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Liar, Liar!

 

 まだ、眠気が、抜け切らない。
 眠い目を擦った麻美(あさみ)は、歩きながら大きく伸びをした。昨日のアルコールも、まだ抜けきっていないのかもしれない―――到底、いい飲み方とは言えない飲み方をしたのだから、当然だけれど。

 「麻美」

 体の底の方に響くような低い声が、後ろから麻美の名を呼んだ。途端、麻美の全身が、瞬時に粟立った。

 ―――来たわね。

 仕掛けは上々。けれど、仕上げで失敗してしまっては意味がない。麻美は、つい笑ってしまいそうになる口元を引き締め、くるりと振り返った。
 「…あら。おはよ、圭司(けいじ)
 「―――おはよ、じゃ、ねぇよ」
 腕組みをして、そこに立っていた圭司の表情は、今にも麻美に掴みかかってきそうな位、殺気立っていた。
 「ちょっと、顔貸せ」
 「いやよ。1コマ目から講義あるんだから」
 「サボれ」
 「勝手な事言うわね。私が単位落としたら、圭司、どうやって責任取ってくれるの?」
 「そんな事知るか! とにかく、来い!」
 圭司は、麻美の腕を掴むと、自棄になったような勢いで歩き出した。大学とは反対方向に向かって。その歩き方に配慮が全然ないから、麻美は足がもつれて靴が脱げそうになる。
 「ちょっ…、もっとゆっくり歩いてよ」
 抗議したが、圭司は聞く耳を持たなかった。

***

 朝早くから開いている店は少ない。結局2人は、駅前のファミリーレストランに入るしかなかった。
 それぞれ、コーヒーを注文し、運ばれてくるのを待つ。客も少ない時間帯なので、ものの2、3分で運ばれてきた。
 「…それで? 私は一体なんで、朝っぱらから圭司とコーヒーなんて飲んでるのかしら?」
 砂糖をコーヒーに入れながら、麻美が訊ねる。
 ブラック派の圭司は、既にコーヒーカップに口をつけていた。が、麻美の言葉に、その手が止まった。
 「―――お前、よくそんな平然とした顔して、俺の前に座ってるよな」
 「何の話よ」
 「昨日の話だよ」
 「…ああ。あれね」
 少し考え込むような顔をした後、あっさりした口調で、そう言う麻美。圭司の眉が、不愉快そうに吊り上がった。
 「―――誰なんだよ」
 「誰でもいいじゃない」
 「よくねえよ」
 「お互いのプライバシーには干渉しない約束でしょ? 圭司は知らなくていいの。馬鹿げた合コンよりは大切な相手―――それだけのことよ」
 「その馬鹿げた合コンの中に、俺がいてもかよ」
 「あら、だって」
 コーヒーフレッシュも入れて、スプーンで掻き混ぜつつ、麻美は口の端をきゅっと吊り上げて笑った。
 「私がいなくても、別に困らなそうだったし」
 「……」
 「良かったわ。圭司の相手してくれる女の子が2人もいて。おかげで、気兼ねなく抜けられたから」

 ―――嫌味なのか、それとも本気でそう思ってるのか、どっちだ?

 圭司は、不貞腐れたように、再びコーヒーカップを口に運んだ。


***


 はっきり言って、圭司は、かなり女にもてる。
 男っぽいワイルドな風貌が女心をくすぐるのか、合コンに顔を出せば、簡単に2、3人はひっかけられる。多分、遊び慣れてると思われるのだろうし、圭司もはなから本気の女など求めていない。好みの奴を選び、適当に遊ぶ―――コンパの場はあくまでハンティングの場であり、圭司としては、その後がメインだった。
 …“だった”。あくまで、過去形。
 1ヶ月前、麻美と付き合い始めてからは、事情が全く異なっている。

