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さくら・さくら

 

 渡会さんの喫茶店のある坂道には、1本、大きな桜の木がある。
 普通のお宅の庭に植えられたものが、枝を伸ばし、それが歩道の頭上を覆うほどになってしまったもの。たった1本なのに、その枝振りの見事さに、春になるとよく、道行く人が足を止める。
 私も、渡会さんの店に行く途中、必ず足を止める。まだ春浅い時期から、桜のつぼみがだんだん膨らむのがわかって、楽しい。

 彼も、そんな風に、まだ固い蕾をつけただけの桜の木を見上げていた。
 とてもお花が好きな人になんて見えないのに、まだ咲いていない花を心待ちにしてるみたいに、穏やかな表情で見上げていた。
 あのブレザーって、近所の高校の制服だ。学校帰りなのかな―――でも、高校から駅までって、この道通る筈ないから、もしかしたらわざわざ桜の木を見にここを通ってるのかもしれない。
 気になったけど、声をかける訳にもいかなくて、私は一旦止めた足をすぐに進め、坂道を上がって行った。

 途中、振り向くと。
 彼はまだ、桜の木を見上げていた。

***

 「こんにちはー、渡会さん」
 ドアを開けると、カランカラン、とドアベルが鳴る。カウンターの中の渡会さんが、顔をあげ、いつもの笑顔を見せてくれた。
 「いらっしゃい、のぞみちゃん」
 「ねぇ、お店の外のブルーデイジー、ちょっと元気ないよ。お水足りないんじゃない?」
 「本当?」
 「私、お水あげてくるね」
 入口脇に、まるで飾ってあるみたいに見える、ブリキ製のジョウロ。実はこれ、外の植物にお水をあげるための、超実用ジョウロなのだ。
 「掃除だけでも恐縮してるのに…悪いなぁ」
 ジョウロ片手にカウンターの中に入り、水を入れ始めた私に向かって、渡会さんがそう言って済まなそうな笑みを浮かべる。
 「ううん。350円稼ぐのって、結構大変なの、知ってるもん」
 私はニッコリ笑ってみせ、渡会さんの横をすり抜け、店の外に出た。
 ドアのすぐ横の壁に掛けられたプランターに、ブルーデイジーが植えられている。丸い形に整えられた枝葉の間から、青い花がちょうど7つ、咲いていた。
 ちょっと数えてみたら、蕾があと10個もある。ああ、春なんだなぁ、と実感して、嬉しくなってしまう。
 「綺麗に咲いてね」
 ジョウロを傾け、根元に水をあげながら、斑の入った鮮やかな黄緑色の葉を指先でちょんちょん、とつついた。少し俯き加減だった花が、急にイキイキしてきたように見えて、また嬉しくなった。


 本当は、この店で、ちゃんとアルバイトがしたいけど。
 うちの学校、お嬢様学校だけのことはあって、アルバイトは禁止。マスターの渡会さんもそれを知ってるから、前に「ここで働かせて」って言ったら、珍しい位怖い顔で拒否された。
 でも私は、ほんの少しでいいから、渡会さんの役に立ちたかった。だから、思い切って提案したのだ。
 “紅茶1杯、タダで飲ませてくれる代わりに、何かお店の事お手伝いする。それならいいでしょう?”
 ―――で、私に課せられた仕事が、店の前の履き掃除。学校に行く前、まだ開いてないお店の裏に回って、外に置いてある箒とちりとりで、お店の前をぐるりと掃いて回る。そして、学校帰りに、紅茶を1杯ご馳走になる。―――とても350円の紅茶に見合う働きとは言えないけど、それでも渡会さんは、オーバーな位に感謝してくれる。

