| Presents TOP |

Confusion

 

 ―――彼ジャナケレバ、「良かったね」ト言エタノニ―――。

 


 緊張を解くと同時に、汗がこめかみから頬へと伝った。
 調子が悪い―――全然、集中できていないのが、自分でも分かる。こんな風だから、県大会のメンバー選考にもひっかからなかったんだ。元々下手だけど、今は最悪だ。
 束ねていた髪をほどき、弓道場を出て行こうとしたら、一番呼び止めて欲しくない人に呼び止められた。
 「小雪」
 その声に振り返ると、私と同じ胴着に袴姿の女の子が、弓を手に立っていた。どことなく心配そうなその表情に、また苛立つ。
 「大丈夫?」
 「…平気。先、帰るわ」
 「そう…じゃあ、また明日ね」
 ピリピリした空気を感じたのか、彼女はそれ以上何も言わず、また練習に戻って行った。
 彼女の肩越しに、男子部と女子部を分けているネットが見え、その向こう側に「彼」が見えた。必然なのか偶然なのか、ちょうど隣り合って練習をしていたらしい。


 彼女は、私の親友。

 彼は、彼女が半月前から付き合い始めた人。


 親友が恋し、親友に恋した人―――彼は、私が、密かに想いを寄せていた人だった。

 

***

 

 私にとって、森下冬美は、夜空に輝く冴え冴えとした月のような存在だった。
 暗闇で道に迷っている私を、冬美は常に照らしてくれて、こっちだよと導いてくれる。いつも凛として、誠実で、優しい。冬美といれば、私は何も迷わずに安心して歩くことができた。
 中3で同じクラスになった当初は、真面目そうでいい子ぶってて嫌なヤツ、と思っていたけれど、そうじゃないことにはすぐ気づけた。彼女は本当に真面目なのだし、本当にいい子なのだ。良く思われようとか、優越感に浸ろうとか、そんな部分はゼロ。冬美は、正真正銘「優れた人」だ。
 自分で言うのもおかしいけれど、私は結構、モテる。兄曰く「童顔で胸がデカいからだろう」だそうだけど、理由はよく分からない。とにかく、告白された回数も、実際に付き合った回数も、同級生では群を抜いていると思う。でも、そのことを嬉しいとは思わない。一度でもトキメキを感じる人から告白されればそれは嬉しいけど、そんな経験、一度もないから。
 そんな私の本心も知らず、同級生はそれを羨ましがった。そして時には、それが原因でよからぬ噂も立てられた。やっかみだと思いながらも、同性の友達から白い目で見られるのは辛い―――でも、冬美は、そういう噂にも全然流されない子だった。
 「男の子が小雪に興味を持つのは、小雪が魅力的だからでしょ? いいことじゃないの」
 そう言っておおらかに笑う冬美は、実は結構綺麗な顔をしている。美という観点で見たら、きっと私なんかより冬美の方が綺麗だ。ただ、彼女は、あまりにも隙がなくて完璧だから、男の子の方が萎縮してしまうんだと思う。だから男の子と付き合ったことはなかったようだ。
 綺麗で、真っ直ぐで、いつも優しい冬美。
 彼女は、私のやすらぎであり、憧れでもあった。

 

 同じ高校に進み、彼女につられるように入部した弓道部。
 そこに、彼がいた。

 彼―――永峰君は、冬美と同じクラスの生徒だった。
 目立つタイプではないけれど、男子弓道部1年9人の中では一番長身で、女子の練習場所から眺めると頭が1人だけ飛び出して見えるので、そういう意味では目立つ。最初の印象は、その程度だった。
 朗らかな人らしく、練習が終わった後などに仲間と談笑する彼の楽しげな笑い声をよく耳にした。その屈託のない笑い方はいかにも“少年”ぽいけれど、スッキリとした顔立ちの中にあるキリッとした眉は、いつも彼を「しっかり者」という印象に見せている。でも、普段の永峰君は、どちらかと言うとマイペースでノンビリした性格なのだと、冬美は言う。…勿論、そんな話をしたのは、冬美と彼が付き合い出してからのことだけれど。
 男子部と女子部の練習は別々だし、クラスも違うし、私が彼を知る機会はほとんどなかった。
 話をする機会もなく、話をしたいと思うこともなく、私と彼は冬美という微かな接点を挟んで、同じ弓道場に立っていた。

