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契約更新 ―契約恋愛2―

 

 カウンターの上に置かれたボトルを一瞥して、思ったこと。

 「…ねぇ」
 「うん?」
 「なんだか、全然減ってない気がするんだけど。私の記憶違い?」
 冷やかな声で訊ねる。けれど、隣の席に既に腰掛けている男は、少しも動揺を見せない。いつもの楽しげな余裕の笑みを浮かべて、頬杖をつく。
 「人間の記憶なんて、あやふやだからね」
 「…よく言うわ」
 「君が俺に気づかなかったのが、いい例だろ?」
 ぐ、と、言葉に詰まる。…それを出されると、かなり、弱い。
 「ま、とりあえず、座ったら?」
 ―――食えないヤツ…。
 歯噛みしながらも、素直に彼の勧めに応じ、彼の隣に腰を下ろした。


***


 私の隣で、機嫌よく“山崎”をロックで飲んでいる男は、名前を世良能和(よしかず)という。
 こいつの名前を、私は2週間前、初めて知った。
 けれど私は、世良能和という男を、実は高校生の頃から知っていた。
 なんでそんな訳の分からないことになったのか―――それは全て、約2ヵ月前の出会いが原因。

 腐れ縁で繋がっていた男に捨てられて、ヤケ酒を飲みながら泣いてた私に、この男は声をかけてきた。知り合いに似ている―――古典的なナンパかと思ったら、違った。本当に知り合いと似ていたらしい。
 かく言うこの男も、笑った顔が私の知り合いに似ていた。知り合い―――いや、違う。高校時代好きだった人…私の初恋の相手に。
 なんだか、話しやすいムードを持った人。そのムードに促されるように、私は初対面のこいつに、自分を捨てた男の愚痴を目一杯ぶちまけてしまった。
 多分、精神的にキテしまっている状態だったのだと思う。20歳で就職してから9年間―――積もり積もった物が、行き場を失って、私の内側をボロボロに削っていた。この男は、それを癒す力を持っていた。“話を聞く”―――ただそれだけの行為で癒す力を。
 だから、契約を結んだ。
 私がボトルキープした“山崎”1本。これを2人で飲みきるまでの間、金曜日の夜にこの店で私の愚痴に付き合う、という契約を。
 もう男はこりごり。だから名前は訊かない。これは契約―――恋愛ではない。名前も素性も知らない相手だからこそ平然と愚痴ることができたのだと思う。けれど…“山崎”のボトルが空になった時、私はこいつに恋をしてしまっていた。
 自分の気持ちに気づいても、それが契約である以上、引き止める訳にもいかなくて。
 結局、名前も知らないまま、店の前で別れた。なんて馬鹿なんだろう、と自分に呆れてしまいながらの帰り道は、部屋を出て行くあいつを見送った時の何倍も寂しかった。

 でも。
 翌日出向いた高校の同窓会の出席者の中に、この男の姿を見つけた時は、嬉しさより悔しさがこみ上げてきた。
 この男が、高校時代の知り合いだったなんて―――あの初恋の相手・世良君だったなんて。しかも世良君の方は、私が誰なのか最初から気づいてたなんて。
 そんなオチ、あんまりだと思う。

 『つきましては―――今度は俺の方から、契約提案させてもらっていいかな』
 悔しさと恥ずかしさと驚きのあまり半ばパニック状態になっている私に向かって、世良君は“世良”とサインの入った“山崎”のボトルを掲げて見せた。
 『計5回も一緒に飲んだっていうのに、とうとう最後まで俺が誰なのか気づかずにいた、超鈍感な俺の初恋の相手の事―――このボトルが空になるまで、存分に愚痴らせてくれない?』

 

 「もう、頭きちゃうのよ。今は安くなきゃ売れない、だから裾のドレープを減らして布地を少しでも減らしてコストダウンしろ、だなんて。ドレープがデザインのポイントになってるのに、意味ないじゃないの」
 「不景気だから、焦ってるんだろうなぁ」

