←BACKFake! TOP




― songbird -side Takumi- ―

【3】


 頭が、ぐらぐらする。
 ちょっとばかり、飲みすぎかもしれない。店のドアを開けつつ、拓海は後悔と共に頭を手で押さえた。
 「今日はまだ、時間あるんでしょ?」
 我が物顔で腕を組んでくる隣の女が、そう訊ねる。が、拓海としては、今日は最初から「ここまで」予定だ。
 「いや、明日、早いからねぇ」
 「えぇ? 何よそれ。まだ9時じゃないの。この前もなんだかんだ言って食事だけだったでしょ? 今日は付き合ってよ」
 「んー、また今度ね。ちょっと飲みすぎたから、早いとこ帰って寝ないと」
 「あ、じゃあ、麻生さんのお宅でいいわ。あたしも結構酔ってるの。ね、連れてって」
 ―――なるほど。そうきたか。
 どうりで、やけに酒を勧める訳だ。こういう流れに持っていこうと、最初から計算済みだったのだ、と今更ながらに気づく。前回、飲み食いでハイさようなら、とされたのが、そんなに癪だったのだろうか―――満面の笑みの女を見下ろしつつ、拓海は、頭の中のブラックリストの筆頭に、目の前の女の顔と名前を記入しておいた。
 「だめだめ。うち、女性立ち入り禁止なんだ」
 「えーっ、何よそれ。そんな訳ないでしょ、麻生さんに限って」
 「いや、ほんとに」
 足を止め、拓海は彼女に向かってニヤリ、と笑った。
 「実は、凶暴な猫を飼っててね」
 「ネコ?」
 「俺には懐いてるんだけど、女にはもう、怖いのなんの…。凄いよ、手加減ゼロでバリバリいくし、噛みつかれると病院モノだろうね、きっと。泣き叫んでも無理。根性あるから、うちの猫は。止めると俺までやられちゃうから、俺も止めないしね」
 「……」
 「ま、君のその美貌が、明日の朝、お岩さんも真っ青なすさまじい顔になってても構わないんなら、来れば? ただし、さっきも言ったように俺、明日は早いから、夜明け前にはお岩さん状態で帰ってもらうよ。ああ、病院行くなら、うちの近所に名医がいるから、大丈夫。ただし、受付開始は9時ね。それまではコンビニかファミレスででも、お岩さん状態で時間つぶせばいいよ」
 「……」
 「どう? 来る?」
 女の顔は、完全に青褪め、こめかみに青筋が浮かんでいた。今の話を信じた結果なのか、それとも、大嘘で突っぱねられたことへの怒りからなのか、その辺はいまいち判別がつかない。まあ、どっちでも構わないけれど。
 ちょうど“空車”の2文字を掲げたタクシーが通りかかったので、手を挙げて止めた。言葉を失っている彼女の背中をさりげなく押し、開いたタクシーのドアの内側へと押し込む。
 「ちょ…っ、あ、麻生さんっ」
 「やっぱり、その綺麗な顔がバリバリやられちゃうのも気の毒だから、帰った方がいいよ」
 「待って! だったら、あたしの家に、」
 「うんうん。じゃ、おやすみー」
 最後まで、拓海は笑顔である。
 が、ドアが閉まり、タクシーが走り去ると―――その顔は、げんなりとした表情に一気に変わった。

 正直―――うんざりだった。
 大人の遊びと割り切れず、変な期待をかけてくる女に。……いや、それ以上に、そんな付き合いばかりしている、自分自身に。
 我ながら、あれからの1年間は、完全に壊れてたな、と思う。壊れてしまうほどに、香苗の自殺未遂にまつわる出来事は、拓海にとっては痛すぎた。
 拓海を責め、拓海に思い知らせるために、目の前で自殺を図ったニッキー。そういう過去があるからこそ、同じように、自分の命を使って拓海を束縛しようとした香苗を、拓海はどうしても「可哀想」とは思えなかった。香苗のやったことに責任を感じる佐倉にも共感できなかったし、結果的には拓海より香苗を選んだ形になった佐倉にも、怒りに近い悲しさを覚えた。
 あれから1年半―――さすがに正気に戻ったが、だからといって、壊れていた時期が消える訳ではない。そして、壊れていた時期の自分は、今の自分に、深い爪あとを残していた。
 うんざりだ。つくづく、嫌気がさす。けれど……立ち直るには、まだ時間が必要なのかもしれない。