 渡会さん―――私の、初恋の人。でも、絶対にこの思いは叶わない。そういう人。
 それが、ひとまわり以上も年が上の人だと知ったクラスメイトは「のぞみ、もしかしてファザコン?」と失礼な事を言った。…確かに、ファザコン気味なのは否定できない。お父さんが死んじゃってから、余計に渡会さんが好きになったのは、事実だから。
 でもね。そんな事言ってるクラスメイトだって、渡会さんという人の素顔を知ったら、きっと好きにならずにはいられないと思う。
 交通事故に遭って以来、もう7年―――目を覚ます気配すら見せない、婚約者の葵さん。
 彼女のために―――彼女が愛したこの店を守るために全てを捨てた渡会さんは、見た目はちょっとぼーっとしてて情けない感じだけど、もの凄く格好よくて、もの凄く強い人だ。
 私の好きな人には、永遠の恋人がいる。…それって、とても切ないことだけど、私はそんな渡会さんが大好きだから、この恋は叶わなくていいや―――そう思えるようになった。


 お店の中に戻ると、既にカウンターには、私のための紅茶とクッキーが用意されていた。クッキーのサービスは珍しいんだけど、店内をグルリと見て理由がわかった。他にお客さんがちょうどいないから、遠慮なくサービスできるってこと。
 「ご苦労様。また残り物で悪いけど」
 「わーい。いただきまーす」
 椅子に置いてた学生鞄を隣の席にどけて、席についた。アーモンドの欠片が入ったクッキーは、紅茶によく合って大好きだ。
 「のぞみちゃん、週末からはもう春休みだよね? 春休み中は履き掃除しなくていいから、気にする事ないよ」
 「え、なんで?」
 「学校行かないだろう? うちの掃除のためにわざわざここまで来るのも大変だよ」
 「行くもん、学校。うち、1年生でも容赦ないの。成績がイマイチの子は、春休み中も補習授業が朝9時からあるから、私、毎日学校行かなくちゃいけないの」
 「…それってつまり、のぞみちゃんの成績がイマイチだって事だよね…」
 「―――あ」
 しまった。口を滑らせちゃった。
 舌を出す私に、渡会さんは「しょうがいないなぁ」という顔をした。
 「そ…そういえばね。例の人、また桜見てたよ」
 もう補習授業の話は蒸し返したくないので、慌てて話を切り替える。
 「よっぽど桜の木が好きなんだね。まだ咲くまで1週間はかかりそうだけど、凄く優しい顔して見上げてた」
 「ふぅん…。今時、珍しい男の子だね」
 「ねぇ。そんな風に、全然見えないのに…」

 これが、渡会さんだったら、わかる気がする。
 渡会さんはお花が大好きだ。葵さんが眠ってる病室にも、いつもお花が欠かさず飾られている。駅前の花屋さんで、渡会さんが買ってきて活けてるから。渡会さんの風貌は、お花がとってもよく似合う。優しそうで、ちょっと不器用そうな顔だちだもの、喫茶店のマスターだけじゃなく、花屋さんも似合いそう。
 でも―――あの子は、違う。
 スニーカーの踵を踏んづけて履いていて、タイもちょっと緩め気味で―――ツンツンと立ってる髪も凄く“男の子”してるし、切れ長で一重の目も、多分睨みつけられたら、ちょっと怖い。
 普段だったら、絶対、苦手なタイプ。不良かも、って避けちゃうと思うタイプ。
 なのに…桜の木を見上げる彼の目は、なんだか、とても優しい目で。
 目が優しい感じに思えるだけで、何故か彼全体の印象までもが違って見えた。優しそうな人だな―――そんな風に思えた。

 「…のぞみちゃんにも、遅い春かな?」
 からかうように渡会さんに言われ、思わず頬が熱くなる。
 「そ…っ、そんなんじゃないもん」
 「でもねぇ…春休みが、補習授業と掃き掃除で終わる16歳ってのも、なんだか物悲しいものがあるよ?」
 うっ…、そ、それは確かに…。
 「―――でも…ほんとに、そんなんじゃ、ないもん」

 ただ、ちょっと気になるだけで。
 ほんとに、そんなんじゃないんだ。

***

 次の日も、その次の日も。
 駅から喫茶店に向かって坂道を登り始めると、桜の木の下に佇む彼の姿が確認できた。
 学生鞄を小脇に抱え、他の人の邪魔にならないように、と気を使っているのか、車道ギリギリの端っこに立って、桜の木を眺めている。だから私は、なるべく彼とは距離を置くようにして、桜の木のお宅のブロック塀ギリギリの所に立って、桜の木を見上げるようになっていた。

