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なんとなく気になる、同級生がいた。
他の生徒が、ドッジボールなどをしに校庭に遊びに出る昼休みも、彼はひとり、教室に残ってぼんやり外を眺めていた。
そして、あまり友人を作るのが得意ではなく、ドッジボールもサッカーも苦手だった自分は―――自然、彼とよく2人きり、教室に残る羽目になっていた。
一番前の席で、児童用ではなく大人が読むような文庫本を静かに読む自分と、一番後ろの席で、まるで5つも年上みたいな冷めた目で、校庭で遊ぶ生徒たちを眺める彼。そこに、言葉はないけれど…いつも、気になる存在だった。
自分とはまるで、毛並みが違う人。
けれど、自分とどこか、似た不器用さを持った人。
それが、小学5年生の由井 真にとっての、佐野博武という存在だった。
***
指定された喫茶店に行くと、蕾夏は既に到着しており、カフェオレ片手に窓の外を眺めていた。
「藤井」
声をあげる由井に、蕾夏の視線が、喫茶店の入り口へ向く。久々に会う旧友は、由井に向かってニコリと微笑み、軽く手を振った。
降り出した霧雨に濡れた頭を手でほぐし、蕾夏の向かい側の席に座る。座りながらチラリと見ると、蕾夏の手元のカップの中身は、半分近くまで減っていた。
「ごめん、待たせたかな」
「ううん。ほんのちょっとだけ早く着いちゃっただけ」
「あ、えーと…ミルクティ1つ」
水をのせたトレーを持って現れたウェイトレスに、短く告げた由井は、中途半端に腰掛けていた椅子に、きちんと座りなおし、蕾夏に向き直った。
「珍しいね。時々、藤井がこっち戻ってたのは知ってたけど、オレに電話してくるなんて初めてじゃない?」
「ん…、そうかも。ごめんね、あんまり連絡できないで」
「いや、それはいいんだけど。…ええと、これから実家?」
「ううん、もう寄ってきた。あ……、今日のこと、翔子には内緒ね。翔子には、もうちょっと落ち着いてから話したいから」
「話したい、って―――何を?」
キョトンとした顔で由井が訊ねると、蕾夏は、僅かに躊躇うような様子を見せて―――それから、少しだけ照れたような笑みで、口を開いた。
「―――瑞樹と、一緒に暮らすことに、なった」
「…えっ」
藤井が―――あの人と。
ただ1人、かつてと同じ笑顔を蕾夏が向けていた相手。由井の目を一瞬奪った、独特の魅力を持ったかの人の姿を思い出し、由井は、目を大きく見開いた。
「ほ…、ほんとに?」
「うん」
「そっかぁ…! おめでとう! ほんとに」
満面の笑みで由井がそう言うと、慌てたように蕾夏が付け足した。
「あっ、で、でもね。ただ“一緒に暮らす”だけで、結婚とかは、まだだから」
「え?」
2人の年齢を考えれば、当然そういうことだと思っていた由井は、意外な言葉に目を丸くした。
「なんで?」
「ん…今は、現実的に他人でいるデメリットって特にないし―――子供いたり、財産問題とかあれば別なんだろうけど、そういうのもないでしょ。結婚する必要性を感じないのに、ただ“それが当たり前だから”って理由で籍入れるのって、何か嫌だなー、って。多分いつか、それが当然だ、って感じる日が自然と来ると思うから、それまでは一緒に居られればそれでいいや、と思って」
「…そういうもん?」
「うん。それと―――瑞樹からすれば、ね。辻さんの、反面教師、かも」
「……」
その意見には、大いに、納得した。
辻 正孝という男がどれほど蕾夏を束縛していたかを知っているならば―――結婚を蕾夏を繋ぎとめるための道具にするのだけは絶対に嫌だ、と瑞樹が思ってしまうのは仕方ないのかもしれない。同じ男としての対抗意識もあるのかもしれないし、結婚という単語と正孝を切り離して考えられるようになるには、まだ少し時間が要るのかもしれないし。
「今日、実家に寄ったのも、そのことを両親に了解してもらうためなの。ちょっと手こずった部分もあったけど―――なんとか、分かってもらえた」
「え、じゃあ、成田さんもこっち来てるの?」
「うん。由井君にも一緒に会う予定だったんだけど、お父さんに捕まっちゃって」
「ハハ…」
多分、カメラの話にでも興じているか、最近撮った写真などを見せられているのだろう。微笑ましい話に、自然、由井の表情も和んだ。
