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03 : A place to call my own

 「…ああ、わかってる―――うんうん、わかってる。夏休みはそっちに戻るから。…はぁ? 冗談っ! 姉ちゃんだって嫌だろ、今更何が家族旅行だよ、気色悪。―――はいはい。でも、バイトとかあるから、暫く待ってくれよ。予定立ったら連絡するから」

 九州からの長距離電話。
 姉とは、こうもおしゃべりな生き物だっただろうか。半年前まで同じ屋根の下に住んでたのだから、その実態は良く知っている筈なのに、「姉=おしゃべり」というイメージはゼロだ。
 ―――自分が跡を継がされそうだから、きっと焦ってるんだな、これは。
 九州ではそこそこ中堅の位置を確保している、久保田の父の会社。長男である久保田が、どうやら跡を継ぐ気がなさそうだとわかると、父の矛先は姉に向き始めている。世襲制なんて時代錯誤も甚だしい。早いとこ諦めてくれ―――それが、姉と弟の共通した願いだ。

 やっとの思いで、姉に「じゃあ、またね」の一言を言わせると、久保田は受話器を置き、大きな溜め息をついた。
 窓の外では、灼熱の太陽がアスファルトをジリジリと焦がしている。梅雨明け宣言が出た途端、一気に気温は上昇した。扇風機で暑さを凌いでいる久保田にとっては、なかなかにハードな季節へと突入しつつある。
 夏の帰省スケジュールを立てるべく、壁にかけられた7月のカレンダーに目をやった久保田は、「5」という数字を目にして、表情を暗くした。
 7月5日。多恵子の誕生日。
 6月に手首を切って救急車で運ばれたばかりの多恵子は、何故か自分の誕生日に、睡眠薬を大量に服用した。幸い、処置が早かったので大事には至らなかったが、明らかな自殺未遂だ。
 ―――大丈夫なんだろうか。1ヶ月以上、あいつを放っておいても。
 自殺を図って死にかけてる場面に2回も立ち会ってしまった久保田にとっては、自分が駆けつけることの出来ない夏休みに「それ」を実行されてしまうのが、一番の恐怖だった。

 少なくとも久保田は、多恵子の事を嫌いではない。
 誰もが自分を「久保田」としか呼ばない中で、当初から「隼雄」とファーストネームで呼ぶ点も気に入っているし、同じジャズ好きである点も共感を覚える。言動の突拍子の無さには相変わらず慣れないが、あれが「多恵子らしさ」なのだから、と、鷹揚に構えていられる位にはなった。
 周囲をうろつく怪しい生物の筈だった多恵子は、1つの季節を過ぎようとする今、久保田のかなり親しい友人になりつつあった。
 見知らぬ人間でも、橋から川に身投げしようとしてれば、止めるだろう。自分とは関係ない人間であっても、自殺を図ったと聞けば、もう大丈夫なんだろうか、と心配になる。―――友人だと思ってる人間が相手なら、尚更のことだ。

