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 02: 忍、悪酔いする

 2月24日(木)

 今日は母ちゃん達のことを書いている場合ではない。

 来月の校外練習試合で、オレがスタメンに入ることになった!
 3年が出てったからだと思うと、ちょっと面白くない気もするけど、なんだっていい。とにかく、試合に確実に出れるんだから。
 恭四郎もスタメンに入ってる。いいよなぁ、恭四郎は、背高くて…。今朝、保健室でこっそり計ったら、先週よりちょっと伸びてて大喜びした。でも、恭四郎のやつ「朝は背骨が伸びてるから若干高くなるんだ」って言いやがった。確かに、夕方計ったら元に戻ってた。ムカつく…。
 別に1年生の中で低い方じゃないけど、バスケやるならもうちょい欲しいよなぁ。兄ちゃんだって、高校入ってから伸びた、とは言ってたけど、1年生で160は超えたって言ってたし。
 忍は、1年で170いってたバケモノだけど、何故そうなったか、本人にも分からないらしい。いいよなぁ、今189あるって言うから、NBAも夢じゃない高さだよなぁ。スポーツなんて何もやらない癖に。宝の持ち腐れだ。少し分けろ。

 母ちゃんは、今日は残業。冷凍しといたハンバーグを煮込んで食べた。まだ帰って来ないなぁ…。
 しょうがないから、忍にスタメンのことを自慢しようと思ったら、電波の届かない所にいた。
 …ついてない。


 【一口メモ】
  園田さんが「来週誕生日会をやるから、うちに来ない?」って誘ってきた。
  用事もないし、綾瀬さんとお近づきになれるかもしれないから、OKした。
  でも、わざわざ校舎裏に呼び出して誘うなんて…もしかして、誘われたのって、オレだけ?
  恭四郎の片思いの相手なんだけどなぁ…なんか、嫌な予感。恭四郎も誘おう。うん、それで上手くいく。…多分。


***


 残業から帰った舞は、イズミの話を聞いて、驚いたように目を丸くした。
 と言っても、スタメン入りの件ではない。来週―――よりによって3月3日のひな祭りだったりする―――にある、誕生日会の件だ。
 「ええ? 今時、中学生にもなってお誕生日会なんてやる子、いるの?」
 「いるの」
 「ふーん」
 台所で水を一気飲みした舞は、少し不愉快そうに眉根を寄せた。
 「お嬢様ね」
 「…うーん…見た目は、それ系やけど」
 いつもおっとりしていて、綿菓子のように甘いムードを纏っているクラスメイトを思い出し、イズミはそう相槌を打った。が、恭四郎の思い人がお嬢様なのかどうかは不明だ。何故なら、イズミはその彼女に、さっぱり興味がなかったから。
 「姉ちゃんもある意味お嬢タイプやねんけど…ちょっと違うんやなぁ。なんちゅーかこう、妙に女の子女の子しとって、ちょっと苦手やねん」
 「苦手なのに行く訳? 変な子…」
 「…ま、いろいろあって」
 実は、イズミがちょっと気に入っている女の子が、その綿菓子ちゃんの友達なのだ。
 綿菓子ちゃんの小学校時代からの親友らしいが、内気な彼女は、見た目が派手なイズミを警戒してか、滅多に口をきいてくれない。“姉ちゃん”に感じるようなトキメキはまだ感じないものの、できれば友達位にはなっておきたいな、と、イズミは思っているのに。
 親友の誕生会なら、当然、彼女も呼ばれているだろう―――そう睨んだからこそ、イズミはOKしたのだ。ついでに恭四郎も誘って、4人で仲良くなれたら、なお良し。下心がある分、綿菓子ちゃんにはちょっと申し訳ないが、イズミにとっては絶好のチャンスなのだ。
 「でな。夕方から行って、夕飯ご馳走になるから、その日は夕飯いらんねん」
 「あら、そうなの。ま…、たまにはいいんじゃない? おうちの人に失礼のないように、楽しんでらっしゃい」
 「…そんだけ?」
 「え?」
 「母ちゃんにとっても、これってチャンスやと思わへん?」
 ニンマリ、と笑って言うイズミに、舞はキョトンとした顔をした。
 「何、チャンスって」
 「忍に決まってるやんかーっ。おひなさんの日やろ。それ口実にデートにでも誘えばええやん。夕飯いらんのやし」
 バシン、とイズミに背中をどつかれ、勢いで舞は前につんのめった。取り落としそうになったグラスを慌ててシンクに置き、舞は仕返しとばかりにイズミを小突き返した。
 「…あのねぇ。お子様は、そういう事に口は挟まないもんなのよ?」
 「お子様とちゃうわっ」
 「あーら、そんなこと言う? あんたが生まれて13年間、幼稚園時代を除いては、女の子を家に呼んだところなんて一度も見てないわよ? 彼女もいないようなお子様に、あれこれ言われたくないわ」
 ふんっ、と胸を張って見下す舞に、イズミは白けた表情になった。
 「…これだから…」
 「なんですって?」
 「…なんでもあらへん」
 ―――“知らぬは親ばかり”ってヤツやな。
 誰も連れてこないのは、女にモテないからではなく単に本命がいないからに過ぎないのだということを、この母は全く知らない。ついでに、お子様扱いしている息子が、既に色々経験済みなのも知らない。最近の中学生を甘く見てはいけないのだ。
 …とはいえ、母の中学時代の私生活に比較すると、イズミでもまだまだ健全すぎて涙が出るほどなのだが。
 「とにかく、そーゆーことなんで。オレ、明日朝練あるから、もう寝る」
 下手に突っ込まれたら、面倒なことになりそうだ。イズミはヒラヒラと手を振ると、クルリと踵を返した。
 「え? あ、ああ、おやすみ」
 「おやすみ〜」
 唐突なイズミの退場に、舞はちょっと呆気にとられたようにしていた。その気配を背後に感じながら台所を後にしたイズミは、自分の部屋に戻るとすぐ、わざとらしくドアを閉めた。
 そして―――気付かれないよう、今閉めたばかりのドアを、音を立てないように気遣いつつ薄く開いた。
 ―――オレがいなくなったら、絶対母ちゃん、忍に電話するに決まってるわ。
 うくくくく、と笑いを噛み殺しつつ、イズミは息を潜めて、その瞬間を待った。