 麻美は、いわゆる「高嶺の花」だった。
 同じ年にしては大人びた美人で、コンパのような軽い場には絶対顔を出さず、誘ってくる男も全部断る。狙っている男は多かったが、陥落できる男は皆無。そういう存在として、入学当時から目立っていた。
 圭司からしても、無視できる相手ではない。同じ学部の同期だし、一緒になる講義も多い。講義の合間に、一人、頬杖をついて窓の外を眺めるアンニュイな姿に、柄にもなくぼーっと見惚れることすらあった。が、言い寄られることに慣れた圭司だから、声をかけるなんて(へりくだ)った真似が出来る筈もない。誰が言い寄ってもそっぽを向いたままの孤高の美女を「可愛げのない女」と批判し、むしろ興味ゼロの態度を取り続けた。でもその実は―――自分の存在に一切興味を示さない女に、プライドを傷つけられたような気分になりつつ、気づけばその女ばかり目で追っている自分に嫌気がさしていたのだ。
 だから、1ヶ月前、麻美の方から「今度、映画に一緒に行ってくれない?」と頼まれた時には、根拠もなく“勝った”と思った。どちらが先に声をかけるかの我慢比べ、そんな気になっていたのかもしれない。
 「いっそ、このまま付き合おうぜ。ただし、お互いのプライバシーには干渉し合わない。それがルールな」
 映画の帰り、圭司の方からそう提案した。先に麻美が折れてくれたからこそ言う気になれたセリフだ。
 麻美は、魅惑的な笑みを浮かべて一言、「そうね。そうしましょ」と答えた。

 以来1ヶ月、2人は彼氏・彼女と呼ばれる関係である。
 2人でいる時の麻美は、外見とは裏腹に、よく喋るしよく笑う。遊び慣れてないのか、手が触れ合った位でも、ほのかに頬を染めたりする。日頃の取り澄ました態度とのギャップが、圭司のツボをとらえてしまった。どちらが陥落するか、というゲーム感覚はどこかに消えた。気づけば、明らかに圭司の方が深みに嵌っている状態だ。
 ただ―――どうにも気になる点が、1つ。
 麻美は、帰宅時間が、やたら早いのだ。
 デートをしていても、夜の7時あたりからソワソワし始め、8時にもなれば「そろそろ帰る」と言って、さっさと帰ってしまう。夜遊び癖のある圭司からすれば、その位の時間帯からが本格的な活動時間なので、麻美の行動は信じられなかった。
 もしかして、体の関係に持ち込まれるのを避けてるのか? と思い、付き合い始めて2週間経った頃、思い切って昼日中からホテルに引きずり込むという暴挙に出た。が、麻美は、最初こそ怯えていたものの、結局は圭司を受け入れてくれた。それどころか、目に涙を浮かべて「嬉しい」とまで言ったのだ。
 なのに、やっぱり8時には帰ってしまう。
 圭司からすれば、大いに不満だ。まだ1年生なので、履修しなければならない講義は多い。親の手前、一浪してる分、留年なんて無様な真似は絶対できない圭司は、講義だけは真面目に受けている。だから、ほぼ毎日、午後まで講義がある。土日の日中はバイトを入れているので、夜しか時間がない。
 もっと、麻美との時間を作りたい。なのに麻美は、箱入娘よろしく、宵の口に圭司のもとを去ってしまうのだ。彼女の魅力に嵌れば嵌るほど、その不満は増大する一方だ。
 麻美がいないまま宙に浮いた夜の時間は、友達から携帯にかかってくるコンパの誘いで埋められた。行けば相変わらず簡単に女が言い寄ってくる。が、もう到底「好みの女を選んで適当に遊ぶ」なんて気にはなれなかった。今こうしている間、麻美は一体、どこで何をやっているんだろう? ―――そのことばかり頭に浮かんで、女たちに接する態度までが上の空になってしまう。

 ―――頭にくる。
 こっちが、これだけヤキモキしているというのに、麻美の方は涼しい顔をしている。その事実に。
 付き合い始める前の圭司の遊びっぷりは、麻美も噂で聞いていただろうに。圭司に暇な時間を与えれば、また前のように遊び歩くと思わないのだろうか? それとなく「昨日はあの後、飲み会に合流してね」などと話してみるのだが、麻美は「ふぅん、そうなの」と笑顔で相槌を打つ。その笑顔に、一番腹が立った。

 だから、昨日。
 「圭司ー。今日、6時半からコンパやるんだけどさ。お前、来てくれない?」
 そう友達から誘われた時、圭司は咄嗟にひらめいたのだ。
 「―――了解。…ただし、麻美同席でいいか?」