 …おかしい。
 世良君が存分に愚痴る筈が、何故私が愚痴ってるのだろう?
 いや、それ以上に、この“山崎”がおかしい。
 前回、私が持ちかけた契約の時は、ボトルキープした“山崎”1本は、金曜日を4度過ごしたら空になった。2人共、それほど飲む方ではないし、あの時無茶飲みした記憶もない。だからあれが、私達の普通のペースの筈だ。
 なのに―――世良君が持ちかけた契約に乗ってから、はや3度目の金曜日。カウンターの上にでん、と置かれた“山崎”は、まだ半分も減っていない。

 「で、一浪した結果、大久保は俺の後輩になっちゃってね。でもあいつ、高校時代からプライド高かっただろ?」
 「あはははは、確かにそうよね。世良君をいつもライバル視してたもの」

 …まぁ、こんな風に思い出話やお互いに接点のなかった10年間の話なんかもするから、その分お酒が進まないのは分かる。
 でも、それにしたってこの減り方の遅さは異常なんじゃない?
 実はこっそり、飲んだ分よりちょっと少な目の量を、後から注ぎ足したりしてるんじゃないか―――そんな疑惑すら浮上してくるけれど、仮にも弁護士という硬い職業に就いている世良君が、そんな裏工作をするとは思えない。気にはなるけど、あえてそうした疑いを口にする気にはなれない。
 それに。
 ボトルの残量が多ければ多いだけ、契約終了の瞬間は、遠くなる。
 永遠に空にならなければいい。そんなことすら、時々思ってしまう。


 私が持ちかけた契約と、世良君が持ちかけた契約には、さして違いはない。
 毎週金曜日、同じ店の、ほぼ同じカウンター席で、“山崎”と軽めの食事やおつまみで、会話を楽しむ。ほど良く酔えば、そこでお開きにして、店の前で「じゃ、また来週」と言葉を交わし、そこで別れる。それだけの関係。
 ただ、違うのは、今はお互いが何者なのかを分かっているということと―――私の方には、間違いなく恋愛感情が芽生えている、ということ。
 彼の方は、正直、分からない。彼だって私の気持ちには気づいていないかもしれない。お互いにお互いが「初恋の相手」ではあるけれど、それは過去の恋愛感情のことだ。今、相手の気持ちがどこにあるかなんて、口にしていないし態度にも出さないから、全然分からない。

 世良君は、何を思って、金曜日毎にこの店に来るのだろう。
 訊けば済むこと。こちらが想いを告げてしまえば済むこと。けれど私は、世良君に訊かないし、この想いを私から告げたりはしない。
 私が相原千夏(ちなつ)だと分かっていながら、正体を明かさずに一人ほくそえんでいた世良君を思うと、悔しくて自分から折れるなんてできない。もし世良君も私を欲しいと思っているのだとしたら、私の方から縋るなんて、まるで世良君の術中にまんまと嵌るみたいで、悔しすぎる。
 だって、こんな曖昧な関係だというのに、私はこの金曜日が、愛しくて愛しくて仕方ない。
 1週間、そのために働いているに等しい。上司に無茶を言われようが、仕事でスランプになろうが、この金曜日があると思えば、前ほど辛くはない。恋愛じゃなくてもいい。契約で構わない。そんな風に思ってしまうほどに、私は世良君との時間を必要としている。

