| Presents TOP |

クリムゾン・グローリー

 

 確か、あいつは、彼女いた筈だよ。

 そうそう、年上の。もう卒業して社会人してるんじゃなかった?

 え、別れたって話じゃなかった? あたし、どっかでそんな話聞いたけど。

 そうだっけ? あいつ、プライベートのこと、ほとんど話さないからなぁ…。だからかね、ここんとこ、別人みたいに暗いじゃん。


 「…どれも、根も葉もない、無責任な噂じゃない。やめようよ、そういうこと言うの」
 「お前は、あいつに気があるから」
 「アハハ、言えてるー」
 友人たちに冷やかされて、少女の頬が僅かに染まる。「気がある訳じゃないもん」と小さく反論したが、面白がっている友人たちに、その声は逆効果にしかならなかった。


 午後の喫茶店。ゆったりとした時間の中、賑やかな学生たちのおしゃべりを、マスターはカウンターの内側から苦笑と共に眺めていた。
 そんな場面に、ふいに、喫茶店のドアにつけられたドアベルの音が割って入る。
 「いらっしゃい」
 マスターが穏やかにそう言うと、窓際の連中の視線も、反射的にドアの方に向いた。そして、今まさに噂していた人物が入ってきたのだ、ということに気づき、茶化していた3人が気まずそうな顔をし、庇っていた1人の顔が少し悲しげに曇った。
 痩せたな、と、マスターも思う。
 元々、線の細いタイプだった。が、それに輪をかけて……痩せた。初めてこの店にやってきた時から2年以上の時間が経過しているのに、成人した筈の彼の印象は、その頃より更に少年ぽくなっている。
 「ホット、1つ」
 カウンター席に座り、短くオーダーする。そんな彼に、背後から仲間たちが声をかけてきた。
 「よぉ、ミナト。今からカラオケ行くんだけど、お前も行かね?」
 グラスの水を一口飲んだ彼は、ほんの少しだけ後ろを振り返り、席に着いた時と同じ無表情のまま、答えた。
 「これから、バイトだから」
 「え、そうだっけ」
 「悪いな」
 「……」
 彼に想いを寄せているらしい彼女を除き、3人全員、どことなく鼻白んだ顔になる。ここ最近、彼が誘いに乗ってきたことなど一度もないのだから、面白くない気分になるのも無理はないだろう。
 何かあったのか? という質問はとっくの昔に、何度かしている。だから、彼のこの別人のような愛想のなさを、今更訝って事情を聞こうとする者など、このメンバーの中にはいなかった。
 「ふーん…残念だな。じゃ、またな」
 「ああ、またな」
 行こうぜ、と目で合図する1人に倣って、他の3人も、それぞれにどこか釈然としないものを抱えたまま、席を立った。
 コーヒー代を払い、彼の背後をすり抜けて出て行く学生たちの中、1人だけ、心配そうな顔で彼を振り返る。が、彼の方は、その視線にすら気づかない。持ってきた文庫本を開くと、カウンターに頬杖をつき、読み始めてしまった。
 もう1人の女の子が、彼女の腕を軽く引く。放っておきなよ―――無言でそう言われ、彼女は諦めたように、友人らと一緒に喫茶店を後にした。


 あの友人らと彼は、ここ1年ちょっと―――彼が今のゼミに在籍するようになってからの付き合いだが、マスターは1年生の時から彼を知っている。当時4年生だった恋人と、時折、このカウンターでコーヒーを飲んでいたのだ。
 マスターは、多少なりとも、あの友人たちの知らない彼の事情を、知っている。
 だから、今、彼がこれほどまでに心を閉ざしてしまっていることを、仕方のないことだ、と感じている。
 けれど……。

 「…少しは、落ち着いたかい?」
 サーバーを傾け、カップにコーヒーを注ぎつつ、一言、訊ねる。
 彼は、手にした文庫本の文面から、目を離さない。でも、その目は文字を追ってはいない。友人たちの追及をかわすための、単なるポーズなのだから。
 「―――…一応、普段の生活を送れる位には、なったけど」
 「…そうか」
 「でも……生きてる気が、しない」
 ぽつり、と。
 無表情なまま、まるで独り言のように、呟く。
 その一言が、まるで、まだぱっくりと開いたままの傷口から滴った、1滴の赤い血のように聞こえて―――マスターは、痛々しいものを見るように、僅かに目を眇めた。

 本来の彼は、よく笑う、朗かな少年だった。
 その彼が、あの日、嘆きに顔を歪め、このカウンターに長いこと突っ伏して泣いていた。既に閉店時間になっていたが、マスターは彼の気が済むまで、ずっと彼に付き合った。
 あの日から―――彼は、表情を失くした。
 死にたい、と、あの日言った言葉そのままに……彼は、生きることを辞めてしまったかのように、笑顔も涙も怒りも、何ひとつ表に出さなくなってしまった。

