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   蟻の行進  


 うんざりするほどの晴天だった。
 晴れようが曇ろうが、今の和彦にはあまり関係がなかった。それでも、こんなに見事な晴天は、かえってささくれだった心には残酷な時もある。

 彼は今日、希望校に合格したばかりだ。
 母は、息子が総理大臣にでもなったかのような喜び様だった。その瞬間の顔は、奇妙なことにムンクの「叫び」に似ていた。
 彼が合格した学校の卒業生は、大部分がいわゆるエリートになる。つまり、彼が合格したということは、将来、彼が上場企業の部長クラスや国会議事堂の面々に加わることが約束された、ということになるらしい。そんなばかな、と思うのが普通だが、あの無知な母は、本気でそう思っているのだ。
 父も喜んでいた。でも、母ほどではなかった。父は公務員で、分相応という言葉を座右の銘にしているような、つつましやかな人間である。母の狂喜乱舞ぶりは、彼から見たら気がちがったとしか思えないのだろう。
 そして、当人である和彦は、合格した途端、急速に全てが嫌になっていた。
 これで、自分の人生は、完全に終わったのだ、という気持ちが、じわじわと心臓をしめつけていた。最初はなんとなく重い気分。そして今では、数10メートルもある穴に突き落とされたような無力感と絶望感で、いっさいがうっとおしく、何もかもが腹立たしかった。

 彼は、今自分のいる公園の風景を、ぼんやりと眺めた。ブランコもシーソーもすべり台も、みなペンキがはげていて、錆がういている。もう、ここに来ることもないだろう。そう思うと、また心臓がしめつけられるような感じが強まる。
 彼の家族は、彼の入学時期に合わせて、家を引っ越すことになっている。息子の学校に近いところにわざわざ引っ越すため、父は今よりも30分も早く家を出なくてはならないというのに。母は完全に狂ってしまった。正気に戻るのは不可能なのかもしれない。

 ―――もう、うんざりだ。

 和彦は、なにげなく、地面を隊列を作ってぞろぞろと歩いている蟻に目を向けた。
 あまり獰猛な種類ではなく、黒っぽい体は大きくもなく小さくもない。全部で20匹くらいいるだろうか。前を行く仲間からはぐれまいと、必死に前進している姿は、少々哀れな感じだ。
 それから10分ほど、和彦は無言で蟻を見つめていた。その間に、蟻は、和彦が座っているベンチの下にもぐったかと思うと、また背後から出てきたり、と、一体どこへ向かっているのかわからない動きで、ひたすらに隊列を組んで前進していた。
 やがて、和彦は、おもむろにベンチから立ち上がった。
 黒い革靴を履いた右足をゆっくりと持ち上げると、ちょうど自分の足元を進んでいる蟻の隊列を見下ろす。そして、先頭の何匹かが右足の下にさしかかったところで、勢いよくその足を振り下ろした。
 音もしなかった。
 反動もない。
 なにもなかった。
 が、そろそろと足を上げてみると、確かに数匹の蟻が、無残な形につぶされていた。
 後続の蟻たちは、目標を失ってパニックの様相だ。しばらくは四方に散り、あたふたとしていたが、そのうち、また隊列を作って、和彦から遠ざかる方向へと去っていった。

 和彦が、死ぬことを思いついたのは、この瞬間だった。
 つぶれてしまった蟻は、無残だ。ひしゃげてしまった足や胴体はグロテスクだし、つぶされる瞬間には、多分苦痛もあっただろう。
 でも、残った蟻は、またああやって一列に並んで、意味もなく行進させられる。本人たちの意志なんか関係ない。神様か誰かが決めたことなんだろう。蟻は行進するもの。そして、ちょっとばかし優秀な子供は、母親の決めたとおり、エリートコースを行進させられるのだ。何が起ころうと。
 ―――死んでしまえば、もう行進しなくてもいいのだ。

