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happiness ― ハピネス ―

 

 『ぼくのお母さん』   1年2組 朝倉イズミ

 ぼくのお母さんは、昼は、ハンバーガーやさんではたらいています。
 夜は、大学に行って、べんきょうをしています。
 けーご君は「お母さんなのに、大学に行ってるなんておかしい」と言うけど、けーご君のお母さんだってエアロビをならってるんだから、お母さんが大学でべんきょうしても、べつにいいと思います。

 ぼくには、お父さんがいません。だから、ぼくのかぞくは、お母さんだけです。
 けーご君は「ふつうのかぞくは、お父さんとお母さんと妹がいるんだぞ」と言うけど、けーご君はお母さんと妹はキライみたいです。キライなかぞくがいるなんて、とってもつらいです。けーご君はかわいそうです。

 お母さんは、美人です。すごくモテます。
 でも、お母さんがいちばん好きなのはぼくなので、ほかの男の人はふられてばかりいます。ザマアミロです。
 前は、にーちゃんがお母さんのコイビトになればいいのにな、と思ってました。カッコよくて、なんでもできるからです。
 でも、にーちゃんは東京に行っちゃいました。ぼくも東京に行こうとしたけど、おこづかいが足りなくて、行けませんでした。

 だからぼくは、けっしんしました。
 ぼくが大人になったら、お母さんをぼくのおよめさんにしてあげるって。

 なのにけーご君は「お母さんとこどもはケッコンできないんだよ」って。ウソかと思って先生にきいたら、先生もそう言いました。
 ショックです。
 すごく、すごく、ショックです。
 とってもショックだったので、きのうは、大好きなハンバーグが半分しかたべられませんでした。

 

***

 

 「朝倉さん」
 注文の品を揃えるために走り回っていた舞は、同僚に背中を叩かれ、振り向いた。
 同僚は、受話器を握るようなゼスチャーをして、バックヤードを指差していた。どうやら、舞宛ての電話がかかってきたらしい。
 「もしかして、イズミ?」
 「みたいね」
 「…3番レジ、ポテトSとコーラMでオーダー入ってますから」
 「了解」
 同僚は心得たように笑い、舞の代わりにポテトとコーラの用意に動き始めた。小さい子供を持つ同士、困った時はお互い様的な関係ができている間柄なのだ。
 急いでバックヤードに駆け込み、保留になっていた電話を取る。何があったのだろうかと不安に苛まれながら、軽く深呼吸をしてから口を開いた。
 「―――お待たせしました。朝倉です」
 『あ、イズミ君のお母様ですか? 私、神戸愛育園の滝です』
 「いつもお世話になってます」
 イズミが放課後の時間を過ごしている、学童保育の担当者だ。舞は、無意識のうちに受話器片手に会釈した。
 「あの、イズミに何か…」
 『ええ、実はついさっき、お友達と喧嘩になってしまって、相手の子もイズミ君も、ちょっとケガをしちゃったんですよ。いえ、大したケガじゃないんですが、相手の子のお母様が…』
 電話の相手は、その後の言葉を濁した。言わずとも分かる。つまり、子供はいいけど親がゴネている、ということだろう。
 ―――あああ、もう…イズミの奴、何やってるのよ。
 暴力沙汰はいけないと、日頃からあれほど言い聞かせているのに―――よほど腹に据えかねることがあったのだろうか。
 「すみません。今から行きますから」
 ひたすら低姿勢でそう言い、舞は慌しく電話を切った。
 大急ぎで店長に事情を説明し、早退扱いにしてもらった。この皺寄せは土日にくるんだろうな…と思うと、顔が険しくなってしまう。卒論に取り掛かっているこの時期は、少しの時間も惜しいのだ。
 いや、卒論はこの際、どうでもいい。そんなことより―――問題は、イズミだ。
 テキパキと着替えを終えた舞は、タイムカードをガチャン、と押して、店の裏側の通用口から外へと飛び出した。