 「…まだ、暫くはかかるのかもしれないね」
 コーヒーカップを、彼の前に置きつつ、努めて冷静にそう言う。
 「忘れるのは無理だと思うよ。ただ……未来のことを、少しでも考えられるようになると、いいね」
 「…未来?」
 目を上げた彼が、微かに眉をひそめる。まるで、聞いたことのない単語でも耳にしたかのように。
 「今は、見えないのかもしれないけど……君にはまだ、長い長い未来があるから」
 「……」
 「そこには、君を必要としてる人も、きっといる。…今、死んでしまったら、その人は誰を必要とすればいいんだい?」

 彼は、意味がわかったような、わからないような、曖昧な表情をした。
 そして、何も答えないまま―――また、全ての感情を消し去って、静かにコーヒーカップに口をつけた。


***


 「ありがとうございました」
 受け取ったビデオをカゴに収めつつ、抑揚のない声を上げる。
 客商売とはいえ、夜のレンタルビデオ店に愛想の良さを求める客は少ないのだろう。愛想の欠片もない彼の接客態度に、客は不愉快そうな顔はしなかった。いや―――そもそも、ビデオを返しに来る客も、借りに来る客も、金とビデオのやり取りをするに過ぎない相手の顔など、いちいち見ないのだ。現代人がいかに相手の目を見ずに日々を過ごしているかを、彼は最近、妙に実感していた。
 慣れた仕事だ。さほど頭を使わなくても、苦もなくこなせる。彼は、ビデオの入ったカゴを抱え、洋画の棚へと向かった。

 「―――…ミナト、君」

 ふいに、誰かに名前を呼ばれ、ギクリとする。
 振り向くと、そこに、見知った顔があった。大学の仲間の1人―――今日も、バイト前に寄った喫茶店で顔を見かけた子だ。目が合い、ぎこちない笑みをこちらに返している。
 「カラオケ、行ったんだけど、疲れちゃって……途中で抜けてきたの」
 「ふぅん…」
 言い訳をするみたいな彼女のセリフは、正直、彼自身にとってはどうでもいい情報だった。バイトの邪魔をしないで欲しいな、と思いながら、ビデオを棚に戻す作業を始める。運の悪いことに、ちょうど彼女が立っている辺りが、ビデオの返却場所だったのだ。
 「…え…ええと、ミナト君お勧めのビデオとか、ある? 私、ビデオ借りるの、初めてなの」
 彼の横顔を見つめつつ、彼女が遠慮がちにそう言う。が、彼の返事は、そっけなかった。
 「俺、あんまり映画、見ないから」
 「…そうなの」
 あっさり、会話は途切れる。彼女は、泣きそうになるのをなんとか堪え、体の前で組んだ手をぎゅっと握り締めた。
 「……ねぇ」
 「何、」
 「私たち、ミナト君に、何かしたかな?」
 カタン、とビデオを棚に戻した彼が、訝しげに彼女の方を見る。
 「な…、なんか、ミナト君を怒らせるようなこと、した、かな。…みんな、口には出さないけど、心配してるの。最近ずっと、ミナト君、様子がおかしいから」
 「……別に、みんなは、何もしてないよ」
 立ち上がりつつ、淡々と、そう答える。それでも彼女は、不安そうだ。
 「ほんとに? 無理してない?」
 「ああ」
 「…じゃあ…一体、どうしたの?」
 「……」
 ―――だから、嫌なんだ。
 友人たちと関われば、必ず、こう訊いてくるだろうと思ったからこそ、付き合いをなるべく避けているというのに―――わざわざバイト先に押しかけてまで、真相を暴こうとするのか。
 本気で心配しているからなのか、それとも友情を免罪符にした単なる野次馬根性なのか……彼女の性格からして、まず前者で間違いないが、彼からすれば、その結果が同じである以上、そこに差などない。彼の眉は、不愉快そうにひそめられた。
 「―――人には、言いたくないことだって、あるだろ」
 「……」
 「…悪い。仕事、あるから」
 言葉に詰まる彼女をその場に残し、彼はカウンターへと戻った。
 彼女は、どうしていいかわからないような顔をして、暫しその場に佇み、カウンターでビデオケースの補修作業をする彼の姿を見つめていた。が……諦めたようにため息をつくと、結局、何も借りずに、店を後にした。


 ―――…ミナト、君。

 ピッ、とセロテープを切りながら、ついさっき、ふいに呼ばれた名前が、耳に蘇る。

 ―――“皆人(みなと)君”。

 その、似ても似つかない声が―――脳裏で、重なった。


 『え、そんな補修作業まで、全部1人でやってるの? 大変なアルバイトね』
 皆人の手元を覗き込んで、驚いたような声を上げる。皆人は、ちょっと得意げに、直し終えたビデオケースを掲げてみせた。
 『そうでもないよ。それにほら、デモで流してるビデオ、タダで見られる特典もあるし』
 『あ、ほんとだ。新作をいち早く、しかもタダで見られるのね。ちょっと羨ましいなぁ』
 『奈津(なつ)も、会社やめて、こっちやる?』
 皆人が訊ねると、奈津は、困ったような笑みを浮かべて、首を振った。
 『接客は、あんまり得意じゃないから』
 『俺だって、得意じゃないよ?』
 『あがり症なの。すぐ赤面しちゃうし、カーッと頭に血が上って、レジとかもヘマしちゃいそう』
 『アハハ…、わかるわかる。想像できる』
 『…笑うこと、ないじゃない』
 ちょっと頬を膨らます奈津に、皆人はますます笑った。