 明日は、終業式―――桜の蕾は、もう随分膨らんで、あと3日もしたら開花しそうな感じだ。
 楽しみだな、と思いながら、ちょっと軽い足取りで、また坂道を登り始めた。肩越しにチラリと振り向くと、彼はやっぱり、まだ桜の木を見つめたままだった。
 来週、ここを通る時は、薄いピンク色した花が出迎えてくれるんだな―――そう思うと、憂鬱な補習授業も楽しみになってくる。ウキウキした気分になった私は、そこでふと、ある事に気づいた。

 ―――…そうだ。
 明日、終業式ってことは…あの子の高校も、明日までってことだよね。

 …来ないよね、やっぱり。学校休みの日に、わざわざ桜の木を見になんて。

 軽かった足取りが、ちょっと重くなった。

 なんでだろう? ―――わからないけど。
 坂道の先に渡会さんが待ってるというのに…履いている革靴が水でも吸ったみたいに、なんだか、足が、重かった。

***

 春休み第1日目の月曜日。
 私は、いつもの時間よりちょっと遅めの時間に家を出、渡会さんの店の前を掃除してから、補習授業に向かった。
 学年の半分は強制的に受けさせられる補習なので、学校には結構な人数が登校していた。
 「全くもう…彼氏と旅行に行くつもりだったのに」
 春休みだっていうのに補習なんて、と嘆く、隣の席の友達のセリフに、思わずギョッとする。
 「彼氏、いたの?」
 「いるわよ?」
 「で、でも、うちって女子高なのに…」
 「やだ。学校以外でも、出会いなんていくらでもあるじゃない」
 …あるの?
 口には出さなかったけど、顔には出てたんだろう。友達は可笑しそうに笑って、私の背中を叩いた。
 「まー、のぞみには無理ね。だってこの年でファザコンだもの。カワイイわぁ…。もう暫く、のぞみはこのままでいてよ」
 「―――…」
 なんだか。
 思いっきり“お子様”って言われた気がする。
 ―――なんか、腹立つなぁ…。
 絶対この子の彼氏って、私たちと同世代だよ。高校生だよ。子供だよ。そう考えたら、社会人で大人な渡会さんを好きな私の方が、よっぽど精神年齢高いんじゃないの?
 それに、“彼氏と旅行”なんて―――なんか、ヘン。そういうのは、もっと大人がするんだと思う。そりゃ、彼氏がいたらいいなぁ、と思った事は何度かあるけど、そういうデートは、一度も想像したことがない。

 私が理想とするデートは、公園を手を繋いで散歩すること。
 チューリップが咲きそろったね、とか、猫柳が芽吹いてきたね、とか、そんな話をしながら散歩するのが理想。
 そういうデートシーンも、渡会さんなら全然違和感がない。この花はどこどこ原産でね、なんて豆知識を披露してくれそう。でも、同世代の男の子たちは、絶対「つまらない」って言って欠伸しちゃいそうだ。違和感だらけ。全然似合わない。
 だからいつも、“彼氏がいたらなぁ”と思うとき、頭に浮かぶのは、やっぱり渡会さんとのデートシーンだ。

 ―――でも、ふと。
 今、一瞬、渡会さん以外の顔が頭に浮かんで。私は、前から回ってきたプリントを手に、ちょっと固まってしまった。

 …あの子なら、想像できるかもしれない。公園で一緒にデートするシーン。
 まだ開かない桜の花を見上げる、あの優しい目を思い出して、そう思ってしまった。
 全然知らない、口もきいたことの無い男の子なのに―――恥ずかしくて、顔が真っ赤になりそうだった。

***

 補習は、午前中一杯で終わった。
 売店でパン食べて帰って―――多分、渡会さんのお店に着くのは、1時半か2時頃。
 …春休みなんだし。
 いつもより2時間くらい早い時間なんだし。
 よほど彼が物好きで、しかも、よほどの偶然が重ならないと、いる訳、ないんだけど。
 今日来る時見たら、桜の花がちょうどほころびかけていた。日中の暖かい陽射しを浴びれば、帰りに見る頃には、何輪かしっかり花を開いているかもしれない。

