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月のかけら

 

 

 欲しかったのは、あの日手に入れかけた、月の欠片。

 

 

 ドアを開けると、カランカラン、とドアベルが鳴った。(まさる)は、久々に嗅ぐコーヒー豆の香ばしい香りに、口元を綻ばせた。
 いつも座っていた窓際の席は、先客に占領されていた。少し落胆しながら、滅多に座る事のないカウンター席につく。ほっと息をついて顔を上げると、見覚えのある顔が、笑顔で水の入ったグラスを差し出していた。
 「久しぶりだね、ユウ君」
 「…マスター、覚えててくれたんだ」
 「そりゃそうだよ。あの絵の作者なんだからね」
 マスターはそう言って、店の奥の壁にかけられたスケッチ画に視線を向ける。優も一緒にそちらに目を向け、その懐かしさに顔を綻ばせた。
 優がこの絵を描いたのは、高校1年の秋のことだ。この喫茶店で、最後の彩色を施していたら、マスターに「店に飾りたいから是非譲ってくれ」と請われた。本当は“彼女”にあげるつもりで描いた絵だったが、優は絵をマスターに譲った。
 「メニューは変わってないよ。何がいいかい?」
 「じゃあ、ブルーマウンテン」
 「ハハ、やっとそのオーダーの似合う歳になったねぇ、ユウ君も」
 「…俺、そこの大学入ったから、これからは時々寄れると思うよ。だから、ブルーマウンテン切らさないようにしといて」
 優の言葉に、ブルーマウンテンの缶に手をかけたマスターは意外そうな顔をした。
 「美大に行くとばかり思ってたよ」
 「俺もそう思ってたよ」
 そう言って、優は曖昧な笑顔を浮かべ、口にくわえたラッキーストライクに火をつけた。

***

 誰もいなくなった講義室。窓際の、一番光の射す席で、優はスケッチブックを開く。
 3Bの鉛筆を取り出し、真っ白な画面に描き始めたのは、流れるような髪をした女性像だった。
 手の形、肩のライン、傾げた首の角度―――まるでモデルが目の前にいるような確かな線を、達者な筆運びで描いてゆく。きっと目を閉じていても、手は自然とこの姿を描きだしてしまうだろう。2年半もの間、ずっとずっと描き続けた、ただひとりの人だから。
 ただひとりの、ひと―――“月子”。
 「工藤君」
 突然、背後から声をかけられて、優は驚いたように振り返った。
 遠慮がちにそこに立っていたのは、名前は知らないが、英文学の講義でよく顔を合わせる同級生だった。フワフワしたポニーテールがよく似合って可愛い、と、優と同じ高校からこの大学に進学した友達が言っていた子だ。背後に立つ彼女を改めて見て、確かに可愛いよな、と、優も彼の意見に心の中で同意した。
 「あ、ごめんなさい。邪魔しちゃった?」
 「別に。何か用?」
 「…なに、描いてるの?」
 彼女の目は、優の肩越しに見えるスケッチブックに向けられている。あまり、この絵を見られるのは好きではない。優は、さりげなくスケッチブックの位置をずらした。
 「たいしたもんじゃないよ」
 「いつもここで、絵を描いてるのね」
 「静かだからね」
 「…少し、お話してもいい?」
 「―――いいけど」
 優がそう答えると、彼女はひどく嬉しそうな顔をした。何か期待を持たせてしまったのかもしれない。同意してしまった事を少し後悔しつつも、優は、後ろの席に腰掛けた彼女に見られないよう、そっとスケッチブックを閉じた。
 「私、工藤君と一度話してみたかったの」
 「なんで?」
 「工藤君、目が綺麗だから」
 そうか? と言うように、優は眉をひそめた。
 「私、週に6回、同じ授業取ってるの。知ってた? 英文学、美術、心理学、文化人類学、精神衛生学、アメリカ文学史。工藤君、いつも窓際の席に座って、外眺めてる。あの綺麗な目でどこ見てるのかなぁ、って、いつも気になってたの」
 「別にどこも見てないよ」
 ―――本当は、探してる。
 いつも、窓から外を眺めて、あの後姿を探してる。ほんの一瞬でも目に映れば、きっとわかる筈だから。
 「…どこも、見てないよ」
 「そうなんだ」
 「ああ」
 「…工藤君て、ちょっと、怖い」
 「俺が?」
 「今、そう思った。こんな風に目を見て話すことなかったから、気づかなかった。真正面から見つめられると、落ち着かないし、なんか怖い」
 「…俺、目つき悪いのかな」
 「そうじゃなくて―――なんか、凄く、胸がドキドキするから」
 “ユウ君て、時々怖いよ。ユウ君の目、人を落ち着かなくさせる。―――私も今、凄くドキドキしてる。”
 優の目は、今目の前にいるポニーテールの彼女を通して、あの日の“彼女”を見ていた。こんな瞬間ですら、探している。この大学のどこかにいる“彼女”を。
 「ねぇ、工藤君…」
 彼女が何か言いかけた時、講義室の最後部のドアが勢い良く開いた。
 「やっばーいっ! ここに無かったらどうしようっ!」
 弾けるような、声。
 瞬間、優の背筋に、ゾクリと走るものがあった。
 開け放たれたドアから飛び込んできたのは、金髪に近い明るいショートヘアーにGパンという、ボーイッシュないでたちの女の子。その背後に、彼女の友達らしき面々が2、3並んでいる。
 「八尾っち、早く見つけなよー? 定期なくすなんて、お子様もいいところ」
 「うるさいっ」
 外見は随分変わった。喋り方も違う。でも―――顕になった首や肩のライン、そしてこの、声。
 優は、ポニーテールが驚くのも構わず、ガタン! と椅子を蹴倒す勢いで立ち上がった。その音に驚いたように、“八尾っち”と呼ばれていたショートヘアーが、目を丸くして優の方を見た。
 途端。
 空気が、凍った。
 ―――“月子”。
 間違いない。“月子”だ。
 髪とは不釣合いなダークな色合いの瞳が、心の動揺を映すみたいに揺れている。ローズピンクに彩られた唇が、微かに震える。彼女は優を凝視したまま、その場に凍りついていた。
 「八尾っちー、どうしたの? もう帰るよ?」
 外野の声に魔法が解かれたみたいに、彼女は優から目を背け、くるりと踵を返すと、駆け出した。
 「―――待てよ!」
 思わずそう、叫んでいた。でも彼女は、そんな優も、ちょっと驚いている友人たちをも無視して、まるで逃げるみたいに講義室から走り去ってしまった。
 ―――逃げるみたいに?
 いや、違う。
 彼女は、また、“逃げた”のだ。