***

 入部したての頃、私は、3年生のとある先輩のことばかりを気にしていた。
 私が好きな俳優にちょっと似たタイプの顔立ちをしているその人は、部の中でも一番目立っていて、抜きん出てカッコ良かった。彼なら、私でもときめくかもしれないな―――誰に告白されても誰と付き合っても全然感じられなかったものが、その人になら感じられるかもしれない、と、密かに期待を寄せていた。
 冬美が入部したから、という安易な理由で入部した弓道部は、正直なところ、私にはあまり向いていないスポーツに思えた。それでも、それなりに真面目にやっていたのは、そこがクラスが分かれてしまった冬美との唯一の接点だということが半分、もう半分は、やっぱりその先輩に対する期待が理由だった。だから、5月の終わり頃、その先輩から告白を受けた時には、これまで受けてきた告白の中で一番嬉しかった。
 付き合ってくれないか、という先輩に、私は当然、OKをした。
 「先輩と付き合えるなんて、光栄です」
 私がそう言うと、先輩は照れたように顔を赤らめながら、笑顔でこう答えた。
 「いやあ、僕の方こそ光栄だよ。なんと言っても“弓道部のアイドル”だからね、小雪ちゃんは。他の連中から妬まれないか、今から心配だよなぁ」
 “弓道部のアイドル”。
 入部して間もなく、私につけられた肩書き。
 学年に関係なく、男の子は私をそういう目で見ていたし、それを別段おかしいとも思わなかった。中学の時だって、いつも私には“アイドル”という肩書きがつけられたから。
 でも―――何故か、その先輩がその肩書きを口にした途端、直前まで膨らんでいた私の期待は、瞬間的にしぼんでいってしまった。

 ―――ああ、なんだ。
 また、そうなんだ。
 この人にとっても、私は“アイドル”なんだ。テレビで歌ったり踊ったりしてる、あの子たちと同じレベルなんだ。

 じゃあ“アイドル”って何なんだ、って言われると、私にも答えられない。辞書にはその言葉の意味として「人気者」と並べて「偶像」と書いてある。偶像―――その言葉は、一番しっくりくるかもしれない。
 私は、見た目の甘さとは逆に、中身はもの凄くドライだ。無趣味で、何かに夢中になることもなく、お涙頂戴ものの映画を見ても「ふーん」と冷めた目で見るタイプ。それをよく知る両親や兄弟からは「可愛げのない子」と常に言われている。
 これまで付き合ってきた男の子たちは、その見た目と中身のギャップに失望し、私から別れを切り出すと、一様にホッとしたような顔をした。何故、彼らの方から切り出さないのか―――それは、大体想像がつく。中身が期待通りじゃなかったにせよ、苦労して手に入れた“アイドル”を手放すのは惜しいんだろう。
 行列に並んで苦労して買い求めた高級ブランドのバッグと同じなんだ、私は。使い勝手が悪かったからって、簡単には捨てられない。勿体無い、だから我慢してでも使い続けよう―――それが、私。
 彼らはみんな、私を“好き”な訳じゃない。
 私の見た目、私の名前、私の噂…そんなものの上に、狭山小雪という「偶像」を作り上げて、それを「崇拝」しているだけなんだ。
 先輩も、そうなんだ。そう思ったら、僅かに感じが気がしたトキメキも、あっという間に消えた。

 失望しながらも、今更、今出したばかりのOKを撤回することはできない。そのまま、先輩と付き合いだした。
 5月に始まった交際は、6月末までもたなかった。私が別れを切り出したら、案の定、先輩はホッとしたような顔をしながら、どことなく残念そうな顔もした。
 その顔を見て、私は悟った。
 私もまた、先輩の「偶像」に、自分勝手な期待をよせていたのだということを。