 「……はぁ……」
 玄関のドアを閉めた拓海は、珍しいほどに大きなため息をついた。
 飲みすぎ、というより、好みじゃない酒だったのかもしれない。ずるずるとその場に崩れ落ち、冷たい玄関の上に座り込んだ。
 そのまま、膝に頭をつけるようにして、暫しじっとしていたのだが―――ふと、視線を感じ、ゆっくりと顔を上げた。
 「……」
 玄関を上がってすぐのところに、白いソックスを履いた足が、見えた。
 そのまま視線を上に持っていくと―――制服姿の咲夜が、腕組みをして、憮然とした顔で拓海を見下ろしていた。
 ―――出たよ。うちで飼ってる凶暴猫が。
 勿論、さっきの女に言った話は嘘だし、咲夜が女性に噛み付いたり引っかいたりしたこともない。だが、もし咲夜が猫で、相手のことが気に入らなければ、きっと容赦なく噛み付き、バリバリに引っかくだろう―――そんなことを思って、拓海の口元に、力ない笑いが浮かんだ。
 「…なぁに笑ってんの」
 ため息混じりに、咲夜がぼやく。が、拓海は、弱々しい笑いを浮かべたまま、こつん、と頭を下駄箱につけた。
 「ちょっと、な。疲れちゃってさ」
 「疲れた、ったって、女遊びで疲れてんでしょ? 全く…」
 しょうがない奴、という顔をした咲夜は、ぶっきらぼうに、拓海に向かって手を差し出した。掴まれ、ということらしい。

 この1年半あまりで、全ての人が、去って行った。
 自業自得だ。去られて当たり前なほどに、あの頃の自分は情けなさ過ぎる奴だった。
 それでも、不思議と傍にい続けてくれる人というのは、いるもので―――その1人は、あの腐れ縁で繋がっていた友人・堀だった。
 『拓海。今のお前に必要なのは、そのメチャクチャになった仕事を交通整理して、お前にまともな仕事をさせる“マネージャー”だ』
 あまりの拓海の自堕落振りを見かねた堀は、ある日そう言って、それまで働いていた音楽製作会社を辞め、拓海のマネージャーになった。妻子を抱えているのに、それはかなりの決断だっただろう。ピアニストとしての拓海は、彼を得たことで、急速に立ち直っていった。人のよい気楽な男だが、マネージャーとしての堀は、拓海の自堕落などつま先で弾き飛ばしてしまうほど、スパルタ方針のマネージャーなのだ。
 そして、もう1人―――拓海を、最後まで見捨てなかった人が、いる。
 ドン底に落ち、自分で自分が嫌になった時、きっと真っ先に愛想を尽かし、離れていくだろう、と思っていた人物―――この、目の前にいる、咲夜だった。
 父の裏切り行為を許せない咲夜。恋愛にシビアで懐疑的な咲夜。1度限りの女との逢瀬を重ねる拓海を、軽蔑して当然なのだ。なのに……咲夜は、あれからもずっと、この部屋に出入りしている。