 

***

 

 「風邪、ひくよ」
 差し掛けた黒い傘の下、彼女は驚いたように、優を見上げてきた。
 急に声をかけてきた見知らぬ高校生に、彼女の目は面白いくらいに戸惑っていた。そして、今初めて雨に濡れてる事に気づいたみたいに、ぶるっと身を震わせた。
 「あ…ありがとう」
 そう言って、彼女は微かに微笑んだ。
 それが、“月子”との、最初の出会い。

 

 「ユウ君て読むの?」
 「違うよ」
 「じゃあ、何?」
 「いいよ、別に。ユウでも」
 スケッチブックの裏に書かれた「工藤優」という名前は、初対面の人間なら大抵が「くどうゆう」と読む。いちいち訂正するのも面倒だった。
 「そういえば、名前、聞いてない」
 「そうだった?」
 「うん。聞いてない」
 「―――“月子”」
 ぴたっ、と、スケッチの手を止め、優は顔を上げた。描きかけの女性像と同じ姿の彼女が、目の前に座っている。
 「“月子”?」
 「そう。月の子と書いて、月子」
 その名は、彼女に似合っていた。
 少し寂しげな笑顔も、小首を傾げるような仕草も、黒目勝ちな目も―――真昼の太陽よりも、冴え冴えとした月を思い起こさせる。
 「よく似合う名前だ」
 優はふっと笑い、またスケッチブックに目を落とした。
 時々、少し目を上げては、彼女の姿を確認する。その口元や、緩やかに波打つ栗色の髪、華奢な手元を瞬時に目に焼きつけて、それをスケッチブックに写していく。
 「どうして私なんて描こうと思ったの?」
 「変かな」
 「だって…同級生で、いくらでもいるでしょう? 可愛い子とか、スタイルのいい子とか。何も大学生つかまえて描かなくても…」
 「確かに、描いてくれ、って言う子は、よくいるよ。でも―――いいだろ、俺は、月子が描きたいんだから」
 優がそう言うと、月子は、困ったような顔をした。
 「つい3ヶ月前まで中学生だった子供が、そんなセリフ言うもんじゃないわよ?」
 「月子だって、つい3ヶ月前まで高校生だった子供だろ? 大人ぶって説教するもんじゃないよ」
 優と月子の視線がぶつかる。大人ぶりたくて口を尖らせてる相手の顔が可笑しくて、2人とも吹き出してしまった。

 