 

 先輩と別れた、ちょうどその頃だと思う。冬美から、意外な言葉を聞いたのは。

 どういう話の流れだったかは、忘れた。多分、先輩と別れたことについて、色々私が愚痴っていたのだろう。
 私は、苛立っていた。
 付き合い始める時は、いつだって期待する。今度こそ、この人こそ、私が欲しいものをくれるんじゃないか。ずっと欲しかったトキメキを―――ドキドキする気分や、幸せな気分をくれるんじゃないか。そんな風に期待して、いつも裏切られる。そのことに苛立っていた。
 いや…そうじゃない。
 期待を裏切っているのは私の方だ。
 どうせ私は、見た目とはあまりに違う、冷血でドライすぎる女だ。デートしてても、キスをしても、頭の中はいつも冷めている。そんな女だ。彼らの「偶像」とかけ離れた私―――私が彼らの期待に応えられないから、彼らも私の期待に応えてはくれないんだ。

 「違うわよ、小雪。ときめきも、“好き”って感情も、誰かから貰うもんじゃない、自然と自分の中に生まれてくるものなのよ。付き合っている彼氏でなくても、相手が自分に優しくしてくれなくても、生まれる時は生まれてきちゃうの。小雪が、付き合う人とうまくいかないのは、小雪の中に“好き”って気持ちが生まれないままに付き合っちゃうからよ」
 苛立つ私を宥めるように、冬美はそう言った。
 「優しくしてくれるから、悪くないな、って思うレベルでも交際をOKしちゃう小雪は、ドライなんかじゃない、むしろ情が深くてお人よしなんだと思う。でも…次からは、小雪の中に“好き”って気持ちが生まれるまで、交際OKするのはやめておいたら?」
 冬美の言うことは、もっともだった。アイドル扱いにうんざりしながらも、すぐ男の子に期待して安易にくっつく離れるを繰り返す私を心配しての言葉だっただろう。なのにその時の私は、それを素直に飲み込めなかった。それだけ先輩に対する期待が大きかった―――そしてその期待を裏切られたショックが大きかったのかもしれない。
 「冬美に…恋愛経験もない冬美に、そんなこと言われたくないわよっ」
 感情に任せてぶつけた言葉に、冬美は一瞬、顔を強張らせた。
 なんてバカな事を言ってしまったのか、と、すぐ後悔した。けれど、慌てた私がうまく謝罪の言葉も出せずにいる間に、冬美の方が口を開いた。少し、悲しそうな顔をして。
 「…男の子と付き合うのが“恋愛経験”なんだとしたら、確かに私には、経験がないわね…」
 「……」
 「でも、小雪―――私は、小雪が知らない“好き”って気持ちを、よく知ってる。…好きな人がいるの。高校に入ってから、ずっと」

 冬美に好きな人がいるなんて、一度も考えたことがなかった。
 誰かに恋をしてときめいてる冬美なんて、冬美じゃない気がして、嫌だった。
 けれど―――好きな人がいる、そう告げた時の冬美は、これまで見た中で一番綺麗に見えた。普段、ピンと背中を伸ばした姿勢を絶対に崩さない冬美が、その時は酷く柔らかくて、小さくて、守ってやらなくちゃいけない存在のように見えた。

 私の知らなかった冬美の姿に、私は動揺した。
 冬美にこんな顔をさせる人が、誰なのか―――知るのが怖くて、私はとうとう「誰?」という一言を口にできなかった。

***

 先輩と別れてからも、弓道部を辞めることもなかったし、私がアイドルであることに変わりはなかった。
 先輩とは多少ギクシャクしてしまったけれど、それだけ。先輩が私が期待はずれな女であることを部員全員にふれ回ってくれたらよかったのに―――そんな妙なことまで思ってしまったほどに、何事もなかったかのような日常が続いていた。
 7月になり、夏休み中にある他校との練習試合を控え、弓道部の練習は更に厳しくなった。正直、さほど好きでもない上に下手な私には、毎日の放課後の練習は苦痛この上ないものだった。
 もう、辞めちゃおうかな―――そんな考えが頭に浮かんだ頃だった。
 彼と、初めて、言葉を交わしたのは。