***

 昨日のコンパでも、圭司は、やはりモテた。
 女性の参加者の大半が他大学生というコンパで、圭司と麻美が付き合っている事など知らない女が多かったからだろう。目の前に麻美が座っているというのに、酔った勢いを利用して圭司にしなだれかかる女までいた。そういう女を止める奴もいない。麻美と圭司が別れてくれた方が、その後釜を狙う男の心理からすれば好都合だからだ。
 内心、突き飛ばしてやりたい衝動に駆られながらも、圭司はそんな女たちの態度に乗ったフリをした。
 「へーえ。ミドリちゃんて言うの。清楚でいい名前だよな。キミにぴったり」
 「いやーん、永峰さんてば、口が上手いんだからぁ」
 ―――どこが清楚なんだ、どこが。皮肉だってわかれよ、このバカ。お前の頭の中には、脳みそのかわりにおがくずが詰まってるんじゃないか?
 という本音は、決して顔に出さない。これまで幾多の女たちを落としてきた笑みを浮かべ、上機嫌なフリをして、お酌に応じた。
 麻美が、目の前にいるから。
 見せつけて、心配させてやりたかった。俺を放っとくと、その隙につけいる女がいくらでもいるんだぞ、と。
 実際、必然か偶然か圭司のまん前の席に座った麻美は、そういう場面をみせつけられる度、僅かながらも反応を見せた。眉を微かにひそめるような仕草―――でも、それが、嫉妬してのことなのか、単純にそういう軽々しい女の態度自体が嫌いだからなのかは、残念ながら圭司には見極められなかった。それが、歯がゆい。

 麻美の方は、周囲の男たちから、他の女たちとは全く違った扱いをされていた。
 大学でも有名な「高嶺の花」が、こんなくだけた席に来てくれたのだ。男共が有頂天にならない筈がない。
 「戸川さん、ビールのおかわり、どう?」
 「食べたい物ある? よければ僕が取るよ」
 「あれ? もしかして、寒い? すみませーん、店員さん、ちょっとクーラー弱めてもらえませんかー?」
 …まるでVIP待遇。
 そんな周囲の男の対応に、当然他の女たちはいい顔をする訳がない。何あの女、というジェラシー100パーセントの目で麻美を見る。が、麻美は、クールだった。ちやほやする連中にも、突き刺すような視線を送る連中にも。
 「いえ、ビールはもう結構よ。…あ、すみませーん、モスコミュール1つ」
 「大丈夫、食べたい物位、自分で取れるから」
 「平気平気。カーディガン1枚持ってきてるから。店員さん、クーラー、弱めなくていいですよ。暑そうにしてる人もいるのに、迷惑でしょう?」
 …お見事。
 やはり、できる女だ。ちやほやされても有頂天にならず、常に「高嶺の花」を保ち続ける麻美の態度に、密かに独占欲を満足させている圭司がいた。あーんな麻美や、こーんな麻美を、俺だけが知ってるんだぜ、という満足感。それが確認できただけでも、渋る麻美を連れてきた甲斐があった、思った。

 ―――だが。

 コンパ開始から、1時間。夜7時半を回る頃になると、麻美は急に落ち着きがなくなった。
 ちらちらと時計を気にする。時々携帯を確認する。目の前で、自分の恋人が女にイチャつかれているというのに、それよりも時間の方が気になっているのだ。
 ―――おい、こら。なんなんだ、その態度は。
 いつもの事とはいえ、やはりイライラしてくる。女たちに対する圭司の態度も、次第に冷たくなってきた。

 やがて、時計が、夜8時を指した頃。
 机の上に置かれた、麻美の携帯電話が、鳴った。

 麻美は、素早く携帯を手に取ると、すぐに通話ボタンを押した。
 「はいっ。―――あ、うん、私」
 麻美の表情が、ふわり、と柔らかいものに変わった。
 思わず、ドキリとする。多分、他の連中は、こんな麻美の表情は初めて目にするだろう。圭司しか知らない麻美の表情の筈だ。
 「今? …うん、ごめん。ちょっと、友達に飲み会に誘われちゃって」
 ―――はぁ? 友達!?
 誘ったのは、圭司だ。今の発言は聞き捨てならない。露骨にむっとした顔をしてしまう。
 「うん…うん。わかった、急いで行くわ。―――いいのよ。気にしないで。じゃあね」
 麻美は、穏やかな表情でそう言うと、電話を切った。

