Psychedelic Note | size: M / L / under800x600 | |
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ひとり、取り残されたベッドは、とても冷たかった。
「―――行けばいいわ」
行かないでよ。
その言葉をぐっと飲み込んで、そう言い捨てる。どんなことがあろうと、最後のプライドだけは捨てたくない。でなければ、明日から生きていくことが出来ない。
素肌に纏ったシャツの胸元を握り締め、背を向ける。どんな顔をあいつがしようとも、私は絶対、見ない。
「さっさと、出てって」
きっちりとスーツを着込んだあいつの目に、私はどう映っているだろう。
「言われなくても、出て行くさ」
返ってきた声は、真冬の海に張る氷よりも、ずっとずっと冷たかった。
***
一つの恋が終わったからといって、時間は止まってはくれない。
一晩泣いて、目が覚めれば、またいつもの日常が巡ってくる。
昨日までの残り香を全部そぎ落とすつもりでシャワーを浴び、泣きすぎて腫れてしまった目を無理矢理冷やし、それで何ともならない部分は、メイクで誤魔化す。こういう時、女で良かったなと思う。女は化けることが出来る―――男は、どうやって泣き明かした目を誤魔化すのだろう?
暗い色だけは、選ぶまい。そう思って、淡い色のスーツを選ぶ。が…鏡を見て、やめた。そこに映るのは、間もなく30歳の誕生日を迎える、自分―――去年、短大を卒業したばかりのあの子が好むような色を着て、比較されるのは嫌だ。結局、着慣れたチャコールグレーのスーツを選んだ。
…そう。今日も、いつも通りの1日が始まるだけ。
そして、それが、明日もあさってもその次も、延々と続くだけ―――時間は、止まってはくれない。
「相原さん! あの、ほんとにお世話になりました」
誰よりも先に、彼女は私のところに飛んできた。
描きかけのデザイン画から目を離し、彼女の方に目を向ける。そこに、今朝選びそうになった淡いベージュピンクを見つけ、着てこなくて良かったと胸を撫で下ろした。柔らかなパステルカラーの上に乗っかった、これまた柔らかな笑顔に、私も最大限「優しくて頼りになる先輩」の笑顔を返す。
「おめでとう。仕事が忙しくて、ちょっとお式には出られないけど、お幸せにね」
「ありがとうございます。本当は私、相原さんみたいなデザイナーになるのが夢だったんですけど…」
「あはは、仕方ないわねぇ、こればっかりは、神様からの命令だもの。大切になさい。仕事よりそっちの方がよほど大事よ」
「…そうですよね」
顔を赤らめる彼女は、そう言って自分のおなかの辺りを見下ろした。無意識の動作なのだろう。けれど、今の私にはただイライラさせられるだけだ。
「他にもたくさん、挨拶すべきところはあるんでしょ? 最後の仕事だと思って、早く行ってらっしゃい」
「はい。じゃ…失礼します」
追い払われたなんて露とも思わず、彼女は深々と頭を下げて、上司への挨拶まわりに向かった。やっと、肩から力が抜ける。
一番、可愛がっていた、新人デザイナー。
一番、頼りにされ慕われていた、ベテランデザイナー。
それだけの関係で終わってくれれば、私だって心からの笑顔で送り出せたのに―――。
「相原、これ、頼む」
背後から近づいた影が、書類を1部、落としていく。チラリと目を向けると、新しいコレクションの企画書だった。
「明日10時から、会議だ。同期の俺が企画するんだから、いいもん作ってくれよ」
「―――私の仕事に、今まで間違いなんて一度でもあった?」
顔も上げずにそう言い放つと、影がすっと身を屈め、耳元に囁いた。
「…あいつに、余計な事、言わなかっただろうな?」
「……」
―――勝手な奴。
10近く年下の子に、酔った勢いで手を出した挙句、そのまま泥沼に嵌ってこのザマ。よく平然とそこに立ってられるわね。彼女の妊娠がわかった時のあんたの真っ青になった顔、デジカメで撮っとけばよかったわ。きっと彼女の前では、あんな顔、かけらも見せなかったんだろうから。
「…言う訳、ないでしょ」
背後の男を仰ぎ見、眉を上げた。
「あんたの本性知らせたら、あの子が可哀想だもの」