「そっかぁ…。良かった。あの人なら大丈夫だって、なんとなく分かる」
「…ん、ありがと」
ちょっとはにかんだように蕾夏が微笑んだところで、由井が頼んだミルクティが運ばれてきた。
「けどさ、今回はちょっと、珍しいね」
紅茶にミルクや砂糖を入れ、スプーンで掻き混ぜながら由井が言った。
「珍しい?」
「藤井っていつも、重大な決断した時、オレには電話とか直接じゃなく、手紙で連絡してきてたから」
瑞樹とイギリスに行くと決めた時も、ライターに転身すると告げてきた時も―――いつも、手紙だった。別に取り決めがあった訳ではないが。だから、今日呼び出された時も、由井は、同棲スタートなんて重大ニュースが待ち構えているとは夢にも思わなかったのだ。そういう話なら、手紙で来ると思っていたから。
「何か、心境の変化?」
「…うん…」
少し曖昧な蕾夏の口調に、由井は、不思議に思って顔を上げた。
カフェオレの入ったカップを両手で包んだ蕾夏は、躊躇っているような、緊張しているような、微妙な表情をしていた。その表情の意味を測りかねて由井が眉をひそめると、蕾夏は、意を決したように、真っ直ぐに由井を見据えた。
「―――もう1つ、由井君に、どうしても会って話しておきたいことがあったの」
「え?」
「…佐野君と、会ったの」
その言葉に。
由井の表情が、一気に強張った。
***
それから、30分ほど。
由井は蕾夏から、全てを聞かされた。佐野との再会の経緯から、その後の展開、佐野の過去、そして、全てがどう解決したのか―――その、全てを。
途中、いくつか、言葉を濁したと分かる部分もあった。
話し合うために会いに来た佐野と“最悪な展開になった”というのは、具体的にどうなったのか分からないし、その展開が「痛み分けと思って納得してる」という蕾夏の言葉を鵜呑みにしていいかどうかも怪しい。その後、暫く立ち直れなかったという蕾夏が一体どんな状態にあったのかも、具体的には分からない。色々、不吉な想像が浮かんでは消えたが―――蕾夏が「ずっと瑞樹がついててくれて、なんとか乗り越えられた」と、これまでで一番美しい微笑を浮かべて言ったので、具体的なことは追及すまい、と思った。
そして最終的に、蕾夏が「やっとあの事件の呪縛から解放されたと思う」と笑顔で言うのを見て、良かった、と思った。
思ったけれど。
全てを聞き終わった由井は、眉根を寄せ、何かの憤りを堪えているかのような表情しかできなかった。
「―――由井君?」
「……え、」
気遣うような蕾夏の声に、由井は、慌てて表情を少しだけ和らげた。
「私、もう大丈夫だよ、ってつもりで由井君に話したんだけど…」
「…あ、ああ、ご、ごめん」
「由井君も、ある意味“当事者”だから、事の顛末はきちんと話しておかなきゃ、って思ったんだけど―――話さない方が良かった?」
「いや、そんなことない。話してくれて良かったよ」
「……」
「良かった、ん、だけど―――…」
語尾が、力なく、消える。
蕾夏が、それでいいと決めたことだ。自分がとやかく言うことじゃない。そう頭では分かっていても…あの時の蕾夏の無残な姿と、その後何年もにわたって続いた悪夢のことを知る自分は、どうしても疑問に感じずにはいられない。
「…佐野の、子供の頃の体験は、よく分かったよ」
躊躇いながらも、やはりどうしても黙っていられず、由井は呟くように、自分の考えを口にした。
「あいつの寂しさとか、歪んだ形でしか気持ちを表現できないとことか、そういうの―――子供の頃の虐待経験と、母親に裏切られたって捻じ曲がった感情が原因だってのは、よく分かった。藤井があんな目に遭った…っていうか、佐野があんな、力で捻じ伏せて支配しようとするような行動に出ちゃった背景に、そういう痛々しい過去があったんだ、って事情も、分かることは分かるよ」
「…うん…?」
「でもさ。…藤井は、それでいいの?」
「え?」
何が、という風に、蕾夏が目を丸くする。本気で分かってない蕾夏の目に少し苛立ち、由井は、僅かに表情を険しくした。
「佐野が、可哀想な子供だったから、って―――そんな、同情して、あっさり許してやっていいの?」
その言葉に―――蕾夏が、怪訝そうに眉をひそめた。
「私は、佐野君のこと、全然許してないよ?」
「でも、実際問題、許したも同然だろ? 佐野は、たいした制裁も加えられずに、罪の償いもせずに、今まで通り暮らしてるんだから」