***


 学童保育の行われている、教会に併設された小さな児童館は、舞の勤め先から走って10分の距離にあった。
 共働きの親を持つ子が大半だから、児童館の周囲はまだまだ遊んでいる子供が目立つし、児童館の中からも賑やかな声が聞こえてくる。そんな様子を一瞥し、舞は教会の方へと足を向けた。
 教会の扉は開いていた。その中をそっと覗いてみると、祭壇にほど近い席に、イズミの特徴的な頭が見えた。
 「イズミ!」
 声をかけると、その頭がくるっ、と振り返る。そして、教会の中へと入ってくる舞の姿を捉えるや、その目が嬉しそうに輝いた。
 ―――あのね。喜んでる場合じゃないのよ、イズミ。
 何故母が呼ばれたのか、理解していない訳じゃないだろうに―――ため息をついた舞は、立ち上がろうとするイズミを手で制しながら歩を進めた。
 イズミの席とは通路を隔てた席に、ほぼイズミと同い年位の男の子と、舞より10は年上の女性が座っている。多分、喧嘩相手とその母親だろう。
 そして、イズミの席と相手の席を隔てるように、通路には牧師が立っていた。舞もよく知っている、この教会の牧師だ。児童館の責任者でもあるので、児童館では、子供たちにトラブルが発生すると、教会に連れてきて解決するのが習慣となっているのだ。
 「お世話になってます。朝倉イズミの母です」
 舞が頭を下げると、牧師は温和な笑みでうなずき、明るい茶色に金色が所々混じったイズミの頭にポン、と手を乗せた。
 「すみません、お仕事中だったでしょうに…。でも、イズミ君がなかなか事情を話してくれないので、わたしも取り成しようがないんです」
 「え?」
 「喧嘩の理由ですよ」
 イズミは、さっきの嬉しそうな顔など忘れたかのように、どこか不貞腐れたような顔で、通路の向こうにいる少年に目を向けていた。相手の少年の方がイズミより顔色が冴えないのは、多分隣にいる母親が鬼の形相をしているからだろう。
 ケガをした、と電話で聞いたが、双方とも大きな傷らしきものは見えない。イズミの、半ズボンから伸びた足の膝小僧に、大きな絆創膏が貼られているのが、一番大きな傷だろう。相手の子供は、頬に擦り傷のようなものがある。でも、その程度は大したものではなさそうだ。
 「イズミ」
 座っているイズミの目の高さに合わせて、しゃがみ込む。幼児期を脱して最近やたら少年ぽさを増した顔が、気まずそうに舞の方を向く。
 「牧師の先生が訊いたらちゃんと答えなさい、って、前にも言ったでしょ?」
 「……」
 「どうして喧嘩したの?」
 「お宅の息子さんが先に、うちの啓ちゃんに飛び掛ってきたんですよっ」
 答えたのは、イズミではなく、背後に座る相手の子供の母親だった。
 「啓ちゃんが、イズミ君に殴られた、って言ってるんですから。喧嘩の理由なんてどうでもいいでしょ。先に手を挙げたイズミ君が悪いのは間違いないんですから」
 「お母さん、ちょっと静かにしてあげて下さい。啓吾君だって、喧嘩の理由は話してないでしょう?」
 エキサイトしかける母親の甲高い声を、牧師が穏やかに遮った。つまり、2人は、取っ組み合いの喧嘩をしておきながら、双方ともその理由を誰にも語っていないらしい。イズミが先に手を挙げた、ということ以外は、何も。
 「…イズミ。あんた、先に殴ったの?」
 「―――うん」
 「どうして」
 「…けーご君が…」
 けーご君、という名前は、舞も何度か耳にしている。今年の春、小学校に上がってから友達になった子だ。なるほど、あの子供がけーご君か、と頭の中で名前と顔を結びつけた。
 「けーご君が、どうしたの」
 「…母ちゃんを、ブジョクした」
 いきなり、小学1年生にしては難しい言葉が飛び出した。
 「ブジョク?」
 「ボ、ボク、ママがいつも言ってること、言っただけだもんっ」
 イズミより高い声が割って入った。