 「―――…なんでお前は、俺を見捨てないんだろうな」
 差し出された手を見上げ、ぼんやりと、そう言う。
 すると咲夜は、一瞬怪訝そうに眉をひそめたが、ふ、と微かに笑い、答えた。
 「…私が見捨てたら、誰か拾ってくれるような奇特な奴でも、いるの」
 「……」
 「ほら」
 鼻先に触れそうなほど近くまで、手を差し出す。
 「…サンキュ」
 差し出された手に掴まり、拓海は、弾みをつけて起き上がった。立ち上がった瞬間、ぐらり、と頭の中が傾いたが、不思議なことに、さっきまでの最悪の気分は半減されていた。
 ぱんぱん、と一仕事終えたように手を叩いた咲夜は、踵を返し、部屋の中へと引き返して行った。翻った濃紺チェックのプリーツスカートの動きを目で追って初めて、咲夜が制服姿であることに、やっと疑問を持った。
 「お前、学校から直接来たのか?」
 「ううん。一旦、家には帰ったよ。ライブの練習で遅くなったけど」
 「ふぅん…」
 「今晩、泊めてもらっていい?」
 「いいけど、どうした?」
 拓海の問いに、居間の入り口で振り返った咲夜は、今更、という顔で肩を竦めた。
 「進学問題再燃で、食事どころじゃなくなりそうだったから」
 「…なるほど」
 高3になって以来、咲夜と父の間には、進学問題が勃発している。
 これまでは、父に反発しつつも「必要最低限しか口をきかない」という消極的反抗を貫いていた咲夜だが、この問題に関しては、完全に対立状態だ。弟や妹を怯えさせるほどの親子喧嘩もあるらしく、一度など、ひっぱたかれた頬を真っ赤に腫れあがらせてこの部屋に来たこともあった。
 ふと心配になり、キッチンに向かいかけた咲夜の肩を掴み、こちらを向かせた。
 「っ、な、何?」
 びっくりしたように目を見開く咲夜の顔を、ちょっと上に向けさせる。が、僅かに顔を赤らめた咲夜の顔には、どこにも異常は見当たらなかった。
 「とりあえず、バイオレンスはなかったようだな。良かった」
 「そ、そんなの、口で訊けばいいじゃんっ。いちいちこーゆー真似して確かめなくてもさ」
 怒ったように声を荒げた咲夜は、ぷい、と顔をそむけ、少し慌てた様子でキッチンに小走りに向かった。その様子が、いかにも男性慣れしていない「ウブな女の子」っぽくて、拓海は思わず吹き出してしまった。
 「いやぁ、新鮮でいいねぇ、女子高生」
 「…そのセリフ、おっさんぽい」
 グラスに水を注ぎつつ、対面カウンター越しに拓海を軽く睨む。そんな咲夜の頬は、まだ少し赤くなっていた。
 「ブルセラとか援交とかに手を染めたら、さすがに見捨てるよ」
 「バカ。そんな必要、俺にあると思うか?」
 むっ、としたように拓海が言うと、咲夜は蛇口を止め、グラスを差し出しながら、ふっ、と笑った。
 「このカッコで拓海と歩いたら、援交に見られるかもね」
 「…制服の時は、2メートル以上離れて歩けよ」
 「あははは」
 どことなく楽しげに笑った咲夜は、キッチンから出て、すたすたとソファに向かった。
 ストン、とソファの定位置に腰かける。一旦止めていたコンポを再びつけると、咲夜は、スピーカーから流れてきたルイ・アームストロングの声に合わせて、スタンダード・ナンバーを口ずさみ始めた。
 ―――援交、ねぇ…。
 客観的に見て、どうなのだろう。第三者からそう見えるのだとしたら、少々憂鬱な話だ。少し眉を顰めた拓海は、咲夜の向かいに腰を下ろし、グラスの水をくいっ、とあおった。


 静かな時間が、流れる。
 咲夜と一緒にいる時間は、いつも、こんな風に心地よい。いつもジャズがあって、僅かな言葉があって……いつも、穏やかだ。
 拓海が触れられたくない部分に、咲夜は絶対触ろうとはしない。不審に思っているだろうに、何も言わず、ただ、黙って受け止めている。かつて、自分が受け止めてもらったのだから、今度は自分が受け止めるのは当たり前のことだ―――そう思ってでもいるのか、馬鹿あほボケ、と罵りながら、拓海を受け入れてくれる。
 こんな時間が、あまりにも心地よいから、時々……忘れそうになる。
 何年、何十年かけてでも、頑なに閉ざされた心が再び開くのを待とう―――そう決めた1人の女性(ひと)のことを、忘れそうになる。
 そして、忘れそうになるたび、苦笑する。咲夜は確かに拓海に「懐いている」が、それだけだ。自分にしたって、咲夜を保護者的に大切に思っているに過ぎない。それを、佐倉と同列で考えるなんて、馬鹿げた話だ。15歳も下の子供に、何を考えているんだ―――と。
 …けれど。

 歌を口ずさみながら、手元の本に視線を落としている咲夜を、なんとなく眺める。
 中学生の頃から、さして変化がない背丈。相変わらず細くて長い手足と首。かつては年齢より上に見られた咲夜も、今では年相応…いや、下手をすると年齢より下に見られることすらある。
 子供―――まだ、子供だ。
 でも、もう子供じゃない―――ふとした表情に、最近、それを実感する。実感するたび、狼狽する自分がいる。

