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同い年のイトコが通う高校の、学園祭。 我が子の絵を見に来た親がポツポツいるだけの、閑散とした会場。彼女以外、この学校の制服を着た人間はいない。おおかた、他のクラスメイトは、みんな好きなように展示を見に行っているのだろう。彼女が誰もがやりたがらないこの役を「やらされている」のは、火を見るより明らかだった。 「僕とこいつで、暫くここは見るから。その間、君、好きなとこ見ておいでよ」 何で俺が、とぶつくさ言うイトコを無視して、僕がそう言うと、彼女は驚いたようにキョトンとし、 「ううん、私の役目だから」 と遠慮した。 「でも、今、お昼時だし―――大人しく受付役なんてやってたら、君、食べ損ねちゃうだろ?」 なおも僕がそう食い下がると、困ったような顔をしていた彼女も、とうとう折れた。 「……ありがとう」 そう言って、彼女は、恥ずかしそうに微笑んだ。
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憂鬱で仕方なかった、高校の学園祭。 教室内には、絵を見に来た保護者がチラホラいるだけ。私以外、クラスメイトの姿はない。みんな、他の展示を見たり、中学の友達に会いに行ったりしているのだろう。「受付、頼むね」の一言もなかったが、あっという間に誰もいなくなってしまった以上、私がやるしかなかった。 「僕とこいつで、暫くここは見るから。その間、君、好きなとこ見ておいでよ」 クラスメイトの方は不服そうだったが、彼はそれを無視する。ありがたい話ではあるけれど、私は、 「ううん、私の役目だから」 と遠慮した。 「でも、今、お昼時だし―――大人しく受付役なんてやってたら、君、食べ損ねちゃうだろ?」 確かに、おなかが空いていた。随分と迷ったけれど、私は、彼らの好意に甘えることにした。 「……ありがとう」 私がお礼を言うと、彼は、人懐こい笑みを返した。
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「どこで佐伯さんと知り合ったんだよ?」
まだ不満顔の従兄弟は、そう言って、面白くなさそうに腰掛けていた椅子を揺らした。
隣の椅子に座って、新たに訪れる気配のない客を待っていた
「ふぅん、佐伯さんていうんだ、あの子」
「なんだよ。さっきお前、“知ってる子”だって言ったじゃないか。名前も知らないのに“知ってる”ってどういうことだよ」
「中学が同じだったんだ」
翔がそう言った時、新たな客が入ってきたので、会話は中断された。入ってきたのは他校の学生2人組だった。受付といっても、何をやる訳でもないので、翔たちは黙って2人が通り過ぎるのをやり過ごした。
「…それと、時々、電車が一緒になるんだ。同じ駅から乗るから」
「ああ…、翔の高校、2つ前の駅だったな」
「僕から見ると2つ“先”の駅なんだけどね」
従兄弟の家は、もっとずっと南にある。翔やさっきの彼女の家は、この高校より北にある。乗る電車が上り下り逆なのだ。
翔は、彼女の名前を知らなかった。同じ中学ではあったが、同じクラスになったことはないし、彼女は他クラスの生徒にも名前が知れ渡っているような目立つ子でもなかったから。
その存在を知ったのは、中学を卒業し、高校に通い始めてからだ。
朝、いつもより1本遅い電車に乗ると、必ず駅のホームで電車を待っている女の子。学校生活で、それなりに顔は見かけていたのだろう。すぐに「あ、同じ中学の同級生だ」と思った。
大人しそうな子だな、というのが第一印象。