 雨に濡れて、傘もささずに歩いてる後姿を見つけた瞬間から、優は何故か、無性に彼女を描きたいと思っていた。
 週に1度、優が大学のそばにある画塾にアルバイトしに来る水曜日だけ、月子は優の絵のモデルになることを承諾した。
 大学の正門から続く、ゆるやかな坂道。それをしばらく下った途中にある喫茶店が、月子との待ち合わせ場所だった。優はいつも、ブルーマウンテンを注文する。月子はいつも、ミルクティーを注文する。雨の日はその喫茶店で、天気が良ければ近くの小さな公園で街灯の灯りをたよりに、優は月子を描き続けた。
 「ユウ君、女の子にモテるでしょう」
 「―――どうかな。ラブレター貰った経験は、何度かあるけど」
 「大人びてるものね。そのブレザー着てなかったら、大学生と間違えてたと思う」
 公園のブランコに座ったまま、月子は、一時も手を休めない優をぼんやりと見ていた。暮れかかった公園は、そろそろ街灯なしでは月子の姿が見えなくなりつつある。優は懸命に目を凝らし、薄闇の中の月子の姿を捉え続ける。
 「…ねえ、ユウ君。いろんな人から“好き”のもらえる人って、どんな気分?」
 「え?」
 不思議な質問に、優は、少し目を丸くして、月子の顔を見た。
 「“好き”って言ってきた女の子1人1人を、ちゃんと覚えている? その女の子達の気持ち、ちゃんと届いてる?」
 寂しげで、虚ろな表情。月子の目は、優を通り越して、どこかもっと遠くを見つめていた。

 

 月子はずっと、苦しい恋をしていた。
 「私って、彼にとって、一体何番目なんだろう」
 銀杏の木にもたれかかり、月子はそんな言葉を呟く。
 「彼の友だちには“彼女”って紹介されるけど、デートの優先順位は、他の女の子達の方が上で。私の目の前でも、平気で他の子と馴れ馴れしくしてみせたりして。私、本当に“彼女”なのかな…」
 「そんな奴、やめればいい」
 「無理よ」
 月子は、ちょっと悲しげに眉を寄せ、うつむいた。
 「それでも私、好きでいることが、やめられないから」

 

 少し伏せ気味の睫も、極たまに見せる柔らかい笑顔も、全部それは、彼に向けられた月子の“好き”。
 キャンバスの中には、こんなにも月子の“好き”が、溢れている。
 月子の“好き”は、彼に届いているのだろうか。
 彼の目には、月子はちゃんと映っているのだろうか。
 何故彼は、月子を悲しませるのだろう? 簡単な事なのに。月子だけを見て、月子だけを大切にして、月子だけを抱きしめてあげれば―――それで月子は、幸せになれるのに。
 俺なら、と。
 俺なら、月子だけを見て、月子だけを大切にして、月子だけを抱きしめてあげられるのに、と。
 そう優が思うようになったのは、スケッチブック2冊が、月子の姿で埋められた頃だった。


***


 真夏のギラギラした太陽が西に傾き、今にも地平線の向こうに沈もうとしている。
 「シャボン玉って、懐かしいね」
 ストローの先から、虹色のシャボンが次々に生まれていく。微かな南風に乗って、シャボンはふわふわと流されていった。それを目で追っていた月子は、楽しげな笑顔を優に向けた。
 「ねぇ、こんなもの、どうしたの?」
 「画塾に通ってる小学生が、いつも教えてくれてるお礼だ、って言って、くれたんだ」
 「そっか。ユウ君、先生なんだものね。画塾では」
 「先生の助手、だよ」
 「でも“先生”って呼ばれてるんでしょう? 凄いね、高1なのに」
 月子の笑顔は、青天のように明るい。こんな笑顔は初めてだ。
 「ユウ君もやらない? シャボン玉」
 そう言いながら、月子はまたストローをくわえた。無数のシャボンが、また空に舞い上がる。
 「やってもいいけど、いいの?」
 「え? 何が?」
 「ストロー、1本しかないのに。間接キスになってもいいの?」
 月子が、ちょっと驚いたように、目を見開いた。そんな事には、少しも思い至らなかったのだろう。
 優はスケッチブックを閉じると、隣に座る月子の指から、その短いストローを受け取った。シャボン液につけ、口にくわえてフーッ、と吹いたら、小さなシャボンが次々に生まれた。夕陽を反射して、シャボンはかすかに茜色に染まって見えた。
 「…綺麗」
 うっとりしたような口調で、月子がそう呟く。
 「同じシャボン玉だろ?」
 「ううん、そうじゃなくて、ユウ君の目」
 「俺の目?」
 「うん。ユウ君の目って、明るくて、優しい色してる。凄く綺麗」
 優は、その目で月子をまっすぐ見つめ返す。でも、月子はその視線を避けるみたいに、くるりと体の向きを変えてしまった。
 「…ユウ君て、時々怖いよ。ユウ君の目、人を落ち着かなくさせる。―――私も今、凄くドキドキしてる」
 「―――それって、恋とは違うの?」
 月子の肩が、驚いたように小さく跳ねた。
 「俺に、しとけば、いいのに」
 また、ストローを口にくわる。キラキラしたシャボンが、月子の目の前を風に乗って飛んでいく。
 「―――大人をからかっちゃ、ダメだよ」
 そう言う月子の声は、迷子になった子供みたいに、心細そうだった。