 彼にとってこれが、ただの契約であるにせよ、恋愛であるにせよ。
 私は既に、この時間を手離せなくなっている―――悔しいけれど、それは、動かしがたい事実だ。


***


 「襟はこちらの形よね」
 「そうだなあ…縦のライン強調した方が、すっきりと首元が引き締まって見えるよね」
 「ん、OK。じゃあ、襟は重ねない方向で、もう1パターン作ってみるわ。ありがと」
 私が軽く礼を言って自分の席に戻ろうとすると、同期入社のデザイナーである彼女は、何故か意味深な笑みを浮かべて、私の肘の辺りを小突いてきた。
 「あーいはらさん」
 「…何?」
 「最近どうしたの? 何かいいことでもあった?」
 「え?」
 「このところ、表情柔らかいし、楽しそうだもの」
 自覚の無いことを指摘されて、ちょっと慌てる。“最近”、“このところ”―――きっと、この1ヶ月のことに違いない。
 「ははーん。さては男でもできたな?」
 「…やぁね。そんな訳ないでしょ」
 「分からないわよぉ? 相原さん、秘密主義だもの」
 「秘密なんて無い無い。プレゼン近いから気が張ってシャキッとしてるからなんじゃない?」
 尚も興味津々な目を向けてくる彼女を適当に誤魔化して、自分の席に戻る。机の上には、描きかけのデザインが数枚、乱雑に散りばめられていた。
 来年の春物のプレゼンが迫っていて、デザイナーはそれぞれに結構忙しい。他ブランドがどういう路線でくるかを見極めるのにはかなり神経を尖らせなければいけないし、社内の他のデザインチームの動向も気になる。プレゼンが近いからって「柔らかい表情」になる訳がない。我ながら、馬鹿な言い訳をしたものだ。

 「おい、相原」
 デザイン画に手を入れようとしているところに、憮然とした声が頭上から降って来た。
 誰の声なのかは分かるから、顔を上げず、作業を続けながら返事をした。
 「何?」
 「金曜日、空いてるか?」
 「金曜日は1日ここでデザインの最終の見直しだけど」
 「アフター5の話だよ。うちの課の連中と、横浜テキスタイルのデザイナーが6人ばかしで飲みに行くんだ。お前呼べって言われてさ」
 さすがに、手を止めた。
 見上げた先にいる男は、声同様に憮然とした顔をしていた。そのくせ、私と目が合ったら狼狽したように視線を泳がせる。
 こいつがこういう集団での飲み会に誘う時は、決まって中身は「コンパ」だ。仕事上の付き合いでもなければ、接待でもない。全く―――懲りてないというか、何というか。
 「…あんたね。妻子持ちになったってのに、まだそんな遊びしてる訳?」
 「―――まだなってねーよ。式も入籍もまだだろ」
 「え、そうだった?」
 思わず目を丸くする。元々出席する気も予定もない式だから、その日程なんて記憶から消してしまっていたから。
 「…こいつ…マジに忘れてやがる」
 「え? ああ、ごめん、忘れてたわ。なんだ、まだなの。彼女、そろそろおなか目立つんじゃないの? 貸衣装とか、ちゃんと妊婦用にしてる?」
 「…俺たちの事はどうでもいいだろ。それより、金曜、どうなんだよ」
 「ああ、アフター5は無理。予定あるから」
 「パスしろ。どうせ、どうでもいい予定だろ」
 これには、さすがにキレた。手にしていた鉛筆を机の上に転がし、ヤツを睨み上げる。社内だから、大きな声は出せない。けれど、私が感じている不快感がこいつにも伝わるよう、最高レベルにトゲトゲした声で告げた。
 「私にとって、人生最大の“どうでもいい時間”は、2ヶ月前までの毎週金曜日だと思うけど?」
 「―――…」
 「人生の墓場を前に悪あがきしたいのかもしれないけどね。婚約者ほっぽり出して遊ぶような真似、もうやめなさいよね、山上(やまがみ)
 …あ、怒った。
 眉間の皺が3本以上に増えるのは、脳内の血管がぶち切れた証拠だ。なんでこう分かりやすい顔をしてるかな、この男は。世良君のニコニコ顔の不可解さに比べたら、目の前にいるこの山上なんて、3歳児レベルの分かりやすさだ。
 ぎゅっと眉を顰めた山上は、それ以上何も言わず、私を上からひと睨みしてから自分の席へと帰って行った。その背中が「俺は機嫌が悪い」と周囲に訴えてるみたいで、ますます呆れる。安全日だと偽って見事彼をゲットした可愛い私の後輩は、彼より数十倍、したたかだ。単細胞の山上は、さぞかし操縦しやすいだろう。

 ―――なんて、つまらない男。
 スリルと快楽が大好きで、素敵なおもちゃを手に入れても、すぐにそれじゃ飽き足らなくなって別のおもちゃを欲しがる、わがままな子供。挙句に10近く年下の女の子に嵌められて、今もなおその事実に気づいていない、うかつな奴。
 …なんでこんな奴のために、涙なんて流したんだろう。そう思うと、自分に腹が立つ。
 けれど今、私は、山上に感謝している。
 彼との間のことがなければ、私はあの日、あの店で、ひとりで泣くようなことは無かっただろう。
 そして、あの日、あの店に行っていなければ、世良君とはずっと再会できなかった―――きっとそうに違いないから。


