、と思った。

 まさか、それが新たな火種になるとは―――さすがの瑞樹も、想像できなかった。

 

 「―――…は?」
 「…だから、あの、一度食事をして欲しいの。それで…もし気に入ってくれたら…」
 目の前で、恥ずかしそうに何度も手を組み直しながらそう言っているのは、小沢と一緒にいたあの事務の女の子。
 なんでこういう展開になるんだ? ―――瑞樹は、訝しげに眉を寄せた。
 「…俺、あんたに全然興味ないんだけど」
 「わ、分かってる! それは分かってるの」
 真っ赤な顔をしながら、彼女は更に続けた。
 「成田君、同期だけどあんまり接点ないし、それに小沢君に色々訊いてみても、彼女はいないみたいだってことしか分からないし…だから、一度ゆっくり話をして、あたしの事を知って欲しいし、成田君の事も知りたいのね」
 「第一あんた、小沢と付き合ってるって聞いたけど」
 このところ、そんな噂をちらほら聞いていたので、そのままを告げる。すると彼女は、凄い勢いで首を横に振った。
 「とっ、とんでもないっ! あたしはただ、成田君の話を訊きたいから、小沢君の誘いに時々応じてただけで…小沢君も、あたしが成田君を好きなの知ってて、その相談に乗ってくれただけなのに―――なのに、経理の子とかに噂を立てられちゃって、むしろ迷惑してるの。あたしも小沢君も」
 「……」

 ―――小沢が迷惑してる? 本気で言ってんのか、この女。
 小沢が彼女に気があるのは、瑞樹以外の目にも明らかだ。それほどまでにあからさまな小沢の態度に、本人だけが気づいていない筈はない。「誘いに応じる」という表現自体、向こうが自分に気があることが分かっていることの表れだ。
 なのに―――瑞樹の情報を仕入れるために近づいただけでなく、あろうことか相談にまで乗ってもらったと言う。
 呆れた。
 いや…それを通り越して、嫌悪感を覚えた。
 自分の恋愛のためなら小沢の恋心がどうなろうと構わない、という、そのあつかましい自己中心主義に。

 「―――悪いけど、断る」
 「えっ…」
 「食事しようが何しようが、無駄だから。じゃあな」
 「ちょ…っ、ちょっと待って!」
 踵を返す瑞樹の腕に、彼女は必死に取りすがった。
 「あ、あたし、何か気に障るようなこと言った!? もしそうなら謝るわ。だから…」
 しつこい女は嫌いだ。
 ついでに言うなら、もう可能性はゼロなんだという空気を全然察することができない鈍い女も嫌いだ。
 はーっ、と大きな溜め息をついた瑞樹は、うんざり顔で振り返り、冷たく言い放った。
 「もう二度と言わない。断る。嫌いなんだよ、お前みたいな女」
 「……」
 「二度とこの件蒸し返すなよ。迷惑だから」
 きっぱりとそう言い捨てた瑞樹を、もう彼女は引き止めなかった。

 

 事の顛末は、即、小沢の耳に入ったらしい。
 翌朝、瑞樹を待っていたのは、入社以来初めて見る小沢の激昂した顔だった。

 「断るなら断るで、もっと言い方があるだろっ!」
 普段なら有り得ないが、椅子に座っているところに急に来られたので、自分より背の低い小沢にあっさり胸倉を掴まれてしまった。
 まだ出社している人間がほとんどいない時間帯だから良かったが、これが始業直前だったらえらい騒ぎだ。小沢にがくがく揺さぶられながら、このシーンを久保田に見られるのだけは勘弁して欲しいな、と瑞樹はチラリと思った。
 「お前、自分が恵まれてるから、人の痛みが全然分からないんだよっ! だからそんな冷たいセリフが吐けるんだ!」
 「お…ちつけ、って、小沢」
 「お前なんか、絶対認めないからな!」
 掴んでいたシャツの胸元を、小沢は勢いに任せて離した。揺さぶられた頭がグラグラする。軽い眩暈を起こしているのかもしれない。
 「仕事は出来るかもしれない、優秀な先輩の引きもあるかもしれない。ああ、確かにオレなんかよりお前の方が評価されてるさ、今は! けどな! 彼女を泣かせるような奴は、絶対認めない!」
 「…好きにすれば」
 本当に、好きにすればいい。
 分かっているだろうに―――彼女が自分に対して取っていた態度の不条理さは。彼女に向けるべき怒りを瑞樹に向けたところで、どうしようもない。でも…それで気が済むなら、好きにすればいい。小沢に憎まれようが好かれようが、どうでもいいことだ。
 瑞樹は、小沢の挑発に乗らなかった。そのことが余計、小沢を激昂させた。
 「ハ…ッ、さすがは“冷静沈着な成田瑞樹”だよな。お前が機械(マシン)相手の仕事を選んだのも頷けるぜ。お前の心は氷で出来てるんだ―――情ってもんを欠片も持ってないんだよ!」

