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― songbird -side Takumi- ―

【1】



 お前と会えて、俺はラッキーだったよ、拓海。

 乾杯しよう。生まれた国は違うけど、俺たちは今日から兄弟(brother)だ。

 

 『今更何よ! 何しに来たのよ、帰ってよっ!』
 『やめないか、ネイト! あいつが死んだのは、誰のせいでもない、あいつ自身のせいだろう!?』
 『それでも、あたしなら、最後まで見捨てたりしなかった! 返して! 兄さんを返してよ……!!』

 

 「―――…っ…!」
 鋭く息を引き、目を開く。

 一瞬、ここがどこだか、わからなかった。
 鼓動が、速い。冷たい汗が、首筋から背中に浮いていた。拓海は、息を詰めたまま、現実に体が馴染んでいくのを待った。

 『当機は、間もなく成田国際空港に到着いたします。本日の東京の気温は、8度―――…』
 ポン、という音と共に、シートベルト着用サインが点く。
 ようやく息を吐き出した拓海は、シートベルトを手探りで探し、慣れた手つきで締めた。

 視線を窓の外に向けるが、まだ、日本に帰ってきた実感はなかった。それよりも、引きずって来たかの国の記憶の方が、よほどリアルだ。
 ―――相当、キテるな、俺も。
 褐色の肌をした、まだどこか幼さの残る女性の、憤りと怒りを滲ませた、あの目―――その記憶を振り払うように、拓海は乱暴に髪を掻き混ぜた。


***


 「それで、どうだった? アメリカいた頃、付き合ってた彼女は」
 人のよさそうなその男は、空港での再会に、ニコニコ笑いながらそう訊ねた。
 大学を中退し、アメリカに渡ろうとアルバイトに明け暮れていた時期に出会った、1つ年上の男―――堀。なにせ、知り合って1年そこそこで拓海がアメリカに渡ったため、付き合いは深くない。だが、今もなんだかんだで連絡を取り合う仲、いわば「腐れ縁」だろうか。
 「…あのなぁ。別に昔の女に会いに行った訳じゃないんだぞ、俺は。ピアノ弾きに行ったんだ」
 「わかってるよ。でも、結婚報告をエアメールで送ってくる位だから、会ってお祝いの一言も言ったんだろ?」
 「まあ、ね」
 「で?」
 期待に目を輝かせる堀をチラリと見て、拓海は煙草の煙を、だるそうに吐き出した。
 「1児の母になって、見る影もなく太ってた」
 「……」
 「テレビとかで見たことあるだろ? 日本人の肥満なんて可愛いもんだ、と思うような、白人の巨体。まさか彼女が、2年であそこまで膨れ上がるとは思ってもみなかった。旦那もらしいから、よほど凄まじい食生活を送ってんだろうな」
 「…そ…そうか、ハハハハハ」
 「思い出は美しいよなぁ…、万国共通で」
 吐き出した煙の行方を目で追いつつ、ちょっと黄昏(たそがれ)る。現在婚約期間中の身である堀は、数年後、今の自分たちが「美しい思い出」になってしまうことを想像して、ちょっと顔を引きつらせた。
 「あ…あー、ええと、車! 車だ。ほんと悪かったな。今日ちゃんと持ってきたから」
 唐突に、堀が話題を変える。
 9月にアメリカに旅立つ直前、頼まれて拓海の愛車を堀に貸したのだが、雨という天候が祟ったのか、見事に自損事故を起こしてくれたのだ。出発を遅らせる訳にもいかず、仕方なく鍵を預けて「ちゃんと修理に出せ」と言っておいたのだが、どうやら無事修理されて戻ってきているらしい。
 「綺麗に直ってるんだろうなぁ? 中古だけど、気に入ってたんだぞ」
 「大丈夫大丈夫。ついでにバッテリー液が危なかったんで、交換しといてもらった。はい、鍵」
 堀はそう言って、預かっていた鍵を拓海に返却した。はいよ、と受け取った拓海は、腕時計を確認した。
 「…っと、そろそろ出ないとまずいな」
 「? 帰国早々、用でもあるのか?」
 「ちょっとな」
 チャリン、と車のキーを手の中で鳴らし、拓海はニッ、と笑った。