***


 「…ちょっと」
 「ん?」
 「やっぱり変よ。絶対変っ!」
 その週の金曜日。いつものように飲み食いし、帰り際に確認した“山崎”のボトルは―――まだ半分まで減っていなかった。そう、ちょうど先週の帰りに確認した時も、確かこの位残ってる状態だった気がする。
 「マスター。世良君と共謀して、何か不正を働いてるんじゃないの?」
 疑いの眼差しを向けると、すっかり顔馴染みになってしまったカウンターの向こうのマスターは、めっそうもない、という顔で首を振った。
 「酷いなぁ、相原さん。マスターを疑うなんて」
 「じゃあ、あなた? 私が見てない所で、何か細工してるんでしょう。ずるいわよ」
 「おいおい…」
 苦笑した世良君は、笑いを極力抑えてるせいで、肩が微かに震えている。高校時代のこの人って、こんな笑い方する人だったかな―――そもそも、眼鏡からコンタクトに変わってる段階で、かなり印象が違う。あの真面目でキリッとしてた世良君はどこに行っちゃったのよ。
 「相原さんは、早く“山崎”が減ればいいと思ってる訳?」
 「…ッ、だ、誰もそんな事言ってないじゃないの」
 なんだか試されているようなセリフに、心臓が鼓動を速める。永久に空にならなければいいなんて、うっかり口を滑らせる訳にはいかない。
 「それなら、全然減らない気がするのは、かえって好都合なんじゃない?」
 「…そ…それは、そうかもしれないけど。でも! なんか、気持ち悪いのが嫌なのよ。裏工作とかされてたら、面白くないし」
 「信用無いなぁ…」
 「1ヶ月騙され続けた経験がものを言うのよ」
 「―――それを言われると、なかなか辛いな」
 肩を竦めた世良君は、ふいに、ニッ、と不敵な笑い方をしたかと思うと、カウンターに置かれた“山崎”のボトルを手にして席を立った。
 「分かった。じゃあ、こうしよう」
 「え?」
 「マスター。もう1本ボトルキープするから、この飲みかけの“山崎”、家に持ち帰ってもいいかな」
 ―――は!? 何それ!?
 呆気にとられる私をよそに、世良君はマスターにさっさと話をつけてしまい、新しいボトルを1本キープするのと引き換えに、半分近くまで減った“山崎”のボトルを紙袋に入れてもらった。店のキープボトルを持ち出すなんて、いいの? と思ったけれど、この店はマスターのワンマン・バーなので、常連には結構融通を利かせているようだ。
 「じゃあ、ごちそうさま。…相原さん、とりあえず外、出ようか」
 私が説明を求める暇すら与えず、世良君は私を店の外に連れ出してしまった。その手には、黒のビジネスバッグに重ねるようにして、“山崎”のボトルが入った紙袋が提げられている。一体、これをどうしようと言うのだろう?
 「ね、ねぇ、世良君…」
 店の外に出たところで、やっと声を掛けられた。
 すると世良君は、くるりと振り向いて、その紙袋を私に差し出した。さっきと同じ、不敵な笑いを口元に浮かべて。
 「俺やマスターが悪さするといけないからね。これは、君が保管して」
 「私が?」
 「来週の金曜日、君の家行くから」
 「…は???」
 「ああ、場所は分かってる。同窓会の帰り、べろべろに酔っ払ってる君を送ってった時、ちゃんと覚えたから。水割り位なら、相原さんも作れるでしょ? これでボトルはずーっと君の手元―――どんな裏工作も不可能。OK?」
 「―――…」

 ―――嵌められた。
 と、思うのは、私の被害妄想だろうか。それとも自意識過剰?
 けれど、目の前にいるこの男の「してやったり」という顔を見ていると、まんまと嵌められたとしか思えない。
 「…悪徳弁護士…」
 思わず呟くと、世良君は吹き出し、私の目の前でチッチッという風に指を振って見せた。
 「不当契約だって言うんなら、証拠を出さないと。証拠もなしに訴えても、勝訴は不可能だよ」

 …やっぱりこいつは、悪徳弁護士だ。


***


 それにしても、妙に緊張する。
 こんな風に部屋で誰かを待つなんて―――しかも、こんな風にドキドキしながら待つなんて、一体何年ぶりだろう?