 …思い出は…いつ、色褪せるのだろう。
 セピアカラーに褪せていくのを、一体どれだけの時間、待てばいいのだろう。

 そこかしこに、奈津の面影が色濃く残る、この店―――皆人は、この店を、今この瞬間に辞めたい、と思いながらも、辞めることができなかった。

***

 バタン、とドアを閉め、鍵をかけ、部屋の電気をつける。
 食欲など、ほとんどなかった。ため息をついた皆人は、荷物をその辺に放り出すと、疲れたようにベッドの上に身を投げ出した。
 殺風景な部屋―――そこに1つ、似つかわしくない色合いのクッションが、1つ。そのクッションに頭を預け、天井をぼんやり見上げた。
 ―――静か、だな。
 無意識のうちに手を伸ばし、CDコンポのリモコンを掴む。プレイボタンを押すと、少し前に流行った邦楽のオムニバスCDがスピーカーから流れてきた。
 軽快なポップスが、耳に届く。けれど、皆人の耳に、その音楽は入っていなかった。ただぼんやりと天井を見つめたまま、頭に感じるクッションの柔らかさだけを感じていた。


 そういえば―――初めての夜も、あまりの静かさに気恥ずかしくなって、CDをかけたっけ。
 お互いに初めてで、年下とはいえ俺は男なんだからこっちがリードしなきゃ、なんて、まるでマニュアル通りに気負って……でも、抱きしめたら、知識も気負いも全然必要ないんだ、ってことが、すぐにわかった。こんなに愛しい存在がこの世にあったなんて、皆人はあの瞬間まで知らなかった。
 夢中だった。奈津さえいれば、他に何もいらなかった。
 なのに、内気な奈津は、ことある毎に「自信がない」なんて言葉を口にした。


 『私、皆人君とつり合ってる自信、なくて』
 『なんで?』
 『なんだか、レベルが違う気がして』
 『…どこが?』
 『だって……私って影が薄いんだもの。小学生の頃から、なかなか名前を覚えてもらえないの。同窓会に行っても、親しかった友達以外からは“名前、なんだっけ?”って。その位、顔も平凡だし、スタイルも全然良くないし、しかも―――皆人君より、年上だし』
 『えぇ? そんなこと言ったら、俺だって極フツーだし、奈津より年下の、頼れない奴じゃない?』
 『皆人君は、カッコイイよ? 目をつけてる女の子、いっぱいいるんだから。知ってた?』
 『知らないし、カッコ良くもないよ。背だって標準ギリギリだし、別に鍛えたりしてないし、顔も全然男らしい二枚目な顔じゃないし―――もっとこう、大人の男! って感じになりたいよなぁ…』
 『焦らなくたって、そのうち、嫌でも大人の男の人になるじゃない』
 『奈津より大人になりたいんだよ』


 3歳という、永遠に埋まらない歳の差。それは、奈津のコンプレックスでもあったけれど、皆人のコンプレックスでもあった。でも、その意味は、微妙に異なっていた。
 皆人は、奈津自身との間に、歳の差を感じたことは、ほとんどない。童顔で、恥ずかしがり屋で、引っ込み思案な奈津を、守ってやらなくては、と感じるのは極自然なことだった。
 けれど……学生と、社会人。社会的な立場という差だけは、無視できなかった。
 大人になりたい―――大学を卒業して、ちゃんと就職をして、奈津を守れるような一人前の男に、早くなりたい。奈津が愛しくなればなるほど、焦った。人の2倍、3倍の早さで自分だけ成長できないだろうか、なんてバカなことを、いつも考えていた。
 一方、奈津は、純粋に年齢差を気にしていた。
 『社会人同士になっちゃえば、3歳なんて差のうちに入らないよ』
 皆人がそう言っても、
 『あと5年、10年経った時、皆人君とつり合う年下の女の子と張り合うだけの自信がないの』
 と言って、不安そうな顔をしていた。
 だから皆人は、奈津にわかって欲しくて、必死に訴えた。
 『80歳のしわくちゃのおばあちゃんになった奈津と、若くてスタイル抜群の美人の女の子が目の前にいたら、俺、絶対、80歳の奈津を選ぶ自信、あるよ』
 その言葉に―――奈津は、涙を浮かべて微笑み、やっと少しだけ自信を持ってくれた。

 『…ねえ、皆人君の部屋に、私のお気に入りのクッション、置いておいてもいい?』
 付き合い始めて半年後のそのセリフは、臆病な奈津が、皆人の懐に入り込んでくれた証拠。
 パッチワーク柄の可愛らしいクッションは、以来、皆人のベッドの上にいつも置かれていた。


 「―――…っ、」
 クッションを抱きしめて、嬉しそうに微笑む奈津の顔が、鮮やかに脳裏に蘇る。
 がばっ、と起き上がった皆人は、その記憶を振り払うように、急ぎキッチンに向かった。そして、冷蔵庫の中に冷やしてあった缶ビールを1本取り出し、一気に飲み干した。

 …未来、なんて。
 未来なんて、どこにあるんだ?