 

 2月24日(木)追記

 …信じられない。

 園田さんの誕生日会のことを母ちゃんに言ったら、案の定、母ちゃんは忍にデートのお誘いの電話をかけた。

 …でも、母ちゃん。
 なんでデートの行き先が、よりによって「寄席」なん!?


***


 「あー、久々に笑ったわ」
 演芸場を出て、近くの居酒屋の一角に収まった舞は、これまでになく上機嫌だった。
 平日だというのに、居酒屋は随分と繁盛しており、忍と舞は初めてカウンター席に座らされた。忍としては、並んで座るというのは少々落ち着かないのだが、そういう普段と違うシチュエーションにも、舞は機嫌を良くしているようだ。
 「最初の2人はテンポがイマイチだったけど、最後の師匠はさすがに年の功ね。気分良く笑わせてもらったわ」
 「あのお師匠さんの良さは、ラジオでは分からん良さやねぇ。表情や動作が絶妙で、ボクもいいもん見せてもろたわ」
 「そぉ? 良かった。誘った甲斐があったわ」
 忍の笑顔が本心だと分かったのだろう。舞はメニューを手に取りながら、ふふっ、と嬉しそうに笑った。

 会社帰りである舞は、体にほど良くフィットする、ブルーグレーのきっちりしたスーツ姿である。休日のカジュアルな舞を見慣れた忍からすると、仕事モードの舞は、妖艶系美人というよりは“できる女”っぽいムードを持っていた。
 どちらにせよ、とてもじゃないが、この風貌から“寄席”なんて単語は思い浮かばない。
 ―――なのに、現実には、“なにわ落語のゆうべ会”の帰りやねんなぁ…。
 舞が落語好きとは知らなかった。電話で聞いた時は耳を疑ったが、古典落語にカラカラと笑う舞を目にしてしまっては、もう信じるより仕方ない。
 忍も、車の運転中などに時々ラジオで聞く程度には好きだが、さすがにわざわざ高座に足を運ぶほどではない。今日のメインの噺家にしても、ラジオではその名調子を何度も耳にはしていたが、実際に目にするのは初めてだ。