 あいつを待ってた時は、ドキドキなんてなかった。
 食事も会話もそこそこに、さっさとベッドに押し倒されて、やることやって、それで終わり。そういうのが分かりきってるから、何の期待も、何の不安もなかった。あったのは、その時間だけは1人の男を独占できるという満足感と、それとは正反対な、もううんざり、という気持ち。それだけだった。
 けれど、世良君を待つのは、その時の気持ちとは全然違う。
 この1週間あったあんな事やこんな事を、世良君に話して聞かせたい。世良君はどんな反応を見せるだろうか? 彼はどんな話をしてくれるだろうか? …そんなワクワク感が、5割。
 いや待て、あいつのペースに乗ったら駄目だ、何をたくらんでるか分からない、隙を見せたらまずい、という警戒心が、4割。
 そして、残り1割は、ほのかに甘い気分―――恋した人と、2人きりになれることへの、陶酔感。高校時代、偶然帰り道が一緒になって、駅まで2人で帰ったことがあったけれど、その時感じたのと同じ甘さが、胸の奥でうずいている。
 柄にもなく定時退社して。
 日頃なら10分で終わる買い物に40分もかけて。
 自炊なんて稀なのに、おつまみ代わりにも食事代わりにもなるカナッペと、野菜が大好きだという世良君に合わせてシーザーサラダまで作っちゃったりして。
 「…恋する乙女みたいよねぇ…」
 知らず、独り言が漏れる。そして思う。そうか、乙女って年齢じゃないかもしれないけど、恋してるんだから当たり前か、と。

 まだ少し時間がありそうなので、食事はラップして冷蔵庫へ。“山崎”をテーブルの上に置いて、準備完了。何かやり残しはないかな、と考えて、さっき味見で口紅が落ちてしまったことを思い出した。慌てて口紅を寝室から持ってきて、洗面所の鏡で口紅を塗り直した。
 ―――こういう事も、あいつにはしなかったわね。
 あの子が現われなくても、どの道破局してたかも…。