「……」
「そりゃ…オレも、佐野には同情するけど。悲しい奴だな、って思うけど―――だからって、藤井に暴力ふるっていい、ってことにはならないだろ。可哀想だから許すなんて…なんか、間違ってるよ」
「―――…」
蕾夏は、眉をひそめたまま、黙って由井の目を見つめていた。
無言の時間が、暫し、過ぎる。
蕾夏は一体、今、何を思っているのだろう―――その表情は幾分硬く、到底、由井の言葉に目が覚めたりショックを受けたりしているような顔には見えなかった。まるで冷静に、由井の答えと自分の答えの答えあわせをしてるみたいに、ただ黙って、必死さを宿した由井の目をひたすら見つめ続けていた。
そうして、どれほどの沈黙が続いたのか。
はぁっ、と息をついた蕾夏は、カフェオレカップから手を離し、目を伏せた。
「…由井君」
少し硬い声で、そう由井の名を呼んで。
蕾夏は目を上げ、思わず由井がドキリとするほどの真摯な眼差しで、由井の見据えた。
「“許す”って、何?」
「―――えっ」
何、って…。
戸惑って、由井が目を丸くしていると、畳み掛けるように、蕾夏が続けた。
「辞書にはね、“許す”って、罪や失敗をとがめないことだ、って書いてあった。じゃあ、佐野君を責めることをやめたら―――それは、佐野君を許したことになるの?」
「……」
「毎日、たくさんの“被害者”と“加害者”が生まれてるよね。その中には、犯人が逮捕されて、裁判で判決が下りるものもあるよね。その定められた刑期をきちんと務め上げたり、死刑になったりした加害者を、被害者はもう責めはしないと思う。でも…それって、許したことになるの? 相手の誠意や謝罪の気持ちを受け入れて、これ以上責めるのはやめておこう、って思うことが“許す”こと? 加害者の顔を見れば、嫌でも傷がうずくし、思い出せば悔しさや悲しさが、ずっとずっと蘇るのに…?」
「……それは…」
辞書的には、許したことになるのだろう。
けれど―――実際の心情を考えた時、許したとは言えない気がした。
改めて聞くと、“許す”という言葉は、単にとがめだてしないという以上のニュアンスが―――罪が軽減されたり、消えたりしたような響きがある。それはきっと、“許す”という単語に、目を瞑ってやることや不問に処すること、免罪などの意味も含まれることが多々あるからだろう。
単に責めるのをやめただけの行為を“許す”と表現するのは―――周りの人間はどうあれ、被害者当人には、多分、一生できないことだと思えた。自分があっさり使った“許す”という言葉の重さに、由井は、頭を殴られたような気がした。
…情けない。
過去の呪縛から解き放たれて欲しい、と、由井自身、そう思っていた筈なのに―――解き放たれた蕾夏の様子に、佐野が、無罪放免になったかのような憤りを勝手に抱いて、わかった風な口をきくなんて。
「…ごめん」
「やだ。謝らないでよ」
うなだれる由井に、くすっ、と笑った蕾夏は、ほっと息をつき、カフェオレを口に運んだ。
「由井君が勘違いするのも、なんとなく分かるよ。瑞樹も似たようなこと心配してたもん。佐野君の過去が悲惨だったら、私が、同情して許しちゃうんじゃないか、って」
「成田さんが?」
「うん。…そんな訳、ないのにね。だって私、佐野君以上に酷い過去を背負ってもなお、純粋に愛することができる人を、知ってるもの。それに―――どんな理由があっても、“だから人を傷つけて構わない”なんてことにならないのは、当たり前のことじゃない?」
「…ごめん」
「だから、謝らないでよ、って」
そう言って蕾夏はクスクスと笑い、カップを置いた。カチャン、という音が、話の一段落を告げる音のように聞こえた。
「…あのね、由井君」
「うん?」
「私ね。たとえば、佐野君が私を傷つけた理由が、“甘やかされて育ったわがままな子供が、手に入らないおもちゃに腹をたてて暴力を振るった”って結果でも、別によかったんだ」
「…え、」
それは、いくらなんでも不条理だろう。
と思いかけた時、ちょっと待てよ、ともう1人の自分が心の中でストップをかけた。“虐待経験から、まともな人間関係を築けなくなった可哀想な子供の犯行”であっても、それが蕾夏にとっては不条理な行為であることに、何ら変わりはないじゃないか、と。