***


 約束の時間を1時間以上オーバーして現われた月子は、表情を失っていた。
 「―――どうしたんだよ」
 優が訊いても、答えない。仕方なく、彩色を施している途中だったスケッチブックを閉じ、優は席を立った。
 喫茶店を出て、いつも絵を描きに行く公園まで、月子の手を引いて歩いた。月子の手は冷たくて、その手を握っている優の手まで凍らせてしまいそうだ。泣いていたのだろうか、月子の目は、赤く腫れぼったく見える。
 そろそろ秋の気配が近づいている。既に空は濃紺に染めあげられつつあり、上弦の月がポツンと藍色を背景に浮かんでいる。白く輝くその姿は、今の月子同様、悲しくなる位、寂しく見えた。
 「…もう、駄目なの」
 いつものように、銀杏の木にもたれかかった月子は、震えるような声でそう呟いた。
 「駄目って、何が」
 「もう、彼とは、元に戻れないの」
 「どうして?」
 「―――アパートに行ったら、知らない女の人と抱き合ってたの」
 月子の目から、涙が零れ落ちる。月子は、両手で顔を覆うと、肩を震わせて泣き出した。
 「…まだ、そいつの事、好き?」
 俯いた顔は、横にも縦にも振られなかった。
 「振っちゃいなよ、そんな男なんて」
 やっぱり、肯定も否定もしない。月子は、まだ、迷ってるのかもしれない。
 優は、月子の小さな肩を抱き寄せた。回した腕に、月子の震えが伝わる。
 「―――月子。俺にしときなよ」
 「…前にも言ったでしょ。大人をからかっちゃダメだ、って」
 「からかってないよ。俺は、月子だけを見て、月子だけを大切にして、月子だけを抱きしめていける。だから俺にしときなよ」
 優がそう言うと、月子はゆっくり顔を上げ、涙で濡れた顔に、少し皮肉っぽい笑いを浮かべた。
 「ユウ君、まだ高校生じゃない。それに、私の事、よく知らないじゃない」
 「どんな月子でも、俺は好きだよ」
 月子の目が、動揺したように揺れた。
 まだ震えている淡い桜色の唇に、唇を重ねる。初めてのキスは、ほんのりと温かくて、心地良かった。
 「―――俺、追いついてみせるから」
 「……無理よ」
 「きっと、追いついてみせるから―――だからその時は、俺のものになって」

 

 それが、“月子”と会った、最後。
 “月子”は二度と、待ち合わせの喫茶店には現われなかった。

 

***

 

 彼女は、正門の先に優の姿を認めた途端、その足を止めた。先日いた仲間たちは、今日はいない。動揺したように、彼女は1歩退いた。
 「“月子”」
 明るいショートヘアーが、5月の風を受けて、微かに靡いている。優は微笑み、彼女に近づいた。
 「今、帰り?」
 「…うん」
 「なら、久しぶりに、あの喫茶店に寄ろうよ」
 「―――ユウ君、美大に行くんじゃなかったの?」
 彼女はそう言って、眉を寄せた。確かに、彼女だけではなく、周囲の誰もが―――いや、優本人だって、将来は美大に行くものと思っていた。優は苦笑し、小脇に抱えたスケッチブックを目で示した。
 「まだ、描いてるよ」
 「でも…」
 「俺、ずっと絵ばっかやってたから、頭はあんまり良くなかったんだ。2年半、死ぬ気で勉強したよ。この大学、あの頃の俺には高嶺の花だったから」
 「―――バカっ! なんで美大に行かなかったのよ!」
 彼女の目に、涙が浮かんでくる。この泣き顔は、確かに“月子”と同じだ。
 「…約束しただろ。追いついてみせるって」
 「―――私の事、何も知らないくせに」
 「知ってるよ」
 「知らないじゃない。ユウ君の知ってる私なんて、本当の私とは違うんだから。勝手に美化して、勝手に同情して…そんなもののために、将来棒に振っちゃうなんて、ユウ君、バカだよ、ほんとに」
 「“月子”が本当の名前じゃないの位、知ってたよ」
 彼女は、次の言葉を飲み込んだ。少し丸くなった目で、驚いたように優を凝視している。
 「―――行こう。あの店。ミルクティー1杯奢れる位の余裕、今の俺ならあるから」