***
「あの…」
声をかけられ、思わず顔を上げてしまった。
―――まずった…。
相手の、驚いたような顔を見て、初めて自分の失態に気づく。慌てて手の甲で涙を拭い、ちょっと顔を背けた。
「…ごめんなさい。ナンパなら、他を当たって」
カウンターの上の、ほとんど手をつけてなかったマティーニのグラスを手に取り、一気に飲み干した。
「―――いや、別に、ナンパのつもりじゃなかったんだけどな」
声を掛けてきた男は、ちょっと困ったような顔でそう言い、私の隣に腰を下ろした。
「知り合いに似てたんで、声をかけただけだよ」
…呆れる。なんて、ありきたりな口実―――ナンパ目的なのが見え透いてる。
今晩の私は、ちょっと普通じゃない。それに、バーで声をかけられるのなんて、1年ぶり位だ。無視して終わりにすればいいのに、普段なら持たない好奇心を、突然声をかけてきた奴に抱いてしまう。
もう一度涙を拭ってから、背けた顔を相手に向け直すと、わざとらしい位の笑みを浮かべてみせた。
「どう? お知り合いと似てるかしら」
「……」
彼は、まじまじと私の顔を見つめた。本気で、知り合いの面影を私の顔の中に求めてるみたいに。が、やがて、少し首を捻ると、眉間に皺を寄せて、溜め息をついた。
「どうなんだろう。微妙な感じだな」
「…何よ、それ」
「顔はなんとなく似てるけど―――こんな風に、男を挑発してくるような人じゃなかったからな、彼女は。…ごめん、邪魔したね」
あっさりとそう言うと、彼は本当に席を立ち、他の席へと移ろうとしてしまった。
―――え…ちょっと、本当にナンパ目的じゃなかったの?
決めてかかってただけに、ちょっと焦る。気づくと私は、彼の背広の裾を、本能的に掴んでいた。
「待ってよ」
…何、初対面の奴を引き止めてるんだろ、私ったら。
けど―――こんな日があっても、悪くはない。
「声をかけたついでじゃない。どこで飲んでも同じなら…隣で、飲んでかない?」
それから、じっくり、1時間。
気がつけば私は、初対面の男に向かって「こんな美人を捨てたバカで間抜けで浮気性な男」に対する愚痴を並べたてていた。
***
「なんだか悪いな。奢ってもらっちゃって」
彼は恐縮したようにそう言って、こめかみの辺りを掻いた。
「そんな事ないわよ。さんざん、私の愚痴に付き合ってくれたんだもの。この位安いもんよ」
マスターからお釣りを受け取りつつ、笑ってみせる。
そう。たかが水割りの1杯や2杯、奢るのは何ともない。そのおかげで、こうして笑う位の余裕が出来たのだから、もっと奢ってもいい位だ。
彼は、不思議な位に、人の話を聞くのが上手い男だった。
落ち着いて見えるけれど、多分、同じ位の年齢。ただ静かに「それで?」と先を促す穏やかな笑顔に、ついベラベラと余計な事まで喋ってしまった気がする。けれど―――その余計な事が、私には吐き出す必要のあったものなのだと思う。
だって、吐き出す場所がなかった。ずっと。
同じ会社。毎日顔を合わせる相手。だからこそ、仕事に影響を及ぼしたくなくて、誰にも関係を明かしてなかった―――そんな関係。あいつが何をしようと、どんな酷い仕打ちをしようと、それを吐き出す場所は、私にはなかった。
「やっと、笑ったね」
彼はそう言って、くすっと笑った。
笑うと、なんだか幼い顔になる。その顔が、どこか初恋の相手に似てる気がして、一瞬胸の奥底がくすぐられた。
「…あなた、話聞くのが上手すぎるのよ」
「慣れてるからね」
「そういうお仕事?」
「まあ、そんなとこ。もっと酷い愚痴も大量に聞いてるから、君の愚痴なんて軽いもんだよ」
…人生相談? いや、そんな訳ないか。人の愚痴を聞く仕事って何だろう? 不思議に思ったが、それ以上、彼のプライベートに踏み込む気はない。
―――ただ。
私の愚痴なんて、軽いものだと言うのなら。
もう少し、聞いて欲しい。そう思った。
日頃、誰にも言えないこと、一人で抱えていること、毎朝毎晩、私を疲れさせるいろんな“余計な事”…それを、もう少し吐き出させて欲しいと思った。
「―――ねえ、あなた、さっき飲んでた“山崎”がお気に入りよね?」
帰ろうとコートを着込んだ彼を流し見、そう訊ねる。