「私はただ、知りたかっただけだから。何が始まりだったのか、ってことを。佐野君のせい、私のせい、他の誰かのせい―――どんな結果が出ても、ああ、だからあんなことになっちゃったのか、と納得できれば、それでよかった。だから、佐野君が“ただわがままに育った奴”でも、そういう育ち方で、あんな行動しか取れない悲しい人になっちゃったのか、って思って、納得できたと思う」
「納得して―――過去から解放された、ってこと?」
「ううん」
「じゃあ…、何?」
「納得したことで、私は、“疑問”から解放されたの。ずっと思ったから。なんでこんなことになったんだろう、って」
「…じゃあ…」
「―――私、ラッキーだったと思う。佐野君が、正常な感覚持った人で」
ポツリとそう言うと、蕾夏は僅かに口元を綻ばせ、カフェオレカップの縁を指でなぞった。
「佐野君と再会した時ね、彼の13年分の痛みを、凄く感じた。自分のしたことを後悔して、自分自身を恐れて、死んでしまいたいような自責の念に囚われながら生きてきた佐野君を、感じることができた。でね。佐野君の過去を知った時―――思ったの。そういう過去を持ってるからこそ、余計―――この13年、苦しかっただろうな、って」
「……」
「そう思った時、私は、“怒り”から解放された」
呟くように、でもはっきりとそう言って、蕾夏は目を上げた。
「勿論、今でも腹は立つけど…佐野君が罰を受けてない、償いをしてないとは思わない。そう思えたのは、あの事件がある前13年間の佐野君のせいじゃなく、あの事件の後13年間の佐野君のせいなの。可哀想な子供に同情したからじゃなく…同じ時間を、私以上の苦しみで生き抜いた佐野君を、認めたからなの」
「…そ…っか…」
ラッキーだった、という蕾夏の言葉の意味が、なんとなく、分かった。
佐野の過去がどうであれ、これで佐野が、正常な感覚を持った人間でなかったら―――たとえば、罪を罪とも思わず、蕾夏に与えた傷など綺麗さっぱり忘れて生きていけるような“壊れた人間”だったら、蕾夏は今も、耐え難いほどの怒りから解放されずにいただろう。
「そしてね。私には、瑞樹がいるから」
「え?」
突如、佐野から離れてしまった論点に、由井はちょっと驚いたような目になった。
けれど、蕾夏の方は、少し恥ずかしそうな、けれど嬉しそうな目をして、微笑んだ。
「…詳しいことは、言えないけど……、瑞樹は、私以上に、深い深い傷を抱えて生きてきた人なの。そんな瑞樹は、今、私を必要としてくれるけど―――もし私が、あの事件を体験していないままの私だったら、正直…必要としてもらえた自信、ほとんどない」
「……」
「過去の幸せも、過去の不幸せも、瑞樹を助けることができる“今の私”に繋がってる。それを実感した時―――私は、一番難しかった“後悔”から、解放されたの」
「…後悔…」
それは―――由井にも、いっぱいある。そして、佐野に対する怒りより何より…13年経った今もまだ残っているのは、蕾夏の言う通り、後悔の思いだ。
「疑問、怒り、後悔―――その3つから解放されて、私はやっと、あの事件を体験した私を肯定できた。あんなことさえなかったら、って思わず、あんなことも、今の私の糧になってるんだ、って思えるようになった。…勿論ね、人の痛みの中でも、“恐怖”だけは、一番本能的なものだから、当分消えることはないと思う。でも…それでも私は、もう、佐野君を恨んだり、異質な存在である自分を責めたり、上手く立ち回れなかった自分を後悔したりせずに生きていける。それが―――“呪縛からの解放”ってことなの」
「―――そう、か」
“解放”は―――忘れてしまうことでも、罪を許すことでもないのか。
恐怖という記憶はいつまでも残るし、自分が傷つけられたことへの怒りだって消える筈もない。そうした思いを抱えながらも―――相手を責めることをやめ、過去を今の自分の糧として肯定して、前を向いて生きられるようになる。それが、“解放”なのか。
漠然と使っていた“解放”という言葉の意味が、色や形を持って、現実味を帯びた気がした。由井は、頑なだった表情をやっと崩し、安堵したように微笑んだ。
「そうか―――良かった…」
「うん」
「本当に、良かった」
「…うん」
分かってもらえたことを喜ぶように微笑み返した蕾夏は、続いて、由井が思っても見なかった一言を放った。
「今度は、由井君の番だね」
「……え?」
―――オレの番?