 缶ビールを握る手が、震える。
 息をついた皆人は、缶を流し台の上に乱暴に置き、何とはなしに振り返った。
 すると―――窓際に置かれた薔薇の鉢植えが、目に入った。

 『名前は、クリムゾン・グローリー。ドイツ生まれの、赤い薔薇なの。鉢で育てられるし、あんまり大きくならないから、初心者向けなんだって』

 花に詳しい奈津が、そんな説明を付け加えていた薔薇。
 高さ5、60センチほどになったクリムゾン・グローリーは、瑞々しい緑の葉を何枚もつけていた。でも…あれ以来、適当に水をやる程度で、手入れらしい手入れは何ひとつしていない。今年は蕾をつけないかもしれないな、と皆人は思った。
 …それはそれで、いいのかもしれない。
 “クリムゾン・グローリー”……数年前までは何の意味も持たなかったその名前は、今では、もう手に入らない幸せの象徴だ。


***


 「おーい、ミナト!」
 中庭を抜けたところで、ゼミの仲間の1人が、背後から追ってきた。
 今日は、他の連中は一緒ではないらしい。またこの前のバイト先まで押しかけてきた子のようなことを訊いてくるのではないか、と一瞬身構えたが、高校球児のような顔をした彼の用件は、全く別のものだった。
 「お前、今度の就職説明会、行くだろ?」
 「ん? ああ…、一応、な」
 5月も、そろそろ終わる。早い者では、既に内定を取っている学生もいる。あまり気は進まないが、「一応」でも出席しないとまずいだろう。
 「あーあ…、就職氷河期に運悪く大学生になっちまったのは、痛いよなぁ。4年になって授業も減ったから暇になると思ってたけど、卒論に就職活動にと、案外忙しいな」
 皆人の隣を歩きながら、友人はそう言って、うーん、と大きく伸びをした。
 「ミナト、確か大手メーカー希望だっただろ。“就職したい会社ランキング”の上位常連の。競争率高いんだから、も少し焦った方がよくねぇ?」
 「…いや。あそこは、やめた」
 皆人が短く答えると、友人は驚いたように目を丸くし、皆人の横顔を凝視した。
 「え、なんで? 前、言ってたじゃないか。安定していて収入もいいから、って。ミナトにしては随分保守的な考え方するんだな、って結構驚いたから、よく覚えてるぜ?」
 …確かに、そんな話をしていた。去年の今頃は。けれど。
 「―――気が、変わったんだよ」
 詳細を省き、たったそれだけ、友人に返す。
 友人は、不思議そうな顔をしたが、それ以上何も訊かなかった。訊いても答えてはくれないだろうことを、この数ヶ月で学習したのだろう。
 どの仲間も、あまり突っ込んで事情を訊いたりはしない。それは、皆人の世代の友人関係では極当たり前の「関係の薄さ」の表れなのかもしれないが―――今の皆人には、ありがたいことだった。

 

 