膝頭が隠れるかどうか位のスカートの長さも、緩めに編んだ三つ編の髪も、ミニ丈の制服やブリーチした髪が当たり前になる周囲の中では、少し浮いている。けれど、彼女には今の彼女の外見が一番似合っているように、翔は思った。そしてそれは、まるでコピーしたみたいに同じようなメイク、同じような服装をした同年代を見飽きている翔にとって、とても好ましい印象だった。
「もしかして、気でもあんの?」
興味を引かれたように訊ねる従兄弟に、翔は、
「いや」
と答えた。
「ええー、何だよそれ。ただ顔知ってるだけで、好きでも何でもない奴のために、こーんなタイクツな仕事を買って出ちゃったのかよお前ぇ」
不満タラタラの従兄弟は、呆れたようにそう言って、椅子の背もたれに大きくもたれかかった。が、ため息と共に、こんなことを呟いた。
「まあ、でも……正解だよ。佐伯さんはやめといた方がいい。うん」
「えっ」
どうして、と翔が目を丸くすると、従兄弟は更に声のボリュームを絞った。
「あの子、女子から村八分にされてるんだ」
「…なんでまた」
「そりゃー、あれじゃ浮くのもしゃーないだろ? 今時、携帯も持ってないんだぜ。部活もやらずにさっさと家に帰っちゃうし、カラオケに誘われても断ってたし……しかもその理由が“お金がないから”だぜ? たかが300円400円、ない訳ねーじゃん。もっとマシな断り方もあるだろうにさぁ」
「……」
「こんな役押し付けられてるのも、そのせいだよ。女のイジメは、陰湿だからねぇ…。そういう子と付き合ったりすると、火の粉がこっちにも飛び火しかねない。それに、あの子の人との付き合い方見てると、彼女にしても一緒に遊びにも行かせてもらえねー気するわ」
―――そうだったのか…。
従兄弟の話に、翔は、深く納得した。
翔がずっと気に掛かっていたことが、今の話で、ほぼわかったから。
「なあ。佐伯さんて、下の名前は?」
余計興味を持ってしまったらしい翔の様子に、従兄弟はますます呆れ顔になった。
「…おい。翔、今の話聞いてたのかよ」
「聞いてたよ。で、名前は?」
「……確か、とわこ、じゃなかったかな。永遠に子、って書いて」
「…永遠子…」
綺麗な名前だな―――翔は、口元をほころばせた。
***
翌日、1本遅い電車に乗るために、翔はいつもより若干ゆっくりめに家を出た。
―――いた。
駅のホームには、既に永遠子が立っていた。いつもと同じ、前から3両目の、真ん中のドアの位置だ。
昨日の今日では、顔を覚えられているかもしれない。それならそれで、親しくなるチャンスかもしれないが……少々、わざとらしすぎる気がする。翔は、彼女に気づかれないよう、彼女からは少し離れた位置で電車を待った。そして、単語帳を見るフリをしながら、そっと彼女の様子を窺った。
永遠子は、いつもにも増して、憂鬱そうな顔をしていた。
いつも、そうだ。翔が駅で見かける永遠子は、いつだって暗い、沈痛な面持ちだった。
いや、春頃はまだ普通だったと思う。だから気に掛けることもなかったのだが―――紫陽花が咲く頃から、だっただろうか。その表情はどんどん暗くなり、電車に乗り込む足取りはどんどん重くなっていった。そのうち、電車に乗らず、ホームに取り残される日が来るんじゃないだろうか―――そう心配したのが、彼女を気にするようになった、最初のきっかけだった。
よほど、学校に行きたくないんだろうな―――漠然とそう思っていたが、昨日、その理由がわかった。
―――そうか…。イジメに遭ってたのか…。
それじゃあ、ああいう暗い顔にもなろうというものだ。それでも毎日、きちんと同じ時間に登校する永遠子を、翔は、偉いな、と素直に思った。
やがて電車が入ってきて、永遠子は、いつもと同じドアに乗り込んだ。翔も、少し離れた位置から足早にそのドアに近づき、なんとか永遠子の見える位置に乗り込んだ。
