| Jnuk Box TOP |

   幸福屋  


 「それで、仕事は見つかったの?」
 幸子がそう尋ねると、恭一はやる気のなさそうなヘラヘラとした笑いを浮かべ、頭を掻いた。
 「いや〜、年末だからねぇ。俺も頑張ってはみてるんだけど、どうにもねぇ」
 「…嘘ばっかり。だって恭一、就職情報誌を買ったことだってないし、新聞だって全然見ないし、職安にも行かないじゃないの。ようするにあんた、働く気ないのよ。あたしにたかって、一生ヒモで生きてくつもりなんでしょう」
 「おいおいおい、落ち着けよ、まあまあ」
 「うるさいっ!!」
 日頃、観音様のような温和な顔の幸子が、いまや阿修羅像のごとき形相に変わっていた。
 無理もない。幸子の家に恭一が転がりこんで、はや1年。恭一は、アルバイトを紹介するたびに、なにかしら問題を起こしてはクビになる、といったことを、ずっと繰り返しているのだ。幸子にしたって、まだ入社3年目の薄給のOLである。1つ年下とはいえ、恭一を遊ばせておくほどの身分ではないのだ。
 恭一だって、本来ならまともな会社員になっている年である。が、定職にもつかず、フラフラと遊び歩いているのは、恭一の家が金持ちであったからそれなりの貯金があるのと、幸子がちょっとは小遣いをくれているのが原因だった。つまり、働かなくたって、豪勢でないにしろ、まあなんとか生きていけるから、である。
 「もううんざり。出てって!!」

 かくして、恭一は、12月31日の師走の街に、突然放り出された。

***

 困ったことに、預金残高が昨日でゼロになっていた。財布の中に最後におろした2万円ほどが入っているものの、親からも勘当され、幸子にも追い出された今、2万円でどこまで生活できるか、甚だ疑問である。
 「まいったなあ…」
 恭一は、幸子がお情けで一緒に放り出してくれたダッフルコートの襟を合わせ、ぶるっと身震いした。
 本当の意味で「金に困る」のは、今回が初めてだ。とはいえ、普通なら何かしら仕事を探さなくては、と思うところなのだが、まだ恭一には、そこまでの深刻さがない。財布に2万あるからである。先の見通しが全く立っていなくても、とりあえず万札があれば、「なんとかならぁ」というのが、恭一の「ぐうたら美学」であった。

 いつもより少々重い足取りで街をぶらぶらしていた恭一は、ふと、見慣れない看板を目にして、立ち止まった。
 この通りは、もう何度となく行き来しているのに、その看板を見た記憶はなかった。かといって、いつもはそこに何があるのか、と言われても、全く思い出せない。空き地だったような気もするし、なにか別の店だったような気もする。
 ビルとビルの間の、とんでもなく狭い隙間に、2階建てのコンクリートの古ぼけた建物があった。ボロボロの看板が1階のガラス戸の上にかけられていて、『幸福屋』と、なんとか読める程度の、みみずのはったような書体で書いてある。
 何の気なしに、通りを渡って、『幸福屋』のガラス戸を覗き込んでみた。が、ガラス戸の向こうには、何も展示している気配がなく、錆のういたような事務机と椅子、それに乱雑に積まれたダンボールが10箱ほどあるばかりで、一体何を売っているのか、見当もつかない。
 「うちになんかご用でも?」
 突然、背後からしわがれた声がした。慌てて振り向くと、恭一の目の高さよりはるかに下に、70歳くらいの、やたら小柄な老人が立っていた。
 「え、ええと、ここのお店の方ですか?」
 「わしの店じゃよ。なんだ、お客さんかね。じゃあ入んなさい」
 店主はそう言うと、ガラスの引き戸をガラガラと開け、恭一を中に招き入れた。
 店主は、やたらと小柄ではあるが、この店には不似合いなほどに洒落た服装をしていた。海老茶のベレー帽を頭にちょこんと乗せ、グレーの口髭を丁寧に整え、ベージュのベストとチェックのスーツを完璧に着こなしている。どう考えても、この店には不釣り合いな服装である。
 店主の勧めるめまに、スチール製の椅子に腰掛けると、恭一は所在なげに体を揺らし、机を挟んで向かい合って座った店主のにこにこ顔を申し訳なさそうに見た。
 「あのお…こちらは、何を売ってるんですか?」
 「おや。なんだい、お客さんじゃないのかね。すまんねぇ、勝手に客だと思い込んでしまって」
 「はは、実は、何を売ってる店なんだろう、って気になりまして…」
 「看板は見たんでしょう?」
 「見ましたよ?」
 「じゃあわかるでしょう。“幸福”を売ってるんですよ」
 しごく真面目な顔で、店主はそう言った。
 「幸福を?」
 「そうですよ。だからあんたは、うちの客かと思ったんだけどねぇ」
 「どうしてですか」
 「不幸そうに見えたからね。うちに“幸福”を買いに来たのかと思った」
 「はあ…」
 どうやら、冗談で言っている訳ではなさそうである。まあ確かに、今の恭一は「不幸」かもしれない。生来の極楽トンボだから、あまり深刻には考えていないが、今財布の中の2万がなくなれば、本当の宿無し無一文になるんだから。
 「どうかね、あんたは、今幸福なのかね」
 「い、いや…実は…」