唐突な言葉に、由井の目が、キョトンと丸くなる。
「…って、何が?」
「私が解放されたから、今度は、由井君が解放される番だね、ってこと」
「解放? え……、オレは、藤井が幸せになってくれれば、それで十分、」
「そうじゃないでしょ?」
戸惑う由井の言葉を遮り、蕾夏は、少しだけ身を乗り出すようにして、告げた。
「私に対してじゃなく―――佐野君に対して、由井君の個人的な“疑問”が、まだあるでしょ?」
「―――…」
思わず、息を呑んだ。
驚いたように目を見開く由井に、蕾夏はくすっと笑い、軽く首を傾けた。
「ずっと…ひっかかってるんでしょう? そのことが」
「…藤井―――…」
「今の佐野君なら、話し合えると思うよ」
だから今日、由井君に、佐野君の話をしに来たんだよ。
そう蕾夏に告げられて―――由井は、“それ”がどれほど、自分の中の消えないしこりとなっていたかに、改めて気づかされた。
***
今でも由井は、時々、思うことがある。
何が、最初の1つだったのだろう? と。
佐野が蕾夏に目を留めてしまったこと、由井が佐野と折り合いをつけられなかったこと、由井と蕾夏が友達になったこと―――どれが最初の1つだったのだろう?
そのうちのどれだったにしても―――まるでドミノでも倒すみたいに、最初の1つが押されたら最後、結局最後まで行き着くより他、道のない事だったのかもしれない。
どんなに後悔しても、どんなに自分を責めても―――別のエンディングは最初からなかったのかもしれない。
…けれど。
考えずには、いられなかった。もしも―――と。
「―――…」
突然現れた、当時の面影をほんの少しだけ残すかつてのクラスメイトに、駐輪場へと向かっていた佐野の目が大きく見開かれた。
始めに、なんと言えばいいのか、直前まで迷っていたのだが…結局、由井の口から出てきたのは、極々ありきたりな一言だった。
「…久しぶり」
僅かに口の端を上げて由井が言うと、驚きの表情だった佐野が、微かに緊張を解き、息をついた。
「やっぱり…由井、か」
「佐野は、あまり変わらないね」
「お前は変わったな」
ふっ、と笑った佐野は、手にしていたヘルメットを持ち直し、由井に歩み寄った。
変わっていない―――表情の作り方も、こういう時の笑い方も。でも、あの頃以上に高くなった背と、変声期の掠れ声がよく通るテノールに変わったことに、13年という月日が感じられた。
「藤井に、この会社に勤めてるって聞いたんだ」
自分が突如現れた経緯を由井がそう説明すると、佐野は、納得したように2、3度頷いた。
「そうか―――会ったのか、あいつに」
「うん。…来月辺りから、成田さんと一緒に暮らすって言ってた」
それは、さすがに知らなかったのだろう。佐野は目を上げ、由井の目を凝視した。
「あいつと、あの男が?」
「そう聞いた」
「―――…へぇ…、そうか」
どこか虚ろな様子でそう相槌を打った佐野だったが。
やがて、かつては一度も見たことのない、心から安堵したような笑みを浮かべ、大きく息を吐き出した。
「…良かった」
「……」
「個人的にはムカつくヤローだったけど…あいつなら、藤井を幸せにできるかもしれない。良かった」
「ムカつく、って…」
呆れたように由井が聞きとがめる。佐野は、分かっている、という風に手を振ると、苦笑と共に、ビルの壁にもたれた。
「…あのヤローが、藤井を、中学ん時の連中みたいに変に偶像化してるんじゃないか、と思って、“藤井は、女神でもなければ、天使でもない、他の女と変わらない、ただの女だ”って言ってやったら、あの成田ってやつ、俺に言ったんだよ」
「何て?」
「あいつは“ただの女”じゃない―――“ただの藤井蕾夏”だ、って。…侮辱するな、って目で、そう言われた」
「……」
「…人生最大の敗北感だったよなぁ、あれは…」
ハッ、と笑い、短い髪をくしゃくしゃと掻き混ぜる。ああ、こういう癖は、昔からあったな―――と、遠い記憶の中の少年が時折見せた仕草を、由井は思い出した。
「藤井が女じゃなくても、あいつ、一生藤井の傍にいたのかもしれない。マジで」
「…うん…、オレも、そう思う」
では、自分や佐野は、どうだっただろう?