 蟻を見下ろす和彦の目は、ここ数ヶ月なかったほど、キラキラと輝いていた。
 どうやって死のう? 痛いのは好きじゃない。苦しいのも嫌いだ。高所恐怖症だし、閉所恐怖症だし、なかなかいい自殺方法はみつからないかもしれない。でも、このままずーっと母の言うなりにつながれるよりはましなんじゃないか。
 好きでもないのに、絵を描かされ、ピアノを弾かされ、一番の親友だった伸一とは、「あの子の家はボシカテイだから」という理由で(ボシカテイという言葉は知っていたが、残念ながらこの言葉は入試には出ないので、どういう漢字を書くのかは知らない)、遊ぶことを止められた。全部「和ちゃんのためよ」という大義名分の上になりたってる。きっと社会人になっても、「和ちゃんのためよ」ということで、会社も結婚相手も決められてしまうのだろう。そして、その位になると、自分もそうされることに慣れてしまって、きっと全てをはいはいと鵜呑みにするようになるのだ。
 もっと悪い想像が頭をよぎる。母だけでなく、父まで狂ってしまったら? 今は多少まともだが、いつ母のように狂うかわからない。それに、会社に入ったら部長とか課長とかいう人種がいて、また自分にいろいろ命令するのだ(また残念なことに、和彦は部長と課長どっちが偉いか、知らなかった。そういう俗なことは試験に出ないのだ)。
 昔、一度だけ抵抗を試みたことがあった。母が気絶するほど嫌いなカエルを、母のエプロンの中に入れておいたのだ。子供らしいイタズラなど決して認めない母への、ささやかながらそれは抵抗だった。結局、和彦はその日、一晩中物置に閉じ込められた上、翌日から更に厳しい監視下に置かれることになったのだ。
 ―――でも、自殺ばかりは、そうはいかないぞ。
 和彦は、ニヤリと笑うと、満足げにベンチに座った。
 青かった空も、そろそろ夕焼けで赤く染まりつつある。もう自分は母の言うなりではないのだ、と考えると、それだけで、自分がとても勇気ある人間のように思えた。
 自殺は、イタズラなんかとは全く違う。死んでしまった人間を物置に閉じ込めることも、監視することもできないじゃないか。金切り声をあげて怒ったって、もう遅いのだ。その頃には、自分は自由に空を飛びまわっているんだから。母の手から逃れて、どこへでも行ける身分になれるのだ。最高じゃないか。
 「うん、最高だな」
 和彦は、そう声に出してつぶやいた。さっきまでの寒々とした不安感はどこかに消えていた。

 かなり薄暗くなった公園には、もうほとんど人がいない。いるのは、和彦と野良犬と、20歳過ぎ位の男くらいのものだった。
 その男には、見覚えがあった。和彦の家の近所に住む浪人生で、もう何年も浪人している筈である。今年の入試はそろそろ終わりだが、希望の学校には受かったのだろうか。
 「和ちゃん、大事になさいね。これは、和ちゃんの幸せのパスポートなのよ」
 母の言葉が、ふと頭をよぎる。
 和彦は、ズボンのポケットをさぐり、折りたたんであった合格通知をゆっくりと広げた。近所の人々に見せびらかすように、という母からの暗黙の命令だった。薄ら笑いを浮かべたまま、合格通知をグシャッと丸める。和彦は命令に背くことにした。

 

 一方、浪人生である昭夫のほうは、和彦には見覚えがなかった。
 昭夫の今の気分も、さっきまでの和彦に負けないほど暗く澱んでいた。今日、4年目の浪人生活が決定したばかりなのだ。
 もう、どこだっていいじゃないか、という気持ちは、今更口に出せない状況まできている。4年も浪人して、希望じゃない学校に入学したんじゃ、両親だって認めてはくれないだろう。いっそ自殺でもしてしまったほうが、楽なんじゃないか。今日の昭夫は、そう考えるほどに落ち込んでいた。

 「和ちゃーん! ごはんですよぉ!」
 ふと、どこかからそんな声が聞こえた。
 公園の入り口あたりに、エプロン姿の女の人がいて、ベンチのほうに向かって手を振っている。
 「はあーい、ママ」
 座っていた男の子が、ぴょん、と立ち上がり、危なっかしい走り方で母親の方へと走っていった。まだ5〜6歳といった年頃だ。
 「……いいよな、子供は、気楽でさ」
 そうつぶやいた昭夫は、ふと、ベンチの上に何か紙きれが置き忘れてあるのに気がついた。乱暴に丸められているその紙切れを、昭夫は何気なく広げてみた。

 それは、まだ真新しい、某有名小学校の合格通知だった。


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