彼はキョトンとした顔をして、少し首を傾げるような仕草をした。
「そう、かな? いつも面倒だから、同じのを飲んでるだけなんで、よくわからないけど」
「…じゃあ、もう暫く、私の話し相手になってくれる気、ない?」
「―――え?」
目を丸くする彼に、私はなるべく強気に見えるような笑みを返した。どうかしてる―――そう思う自分を押さえつけながら。
「“山崎”を、ボトル1本、キープするわ。それを2人で飲み尽くすまで―――その期間だけ、私の話に付き合ってくれない?」
「……」
彼は、私の提案に、しばしじっと私の目を凝視した。どうやら、提案の意味を探ろうとしているようだ。
「…一晩じゃ、無理だよ? 俺、そんなに飲めないし。君もだろ?」
「そうよ。だから、ちゃんとルールを決めましょ。あなたの都合がよければ、来週の今日でいいわ」
「……」
「あ。それ以上の他意はないわよ? 私、暫く男なんて懲り懲りだもの。ただ、話を聞いてもらいたいだけ。だから、安心して」
彼の無言を、厄介な事になるのではないかという躊躇いだと解釈して、そう付け加えておいた。同じ位の年代なのだ。妻帯者だって可能性もある…指輪をしている様子はないけれど。私だって、その辺を
「別に、面倒を嫌った訳じゃないよ」
そんな私の心理を読んだのか、彼はそう言って、困ったように笑った。
「話聞くだけで、“山崎”のボトル半分も貰っちゃっていいのかな、と思っただけだよ」
「やだ、当然じゃない」
思わず、笑ってしまう。どこまでが本心かはわからないけど、重荷に感じているわけじゃない、と暗に示してくれるのがありがたかった。
「じゃあ、契約成立でいい?」
促すように訊ねると、彼は笑顔のままサラリと、
「いいよ」
と答えた。どこまでも穏やかな、クッションみたいな人―――だから、喋りたくなっちゃうんだな、と、改めて思った。
マスターに頼んで、“山崎”を1本、持ってきてもらう。ボトルキープなんて初めてで、結構ワクワクしている自分がいた。
「名前、教えあった方がいいんじゃない?」
マスターからボトルを受け取る私を見ながら、彼が言う。けれど私は、あえて首を横に振った。
「名前聞いちゃうと、変に愛着が湧いちゃうでしょ。そういうの、もう嫌なのよ」
「…なるほど」
「これは、契約よ。ボトルが空になったら、終わり―――そういう間柄なら、名前なんて無い方がいいでしょ」
小首を傾げるようにして言うと、彼は納得したように笑った。
「わかったよ。名前も知らない同士だからこそ、口に出来る愚痴もある訳だ?」
「そういうこと」
サントリー“山崎”のボトルのラベルに、サインペンで「AIHARA」と入れる。
それは、なんだか、契約成立のサインのようだった。
***
翌週の金曜日、約束の時間に店に行くと、彼は既にカウンターに座っていた。
半分、来ないかも、と思っていた。来なくても困る事はない。キープしたボトルは、1人で飲めばいいことだ。そもそも、金曜夜と決めたのは、金曜日はまっすぐ部屋に帰りたくない、ただそれだけの理由―――ボトルがキープしてあれば、ここで飲んで行くいい口実にもなる。
けれど、彼はちゃんと来ていた。
なんだか、とてつもなく、ホッとした。
「金曜日ってね、あいつが私の部屋に来る日だったのよ。先月まではね。同僚たちの目を欺いて会うのが、結構スリルがあって楽しかった―――本気で愛してたか、って改めて問い直すと、なんか違うのかもしれないわね。そういうスリルの方が優先してて…日頃の憂さを晴らすみたいに激しく求め合う方が優先してて…心はどうだったんだ、って言われると、心なんて本当にあったの? って自分でも、時々思う」
「…それでも、愛してたんじゃないの?」
「愛してた?」
「愛してたから、自分じゃない子と結婚することにショックを受けたんだろ?」
「…そうなのかな。あいつの浮気ってこれが最初じゃないのよ。でも、どうせ私の所に戻ってくる、ってたかをくくってたから…その当てが外れたから、ショックを受けたのかもしれない」
「―――それもやっぱり、愛情を裏切られたことに対するショックだろ」
「…そうね…そうかもしれない」
話すばかりで、なかなかお酒は進まなくて。
