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15 : 「そら」の向こう

 『2人とも、僕の恋人』―――多恵子は、久保田と佳那子のことを、人にそう言って憚らなかった。

 「お前なぁ…よからぬ疑いをかけられるだろ。やめろって」
 その度に久保田は苦言を呈したが、
 「あら、別にいいじゃないの。私たち3人が、そんな怪しい関係じゃないの位、見た目でわかるわよ」
 佳那子は案外、あっさりと流して、むしろそういう言葉遊びを楽しんでいた。
 「ったく…佐々木、いつからそんな不良娘になったんだ? 門限厳守の箱入娘のくせに」
 「言ったでしょ。現在不良修行中って。不良のお手本に文句は言われたくないわ」

 そんな言葉の遣り取りを、多恵子は大好きなカクテルを片手に、悦に入って眺める―――ジャズの名盤を肴にしながら。


 誕生日の日、偶然出会って誕生祝をやって以来、3人はよく連れ立って飲みに行った。
 ジャズ・バーを中心にはしていたが、ショット・バーや居酒屋もあった。ジャズという共通の趣味がある3人なので、うまい酒と不愉快じゃないBGMがあれば、それで十分楽しめる。時には、久保田を抜きにして佳那子と2人、女同士で飲みに行く時もある。知り合って間のない同士でも、話題には事欠かなかった。

 久保田はよく、佳那子のことを「箱入娘」と表現する。が、それは、決して誇張ではない。
 「終電に間に合わないと、週末は外出禁止令なのよ。大学の時なんて、反省文も書かされたわねぇ…。教鞭とってたことのある父だから、その癖が抜けないのかも。清く正しく美しくなんてモットー掲げてるけど、ただの過干渉の親バカよ」
 厳格で過干渉な父親に育てられた影響で、22年間、ずっと優等生を貫いてきた佳那子に、カルチャー・ショックを与えた人物。それが、久保田だった。
 日々、余裕ありそうに、楽しげに生きる彼が、社内で確実に業績も評判も人脈も伸ばしているのを見て、真面目な佳那子は、「優等生なんて、つまらない」と思ったそうだ。最初こそ「調子のいい奴」と眉を顰めて意地を張っていた佳那子も、ジャズ好きという共通点を見つけてからは、久保田を見習って肩の力の抜き方を学んでいるのだという。
 そういう優等生なのに、佳那子は何故か、多恵子を気に入ってくれた。
 「意外だよなぁ。佐々木は、真っ先に拒否反応示すと思ったのに」
 久保田が言うと、佳那子は、その形のいい唇の端を綺麗に上げて笑った。
 「自分にできない事ができる人って、魅力的なのよ。その点、多恵子ちゃんは、最高に魅力的よ」
 真面目に真っ直ぐに育てられた優等生の面と、多恵子の過激な行動を楽しめてしまうような茶目っ気のある面―――佳那子のそんなギャップを、多恵子も最高に気に入っている。