永遠子の定位置は、進行方向左側のドアの傍。永遠子のおさげ髪を人ごみの中で確認した翔は、更に視線を廻らせて、“もう1人”の姿を探した。
そして―――その人物の姿も、いつもと同じ場所に見つけた。
ドアに頭をくっつけて、目を閉じている男性―――20代前半か、半ばだろうか。上背のある、なかなか精悍な顔立ちをした人物だ。服装は日によって違うらしいが、今日はスーツを着ている。彼の姿を確認した翔は、そっと、永遠子の顔を見た。
永遠子は、やっぱり、“彼”を見ていた。
恐らくは、全く面識のない人。電車の中の、僅か10分間……それだけの接点しかない大人。けれど、翔が彼女を意識するようになってから、気づけば彼女は、いつも“彼”を眺めていた。ホームに佇んでいた時とは別人のような、穏やかな、優しい目で。
―――もしかして、好きなのかな。あの人のことが。
…いや、それは、ないかな。電車の中で顔を見るだけの、どこの誰かもわからない、しかも歳もかなり違う相手―――ちょっと好み、って程度なのかもしれない。
僕にしたって、別に、彼女のことが好きな訳じゃないし。
好ましい、とは思うけど、「好き」ってほどじゃない。ただ、ちょっとばかり……気になるだけで。
10分ほど電車に揺られ、翔が降りる2つ前の駅に到着すると、彼女はいつものように電車を下りた。
その背中が、いつも以上に、降りたくない、と言っているように見えて―――翔は、少し胸を痛めた。
***
それからも翔は、なんとなく、彼女を気に掛け続けた。
具体的に“何”を気にしていた訳でもない。ただなんとなく、駅で彼女の姿を見ると「あ、いた」と思うだけ。いるのを確認すれば、なんとなく目で追うだけ―――前見た時より元気そうならホッとするし、暗い顔をしていると、従兄弟の話を思い出して陰鬱な気分になる。その程度のことだ。
そんな風に、漠然と意識していた、12月のある日。
見慣れた光景が、突如、変わった。
「おはようございます」
電車に乗った彼女が、例の“彼”に、そう言って挨拶したのだ。
「や、おはよう」
彼の方もにこやかにそう返す。永遠子と名も知らぬ彼は、そのまま永遠子が降りる駅まで、ポツポツと小声で話をしていた。
―――ええ? 一体いつの間に知り合いになったんだ?
狐につままれたような気分で、打ち解けた雰囲気で話をする2人を、乗客数人越しに凝視する。まさに翔にとっては、予想外の展開だった。何故なら、少なくとも前回、彼らをセットで見かけた時は―――それは、たった数日前だったと思う―――2人の様子に何ら変化がなかったのだから。
とにかく何かがあって“彼”と知り合いになったらしい永遠子は、降りる駅に着くと、電車に乗り込んだ時同様に、彼に軽く会釈をした。
「じゃあ、行ってきます」
「行ってらっしゃい」
妹を送り出す兄のように、もしくは、生徒を送り出す先生のように、彼は永遠子を見送った。それに応え、永遠子もニコリと微笑んだ。
「……」
それは、翔が初めて見た、彼女の笑顔だった。
その時初めて―――翔は、ちょっとだけ鼓動が速くなるのを覚えた。
その日から、永遠子と“彼”は、いつも話をするようになった。
別に聞き耳を立てていた訳ではないが、比較的近くにいた翔は、彼らの会話の一部を時々耳にすることとなった。そのおかげで、彼らの関係や彼女の置かれた立場も、少しわかるようになった。
例えば、“彼”の名前が、カワモトさんであること、とか。
永遠子はカワモトさんに、日々の悩みなどを相談しているらしいこと、とか。
永遠子の家が、生活が困窮気味であること、とか。それの影響か、夕食の準備などを永遠子がやっているらしいこと、とか。