 ―――桜がほころび始めたのを見たあの彼が、一体どんな顔をするのか、ちょっと見たかったな…。

 春休みに入ったタイミングの悪さに少しがっくり来ながら、私は、友達の誘いを断って、早々に帰宅の途についた。

***

 「あれ…?」
 坂道の途中まで差し掛かった所で、私は不思議な光景を目にして、足を止めた。
 桜の木の下に、4人も立っていた。
 1人は、この桜の木の持ち主。小さい頃、何度か話をしたことがある「桜の木の家のおばさん」。そのおばさんの前に、小学生らしき子供が2人、うな垂れて立っている。
 その2人の小学生の背後に、例の彼が、立っていた。
 今は、おばさんと彼が、何かを話しているようだった。小学生2人は終始無言で、視線はずっと地面を彷徨っている。
 彼は、笑っていた。
 ちょっと恥ずかしそうに、でも楽しそうに、おばさんと話しながら笑っていた。春休みだからだろう、いつもの制服じゃなく、紺に白のポイントが入ったトレーナーにGパン姿。笑っているせいか、服装のせいか、いつもよりも子供っぽく見えた。
 ―――どうしよう。
 歩道のど真ん中で話してるから、このまま進めば、嫌でも彼らを無視して通り過ぎる訳にはいかなくなる。
 困りながらも、ノロノロと足を進めると、それまでおばさんと談笑していた彼の目が、ふいに私の方を向いた。

 う…うわ、どうしよう。
 なんか、どうしよう、しか頭の中に出てこないんだけど、どうしよう。

 ヘビに睨まれたカエルよろしく、思わずその場でフリーズしてしまった私。彼の方も、ほぼ毎日、同じ桜の下で足を止める私の顔を覚えているらしい。私の顔を見た途端、なんだかバツが悪くなったように、それまでの笑顔を消して、ちょっと不機嫌そうな顔になってしまった。
 「…あの、じゃあ―――オレ、これで」
 初めて聞く彼の声は、想像よりちょっと低かった。軽く頭を下げる彼に、おばさんは少し残念そうな顔をした。
 「あら、そう? じゃあ、もうちょっと咲いたら、また改めていらっしゃいね」
 「はい」
 僅かに笑顔を見せた彼は、最後に小学生2人の頭をパコンパコン、と連続ではたき、その場を後にした。
 坂道を下りてくる彼とすれ違う時、一瞬、その目が私の顔をチラリと見た気がしたが、確かめる勇気はなかった。ずっと視線を前に据えたままの私は、彼に叩かれた頭を抑えながら、小学生たちがおばさんに「すみませんでしたっ!」と頭を下げてる光景をぼんやり見つめていた。

 …びっくりした。
 いろんな事に、びっくりした。
 彼が、どうやら私の顔を覚えているらしい、という事も。あの桜の木のおばさんと彼が話をしてた、という事も。あんな風に楽しげに笑う人なんだ、という事も。春休みなのに、桜の花を見にわざわざ来てたんだ、という事も。そしてその時間帯に、偶然自分も来合わせた、という偶然も。
 ―――びっくりした。もの凄く。
 でも、一番びっくりしたのは―――自分に、かもしれない。
 …私、いつの間に、彼の「声」なんて想像してたんだろう?
 想像より低かったって…いつ、何故、想像してたの? あの子の声を。