 振り返ると、けーご君らしき少年が開き直ったような顔で口を開いていた。その後ろに見える母親の顔が、この子は何を言い出すんだ、とでも言うような、ギョッとした顔に変わっている。
 「ママ、いつも言ってるもん。イズミ君とは仲良くしちゃダメだって。もう家に連れてきちゃダメだって」
 「ちょ…っ、け、啓ちゃんっ」
 母親は、俄然慌てだす。けれど、けーご君の自己弁護は止まらなかった。
 「イズミ君は、パパが誰だか分からないような子だから、危ないって言われたんだもん。イズミ君の家に行ってもダメなんだって。イズミ君のママがフシダラだからって。…そうだ、ママ、フシダラってなぁに?」
 「け、啓ちゃんっ!!!」
 真っ赤な顔になった母親が、けーご君の口を後ろから手で塞ぐ。そんな親子を見る牧師と舞の目は、なんとも白けたものになっていた。
 「…オレ、母ちゃんのこと、ふしだらなんて言われて、許せなかった」
 1人だけ、白けた目にならなかったイズミが、けーご君の口が封じられた代わりに、言葉を続けた。
 「だから、“謝れ”って言って、けーご君突き飛ばしたんだ。…母ちゃん、オレ、怒っちゃいけなかった?」
 イズミの形の良い眉が、心配そうにひそめられる。こういう時のイズミは、たった7歳とは思えない位に大人っぽい表情をする。くすっと笑った舞は、イズミの頬に手を添えた。
 「―――バカね。怒るのは当然よ」
 「ほんと?」
 「うん。イズミは、間違ってない。けーご君が悪いことをしたんだから、謝らせるのは当たり前のことよ。ただ―――謝らせるために、突き飛ばしたり殴ったりするのは、間違い。だから、イズミもけーご君に謝らなくちゃいけないの」
 「オレ、もう謝ったもん」
 「え?」
 不愉快そうなイズミの声は、嘘を言っているようには見えなかった。驚いて舞が牧師を見上げると、牧師は困ったような笑みを返してきた。
 「ええ。イズミ君は、もう謝りましたよ。啓吾君は泣くばかりで何も言わないし、イズミ君はただ“ごめんね”としか言わないので―――それで、わたしも仲裁に入れなかったんです。そこにちょうど啓吾君のお母さんが迎えに来てしまわれて…まあ、状況を見たら、イズミ君が啓吾君を苛めているように見えても仕方なかったんでしょうね」
 「…だったら、イズミは全然悪くないじゃないの」
 「す、すみませんっ」
 呆れ果てた舞の言葉に、まだけーご君の口を塞いでいた母親が、慌てて頭を下げた。その勢いで、けーご君の頭も一緒に下がる。
 「すみません、こ、この子、私が言ったことを変な風に―――も、もうっ! 啓ちゃん! もっと頭下げなさいっ! ママに恥かかせて、ほんとに…っ!」
 けーご君の頭が、ますます下がる。膝にくっつきそうな位に。
 ―――子供も自己弁護に必死だったけど…。
 この母にしてこの子あり、ということか。7歳の子供に、何をどう変な風に解釈ができるというのだ。舞の気持ちは、ますます白けていった。
 「朝倉さん、もうイズミ君を連れて帰ってもいいですよ。イズミ君はもう啓吾君に謝りましたし―――啓吾君は、何故自分が謝らなきゃいけないのかを理解しないと、謝れないと思いますからね」
 苦笑した牧師が、舞とイズミを交互に見ながら、そう言ってくれた。確かに「ボク悪くないもん」状態のけーご君に、けーご君が発した言葉が何故侮辱に当たるのかを理解させるのは、到底無理だろう。
 「…分かりました。お手数おかけしました」
 舞がペコリと頭を下げると、イズミもちょこんと頭を下げ、木製のベンチから飛び降りるようにして立ち上がった。
 傍らに置いていたランドセルを背負い、絵本らしきものを小脇に抱えると、イズミはちょっと心配そうな顔で、まだ頭を無理矢理下げられたままのけーご君を振り返った。けれど、けーご君がまだ顔を上げさせてもらえないらしいと悟ったのか、残念そうに肩を落として舞の手を握った。