 『そんなに仕事、大変なんだ?』
 『…うーん…、結構、ね』
 キャミソールしか身に着けていない胸にお気に入りのクッションを抱き、奈津は、曖昧な笑みを皆人に向けた。
 『2年目に入って、もう甘えたこと言ってられなくなってきたから。それに、先月から携わってる仕事が、ねぇ…。なんだか、私には分不相応に重たい仕事を背負っちゃった気がして、毎日自己嫌悪の連続』
 『奈津1人で背負ってる仕事?』
 『ううん。でも、今までは先輩の補佐的な仕事が多かったけど、今は頭数の1人として数えられちゃってるから…。当たり前なんだけど、やっぱり1年目とは色々違うなぁ…』
 ため息をついた奈津は、クッションを抱いたまま、ころん、と再び皆人の隣に寝転んだ。
 『同じことやっても、私ってノロいから、課の人たちの足を引っ張っちゃってる気がするの。先輩にもチクチク文句言われるし…。課長が上手くバランス取ってくれるから、ありがたいけど―――なんか、申し訳ないの』
 『課長、って、奈津んとこの課のトップ? なんかちょっと苦手だ、って言ってた奴だろ?』
 『うん』
 入社して間もない頃から、奈津はその課長のことを、あまり好きではなかったようだった。
 年齢は30代半ばで、既に家庭を持っている身だが、整ったルックスが災いしてか、結構モテるらしい。それを悪く思っていないのが、その表情や態度から伝わってくるのが、奈津は苦手なのだという。奈津は、何に対しても真面目な方だが、こと、男女のことに関しては、他のこと以上に真面目なタイプなのだ。
 奈津が入った会社は巨大企業で、なおかつ、同じ課に女子社員は先輩1名しかいないため、社内で情報交換をするような女子社員は、その先輩しかいない。が、その先輩自身がかなり課長を意識しているため、奈津を牽制してか、あまり課長の話をしようとしない。だからこの1年半、奈津の中の「課長像」は、最初に感じた「なんか軽そう」のままだ。
 『でもこの前ね、仕事で煮詰まっちゃって、半分泣きながら残業してたら、残ってた課長が相談に乗ってくれて、それで無事その仕事を乗り切れたの。普段は、仕事の指示も相談も先輩たちとの間で、課長と直接、なんて滅多になかったけど……仕事に関してだけは、ちょっと、見る目変わったかも。相変わらず“人”としては苦手だけどね』
 『ふぅん…』
 枕に頬杖をついていた皆人は、面白くなさそうに相槌を打った。
 そして、はぁ、と大きなため息をついて、枕に頭を埋めた。
 『ふぅーん……なーんか、面白くないよなー』
 『面白くない?』
 『女にモテる大人の男が、奈津の傍にいると思うとさぁ』
 『やだ、皆人君ってば。相手は“私が苦手な人”で、しかも“妻子持ち”よ?』
 『わかってるけど―――あああ、ちくしょー』
 苛立ったように叫んだ皆人は、その苛立ちをぶつけるように、隣に寝転がる奈津を抱き寄せた。抱えていたクッションが邪魔になると察したのか、奈津はすぐにクッションを脇へと追いやり、くすくす笑いながら皆人の腕の中にすっぽり納まった。
 『1年半後を見てろよ。何がなんでもいい会社入って、新人でも奈津養えるだけの給料稼いでやる』
 『どんな仕事、するの?』
 『なんだっていい。いっぱい稼げて、安定してれば。ああ、でも、奈津の両親に“年下の男なんか頼りにならない”ってナメられないためにも、名前が知れてる会社の方がいいよな、きっと…。奈津の地元、結構保守的だっていうし』
 『ん…、割と、考え方古い土地柄かも』
 『俺と結婚したらさ、奈津は、今の仕事、辞めればいいよ。で、奈津が一番やりたかったこと、すればいい』
 奈津が大学を出る時、こっちに帰って来い、と郷里の両親は言った。
 けれど奈津は、皆人と一緒にいるために、東京に残る決意をしていた。少々頭が固く保守的な両親を説き伏せるには、納得させるだけの企業に就職する必要があった奈津は、結局、誰でも知っている巨大企業を受け、見事採用された。
 でも―――本当にやりたかった仕事は、花屋さん。
 花が好きな、奈津。花に携わる仕事がしたい、というのが、小さい頃からのささやかな夢だった。
 『俺、頑張るからさ。奈津は、好きな花と1日中接してられるような仕事、すればいいよ』
 『…皆人君…』


 奈津が、幸せそうに微笑む。
 狭いベッドの中、抱き合って見る夢は、いつだって幸せだった。

 いつか、空気の綺麗な郊外に、小さくてもいいから庭のついている一戸建てを買おう。
 付き合い始めた頃、店先で偶然見つけた、クリムゾン・グローリーの鉢植え。大切に育てて、その庭に植えたい、と奈津は言っていた。
 子供は、できれば女の子。奈津は「皆人君に似るといいな」と言い、皆人は「奈津そっくりな子が欲しい」と言った。
 実家でずっと犬を飼ってきた皆人は、庭の片隅に、自分で作った犬小屋を置きたい、と言った。それを聞いて奈津は、犬を飼うなら柴犬がいい、と言った。柴犬って、なんとなく、皆人君と似てるから―――そう言って、奈津は笑った。

 

 

 「―――痛っ!!」

 指先に走った、鋭い痛み。
 水やりに邪魔な葉をどかそうとした手を、反射的に引っ込める。皆人は、右手に持っていた水の入ったコップを置き、痛んだ指先を見つめた。
 左手の、人差し指。その指先に、小さな穴があいていた。
 クリムゾン・グローリーの棘が、指に刺さってしまったらしい。見つめているうちに、その傷口から、血が滲んできた。

 赤い、血が。
 花開いたクリムゾン・グローリーを彷彿とさせる、真紅の色が。

 「―――…」
 …震える。
 止まらない。怒りが―――憤りが、止まらない。
 呼吸が、速くなる。苦しい、息が、苦しい。体の芯から生じた震えが、全身に波及し、唇まで震わせる。


 ……かみさま。

 かみさま、かみさま、どうして。


 止まらない。

 止められなかった。


***


 初夏を思わせる、穏やかな日曜日の朝。
 穏やかな天気とは対照的に、冷たく凍った心を抱えて、皆人は、電柱の陰に佇んでいた。

 都心から電車で1本の、閑静な住宅街。犬を散歩させる人がたまに通る位で、人影もまばらだ。
 皆人が見つめる先にあるのは、そう大きくはないが、ちょっとした庭のある、一戸建て。奥からは、たまに犬の吠える声が聞こえる。まるで自分たちの夢をそのまま映したような映像に、皆人はひとり、皮肉な笑みを口元に浮かべた。
 家の前には、車が1台、停まっている。家主の愛車だ。
 これからどこかに出かけるのだろうか。家主は、上機嫌で車を洗っている。手入れの行き届いた濃紺のボディに、5月の光が反射していた。
 男の横顔が、時折、皆人の目に映る。
 確かに、整った顔だ。着ている私服も、実にセンスがいい。多くの女性が思い描く、典型的な「勝ち組の男」―――その横顔を睨み据える皆人は、家を出た時から止まることのない震えを、今また、体の奥に感じていた。