 

 その日、私は、初めて部活をサボった。
 みんなが着替えをする時間よりかなり遅れて更衣室に行くと、冬美の荷物もそこにあった。
 女子弓道部の1年は、私と冬美の2人きりだ。私がサボったということは、冬美ひとりで1年生のメニューをやっていることになる。その様子を遅ればせながら想像した私は、やっぱり練習に行こうかな、と思いなおして、慌てて胴着に着替えた。
 でも―――弓道場が近づくにつれ、足は重くなった。今、練習中の弓道場に姿を現せば、みんな非難の目で見るだろう。結局、弓道場には行けず、私は外の水飲み場の辺りでぼんやり佇む羽目になった。

 「…あれ…狭山さん?」
 ふいに背後から声をかけられて、私は驚いて振り向いた。
 そこには、永峰君が立っていた。練習の途中らしく、胴着姿のまま、肩にスポーツタオルを掛けている。
 「永峰君…練習は?」
 「俺の射的順が終わったから、ちょっと休憩。…今日、休んだんじゃなかったの? 周りの連中が、今日は休みらしいってガッカリしてたから、てっきり休んでたのかと…」
 「…うん…休み、の、つもりだったんだけど…」
 言いよどむ私に、彼はそれ以上何も訊かなかった。少し私の顔を怪訝そうに見ていたけれど、やがて私の前を通り過ぎ、水飲み場の蛇口をひねって、その水を汗だくになった頭に浴びせた。
 ―――確かに今日、暑いけど…やっぱり男の子って、ダイナミックだなー…。
 ざばざばと水を浴びる彼を、妙に感心したような目で眺める。こういうシーンって、いかにも「男の子」って感じがする。女の子は、いくら暑くてもこうはならない筈だ。
 「あー…、暑いよなぁ、毎日毎日」
 蛇口の水を止めた彼は、そう言って顔を上げ、まるで水浴びをした後の犬みたいに顔をぷるぷると振った。スポーツタオルで顔やら頭やらがしがし擦る姿も、やっぱりいかにも「男の子」だ。
 「はー、ちょっと落ち着いた」
 「…よっぽど熱心に練習してたのね」
 私がそう呟くと、彼は、頭を拭きながら少し首を傾げるようにした。
 「うーん…まあ、練習試合でいい成績残せたら、市大会や県大会の選手に選ばれるかもしれないし」
 「選ばれたいんだ」
 「そりゃ、まあ」
 「…冬美も、大会の1年生枠狙っていくって言ってた。みんな頑張ってるなぁ…」
 「―――へぇ、森下も、狙ってるのか」
 初耳だったのか、彼は少し目を丸くした。が、どこか納得したように、くすっと笑った。
 「どうりで最近、力入れてる訳だよなぁ…。うん、あいつの射的フォームは最高だから、きっと選ばれるよ、あの勢いなら」
 「……」
 冬美が最近力を入れてるなんて全然思ってなかった私は、永峰君のセリフに、ちょっと驚いた。冬美は、いつも通りの真面目さと真剣さで、練習に打ち込んでいる。それは4月の頃も今も全然変わっていないように私には見えたから。

 ―――なんでそんなに、冬美のこと、分かるの?