 とその時、呼び鈴がピンポーン、と1回鳴った。
 聞いていた時間より、僅かに早い。今日は訪問販売の解約を巡る裁判がどうのこうの、と言っていた気がするけれど―――早めに決着がついたのだろうか。
 「はーい」
 手にしていた口紅を一旦テーブルの上に放り出し、玄関に向かった。
 いきなりドアを開けるのは危険なので、魚眼レンズから外の様子を窺った。そして、レンズの球面に合わせて奇妙に変形したその人物の顔を見て、危うく大声を上げそうになった。
 なんでこいつがここに、という言葉が頭の中に渦巻く。どこかで点滅する警戒信号―――なのに、長年ついた習慣というのは恐ろしいものだ。私の手は、いとも簡単に玄関のロックを解除し、ドアを押し開いていた。
 「ちょ…っ、山上っ!?」
 「…よぉ。定時帰宅して、何してんだよ」
 会社で見たのと同じスーツ姿の山上は、不愉快度100パーセントとでも言いたそうな不貞腐れた顔をして突っ立っていた。しかも、ドアを閉めることが出来ないように、さりげなく足を玄関に突っ込んでいる。
 「何でもいいでしょ。なに? 忘れ物か何か? だったら取って来るわよ。何?」
 早く帰ってよ、世良君来るんだから。
 「まあ、いいじゃん。中入れろよ」
 「冗談でしょ。用事がないなら帰りなさいよ」
 「用事? 用事ならあるぜ?」
 強引に玄関に押し入ってきた山上は、私の二の腕辺りをぐいと掴むと、ずかずかと部屋の中に上がりこんだ。当然、それに伴って、私も部屋の中に引っ張り込まれてしまった。
 「ちょっと、山上!!」
 「冷てーよなー。別れた途端に、2人きりの時でも“山上”かよ」
 「誰が今更“智久”なんて呼ぶもんですかっ! いい加減にしなさいよ。住居侵入罪で訴えるわよ!」
 この状況でこういうセリフを吐く辺り、ちょっと世良君に感化されているのかもしれない。頭の隅でそんなことを思いつつも、山上に腕を掴まれたままダイニングキッチンを引きずられて行ってしまうことに、焦りを覚えた。
 「へーえ、千夏らしからぬ単語が出てくるな。新しい男は警察官か?」
 「そんなんじゃないわよ! もしそうだとしても、あんたに何の関係があるのっ」
 「ああ、もう、ごちゃごちゃうるせぇよ」
 ここで、山上はキレたらしい。寝室まで引きずり込むまでもないと思ったのか、ダイニングの床に私を押し倒した。
 これまでの展開から、それが目的だろうとは思ったけど―――ちょっと、ここまでやる!?
 「こ…こらっ、山上! 私はあんたとは別れたんだってばっ!」
 ちょっと頭を打ってグラグラしながらも、山上の肩や顔を手でぐいぐいと押し返す。キス1つされるだけでも嫌だ。考えただけで鳥肌が立つ。
 「それがどうしたよ。お前、俺と相性良かったじゃん。遊びでも、楽しめりゃ文句ないだろ」
 「大アリよっ! あんた、頭おかしいんじゃないの!?」
 「ないない。俺、気にしないから」
 「バカっ!! 私が嫌だって言うのよっ!!!!」
 「…ふぅん、やっぱり、新しい男か。この歳で男に逃げられたんじゃあ、もうちょい引きずるかと思ったのに。プライドより欲が先か。お前も淫乱だよなぁ」

 ―――なんですって?
 カチンときた。
 いや、そんな生易しい表現じゃない。
 殺意に近いものを覚えた。

 「バッッッッッッッカじゃないのっ!!! あんたと一緒にしないでよっ!!!」
 ちょうど、山上の耳がすぐ傍にあった。その耳の中に怒鳴る。山上の頭の中にキーンという耳鳴りが響くのが自分にまで聞こえる気がする。
 「あんたに捨てられて、プライドは傷ついてもそれ以外は何も傷つかないわよっ!! 私はあんたと結婚することなんて一度も考えたことないんだからね、一度も! ただの腐れ縁! 恋愛なんて呼べるレベルですらないわよ、あんなの!」
 「ち…千夏、お前、声デカすぎ…」
 「うるさいわねっ! 第一、何よその“新しい男”っていう、やらしい言い方! 世良君はそんなんじゃないわよっ! 私にとって生きるエネルギーになっちゃう位大切な存在なんて、後にも先にも世良君だけなんだからっ! あんたみたいな一年中発情しているような男に、世良君とのことをとやかく言われたくないわよっ!」
 「バカか、お前。一体いくつになったんだよ。何が“生きるエネルギー”だよ。無理ありすぎ。そんなことより、素直に楽しんだ方がラクだって」
 「地に堕ちろっ!!!!!」

 そう叫んだ瞬間。
 ふいに、圧し掛かっていた山上の重さが、ふっと軽くなった。

 「!? う、うわああぁあっ!」
 素っ頓狂な山上の声。同時に、山上の体はぐいっと引き起こされていた。そして、やっと視界が晴れた私が見たものは―――山上のスーツの襟首を掴んでいる、世良君の姿だった。
 「せっ…世良君っ!?」
 「ちょっと、失礼」
 その場に似つかわしくない程静かな口調でそう言った世良君は、突然のことに反撃できずにいる山上を無理矢理立たせると、シンクの方へと押しやった。前につんのめるようにして、山上はあえなくシンクに突っ伏す羽目になる。