***


 2年半ぶりに、2人並んで、ゆるやかな坂道を下る。
 道端のアスファルトの隙間から顔を出しているタンポポが風に揺れて、真っ白な綿毛に包まれた種がフワフワと舞っている。まさに五月晴れという言葉がピッタリな、穏やかな午後だった。
 「…あの店の前、ずっと、通ってないの」
 優から1歩遅れて歩いている彼女が、小さな声で呟いた。
 「どうして?」
 「水曜日以外でも、なんだかあそこに行くと、ユウ君がいる気がして」
 「―――うん。いたよ。去年の春頃までは」
 「…ほんとに?」
 「受験の追い込みで、夏位からはさすがにやめたけど。ほぼ毎日、いつもの席で絵を描いてた。大学の下校時刻に合わせてね」
 「…そこまでしてくれたのに…がっかりしたでしょ。こんな頭になってるし、あの頃みたいな女らしさも無くなっちゃってて」
 タンポポみたいな頭が、優の隣で力なくうなだれる。その様子が可笑しくて、優は小さく笑った。
 「―――大丈夫。知ってたから」
 「知ってた?」
 「あの頃“月子”が見せていた物―――寂しそうな顔とか、ぼんやりした顔とか。あれは全部、あの頃の彼氏に向けられてるものだって。あの“月子”も悪くはなかったけど、俺が本当に惹かれたのは、そんなもんじゃないから」
 「…じゃあ、何?」
 「―――あれ、だよ」
 優がぴたっ、と足を止めた。彼女も慌てて、足を止める。
 いつの間にか、あの喫茶店の前まで来ていた。木で出来た扉の取っ手も、黒板に書かれたメニューも、あの頃と何も変わっていない。
 優は、ガラス窓越しに、店の奥の壁を指さしていた。じっと目を凝らすと、壁に1枚の絵が飾られているのがわかる。もっとよく見ようと、彼女は数歩、前に歩を進めた。
 淡いブルーを主体にした、パステル画。その絵の全貌をはっきりと目にした彼女は、目を丸くした。

 「あれは―――…」
 「そう。あれが、俺が手に入れたかった、君」

 シャボン玉を手で掬おうとしてるみたいに、手を前に差し出してはしゃいでいる彼女が、そこにいた。
 髪は、2年半前同様、栗色のゆるやかなウェーブヘアーだが、その顔は、寂しそうな笑顔でも、控えめで柔らかい笑顔でもない。まるで子供みたいに無邪気で明るい笑顔。まるで、この五月晴れの空みたいにスッキリと鮮やかな笑顔を浮かべている。

 「…一体、いつ描いたの、あんな…」
 「君と会わなくなるちょっと前から描き始めて、彩色が終わったのは、君が来なくなってから。…本当は君に渡すつもりだったけど、マスターに頼まれて、進呈した」
 信じられない、という顔をして、彼女は優を見上げた。
 優の目は、やっぱり以前と同じように、真正面から見ると怖くなってしまう位、綺麗だった。でも、やさしい眼差しは、怖いと感じるより先に、温かく感じられた。

 「本当の名前、なんて言うの」

 彼女の目から、すっ、と涙が流れた。でも、悲しげな顔をしているのではない。彼女は、とても嬉しそうに笑っていた。

 「―――皐月(さつき)

 さつき。
 この五月晴れの空のように、本当は明るくて、穏やかな人。
 「…うん。やっぱり、よく似合う名前だ」
 2年半前と同じ小さな肩を、優はもう一度、抱き寄せた。

 「皐月―――今度こそ、俺のものになって」


 腕の中の金色の頭は、一度だけ、コクン、と頷いた。

 

 

 やっと、手に入れた―――明るく輝く、月の欠片。


1000番ゲットのメルトさんのリクエストにおこたえした1作です。
「主人公がカッコイイ大学生の男性で、あまりシリアスじゃないハッピーエンドな恋愛ストーリー」
普通な、とっても普通なリクエストなのに…なぜ結城は、悩んでしまうのでせう(^^;;;;
しかもこれ、はたして「あまりシリアスでない」というリクエストに、果たしておこたえできてるんでしょうか? 非常に不安…。
カッコイイ、というよりは、ちょっと繊細な、でも芯の強い男の子、といった主人公になったかな。
ま、末永くお幸せに…2年半もかかってゲットしたんですから(笑)


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