それを思う時―――やはり、蕾夏が異性であった、というファクターは、相当大きいように思える。もし蕾夏が同性だったら、果たしてここまで思い入れが強い相手になったかどうかは、正直、微妙だ。
奇跡なんて、そんな言葉、あまり使いたくない質だけれど―――蕾夏が瑞樹という人に出会えたことだけは、もしかしたら、本当の奇跡なのかもしれない。
「それで? 今日は、なんでまたこんな所に?」
煙草を探り当てた佐野が、1本取り出しながら、由井に目を向けた。
「土下座しやがれコノヤロウ、と言いに来たのかと思ったら、そういう顔でもないよな」
「…オレは、謝罪なんていらない。藤井さえよければ、それでオレはいいから」
「じゃ、何だ?」
「―――実は、佐野に、訊きたいことがあって」
知らず、声が、硬くなる。
煙草をくわえかけていた佐野は、由井の声の変化にきづいたのか、その手を止めた。
短く、息を吸い込む。由井は、13年間、いつも頭の片隅にあった疑問を、佐野にぶつけた。
「藤井が、あんな目に遭った理由って―――オレが、原因か?」
「…は?」
「もし藤井が、オレの親友じゃなかったら―――あんなことには、ならなかったか?」
「……」
「小学校の頃からずっと、いつもクラスで孤立してる同士だったオレと佐野じゃなかったら……藤井は、あんな目に遭わずに済んだんじゃないか。そんな風に思って……忘れられなかった。13年、ずっと」
「―――…」
生徒のいなくなった教室に、ぽつりと取り残された、2人の少年。
人と接するのが苦手で、当たり障りのない仲間しか作ることができなくて―――でも、1人の方が気楽で。言葉は交わさないし、自分とは好みも価値観も違うタイプだな、と思いながらも…2人は、お互いの存在を、なんとなく意識していた。意識しながら……歩み寄ることは、しなかった。
2人がクラスメイトとして過ごした、小5、小6の2年間、そして中2、中3の2年間の、計4年間。佐野は、いつだって1人だった。
一方の由井は―――中2で、蕾夏と友達になった。偶然にも、佐野が初めて友達になりたいと思った、その人と。
もしも、これが、由井でなかったなら―――佐野は、あれほどまでの憤りを感じただろうか?