 「お母さん。人間の魂に貴賎はありませんよ。どの国に生まれようと、どんな風に生まれようと―――魂は、みんな平等です。そのことを、まずはお子さんよりあなたが学ばなくてはいけませんね」

 教会を出て行く時、背後で、そんな牧師の言葉が聞こえた。どうやら、けーご君の母親にお説教をしているらしい。
 「母ちゃん。平等って?」
 こっそり訊くイズミに、舞は、少し考えた末、答えた。
 「イズミもけーご君も、誰とでもお友達になっていいんだよ、って意味」
 それを聞いて、イズミは心底ホッとしたような顔をした。


***


 まだ早い時間だから、ちょっと海の方を回っていこうか、ということになった。
 イズミは、喧嘩のことなんか忘れたみたいに、上機嫌で舞と手を繋いで歩いている。海風にあおられた髪の一部が、西日を浴びて見事な金に光っていた。
 イズミの頭は、全体が明るい茶色をしていて、所々金色のメッシュが入っている。その配分が結構オシャレなので、初めて見た人は大抵、この頭は染めているか脱色しているんだ、と思うらしい。が、実際には地毛だ。赤ちゃんの時からこんな2色の頭をしている。
 ―――こんな頭の奴、いたかなぁ…。
 これまで何度も考えてきたことを、また思う。
 イズミの父親候補の数は、舞自身ですらはっきりとは把握していない。けーご君の母が“ふしだら”と称するのも無理がないほどに、イズミを身籠った頃の舞は、呆れるほどの人数と関係を結んでいたから。
 知り合いもいたし、その中には舞の妊娠を知って「まさか俺の子か!?」と慌てふためいている者もいたが、そうした中に、こんな不可思議な髪をした男は誰もいなかった。その時1度きりの相手も何人かいたが、その中にも、こうした特色を持った男はいなかったように思う。いれば、強烈に覚えている筈だから。
 隔世遺伝なのかな、と思う。だとしても、これは舞からの遺伝ではない。イズミの一番の特徴を、どこの誰だか分からない父親から受け継がれてしまったのは、ちょっと悔しい。この子はあたしの子なのに―――あたしだけの子供なのに、と。


 「前、にーちゃんと釣りしに来たのって、あそこの堤防だよ」
 堤防で釣竿を垂れている子供の姿を遠くに見ながら、イズミが、どことなく自慢するような口調でそう言った。
 “にーちゃん”とは、イズミの面倒を時々見てくれた、舞の後輩のことだ。4年前、大学進学で東京に行ってしまったのだが、男親のいないイズミは彼にもの凄く懐いていたのだ。時には、舞ですら嫉妬を覚えてしまうほどに。
 成長してきたイズミが、自分のことを“オレ”と言うようになったのも、信望して止まない“にーちゃん”が自らを“俺”と言っていた影響だろう。もっとも、舞を“母ちゃん”と呼ぶようになったのは保育園のお友達の影響だから、“にーちゃん”に限らず誰にでも影響を受けやすい子供なのかもしれないが。