 そして。
 “急いで行く”という言葉の通り、彼女は、「すみません、急用なので、お先失礼しますね」の言葉を残して、本当に帰ってしまったのだった。


***


 「…確かに、プライバシーに干渉しない、っつったのは俺だけど、昨日のあれは、あんまりだろ」
 「どうして?」
 「仮にも“彼氏”が、他の女たちにベタベタされてんだぜ? そんな状態ほっぽり出して、なんで平然と出て行けるんだよ」
 「いいじゃない。圭司、楽しそうだったもの」
 「そういう問題じゃねえよっ」
 どんどん不機嫌になる圭司とは対照的に、麻美は終始、落ち着いた態度だ。やましいことは無いからなのか―――その辺りも、どうも読みづらい。
 「とにかく、昨日の電話が誰からだったのか、話せよ」
 「んー、どうしようかなぁ…。恥ずかしいから、誰にも内緒だし…」
 「…そういう事言われると、余計気になんだよっ。大体お前、いつもいつも8時位になると帰っちまうだろ。何かバイトでもしてんのかよ」
 「バイトはしてないわよ?」
 「じゃ、門限か?」
 「ううん。午前様は許されないけどね」
 「じゃ―――俺以外の奴と、約束でもあるのかよ」
 完全に、プライドを捨てた質問。
 でも、背に腹は変えられない。このままだと、よからぬ想像ばかりしてしまう。
 そう。ずっと気にしてたのは、それだ。2人の時間が作れない事以上に、圭司との時間を割いてまで麻美が向かう先がある、その事実に腹を立て、嫉妬していたのだ。自分だけは、そういう女々しいことはしないと思っていたが、もう自覚せざるをえない。今の自分は、嫉妬心と猜疑心と独占欲の塊だ。
 麻美は、そんな圭司を見つめながら、しばし無言でコーヒーを飲み続けた。そして、くすっと笑うと、カップを置いて、頬杖をついた。
 「なぁに? もしかして、圭司以外に男がいると思って、不安がってるの?」
 「ち…っ、違うだろっ! 第一、俺より上の男が麻美にいる訳ねーじゃん。俺が麻美の彼氏なんだから」
 いや、いるかも―――という自分は押さえつけて、高圧的に断言する。すると麻美は、ますます笑みを濃くした。
 「そうよ。圭司が私の彼氏なの。なのに、何故そんな不安そうな顔をするの?」
 「…別に不安じゃねーって」
 「じゃあ、いいじゃない?」
 「……」
 「目の前で、私が他の男の子とイチャイチャしてた訳でもないのに、なんでそんなに気にするの?」
 胸がズキズキ痛む。昨日、麻美の目の前で、他の女と見せ付けるようにイチャイチャしたのは、圭司の方なのだから。自分が逆の事を麻美にされていたら、今頃、相手の男を殴るか刺すかして、警察の厄介になってるかもしれない。
 「それでも、気になるんだって。…昨日は悪かったよ。もう二度と、お前の目の前で女はべらすような真似しねーよ」
 「…やだ。それって、私の目を盗んでならするって言ってるみたい」
 「やらねーよっ! できねーよ、もうっ! 他の女見ても、麻美の顔しか浮かんで来ねーんだからっ! だから―――教えてくれよ、いい加減」
 ―――完全敗北宣言。
 圭司は、己の捨て身なセリフに、思わずうな垂れてしまった。
 圭司がどれだけ麻美の行動に気をもんでいるのかをやっと悟ったのか、麻美は、小さく溜め息をつくと、これまでで最上の笑みを浮かべた。
 「わかったわ。じゃ、今晩にでも相談してみる」
 「は!?」
 「私も、もっと遅い時間まで圭司と一緒に居たいのよ? 多分彼、すごーく嫌がると思うけど…頑張って説得してみるわ」
 「彼!?」
 誰だよっ!
 「だから圭司、もうちょっとだけ待っててね。明日になったら、全部教えてあげるから」
 そう言って微笑む麻美の笑顔は、今朝までの怒りがどっかにふっとぶ程魅惑的だった。
 でも。

 ―――“彼”って誰だよ!? “彼”って…!

 怒りがふっとんだ代わりに、それまでの数百倍の疑問と不安に支配されてしまった。


***


 ―――うーん…少し、焦らしすぎたかなぁ…。
 玄関で靴を脱ぎながら、麻美は、今朝見た圭司の顔を思い出し、ちょっとだけ反省した。
 ―――あの圭司が、半泣き状態になるとはね。案外単純…いや、素直、なのね。
 「ただいまぁ」
 「あ、おかえりぃ」
 台所の方から聞こえてきた声に、麻美は片方の眉を上げた。
 時刻は午後8時半。ダイニングキッチンを覗き込むと、会社から帰ってきたままの服装の母が、その上からエプロンをして、台所に立っていた。しかもダイニングには、新聞を読んでいる父の姿まである。
 「…ちょっと。2人とも帰ってるんじゃないの。もしかして私より早く迎えに行けたんじゃない?」
 ますます眉を吊り上げる麻美の背後から、小さな影が、台所に駆け込んできた。
 「ママー、ただいまぁ」
 「あらぁ、あーちゃん、おかえりぃ〜」
 「あーちゃん、パパの膝の上においでー」
 まるで猫でも可愛がるかのような、両親の反応。あーちゃん、と呼ばれた保育園児は、上機嫌で父の膝によじ登った。
 「今日はねぇ、予定より早く終われたから、パパと買い物して帰ってきたのよ。今から30分位前かな」
 「だったら携帯にそう連絡入れてよっ! 今月は決算処理で忙しい、って言うから、明弘のお迎えを私が率先してやってあげてるんでしょ!? 迎えに行ける日は、お母さん達が行ってあげてよっ! こっちはデートを返上して協力してるのよ!?」
 「あら、だって、明弘は麻美がいいって言うんだもの。ねぇ? あーちゃん」
 父の膝の上で、明弘が機嫌よくコクコク頷いた。その笑顔を見ていると、頭が痛くなる。何故麻美がいいのか、その理由を知っているから。
 明弘は、恥ずかしいのだ。母が。それはわかる気がした。麻美だって恥ずかしい。圭司にこの話が出来ずにいるのは、勿論計算もあったが、恥ずかしいから、という理由もあった。