たとえそれが、理不尽な嫉妬心であったとしても、相手があの由井でなかったら、案外―――怒りは、相手の男にだけ向いて、蕾夏には向かなかったのではないだろうか。
これが、由井を13年支配してきた、“疑問”。
自分という存在が、蕾夏を地獄に突き落としたのではないか―――その不安が、どうしても頭から離れなかった。13年、ずっと。
「…オレだったら、って、考えたんだ」
佐野の沈黙が耐えられず、由井は、ごくりと唾を飲み込み、続けた。
「もしオレが、藤井の友達じゃなかったとして…藤井が、凄く友達の多い奴の友達だったり、誰もがいい奴って認めるような奴の友達だったら、どうするかな、って。…多分オレは、藤井と友達になりたいと思っても、黙って引っ込んでたと思う。藤井と話してても、他の奴らが割り込んできたら、それであっさり引き下がって、諦めてたと思う」
「…だろうな。目に浮かぶ」
薄く笑い、佐野は、煙草を箱の中へ戻した。
昔からそういう奴だったもんな、お前―――という言葉にならないニュアンスを感じ取り、由井も苦笑する。が、すぐに表情を引き締めた。
「…佐野も、同じようにするんじゃないか、って思った。お前、教室ではいつも、藤井のこと極力無視してたし―――その他大勢に混じってワイワイ藤井に話しかけられるタイプじゃない、って意味では、オレも、佐野も同じだから」
「…かもな」
「
でも。でも―――これがもし、藤井が友達になった相手が、佐野だったら、」
「―――ストップ」
佐野の手が、由井の言葉を制した。
反射的に言葉を飲み込む由井の目の前で、佐野は、古傷を抉られたような、なんともいえない苦笑を浮かべていた。
言わなくても、佐野には、分かるのだろう。由井の今の言葉の続きが。その予想通り、佐野は、ゆっくりと口を開いた。
「…確かに、お前が相手だったから、余計、ムカついたよ」
「……」
「なんであいつなんだよ、ガキの頃から、俺と同じでクラスで浮きまくってる奴だったじゃないか、ってな」
「……やっぱり…そうか」
「でもな」
表情を暗くする由井に、佐野は、幾分目つきを険しくした。
「あいつをあんな目に遭わせたことに、お前とのことは、関係してねぇよ」
「え?」
「あいつに暴力振るったのは、あくまで、俺とあいつの問題だ。あいつの親友がお前でも誰でも、それは関係なかった」
「……」
「ただ―――お前を殴った理由は、お前の言う通りだ、と、思う」
「オレを?」
想定外なところへ飛び火した話に、由井は、意外そうに目を丸くした。すると佐野は、バツが悪そうに、少し視線を逸らした。
「…どっかで、安心してた。“ひとり”なのは、自分だけに限ったことじゃねぇ、ってな。なのに―――俺が、どうすりゃいいか分からず迷ってる間に、お前はちゃっかり藤井に接近して、俺が居たかった場所に当たり前みたいに座ってた。いつ追い抜かれたんだ、いつ俺とお前の間に差ができたんだ、って…結構、ショックだった」
「……」
「ショックが退いたら―――悔しさと、嫉妬で、狂いそうになった。俺がこんなに誰かを切望するのは、これが初めてなのに―――よりによって、なんでお前だよ? いつの間に、俺にできないような立ち回り方を覚えたんだよ? そんな小賢しい大人になったんなら、藤井は俺に譲って他行けよ―――本気で、そう思ってたぜ。あの頃の俺。だから、」
シュッ、と、拳が、空を切った。
佐野の右手拳が、由井の頬の直前で、ピタリと止まる。
だから―――殴った。
「…ガキだったよなぁ…俺」
自嘲気味な笑いを浮かべ、佐野は、ため息と共に、そう呟いた。
「親父にガンガン殴られて、殴られた痛さ位、分かってた筈なのに―――キレると、頭で考えるより早く、手が出てる。…お前が小賢しい中学生に成長した分、俺は、暴力で女を支配する中学生に成長してたんだ。…それだけだよ」
「佐野―――…」
「悪かったな」
まるで、何かのついでみたいに。
佐野は、あっさり謝罪を口にした。由井から目を逸らし、あらぬ方向に視線を向けたまま。
「お前は、全然悪くねぇよ。全部、上手くいかなかった俺の八つ当たりだ。お前が藤井のことで責任感じることなんて、何もない」
「……」
「お前も殴っていいぜ、俺のこと」
口の端を上げ、佐野の目が、やっと由井の方を向く。
「結構、殴ったよな。足せば20は超えてんじゃねぇの。…デカくなった分、今のお前のパンチの方が効くだろうから、好きなだけ殴れよ」
「…オレは、いいよ」
元々、バイオレンスは好きじゃない。それに―――…。
「オレ―――お前に殴られたことを、唯一の救いにしてきたから」
「救い?」
「…藤井を、守れなかったことに対する」