 ピヨピヨ、と頼りなくさえずっていた雛鳥は、出会って5年以上が経過した今、美しい声でさえずるカナリアとなっていた。
 籠の中で、拓海を信頼しきって歌い続けるカナリアを、これからどう扱えばいいものか―――近頃の拓海は、少し困り始めていた。


***


 結局咲夜は、暫くの間、渡米は控えることにした。
 別に、父親の意見に納得したからではない。最終的に、拓海が反対したからだ。
 どうして、と不服そうにする咲夜に、拓海は、これまで語らなかったアメリカでの重い経験を話した。最初の勤め先で受けた理不尽な仕打ち、暴行事件に巻き込まれた友人のこと、日常の中に当然の顔をして入り込んでいるドラッグ―――そして、ニッキーのこと。
 「平和な留学生ならまだしも、頼る宛てもなく、しかも音楽やショービズの世界でマイノリティがやってくとなると、な。…特に、咲夜は女だろ。大して英語もできないお前じゃ、1ドル稼ぐ前に、ズタボロにされて、どっかの路地裏に転がされるのが関の山だ」
 アメリカ時代の暗部を直接拓海から聞かされて、ある程度納得がいったのだろう。咲夜はその言葉を素直に受け入れ、進学を決めた。ただし―――交換条件として、ひとり暮らしを親に認めさせた。進学を巡るいさかいの中で、咲夜の忍耐力も限界に来ていたのだ。
 うちに来ればいいのに、と提案してみたが、断られた。
 断られて、拓海は、安堵した部分が9割―――少し残念に思った部分が1割、といった気分だった。

 

 「―――麻生さん」

 背後からかけられた声に、拓海は、不覚にもドキリとしてしまった。
 努めて顔色を変えず、振り返る。そこには、予想通り―――佐倉みなみの姿があった。
 とある雑誌関係の集まりの席、佐倉もその雑誌に関係しているのを知っていたので、会場でその姿を見つけても驚きはしなかった。何の因果か、仕事関係で顔を合わせることは、これが初めてではない。有名人から招待されたプライベートなパーティーの席で偶然はち合わせしたこともある。なんだかんだ言って、拓海と佐倉は、妙に縁があるのだ。
 にしても……向こうから声をかけてくるとは、珍しい。
 「…よぉ。珍しいな、君の方からお声がかかるとは」
 少し茶化すように拓海が言うと、佐倉もそつない笑みでそれに応えた。
 「そんなことないわ。いつもタイミングを逃してるだけよ」
 「それはそれは。…で? 何?」
 「いえ、別に。今日はたまたま、タイミング良く声をかけられただけよ」
 そう言って、佐倉は拓海の隣に佇み、手にしていたシャンパングラスに口をつけた。
 ―――何か、あったかな…。
 佐倉の、どことなく落ち着かない様子に、なんとなくそれを感じる。でも、まあ―――表面上、いつだって「普通の知り合い」のフリをしている2人だ。拓海もあえて、突っ込んだことは訊かずにおいた。
 「…ああ、そう言えば」
 やっと話題を見つけた、というように、佐倉の目が、どこかホッとした様子でこちらを向く。
 「咲夜ちゃんって、あたしの母校よね、今」
 「ああ。一城だよ」
 咲夜は、進学先として、佐倉や多恵子の母校・一城大学を選んだ。憧れの歌姫の母校だから、という単純な理由だが、英語に強い大学だから、という理由もあるらしい。
 「実はね、今年の春、あたしの知り合いの子も、一城に入ったの。しかも英語科」
 「へぇ…。じゃあ、咲夜の後輩か」
 「その子から、中庭とかガード下で、ギターをバックにジャズを歌ってる女子学生がいる、って聞いたの」
 そう言うと、佐倉は、どこか懐かしむような目をして、微かに微笑んだ。
 「風貌聞いて、咲夜ちゃんだってわかって……ちょっと、救われたわ。多恵子の遺志を、あの子が継いでるような気がして」
 「……」
 ―――…ああ、だからか。
 佐倉の、どことなく落ち着かない態度の意味が、やっとわかる。佐倉が珍しく向こうから声をかけてきたのは、これが言いたかったからなのだ。
 「ああ、でも、咲夜ちゃん自身にそんなつもりは全然ないのは、わかってるわよ?」
 変に咲夜に多恵子を重ねて見ている、と思われるのはまずいと気づいたのだろう。佐倉は、少し慌てたように、そう付け加えた。勿論、わかっている―――拓海は苦笑し、頷いた。
 「多恵ちゃんは、あいつの憧れだからな。聞いたら、光栄に思うよ、きっと」
 その言葉を受け、佐倉も一瞬、昔のような笑みを浮かべた。そう―――1本の真紅の薔薇を手渡す前に、時計の針が戻ってしまったかのような、笑みを。