 

 ―――ああ、課長、ねぇ。
 表立って言う人、あんまりいないけど。
 裏じゃ結構、有名よ。社の内外問わず、かなり派手にやってるらしい、って。

 ホラ、あのルックスだし、お金持ってるし、基本、女に優しいしね。
 結構強引だけど、甘い言葉のひとつふたつ囁かれると、女の方もいい気分になるから。
 結婚前から女関係派手だったみたいだから、結婚したからって、その性癖がコロッと変わる筈もないよね。

 ああ、でも、誰でもいい、って訳でもないのよね。
 あの人、絶対、既婚者か彼氏持ちしか狙わないの。
 本命持ちなら、課長に「奥さんと別れて!」なんて迫ることもないだろう、って計算よ。
 下手にフリーの子に手を出しちゃうと、後が面倒じゃない。課長としちゃ、ただ遊びたいだけで、奥さんとは絶対離婚したくないんだもの。

 アハハ、もうバレてるよね。うん、あたしも、そう。
 やめて下さい、あたし、彼氏いるんです、なんて、ちょっと拒否る真似してみせたけど、実は内心、ラッキー、って思ってたんだ。
 1度きりだけど、お誘いかかれば、また付き合ってもいいかなー、と思ってるんだ。だって、いい男だし。


 えっ、奈津?
 奈津、なつ、なつ……ああー、あの子ね。年末に辞めちゃった子。
 辞めた理由? 知らないわよ、そんなの。
 課も違う上に、記憶に残ってないような、全然目立たない子だもの。知るわけないじゃない。

 

 ―――…あんたには、それは、「いつものこと」に過ぎなかったんだろう。

 女が、自分の誘いに乗るのは、当たり前。自分を拒む女なんていない。そう信じてるあんたからすれば、自分が迫れば、どんな相手だって喜んで当然なんだろう。
 拒否するフリして、禁忌感を情事のスパイスにするような女もいる。それを知ってるあんたにとって……それが本気の抵抗でも、本気とは受け取れないんだろう。

 仕事の相談に乗るフリをして、少しずつ警戒心を解いていったのも、あんたの作戦だったんだろう。
 たまには飲みに行かないか、と誘ったのだって、あんたからすれば、それにOKした時点で、その後の展開まで折り込み済みなんだろう。
 表立っては誰も言わないけれど、裏ではみんなが知ってること。そんな情報をまるで知らない女子社員がいるなんて想像するのは、あんたのその貧困な頭では、到底無理だったんだろう。

 でも、奈津は。
 内気すぎて、同じ社内の女性の中でも、そんなゴシップを耳にするほど溶け込めていなかった、奈津は。
 俺しか知らなくて、俺だけを見つめてて―――他の男になんて指一本触れられたくないと、心底思っていた、奈津は。

 

 視界が、歪む。
 涙が、薄く、目の前に膜を張る。ポケットの中で、折りたたみナイフを握っている手が、怒りのあまり、震えた。

 皆人は、何も知らなかった。
 何も知らず、会っても笑顔の少ない奈津を、ただ心配していた。抱こうとすると拒む奈津を不審に思いながらも、理由を訊ねても泣くばかりで何も言わない奈津に、半分途方に暮れていた。
 全てを知ったのは、年が明けてから―――帰省から戻ったら連絡する、と言っていた奈津から連絡がなかったことに胸騒ぎを覚え、直接奈津の部屋に足を運んだ時だった。
 合鍵を使って入った、その部屋で、皆人が見たものは……血、だった。
 ベッドの上に横たわり、手首を真一文字に切り裂いた奈津の、真っ赤な血―――まるで、クリムゾン・グローリーの花びらのような、真っ赤な血だった。
 皆人は、1時間、遅かった。
 皆人のもとに残されたのは、皆人宛の遺書と、クリムゾン・グローリーの鉢植え。…それだけだった。


 ―――…ごめんね、皆人君。
 こんなに弱い私で、ごめんなさい。
 必死に、忘れようとしました。忘れられなくても、我慢しようとしました。でも…ごめんなさい。もう、限界です。
 私は、汚れてしまったこの体を、どうしても受け入れられません。
 そして、そんな汚れたこの体で、皆人君をも汚してしまうのが、どうしても耐えられないのです。


 臆病で、内気で、皆人以外には言いたいことの半分も言えない、奈津。
 飲めない酒を無理矢理飲まされ、親切ぶって送ってきたあの男に、突然犯されて―――それを誰にも言えず、半月以上も、その男の下で働き続けた。耐えて、耐えて、耐え続けて……そしてとうとう、耐え切れなくなった。
 自分を無理矢理犯しておいて、それを罪とも思わず平然と「いい上司」のフリをし続けているあの男を、奈津は、一体どんな思いで毎日眺めていただろう?
 あの男は、気づいてもいないだろう。毎日、毎日、奈津がどんなに苦しかったか、どんなに悔しかったか―――どんなに、怖かったか。