 気がつくと、恭一は、ことの次第を店主に説明していた。なんでこのオヤジに説明したりするんだ、と、心の中のもう一人の自分が言っているのがわかる。だが、恭一は、魔術にかかったかのように、すべてを話してしまっていた。
 店主は、時にうなずき、時にうーんと唸ったりしながら、恭一の話を黙って聞いていた。そして、聞き終わると、2分ほど、何かを考えているように黙って目を閉じていた。
 そして、目を開くと、こんなことを言った。
 「あんた、今、いくら持ってるかね」
 「え…2万円…」
 「正確に言ってみなさい」
 言われるままに、恭一は、財布を取り出して小銭まで数えた。昨日貯金をおろしてから、いくらか使ったりしたので、小銭もけっこうあった。
 「ええと、1万8千420円です」
 「よろしい。では、1万5千円で、幸福をお売りしよう」
 「はあ!?」
 「これじゃよ」
 店主は、洒落たベストの胸ポケットから、横長な紙を1枚引っ張り出し、机の上に置いた。恭一が手にとってみると、それは、今日抽選のある“年末ジャンボ宝くじ”だった。
 「まあ、これで幸せになんなさい」
 「ちょ、ちょっと!」
 次の瞬間、激しいめまいが恭一を襲った。
 あまりのことに椅子から転げ落ちた恭一が次に目を開けた時、そこはただの空き地になっており、恭一の周りに、先ほど机の上に並べたはずの金が、雑然と散らばっていた。
 そしてもちろん、恭一の手には、“年末ジャンボ宝くじ”が1枚、握られていた。

***

 散らばっていた金を全部集めたところ、3420円だった。きっちり1万5千円、とられたわけである。
 あたりは既に薄暗い。恭一はそのうちの2800円で、カプセルホテルに泊まった。300円でパンを買い、カプセルホテルの狭いベッドの中で食べたが、空腹は満たされなかった。
 暗闇でじっとしながら、早く明日にならんものか、と、そのことばかりを考えた。1月1日の朝刊には、“年末ジャンボ宝くじ”の当選番号が載っている筈である。このくじが当たっていれば(『幸福屋』なんだ、当たってるに決まってるじゃないか)、こんな思いも終わるのだ、と考え、なんとかやり過ごしたのだ。
 そして、1月1日。
 恭一は、生まれて初めて、新聞を買った。仕事探しの時ですら、買ったことのない新聞を。
 震える手で新聞をバサバサとめくり、やっと当選番号の記事を見つけた恭一は、挑みかかるような勢いで、自分のくじと掲載されている番号とを見比べていった。

 見直すこと20回。
 恭一は、1時間かけて20回見直した結果、自分のくじが、末等である300円すら当たっていないことを、やっと認めた。


 人生のすべてが終わった、と、恭一は思った。初めて味わう、本物の「絶望」である。
 うつろな恭一の目は、いつしか、新聞の求人欄を眺めていた。
 すると、『アルバイト急募! 元日からでもOK! いますぐお電話を!』という広告が、まるで後光でもさしているかのように、恭一の目に飛び込んできた。
 Gパンのポケットをさぐってみると、小銭ばかりで189円残っていた。
 恭一の口元に、満足げな笑みが浮かんだ。
 「良かった…電話かける金が残ってて…」

 

 これが、後に大成功を収め、「勤勉なビジネスマンの鏡」と謳われるようになる恭一の、人生の転機であった。


Junk Box TOP


  Page Top
Copyright (C) 2003-2012 Psychedelic Note All rights reserved. since 2003.12.22