漠然とではあるが、そうした事情をなんとなく察し、翔が思い出したのは、あの日従兄弟が口にした言葉だった。
『たかが300円400円、ない訳ねーじゃん。もっとマシな断り方もあるだろうにさぁ』
自分専用の携帯を持ち、下手をすればその通話料までをも親に払わせ、貰った小遣いをカラオケや飲み食いで散財し、家に帰れば当たり前のように夕飯ができている―――それを疑問に思わない高校生が全高校生の大半だとしても、そうじゃない永遠子のような高校生もいるのだ。あの時、従兄弟との発言に不愉快になりつつも、理論だった反論をできなかった自分を、翔は後悔した。
―――きっと、僕よりずっと、彼女の方が大人なんだろうな…。
断片的な話を繋ぎ合わせながら、翔はそう思った。
翔自身は、特に家に問題も抱えていない。第一志望の男子校に入り、それなりに親しい友人もできた。永遠子同様、部活の類には入っていないが、元々映画鑑賞や文学に親しむことを好む翔は、2年生が立ち上げた文芸同好会に時々顔を出し、細々とした文筆活動や、本に関する討論などに仲間と興じたりしている。悩みらしい悩みもなく、家と学校とを往復する毎日だ。
一方、永遠子は―――決して気が強い方ではないだろうに、翔が一度として心配したことのない家計を心配し、学校では孤立し……葛藤し、挫折しそうになりつつも、ちゃんと学校に通い続けている。
カワモトの支えがあるからかもしれないが、それでも、内気そうな永遠子には、日々はきっと過酷なものだろう。見た目が弱々しい分、頑張っている彼女の姿は、翔の目には眩しかった。
そうして、気がつけば。
翔は、常に、以前より1本遅い電車を選ぶようになっていた。
彼女がフワリと微笑むと、なんとなく、心の中が温かくなるような気がした。
そして―――カワモトを見る彼女の、憧れを滲ませたような目を見ると……胸が、痛くなるようになった。
桜の木が、まだ硬い小さな蕾をつけ始める頃―――翔は、自覚した。
電車の中の、僅か10分間。それだけの接点しかない彼女に対するこの気持ちが、“恋”と呼ばれるものであることを。
***
「おはようございます」
永遠子が小さく頭を下げると、河本も笑顔を返した。
「おはよう」
それと同時に、ドアが閉まる。電車は、ゆっくりと動き出した。
『あと、3ヶ月。クラス替えがあるまで、とりあえず頑張ってごらんよ』
河本にそう言われてから、既に4ヶ月―――満開を誇った桜も散り、5月が近づくにつれ、空気は初夏の色合いすら帯び始めている。
クラス替えがあるまで、と言った河本の言葉通り、2年生になった永遠子には、1人、友達ができていた。永遠子と同じ小説家のファンで、偶然話が合ったことから、休み時間などは彼女と過ごすようになったのだ。
やはりクラスの中では、ちょっと浮いている。新しくできた友人とも、やっぱりまだ少し温度差がある。けれど、佐伯さんも携帯持ったら? と勧める彼女に、さりげなく家の事情を説明する位のことなら、今の永遠子はできるようになっていた。それは……やっぱり、河本のおかげだと、永遠子は思う。
「いやぁ、寝坊しちゃってね。髭剃る時間もなかったよ。ハハハ」
うっすらと髭をはやした顎を撫でて、河本が明るく笑う。スッキリと晴れ渡った青空みたいな笑顔に、永遠子の心臓は小さく跳ねた。
「おっさんっぽくなってないか、心配だなぁ。永遠子ちゃんから見て、合格ライン?」
「だ…っ、大丈夫、です」
同じ電車になるのは、5日ぶりだ。毎日見ている訳ではない分、たまに見るこの笑顔には、どうしても心臓が慣れてくれない。永遠子は、ドキドキする胸を誤魔化しながら、困ったような曖昧な笑みを河本に返した。