 「……奈津……っ」
 呻きにも似た声が、皆人の唇から漏れる。
 熱い―――体の芯が、怒りのあまり、熱く焼け爛れる。ナイフの柄が手のひらに食い込むほどに、ポケットの中の皆人の手は、きつくきつく握り締められていた。

 郷里から出て来た奈津の両親は、世間体を気にして、奈津の自殺の理由を公にすることも、あの男に謝罪を求めることもしなかった。
 それどころか、皆人に金を渡し「このことは内密にして欲しい」とまで言った。奈津の父は、郷里では名のある人物だったのだ。
 自殺前に会社を辞めていた奈津の死を、会社の人間は、誰一人知らない。勿論……あの男も。
 奈津のいなくなった日常は、まるで何事もなかったかのように、当たり前のように過ぎていく。
 ただ1人―――皆人だけを、残して。

 ……許せない。
 許せない。許せない。許せない。

 何故、あの男が、生きている?
 奈津の死も知らずに、何故のうのうと、生きてるんだ?

 たとえ目立たなくても、みんなが忘れてしまっていても、皆人にとっては、地球の重さより、奈津の存在感の方が重かった。奈津は、皆人の命で、皆人が生きていくために必要不可欠な存在だった。
 そんな大切なものを奪っておいて、平然と生きているあの男が、許せない。
 自分の犯した罪も知らず、奈津の存在すら忘れて生きているあの男が、どうしても、許せない。
 今の皆人を生きながらえさせているのは、ただひとつの思い―――この、「殺意」だ。


 ―――あいつを、殺す。
 …そして、自分も、死ぬ。
 ナイフを、ポケットから引き抜く。折りたたんだ刃を引き出そうとしつつ、皆人は身構えた。
 が、1歩、踏み出そうとした、その時。


 「パパー、車、綺麗になったぁ?」

 「―――…!」
 踏み出しかけた足が、その場で凍りつく。
 皆人の心臓が、ドクン、と大きく跳ねた。

 玄関のドアが開き、あの男のもとへと駆け寄ってきたのは―――小学校へ上がったかどうか、といった年頃の、女の子だった。
 ツインテールにした髪が、ふわふわと揺れる。少女は、大好きな父の腕にぴょん、と飛びつき、磨き上げられた濃紺の車を、目を輝かせて見つめた。
 「ママは、どうした?」
 「まだ、おしたくしてるの。結婚記念日だから、すごーくおめかしするって、頑張ってるよ」
 「ハハ…、そうか」

 愛しい者を見つめるように、あの男の目が、少女を見下ろす。
 そこにいるのは、部下を無理矢理犯した男であると同時に―――愛らしいあの少女の、父親だった。


 『私、女の子が欲しいなぁ…。2人で、庭のお花の手入れしたり、ケーキ作ったり……皆人君の誕生日には、2人で内緒で相談して、皆人君が驚くような誕生日プレゼント作るの』

 「……」

 …奈津。

 奈津―――…。

 涙が、こぼれ落ちた。
 全身を支配していた殺意が、急激に、抜け落ちていく。皆人は思わず、その場に崩れ落ちた。

 怒り、憤り、痛み、悲しみ―――どの感情も、1ミリたりとも減ってはいない。いや…それどころか、1分前より大きい位だ。奈津と一緒に見た夢、奈津と2人で望んだ未来―――奈津を奪ったあの男が……憎い。憎い。殺したいほど憎い。
 けれど、殺すことは、できない。
 「あの女の子の父親」を殺すことは……皆人には、できない。

 「…な……つ……」
 手から、まだ折りたたんだままだったナイフが、地面に落ちた。
 アスファルトに手をついた皆人は、全身を震わせながら、声を殺して泣いた。

 

 ―――…皆人君、ごめんなさい。
 こんな話、知りたくなかったよね。私も、何も言わずに消えようと思った。でも……誰一人、真実を知らないままでいるのも、どうしても耐えられなかったの。
 皆人君を選んでしまって、ごめんなさい。
 そして、最後まで読んでくれて、ありがとう。

 神様は、ちゃんと見てくれてます。
 あんな男でも、今、彼を必要としている人は、確かにいる。だから神様は、大目に見てくれているのでしょう。
 でも、いつか、きっと―――私や皆人君が罰を与えなくても、神様が、あの男を裁いてくれる筈です。だから、皆人君は、あんな人のことは忘れてしまって下さい。

 …私のことも、忘れてしまってね。
 皆人君がこれから生きていくのに、私の思い出は、きっと重荷になるから。
 でも、どうしても忘れられないのなら―――こう思って。
 私は、皆人君の中にいる。もう体はなくなっても、ずっと、ずっと、皆人君と一緒にいる。私たちは、もう2人じゃない―――1人の人間なんだよ、って。


