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06 : Reset

 多恵子は、手足を縮めて、丸まっていた。

 ―――寒い。
 冷たい。冷たい。冷たい。
 苦しい―――苦しいよ、陸。
 ねぇ、まだ「そら」は遠いの? どの位我慢すれば、「そら」に辿り着けるのかな。

 陸――― 一緒に、陸のお母さん、見つけに行こう―――…?


 ぐらり、と天地が揺らぐ。
 直後、誰かに襟首を掴まれ、そのままズルズルと引きずられた。
 「や…だ…」
 「やだ、じゃねえよっ!」
 でも、歩けない。
 その場に倒れこみそうになったところを抱きとめられ、軽々と抱え上げられた。まるで米俵か何かになった気分だ。まだ視界は、闇。フィルターがかかったように不鮮明な声だけが、耳に届く。
 「久保田君、下ろして! あとはあたしがやる」
 「は!? 佐倉には無理だろ。俺がやる」
 「何言ってんの。男が女子トイレに入る気? 変態扱いされるのが関の山よ」
 どさり、と床に下ろされる。次いで、多恵子の腕を掴んだのは、細くてしなやかな手だった。
 「多恵子、こっち」
 ぐいっ、と腕を引かれる。どこかに突っ伏すような姿勢をとらされた直後、その細い指が、多恵子の口の中に突っ込まれた。
 「―――…! う……ぐ…っ」
 「吐いて!」
 喉を詰めて押し戻そうとしても、指は容赦なく、多恵子の喉元に押し込まれる。背中までさすられて、胃が痙攣でも起こしたようにムカムカしてくる。多恵子の抵抗も限界になった。
 多恵子は、佐倉の手を押しのけると、飲み込んだ薬を、吐けるだけ吐き出した。