永遠子はこの想いが“恋”と呼ばれるものだと知っている。
前から、河本の顔を見るだけで、憂鬱だった毎日が、色づいて見えた。話なんてできなくても、ただ、居眠りしてる顔やぼんやりしてる顔を見てるだけで、十分幸せだった。
そして、こうして話をするようになって―――河本のことが好きなんだ、と自覚して。
最近は、永遠子の状況も落ち着いてきたため、朝、これといって河本と話すこともなくなっている。学校どう? と振られればポツポツと喋り、河本も知っているご近所に新しい店ができれば、その店の話をしたり―――時には、挨拶とお天気の話で終わり、なんてこともある。それでも、この10分間は、永遠子にとっては夢のような時間だ。
―――でも…やっぱり、告白するなんて、無理だなぁ…。
一時は考えた、それこそ夢みたいな話が頭を過ぎり、心の中で首を振る。
河本の助けを借りずとも、ちゃんと学校に通い、充実した高校生活を送れるようになったら、その時は、せめて想いを伝える位はしようかな、と、そう思っていたのだけれど―――2年生になり、クラスでの時間がかなり楽になり、「その時」がより現実味を帯びてくると……まるで、勇気が出ない。
永遠子は、同級生の男子とすら、あまり話をしたことがなかったのだ。ましてや相手は、ずっと大人の男の人で、しかもその内容は、恋の告白だ。クラスメイトに片想いしたことはあるが、その想いをバレンタインチョコにすら託したことのない永遠子には、大人の男性に告白なんて、絶対不可能な夢物語にしか思えなかった。
―――それに私、河本さんのこと、ほとんど何も知らないもの。
かといって、個人的なことを訊く勇気も、永遠子にはなかった。
私って弱虫だなぁ―――小さくため息をついた時、電車が、永遠子の降りる駅に着いた。
「じゃあ、行ってきます」
「行ってらっしゃい」
河本の笑顔に見送られ、永遠子は、開いたドアからホームへと降り立った。
まだ新学年が始まったばかりのこの時期は、学生の登校時間も集中しがちで、少々電車は混んでいた。一番ドアに近かった永遠子に続き、学生が次々に降りてくる。その1人とぶつかった永遠子は、うっかり鞄を取り落としてしまった。
慌てて鞄を拾っているうちに、電車のドアは閉まった。
途端。
「うわ、ちょっと…!」
焦ったような、途方に暮れたような声が、永遠子の背後で微かに聞こえた。
何だろう、と振り返ると、そこには、明らかに永遠子の高校の制服とは違う学生服を着た生徒が、1人、早くも動き出した電車を前に、呆然と立ち尽くしていた。
その制服に、永遠子は見覚えがある。確か、2駅先にある男子校の制服だ。
―――うちの生徒と一緒に、押されて電車を降りちゃったんだ、きっと。
慌てて乗り込もうとしたのに、あと1歩及ばず、ドアが閉まってしまった―――そんな感じだろう。ガタンガタン、と音を立てて走り去る電車を見送りながら、彼は、あーあ、とため息をついて頭を掻き毟っていた。
気の毒だなぁ、と思った永遠子は、電車がある程度遠ざかり、自分の声が聞こえそうになるのを待って、彼の背中に声をかけた。
「…あの…、次の電車、8分後にありますから」
永遠子がそう言うと、彼は驚いたように振り返った。
顔を見た瞬間、あれ? と思った。
―――なんか…見覚え、あるんだけど…。
どこで、だっただろう? とても記憶は朧気なのに、確かに見知った顔だ、という確信がある。が、確信がある割に、永遠子は彼を全然知らなかった。
一方の彼の方は、声をかけてきた永遠子に、オーバーなほどに驚いた顔をしていた。
うろたえたように辺りを見回し、それから何故か、ちょっとホッとしたような顔をする。改めて永遠子に向き直った彼の顔は、気のせいか、僅かに紅潮しているように見えた。