***

 正直なところ、拓海にとっては、あまり気の乗らない用件だった。
 父親に半ば勘当扱いされている拓海は、姉の最初の結婚の時も、結婚式に出ることを父から禁止された。姉から届いた写真でしか顔を見ていない義兄は、拓海の帰国を待たずして他界した―――姉のおなかの中に、亘という息子を残して。あれから、もう3年だ。
 姉の身を思えば、再婚は、実にめでたいことである。だが。

 『相手の方も、再婚なの。2ヶ月前に、奥様が病気で他界されて―――女の子が1人いるんだけど、こっちも亘がいることだし、そういう意味ではフィフティ・フィフティよ。ただ……お父さんが、ね。やっぱり、いい顔しなくて』

 ―――ま、無理もないよな。
 思わず、眉をひそめる。
 姉がその男の子供を身ごもっている、という事実を踏まえるならば、潔く責任を取った点ではあっぱれなのかもしれないが―――継子がいる上に、前妻の死からたった2ヶ月の結婚だ。拓海、なんて息子につけた割には超保守派だったあの父が、いい顔をする訳がない。
 最近高血圧気味なんだから、と父の健康を気遣う母は、姉の再婚に反対はしなかったが、積極的に父との間を取り持つ気もないらしい。どうせ春には子供が生まれる、孫の顔を見れば認める気になるだろう、というノンビリした性格なのだ。拓海も、その意見に賛成である。ただ―――「拓海も早く落ち着いて、お父さんを安心させてやってよ」などと矛先を自分に向けそうなのが、どうにも憂鬱だ。
 姉の再婚はいいことだが、拓海にとっては、色々と複雑な心境にさせられる事態なのである。

 

 姉たちの新居に到着したのは、日も暮れた夕方になってからだった。

 「はじめまして、如月です」
 「……」
 少し緊張した面持ちで挨拶する男を見て、拓海は、妙なデジャヴを感じた。
 誰かに似てる―――でも、誰だか思い出せない。釈然としないながらも、笑みを作り、如月氏に握手を求めた。
 「…弟の、拓海です。ちょうどアメリカに行っていたので、ご挨拶が遅れて申し訳ありませんでした」
 「いや、とんでもない」
 如月氏が、不器用そうな笑みを僅かに作る。そのぎこちなさを少し不審に思ったが、再婚の経緯が経緯だから無理もないのか、とも考えた。
 姉の話によれば、如月氏は現在40歳を少し過ぎたところだという。が、どこか頑固そうな眉のせいか、それとも妻の看病と死による心労のせいか、実年齢より若干老けて見えた。それでも、休日でもきちんと整えられた身なりやこざっぱりとした黒髪、なかなか堂々とした体格から、まだ十分に魅力とエネルギーを残した壮年の男性、という印象を受ける。そういう細かい分析をして、この妙なデジャヴの理由が、なんとなくわかった。
 そうか。親父に似てるんだ。
 わかった途端―――ちょっとばかり、げんなりした。
 「まあ、とにかく、どうぞ」
 如月氏と姉に促され、家の奥へと進む。
 ―――何かあったのかな…。
 1歩前を歩く姉の、僅かに覗く横顔をチラリと見て、少し眉をひそめる。
 如月氏もそうだが、姉も、なんだか変に緊張したような、どこかぎこちない様子だ。初対面の如月氏ならまだわかるが、姉については、何故実の弟に対してこういう顔になるのか、その理由がいまひとつ想像ができない。もしかして、新婚早々、夫婦仲が上手くいっていないのだろうか―――そんな懸念まで、ふと頭をかすめた。