 久保田が帰省を渋る、本当の理由。
 それは、突然「死」に向かって突進してしまう多恵子が、心底心配でならないからだった。

***

 佐倉と2人で大笑いしている間、シャッターを切る音を何度も耳にした。
 「はい、おっけーでーす」
 やっと声がかかり、佐倉と多恵子はピタリ、と笑うのを止めた。
 「…米田さん、今の、使うんですか?」
 佐倉が、ちょっと嫌そうな顔をした。口を大きく開けすぎたことを後悔しているらしい。すると、米田と呼ばれたカメラマンは、まぁまぁ、と落ち着かせるような手振りをして苦笑した。
 「大丈夫。みなみちゃんのイメージを尊重して、一番エレガントなムードのやつを使うから。読者がイメージする“みなみちゃんのキャンパスライフ”をぶち壊したんじゃ、意味ないからね」
 ―――みなみちゃん…。
 その呼び名に、多恵子は思わず吹き出し、ケラケラと声をあげて笑ってしまった。佐倉が“みなみちゃん”だなんて気持ち悪い。実際、佐倉もそう思っているらしく、愛想笑いする佐倉の眉は、機嫌が悪い時同様、僅かに上がっていた。
 「おい、多恵子ー」
 レフ板に反射する光に目を細めた多恵子は、その細めた目で、呼び声の主を探した。すると、校舎に続く回廊から、久保田がこちらに歩いてくるのが見えた。
 久保田は、カメラマンやその助手や編集者らしき人間が、多恵子たちが座るベンチを取り囲んでいるのを見て、何事だ、という顔をした。
 「…っと、まずかったか、声かけたの」
 「いやー? いいよ。おじさん、今って休憩中なんだよね?」
 ケロリとした調子で多恵子が言うと、“おじさん”と呼ばれた米田は、複雑な心境を表すような笑みを見せて、軽く頷いた。
 「何の騒ぎだよ、これは」
 「佐倉の撮影。大学生ターゲットのファッション雑誌でさ、モデルの私生活をイメージして、服を何点か紹介するようなやつ。“友達と談笑するみなみちゃん”て図が必要だったから、僕も参加した訳」
 「へーえ…、“みなみちゃん”、なぁ…」
 久保田と佐倉は、ほとんど接点のない同士だが、多恵子の自殺騒動で否応なく顔を合わせている。その時の女傑ぶりを思い出した久保田は、何が“みなみちゃん”だ、という顔をして、ベンチで脚を組む佐倉を一瞥した。
 「キミも佐倉さんのお友達? 男性が一緒ってのも絵として面白いから、キミも一緒に入ってみる?」
 編集らしき女が、そう口を挟んできた。
 ―――冗談だろ。俺が、ファッション雑誌なんて軟弱なもんに載るなんて。
 ゾッとした久保田だったが、そういう嫌悪感はおくびにも出さず、見事なまでの自然なビジネススマイルを作り、
 「ハハハ、遠慮しときます。佐倉の引き立て役は、多恵子だけで十分ですよ」
 と断ってみせた。
 「そう? 残念ねぇ。上背もあるし体もしっかりしてるから、引き立て役じゃなく、十分絵になると思うんだけど」
 「所詮素人ですから、背が高けりゃいいってもんでもないでしょう。佐倉は、学生とはいえプロですからね。しかも優秀な」
 「おや。凄いわね、佐倉さん。男性にも認められてるとは」
 茶化すように言われた佐倉は、営業用の笑顔で応えた。編集者は、いわばクライアントなので、愛想良く接するのが鉄則なのだ。
 「で、なに」
 スタッフの大人たちが打ち合わせのために集まっていくのを見遣り、多恵子はバッグから煙草を取り出しつつ、久保田を仰ぎ見た。
 「お前、夏休みって暇か?」
 「んー? 結構ヒマ。お盆あたりは、軽音楽部のライブの練習につきあうけど、それ以外はテキトー」
 盆休み明けに、軽音楽部のライブがあり、その客演として多恵子が招かれているのだ。それを聞いて、久保田は少しほっとした顔をした。
 「だったらお前、バイトしないか?」
 「バイト?」
 「俺がやってるバイト先、夏休みの間、1人田舎に帰っちまうもんだから、補充人員探してるんだよ」
 「隼雄のやってるバイトって、バーテンダーじゃなかった?」
 「そうだけど、不足してるのは、歌の方。ジャズ・バーだから、ジャズ歌えるぞ」
 途端、多恵子の大きな目がキラッと光った。
 「それを早く言いなよ」
 「よっしゃ。じゃ、今日にでも面接な」
 そう言って商談成立とばかりにニッと笑うと、久保田は多恵子の頭をポン、と叩き、去って行ってしまった。彼は今、自ら「ジャズ同好会」を設立すべく活動している真っ最中だ。人員集めに、結構忙しい。
 「―――うーん。できる奴」
 久保田の後姿を見送りながら、佐倉が感心したように呟いた。煙草に火をつけた多恵子は、煙を吐き出しながら、視線を久保田の背中から佐倉に移した。
 「隼雄のこと?」
 「そう。あたし、あんたが病院に運ばれた時のオロオロしてる久保田君しか知らなかったから、図体デカいのに気の小さい奴、って思ってたけど―――あれはビジネスの天才かもね。あたしの事なんてろくすっぽ知らない癖に、ちゃっかり売り込みまでしてったじゃないの」
 「隼雄は、人の気持ち掴むのが上手いんだよ」
 何度となく見てきた。そう感じさせる場面を。
 久保田は、口が上手い。と言っても、そんなに口数が多い訳ではない。他人に不快感を与えない程度の会話の長さを知っているのだ。だから、話術が巧みだ、と言った方がいいのかもしれない。(へりくだ)るべき相手には謙ることもできるし、初対面の人間にでも気さくなムードで話しかけられる。そして気づけば、みんな久保田を「信頼できるいい奴」と感じてしまうのだ。
 それに、実際、久保田は信頼できる人間だ。口は堅いし、人情も厚い。本人のためと思えば先輩であっても叱り飛ばすし、本当に悪かったと思えば素直に謝ることもできる。
 裏表がない性格―――それでいて、計算すべき所はきっちり計算できる奴。それにプラスして、あの自信に満ちた表情と好感のもてる外見。だから、放っておいても彼は、いつの間にかリーダーとして押し上げられてしまう。