 「全く…自分でも嫌になるけど、22年培われた生真面目さは、なかなか崩せないのよねぇ」
 フォア・ローゼスを傾けつつ、佳那子が溜め息をつく。真面目すぎる、と真面目に悩む佳那子の様子は、多恵子から見ると結構可愛らしくて、つい笑ってしまう。
 「佳那子ちゃんは、今のままでも十分いい具合に羽目外してると思うけど?」
 「そう? でも、多恵子ちゃん見てるとねぇ…。私より、ずっと考え方が柔らかいじゃない? それだけの柔軟さがあったら、仕事で躓いても、もっと楽に乗り越えられそう。いいわよねぇ…」
 「おいおい、多恵子レベルまで崩れる必要はねーぞ。適当にしとけ、適当に」
 「…隼雄、うるさい」
 崩れきった代表のように言われた多恵子は、久保田を軽く睨み、カクテルをくいっとあおった。
 グラスを握る多恵子の手首にはまった腕時計に何気なく目を向けた久保田は、そこに表示されている時間を見て、眉をひそめた。
 「おい、佐々木。やばい。もう出ないと終電逃すぞ」
 「え? …あらら、ほんとね」
 佳那子も自分の時計を見、慌てて立ち上がった。
 佳那子は、ジャズの話題やお互いの近況で場が盛り上がってしまうと、結構時間を気にしなくなってしまうタイプだ。終電を逃したらえらい目に遭うのは佳那子なのに。
 そのせいなのか、他に事情があるのか、多恵子の知る限り、帰る時間をひたすら気にしているのは、むしろ久保田の方なのだ。なかなか席を立とうとしない佳那子をイライラと急かす様子に、よく多恵子は「姫君おつきの侍従長みたいだね」と皮肉っぽくからかってみせた。
 「駅まで送るか?」
 「大丈夫よ。この辺危なくないし。…じゃ、多恵子ちゃん、また今度ね」
 「んー、おやすみー」
 慌てて店を出て行く佳那子を、久保田と多恵子が見送った。
 「―――ホントは家まで送りたいって顔してる」
 佳那子がいる間は遠慮して控えていた煙草をくわえ、多恵子は久保田にニヤリと笑ってみせた。久保田も煙草を取り出しているところだったが、多恵子の一言に、軽く眉を上げた。
 「…冗談。んな訳あるか」
 「そぉ? いい加減白状したらどうよ、2人の関係。もう2ヶ月近く経つんだしさ」
 「飲み友達だって」
 疑いの眼差しで見る多恵子を、久保田は無視した。

 多恵子は、察している。久保田と佳那子は、ただの友達ではない、と。
 ふとした瞬間―――久保田が佳那子をみる目や、佳那子が久保田に見せる笑顔に、それを感じる。かつての“ボランティア”や佐倉とのかみ合わない恋愛では決してない、等分の思いを互いに交し合う恋愛感情を。
 初対面の段階で、既に多恵子はそれに気づいていた。だからその後、久保田にも佳那子にも、何度か訊ねてみた。
 なのに―――何故か2人とも、2人の関係の明言を避けてしまう。もしかして、多恵子に気を遣っているのかも、と思ったが、どうやらそれも違うようだ。

 友達だと言う2人。
 ならば多恵子も、知らないふりをする。
 2人は、多恵子の恋人―――それは、事実。多恵子は恋をしていた。久保田と佳那子、それぞれが持つ、多恵子にはない明るい光に。


 多恵子、23度目の夏は、そんな風に過ぎていった。

***

 ―――誰かが、ドアを叩いてる。
 寝入りばなで、まだ半分意識が覚醒していた多恵子は、繰り返される呼び鈴とドアを叩く音に、目を開けた。
 ベッドサイドのライトをつけ、目を擦りながら起き上がる。寝ぼけ眼で時計を確認すると、午前1時少し前だった。その間にも続く呼び鈴の音に急かされながら、多恵子は玄関へと急いだ。
 「…はぁい…」
 「多恵子?」
 押し殺したような小声。けれどそれは、間違いなく母の声だった。
 思いがけない声に、瞬時に目が覚める。魚眼レンズから確認すると、普段着姿の母が、何故か悲痛な顔をして立っていた。多恵子は、ドアチェーンを外すと、急いでドアを開けた。
 「どうしたの? 珍しい」
 母はそもそも、こんな時間に起きている人ではない。眉をひそめてそう言うと、母は、申し訳なさそうに体を縮めながら、多恵子の促しに応じて玄関に入ってきた。
 「ごめんね、多恵子、こんな時間に。でも…もう、一刻も早く来たくて」
 「? 何、なんかあったの」
 「―――これ」
 苦悩の表情の母が、そう言って多恵子に差し出したのは、細かくちぎられた紙片を丁寧に繋ぎ合わせたものだった。どうやら、白い便箋のようだ。
 「おととい届いた手紙でね、その―――多恵子の実のお母さんの、姉って人からみたいなのよ。またお父さんが、中身も改めないで破っちゃったから、こっそり拾っておいたの。それで、ついさっきまでかかって、やっと繋いだんだけど…」
 それを聞いて、多恵子の顔色が変わった。慌てて、しっかり紙を広げ、視線を落とした。
 ところどころ紙の裂け目になって読めなくなっている手紙。一度では意味がわからず、もう一度読む。それでもわからず、もう一度。
 そうして3度読んだ後。
 多恵子の表情は、ショックを受けたように、強張った。