 皆人君。
 世界中の人が、皆人君と同じ位、優しければよかったのに。

 皆人君は、今の皆人君のまま、生きてね。
 いつも優しくて、前向きで、人の痛みをよく知っていて―――私が大好きだった皆人君のまま、この先の未来を、必ず、生きてね。


 さようなら。皆人君。

 奈津より―――愛をこめて。


***


 バタン、とドアを閉めると、外の喧騒が消え、静寂だけが残った。
 大きなため息をついた皆人は、魂の抜け殻のようになった体を引きずりながら、住み慣れた部屋に上がった。

 ―――…未来、か。
 やっぱり、未来は、見えない。
 あの男を殺して、「大好きなパパを奪った殺人犯」になることだけは免れたが……今朝、この部屋を出た時と、殺意以外、何も変わったものなんてなかった。目の前に広がるのは、1歩先すら見えない、永遠の闇ばかりだ。
 一体自分は、何を目的に生きればいいのだろう?
 奈津のいないこの世界で、どんな夢を見て生きればいいのだろう?
 わからない―――今もまだ、わからない。一体自分が、何のために生きているのか。

 息をつき、髪をぐしゃっ、と掻き混ぜる。そんな皆人の視界の端で、何かがキラリと光った。
 「……?」
 なんだろう、と目を向けると、それは、窓際に置きっぱなしになっていた、グラスだった。今朝、薔薇の花に水をやろうとして、そのままになっていたのだ。
 グラスから、その隣に佇む薔薇の鉢植えに、目を移す。皆人の目が、更に翳りを帯びた。
 奈津が育てていた、クリムゾン・グローリー……けれど、花好きだった奈津とは違い、皆人は薔薇の育て方など全然知らない。あれから半年近く―――今のところ、辛うじて枯らすことだけは避けられているが、先月辺りから目に見えて元気がなくなっているのが、皆人にもわかった。
 いずれ、枯れるのかもしれない。
 …それも、仕方ないのかもしれない。
 いつか2人で住む家の庭に植えよう、と約束していた花だ。生き長らえたところで、奈津がいなくなった今、もう植えるべき庭など、どこにもない。奈津の死と共に、この薔薇も、この世に存在する意味を失った―――だから、枯れ行くのが、この薔薇の運命なのかもしれない。
 ―――でも、まあ……水くらい、あげておくか。
 いずれ枯れるんだから、と放置できるほど、皆人はドライではなかった。窓際に歩み寄った皆人は、水が入ったままだったグラスを手に取り、水をやるのに邪魔になっている葉を、指でどけようとした。
 すると。

 「―――…」

 気のせいかと、思った。
 けれど、それは、確かにあった。
 信じられない思いで、恐る恐る、手を伸ばす。どかそうとした葉より、もっと上―――葉と葉の間に、ひっそりと存在する、その小さな命に。

 それは、クリムゾン・グローリーの、生まれたばかりの蕾だった。

 去年の今頃には、このクリムゾン・グローリーは、可憐な真紅の花をいくつもつけていた。なのに今年は、目に見えて元気を失い、5月に入っても蕾をつける気配すらなかった。
 実際、皆人の世話の仕方はまずかったし、日当たりも奈津の部屋より悪い。皆人の思い違いではなく、薔薇は、確実に弱っていた。与える水でなんとか生き続けている―――そんな様子だった。
 そのクリムゾン・グローリーに、小さな、小さな、蕾がついていた。
 皆人が与える僅かな水で、必死に生き続け……新しい花を咲かそうと、健気に蕾をつけていたのだ。


 皆人には見えなかった、未来。
 でもこの薔薇は、今、未来の夢を見ている。微かな光の中でも、僅かな栄養だけでも、いつかこの蕾を大輪の花へと花開かせる夢を。
 血のように赤い、真紅のクリムゾン・グローリー ―――この蕾が開いた時、どんな色になるのか、皆人は、ちょっと見てみたい気がした。


 「…お前、俺が、必要か?」

 クリムゾン・グローリーの蕾にそっと触れつつ、訊ねる。
 微かに微笑んだ皆人の目から、新しい涙がこぼれ落ちた。


1500000番ゲットの葉さんのリクエストにおこたえした1作です。
リクは「切なくて泣ける話」。…一応、結城の得意分野、ですね(え?)。
最初に登場するマスターは、当然ながら、「Blue Daisy, Blue.」の主人公、渡会さんです。彼のバックボーンを知っている人なら、何故皆人がマスターにだけ真相を打ち明けたのか、その辺がなんとなくわかるかな、と。(葵さんの件は、皆人も当然知ってます。相談事をするような間柄になっている常連客ならば、大抵知ってる話なので)
皆人がまた歩き始める唯一の光が、人ではなく薔薇の蕾だったところが、ちょっと悲しいですが……いつの日か、彼を必要としてくれている「未来にいる誰か」に出会う日が来るでしょう。そうであって欲しいなぁ…。


Presents TOP


  Page Top
Copyright (C) 2003-2012 Psychedelic Note All rights reserved. since 2003.12.22