 自分の力で、自分の世界を切り拓ける奴。
 颯爽(さっそう)としている。眩しい位に。

 「―――僕とは別世界の奴って感じ」
 ポツン、と、そう呟く。
 「じゃ、どういうのが、多恵子と同じ世界の奴なのよ。あたし?」
 眉をひそめる佐倉に、多恵子は何も答えなかった。

***

 その夏は、人生で一番楽しい夏だったかもしれない。
 多恵子の歌唱力は、20年近くもセミプロたちの演奏を聴き慣れているマスターをも魅了した。即座にOKが出され、多恵子は毎晩、ピアノ・サックス・ベース・ドラムというカルテットと一緒に、ジャズのスタンダード・ナンバーを披露することになった。
 カルテットのメンバーは、多恵子よりははるかに年上の社会人だったが、見た目が素っ頓狂な多恵子にも臆することなく接してくれて、まるでマスコットのように可愛がってくれる。久保田は、途中2週間ばかり九州に帰省してしまったが、その間も彼らが店にいてくれるから退屈はしなかった。ジャズの話をしていれば、退屈なんて無縁だ。
 演奏の合間、皿洗いを手伝ったりしながら、久保田の働いてる姿を眺めた。
 シャツを腕まくりしてシェイカーを振ってる久保田は、かなり様になっている。例のビジネス用の笑顔で丁寧に客をもてなし、請われればジャズについての知識を披露したりもする。若干19歳とは思えない落ち着きをみせつつも、目上が多いこの店に似つかわしく、年齢をわきまえた腰の低さも見せている。「マスター、いい跡継ぎができたね」と客にひやかされるほど、その対応は見事だった。
 この店は、隼雄の世界だ―――多恵子には、そう思えた。
 久保田の世界に、間借りさせてもらっているような感じ。でもそれは、とても居心地の良い居場所だった。
 「今を楽しむ自分」が、最大限、膨らむ―――「飛ぼうとする自分」は、その夏、ずっと影をひそめていた。


 「その人って、例のライブに来てくれてた人?」
 「そう。何人か来てた中で、一番背が高かった奴」
 「ふーん…オレより年下には見えなかったなぁ」
 鉛筆で描いたスケッチに彩色しながら、シンジは軽く首を傾げた。
 シンジは久保田と直接言葉は交わしていない。軽音楽部のライブを見に行った時、その姿を遠目に確認しただけだ。それでも、彼が醸しだす落ち着いた雰囲気はよくわかった。シンジと久保田が並んだら、10人中10人が「久保田の方が年上」と答えるに違いない。実際には、シンジの方が2つ上なのだが。
 シンジの隣で膝を抱える多恵子は、肩につきそうな位まで伸びてきたシンジの髪をぐいぐいとひっぱた。
 「いででで…、痛いって」
 「何描いてんのさー。ちっとはこっち向けー」
 「ちゃんと話聞いてるでしょ? もうちょいで彩色終わるから」
 「遊びに行こうよー。座り疲れた。飽きた。退屈」
 「…はいはい」
 「ゲーセン行こ、ゲーセン。“ストリート・ファイター”で昇龍拳(しょうりゅうけん)見してよ。シンジ、あれ上手いじゃん」

 ―――“隼雄”は遊んでくれないの?
 一瞬、そう口にしそうになって、シンジは口を(つぐ)んだ。
 気づいてすらいないのだろうから。この、「気まぐれな野良猫」を装った子猫は。