 内容は、極簡潔。
 6月に故人があなた宛に送った遺言状がある筈だが、その内容を教えてもらえないだろうか。遺言状の存在は故人が入院中、主治医にのみ漏らしたことなので、実在しない可能性もある。とにかく連絡をして欲しい―――“あなた”とは、つまり、父のことだ。
 そして、故人とは―――…。

 6月に故人が、父宛に送った遺言状―――思い浮かぶのは、3ヶ月前に見た、あの、浅葱色の封書。

 背筋が、冷たくなる。つぎはぎだらけの便箋を持つ手が、小刻みに震えた。

 「封筒は…封筒はまだ、繋ぎ合わせてないのよ。…ね、多恵子。一緒に帰って、差出人の住所、確認しましょう? お父さんに訊いても、きっと答えてくれないから」
 母が、目に涙を浮かべ、縋るように多恵子の腕に手をかけながら、そう訴えてくる。
 けれど多恵子は、力なく首を横に振った。その反応に、母は更に腕を掴む手に力をこめた。
 「駄目! 駄目よ、多恵子。あなたの本当のお母さんなのよ? そこにある日付けからすると、まだ初七日には間に合うわ。ね? せめて、お別れだけでも…」
 ―――お別れなんてしても、意味ない。
 それに、唯一、確認すべきだった「遺言状」も、もうこの世にはない。その内容を知る唯一の人がこの世から消えた今、そこに何が書いてあったかを確かめる術は、もうないのだ。
 多恵子は、大きな溜め息をひとつつくと、ゆっくり顔を上げた。今にも泣き出しそうな目をする母に、静かに笑いかける。
 「―――…もう、いいよ」
 「多恵子…」
 「お母さん以外の母親、要らないし」
 「……」
 動揺に瞳を揺らす母を、多恵子は緩やかに抱きしめた。
 「ごめん…こんなに、頑張って繋ぎ合わせてくれたのに。でも、もういい…ほんとに、もう、いいよ」


 実母の死など、別にショックでも何でもない。
 多恵子自身、汚らわしいと感じるほどに、愛せない女。だから、彼女が死んだ事は、他人の死以上に、どうでもいい。
 けれど。

 ―――知りたかった。
 あの浅葱色の封筒の中に、どんな言葉が封印されていたのか。

***

 「よぉ、多恵子ちゃん。今日元気ないね、どうした?」
 声をかけられ、多恵子は我に返った。
 週に1度の、ジャズ・バーでのライブ。前のカルテットとは違い若いメンバーばかりで構成されたトリオが仕事仲間だが、今はその3人が、閉店後の楽器の後片付けをしているところだった。
 声をかけてきたのは、ベースを弾いているメンバー。メンバーの中では、一番親しくしている男だ。
 「ん…ちょっと、嫌なことあってね。うまく歌えてなかったかな」
 「いや、歌は良かったよ。けどねぇ…なんか、ずっと上の空だったからさ」
 そう言って、曖昧な表情で笑う彼に、多恵子も曖昧な笑みを返した。その多恵子らしからぬ笑いが、相手を余計心配させているとも気づかずに。

 母が、あの手紙を持ってきた日から1週間後の、おととい。多恵子は、2週間に1度の家族ごっこをしに、実家へ戻った。
 運悪く在宅していた父は、もうとっくに母からあの話は聞かされているだろうに、何一つ言わなかった。ただ黙って、淡々と箸を口に運び続けていた。
 命を扱う商売―――誇りを持って自分の職業をそう言う父が、実母の命に関しては、この扱いだ。病床でしたため、なんとか父に託した最期の言葉でさえ、父は破り捨てた。…いや、勿論、そうと知ってやった訳ではないが、知っていたとしても、同じだったと思う。そう思うだけの実母に対する憎悪を、多恵子は日々、感じていたから―――父が自分を見る、目の中に。
 心が、どこか遠くを彷徨っている感じがする。
 多恵子の中のどこかが、痛みを訴える。心…いや、心より、体かもしれない。体を掻き毟りたくなるほどに、どこかが痛い。まるで、引きちぎられたみたいに。
 あまりの痛みに、気づくと多恵子は、必死にシンジを求めていた。
 全てを忘れる位に抱きしめて欲しい。じゃれあって求め合って、今抱える痛みを癒して欲しい。体温を直に感じれば、一人じゃないと思える。
 シンジは、優しかった。…あの優しさが、今、一番必要なのに―――シンジはもう、いない。いられなくしたのは、自分だ。