 ちょっとした、好奇心。
 それを口にしようとした私は、彼が妙な表情を浮かべて私を見ているのに気づき、その言葉を飲み込んでしまった。
 「…な…何?」
 「えっ、あ、いや―――…」
 眉をひそめて私が訊ねると、彼は、困ったような顔をして、視線を泳がせた。そして、少し顔を赤らめると、視線をはっきりと逸らしてしまった。
 似たような場面は、過去にも何度か経験があった。気の弱い子が告白してくるシーンが、こんな感じだった。
 なんだ、この人も他の連中と同じなのか、と、どことなく落胆した気持ちになりかけた時、彼は意を決したように、再び私に目を向けた。
 「あのさ」
 「…何?」
 次にくる言葉を半ば予想しながら身構えると、彼は何故か、私の胸の辺りを指差した。
 「……?」
 「胴着の前あわせ―――直した方がいいよ。下着、見えかけてる」
 「えっ!!!」
 血が一気に顔に上った。慌てて胸元に目を落としたら、前襟にゆるみが出ていて、確かに角度によってはブラが半分近く見えてしまいそうな状態だった。
 「み、み、見たのっ!?」
 「…ごめん。見えてしまった」
 「やだあああぁ、恥ずかしい…っ!」
 ぐるん、と彼に背中を向けて、手早く胴着の襟を直した。本当に、恥ずかしい―――慌てて着替えたせいで、こんな格好を見られてしまったのも恥ずかしかったけれど、それ以上に、彼の態度を自分に気があるものと勘違いしたことの方がもっともっと恥ずかしかった。
 私って、嫌な女だ。
 恥ずかしくって、消えてなくなりたい位に情けなかった。
 「…あのさ、狭山さん。ほんと、気をつけなよ」
 背後から、彼の声だけが追ってきた。
 「男連中の間でさ―――キミの盗撮写真とか、結構出回ってるんだ」
 心臓がドキン、と大きく脈打った。
 思わず、彼の方を振り返る。彼は心配そうな顔で、私の方を見ていた。初耳だ…盗撮、なんて。
 「森下も一応、注意はしてるみたいで、この前1人、盗撮犯を見つけて延々説教してたけどさ。あいつ1人で狭山さん守るなんて無理だろ。森下も女なんだし。…アイドルなんて言われて不本意かもしれないけど、キミがそういう目で見られてるのは確かだから、自覚して、あまり隙見せない方がいいよ」
 「―――…」
 「…じゃ、俺、練習戻るから」
 彼はそう言うと、私に背を向け、弓道場へと戻って行ってしまった。私は、ありがとうの一言さえも口にできないまま、彼の後姿を見送っていた。


 初めてのことだらけだ。
 盗撮の話も初めてなら、盗撮犯を冬美が捕まえた話も初めて。そんな冬美を彼が心配しているのも初めて知った。
 それに、あの冬美を―――何を任せても彼女なら大丈夫、と誰からも言われている冬美を心配する人なんて、初めて見た。そして、私がアイドル扱いを不本意だと思っていることに気づいた人も…冬美以外では、彼が初めてだ。

 そして、一番の、初めてのこと。

 立ち去る彼の後姿を見て、胸がドキドキしたこと。


 隙だらけの姿を見ても、いやらしい視線ひとつ送らずに、きっぱりと注意してみせた彼。冬美のような人の心配まで出来てしまう彼。
 そして、「偶像」じゃない私に、初めて声をかけてくれた彼。

 私は彼に、初めて、トキメキというものを感じていた。

***

 一度、その感情を覚えてしまうと、人間って、際限なく転がり落ちていってしまうものなのかもしれない。
 永峰君に淡い恋心を覚えた、7月の終わり―――それから、その淡い色合いが真夏の極彩色に変わるまで、たったの1週間しかかからなかった。
 今まで気にもとめなかった彼の仕草、彼の行動、彼の笑い声―――全部全部、今までとは違った色合いに見えてしまう。それはただの錯覚だ、と言われてしまえばそれまでかもしれない。でも、他の誰からももらえなかった類の言葉を彼からもらってしまった今、その錯覚に溺れていく以外、私には術がなかった。
 恋をしたら、幸せな気分やドキドキする気分を味わえるって、ずっと思ってた。でも、違った―――そんな生易しいものじゃなかった。恋は、もの凄く苦しい。火傷しそうな感情に、トキメキなんてあっという間に焼き尽くされる。残るのは、わがままな独占欲と、混乱、そればかり。
 永峰君が、欲しい。
 彼を独占したい。
 他の人じゃダメだ。彼がもらえるのなら、どれだけ可愛い女の子になっても構わない。他の人たちにはしてこなかった努力を、彼にだったら、きっとできる。お願い―――お願いだから、私の方を見て。
 そう思うなら、さっさと気持ちを打ち明けるなり何なりすればいいのだろう。なのに私は、そうすることができなかった。
 プライド、ではない。そんなものは最初から持ち合わせていない。ただ、どうすればいいのか分からなかった。男の子の方からアプローチをかけられるパターンに慣れてしまっていて、自分から、という場合、どんな風に想いを告げればいいのか、もし断られた時どうすればいいのか…そんなことが、全然、分からなかったのだ。