 ライブハウスで見かけた、ほんの数十分―――多恵子の目は、無意識のうちに、ある男の姿ばかりを探していた。
 いつも、いつも…まるで、飼い主を探している、迷子になった飼い犬のように。

***

 結局、秋の大学祭でも、多恵子は軽音楽部に混じって歌うことになった。
 「いっそのこと部員になればいいのに」
 ポスターのデザイン案を並べながら、久保田は可笑しそうに笑った。
 「もう“客演”て肩書きも変だろ。お前が“客”だなんて、誰も思ってねーぞ?」
 「…でも、嫌なんだよね。どっかに所属すんのはさ」
 机の上に行儀悪く座った多恵子は、久保田を始めとする“大学祭実行委員”の作業する姿を眺めていた。今は、最寄り駅などに貼るポスターをどのデザインにするかを決めているらしい。多恵子は委員ではないが、どんなデザインが集まってるのか興味があったので、久保田にくっついて見に来ているのだ。
 「そもそも、あいつらがやる曲は、僕の趣味じゃないジャンルばっかだしね。店での歌の方が大事。夏休み終わってからも続けさせてもらえて良かった。だから、正式な“何か”は、あの店だけでいいや」
 「おい、飯島ぁ。久保田の邪魔するんだったら出てけよー?」
 1年上の実行委員が、苦笑混じりにそう言う。反抗心を顕わにして舌を出してみせる多恵子に、久保田はA4サイズの紙の束を突きつけた。
 「そうだぞ。机に座ってる暇があるなら、これを3つ折にする作業を手伝え」
 「…えっらそー…」
 「偉いに決まってるだろ。お前がじーっと机に座ってる間、俺たちはずっと立ち仕事してんだぞ」
 「…はいよ」
 不満げなポーズを装いつつ、多恵子は紙の束を受け取った。机の上から下りて、きちんと席につき、3つ折という地味な作業を始める。どうやらそれは、卒業生に出すための大学祭の案内のようだった。

 久保田は、こうやってさりげなく、多恵子の居場所を作ってくれる。
 店の件だってそうだ。久保田には内緒だが、実は多恵子は、事の真相をカルテットの連中から聞かされていた。欠員が出たのは事実だが、慌てて探すほど逼迫してはいなかったのだ、と。知り合いのボーカリストで適当に誤魔化すか、と相談しあっている所に、久保田が「同期生で凄いのがいるから、一度テストしてみてくれ」と熱心に言ってきたらしい。
 久保田の性格だから、そうせずにはいられなかったのだろう。半年ほど、周囲をうろついてみて、それがよくわかる。友人の自殺未遂に2回も付き合わされて、ただ黙って「次はいつやるのか」と不安がるほど、久保田は弱気ではない。二度とさせない―――それが久保田らしいやり方だ。でも、そのやり方は、決して押し付けがましくない。いつも、さりげない。
 久保田に素直に感謝し、厚意を受け入れる自分がいる。
 けれど、もう一人の自分が、警鐘を鳴らす。深みに嵌るな、と。
 多恵子の夢のためには、久保田は邪魔以外の何者でもなかった。多恵子の夢を阻む存在。実際、2回も阻まれた―――必然にせよ、偶然にせよ。