帰りに見てみると、ボトルは4分の1ほどしか、減っていなかった。
帰りついた家には、高校の同窓会の案内が届いていた。
なんだか、急激に、気分が滅入った。
***
「あなた、学生時代の友達と、今も付き合いある?」
「まぁ、1人か2人は、それなりにね」
「男の人は、そうなのかな―――私は駄目、全然。手紙とかメールの付き合いだけ。この年齢になるとね、友達の大半は結婚しちゃってるのよ。なんか、30までには結婚する、ってのが合言葉になってるみたいに、3、4年前からバタバタとみんな結婚し出して…子供まで出来ちゃったりするとね、もう、話も合わないの」
「そうか…女の人は、そういうのがあるかもなぁ…」
「気がついたら、誰とも疎遠になっちゃって―――会社の同僚しか、付き合える相手がいない。…つまんないわね、女って」
「男も、そういうのは、多かれ少なかれあるよ。俺の同級生も、半分位は結婚してるし」
「…同窓会とか、辛いわよね」
「ああ。そろそろ、辛いねぇ」
「出たことある?」
「あるよ。子連れで来てる奴がいて、びっくりした」
「あはは…。私、一度も出た事ないの。なんか、想像しただけで嫌。キャリアウーマンってカッコイイ、なんて口では言う癖に、心の中では密かに優越感に浸る、そんな連中、見たくもない」
「…怖いな」
「憐れまれる位なら、存在を忘れられた方がマシよ。私は好きで今の仕事をしてるのに―――なんでみんな、結婚を“勝利”みたいに言うのかしら」
「…それは、お互い様なんじゃないかな」
「え?」
「同じ年なのに、もう選択の余地がない立場と、まだどんな未来でも選択できる立場―――適齢期を逃さず結婚できた、って満足感に浸りつつも、羨ましい部分があるんじゃない? 自分が経験してないような恋を経験できる可能性がまだ残ってる君が」
「……」
「君が“憐れまれた”と感じる瞬間があるように、相手も君の話を“羨ましい”と感じる瞬間があると思うよ」
「―――あなたって、ほんと、人生相談員になれそうね」
―――羨ましい、か。
私、羨ましかったんだろうか。結婚した友達が。
口では「仕事が命」みたいな事言いながら、どこかで羨ましいと思う部分があったから…だから、彼女たちと余計、疎遠になってたのかな。
そして彼女たちも―――「やっぱり結婚して安定した家庭を築くのが女の幸せよ」と口では言いながら…どこかで私を羨ましがってた?
―――そうかも、しれない。人間なんて、そうやって、どこかで自分と相手を比較して、優越感と劣等感を同時に感じながら、生きてるのかもしれない。…私に限らず、誰もが。
2度目の金曜日。ボトルは、ほぼ半分まで減っていた。
***
3度目の金曜日、店に向かおうと会社を出た私を、思いがけない人が待っていた。
「…あ…、久しぶりね。どうしたの?」
寿退社して、もう3週間。何故この子が、自社ビルのエントランスに立っているのか―――考えをめぐらせ、当たり前な事に思い当たって、思わず苦笑した。
「ああ、なんだ。あいつを待ってるのね。会社帰りにデート?」
「い、いえ、あの―――私、相原さんを待ってたんです」
「? 私を?」
彼女は、なんだか落ち着かない表情で、視線をあちこちに彷徨わせていた。が、やがて、意を決したように私に向き直ると、バッ、と頭を下げた。
「―――すみません…っ!」
「…は?」
眉をひそめてしまう。なんでこの子が私に謝るのか、全然意味がわからない。
「何、すみません、って」
「わ…っ、私っ、やっぱりこのまま黙って結婚するの、気が重くて…どうしても相原さんには謝っておかなきゃって、それで、気がついたらここに…」
―――まさか。
あいつが、喋ったの? 私達の関係。
彼女には何も言わないでおこう、それが約束だった筈だ。可愛がってた後輩だし、今お腹にいる命を考えれば、余計なことなど耳に入れたくなかった。だからこそ、あれほど苦しい思いをしつつも、全てを己の中に飲み込んだ。せり上がる嫉妬心も、何もかも。
「あ、あの…」
なんとかフォローしようと口を開いた私は、次の彼女のセリフに、打ちのめされることになる。
「私―――知ってたんですっ、彼と、相原さんの関係」
―――え?