 「手酌じゃ寂しいわよね。はい、どうぞ」
 そう言って、運ばれてきた徳利を舞が軽く傾けた。
 普段、舞も忍も洋酒やカクテルばかり口にするが、やはり落語を聴いた帰りなので、気分は日本酒だった。どうもどうも、と言いながら忍がお猪口を差し出すと、久々の純米酒がお猪口の縁ギリギリまで注がれた。
 「ああいうの、よく行かはるんですか」
 お返しに舞のお猪口に日本酒を注ぎつつ忍が訊ねると、舞は軽く肩を竦めてみせた。
 「ううん、寄席に行ったのは、もう何十年振りよ」
 「何十年、て……そないな、百年単位で生きてるような表現」
 「失礼ねぇ…。でも、実際、何十年ていう単位なのよ。寄席に行ったのって、子供の頃なんだもの」
 「子供の頃?」
 舞の幼い頃の話というのは、ほとんど聞いたことがない。ちょっとした興味に、忍は表情を変えた。

 昨年の夏、共通の友人を通じて偶然知り合うこととなった忍と舞だが、その席はもう1人―――イズミがいた。
 忍はイズミを気に入り、舞は忍を気に入った。3人の関係は要するに、そういう図式から始まっている。
 『忍さんみたいに、あたしよりイズミを大事に思ってくれる男っていうのが、あたしの好みなの。だから、当面は友達で構わないわ。いずれ恋人になれたらいいなー、とは思うけど―――暫くはお互い、気楽に付き合っていきましょ』
 と舞が言うので、忍も気楽に付き合っている。…と言っても、いわゆる“付き合っている”というのとは、全く違う。舞の言葉通り、その関係は、イズミという共通の関心事をめぐって協力し合ったり相談しあったりする“良き同志”といった感じだ。
 だから当然、2人でいる時の話題も、イズミの話題が中心になる。もしくは、日々の仕事の話、それと…家族のことを、少しばかり。けれど、家族に問題を抱える舞は、イズミ以外の家族のことは―――それが自分自身のことでも―――ほとんど口にしたことがなかったのだ。

 「子供で落語っちゅーのも、なかなか渋い子供やね」
 お猪口を傾けながら忍が言うと、お猪口半分ほどを飲み干した舞が、くすくすと笑った。
 「まさか、小学校上がったばかりで寄席通いする訳ないじゃない? 落語好きだったのは、父よ」
 「……え」
 「8つの時に女作って出てって、挙句に9つの時に亡くなったんだけどね。イズミから聞いてない?」
 「あー…、ああ、うん、まあ、部分的に」
 9つの時に亡くなったのは、実は初耳だ。忍は、ちょっと笑顔を引きつらせつつ、お猪口をテーブルの上に置いた。
 「あの、亡くなった、ちゅーのは、一体…?」
 「ああ。父は、いわゆるとび職でね。現場で足場から落っこちちゃったのよ」
 「…ひえー…」
 「まあ、3級職だから、そういうエンディングも運命ね」
 残り半分をくいっ、とあおった舞は、あっさりした口調で、謎の言葉を口にした。
 「3級職?」
 「保険料のことよ。職業によって1級から3級に分かれてて、3級は死亡リスクが高いから、保険料も高いの」
 「…さすがは現役生保レディーやな」
 ―――っちゅうか、実の親の死亡原因を、保険料金で解説するかい、普通。
 「そういう、無茶苦茶な終わり方した人だけどね。おかしなことに、子供に関しては至極まともな親だったのよ。子供を寄席に連れてくなんて、なかなか乙でしょ? ちゃきちゃきの神田っ子だったから、宵越しの金は持たないし、寿司と蕎麦が大好きだし―――大好きな父だったのよ。それだけに、離婚した時はショックだったなぁ…。裏切られた、って気がして」
 はあぁーっ、と大きなため息を一つついて、舞は、早くも2杯目の酒を手酌で注いだ。
 「父がいなくなってからもね、父が聞いてたラジオの落語を、つい習慣でいつも聞いちゃう子供だったの。“時そば”なんて、そらで全部口真似できる位―――神戸に移り住んでからも、時々、上方落語を聞いてたし」
 「…なんや、ミスマッチやなぁ…」
 「あはは、そうよね。男漁りしてる中学生が、その裏ではラジオの落語聞いて笑ってるんじゃ」
 舞はそう言って明るく笑うが、忍は曖昧にしか笑えなかった。そうやね、とも、そんなことあらへんで、とも相槌が打てないので、言葉は適当に誤魔化して、運ばれてきた和風サラダに箸をつけた。