 「……」
 黙々と紙を3分の1に折りたたんでいた多恵子は、ふと視線を感じ、目を上げた。
 感じた視線の元を辿っていくと、そこにいたのは、気の強そうな女の子だった。
 芯の強そうな、力のある目をしており、癖のない髪をポニーテールに結んでいる。顔立ちとしては可愛い部類に入るだろうか。でも、多恵子を見つめる目の険悪さに、可愛いという感情は湧いてこなかった。いけすかない女―――それが、第一印象。
 多恵子と目が合うと、彼女はついっと目を逸らした。
 「久保田君」
 少し離れた所で、ほかの委員と一緒にデザインを見比べて論じ合っていた久保田の方へと、彼女は歩み寄った。
 「パンフレットのことで、ちょっと相談に乗って欲しいんだけど…」
 言いながら、さりげなく久保田の腕に手を添える。2人は、立ったまま、彼女が手にしているパンフレットの原稿を覗き込んで、何やら難しい話を始めてしまった。
 ―――何、あれ。
 多恵子を挑発でもしているのだろうか。馬鹿馬鹿しい、と軽く眉を上げ、多恵子はまた作業に戻った。
 「やっほー、多恵子。何、地味な作業してんのー?」
 講堂の窓から、カズミが顔を覗かせた。
 カズミは、軽音楽部の部員で、多恵子と同じ1年生だ。女でありながらドラマー志望である彼女は、体格も結構がっちりしている。聞いた話では、高校時代は水球をやっていたそうだ。広い肩幅がそれを証明していた。
 「隼雄のお手伝い」
 「おやまぁ。感心感心。で? 当の久保田君は、どこ行っちゃったの?」
 「あそこ」
 なんだか見るのが嫌なので、3つ折している紙に目を落としたまま、多恵子は久保田たちの方を指差した。それを見たカズミは、何故か表情を曇らせた。
 「…なに、実行委員のもう1人って、すみれちゃんだったの?」
 「すみれ?」
 「久保田君の隣で、馴れ馴れしい態度とってる女の名前よ。同じ経済学部だから、講義がほとんどかぶってんのよ。あたしも久保田君も」
 そういえば、カズミも経済学部だった。多恵子は顔を上げ、もう一度久保田とすみれの方に目を向けた。2人はまだ、何かを話し合っている。ちょっとくっつき過ぎだろう、という位の距離で。
 「仁藤すみれ、っていうんだ。入学当時から、久保田君狙いなのがもうバレバレ。ちょっと可愛いから、ほかの男の子から告白されてさ。夏までは付き合ってたみたいだけど、やっぱり久保田君がいいからってんで別れちゃったみたい」
 「…へーえ。執念だね」
 「そりゃまあ、久保田君はお得だもの。背は高い、性格はいい、顔もそこそこ、能力は優秀ときてるんだから、計算高い女なら、真っ先に狙うんじゃない? 多恵子、気をつけた方がいいよ」
 「気をつける?」
 その言葉に、多恵子はキョトンと目を丸くした。
 「なに、その、気をつける、って」
 「なに、って―――多恵子も、久保田君のステディの座、狙ってるんじゃないの?」
 「はぁ?」
 当たり前、という顔をするカズミに、多恵子は思いっきり訝しげな顔を向けた。考えた事すらない。久保田との恋愛なんて。というより―――恋愛そのもの、考えた事もないし、考えたくもない。
 「違うに決まってんじゃん。僕は誰にも縛られたくないんだよ? 男であれ女であれ、そいつ1人に固定されるなんて、考えただけでゾッとする」
 「…でも、久保田君の事は好きでしょ?」
 「好きだよ? カズミのことが好きなのと同じで」
 どこか腑に落ちない表情で眉を寄せるカズミだったが、それ以上、この話題に首を突っ込む気はなかったようだ。
 「…まぁ、そうだよね。多恵子と久保田君の関係って、親鳥と雛みたいだもんね」
 「ハハ、確かにそうかも」
 親の作ってくれた巣の上で、ピヨピヨ鳴きながら餌を待ってる雛―――その通りだな、と思い、多恵子は愉快そうに笑った。

***

 久保田と仁藤すみれが付き合い始めたらしい、という噂を聞いたのは、大学祭が終わって間もなくだった。

 意外にも、その情報をもたらしたのは、佐倉だった。
 「仁藤すみれの元カレが、経営学部の奴でね。聞きたくなくても耳に入る訳」
 あの男も案外バカだね、と冷たく言い放つ佐倉に、多恵子は同意も反発もしなかった。
 久保田は気さくな男で、同性からも異性からも親しく声をかけられる方だ。が、こと恋愛となると、経験不足も甚だしいらしことは、多恵子も十分承知している。仁藤すみれに猛烈なアタックをかけられたら、免疫のない久保田などひとたまりもないだろう。彼女にはあまり良い印象がないが、仕方ないよね、と、多恵子の反応はクールだった。
 だって、どうでもいいから。
 久保田が誰と付き合おうが、それは多恵子とは無関係なこと。久保田は、佐倉同様、沢山いる「多恵子のお気に入り」の一人だ。勿論、その中でもこの2人は特別ランクが上だが、ただそれだけ。恋人でもなければ、家族でもない。誰と何をしようが、多恵子の人生に影響はないし、それで久保田との関係が変わる訳でもない。
 「真面目一筋の隼雄ちゃんにも春が来たんだよ? おめでたいことじゃない」
 ニッと笑って言う多恵子のその言葉は、間違いなく本心だった。