 

 ―――多恵ちゃんのことは、少しずつ、整理がついていってるみたいだな。
 エレベーターの中で、昼間会った佐倉のことを思い出し、そう思う。
 多恵子は、佐倉にとって、永遠に抜けることのない棘だ。姉御肌で、大切な人を放っておくことのできない彼女の性格だからこそ、その棘は鋭く、傷口は深い。多分、完全に納得することなど、一生無理だろう。
 それでも―――咲夜が多恵子の遺志を継いだ、と思える位には、過去になりつつある。多恵子が生きた証を、多恵子が遺した“もの”をそこに見つけて、救われた、と言える位には。

 久々に、あの昔ながらの笑みを見て。
 改めて、思った。…やっぱり、佐倉への想いを捨てるのは、到底無理そうだな、と。
 いつも毅然としていて、エネルギッシュで、常に前だけを見て進んでいる「強い女」―――でも、拓海が好きな佐倉は、ああした時見せる、「弱い女」の部分だ。
 思いのほか気にし屋で、性善説を信じているようなお人よしな部分があって、生と死といった哲学的・宗教的なテーマに敏感で……そんな自分を恥じて、それを決して表に出そうとしない、頑なさ。その頑なさがほつれた時に見せる弱さに、拓海は時に救われた気分になるのだ。

 多恵子のことが、過去にできるのなら。
 いつかは―――何年か先には、香苗のことも、過去にできるのだろうか。

 ―――何にせよ、遠い道のりだな。
 小さくため息をついたところで、エレベーターのドアが開いた。


 鍵を開け、ドアを開けると、リビングから微かに音楽が流れてきた。
 「……」
 玄関には、女物のスニーカーが、きちんと並べて置かれている。どうやら、咲夜が来ているらしい。が……来ている時なら、鍵が開く音に気づいて出てくるのに、咲夜がリビングから飛び出してくる気配はなかった。
 ―――寝てんのかね。
 バイトにストリート・ライブにと多忙な日々を送っている咲夜だ。拓海の部屋に来るのは、大抵がボイス・トレーニングのためだ。フル回転で活動し続けて、電池切れでダウンしている可能性は大いにある。
 「咲夜―――…?」
 部屋に上がり、ひょい、と廊下からリビングの中に顔を覗かせる。
 やはり、咲夜は、ソファに深く沈みこんで眠っていた。拓海の声にもピクリとも動かない。どうやら、熟睡中らしい。苦笑した拓海は、鍵をいつもの場所に放り出し、眠っている咲夜のすぐ傍に歩み寄り、その顔をしげしげと眺めた。
 ―――それにしても……寝てる顔は、ガキの頃のまんまだな。
 無防備に寝顔を晒している咲夜は、12歳の頃、このソファですーすー眠っていた時の顔と、ほとんど変わらない。いや、当時の変に緊張した部分が薄れてきた分、今の方が幼く見える位だ。
 なのに。
 「…まずいな」
 思わず、舌打ちする。
 昔は、無邪気で可愛い、と思えた寝顔。その寝顔より、一層幼く見えるようになった、今の寝顔。なのに―――可愛い、という感情以外の感情が、湧いてくる。それは、咲夜に対して感じるべきではない感情だ。
 帰国した時や長期のツアーに出る時、冗談めかしてその唇を掠め取ることは、これまでにも何度かしている。始めは単なるジョークだったし、海外では挨拶でキスするシーンも多いので、そこにさほどの意味はなかった。でも……ここ1年ほどは、そうやって茶化して、この「あってはならない感情」を誤魔化しているのも、事実だ。
 触れたい―――その、原始的欲求。
 我ながら、大笑いだ。“あの”麻生拓海が、15も下の親戚に―――咲夜に、そんな感情を抱くなんて。