 そして。
 世良君の手には、テーブルの上に置いてあった筈の、“山崎”。

 次の瞬間、シンクに頭を突き出す形になった山上の頭に、室温マイナス5度程度の“山崎”が浴びせられていた。


***


 「証拠は押さえてあるんで、二度とこういう真似、しないようにね」
 「……」
 頭からアルコールを浴びせられて少々赤い顔になってしまっている山上は、恨めしそうな目をして世良君の顔を一瞥した。
 証拠―――それは、世良君が玄関の辺りからデジカメで撮った山上が私を押し倒している写真と、部屋に入った瞬間から録音していた私と山上の会話の録音テープのこと。なんでそんな機材を持っているのかを、私は知っている。世良君は民事専門の弁護士で、悪徳業者などから嫌がらせを受けたりすることも度々ある。そういう時のために、常にこうした道具を持ち歩いているのだ。
 …それにしても。
 それらの機材が、まさか、私のトラブルに活用されるとは。
 「もしまたやるようなら、まずは婚約者さんに。それでも駄目な場合は、警察に提出するから」
 「…分かったよ」
 「ああ、それと」
 ついでに、と言うように、世良君は内ポケットから名刺入れを取り出し、名刺を1枚、山上に渡した。
 「離婚訴訟などある時は、是非どうぞ」
 「―――…」
 にっこり、と微笑む世良君を疲れたように睨んだ山上は、私にはもう目もくれず、ふらふらと部屋を出て行った。アルコールが妙な形で回ったのもあるだろうが、精神的なものの方が大きいのかもしれない。
 ばたん、と、ドアが閉まる音がする。それを聞いてようやく、強張っていた体から力が抜けた。
 「―――あー…。疲れたぁ…」
 テーブルに手をついて、がくりとうな垂れてしまう。そんな私を、世良君は腕組みして呆れたように見下ろした。
 「けど、君も案外無防備だなぁ…。俺が間に合ったから良かったけど、あと少し遅かったら、疲れただけじゃ済まないよ」
 「まさかあいつが、あんな行動に出るとは思わなかったのよ。そりゃ、子供が出来ちゃったっていう不可抗力はあるだろうけど、私より彼女選んだのは、あいつの方じゃないの」
 「手離したら、惜しくなったんだろう、きっと。…まあ、無事でよかったよ」
 ぽん、と頭に手を置かれる。
 たったそれだけのことで、どうしようもなく嬉しくなってしまうのは―――やっぱり、それが世良君の手だと思うからだろう。
 「…ありがとう。助けてくれて」
 目を上げて私がそう言うと、世良君は何故か、からかうような笑みを浮かべた。
 「いや。十分お釣りが来る位、面白いセリフを一杯聞けたから、いいよ」
 「―――!!!!」

 そ…っ、そうよ、あの録音テープ―――!
 私、山上に向かって、何喋ってた…!? なんか、結構、大和撫子にあるまじき単語も言ってたような気が…そ、それに…。

 「“生きるエネルギーになる位に大切な存在”は、後にも先にも俺だけなんだって?」
 「……」
 「簡単に本音は言わないだろうとは思ってたけど、まさかこんなシーンで聞く羽目になるとはね」
 忍び笑う世良君を、真っ赤になって睨む以外ない。
 …ていうより、このセリフ、既に私の本音なんてバレバレだったような言い方よね。
 ―――なんか、やっぱり、悔しい。
 怒ったように、ぷい、と顔を背けた。すると、それまで視界の外にあったものが目に入り、胸の奥の方が冷たくなった。
 あいつに浴びせかけたせいで、完全に空になってしまった、“山崎”のボトル。
 「…空になっちゃったわね」
 ポツリと呟くと、自然、世良君の目も“山崎”に向く。
 「ああ―――抵抗されると、あっちの方が体格いい分、ヤバイかと思ってぶっかけたけど…案外無抵抗だったんで、勿体なかったかもな」
 「…契約は、どうなるの?」

 私の手札(カード)は、もう開けてしまっている。あとは、世良君の方がオープンするだけ。
 けれど―――もしもそれが望んだ手ではないのであれば、いっそオープンせずに、契約を延々続けてくれた方がずっといい。
 今、生きるエネルギーを失ったら…今度こそ、立ち直る自信なんて、ないから。