 なのに、仁藤すみれは、そうは思ってくれなかったらしい。

 「ジャズ・バーのバイト。あれ、辞めてくれない?」
 12月に入って間もなく、突然多恵子を呼び出したすみれは、開口一番、そんな事を言い出した。
 「…はぁ?」
 「久保田君と同じ店のバイトよ。あんな遅い時間まで一緒だなんて、周りがどう考えるかわからないの?」
 苛立ったように、組んだ腕の上で指をトントン、と動かすすみれを一瞥し、多恵子は馬鹿にしたような笑いを浮かべた。
 「何それ。あんた、僕に嫉妬してんの? 隼雄と遅くまでバイトで一緒にいるからって」
 「や…っ、妬いてる訳じゃないわよ! 久保田君も言ってるもの。飯島さんはただの友達だ、って。でもね、周りはそうは思わないわけ。酷い人になると、あなたと私で久保田君を取り合ってる、なんて揶揄する人もいるのよ」
 「…馬鹿馬鹿しい…」
 「そうよ。馬鹿馬鹿しいわよ。でも、そういう風に誤解する人もいるってこと。私もあなたの態度には納得してないわ。久保田君の周りをチョロチョロされると、はっきり言って目障りよ」
 可愛い顔に似合わぬ、ズケズケした物言いをする女だ。多恵子の中の、すみれに対する好感度は、加速度的に降下していった。
 「アホらし。バイトは辞めないよ。なんで僕がバイトを辞めなきゃなんないのさ」
 「久保田君が可哀想だと思わないの!?」
 「あーあ。やだね、頭の悪い女はこれだから」
 すみれの眉が、思い切りつり上がった。
 「ネコかぶりもいーとこ。ウザい。ムカつく。あんたが誰の女でも、僕はあんたを好きになる事はまずないね。隼雄も趣味悪いよ、ほんと―――あ、隼雄の前では“大人しくて優しい女”のフリしてるんだっけ。ヤダヤダ、女ってこわーい」
 安全装置が解除されたみたいに飛び出す多恵子の毒舌に、すみれは唇を震わせて立ち尽くしていた。けれど、多恵子は止まらない。
 「僕にバイト辞めさせたい理由の中に、隼雄が可哀想だから、なんてひとっかけらも入ってないよね? 本音はただ、安心したいだけ。僕にうろちょろされて、隼雄の関心が自分から逸れるのが怖くて怖くて仕方ないだけ。独り占めして悦に入りたいだけなんだろ、どーせ。やだね。あんたの安心のために、せっかく手に入れたジャズを歌える場所、手放したりするもんか。どうしても辞めさせたきゃ、隼雄に言いな。“久保田く〜ん、私、飯島さんが久保田君の傍にいると不安で不安で夜も眠れないのぉ〜。飯島さんとは、もう絶交してぇ〜”ってさ」
 「わっ…私、そんな喋り方じゃないわよっ」
 動揺しているのか、すみれはワナワナと震えながら、論点とはズレた箇所に噛み付いた。的外れなすみれの反応に、内心、多恵子は苦笑した。
 「第一、あなただってそうでしょう? 大学の中でだって、学部も違うし共通のサークルにも入ってない癖に、いっつも久保田君につきまとって―――独り占めして悦に入りたいのは、むしろあなたの方なんじゃない?」
 反撃に出たすみれに、多恵子は、何言ってんの、という風に肩を竦めた。その反応が気に食わなかったのか、すみれは突然、勝者のような笑みを作った。
 「…でも、お生憎様。あなたが久保田君を独り占めするなんて、もう無理よ」
 「へーえ。凄い自信。何を根拠にそんなこと言う訳?」
 「だって、寝たもの」
 心臓が、ドキン、と音を立てた。