 居間に通されるとすぐ、甥の亘が「おじちゃん」と言って嬉しそうに駆け寄ってきた。
 「よぉ、亘。元気だったかー」
 ぐしゃぐしゃと頭を撫でてやると、亘は、えへへ、と無邪気に笑った。最後に会ったのは渡米前の9月だが、たった3ヶ月で、なんだか目に見えて大きくなった気がする。小さい子供は、ちょっと見ないうちにどんどん成長するな―――しみじみと驚いた拓海だったが、ふと視線を感じ、亘を見下ろしていた目を、上げた。
 「……」
 視線の主は、少し離れた窓際に、立っていた。
 中学生……いや、高校生、だろうか? 年齢は、よくわからない。とにかく、ひょろりとした印象の、ショートヘアーの少女だ。
 オフタートルのニットワンピースを着た彼女は、窓際にぽつんとたたずみ、こちらを見ていた。静かな―――何の感情も映していない顔で。
 「サヤ、こっちにおいで」
 如月氏の言葉に従って、彼女は大人しく、こちらに歩いてきた。が、ぽん、と如月氏がその肩に手を置くと、一瞬、迷惑そうな不愉快そうな表情を目元に浮かべ、僅かに体を硬くした。
 彼女のそんな反応に気づいたのか、それとも気づかなかったのか。如月氏は、彼女を拓海の方に向き直らせると、こう言った。
 「娘です」
 「…えっ」
 娘? この子が?
 思わず、しげしげと彼女の顔を見つめる。そんな拓海を、彼女は、少し戸惑い気味な目で見上げた。
 「私の弟の、拓海よ。つまり、サヤちゃんからすれば、叔父さんに当たる人」
 姉がそう説明を加えると、彼女の瞳から、戸惑いが消える。すぐに、すっ、と静かな表情に戻ると、改めて拓海の顔を見つめる。
 「―――…はじめまして」
 そう言って、彼女は、丁寧な所作で頭を下げた。

***

 「食えない―――…?」
 思わぬ話に拓海が目を丸くすると、姉は暗い表情で頷きつつ、拓海の背後にチラリと目をやった。あまり家族に聞かれたくない話題なのだろう。
 「一緒に住み始める前から、その兆候はあったらしいんだけど、どんどん症状が悪くなる一方で。内科にかかって胃腸の薬ももらってるけど、効いてるのかどうか……。食べさせても全部吐いちゃうし、あの人は無理矢理食べさせようと必死になるし、で、親子関係もまずい状態になってるの。この半月は、まともに学校にも行けてないくらい」
 「なんで、また」
 「…無理もないと思うわ」
 姉の目が、悲しげに細められる。
 「お母さんが亡くなって、まだ4ヶ月かそこいらよ? その現実だけでも受け止めるのがやっとなのに―――たった2ヶ月で、父親が再婚、しかも相手は妊娠中。…まだ12歳のあの子の心が追いつかないのは、当たり前よ」
 「じゅ―――…!?」
 大きな声になってしまいそうになり、慌ててボリュームを下げる。
 「…12? あの子が?」
 「そうよ? 一体いくつに見えたの」
 ―――高校生、って答えたら、引くよな、絶対。
 ちょっとばかり、冷や汗が出てくる。でも、あの深閑とした大人びたムードでランドセルを背負っているとは、絶対詐欺だ。
 「とにかく―――心理的なものだと、私は思うのよ。新しい環境に慣れれば大丈夫だとは思うんだけど……昔からあまり丈夫じゃなかった、って話も聞くし、心配で」
 「…それにしても、なんでこんなにバタバタ結婚したんだ? その子が生まれるのに合わせても良かっただろうに」
 姉のおなかの辺りに目をやって、訊ねる。すると姉は、複雑な心境を映し出すような笑みを、微かに浮かべた。
 「…サヤちゃんもそうだけど、多分―――あの人自身、まだ、奥様の死を受け入れられていないのよ」
 「……」
 「振り返らず、前へ、前へ、って進み続けないと、耐えられないの。…彼が死んだ時の私も、そうだった。子供を育てなくちゃ、働かなくちゃ、立派に生きなきゃ、子供に苦労させないようにしなきゃ―――そうやって自分を追い込まないと、立ってられないのよ。…不器用で、本音を語らないから、わかり難いけどね。あの人も私も、同じよ」
 姉の視線が、拓海を通り越し、その向こうに向けられる。拓海も振り返った。
 ダイニングでは、お菓子を食べたがる亘の相手を、サヤがしていた。先ほどは見られなかった微かな笑みが、その顔に浮かんでいる。どうやら、亘とは馴染んでいるらしい。そんな姉と弟の姿を、如月氏は、少し離れた居間のソファから、眺めている。穏やかな、父親の目で。
 亘が、新しい父に向かって、お菓子を差し出す。父親は、笑顔で答える。
 けれど―――娘の目は、そんな微笑ましい風景の中でも、決して父親の方に向けられることはなかった。