 明弘、現在3歳。
 父、51歳。母、48歳。―――いくらなんでも、高齢出産すぎる。

 偶然、圭司と付き合うようになった頃から、両親とも半期決算で仕事が忙しくなり、明弘の夜間保育の延長時間を使っても間に合わなくなる日が多くなった。だから麻美が迎えに行くしかなくなったのだ。
 こんなに若くて綺麗なお姉さんがいるなんて、うらやましいなぁ―――という、保育園の先生のセリフを、明弘は聞き逃さなかった。ご近所中から「お孫さんですか?」と聞かれることに慣れている明弘は、若くて綺麗な姉、という褒め言葉に、異常なまでの喜びを感じてしまっているらしい。あと数日で決算処理も終わるが、このままでは麻美が「あーちゃんのお迎え係」にされてしまいそうだ。


 付き合う事になった時、本当は言おうと思った。明弘の件を。1ヶ月ほどは、保育園が終わるまでに行かなくてはいけない、と。
 けれど、それを言わなかったのは、麻美のしたたかな計算だ。

 彼が女癖が悪いことも、コンパに顔を出せば簡単に女が釣れてしまうことも、前から知っていた。そんな男を好きになってしまった自分の不運を呪った時期もあった。彼の女性遍歴を耳にして、毎回毎回、嫉妬心で気が狂いそうになった。

 けれど、圭司以外、心が動かなかったから。
 最大限の勇気を振り絞って声をかけてでも、手に入れたかった人だから。

 だから―――可哀想だけれど、圭司が、もう他の人に目がいかなくなるまで、謎の女を演じさせてね?


 あなたの頭の中が私一色に染まるまでは、教えてあげない。
 自分の方から誰かを求めるなんて無様な事だと思っているあなたが、プライドをかなぐり捨てて必死になって求めてくるまで、教えてあげない。
 安心なんて、させてやらない。いっぱい気を揉んで、いっぱい心配すればいい。そして、もっともっと私の事を考えて、もっともっと私を必要とすればいい。


 他の誰かが入り込む隙間が、1ミリたりとも存在しなくなる位―――圭司の中を、私で一杯にして。
 私は嫉妬深い女だから、圭司の中に、私以外のものがあるのが、イヤなの。


 「麻美ねーちゃーん。明日からもお迎えに来てくれるんでしょお〜?」
 父の膝からえいやっ、と飛び降りた明弘が、麻美のスカートをつんつん、と引っ張った。

 ―――問題は、こいつよねぇ…。

 一体どういう説得をすれば、折れてくれるのだろう、この3歳児は。ちょっと途方に暮れた顔で、麻美は明弘を見下ろした。遊び人の圭司を麻美一筋の真面目な男に変身させるより、こっちの方が難しい仕事になりそうだ。
 …まあ、でも、いい。
 いざとなったら、圭司と2人、手を繋いで保育園まで迎えに行くのも、乙かもしれない―――そんな光景を想像して、麻美は一人、微笑んだ。



6666番ゲットのmakoさんのリクエストにおこたえした1作です。
ご希望は「嫉妬深い女の話」。ふはははは、むしろ嫉妬深い男の話になってしまったか?(笑)
筋は決まってたのに、落ちのつけ方でぐだぐだと悩んでしまった作品です。
女って怖いな〜、と思った男性諸君。これを読んで「なんだ、あいつが冷たい態度とるのも、俺の気を惹くためなんだな」なんて思わないように。
本当に「別の男」が存在するかもしれませんので―――ええ。女って、怖いんです(爆)
関連するお話:「Calling me Calling you」


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