「あ…、ありがとう」
「いえ…」
「…あの、君、」
「?」
「その―――去年の文化祭で、1年C組の受付、やってた子だよ、ね」
「……」
言い難そうに彼が口にした言葉で、永遠子の脳裏に、去年の秋の出来事がはっきりと蘇った。
クラスメイトに押し付けられた、クラス展示の受付。おなかが空いたけれど、代わってくれる人もいなくて、心細い思いでいた時―――突然、声をかけてくれた、見知らぬ他校の生徒。
目を大きく見開いた永遠子は、慌てて頭を下げた。
「あ…あの時は、ありがとうございました……!」
「いや、そんな」
焦ったように永遠子を手で制した彼は、バツの悪そうな顔で、咳払いをひとつした。
「ええと……8分後、だよね」
「あ…、はい。…遅刻、大丈夫、ですか」
「うん。心配ないよ。ありがとう」
あの時と同じ、人懐こそうな笑みを浮かべた彼は、軽く永遠子に頭を下げ、くるりと線路の方に向き直ってしまった。その背中に、永遠子も会釈し、改札口の方へと歩き出した。
歩きながら、時折彼の方を振り返ると、8分という中途半端な待ち時間を潰すためか、彼は鞄から文庫本を1冊取り出していた。
本が好きな人なのかな―――趣味欄に「読書」と書くのが常である永遠子は、無意識のうちに、口元をほころばせていた。
***
ゴールデンウィーク明けの電車で、永遠子は河本の姿を見つけ、ホッとしたように微笑んだ。
「おはようございます」
「ん、おはよう」
今日も電車は、少し混んでいた。ガタン、と走り出した電車の揺れで、後ろに立つ人が大きくよろけ、弾みで永遠子もよろけた。
「大丈夫かい?」
「…っ、は、はい。混んでますねぇ…」
「休み明けって、なんでか知らないけど混むよなぁ」
「河本さんも、お休みだったんですか?」
「昨日1日だけね」
警官という仕事は、普通の企業とは休む日も異なる。カレンダー通り学校が休みだった永遠子は、やっぱり色々大変な仕事なんだろうなぁ、と、改めて思った。
休み中はどうだった? と訊かれ、家族で車で近場の景色のいい所へ遊びに行った話などをポツリポツリとしていると。
「!!」
キキキーッ、という耳障りな音と共に、電車が大きく揺れ、急停止した。
「きゃ…!」
電車の揺れと一緒に、乗客も大きく動いた。永遠子は、ドアのところにある手すりを咄嗟に掴んだので大丈夫だったが、河本は前方へと2歩ほどよろけ、他の客の中には転んでしまう者まで出た。
車内のあちこちから声が上がる。「何なんだよ一体!」という男性の怒鳴り声がどこかから聞こえた直後、車内放送が入った。
『大変ご迷惑をおかけしました。踏切を渡ろうとした方がいたため、緊急停止いたしました。暫くお待ち下さい』
どうやら、遮断機の下りている踏切を、無理矢理渡ろうとした通行者がいたらしい。ザワザワと車内が騒がしくなるが、ひとまず、人身事故にはならなかったらしいことに、どこかホッとしたようなムードが漂った。
「だ…大丈夫ですか?」
前方へと放り出された際、他の客と派手にぶつかってしまったらしい河本に、永遠子が訊ねる。すると、ぶつけたらしい腕をちょっと押さえつつ、河本はバツの悪そうな笑みを見せた。
「ああ、大丈夫だ。君は? 怪我は?」
「私は、大丈夫です」
「そうか、良かった」
安堵したように笑った河本は、ふいに、永遠子とは全く違う方向に顔を向けた。
おい、と、河本が、誰かに話し掛ける。
話しかけられた人物は、つり革に掴まったまま、顔を上げた。それは―――ショートヘアのよく似合う、女の人だった。
「大丈夫か?」
聞こえるか聞こえないか位の小さな声で、河本が心配げに訊ねる。彼女は、少し乱れた髪を指で整えながら、まるで向日葵の花みたいに、明るく微笑んだ。