 「あ、そうだ。…なあ、母ちゃん。オレ、どうしよう」
 ふいに顔を上げたイズミは、少し悲しそうな顔で舞を見つめた。
 「どうしよう、って?」
 「この前、先生に言われたんだ。オレって、母ちゃんと結婚できないんだって」
 「……」
 できると思ってたの? という言葉は、辛うじて飲み込んだ。そういえば―――いつ頃からか、イズミはよく「僕、大きくなったら、ママをお嫁さんにするからね」と真剣な面持ちで言っていたっけ。
 「まあ…できないんじゃ、しょうがないわよね」
 「しょうがないなんて、ヤダよ。にーちゃんが東京行っちゃった時、決めたんだから。オレが母ちゃんと結婚するんだ! って」
 「どうして、そんなこと決心したの?」
 「…だって…」
 口を尖らせたイズミは、そう言って、アスファルトの上の小石を蹴った。
 「にーちゃん以外の男の人って、みんな、母ちゃんを見る時の目が凄く嫌な感じだから。あんなのが母ちゃんの“いい人”になるなんて、絶対やだ」
 「…イズミ。そういう言葉、やめようね」
 「どれ?」
 「“いい人”。せめて“恋人”位にしておきなさい」
 イズミは、育った環境のせいで、異常に耳年増になっている。大体、“ふしだら”の意味を“侮辱された”と言ってキレてしまうほどに理解していること自体、7歳としては少々行き過ぎだ。
 でも、イズミの言うことは、なんとなく分かる。嫌な感じ、とは“下心まるだしの目”なのだろう。“にーちゃん”は別として、イズミと面識のある男の大半が、事実、舞に下心を持っていたから。
 「だからね、あんな奴らに母ちゃんとられる位なら、オレが母ちゃんと結婚してやれ! と思ったんだ。そうすれば、母ちゃんとずーっと一緒にいられるし、変な奴らから母ちゃんを守ってあげられるしっ」
 そう言いきったイズミは、もの凄く真面目な顔で舞を見上げた。
 「なのに、先生は“親子は結婚できない”って言うし。どうしよう…どっか別の国行けば、できるようになるかなぁ」
 本気で困った顔のイズミに、舞は堪えられずに吹き出してしまった。


 舞を侮辱されたから許せなかった、というイズミ。
 舞と一緒にいて舞を守るために、親子が結婚できる国を探しているイズミ。
 “魂に貴賎はありません”―――牧師の言う通りだ。
 舞のためだけに存在してくれている、幸福の塊みたいな魂―――父親が分からなくても、思いがけない形で命を授かってしまった子供であっても、そんなことは関係ない。舞から見たら、イズミより綺麗な魂なんて、どこにもない。

 この魂を守るためなら、きつい仕事も全然平気だったし、この子の将来のために夜学で大学を卒業してもっといい仕事に就く努力だって惜しくはない。
 舞を生かしてくれる、魂。それは、まだこんなに未熟で小さな魂だけど、世界中のどの魂より、舞にとっては尊い魂だ。


 「笑うなんて酷いや。オレ、ほんとに困ってるのに」
 「あはははは、ごめんね。うん、そうだなぁ―――イズミが大人になる頃には、親子でも結婚できるようになってるかもしれないし? それに、イズミのお嫁さんにならなくたって、お母さん、ずっとイズミの傍にいるから」
 ぷーっと膨れるイズミの頭をくしゃくしゃと撫でて、舞はそう宥めた。
 いずれ結婚できるように法律が変わる、という点には、疑わしげに眉をひそめたイズミだったが、ずっと傍にいる、という言葉には満足したらしく、えへへ、と照れたように笑った。


 再び手を繋いで歩き出す。
 こうやって散歩をすることなんて、大学の夜学が4年目に入ってからは、忙しすぎてほとんどなかった。よほど嬉しいのか、イズミは、膝小僧に怪我をしているにもかかわらず、まるでスキップするような足取りで歩いている。
 「…あら。イズミ、その絵本、うちにある絵本じゃないじゃない。どうしたの?」
 ふと、イズミが抱えている絵本の表紙に目をとめた舞は、少し背を屈めて、その表紙を覗き込むようにした。
 「うん。さっき、牧師の先生にもらった」
 「牧師様がくれたの?」
 「前から、凄く好きだったから。オレがけーご君に謝ったから、えらかったね、ってくれたんだ」
 「へーえ…どんな絵本なの? ちょっと見せて」
 「いいよ」
 足を止めたイズミは、よいしょ、と絵本を手に持ち直し、舞の方に向けた。そのタイトルは、意外なものだった。
 「聖書ものがたり?」
 「イエス様のことが書いてあるんだって。漢字が多くて、あんまり読めないけど」
 牧師がくれた、という点では、確かに妥当な絵本なのかもしれないが―――こんなものにイズミが興味を示すほど、朝倉家は信心深くはない。イズミがこれを好きだったというのは意外だし、しかもそれを牧師がわざわざイズミにプレゼントしてくれたのも意外だった。
 「どうしてこれが好きなの?」
 思わず訊ねると、イズミはまた、少し照れたように、えへへ、と笑った。
 「母ちゃんそっくりな人がいるんだ」
 「え?」
 「ほら」
 そう言うとイズミは、絵本を2ページほどめくり、舞に見せた。
 「この人」
 「……」