 こういう話を聞くにつけ、舞の寂しかった少女時代が、なんとなく脳裏に浮かぶ。
 父に捨てられた上に先立たれ、舞を育てるために、舞の母親は水商売を始めた。金のために、かなり無理な仕事もやったらしい。そして客とトラブルを起こして、逃げるように神戸へ―――いわゆるパトロンの庇護のもと、小さなスナックを三ノ宮に構えた。当時、舞は中2だった。
 子煩悩で優しい男だった筈の父に捨てられ、生きるために母が他の男に身を任せるのを間近で目にし―――舞が“男”に対して抱く感情は、かなり複雑なものだろう。母ちゃんは男性不信やねん、とはイズミの言葉だが、舞の荒れた10代前半も、案外、男性不審からくる極端な行動だったのかもしれない。

 誰もいない部屋で、1人、膝を抱えてラジオを聞く舞を、母親は、男が訪ねてくるたび、部屋から追い出した。行き場を失った舞は、次々と男と関係を持って―――そして、イズミが生まれた。
 ―――ハルがおらんかったら、ほんまに廃人になっとったかもしれへんな。
 舞の初恋の相手であり、イズミの憧れの人でもある男―――東京にいるチャット仲間の顔を思い浮かべて、そんなことをチラリと思う。
 15歳までの舞の精神を支えたのは、ある意味、彼に対する恋心だ。男を“寂しさを紛らす道具”としか思っていなかった舞が、唯一、純粋に恋心を抱けた相手―――片思いではあっても、そんな風に誰かを想うことができたからこそ、舞はなんとかまともな部分を保っていけたのだろう。
 そして、イズミが生まれてからは―――イズミが、舞の支えになった。イズミという家族を手に入れたことで、舞は二度と寂しさを感じることはなくなったから。

 ―――つくづく、ボクとはかけ離れた世界やな…。
 コンプレックスが、ずしりと背中にのしかかる。本当に重みを感じたみたいに、がくっとカウンターに肘をついた忍は、なんだか軋むような気がする背中を無意識のうちにさすった。
 「あら、何やってるの、忍さん」
 和風サラダをおいしそうに食べていた舞は、忍の怪しげな態度に眉をひそめた。
 「背中の筋でも違えたの? また変な場所に押し込められてプログラム組んだりしてたんじゃない?」
 「…ちゃうわ。ちょっとコンプレックスに押しつぶされててん」
 「ああ…“苦労人コンプレックス”?」
 人間「どうせ貧乏人だよ」と卑屈になるのが一般的なのだろうが、忍の場合「どうせボクは所詮金持ちのボンボンや」と卑屈になるのだ。これを“苦労人コンプレックス”と、2人は呼んでいる。
 本人がそう言う通り、忍は金持ちの息子である。両親は仲が良く(これには賛否両論あるが)、面倒見のいい兄にも恵まれている(これにも賛否両論ある)。己の能力不足で苦労したことはあったが、家庭の事情での苦労は皆無だ。
 そんな風だから、舞のような話や芸人の下積み時代の話、貧乏自慢などに、無茶苦茶弱い。どうせボクは苦労知らずや、キミらみたいに人生経験積んでへんわい、という歪んだコンプレックスを覚えるのだ。
 「変よねぇ、忍さんて。苦労なんて、後天的にいくらでもする羽目になるんだから、せめて家庭位は平穏無事な方がいいに決まってるじゃないの。家庭円満だからって卑屈になるなんて、ちょっと歪みすぎじゃないの」
 「…ほっといてや。過去に何度も“お前みたいな成金の息子には俺の苦労が分かるかいな”て言われて、ボクのガラスのハートはボロボロやねん」
 「何度も言われるほど、苦労人が多かった訳?」
 「…不幸にも、ボクの友達、苦労人だらけやねん…」
 「…そういう意味では、忍さんが一番不幸かもね」
 呆れ顔になった舞は、空になったお猪口を満たそうと、また徳利を傾けた。
 「あら…空になっちゃった。あ、おにいさーん! 同じのもう1本!」
 その声を聞いて、うな垂れていた忍は、ギョッとして顔を上げた。
 嘘やろ、と舞の手元を見ると、確かに、舞が傾けている徳利からは、もう1滴も酒が落ちてきていない。比べて、忍の方はというと、まだ半分程度は残っている状態だ。
 「あ、あの…舞さん?」
 「ん? 何?」
 「ちとペースが速すぎるんやない?」
 「えっ、そう?」
 舞とは何度か一緒に飲んだ経験があるが、普段はほぼ忍と同じペースで、最終的に飲む量は忍より若干少ない程度だった。こんな―――倍も差がつくなんて、初めてのことだ。さすがに心配になる忍だったが、舞から返ってきた言葉は予想外の言葉だった。
 「実はあたし、日本酒って初めてなのよ」
 「は!? 初めて!?」
 「どうも飲む人が周りにいなくて―――でも、案外口当たりいいわね、これって。どんどん飲めちゃう」
 「あ、あかんやろ。初めてでペースが掴めてへんだけと違うか…」
 「大丈夫大丈夫。飲めてるってことは、それだけ体に合ってるってことなんだから」
 いや、そうとも限らんで。
 という忍の心配をよそに、2本目の徳利は運ばれてきてしまった。
 ―――まあ…酔ってる風でもないし、大丈夫か。
 そこそこ酒には強い筈の舞なので、初の日本酒だからといって、おかしなことにはならないだろう―――そう踏んで、忍はあえて止めることはしなかった。