***

 「―――なんだ。こんな所で休憩してたのか」
 背後から掛けられた声に、瑞樹は前髪を掻き上げ、振り向いた。
 久保田だった。
 瑞樹が屋上で休憩を取るようになってから、社内の人間が来るのは、これが初めてだ。勿論、久保田も例外ではない。
 「珍しいな」
 瑞樹はそう言い、手にしていた煙草を、携帯用灰皿の中に押し込んだ。普段は、1日の最後に1本しか煙草は吸わない。社内が禁煙なので、入社を機に日中の喫煙はやめたのだ。が…さすがに今日は、昼休みから煙草に手が出てしまった。
 「朝のバトルを見ちまったんで、瑞樹が落ち込んでないか気になってな」
 「…見てたのかよ」
 内心、舌打ちしてしまう。あの時いたのは、自分と小沢以外には営業と企画の新人が1人ずつだった筈だ。その2人には、後で小沢が慌てて口止めしていたが―――もしかしたら、廊下辺りにまだ何名かいたのかもしれない。
 「佐々木から、今までの話は聞いた。…入社以来のストレスが、一気に爆発したんだろう。でも、今じゃすっかりしょげ返ってるらしいぞ。一度キレて、憑き物が落ちたのかもな」
 「―――分かってる」
 久保田に苦笑を返し、瑞樹は視線をビルの向こうに見える海に移した。

 分かっている―――小沢にも、どうすることもできなかったのだ、と。
 冷静になった小沢は、酷く恐縮して、何度も瑞樹に謝ってきた。それまでの冷たく非難するような態度も、今朝見せた剣幕もなりを潜め、ちょっと不器用で自信がなさそうな小沢が、そこにいた。多分あれが、本来の小沢なのだろう。
 彼の目には、瑞樹は酷く恵まれた人間に映っていたのだろう。入社から今まで、ずっと。
 仕事においても、友人関係においても、女性関係においても―――瑞樹だけが恵まれていて、自分は恵まれない。そのことに憤り、苛立ち、焦り、それを今朝、瑞樹にぶつけてきたのだろう。
 分かっている。無理もない。
 でも―――最後の一言は、少々、きつかった。

 あの日、母に殺された、沢山の感情。
 その代わりに植えつけられた、沢山のトラウマ。
 心が壊れないために封じ込めたものは、長い年月のうちに、それが当たり前になってしまった。誰かに好かれたいという思いも、誰かを求める思いも、今の瑞樹には無縁のものだ。
 誰に嫌われても、誰を傷つけても、自分は、傷つかない。心が氷で出来ている―――そうなのかもしれないと、あの時、思った。的を射ていただけに、きつかった。

 「…なぁ、瑞樹」
 瑞樹の隣に立った久保田は、どことなく愉快そうな顔で言葉を続けた。
 「俺、お前の採用決まった時、大学の先輩ってことで中川部長と色々話をしたんだけどな。…お前の入社テストが、一時期、上層部で話題になってたって知ってたか?」
 「…え?」
 当然、初耳だ。眉をひそめた瑞樹は、久保田の横顔を凝視した。
 「入社試験で、2種類の性格判断テストやっただろ。その1つでは、お前の性格は“冷静で論理的、合理的な考えの持ち主”って出たらしい。計算問題や推理問題があった、あのテストの方だ」
 そう言えば、そういうテストを受けた覚えがある。結構、思考力を試される問題で、頭が疲れた覚えがあった。
 「ところが、だ。もう1つあっただろ。変な絵やら図やらを見て答えるテスト。深層心理テストの一種だけど、そっちには全く逆の結果が出たんだ。“情熱的で芸術家肌、合理性よりもロマンや理想を追い求めるタイプ”ってな」
 「―――…」
 「どんな奴なんだ、って訊かれてもな…どっちが本当のお前かは、俺にも分かんねーよなぁ…」
 少し寂しげに、呟くように言った久保田は、瑞樹の方に視線を向け、口元にだけ笑みを浮かべた。
 「けど、中川部長は言ってた―――システムエンジニアには論理的思考や合理性も必要だが、想像力や発展力も必要だって。確かにシステムエンジニアは、機械(マシン)相手の仕事かもしれないけど―――その機械(マシン)を使うのは、人間だからな」
 「…確かにな」
 「お前が驚く程速くうちの仕事に順応したのは、お前が機械(マシン)のような人間だからじゃない。論理的思考と想像力のバランスが取れた人間だからだ。そこんところ、小沢のセリフを真に受けるなよ」
 「―――そんなに俺、落ち込んでるように見えた訳?」
 瑞樹が苦笑すると、久保田はニヤリと笑った。
 「ああ。もの凄く、傷ついてるように見えた」
 「……」
 「ま…そんな訳だから。小沢も反省しているようだから、あいつの言ったことは忘れてやれよ。部内がギクシャクすると、佐々木も困るだろうしな」
 ぽん、と瑞樹の肩を叩くと、久保田はそのままエレベーターホールへと去っていってしまった。その背中を見送った瑞樹は、彼が言わんとしたことを、なんとなく理解した。

 “お前の心は氷で出来てなんかいない。お前も温かい血の通った、まともな人間だ”。

 ―――木村といい、あんたといい、本当にお節介だよな。
 ふっと笑った瑞樹は、一度目を伏せた後、再び初夏の青空を見上げた。―――小沢の言葉に乱された心を、リセットするために。


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