 

 ちょっと話をしないか、と誘いをかけると、彼女はあっさり乗ってきた。
 「名前は?」
 庭の見える窓際に並んで座って拓海が訊ねると、彼女は不審そうな顔をした。さっき呼んでたの、聞いてたでしょ? と、その目が言っている。
 「自己紹介は、自分から名乗るのが筋だろ?」
 にっ、と笑って拓海が言うと、彼女は少し不服そうにしつつも、答えた。
 「―――…サヤ」
 「サヤ、か。どんな字書くの」
 「…花が咲く、の咲くに、夜」
 “咲夜”―――綺麗な字だな、と頭の中で漢字を並べて、思った。
 「由来は月見草かな」
 「…ううん。月下美人」
 ぽつり、ぽつりと答える咲夜の横顔を見つめる。
 成人でも通用する背丈と身体バランスのせいで、パッと見た印象は大人びているが―――なるほど、こうして間近で見てみると、その横顔は年齢相応に幼い。ただ、伏目がちな目元だけは、どこか愁いを帯びていて、大人以上に大人っぽく見える。
 「俺は、拓海」
 咲夜の目が帯びている愁いの正体はあえて問わず、今度は拓海の方が自己紹介をする。
 「開拓の拓に、海。海を切り拓くチャレンジャーであれ、って親父がつけた名前だけど、実際に切り拓いたら、一番反対して怒ったのも、その親父なんだ。矛盾してるよなぁ」
 「……」
 「いつの時代も、親は子供に無理解だよな」
 拓海が何気なく口にした言葉に、咲夜はやっと目を上げ、拓海の方を見た。そして、やはり年齢不相応に大人びた―――けれど、どこか安堵したような笑みを、拓海に返した。

 咲夜があまり自らのことを話したそうではなかったので、拓海はその後、自分のことをちょっとだけ話した。
 亘が生まれる少し前まで、長年アメリカで暮らしていたこと。ジャズピアニストという職業であること。今日も実際、アメリカから帰国したその足でこの家に来たのだということ―――そんな話をしつつ、拓海は、それを大人しく聞いている咲夜の様子を、さりげなくチェックしていた。
 痩せている―――オフタートルの襟から覗く鎖骨は、子供とは思えないほど浮き上がっているし、袖から見える手首も折れそうに細い。たった3、4ヶ月でここまで痩せる筈もない。母親が亡くなる前から痩せ始めていたのだろうことは、想像に難くない。
 それに、こうして見ると、肌が異様に白い。といっても、いわゆる「色白美人」ではない。皮膚の下の静脈が透けて見えるほどの血の気の失せた肌色は、痛々しいと感じるほどに病的だ。
 吐いてしまいはするものの、一応、多少の栄養が入っていっているから、なんとか持っているのだろう。だが―――それも、いつまで持つか。
 ―――本気で、まずいかもしれないな、これは。
 姉や如月氏のあのぎこちない様子の意味が、よくわかった。2人とも、心もそぞろなほど、この子の体を心配している―――けれど、自分たちの存在そのものが、咲夜を苦しめている。そのジレンマに、家族全体に歪が生じているのだ。
 咲夜にとっても、この家は、心休まる場所ではないだろう。かといって、病院に入院させるのも、問題が内臓ではなく「心」という曖昧なものにあるだけに、難しい。でも、このままでは―――…。

 ―――…死んでしまうかもしれない。本当に。

 その可能性が、ふと頭を掠めて―――背筋が、ゾクリとした。
 死―――今の拓海は、この言葉に酷く弱かった。弱くなるだけの事情が、そこにはあった。そしてそれは、元来面倒見のいい方ではなかった拓海に、拓海らしからぬ行動を取らせるに十分な事情だった。