頭が、真っ白になる。
知ってたって…知ってたって、それは…。
「い…いつから?」
乾いた声が、喉を焼く。彼女は一向に頭を上げようとしない。
「…さ…最初から…です」
「―――…」
「入社した時から、気づいてました。けど、どうしても彼のこと、諦められなくて―――わ、私、相原さんより才能ないし、相原さんみたいに美人じゃないし…でも、どうしても、彼のことだけは、負けたくなかったんです。中身や才能や顔では勝てなくても、若さなら負けないかもしれない…そう思って、私から、彼に…」
…もう、やめて。
何も、聞きたくない。
「でっ、でも、よく考えたら、なんて酷いことを、って―――相原さん、彼と結婚を考えてたんですよね、きっと。当然ですよね、そんなの。ちょっと考えたらわかる事なのに、私ったら…」
―――何が当然なのよ。
考えてもみなかったわよ、一度だって。あいつと結婚なんて。なのに、何が当然なのよ。何が“酷いこと”なのよ。
つまり、こう言いたい訳?
“私と違って、相原さんはもう若くないのに、結婚相手になる筈の男を寝取ってしまって、ごめんなさい”―――そういう事?
憤りが、収まらなかった。
彼女には、何も言わなかった。許すとも、許さないとも。
口を開けば、嫌な言葉ばかり出てきてしまいそうで―――ただ黙って、いまだ頭を下げ続ける彼女の前を立ち去ることしか、出来なかった。
その夜のお酒は、言葉にならなかった。
ずっと、カウンターに顔を伏せたまま、泣き続けた。憐れまれた、蔑まれた、そういう思いから、涙しか出てこなかった。そんな私の隣で、彼は黙って、“山崎”の水割りを飲み続けていた。
ただ、隣に、黙って座っているだけ―――その存在に、少しだけ、救われた気がした。
3度目の金曜日。
何も話をしないまま、ボトルの残りは、あと4分の1になっていた。
***
「私ってねぇ、初恋、遅かったのよ」
4度目の金曜日、なんとなく、そんな事を口にした。明日、高校の同窓会があるからかもしれない。
「へぇ? いつ?」
「高校3年生」
途端、隣に座る彼が、ウイスキーをふき出しそうになって、むせた。
「…そんなに驚く?」
ゲホゲホと咳き込みながら、半ば目に涙を溜めている彼を、ちょっと呆れたように見てしまう。いや、確かに遅いとは思うけど、そこまで驚くような話だろうか。
「い、いや、ごめん…。いいよ、続きは?」
「続き?」
「だからその、初恋の話」
―――別に、初恋の話はするつもりじゃなかったけれど…。
でも、なんとなく話してみたい気になった。水割りを一口飲み、ほっと息をつく。
「同じクラスの、一番頭の良かった男の子でね。物静かで、大人びてて、憧れてる子が何人もいたのよ。私も、その中の一人。でも、受験生だし、告白するなんて勇気、全然なくて―――ただ見てるだけで終わった初恋だけどね」
「…へーえ。なかなか、純情だったんだな」
「純情…そうね。彼の借りた本を追って借りてみたりして、結構“恋する乙女”してたわね。結局、私は服飾専門学校へ、彼は弁護士目指して一流の大学へ…全然、違う道を歩んじゃったから、片思いのままだったけど…」
ただ見てるだけの、恋。
―――いつから、そんな恋が出来なくなってしまったんだろう。
どうして人って、純粋な恋心だけで、恋愛が出来なくなってしまうんだろう。
見つめていたい、声を聞いていたい―――そんな気持ちだけで人を好きになれたのは、あれが最後かもしれない。切なかったけど、苦しかったけど、あんな純粋な気持ちに、戻れるのなら戻りたい。
時間は、止まってはくれない―――日々を必死に生きていく中で、いつの間にか、要らないものが蓄積されて、純粋だった心を曇らせる。見栄、欲、打算、そんなものが入り込んで、ただ真っ直ぐにその人を愛する気持ちを、醜いものに歪めてしまう。
もっと、穏やかに、人を愛したい。
スリルを楽しむとか、肌を合わせて慰めあうとか、そういうんじゃなく―――ただ、愛して、愛されたい。心から。
なんて単純な欲求。…でも、それが、一番難しい。
「…俺もね、初恋は、高校だったよ」
ふいに、彼がそんな事を言った。
落ち込み加減だった思考が、ふっと現実に戻る。隣の彼を見ると、ちょっと照れたような笑みを浮かべていた。珍しい…こんな笑い方も、自分の方から自分の話をこんな風に言ってくるのも。