 「あらっ、のぞみちゃん?」
 家の中に引っ込もうとしたおばさんは、まだその場にフリーズしたままの私に気づき、目を丸くした。
 「あらまー、久しぶりだねぇ。お母さんの方には病院行く度に会ってるけど。まー、大きくなっちゃって」
 「あ…は、はい。お久しぶりです」
 慌ててぺこり、と頭を下げた私は、それでやっとフリーズ状態から解放された。
 「あの、おばさん―――今の、小学生と男の子って…」
 「ああ、ごめんねぇ。道のど真ん中で、邪魔だったでしょう」
 おばさんは、眉を寄せてそう言うと、思い出したようにクスクス笑った。
 「あの小学生の子たちねぇ、肩車して、この桜の木の枝を折ろうとしたの」
 「え!」
 「ほら、車道に一番近いとこなら、なんとか届かないこともないでしょ。ちょうど今日あたりから咲き始めたからねぇ。気持ちもわかるけど…」
 「じゃ、じゃあ、あの…もう1人の、あの高校生位の子は?」
 「あの子はね、ちょうど坊やたち2人が肩車して奮闘してるとこに来合わせたの。“こらっ! お前ら、何してるんだ!”って、そりゃあもう大きな声でね。庭で草むしりしてた私も、子供たちの悪さには気づかなかったけど、あの子の怒鳴り声にびっくりして飛び出してきたのよ」
 ―――ど…怒鳴ってたんだ…あの子が。
 …怖かっただろうなぁ…あの小学生たち。彼の目って、桜見てる時や、さっきみたく笑ってる時は優しく見えるけど、睨んだりしたら相当怖そうだもの。背も大きいし…。
 「でもまぁ、笑っちゃうけどねぇ。あの子も小さい頃、うちの桜の枝を折ろうとして、私に怒鳴られたんだから」
 懐かしそうに笑いながらおばさんが言った言葉に、私は目を丸くした。
 「…え?」
 「なんかね、その時、ちょうどお母さんが病気で―――桜が咲いても見られないお母さんのために、一枝折って、持って行ってあげたかったんだって。桜の枝を折ろうなんて、感心できることじゃないけどね。お母さんを思っての事だと思うと、私も同情しちゃって、家から脚立持ってきて、綺麗に咲いてるとこを、一枝折ってあげたの」
 「―――…」
 「それから少しして、転勤しちゃったんだけどね、あの子。去年こっちに戻ってきたらしくて、しかもそこの高校に入学したみたいで―――自分が折らせちゃった桜が、きちんと花をつけるかどうか、あれからずっと気にしてたって言うんだから、凄いでしょう。今日、ちゃんと花が開いたの見て、嬉しそうに笑ってた。いい子だねぇ…」

 ―――そう、なんだ…。
 あの、桜の木を見上げる時のやたら優しい眼差しは、そういう経緯があったからなんだ。
 見た目、どっちかと言うと、怖く見える方なのに―――病床のお母さんに桜を見せてあげよう、なんてタイプには、絶対見えないのに。
 優しい人なんだなぁ…。

 …なんとなく。
 心の奥底が、マッチで火をつけられたみたいに、ぽっと温かくなった。
 そして、今朝、ふと頭に思い描いて我ながら恥ずかしくなった光景を、また思い描いてしまった。

 手を繋いで、公園を散歩する。お花が綺麗だとか、空が高いとか、そんな他愛も無い話をしながら。
 そんなデートをするなら、私の隣にいる人は…彼だと、いいな。
 名前も知らない人だけれど。何故か、すんなりと、そう思った。

***

 今年の春は、晴天に恵まれた。
 最初の1輪が花開いた翌日には、桜の木は3分咲き位になっていて、遠目にも枝全体がうっすらと薄桃色に染まって見えるようになった。
 補習帰りに、渡会さんの喫茶店へと向かう途中、私は立ち止まって、桜の花を満喫した。
 そして、偶然なのか、わざと時間を合わせているのか―――そんな私から少し離れた所には、あの優しい目で桜の枝ぶりを見上げる、彼の姿があった。
 1輪、また1輪と、桜の花は咲きそろっていき、その週の木曜日には、ほぼ満開になった。
 反対側の歩道からは、写真を撮る人なんかも目立ち始める。それまで足を止めなかった人々も、春霞のように枝を覆う桜の花に、思わずしばし足を止める。
 私も、嬉しいような恥ずかしいような気分で、足を止めて眺める。そして彼も―――やっぱり、そこに、いた。