「ええ、大丈夫」
「こっちと代わるか?」
「平気よ。日頃鍛えてるもの」
より安全そうな自分の位置を勧める河本に、彼女は自信あり気にそう言い、背筋をしっかり伸ばした。その姿を見て、ああ、なんだか、婦人警官さんの制服が似合いそうな人だな……と、永遠子は脈絡もなく思った。
いや。脈絡がない、訳じゃない。
今の2人のやりとり―――今日たまたま電車に乗り合わせた他人ではなく、知人同士なのは、一目瞭然だ。口調からも、かなり親しい間柄とわかる。
そして、溌剌とした彼女の風貌やムード、日頃から体を鍛えている、という言葉―――そこから、河本の同僚である“婦人警官”という単語が、永遠子の頭に浮かんだのだ。
河本さんの、仕事仲間かな。そう思った永遠子は、つり革を握る彼女の左手を見て、ドキリとして凍りついた。
彼女の左手の薬指には、ダイヤの指輪が光っていた。
恐らくはプラチナ製と思われるその指輪と、左手薬指。その組み合わせの意味を、永遠子だって、よく知っていた。
多くの場合、それは―――婚約指輪を表すのだ。
『お待たせしました。発車いたします』
事務的な車内放送と共に、再び、電車が動き出す。河本も、背後へと身を乗り出していた姿勢を元に戻し、またいつものように、ドアに体を押し付けるようにして立った。
ゆっくり、ゆっくり動き出した電車が、次第にスピードを上げる。右に、左にと揺られながら、永遠子は、背筋を冷たい汗が流れるのを感じた。
「ん? どうかした?」
幾分顔色を失っている永遠子に気づき、河本が眉をひそめた。
慌てて永遠子は、口の端を少しだけ上げ、首を振った。笑ったつもりだが、そう思ってもらえたかどうか、微妙な感じだ。
「…あ…、の、河本、さん」
「ん?」
声が、上ずってしまいそうだ。
なんとか心を落ち着けようとしながら、永遠子は、より小さめの声で、訊ねた。
「―――ご結婚、されるんですか?」
永遠子の言葉に、河本は、心底驚いたように目を見開いた。
それは、何を突拍子もないことを言い出すんだ、という表情ではなく―――何故それを知ってるんだ、という、驚きの表情だった。
無意識のうちに、永遠子の目が、河本の背後の女性をチラリと窺う。それに気づいた河本は、ああ、と納得したように声をあげ、苦笑した。
「ま、参ったなぁ…。つい、素で声かけちゃったから」
「…じゃあ、やっぱり」
河本は、少し照れたような笑みを見せ、口の前で人差し指を立ててみせた。
「内緒にしといてくれよ? ただでさえ職場結婚は気まずいところがあるのに、一緒に出勤なんてバレたら、同僚からひやかされ放題だ」
「……」
―――…そ…っか…。
河本さん、その人と、結婚するんだ。
電車の騒音も、乗客のざわめきも、消えた。
真っ白になってしまったような、異様な空気の中、永遠子は、精一杯、笑顔を作った。
「お…おめでとう、ございます」
それでもまだ、少しぎこちない気がして―――永遠子はもう一度、ニッコリと笑い、言い直した。
「おめでとうございます。お似合いです、凄く」
良かった、と、永遠子は思った。
好き、だなんて、一人よがりなこと―――口にしてしまう前で、本当に良かったと……心から、思った。
***
ドアが、ゆっくりと閉まる。
たくさんの学生をホームに下ろし、電車は、走り出した。それを見送った翔は、息をつき、後ろを振り返った。
そこには、永遠子がいた。
永遠子は、改札へ向かおうともせず、足元を見つめたまま、そこに佇んでいた。
永遠子と同じ制服を着た女子生徒が、永遠子の前を、後ろを、通り過ぎる。急いでいたらしい男子生徒のスポーツバッグが、永遠子の背中を軽く掠めたが、永遠子が動く気配はなかった。