「俺も結構気弱だったからね。やっぱり、何も言えなかった。見てるだけの恋だったなぁ…」
「…ふーん。そうなの」
「その後、何度か恋はしたけど―――あんな風に純粋に誰かを好きになる気持ち、もう持てないのかな、と思うと、ちょっと寂しいよな」
「…そうね。今、同じ事考えてた」
誰もが、そんな事を考えるのかもしれない。恋に疲れた時。
今目の前にいる彼だって、穏やかな顔して人の話を聞いてるけど、同じ位の年代だってことは、それなりの恋や愛を経験してきているだろう。案外、私が経験したものよりも、もっと汚い恋愛も経験したかも―――いつも見せる笑顔から、そんな彼は到底想像できないけれど。
それから暫くは、黙って、それぞれのグラスを口に運んでいた。
と、急に彼が、ポツリと呟くように告げてきた。
「―――高校の同窓会、行くかどうか迷ってる、って言ってたけど…行けば?」
唐突な言葉に、ちょっと目を丸くする。
「え?」
「だって、会えるかもしれないだろ? その、初恋の相手に」
さらっと言われた言葉に、心が動いた。
「…そうね。それも、悪くないわね…」
数日前、幹事の子に電話した時のことが、頭に浮かぶ。
『世良君? 司法試験3回落ちて、やっと去年、弁護士になったみたい。去年の同窓会にも来てたわよ。相原、あいつの事好きだったでしょ? まだ独身みたいだからチャンスよ。絶対来なさいよ、同窓会』
幹事の子の一言に、自分の初恋を穢されたような気分の悪さを感じた。絶対行くもんか、とその時思った。
けど。
―――…頑張ってるんだな、世良君。
司法試験に落ち続けた事も、晴れて弁護士になった事も、全然知らなかった。
お祝いしてあげたいな―――そんな気持ちが、生まれた。そのことに、なんだか不思議な感動を覚えた。
だって、今生まれた気持ちは、何の欲も計算も介在しない、素直で純粋な気持ちで。
もう二度と持てないと思ったような、あの高校生の頃と同じ、穏やかな愛情で。
なんだ。まだ私にも、そういう純粋な部分は残ってたのか―――そう思ったら、何故か、泣きたい位に嬉しくなった。
ふと見ると、私のグラスも、彼のグラスも、ちょうど空になっていた。
時計を見ると、大体いつも店を後にする時間。そろそろ帰ろうかな―――そう思って、何気なくキープしていたボトルに目を移した次の瞬間。
心臓が、ドキン、と音を立てた。
カウンターの上のボトルの中身は、残りちょうど1杯になっていたから。
***
「―――契約終了ね」
店のドアがパタン、と閉じると同時に、そう呟いた。その声は、自分でもちょっと情けない位、掠れている。
自分から提案した契約だ。
ボトルが空になるまで…それが、約束。それで終わる関係だからこそ、人に言えない話も出来たし、涙を見せる事も出来た。もう少し、話を聞いて欲しい―――その欲求は、ちゃんと満たされたのだから、満足しなくてはいけない。
残り全部、飲んでいいわよ、と私が言うと、彼は恐縮して、結局2人で残りをきっちり二等分して水割りにした。…それで、おしまい。
「…どう? 少しは、元気になれた?」
彼が、いつも通りの穏やかな笑顔で、そう訊ねてくる。
いつも通り―――当然だ。だって、彼が、毎週金曜日にこの店に来てくれたのは、それが「契約」だからだもの。
“山崎”のボトルキープと引き換えにした、金曜日の夜だけの話し相手。…契約が終了したからといって、特別な感慨などある筈もない。終わってしまった契約に、酷く動揺している私の方がおかしいんだ。
―――あいつが部屋に来る金曜日以上に、名も知らぬこの人と静かに過ごす金曜日が、待ち遠しかった。
柔らかなクッションに身を委ねるような金曜日は、傷ついた心を癒してくれる以上の存在だった。甘美過ぎて、逃れられない位―――これは契約だ、恋愛じゃない、って頭ではわかっていても、ふとした瞬間にそれを忘れる位。
もう、男は懲り懲り。だから、名前は聞かない―――変に愛着が湧くのは、嫌だから。そう言ったのは、私。でも…愛着が湧くのに、肩書きや名前は関係ない。そんな事に、今気づいた。
ただ、そこにいるだけで、愛着は生まれてしまうんだ。