 「…なあ、咲夜ちゃん」
 意思を固める前に、自然と、口を開いていた。
 「暫く、俺んとこで、暮らしてみないか?」


***


 暫く留守にしていた部屋の空気を入れ替えようと窓を開けていた拓海は、部屋の入り口から一歩も動かない咲夜を不審に思い、振り返った。
 咲夜は、部屋の隅に置かれた、古ぼけたアップライトピアノをじっと見つめていた。
 「ピアノが、どうした?」
 拓海が訊ねると、咲夜はこちらを見、僅かに笑みを見せた。
 「…ううん。ただ、このピアノで練習してんのかな、と思っただけ」
 「ああ、勿論、そいつで練習してるよ。いずれ掘り出し物のグランドピアノを見つけたら、この部屋の真ん中にドーンと置くつもりだけどな」
 だから現在、拓海の部屋は、広さの割に閑散としている。いずれグランドピアノを、という野望を持って借りた部屋だが、その夢はまだまだ遠そうだ。
 「悪い、キッチン自由に使っていいから、コーヒーか何か淹れてくれるかな」
 部屋中をキョロキョロ見回していた咲夜は、思わぬ拓海の言葉に、キョトンと目を丸くした。
 「え…っ、私が?」
 「なんだ、コーヒーも紅茶も淹れたことないのか」
 からかうように言うと、咲夜はぶんぶんと首を振った。その表情は、ひたすら困惑しているだけで、「なんで私が淹れなきゃならないの」と不服に思っている顔ではない。多分、初めて来た家で好き勝手振舞っていいのだろうか、と戸惑っているのだろう。
 「コーヒーも紅茶も、冷蔵庫の横のカップボードに入ってる。適当に見つけて、好きなように淹れてくれ。俺は、ちょっと着替えてくるから」
 「…はあ」
 家主からそう言われてしまえば、その通りに行動するしかない、と考えたのだろう。咲夜は、提げていたボストンバッグを床に置き、コートを脱いで、キッチンへと向かった。
 「拓海さんは、どっちが飲みたいの?」
 「強いて言えば、コーヒーかな」
 「拓海さんは」
 「あああ、ちょっと、待った」
 更に質問を重ねようとした咲夜を、手で制す。腕まくりしかけていた咲夜は、また目を丸くして、振り返った。
 「その“拓海さん”っての、どうもなぁ」
 「どうも、って?」
 「名前で呼ばれる時は、いつも呼び捨てだから、“さん”付けされると、この辺がむず痒い」
 そう言って拓海が、本当にむず痒そうに首の後ろ辺りを掻くと、咲夜は、うーむ、と眉根を寄せて、少し考え込んだ。そして、軽く首を傾げるようにして、訊ねた。
 「じゃあ、麻生さん、でいいの?」
 「…それも、変だろ。親戚なのに」
 「じゃあ―――おじさん?」
 「……」
 “おじさん”。
 …いや、事実なのだ。事実だし、実際、亘からは「おじさん」と呼ばれている。だが―――27歳の若さで、やたら大人びた目をしたこの子に「おじさん」と呼ばれるのは、非常に辛いものがある。
 「…拓海、でいいよ。俺も咲夜、って呼び捨てするし」
 「えぇ? でも、」
 「じゃ、コーヒー頼むね」
 有無を言わさず、そのまま部屋を出て行く。廊下に出た拓海の耳に、咲夜の小さな呟きが、辛うじて聞こえた。

 「―――…変なヤツ…」

 ごもっとも―――呆れたような咲夜の一言に、拓海はくっ、と喉の奥で笑った。

 