 ―――ごめん、陸。
 ごめんなさい。

 また、「そら」が遠くなっちゃった―――…。

***

 待合室のベンチに座ると、どっと疲れが押し寄せてきた。
 久保田は、大きく溜め息をつくと、天井を仰いで目元に手の甲を置いた。梅雨時独特の湿気も手伝って、体中がベタベタする。僅かに冷房の入った待合室の空気で、パニックを脱した体を冷やした。
 「お疲れ」
 かけられた声に手をどけると、缶コーヒーを手にした佐倉が立っていた。その表情には、疲れは一切見えない。
 「…冷静だなぁ、佐倉は」
 「まあね」
 久保田に缶コーヒーを手渡すと、佐倉は向かいのベンチに腰を下ろした。いつものように組まれた脚は、細くはあるが、意外に筋肉質だ。体型維持のためのエアロビの成果らしい。
 「誕生日だから、覚悟はしてた。毎年、何かしらやらかすからね、誕生日は」
 「高校時代からそうだったのか?」
 「そ。1年の時は2階の窓から墜落したし、2年の時は酒飲んで倒れたし、3年の時は雨の中ずっと立ってて肺炎起こして倒れたしね」
 「…よく放校されなかったな。進学校だろ?」
 「成績は良かったからね。まともにやってりゃ、うちより上、狙えたんじゃない」
 肩を竦めてそう言った佐倉は、缶コーヒーのプルトップを引いた。それを見て漸く、久保田も自分の分の缶を開けた。
 「―――佐倉は、あいつがなんで自殺を図るのか、知ってるのか?」
 少し躊躇いを含んで、久保田が訊ねる。人づてに聞くのはフェアじゃない気がしたが、どうしても気になったのだ。
 が、佐倉はその質問に、あっけらかんとした口調で答えた。
 「まさか。あの子、動機は一切喋らないもの、いつも。カウンセラーにもかかったけど、思春期によくある“漠然とした死に対する憧れ”なんじゃないか、って言われてたわよ。いるじゃない、死を妙に美化して憧れてる文学少女とか。あの延長線上にいるんじゃないの、多恵子は」
 「…知りたいとは思わねーのかよ。冷たいな」
 あまりにもサバサバと答える佐倉に、ちょっと腹をたてる。友達が自殺を図っているというのに、理由を突き止めて、二度とそんな気を起こさせないようにしたいとは思わないのだろうか、と。
 「最初は思ったけどね。今の久保田君は、高2の頃のあたしそっくり―――でも、無理だって悟ったから、諦めた」
 「無理、か」
 「プロでも訊き出せないのに、素人のあたしらに何ができるのよ」
 ―――そりゃ、そうなんだが。
 やっぱり、冷たい。そう思ってしまう。
 佐倉みなみは、見た目はエレガントだが、中身は逆だ。女らしい潤いが、全くと言っていいほど、ない。むしろ男に近い。湿気っぽいところがなくて、性格に裏表がなくて、そういう所は好感が持てるしいい奴だとは思うのだが、それが極端すぎて、時々ついていけないものを感じる。
 「…お前、そんな風じゃ、男も寄りつかねーぞ?」
 「あっは、何言ってるの。あたしには男なんて無用よ。男に縋って生きるなんて真っ平」
 顔を顰める久保田に、佐倉は愉快そうに笑った。
 「多恵子から聞いてない? あたし、結構苦労人なのよ」
 「? いや、別に何も聞いてない」
 「高1の時、父が借金の連帯保証人になってた人が夜逃げしちゃって―――うち、一時的な極度の財政難に陥ったのよ。あたしを大学に入れるために貯めたお金にだけは絶対手をつけない、って頑張ってる両親見てたら、何かしないとと思ってね。まだ小学生の弟もいたし。―――それで、モデルになった訳」
 初耳だった。さすがに、久保田の、佐倉を見る目が変わる。
 「そりゃ…大変だな」
 「ま、この夏で借金返済も終わるし、モデル稼業も順調だし。男作ってる暇あるなら、がんがん稼いで楽しく暮らす方に、労力もお金も回すわ」
 「―――お前、生まれてくる性別、間違えたな」
 「そうみたい。多恵子みたいな飽きのこない女を囲っておくのも楽しいな、なんて考えるあたり、かなりヤバイかも」
 ハハハ、と笑う佐倉につられて笑いそうになった久保田だったが、病室にいる多恵子の事を思い出して、また暗くなってしまった。大きな溜め息をつき、ベンチの背もたれにずるりと背中を預けてしまう。
 暫く、沈黙が訪れる。久保田も佐倉も、それぞれの缶コーヒーを機械的に口に運び続ける。比較的平然としている佐倉に比べて、久保田の顔は、深い苦悩を表している。
 「…久保田君てさ。多恵子の事、好きな訳?」
 「え?」
 疲れたように缶コーヒーをあおった久保田は、咄嗟に質問の意味が理解できずに、眉をひそめた。
 「そんな顔する程、多恵子の事心配するなんて。もしかして惚れてるから?」
 「こういう顔するのが普通で、佐倉みたいな顔する方が特殊なんだよ」
 「―――結構、失礼なヤツね、キミも。…でも、正直なところ、どうなの?」
 「…そんなんじゃねーって。そんなんじゃなくても、放っておけないって心理、わかるだろ?」
 馬鹿な事を訊くな、という顔をする久保田に、佐倉も、小首を傾げるような仕草をして、少し考える。
 「うーん…わからなくもないか。要するに、保護者意識みたいなもんをくすぐられるヤツな訳ね、多恵子は」
 「保護者…まあ、そんなとこか」
 「じゃあさ」
 佐倉が何かを言いかけた時、静まり返った待合室に、足音が響いた。
 はっとして振り向くと、足音の主は、多恵子の担当の看護婦だった。
 「飯島さん、意識が戻りましたよ。まだ朦朧としてますけど」
 「そ…そうですか。ありがとうございます」
 軽く頭を下げて礼を言う久保田に笑みを返し、看護婦は去って行った。その背中を見送った久保田は、どうする? というように、佐倉の顔を見た。
 「あたしはいいわ」
 「そうか」
 返事を聞いた久保田は、残ったコーヒーを飲み干すと、「ごちそう様」と佐倉に言って、やっと僅かに笑顔を見せた。落ち着いた、大人の男の笑顔―――多恵子の好きな笑い方だ。

 ―――じゃあさ。
 もし、多恵子がキミに惚れてるんだとしたら…、久保田君、どうする?

 口にしそびれてしまった質問。けれど、言わなくて正解かもしれない。
 多恵子が何も言わないのに、自分がそんな憶測を口にするのはルール違反だ―――多恵子の病室へと急ぐ久保田の背中を眺めながら、佐倉も、残りのコーヒーを一気に飲み干した。