 「咲夜」
 さっぱり目を覚まさない咲夜に少し苛立ちを覚え、その耳元で名前を呼ぶ。多少は聞こえたのか、咲夜が眉根を寄せ、少し身じろぎした。
 「おい、咲ー夜ー。起きろよ」
 「……んー……」
 目覚めるのを拒否するように体を丸め、もぞもぞとソファの上で動く。…こういう仕草は、昔から猫っぽい。なんだか微笑ましくなって、拓海は手を伸ばし、咲夜の額にかかった髪を指で梳いた。
 「……拓、海……?」
 指が額に触れる感触で、何かを感じたのだろうか。不明瞭な口調で、咲夜が小さく、拓海の名を呼んだ。
 そして―――その口元が、ほころんだ。
 「拓…海…」
 「……」
 「…拓海……」

 ―――…この、バカ猫が。

 咲夜は、眠ったまま、微かに微笑を浮かべていた。
 ほんの少し前の、あの幼さの残った寝顔とはまるで別人の―――色香さえ感じさせるような、笑みを。
 そして、何度も、拓海の名を呼んでいた。少し、掠れた……どこか切ない声で。それは、これまで咲夜が歌ったどんなラブ・バラードより甘くて、ストレートな歌だった。

 どんな言葉にされるより。
 どんな行動に出られるより。
 拓海には―――拓海にだけは、伝わってしまった。目覚めている時の咲夜が、決して拓海の前では見せまい、と決めている、本心が。

 「……ん、んんんーっ」
 ふいに、咲夜が眉間をぎゅっと寄せ、大きく身じろぎした。
 反射的に手を引っ込めた拓海は、今感じた動揺を静かに飲み込み、何食わぬ顔で咲夜が目覚めるのを待った。
 目を開いた咲夜は、まだ半覚醒状態のトロンとした目で、拓海の顔をぼんやり見上げた。元々、平凡な顔の中で、目元だけは妙に大人びた、アンニュイな色気のある咲夜なので、直前の出来事が出来事だけに、その目つきに柄にもなくドキリとしてしまう。
 「……あれ、本物の拓海がいる」
 少し舌足らずに、咲夜が言う。その口調が、今度は逆に異様なまでに子供っぽく聞こえて、拓海は、変な安堵と共に思わず吹き出してしまった。
 「ハハハ、もしかして、俺の夢でも見てたのか? 咲夜」
 「……」
 ぼんやりしていた咲夜の目が、ぱちっ、と開く。
 慌ててソファの上に起き直った咲夜は、何を探してか、辺りをキョロキョロと見回した。そして、コンポの傍に置かれた時計を確認した途端、額を押さえて大きなため息をついた。
 「うわー…、しまったなぁ。30分くらい仮眠するだけのつもりだったのに…」
 「仮眠の割に、熟睡してたぞ」
 「ちょっとバイトがハードだったから、眠くなっちゃって」
 よっ、と弾みをつけてソファから立ち上がった咲夜は、大きなあくびをひとつして、流しっぱなしにしていた音楽を止めた。
 「拓海帰ってきたなら、ちょうどいいや。ちょっとさー、発音聞いてもらってもいいかなあ」
 水を飲むためにキッチンに向かいつつ、咲夜が訊ねる。
 「ああ、いいよ。どの曲?」
 「“Summertime”。航太郎とは、ボサノヴァのアレンジでやってるんだけど、慣れないせいか、どうも発音しにくくて」
 「ボサノヴァ、か…」
 『Summertime』を、ボサノヴァのリズムで弾いたことはない。が、原曲を知っていれば、スタンダードなボサノヴァでの伴奏位は即興でできる。ちょっと考えて、拓海はジャケットを脱ぎ、ピアノの前に座った。

 拓海が即興で、前奏部分を弾き始める。
 水を飲んでいた咲夜も、拓海が何を弾いているか、すぐに気づいたのだろう。まだ水の残っているグラスをカウンターに置くと、すぐにピアノの傍に歩み寄った。
 「へー…、ピアノで弾くボサノヴァの“Summertime”も、悪くないね」
 「弾き手がいいから、だろ」
 ニヤリと拓海が笑うと、自分で言ってりゃ世話ないよ、とでも言うように、咲夜が眉を上げた。が、前奏が終わり、最初のフレーズのきっかけとなる音に気づくと、すっ、と息を吸い、歌い出した。