 なんだか、この桜の木が花開くのを、2人で見守ってきたような気がして。
 話したこともない人だけど、そういう連帯感のようなものが生まれているような気がして。

 満開の桜の下。私も、彼も、いつもより長い時間、そこに佇んでいた。


 ―――不思議だ。
 恋って、もっと、相手の事をよく知ってから生まれるものだと思ってた。
 言葉を交わすことすらなく恋が生まれるなんて、そんなのあり得ないと思ってた。
 だって、よく知りもしないのに、好きとかキライとかって感情が生まれる筈がない…そう思ってたんだもの。
 ハンサムだな、とか、ちょっと苦手だな、とかって気持ちは生まれても、それは単に外見的なもの。恋、だなんて深い感情は、言葉を交わして、相手の人となりを知り、趣味が合うとか会話のテンポが合うとか、そんな事を確かめながら生まれていくものだと思ってた。

 ただ、そこにいるだけで。
 桜の木を見上げる、静かで、優しそうな目を見るだけで。
 たったそれだけの事で、「ああ、この人、好きだなぁ」と思えるなんて―――不思議。

 なんて、不思議なモノなんだろう…「恋」って。

***

 桜の花は、それから暫く、咲き続けた。
 けれど、日曜日に降った雨が、満開だった桜をかなり散らしてしまい、月曜日には、半分位の花びらが、散って地面を覆っていた。
 散り始めた桜を見て、ふと思った。
 ―――彼は、桜が散り終わってしまったら、もう来なくなるんじゃないかな、と。
 心臓が、締めつけられたみたいに、痛む。
 1枚、1枚と舞い散っていく花びらが、私に残された時間のカウントダウンのように感じられて、気が急いた。
 一言、声をかけることが出来れば、いいんだろうけれど…ずっと上を向いたまま、一向にこちらを見てくれない彼に声をかけるだけの勇気は、私にはない。声をかけた結果、この前見たみたいな不機嫌そうな表情を返されたら、振り絞った勇気も一気にしぼんでしまう。それが怖い。
 でも―――このままだったら、桜の季節が終わると同時に、彼とのこのささやかな時間も終わってしまう。

 ―――そんなの、嫌だ。
 もう、渡会さんの時みたいに、告白することも出来ず、ただ見つめているだけの恋なんて、したくない。

 

 満開から1週間後。
 見上げた先の桜は、ほぼ完全に、葉桜になっていた。
 ゆっくりと視線をめぐらすけれど、あの淡いピンク色した花びらは、枝のどこにも残っていない。全部地面に落ちて、無機質なアスファルトを白っぽい色に染め上げている。
 ―――今日が、最後のチャンスかもしれない。
 もの凄く、心臓がドキドキいって、苦しい位だけれど―――目線を、少し先に立つ彼の方に向けるだけで、無理矢理膨らませた勇気がしぼんでしまいそうになるけど。

 でも―――今日が、最後かもしれないもの。

 私は、意を決すると、視線を彼の方に向けた。
 すると、頭上の枝を眺めているとばかり思っていた彼は、私が目を向けたのとほぼ同時に、視線を私に向けた。

 「「あの―――…」」

 私の声と、彼の声が、重なる。その偶然に、私も、彼も、驚きに目を丸くした。
 「―――…」
 私と彼は、言葉に詰まったまま、お互いの顔を見ていた。多分私も、こんな顔してるんだろうな―――キョトンとしたような、呆気にとられたような彼の顔を見ながら、ぼんやりとそんな事を思う。

 やがて、彼が、ふっと表情を和らげ、微かに微笑んだ。あの桜の花に向けていたのと同じ、優しい目をして。

 それを見て、私もやっと、笑顔を返す事ができた。


10000番ゲットの愛美さんのリクエストにおこたえした1作です。
ご希望は「青春!!ってカンジの話。あまずっぱいカンジで」。おおおおお、王道ですねぇ…。
「Childhood Melancholy」をアップした当初、「のぞみちゃんにも幸せになって欲しい」というお声を結構いただいたので、のぞみちゃんに春を呼んであげました。
セリフが実質1つしかなかった彼ですが…結城は、こういう、不器用で口下手なタイプの男の子って大好きです。
関連するお話:「Childhood Melancholy」


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