 ―――…寝た?
 寝た、って、なに、それ。

 多恵子の表情が、硬くなる。期待通りの反応に、すみれの笑みが深くなった。
 「お互い、子供じゃないんだもの。付き合うって言ったら、そんなの当たり前でしょう? 何ショック受けた顔してるの?」
 「…別に…ショックなんて受けて…」
 ―――ない。
 ショックなわけ、ない。
 自分だって、シンジと寝た。しかもシンジは、多恵子の恋人でも何でもない、ただの「お気に入り」。恋人と寝た久保田より、よっぽど酷い。
 でも、何故か―――久保田という存在は、そういう話とはかけ離れた所にあるような気がしていた。あって当然の衝動や欲望も、久保田とは無縁のような気がしていた。そんな訳がないのに。
 親鳥と、雛―――カズミの(たと)えは、的を射ている。知らなかった親の性生活の実態を見せ付けられて、呆然としている子供に等しい。今の多恵子は。

 「―――まあ、そんな訳だから。せめて学内では、久保田君の周りをうろちょろしないでよね。いい迷惑だわ」
 十分多恵子にダメージを与えたと判断したのだろうか。すみれは、勝ち誇ったような笑みを浮かべ、(きびす)を返した。

 事実―――与えられたダメージは、十分すぎる程に、十分だった。

***

 多恵子は、久保田を避けるようになった。
 すみれに言われたからではない。自主的に、避けた。嫌だった。久保田の顔から、すみれを思い起こすのは。
 別に、困らない。多恵子のお気に入りは沢山いたし、彼らも多恵子のことを歓迎してくれる。遊び相手も、暇つぶしの相手も、いくらでもいるのだ。
 それでも、バイトだけは死守した。
 振り返ればそこに、いつもと同じ笑顔で接客している久保田がいるのだけれど、多恵子はカルテットの仲間とジャズ談義に花を咲かせて、なるべく久保田との接触を避けた。

 ―――怖いよ。
 隼雄と話すのが、怖い。
 仁藤すみれに染め変えられた隼雄がそこにいる気がして、怖い。変わってしまった隼雄は、きっと私を追い出す―――今いる場所から。


 クリスマスイヴの日、とうとう、限界が来た。
 なんだか得体の知れない不安感に苛まれた多恵子は、また大量の睡眠薬を服用した。
 冬休みの大学なら誰も来ないだろう、とたかを括っていたのに、警備員に発見され、あっという間に病院に運ばれ、胃を洗浄されてしまった。大学生活3回目の未遂だ。

 目が覚めた時、思わず笑いそうになった。
 可笑しい。
 久保田が久保田じゃなくなる事に、こんなに気持ちを揺さぶられている自分が、どうしようもなく可笑しい。
 潔く旅立つ。それがポリシー。久保田はそれを阻む存在。なのに、追い出されるのを恐れるなんて。
 要らないのだ。
 久保田が与えてくれた居場所なんて。


 「―――お前な。いい加減にしろよ」
 ふいに声がして、多恵子は視線を移した。
 そして、居る筈のない男の姿をそこに見つけ、目を丸くした。
 「隼雄……」
 久保田が、怒ったような呆れたような顔をして、腕組みして壁にもたれていた。
 「…2回も救急車呼んだ経緯があるからな。今回も呼び出し食らったんだよ。保護者か何かと思われてるらしい」
 「……」
 「―――なんでそう、死にたがるんだよ」
 その質問に、多恵子は力なく笑った。
 「―――死にたがるのに、理由なんて要るの」
 「普通は理由があるだろ」
 「…そんなことより、あんた、こんな所来てていいの。愛しのすみれちゃんが怒ってんじゃない? 今日ってイヴじゃん」
 「あのなぁ」
 久保田は、完全に呆れ返った顔になった。
 「それとこれとは別問題だろ。多恵子が薬飲んでラリってるって聞かされて、今日はイヴなんで勘弁して下さい、彼女を怒らせたくないんで、なんて俺が答えると思うか?」
 「…すみれちゃん、怒ってないの」
 「―――怒ってたよ。もう、すげー怒り方。…いいんだよ。仁藤にはまた、どっかで埋め合わせするから」
 はーっ、と溜め息をつくと、久保田は(ようや)く、僅かに笑顔を見せた。
 「まあ、でも―――良かったよ。なんとか今回も無事で」
 「―――…」

 ―――なんだ。
 全然、変わってない。隼雄は。

 そう思った瞬間、もの凄い安心感を覚えてしまった自分に気づく。久保田がくれた居場所なんか要らない、なんて、もう言えなかった。


 ―――ほんの僅かでいい。
 隼雄の傍に、居場所が欲しい。


 「そら」は、ますます、遠くなった。


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