 「Summertime and the livin' is easy......」

 あの日、初めて口ずさんだ『Summertime』とは比べ物にならない、流暢な発音。
 憧れのヘレン・メリルよりクリアで、でも、どこか彼女を彷彿させるような、吐息のような声―――耳に心地よい声に、拓海の表情も、自然、穏やかなものに変わっていく。
 けれど、拓海は、咲夜の歌声に耳を傾け、ボサノヴァのリズムを鍵盤の上で刻みながら、ある予感に、密かに苦い思いを噛み締めていた。


 ―――これから先は、今までより辛い時間になりそうだな…。

 それは、限りなく本能に近い部分で感じた、予感。
 1本の真紅の薔薇と、心を酔わせる美声のカナリア―――この先、自分は、同じ迷いを繰り返すのだろう。何度も、何度も―――何年も。

 

***

 

 「―――…思い出し笑いは、はっきり言って、不気味よ」

 怪訝そうな佐倉の顔を見て、拓海は初めて、自分が笑みを浮かべていることに気づいた。
 「ああ…、悪い悪い」
 「一体、何を思い出してた訳? 怪しいわね」
 頬杖をついた佐倉が、じっ、と拓海の目を見据える。が、怪しまれるほどのことは考えていない。拓海は苦笑し、水割りの入ったグラスに手を伸ばした。
 「別に。ただ何となく、色々思い出してたんだよ」
 「色々?」
 「咲夜を預かった時のこととか、初めて生のジャズライブを聴かせた時のこととか―――色々ね」
 「ふぅん…」
 佐倉の目は、それで全部だとは信じていない目だ。なおも探るように拓海の目を見つめていたが、詮索する気はないのか、肩を竦め、自分も水割りのグラスを手に取った。
 「…ねえ、麻生さん」
 「ん?」
 「本当に、あたしが来ちゃっても、良かったのかしら」
 どことなく遠慮した口調で佐倉が口にした言葉に、拓海は僅かに眉をひそめた。
 「なんでまた」
 「だって―――まだ、日が浅いし」
 「……」
 「香苗とあたしが話し合ってから、まだ1ヶ月も経ってないじゃない。咲夜ちゃんが、あたしをどう思ってるかを考えると…」
 いかにも、つい人の気持ちを先回りして考えてしまいがちな、佐倉らしいセリフだ。ちょっと笑った拓海は、水割りを一口のみ、小さく息をついた。
 「大丈夫だよ。その、咲夜本人の招待なんだから」
 「招待されたのは、麻生さんだけでしょ」
 「“佐倉さんとのデートにでも使ってよ”と言われたのなら、君も一緒に招待されたも同然なんじゃない?」
 そう言って、咲夜から貰った紙をひらひらさせる。そこには「2名様までワンドリンク無料サービス」と書かれている。勿論、その正体は、“Jonny's Club”のサービスチケットだ。
 「全く…相変わらずだね。気にしすぎだよ」
 「そう言うけど―――あなたですら、まだ気持ちの整理が完全にはついてないのに、咲夜ちゃんは余計にそうなんじゃない?」
 「そりゃあ、人間だから、ボタン1つで綺麗さっぱり心がリセットできる訳、ないだろうさ。でも、咲夜にはもう立派な彼氏もいることだし、」
 その言葉に、佐倉の目が、キョトン、と丸くなる。
 「えっ」
 「え?」
 佐倉の驚きの声に、逆に、拓海の方が驚かされる。
 「えっ…、ちょ、ちょっと、待ってよ。どういうこと?」
 「は?」
 「咲夜ちゃんに、彼氏がいるって―――えええ!? 何それ、誰のこと!?」
 「…いや、そりゃ、1人しかいないだろ」
 本気で大スクープを耳にしたみたいに驚く佐倉にちょっと引き気味になりつつ、なんとかそう答える。途端―――佐倉の目が、いきなり険しくなった。
 「―――もしかして、一宮君?」
 目だけで、頷く。すると、佐倉の目が、ますます険しくなった。が、その怒りは、別に拓海に向けられているものではなかった。
 「嘘でしょ!? 一宮君、一言もそんな話しなかったわよ!? ちょっと待ってよ、一体いつからよ!?」
 「…えー…、ここ2週間以内、かな?」
 自分の気持ちを確かめるために咲夜が拓海宅を訪れたのが、ほぼ2週間前だ。はっきり「付き合い始めた」と聞いた訳ではないが、このサービス券を持ってきた時の咲夜の笑顔を見て、特に言葉がなくても、もう咲夜は大丈夫だ、と拓海には伝わった。だから、奏と気持ちを通わせることがあったとしたら、この2週間の間だろう。
 当然、奏から佐倉には多少の情報が伝わっているもの、と思っていたのに―――しまった、と後悔したが、今更遅い。佐倉は憤慨したように口を尖らせ、ますます不愉快そうな顔をした。
 「何よそれっ! あ、あいつうぅ……、人の恋愛事情は丸裸にしといて、自分の恋愛は黙ってようって魂胆ね。ずるいわっ」
 ずるい、って。
 ―――小学生の喧嘩か、おい。
 学生時代ですら、できる女・大人の女と言われ続けていた佐倉なのに―――でも、スーパーウーマンな癖にこういう子供っぽい面があるのが、佐倉の魅力であり、拓海がはまってしまった点でもある。
 堪えきれず拓海が吹き出したところで、店内に流れていたBGMがフェードアウトしていった。
 「まあまあ…。始まるみたいだから、とりあえず落ち着いて」
 ぽんぽん、と、テーブルの上に置かれた佐倉の手の甲を叩き、視線をステージの方に向ける。まだ面白くなさそうな顔をしつつも、店内の照明が僅かに暗くなるのを感じてか、佐倉もしっかりとステージの方に向き直った。