 勢いに任せて連れ帰ってしまったが、よく考えると、拓海の家には1つ、問題点があった。
 拓海の住むマンションは、延べ床面積こそ結構広いが、1人で住むことを前提に借りているので、部屋数は1LDKである。そう、寝室が1つしかないのだ。
 「咲夜にベッド譲って、添い寝してやってもいいんだけどねぇ」
 「…遠慮しときます」
 せっかくの申し出を固辞した咲夜は、LDKで寝起きする、と言い出した。試しにソファに寝転んでみたら、咲夜が寝るにはぴったりのサイズだったのだ。拓海は、咲夜は女の子だし客なのだから、と自分がソファに寝ることも提案したのだが、咲夜は、自分の方が体が小さいし居候なのだから、と首を振った。結果、拓海が折れた。
 如月家で出た夕食のうち、僅かばかりのご飯と煮物少々しか口にしなかった咲夜は、それ以後も、拓海に付き合って飲んだホットミルク以外、何も口にしなかった。空腹感がないのだという。成長期には明らかに足りない食事の量だが、あえて拓海は何も言わなかった。

 咲夜に、何かを強制する気は、なかった。
 元々、拓海自身、自由人だ。何よりも束縛を嫌う自分が、咲夜に何かを強制するのも変な話である。それに、留守の多い自分には、咲夜の生活をコントロールすることなど、どう考えても不可能だ。
 無理に食べさせようと必死になるから、それが余計咲夜のプレッシャーになるのだ。咲夜の好きにさせておけば、案外、姉や如月氏では気づかなかった解決法が見えてくるかもしれない。
 ―――なんか、同居を始めた、っていうより、手のかからないペットを飼う気分だな。
 アメリカから持ち帰った荷物を片付ける拓海の横で、学校の宿題らしきものを広げ、やる気のなさそうな顔でそれに取り掛かる咲夜を一瞥し、そんなことを思う。
 会話もなく、お互い好き勝手なことをしているだけ。ただ空間を共有しているだけ―――そんな時間は、思いのほか、心地よかった。


***


 ―――トランペットの音が、聴こえる。

 あれは、『'Round Midnight』―――あいつが一番好きだったナンバー。
 ヤツが吹くトランペットに合わせて弾くこの曲は、最高に酔えた。店が始まる前の指慣らしにも、よくこいつを演奏したっけ。

 あれから何度、『'Round Midnight』を弾いただろう?
 何人のトランペッターと一緒に演奏しただろう?
 ニッキー……ニコラス。あいつ以上に息の合うトランペッターは、まだ現れない。


 『よせ、ネイト! 彼を罵っても、ニッキーは帰ってこないんだ。彼は被害者だ。むしろ、俺たちが詫びなきゃいけないんだ!』
 『わかってる…! でも…でも、たまらない―――ニコラスは死んでも、この人は今もピアノを弾いてる。たまらないわよ。なんでニューオリンズに来たのよ…!』

 

 はっ、と、目を開く。
 寝汗が、背中にまとわりついていた。夢か―――息を吐いた拓海は、暗闇の中、ベッドの上に起き上がった。
 ―――何時だよ、一体…。
 うんざりした気分で、枕もとの時計を確認する。デジタル表示のそれは、午前3時過ぎと表示されていた。
 ため息をつき、ライトをつけた拓海は、サイドボードの上の煙草に手を伸ばした。寝煙草はよくないが、吸わずにはいられない気分だ。
 1本取り出し、火をつける。揺れる煙草の先を見て、自分が微かに震えていることに、拓海は気づいた。