***

 病室には、多恵子の母がいた。
 久保田が多恵子の母と対面するのは、これが3回目だ。クリスマスイヴの時を除く多恵子が自殺を図った時、病院で会っている。
 その人は、控えめでやさしげな、まさに「理想の妻」といった感じの中年女性だ。多恵子の父は、大学病院の優秀な脳外科医だという。いわゆる「金持ちの奥様」的な嫌味はないが、着ているスーツの仕立ての良さなどに、そういったバックボーンが窺い知れる。
 それにしても、人の命を預かる“医者”の娘が、自殺常習犯とは―――皮肉な話だ。
 久保田が顔を見せると、多恵子の母は、軽く会釈をして、病室を出て行った。泣いていたらしく、目が赤い。手首を切った時、何度も何度も「どうして」とうわ言のように繰り返していたので、この人にも、多恵子が自殺を図る理由はわからないのだろう。
 母と入れ違いに入ってきた人間の気配に気づいたのだろう。多恵子は、少しだけ頭をもたげた。
 「隼雄…?」
 「―――俺だよ」
 ベッドの上の多恵子は、青白い顔をしていた。
 いつも唇を彩っている、キラキラしたショッキングピンクの口紅が剥げ落ちると、現れた唇は極端に血色が悪かった。目の下にも、僅かに隈らしきものが見受けられる。
 死の淵まで行きかけた顔―――日頃の多恵子が持っている、極彩色の輝きは、どこにもない。
 「何かして欲しいこと、ないか?」
 ベッド脇に椅子を引っ張ってきて座った久保田は、そう言って多恵子の顔を覗きこんだ。
 多恵子の目は、虚ろだった。看護婦が言った通り、朦朧とした状態なのかもしれない。けれど、久保田の質問は聞こえたらしく、酷く緩慢な動きで首を横に振った。緩やかな拒否に、久保田は「そうか」と答える以外ない。
 「…なん…で、助けたの」
 「……」
 「…次…ほっとい、て」
 「―――そんな訳にいくかよ」
 いたたまれなくなって、掛け布団の上に投げ出された多恵子の手を、両手で包んだ。
 「…なあ。何かないか? 俺に出来ること。…どうすりゃお前、自殺なんて馬鹿な事、考えなくなるんだよ…?」
 途方に暮れたような久保田の声に、多恵子が、口元に微かに笑みを浮かべた。疲れたような、諦めたような笑い。
 「…ないよ」
 「ひとつも?」
 「…それに…自殺は、馬鹿な事じゃ、ない」
 「馬鹿な事だろ。お前死んだら、一体どんだけの人間が泣くと思ってるんだよ。え?」
 「……」
 「なあ―――生きろよ」
 思わず、多恵子の手を包む手に、力をこめる。
 「お前のポリシーなんだろ? “今を楽しむ”のが。もっと楽しめばいいじゃねーか。楽しみにどっぷり浸ってればいいじゃねーか。…な? 生きろよ、もっと」
 久保田がそう言っても、多恵子の表情は虚ろなままだった。瞬きまでもが、緩慢だ。
 聞こえてないのだろうか?
 見えてもいないのだろうか?
 多恵子は今、どこにいるのだろう? 体はここにあっても、意識はどこか別の空間にいるのかもしれない。それは、一体どこなのだろう?
 「―――…そ…ら…」
 「え?」
 多恵子が、微かに、何かを呟いた。
 “そら”―――そう、聞こえた。空がどうしたというのか。久保田は眉をひそめた。
 「空がどうした? 多恵子」
 「―――…る」
 「…は?」
 ますます、声が小さくなる。多恵子の口元ギリギリまで耳を寄せた。それでも、辛うじて聞き取れた言葉は、僅かな空気の揺らぎにも掻き消えてしまいそうだった。

 「―――もう、一度、生まれる―――…」

 多恵子はそのまま、小さな寝息をたてて、眠りについてしまった。

***

 「こらー! 成田! 単独行動するなっ!」
 荒川の土手で、モデルを使っての撮影会。
 なのに、一人川面にカメラを向けている新入生に、部長は手にしたノートを丸め、その後頭部をはたいた。
 瑞樹は、はたかれた頭を抑え、不機嫌そうな目を部長に向けた。
 「いいか、成田。お前は確かに、写真部(うち)に入った1年生じゃピカ一に腕がいいけどな。協調性なさすぎ、被写体選り好みしすぎ、ロケ地でフラフラフラフラ歩き回りすぎ。もーちっと真面目にやれ! 真面目に!」
 「―――これが精一杯です」
 「もっと努力しろっ!」
 うんざり、という顔で部長を一瞥し、瑞樹は返事代わりに軽く手を挙げてみせると、また川面に目を移してしまった。
 「それに、久保田! お前はうちの部員じゃないんだから、勝手にくっついてきて邪魔をするな!」
 瑞樹の隣で、川面にカメラを向ける瑞樹を眺めていた久保田は、部長にそう言われて、くるりと彼の方に顔を向けた。
 「いや、邪魔はしませんから。俺たちの事は気にせず、撮影会を進めて下さい」
 にこやかに、でもきっぱりとそう言われてしまうと、部長も二の句が継げない。まだ何か言いたそうに口を開いていたが、諦めたのか、踵を返して撮影現場に戻って行った。
 「それも、久保田式処世術?」
 ファインダーから目を離した瑞樹が、そう言って片眉を上げる。よくやるよ、という顔で。それを見た久保田は、ちょっと笑い、足元の小石を拾った。
 「処世術、なぁ―――そこまで高尚なもんかね。相手を怒らせずに意志を通すには、おちついて笑顔で対処が早道だから、やってるだけで」
 「…そういうのを処世術って言うんじゃねーの」
 「かもな」
 微かに、風を切る音がした。久保田が投げた小石は、川面を2回蹴った後、ぽしゃん、という音をたてて、水底へと消えた。それを目で追っていた瑞樹は、無意識なのか、そのまま視線を空まで滑らせていった。
 梅雨明け間もない空を見上げ、目を細める―――風にあおられた髪をゆっくり掻き上げて。
 瑞樹独特の、人の目を何故か惹きつける仕草。そんな様を傍らで眺めていた久保田は、多恵子が口にした単語をぼんやりと思い出していた。