 自分の中に荒れ狂う初めての感情に、戸惑い、憤り、翻弄されたまま、夏が過ぎた。
 その頃には、永峰君が一体誰を見ているのか、それをおぼろげながらも掴みかけていた。…けれど私は、それに気づかないフリをした。
 認めたくなかった。
 彼が想いを寄せている相手が、あの冬美だなんて。
 彼が私に忠告してきたあの一件も、彼がずっと冬美を見てきたからこそ知り得た事だ、ということは認めざるをえなかったけれど、それでも…まだ、認めたくなかった。単にクラスメイトとして冬美を心配してのことだ、そんな風に自分を誤魔化した。私の親友に恋をしている人に、私が恋するなんて―――そんな辛い話は、信じたくなかった。

 私が何も口にできないまま、ただ想いばかりを募らせている間に、季節は秋へと移り変わって。
 2週間前。
 私の初めての恋は、唐突に幕切れを迎えた。


 「あの…小雪にだけは、言っておくね?」
 僅かに頬を染めた冬美が、おずおずと私に報告してきたこと。
 「私、永峰君と付き合い始めたの」

 彼女が入学当時から好きだったという、私が知らない誰か。
 それが永峰君だったと、その時、聞かされた。


 良かったね―――私は、親友の恋が実ったこの時、当たり前のこの一言を、どうしても言えなかった。

 

***

 

 途中で練習を抜け出した私は、更衣室で着替えをし、髪を整え、鞄を手にしたところで大きな溜め息をついた。

 …最悪の気分。
 初めての失恋は、思いのほか、痛かった。どれだけ努力を重ねても、永峰君が私を見てくれることはないんだ―――それは、ある程度予感はしていたことであっても、やっぱり痛かった。彼をもらえるなら何でもしようと思ったのに…ただ想いを告げる、それだけのことを何故しなかったのか、と、何度も何度も後悔した。
 …ううん。そうじゃない。
 告白したって、きっと結果は、同じだった。
 心のどこかで察していた。永峰君と冬美を結ぶ、見えない糸―――本人たちすら気づかなかったものを、私だけが、自分でも認めないままに見つけていたんだ。だから、言えなかった。「好き」―――ただ、その、一言が。
 でも、今のこの最悪の気分は、失恋のせいではなかった。
 こんなに苦しい失恋の痛手を、私は冬美に打ち明けることができない。いつも私を癒し、救ってくれる光だった筈の冬美が、私を助けてくれない。それが、原因だった。
 永峰君に、冬美を盗られた。
 失恋の痛手が僅かに遠ざかった時、私はそう思った。
 実際、部活帰りはいつも私と一緒に帰宅していた冬美が、永峰君と付き合い始めてからは、永峰君と帰るようになってしまった。私にとっては、部活の時間と帰宅時間だけが冬美との時間なのに…永峰君は冬美のクラスメイトだし、今はクラス委員を2人でやっているんだし、何も帰りの時間まで冬美を独占しなくてもいいじゃない―――失恋した相手だということも手伝って、私は永峰君に、そんな怒りを覚えていた。
 冬美だって、酷い。
 相手が永峰君とは言わないまでも、失恋した事を冬美に打ち明けて、慰めて欲しかった。でも、冬美の幸せそうな笑顔見てたら、何も言えなくなっちゃうじゃない。少しぐらい、私のための冬美の場所も残しておいて欲しいのに…。