 実際―――拓海は、3年前、親友を見殺しにした。
 無理もない、と周囲は言ったし、自分でも思った。ドラッグで錯乱状態に陥り、拓海の首まで絞めるようになったニッキーと、あれ以上関わり続けるのは、拓海じゃなくても無理だっただろう。
 誰も拓海を責めなかったし、責任を問う声もなかった。
 ただ―――ニッキー自身の目だけが、拓海を責めていた。やっぱりお前も、俺を見捨てるんだな―――どんよりとしたニッキーの最期の目は、今も拓海の記憶の中で、ずっと拓海を責め続けている。
 今回のアメリカ旅行で、拓海はようやく決心がつき、彼の遺族を見舞うため、ニューオリンズに行った。
 ジャズの都・ニューオリンズ。その中でも特に貧しい者が暮らす低所得者用アパート。その1室に、彼の家族はいた。
 拓海は、歓迎された。老いた両親は拓海に詫び、拓海が持ってきた見舞金を「ありがたい」と言って受け取ってくれた。仲間たちとやるジャズライブのチケットをプレゼントしたら、お金以上に喜んでくれた。
 だが……大勢いる彼のきょうだいの中、ニッキーと5歳違いの妹だけは、違っていた。
 あんたが見殺しにしたのよ―――やり場のない怒りを、彼女はそう言って、拓海にぶつけてきた。覚悟はしていた。自分を責めることで心が癒されるなら、好きなだけ罵ればいい―――そう思って、一切反論せず、責められ続けた。
 けれど、最後に泣き伏したネイトは、より重い苦しみを背負ってしまったように、拓海には見えた。結局、ジャズライブにも来なかった。…当然だろう。自慢の兄は、もう二度とトランペットを奏でることもない。なのに、兄を見捨てた拓海が、聴衆の拍手を浴びるなんて、彼女には耐え難いことに違いない。

 なんだか、全てに、愛想が尽きる。
 結局はニッキーを見捨てることしか出来なかった自分にも、最後まで傍観者にしかなろうとしなかった周囲の仲間にも、そして何より―――自らの命をもって、おかど違いな恨みを拓海にぶつけてきた、ニッキーにも。
 「……ったく…」
 不味い煙草になってしまった。ち、と舌打ちした拓海は、煙草を灰皿の中でもみ消し、ベッドを抜け出し、キッチンへと向かった。


 だるい体を引きずって、廊下とLDKを繋ぐドアに手をかけてから、ふと気づいた。
 ―――…っと、今日から、あの子がいるんだっけ。
 起こしては、まずい。拓海は、いつもの調子で開けようとしたドアを、慎重にそーっと開けた。
 すると。

 「―――…」
 それは、微かな声、だった。
 夜の闇に紛れて、か細く聞こえる、小さな小さな声―――いや、泣き声。
 多分、布団の中にもぐって泣いているのだろう。その声は、これほど静かでなければ、聞き取るのも不可能なほどに、小さかった。
 何を思って、泣いているのだろう? 死んだ母を思って? 家族と離れた心細さから? それとも……父にこの苦しさを理解してもらえない、寂しさからか。

 暫し、考える。
 が―――考えてどうこうするのも野暮だ、と思い、考えることをやめた。
 咲夜を慰めたい訳でも、泣き止ませたい訳でもない。ただ―――自分が、そうしたいだけだ。

 パチン、と、一番手前のダウンライトだけ、つける。
 真っ暗闇が、唐突に、明るくなる。が、咲夜の寝ているソファは、まだ半分以上、暗闇の中だ。
 薄暗がりの中、微かに動いていたソファの上の塊が、ぴたり、とその動きを止める。そしてそのまま、まるで息をひそめているみたいに、じっと動かなくなった。
 「起きてる、よな?」
 「……っ…、」
 微かに、しゃくりあげる声が、丸まった布団の中から聞こえる。が、返事はない。
 「なら、そのまんまでいいから、1曲、付き合えよ。…どうにも、弾かずにはいられそうにないんでね」
 「……」
 大半の人間が眠りついている時間だが、こういう時のために、完全防音のこの部屋を借りたのだ。そのメリットを活かさない手はない。咲夜の返事を待たず、拓海は、壁際に置かれたアップライトピアノの前に座った。
 蓋を開け、鍵盤を指でひと撫でする。チラリ、と背後を窺ったが、咲夜はまだ、じっと息をひそめているようだった。その様子が、周囲の気配を窺っている警戒心の強い猫みたいに思えて、思わず苦笑した。

 鍵盤に向き直り、すぅ、と息を吸い込む。
 悪夢を振り払うように、あるいは、咲夜に語りかけるように―――拓海が弾き始めたのは、『'Round Midnight』だった。

 

 こうして、拓海は、咲夜と暮らし始めた。

 この、不思議なほど大人びた目をした少女が、1羽の幸福のカナリアであることを―――拓海は、まだ知らなかった。


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