 世良君は、どう答えるだろう―――不安を覚えながら、世良君の顔を上目遣いに見つめる。すると世良君は、ふっと笑い、一度視線を床に落とした。
 「…じゃあ、こういうのはどう?」
 「え?」
 世良君の手が、私の手を掴んだ。
 次の瞬間、手の甲に、なんだかヌルリとした感触―――びっくりして目を見開くと、それは、口紅の感触だった。
 世良君は、いつの間にやらテーブルの上に置いてあった口紅を手にしていた。そして、その口紅で私の手の甲に文字を書いていた。手の甲という狭い範囲だし、口紅は太すぎて、細かい文字は無理だったのだろう。私の手の甲には“SERA”と書かれていた。
 「……」
 絶句してしまう。どういう意味か分からず世良君を見上げると、世良君は、例の不敵な笑みを浮かべて見せた。
 「―――相原さん、キープ」
 「キ…キープ!?」
 「だってこの家、もう“山崎”ないし。ボトルキープの代わりに、相原さんキープ」
 「…何よそれ。私は空っぽになんかならないわよ」
 むっとしたように口を尖らせると、世良君はちょっと吹き出した。
 「つまりさ―――君が飽きるまで、俺と付き合ってもらう、ってこと」
 「―――…」

 …それって…。
 そう言う意味に、取っていいの?

 本音を推し測りきれない。少し眉をひそめるようにして世良君の目を凝視し続けるけれど、彼がそれ以上の条件を口にする様子はなかった。
 そういう態度に出る訳ね。
 だったらこっちも、それなりの対応をしようじゃないの。

 「…じゃあ、私の方からも、契約を提示させてもらうわ」
 世良君がテーブルの上に置いた口紅を奪い取ると、私の手を取っている彼の手を引っくり返し、同じように手にサインする。
 私より大きい手は、ちょっとは余裕がある。思い切り、“相原”と書いてやった。
 「私の方も、あなたをキープさせてもらう。あなたが飽きるまで、私と付き合って」
 「……」
 暫し、“相原”と書かれた手の甲を見下ろしていた世良君は、やがて顔を上げ、ふっと微笑んだ。
 「俺、なかなか飽きない性格だから、かなり長くなると思うよ?」
 「奇遇ね。私もしつこい性格なの」
 「…じゃ、契約更新ってことで」


 なんだか可笑しくて、2人してクスクス笑ってしまった。
 そんな笑いを封じ込めるように、どちらからともなく相手の体に手を回し、唇を重ねた。

 これは、“恋愛”という名の契約。…まあ、そんな捻くれた解釈をするカップルも、この世に1組位、いたっていいんじゃないかと思う。

 

 

 

 

 

 「―――ちょっと待って」
 「おいおい…この状態でお預け?」
 「いいから待ちなさい。肝心なこと、まだ解決してないわよ」
 「肝心なこと?」
 「“山崎”よ! あれ、絶対にヘンよ! どんな裏工作をしたのよ。吐きなさいっ」
 「…ああ、あれね。しょうがないなぁ。そんなに気になるなら教えるけど…怒らないかな」
 「いいから、教えてよ」
 「じゃあ、耳貸して」

 「――――――………」

 「はぁ!? に、2本キープしてたって、どういうことよっ!」
 「…つまり。2本ボトルキープして、交互に出してもらってたんだよ。毎回デジカメででも撮ってれば、一目瞭然だけど…君、結構、注意力散漫だね」
 「さ…詐欺…」
 「人聞きの悪い。“意地っ張りデザイナー”に本音を吐かせるための時間稼ぎには、その位の作戦が必要だったんだよ」

 「…やっぱりあなた、悪徳弁護士だわ」



44444番ゲットのめのうさんのリクエストにおこたえした1作です。
ご希望は「社会人の恋愛もの。主人公は女性」。blogでアンケートをとった結果、あの「契約恋愛」の続編とあいなりました。
世良君…好きかもしんない(笑) 久保田のライトバージョン? 悪徳弁護士のくせに、悪徳業者と戦ってるんですね。困ったやつだ。
山上君。離婚調停の際には、是非世良君へ。きっと巨額の慰謝料を「払う」よう、あれよあれよという間に誘導されてることでしょう。
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