 ―――“そら”。

 久保田も、空を仰いでみた。
 飛行機雲が、青いカンバスの中央にくっきりとした白い線を残している。夏に一歩近づいた鮮やかな青は、空など滅多に見ることのない久保田には眩しすぎた。さっき瑞樹がそうしたように、久保田も思わず目を細めた。
 「…わかんねぇなあ…」
 溜め息と共に、そう呟く。その声に、散歩している犬にカメラを向けていた瑞樹が、眉を顰めて目だけ久保田の方に向けた。
 「またあの女の話かよ」
 その口調は、忌々しげで、投げやりだ。
 何があったのか知らないが、ここ1、2週間、瑞樹は多恵子を酷く嫌っている。以前は、久保田と一緒に居る時ならば多少言葉を交わす位のことはあったのに、最近は、多恵子の姿を見ただけで、ふいっと席を立ってどこかへ行ってしまう。久保田の知らない所で、多恵子は瑞樹を相当怒らせてしまったらしい。
 無表情な瑞樹だけに、こうした“忌々しい”という感情だけでも表に出るのは珍しい事だ。久保田は苦笑しつつ、また足元の小石を拾った。
 「そ。また“あの女”の話」
 「…ほっときゃいいだろ」
 「―――って、みんな言うんだけどな、俺と親しい奴は。でもなぁ…なんで自殺なんてやるんだろう、あいつ。そんな必要のない位、あいつの人生、結構恵まれてる上に楽しそうだと思うんだけどなぁ、俺は…」

 どうしても久保田には、わからなかった。何故多恵子が、生より死を選ぼうとするのか。
 裕福な家庭に生まれ、しっかりとした教育を受け、音楽の才能にも恵まれ、友人も沢山いる。心配して駆けつける家族もいるし、かといって縛られている訳ではなく、日々を自由に、楽しそうに過ごしている。―――なのに、何故?
 佐倉が言ったように、少女期にありがちな、死を美化したロマンティシズムの延長にすぎないのだろうか? 死のムードに酔って、ついフラフラと手首を切ったり睡眠薬を飲んだり…? そんな筈はない。長期間過ぎるし、度重なり過ぎる。
 だったら、何故―――?

 手のひらの上で小石を弾ませていた久保田は、苛立ちを断ち切るように、サイドスローでそれを勢いよく投げた。今度は、水面を5回蹴って、川底に沈む。けれど、気分は晴れなかった。
 どこかの大学のボート部だろうか。レガッタが、上流から滑るように走ってくる。それを見た瑞樹は、またカメラを構えた。
 「―――特に理由も見当たらないのに死にたがる人間の事情なんて、1つしかないだろ」
 ファインダーを覗き込みながら、瑞樹が、ぼそりとそう呟く。知らず、久保田の目が丸くなった。
 「1つしかない、って…何だ?」
 「“生きていたくないから”」
 「…は?」

 ―――生きていたくないから?