「……」
「傍にいたのに…守れなかった。これで、オレがまるっきり無傷だったら、とてもじゃないけど生きていけなかったよ。…オレだって殴られたんだ、藤井だけがやられた訳じゃない―――そんな風に、お前に殴られたことを自己弁明に利用してきたんだから、もう、いいよ。それに―――…」
一瞬、言葉を切って。
由井は、極々軽い力で、佐野の胸の辺りに拳をぶつけた。
「…13年経ってもオレ、喧嘩はまるで駄目だから」
まるっきり、痛みの伴わないパンチ。
クッ、と笑った佐野は、それ以上、殴り返せとは言ってこなかった。佐野があっさり納得した理由が、由井には、なんとなく分かった。
Tシャツからむき出しになった、佐野の腕。
―――こいつにとっては、この傷が、そうだったんだろうな…。
生き続けるのも辛いほどの罪悪感の中、あの傷だけが、佐野にとっての唯一の救いだったのだろう。怒りも蔑みも向けず、目すら合わせずに自分の前から消えてしまった蕾夏が、唯一、佐野に刻んだ怒りの証だから。
「確かに、このパンチじゃ、大した報復にもならねぇな」
「…どうせ…」
「でも…この前のあいつのパンチは、相当、痛かった」
手にしたヘルメットを、コン、と拳で殴り、佐野は、ふっと笑った。
「あの藤井が、あんな形相で、涙で顔をメチャクチャにしながらさ。…詰る言葉も、非難の言葉も忘れて、泣きながら殴ってくるんだぜ、何度も何度も」
「……」
「…痛かった。あれは」
その一言と同時に。
佐野の目が、暗く、翳った。
「どんな言葉で罵倒されるより、ナイフで刺されるより―――俺がどんだけ酷いことしたか、あいつが13年、どんだけ苦しんだかが伝わってきて―――…死ぬほど、痛かった」
「…そう、か」
耐え難い記憶に、一瞬、沈み込んでしまったかのように―――真っ暗な闇色に翳った、佐野の目。
それを見て、由井は、理解した。
蕾夏がこれからも、あの時の恐怖と折り合いをつけながら生きていくように―――佐野もまた、あの時の罪と後悔を引きずりながら、生きていくのだ、と。
「由井」
暗く翳った目を一度伏せ、再び目を上げた佐野は、少し姿勢を整え、由井の目をしっかりと見返した。
「俺は、藤井と話をしたことで、自分の罪が消えたなんて勘違い、してねぇから」
どきん、と、心臓が鳴った。
昨日、蕾夏に不用意に言ってしまった言葉が、頭を過ぎる。佐野は―――由井が、この結末にすぐには納得しないだろうことを、最初から見抜いていたのだろうか。
「がんじがらめにされてた罪悪感から、少しだけ、解放されただけだ。藤井が今幸せだって、確認できた分だけ。それと―――俺が、死ぬ思いで生きてきた13年が、多少なりともあいつへの償いになってた、って、あいつに認めてもらえた分だけ」
「…うん」
「…罪を犯した奴は、人並みの人生を送る権利なんて、もう無いか?」
「……」
「罪の意識に押しつぶされて、惨めで情けない人生送ることが、藤井に対する償いになるか?」
「……いや、オレも、そうは思わない」
人生を捨てることが、償いとは思わない。申し訳なさそうに生きることが、正しい生き方とも思わない。蕾夏だって、そんな生き方、佐野に求めてはいないだろう。
由井が、自分の訴えたいことを理解してくれたと分かったのだろう。佐野は、どこかホッとした表情で、微かに笑みを浮かべた。
「藤井に、“こんな情けない生き方しかできない奴なら、あと100発位殴っておけばよかった”、なんて言われる生き方だけは、絶対できねぇよ」
「―――うん」
消えない罪と後悔を、その胸の内に、一生抱えながら。
佐野は、生きていくのだろう。この先もずっと。後悔だけで終わらないよう―――これまでの自分が、無駄にならないよう、心に誓いながら。
―――良かった。
佐野と、話ができて。藤井じゃなく、佐野自らの言葉で、佐野の本音を聞く事ができて。
そう感じたことで、由井は、やっと、佐野に笑みを見せることができた。そして―――長年抱えてきた“怒り”と“疑問”から、やっと解放されたような気がした。
まだ、後悔という、重い呪縛は消えないけれど。
いつの日か、大切な誰かを、この手で守りきることができたら―――その時は、この呪縛からも、解放されるだろうか。後悔にうちひしがれながら生きた13年を、肯定できるようになるだろうか。
この日、心の重荷を少しだけ下ろした由井は、そんな日がいつかは来ると、信じることができた。
“呪縛からの解放”は、奇跡なんかじゃない―――誰もが、自分自身の力で勝ち取ることができるものなのだから。
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