この人を、困らせたくない。
ちょっと唇を噛み、顔を上げる。上手く笑える自信はないので、微かに笑う程度に留めておいた。
「―――…ん、ありがとう。なんか、悪かったわね。報酬以上の事、してもらった気がするわ」
「そう?」
「同窓会に行こうって気になるとこまで、精神的に復活できたもの」
「そりゃ、良かった」
ふわり、と笑うと、彼は右手を差し出してきた。
「―――会えるといいな。初恋の相手」
「…そうね」
笑おう。最後位。
涙で始まった契約ならば、最後位は、笑顔で締めくくりたい。
最大限の努力で笑顔を作り、差し出された右手を握る。考えてみたら、彼と接触を持つのは、これが最初で最後だ。
「ありがとう―――元気でね」
「ああ―――君も、元気で」
“ただ、穏やかに、愛したい”。
そう思った時、頭を掠めた姿が、自分を捨てたあいつでも初恋の相手でもなく、目の前にいるこの人だったこと。
…そんな事に、今気づいた。
でも、私は、どうする事も出来なかった。
これは、契約―――恋だと気づいた時には、もう彼は、踵を返して、私が帰るのとは反対方向へと歩き去っていた。
自宅までの帰り道、激しい自己嫌悪に陥った。
もし、もう少し早く、自分の気持ちに気づいていれば―――そんな事が頭を掠めるけど、今更どうする事もできない。彼にとっても迷惑だろう。彼からすれば、当初の私がそうであったように、これはただの契約で、恋愛などではなかったのだから。
「―――あーあ…、馬鹿なヤツ…」
なんて、馬鹿な、私。
恋に気づく前に、恋が終わってたなんて。
―――でも。
一つの恋が終わったからといって、時間は止まってはくれない。
***
翌日の同窓会。
会場に、その姿を見つけた時。
―――やられた…。
それが、私がその瞬間に思ったことだった。
24時間前に見たのと同じスーツを着た、24時間前に見たのと同じ、笑顔。その笑顔を真正面から見て、私はまた自分の鈍感さ加減に呆れてしまった。
やっと、思い出した。
彼は、知り合いに似ている、と言って私に声をかけてきたのだという事。
そして、初対面の時、一瞬胸の奥をくすぐられた、彼の笑顔―――それは、初恋の相手を思い出させる笑顔だった、という事。
ヒントはいくらでも散りばめられていたのに、すっかり気づかずにいた。
「…久しぶり、相原さん」
24時間前に別れた男は、あっさりと私の名前を口にした。
―――そう言えば私、この人の目の前で、ボトルにサイン入れてたのよね。
ということは―――ずっと、気づいてて、黙ってたってこと!?
「せ…世良君…っ!」
24時間前まで名無しの権兵衛だった男を、懐かしい名前で呼ぶ。すると彼は、くすっと笑って、軽く首を傾げてみせた。
「はい?」
「ちょっ…ちょっと、こんなの―――あまりにも酷くない?」
「酷いかなぁ? 俺の方が、よっぽど酷い目に遭ってたと思うけど」
楽しげに笑う彼に、言葉がもう出てこない。パニックと憤りと恥ずかしさと―――その他もろもろ、いろんな感情が混ぜこぜになって、無意識のうちに体が震えてくる。
「つきましては―――今度は俺の方から、契約提案させてもらっていいかな」
まだパニック状態の私をよそに、彼はにっこりと笑うと、背後のテーブルに置いていた何かを手に取った。
「計5回も一緒に飲んだっていうのに、とうとう最後まで俺が誰なのか気づかずにいた、超鈍感な俺の初恋の相手の事―――このボトルが空になるまで、存分に愚痴らせてくれない?」
そう言って、彼が私の目の前に突きつけたのは、ラベルに「世良」とサインされた、“山崎”のボトルだった。
8000番ゲットのSeekさんのリクエストにおこたえした1作です。
ご希望は「スパイシーでワインレッドな感じ」。あえて設定はフリー。わざわざ「変なリクですみません」とメールいただきました(笑)
はー。なんか、久々に普通な社会人ものに戻れたなぁ。(学生設定多かったから) スパイシーでワインレッドな感じになってるでしょうか。
世良、結構策士と見ました。でも、それ以上に策士なのって、相原さんから彼氏を奪い取った新人かもしれません(^^;
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