 最悪の、気分。
 一番最悪なのは―――そんなドロドロした身勝手な事ばかり考えてしまう、私自身だ。

 もう一度、大きな溜め息をつく。とにかく、早く家に帰ろう―――そう思った時、更衣室の外で、人の話し声がした。


 「そんなに落ち込むなよ…」
 「うん…でも…」
 聞き覚えのある声に、1歩踏み出した足を、慌てて引っ込めた。この声―――永峰君と、冬美だ。
 そっと更衣室のドアを薄く開け、ドアに体をぴったりとくっつけて、外の様子を窺った。永峰君は見えないけど、冬美の横顔が、更衣室の外壁ギリギリのところに僅かに見えた。眉をひそめ、悲しそうな顔をしていた。きっと、私がまだここに居るとは思っていないのだろう―――ぐちゃぐちゃ考えながら着替えをして、普通より随分長く着替えにかかってしまったから。

 「ごめんね、永峰君―――やっぱり帰りだけは、小雪のために時間を作ってあげたいの」
 ちょうど今考えていたことにリンクした冬美のセリフ。思わず、ドキリとした。
 「俺は構わないけど…いい加減、狭山さんも森下から親離れしないとまずいんじゃない。端から見てて、結構ヤバイよ、あの子と森下の関係って」
 「うん、分かってる」

 ヤバイ? …何がヤバイんだろう?
 分かってる? …何を分かってるんだろう?

 「私は、小雪が考えてるほど立派な人間じゃない―――小雪が私のこと、完璧な人間扱いする度に、そのことが凄く辛かった。でも…あの子、平気な顔しながら心の奥では傷ついてるタイプだから、せめて私の前で位は本音で泣いたり喚いたりして欲しいの。それも私の本心なの」
 「けど、あの子の森下を見る目は、完全に“偶像崇拝”だろ」
 「……」
 「あの子は本音で森下に泣きついたり癒されたりしてるんだろうけど…森下は? そんな関係、“親友”って言えるか?」

 唇が、震えた。
 偶像崇拝―――その単語は、私の心臓を鷲づかみにした。何故ならそれは、私自身を苛んでいる言葉だから。
 私を苦しめている行為。…それを、私が、冬美に対してしていた…?

 「…でも…なんだか小雪、最近、凄く辛そうなのよ」
 「……」
 「話、聞いてあげたい。永峰君が、少し距離置いた方がいいって言うのも分かる。でも…せめて週の半分は、小雪と一緒に帰って、話聞いてあげたいの」
 「はぁ…弟の話を聞いてやって、叔父さんと叔母さんの愚痴を聞いてやって、お前はほーんと、つくづく損な役回りが好きだよなぁ。天国で親父さんとおふくろさんも呆れてるんじゃない?」

 永峰君が呆れたような、でも冬美の気持ちはちゃんと理解しているような笑いを含んでそう言うと、冬美はくすっ、と、嬉しそうな笑みを浮かべた。

 「大丈夫よ。これからは永峰君が、私が泣く場所を作ってくれるんでしょ?」


 冬美の両親が他界していたことを、私はその時、初めて知った。
 そして、あんな風に穏やかに、全信頼を誰かに委ねて微笑む冬美も、初めて知った。

 冬美は、私に両親の話をしたいと思ったことが一度でもあっただろうか? もしあったとしたら―――それを阻んでいたのは、私なんだろうか? 完璧な冬美像を勝手に描いている私に、冬美は弱さを見せることが出来なかったんだろうか?
 お互いに親友と呼び合いながら、冬美にばかり癒されることを求めて。
 …私って、なんてずるいヤツだったんだろう。
 ううん、過去形なんかじゃない。今だってずるいヤツだ、私は。永峰君に冬美を盗られたと思って、永峰君に失恋したことを冬美に話せないことに苛立って、一人でかんしゃくを起こしてる。冬美に凄く嫌な態度を取っている。

 こんなの、嫌だ。
 たとえ冬美が私を“親友”と呼んでくれていても―――こんな一方的な親友、嫌だ。
 どうすればいいんだろう?
 どうすれば、本当の意味での“親友”になれるんだろう―――…?