 イズミが指差したのは―――馬小屋で、生まれたばかりのイエス・キリストを抱いて幸せそうに微笑んでいる、マリア様だった。
 こんな清らかな顔はしていない、と舞自身は思うのだが…確かに、輪郭や口元や、伏せた時の目の感じは、どことなく共通したものがある気がする。

 「オレ、この人がイエス様のお父さんなの? って牧師の先生に訊いたんだ」
 そう言ってイズミが指し示したのは、母子の傍らに膝まづき、イエスの顔を覗き込むようにしているヨセフだった。
 「そしたら先生、違うって。この人はお父さんじゃないんだって。じゃあ、イエス様のお父さんはどこにいるの、って訊いたら―――いないんだよ、って教えてくれたんだ」
 「いない?」
 「イエス様には、お母さんしかいないんだって。神様が、マリア様にイエス様を授けたんだって。オレと母ちゃんも同じだよ、って、先生言ってた。だからオレ、この絵が大好きなんだ」
 「―――そう…」

 聖職者として、処女で聖霊の力によってイエスを宿したマリアと、不特定多数の男と関係を重ねた末にイズミを身籠った自分とを同列に扱うのは、どうかと思う。
 けれど―――素直に、嬉しかった。
 父親がいなくてもいいのだと―――イズミは舞だけの子供、神様が舞だけに与えてくれた子供だと、そう思えばそれでいいのだと、いつも誰かに言って欲しかったから。
 イズミにも、世間にも、けーご君のお母さんにも、どこか後ろめたさが常にあったけれど。
 構わないんだ―――イズミの家族が、“お母さん”だけでも。

 「…ありがと、イズミ。マリア様に似てるなんて、嬉しいわ」
 舞は、そう言って絵本を閉じてイズミに渡すと、いたずらっぽくクスッと笑った。
 「でも、イズミ? お母さん、あんなに太ってるかなぁ?」
 「えっ」
 全体にふっくらしていたマリア像を思い浮かべたのか、イズミの顔が「しまった」という顔になった。最近舞が、以前よりウエストがちょっと太くなったことを気にしているのを、イズミも知っているから。
 絵本を抱きかかえると、イズミは必死に首を横に振った。それこそ、首がもげてしまうのではないか、という勢いで。
 「ス、スタイルは母ちゃんの方がずーっとずーっと何倍も上! 顔だって、母ちゃんの方が少し美人だしっ。ホントだよ、ホントだからっ!」
 「ふふふふ、ありがとう。じゃあ、褒めてくれたお礼に、今晩はイズミの大好物のハヤシライスね」


 やった! と嬉しそうに言ってスキップするイズミの笑顔は、世界中の幸せをぎゅっと詰め込んだような笑顔だった。

 そんなイズミを見下ろす舞の笑顔も―――絵本の中のマリア様に負けない位、幸せそうな笑顔だった。


90000番ゲットのneiさんのリクエストにおこたえした1作です。
リクは「舞とイズミのほのぼの話」。一応、「Step Beat」をお読みじゃない人でも読めるように、ある程度説明を加えてみたつもりですが…大丈夫かな(^^;
「Step Beat COMPLEX」第24話既読の方だと、聖書のくだりで、何か引っかかるものを感じるかもしれません。ふふふ。
関連するお話:「Step Beat」シリーズ(「Presents」外)


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