体の前で鞄を提げる両手が、微かに、震えている。やがて―――永遠子は、俯いたまま、右手で目元を覆った。
偶然とはいえ―――なんて場面に、出くわしてしまったのだろう。
翔もあの時、気づいていた。これまで同じ電車で見た覚えのない女性に、酷く親しげな様子で話し掛ける、河本に。そして、そんな河本に笑顔で答えた彼女の手に、明らかに婚約指輪とわかるダイヤが、キラリと光っていたことに。
その後、何事かを河本と話した永遠子の顔を見て、直感は、確信に変わった。
蒼白になった、永遠子の顔―――それは、永遠子の片想いが終わったことを意味していた。
好きになった子が、好きな人。翔からすれば、面白くない存在だった。
けれど―――こうして泣いている永遠子を見ると、こんな終わり方ってないよな、と、切なくなる。
―――あいつ…幸せそうに照れ笑いしてる場合じゃないだろ。この子が泣きそうになるのを我慢してるって、なんで気づけないんだよ。
あまりにも、永遠子が痛々しくて……放っておけなかった。気づけば翔は、永遠子を追うように、電車を2つ手前の駅で降りてしまったのだ。
永遠子は、肩を震わせ、声を殺して、泣いていた。
不審に思う生徒もいるのだろう。改札に向かう生徒の視線が、時折、永遠子に向けられる。それでも永遠子は、泣いていた。
迷ったけれど―――翔は、ポケットからハンカチを取り出し、永遠子に歩み寄った。
翔が、無言のまま、永遠子の目の前にハンカチを差し出す。
「……」
それに気づき、暫し黙って見下ろしていた永遠子は、やがて、のろのろと顔を上げ、翔の顔を見た。その目も、その頬も、すっかり涙に濡れていた。
翔は、弱い笑みを永遠子に返し、目元から下ろされた永遠子の手に、自分のハンカチを握らせた。
瞬きを2回、繰り返した永遠子は、悲しげに眉を寄せ、口を開いた。
「…ど…して、いつも、優しくしてくれる、の…?」
“君が好きだからです”
なんて、失恋をして泣いている永遠子には、まだ言えなかった。
「―――…なんで、かな」
困ったように翔がそう答えると、永遠子の目から、また涙が落ちた。
「…電車…来ちゃう、んじゃ、ない?」
「…大丈夫。後続も、遅れてるって」
駅のアナウンスも、多分、永遠子の耳には届いていなかったのだろう―――くすっ、と笑った翔は、一旦永遠子に渡したハンカチをもう一度手に取り、頬に伝った涙を、そっと拭ってあげた。
次の電車が来るまで、8分間。
たった8分じゃ、彼女は泣き止まないかもしれない。
でも、このハンカチを返してもらう頃には、駅のホームで「おはよう」と笑顔で挨拶を交わす位は、できるかもしれない。
そして、いつか、言えなかった言葉を彼女に伝えられたら―――駅から駅までの10分間、昨日あったことや明日したいことを話しながら、2人して電車に揺られるような日が、来るかもしれない。
900000番ゲットのゆーけんさん、および1100000番ゲットのトリデさんのリクエストにおこたえした1作です。
前回の「10min.」同様、またしても2リクエスト混合作品。…いや、別に、混合作品をシリーズ化しようとか、そういう意図じゃないんですが(汗)
ご希望は、「嫌われ者のあの女子が好き」(ゆーけんさん・男子高校生主人公)と「淡々とした、ただそこにあるだけの恋」(トリデさん・女子高生主人公)。
冒頭部分の、男女それぞれ視点を並べて書くのをやりたいがために、2つをくっつけた部分もちょっとあります(笑)
いまいち、永遠子サイドが「淡々とした」なのかどうかがビミョーですが、その辺はご容赦を(^^;
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