 表にいる2人に気づかれないよう必死に息をひそめながら、私の心臓はドクドクと早鐘を打ち続けていた。
 そして、その心臓がようやく落ち着いた頃、私はひとつの結論を出した。

 まずは私が、変わらなくちゃいけない。それが、結論。
 変わらなくては―――冬美に信頼してもらえるような、私に。


***


 「冬美っ。今日、一緒に帰ろ」
 翌日の部活が終わった時、冬美が私に声をかけるより先に、私から冬美の肩を叩いた。
 一緒に帰らなくなっても何も言わなかった私が、突然そんなことを言ったものだから、冬美はちょっと驚いたように目を丸くした。けど、すぐに、いつもの優しげな笑みを返してくれた。
 「あ…うん。私も、そうするつもりでいた」
 「そうなの?」
 「今日からはまた、前みたいに小雪と一緒に帰ろうと思って」
 「毎日?」
 「ん、毎日のつもり」
 「永峰君、怒るんじゃないの?」
 失恋の痛手にまだチクチクと痛む胸を無視して、からかうように言う。すると冬美はくすっと笑った。
 「彼氏も大事だけど、親友も大事だもの」
 “親友”。
 永峰君と付き合い出してから、ずっと嫌な態度を取ってきた私を、まだそう呼んでくれる冬美に、私も柔らかい笑顔を返すことができた。不思議だけれど―――そうすると何故か、恋に破れた心までが癒されるような気がした。
 「―――ふふ…、ありがと。でも、毎日じゃなくていいよ」
 「え?」
 「冬美ばっかり幸せなんじゃ癪だもん。私もがんばって、彼氏作るんだ。だから、お互い様。週の半分は、彼氏優先。残り半分は、親友優先にしよう?」
 私を見つめる冬美の目が、少し、揺れる。…分かってくれただろうか。私が今、一生懸命、変わろうとしてることを。

 冬美は、暫し私の顔を、その吸い込まれそうな澄んだ目でじっと見ていた。が、やがて、何かを感じ取ったのか、とても嬉しそうな綺麗な笑顔を見せた。
 「…分かった。じゃあ、親友優先の日は、お互い、彼氏の愚痴でもこぼしあいましょ」
 永峰君の愚痴をこぼす冬美なんて、想像できない。でも―――冬美は、こんな私に愚痴をこぼしてもいいと言ってくれている。冬美が誰にも見せない弱さを…永峰君にしか見せない顔を、私にもちょっとだけ、見せてくれると言っている。
 嬉しかった。
 嬉しくて、泣きそうになった。


 冬美が永峰君に見せる絶対的な信頼には、まだまだ遠い。
 それを思うと、ちょっと悔しいけれど…永峰君じゃ、仕方ないかな、と思う私も、実はいる。
 同じ永峰君を好きになった私だから、納得できるのかもしれない。他の男の子だったら、嫉妬が先に立って、こんな風になれなかったかも。そう思えば、永峰君で良かった、と―――同じ人を好きになった私は幸運だったと、心から思える。

 

 冬美、良かったね。

 長い長い葛藤の末、この日、やっと私はそう口にすることができた。



50000番ゲットの高槻さんのリクエストにおこたえした1作です。
ご希望は「十代後半の女性視点」「哀しくて泣ける恋(または人間関係)」「ハッピーエンド」の三題噺。
というわけで…あの「Calling me Calling you」の番外編。文中にちょっとだけ出てきた「今日はお休みのアイドル小雪ちゃん」のお話です。十代後半じゃないですね(^^;;
なんかね。嫌な女が描きたかったんです。嫌な女が、失恋を機に自分の愚かさに気づくような、そんな話が。
恋愛の方はアンハッピーエンドですが、小雪ちゃんからしたら、永峰君と結ばれる以上にハッピーなエンディングだったのではないか、と、結城は思います。
関連するお話:「Calling me Calling you」


Presents TOP


  Page Top
Copyright (C) 2003-2012 Psychedelic Note All rights reserved. since 2003.12.22