 しかし。
 この1時間後、忍は、舞を止めなかったことを、深く後悔することになる。

***

 「ねぇ、忍さぁん」
 妙に舌足らずな口調を不審に思いつつも、忍は、だし巻き玉子に伸ばしかけた箸を止め、舞の方を見た。
 そして、次の瞬間、固まった。
 「―――…」
 舞の目は、据わっていた。
 いや、据わっているのとは、ちょっと違う。焦点が合っていない、怪しい目―――と言うより、妖しい目だ。
 話をしながら、ふと気付けば、舞の前に並んだ空の徳利4本。とてつもなく多い量ではないものの、舞にとっては完全なキャパシティ・オーバーだったのは、この酩酊状態寸前の目を見れば、火を見るより明らかだ。
 「ま、舞さん、大丈…」
 「ふふふふふふふふふふ」
 ―――なんですか、その妖しい笑いは。
 小首を傾げるようにして、僅かに上気した顔で嫣然と笑う舞に、思わず、気遣いの言葉も飲み込んでしまう。なんだか、京都の祇園あたりで、白塗りの花魁さんにしなだれ掛かられたような、そんなゾワゾワしたものを背中に感じる。いや、そんな経験、実際にはしたことはないのだが。
 「ねぇ、忍さぁん?」
 「は、はい?」
 「そんなにー、あたしってー、魅力ない?」
 「はい!?」
 頭のてっぺんから出てきたような奇妙な声が、忍から上がる。その声に、ちょうど少し離れた所でグラスを拭いていたカウンター内の店員も、ギョッとしたような顔で2人の方に目を向けた。
 「忍さんの好みのタイプって、もっとこう、清楚系だって言ってたじゃなーい? やっぱり、アレ? 好みにクリーンヒットしてない女には、欲情とかしない?」
 「な…ななななな何言って、」
 「だぁってぇ〜」
 慌てふためく忍の前で、舞は拗ねたように唇を尖らすと、カウンターの上に人差し指で“の”の字を書き始めた。
 「もう、初めて会ってから半年も経つのに、忍さんてば、全然その気なさそうなんだもの〜。つまんなぁぁい」
 「…つ……」
 つまらん、言われても。
 当面友達でいい言うたんは、舞さんやないですか―――と反論したかったが、できなかった。
 「あたしー、会社でもお客さんとこでも、結構誘われるのよぉ〜? 年下の子からも声かけられるんだからぁ。あ、忍さんも年下の子よね、あははははは」
 最後の笑い方だけ、普段の“外見は妖艶だけど中身はさっぱり系”の舞に戻ったようだったが、その表情は依然、男性誌のピンナップにでも挟まってそうな、もの凄く妖しい表情のままだった。
 「でもでも、忍さんがいるから、あたし、ぜーーーーんぶ断ってるんだからぁ。もぉ〜、ちょっとは分かってよねぇ、この健気な女心ぉ」
 「…自分で言うてもうたら、健気さダウンすんで?」
 「やぁだぁぁ、忍さんてば、おもしろぉぉぉい」
 「…や、何もおもろいこと、言うてへんのやけど」
 なのに、舞の方は、どこかのツボに嵌ってしまったらしく、ケラケラと面白そうに笑い転げる。どうしていいやら分からず、ひたすら固まってる忍の背中をバシバシ叩きながら。