 拍手の中、仲間2人と共に登場した咲夜は、いつもと同じ、シンプルなシャツにジーンズ姿だった。
 マイク片手に挨拶をしつつ、咲夜の目が店内を見渡す。そして、拓海と佐倉を見つけると、その口元に舞台用ではない笑みが微かに浮かんだ。
 スタンドマイクに向かう時の、あのすっ、と背筋の伸びた綺麗な姿勢も、ピアノの一成に目で合図を送る仕草も―――半年ほど前と、何ら変わっていない。顔だって、下手をすると中学生の頃から変わらない。
 なのに―――歌う前から、咲夜はどことなく、以前とは違っていた。
 それは、はっきりとは言葉にできない変化―――取り巻く空気というか、醸し出すムードというか……そういう物が、咲夜は、以前とはかなり変わっている。
 ピアノとベースの音が、鳴り響く。目を閉じた咲夜が歌い始めたのは、昔から歌い慣れた、あの歌だった。

 「Summertime and the livin' is easy... Fish are jumpin' and the cotton is high...」

 その歌声に、拓海も、目を閉じた。

 

 咲夜はずっと、拓海の「幸福のカナリア」だった。
 拓海という籠の中で、どんな時も拓海と寄り添い、その歌声で拓海を高みに連れて行ってくれる、幸せの小鳥だった。
 なのに拓海は、その籠の扉を、開けてしまった。青い空も、白い雲もカナリアに与えてやれない自分が苦しくて、カナリアを空に放ってしまった。
 カナリアは、飛び立った。
 けれど―――最後の最後に、拓海の愛する人を、拓海のもとに連れてきてくれた。

 ―――出会った時は、今にも息絶えそうな、弱々しい雛鳥だったのに、…な。
 籠の中では知りえなかった灼熱の夏や凍える冬に、苦しみ、もがき、たくさんの涙を流した咲夜は―――今、美しく強靭な羽根を持った、しなやかな1羽の鳥となって、羽ばたいている。


 誰も信じず、何も求めず、その悲しみをエネルギーに歌い続けていた、孤独な歌姫。

 愛し、愛される世界を本当に知った時―――お前は、どんな歌を歌うだろう?


 閉じた拓海の目の裏に、どこまでも続く真っ青な空が浮かんだ。
 誰にも届かない、天の高み―――そこを自由に羽ばたく1羽のカナリアを見た気がして、拓海は静かに口元をほころばせた。


←BACKFake! TOP


  Page Top
Copyright (C) 2003-2012 Psychedelic Note All rights reserved. since 2003.12.22