 久保田は、ポカンとした顔で、シャッターを切る瑞樹の横顔を凝視した。久保田の疑問を含んだ視線を感じたのか、瑞樹はカメラを下ろすと、訝しげな表情で久保田の方を流し見た。
 「何」
 「いや―――その、お前の言うその“生きていたくない”ってのが、よく、わかんねー…」
 「どこが」
 「…だって、“生きていたくない”、イコール、“死にたい”なんじゃねーか? どう違うんだよ」
 「―――は…、素直だよな」
 どこか皮肉めいたその笑いに、思わずむっとする。単細胞、とでも言われた気分だ。
 が、瑞樹に久保田を揶揄する意図はなかったらしい。苦笑を浮かべると、自分を睨む久保田を、宥めるように手で制した。
 このロケーションで撮りたかった物をあらかた撮り終えたのか、瑞樹はデイパックを拾い上げ、のんびり歩き出した。久保田も、特にここにいる理由もないので、並んで歩き出す。
 しばし、沈黙が続く。土手をランニングする野球部の掛け声や、散歩中の犬同士が鉢合わせした甲高い鳴き声などをBGMにぶらぶらと歩き続けていたが、やがて、瑞樹がゆっくりと口を開いた。
 「―――あんたさ。自分が今、なんで生きてるか、疑問に思った事、ある?」
 「…え…?」
 唐突な質問に、久保田は眉をひそめた。
 過去20年あまりの短い人生を振り返る。が、そんな事を考えた経験は、一度も見当たらない。
 「ないな」
 「だろうな」
 「―――瑞樹。お前、からかってるんなら怒るぞ」
 「あいつは、疑問に思ってる。きっと」
 久保田の顔色が変わった。
 瞬時に真顔になり、瑞樹の横顔を見据える。瑞樹の方は、いつも通りの淡々とした表情だった。
 「今自分がこうして呼吸していることが、心臓が鼓動を打っていることが、許せない。…何があるからとか、何がないからとか、そういうんじゃなく―――生きてる。それが、我慢できない。そういう人間もいる」
 「…なんでだ?」
 「生きてる限り、今の自分が続くから」
 「……」
 「生まれた事、それ自体が間違いだった。そう思う奴もいる。今の自分は要らない。この体は要らない。この記憶は要らない―――そういう奴が望むのは…“リセット”だ」

 ―――リセット。

 背筋が、寒くなった。
 何故なら、恐ろしいほどに、符合したから。多恵子の言動に。
 本来祝福されるべき「誕生日」に、必ず死の妄想にとりつかれる、多恵子―――“もう一度、生まれる”という、あの言葉。
 リセット。それが、彼女の望み。

 「…まさか、お前もそう思ってるんじゃないだろうな…?」
 あまりの符合に、久保田はその可能性を考えて震撼した。恐る恐るそう訊ねると、傍らを歩く瑞樹は、正面を向いたまま僅かに口の端を上げた。
 「さあな」
 「…おい。冗談じゃねーぞ?」
 「―――冗談。思ってねーよ。俺はゲームじゃない。リセットなんてできるかよ」
 だったら、なんでそんなに多恵子の事がわかるのか、と、釈然としない部分もあるにはあるが、誤魔化しではない、はっきりとしたその口調に、内心ほっと胸を撫で下ろす。あからさまに安堵した表情をする久保田に、瑞樹はまた苦笑を浮かべた。
 「ま…、あの女、どうせ暫くは本気ではやらねーよ」
 「えらく断定的だな。言っとくけど、多恵子は“狂言”じゃないぞ。毎回、あと一歩というところで命拾いしてるんだから」
 久保田がそう言うと、瑞樹は、嘲るように口元を歪めた。
 「まだ、甘い―――まだ、迷いが残ってる。でなきゃ、大学なんかで自殺図るかよ。実際、4度も阻まれてる」
 「―――それも、そうだな」

 …ならば。
 まだ、間に合う―――…?

 リセットボタンを押す気を殺がせることが、今からでもできるだろうか…? でも、どうやって?

 「―――何か、ある筈だ」
 思いつめたような声で、久保田が、自分に言い聞かせるように口にする。
 「ある筈だ―――命を絶つ以外にも、生まれ変わる方法が。生きたまま生まれ変わる方法が」
 そんな久保田の横顔をチラリと見た瑞樹は、ふっと笑い、また目線を前に移した。そして、久保田に聞かせるでもなく、ポツリと呟いた。
 「―――生き続けるのが“幸せ”だと思うのは、幸せな人間の傲慢なんじゃねぇの」
 「……」
 思わず、瑞樹の横顔を再び凝視する。けれど、瑞樹の表情は、いつもと特に変わりはなかった。


 ―――“あんたと俺とは、違う世界の人間だ”。

 久保田は何故か、瑞樹にそう、言われた気がした。そしてその言葉は、何故か多恵子の言葉のようにも聞こえた。

 胸が、痛かった。
 自分と多恵子の間にある見えない隔たりを瑞樹に突きつけられた気がして―――痛かった。


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