 ―――アカン…。
 日本酒にだけ、異常に弱い体質やな、これは。

 酒の種類によって得手不得手があるのは当然のことだが、ここまで極端な人間は初めて見た。
 ちょっと離れたカウンター席の客も、何事かとこちらに目を向けるほどに、舞のハイテンションぶりは凄まじい。ついでに、さっきから舞の目つきが妖しいままなので、いくら妖艶美女がストライクゾーンじゃない忍でも、さすがに心臓がバクバクしてくる。気まずさと落ち着かなさから、忍は、残っていた酒を一気に飲み干し、急いでお猪口を再び満たした。
 「ほ、ほら、舞さんっ。飲むばっかりやなくて、食わんと。な? 蛸のから揚げもまだぎょーさん残っとるし」
 「ねーえ」

 ああう、やめいっ! その目はっ!

 お色気100パーセント超の目つきで迫ってこられて、カウンター席から落っこちそうになる忍の心の叫びなど、舞には全く届いていない。
 「蛸のから揚げとあたし、どっちが好き?」
 「……」
 ここで、蛸のから揚げ、と答えたら、どうなるのだろう? …想像もつかないし、試す勇気もないが。
 「ど…どっちかっちゅーと、舞さん、かな?」
 「じゃ、だし巻き玉子とあたしでは、どーお?」
 「…まあ…舞さんやろか」
 「いやーん、忍さんてばぁ〜」

 こらーっ! しなだれかかるなーっ!

 もう、泣きそうである。世の男の大半がデレデレしてしまうであろう容姿の舞が、いやーん、などと言いながら、しなだれかかってくるのだから。しかも、さり気なく膝の上に手を置いたりするのだから、反則技のダブル攻撃といった感じだ。
 「蛸のから揚げ、食べさせてぇ〜」
 「…はいはいはいはいはい、何でも食べさせたるから、はよ正気に戻ってや」
 もう、背に腹はかえられない。開き直った忍は、泣きたい気分になりながら、蛸のから揚げを舞の口に運んでやった。
 「兄ちゃん、えらい役得やのぉ。あんまり見せつけんといてやー」
 カウンター奥の男性2人連れの客が、そんな冷やかしを入れる。それ以外でも、似たような声がちらほら飛び交っている。半ば自棄になっている忍は、泣き笑いの顔で、そんな人々に「おおきに、おおきに」と返しておいた。
 「あーん、帰りたくなーい」
 「あかんて…イズミ君に殺されるわ」
 「イズミは女の子とひな祭りデート中だもーん。子供のくせに、なまいきぃぃ」
 「うんうん、そやね」
 「帰りたくなーい」
 「うんうん、ボクが送ったるから、おとなしゅう帰ってな?」
 「やだぁ、忍さんたら全然飲んでないじゃないのぉ。ほら、飲んで飲んで」
 「はい、飲みます飲みます」
 「もっと飲んで飲んで」
 「飲みます飲みます」

 ―――堪忍して…。
 本気で悪酔いしそうだ。
 舞に抱きつかれ、周囲の客に冷やかされる中、忍はひたすら、味も分からないような酒を飲み続けたのだった。

***

 「…や…やっと着いた…」
 ドアの横に掲げられた“朝倉”の表札を見て、忍はどっと安堵と疲れが襲ってくるのを感じた。
 「舞さん、着いたで」
 「…うー…あ、ありがと…」
 電車とタクシーを乗り継いでの帰路の間に、かなり意識ははっきりしてきたらしい。が、悪酔いをしているのは確実らしく、舞の顔は青白くなっていた。
 ピンポーン、と呼び鈴を鳴らすと、暫くして鍵が開けられる音がして、ドアが内側から開いた。
 「…あれ、忍」
 ドアを開けたイズミは、舞だけでなく忍もそこにいるのを見て、ちょっと驚いたような顔をした。
 「ハ、ハハハ…こんばんは」
 「どないしたん」
 「舞さんが酔いつぶれてしもーてん。とりあえず送ってきたわ」
 「あー…、ほんまや。大丈夫か、母ちゃん」
 イズミの問いに、舞は無言のまま、なんとか頷いた。が、頭を揺らしたのがまずかったらしく、そのまま足元がふらついて、半ば転がり込むように玄関内に膝をついてしまった。
 「気持ち悪いー…」
 酷く緩慢な声でそう呻いた舞は、そのまま、靴を脱ぐこともなく、部屋の中へと這って上がっていった。大丈夫なんだろうか。大丈夫じゃなくても、どうしようもないが。
 「珍しいわ、母ちゃんがあんなに酔っ払うなんて」
 「体に合うてへん酒やったみたいで―――まあ、一晩あれば何とかなるやろ。元々酒には強い筈やし」
 「忍は?」
 どうするの、という顔で、イズミが訊ねる。
 本当は、疲労困憊、今すぐにでも眠ってしまいたい状態だが―――あまり悠長にしていられる時間でもない。
 「終電の時間もあるし、帰るわ」
 「…けど、今にもダウンしそうな顔してるやん」
 「……」
 「使ってへん和室あるから、眠ってって、始発で帰れば?」
 「そうしてってー」
 廊下の奥から、舞の呻きに近い声が聞こえた。どうやら、イズミとのやりとりが聞こえていたらしい。
 「…けどなぁ…」
 「オレの親友やんか、忍は。別に構わへんよ」
 「…そんなら、そうさせてもらうわ」
 もう、なんだか、全てがどうでもよくなってきた。玄関内に入った忍は、ドアを閉め、大きなため息を一つついた。
 「―――あの、イズミ君?」
 早くも自分の部屋に戻ろうとするイズミに、忍はちょっと躊躇いがちに声をかけた。
 振り向いたイズミは、「ん?」と、軽く首を傾げる。…やはり、ちょっと変だ。
 「なんか、あったん?」
 「え、なんで」
 「いや、なんちゅうか…元気、あらへんやん」
 「ああ」
 イズミの表情が、僅かに狼狽したものになった。
 何かを逡巡するように、少しの間、視線を忍の背後に彷徨わせたイズミだったが、結局、またどんよりと曇った表情に戻り、力なく首を振った。
 「…今日は、やめとくわ」
 「は?」
 「また、相談に乗ってもらうかもしれへん。…ちょっと、へこんでんねん、今日は」
 「…そか」
 「んじゃ、おやすみ」
 今にも墜落寸前の低空飛行、といった感じの声でそう言うと、イズミはふらふらと、自分の部屋の中へと消えていった。

 ―――どうしたんやろか。
 …まあ、ボクのことやないみたいやから、一安心やけど。

 と一安心したところで、一気に眠気が襲ってきた。忍は、イズミとよく似たふらふらした足取りで、勝手知ったる朝倉家に上がりこんだ。


***


 3月3日(木)

 …まずい。
 無茶苦茶、まずい。

 恭四郎! なんで風邪で休んだりするんだよっ! 園田さんの誕生日会を、あんなに楽しみにしてた癖にっ!
 しかも、行ってみたらオレひとりって、どーゆーことよ!? 親友の綾瀬さんもナシのバースデーパーティーなんて、ありかよ!?
 それに…お嬢様っぽいな、とは思ってたけど、園田さんは、ほんまもんのお嬢様だった。家がデカイ。果てしなくデカイ。両親や兄弟も同じ家にいるのに、園田さんの部屋で何が起ころうが家族には何一つバレないほどに、デカかった。
 せめて、もっと狭い家だったら良かったのに。
 つーか、それも全部計算づく?

 いや、それより何より、園田さん。
 …オレって一体、何人目の男…いや、餌食なんでしょうか。
 バレてないとお思いでしょうが、その異常に手慣れたコトの運びに、最低でも、オレの前に3人はいると推測するんですが。

 あああ、恭四郎ー。お前、騙されてるよー。園田さんはおそろしー奴だぞ。早く目ぇ覚ませぇー。

 チキショー、ウイスキーボンボンなんて食うんじゃなかった。てゆか、あんなに酔っ払うウイスキーボンボン、ほんとに市販されてるのか?
 ああ…明日が来るのが怖い。恭四郎の顔見るのも、園田さんの顔見るのも、綾瀬さんの顔見るのも怖い。
 誰か助けてくれぇ。


 【一口メモ】
  さっき、母ちゃんが酔っ払って帰ってきた。忍が送ってきてくれた。終電やばそうなので、泊まってもらうことにした。
  面白い展開なのに、自分の問題で手一杯。ああ…ほんま、ついてへんわ。


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