 「…もう…限界かも」
 「え?」
 思わず呟いた言葉を、彼が聞きとがめた。
 なんでもない、という風に首を振る多恵子に、彼はますます心配そうな顔になる。放っときゃいいのに、と、多恵子は疲れたような笑みを口元に浮かべた。
 「―――あの…多恵子ちゃん。良かったらこの後、飲みに行かない?」
 彼は、うなだれる多恵子の肩に手をかけ、顔を覗きこむようにして小声で言った。
 心配そうな声―――けれど、その裏にあるものに、多恵子は気づいている。この男は、これまでにもよく、多恵子の髪や肩にさりげなく触れる事があった。ただのバンド仲間にしては、ちょっと不自然な位に、頻繁に。
 ふっと笑い、多恵子は目を上げた。
 「女が弱ってるとこにつけこむタイプ?」
 「…えっ」
 うろたえたような目になるのが、余計可笑しい。多恵子は、口の端をきゅっと上げると、彼の耳元に口を寄せた。
 「…いいよ? つけこんでも。ただし―――最高に優しくしてくれるんなら、ね」

 

 バタン! という音と共に、玄関のドアを勢い良く閉めた。
 震える手で鍵をかけると、多恵子はドアを背を向け、その場にズルズルと座り込んだ。
 落ち着かせるために、大きく息を吸い、吐き出す。それを何度か繰り返した多恵子は、目を閉じ、自分で自分の体を抱きしめた。
 「バ…ッカみたい…」
 挑発しておいて。誘いに乗っておいて。
 いざ、ベッドの上に押し倒された瞬間に、怖くなって逃げ出すなんて。
 この体が記憶していくのは、シンジの手や唇がいい―――そう思った、あの最後の夜。その思いが、多恵子を臆病にしていた。どれ程の嵐が体の中で吹き荒れていようと、もう無理だった。
 やりきれない孤独が、体の中を暴れまわる。本当にもう、限界だ。

 多恵子は、何かに急かされるように立ち上がると、靴のまま部屋に駆け込んだ。
 卓上式の鏡台の引き出しから、手探りで剃刀を取り出すと、無我夢中でそれを手首に当てた。もう、いい。早くこの世界から逃げ出したい。今すぐ―――解放されたい。
 と、その時。
 鏡台の鏡に、自分の顔が映った。
 「―――…」
 鏡の中の自分は、泣いていた。
 「成…田…」
 “羨ましい”。
 こんな自分を、羨ましいと言った、彼。同志として、彼にだけは誠実でありたいと思った。
 目を閉じ、久保田の顔を思い浮かべる。
 多恵子の瞼の裏に浮かぶ久保田は、あの、病室で見た久保田だった。死ななくて良かった、と、肩を震わせて多恵子に縋りついた、あの久保田の姿だった。
 ―――笑えない。
 到底、笑顔で死ぬことなんて、まだ出来ない。

 目を開き、涙を零す蒼褪めた自分の顔をしばし見つめた多恵子は、唇を噛むと、剃刀を鏡台の引き出しに押し込んだ。

***

 「ごめんね。久保田ってば、客先でとっ捕まっちゃって。遅れて来ると思うけど」
 「うん」
 「…多恵子ちゃん? 大丈夫?」
 どこか上の空な多恵子の様子に、佳那子が眉をひそめる。それに気づき、多恵子は慌てて笑顔を作った。
 「大丈夫だよ。どっかヘン?」
 「変、というか―――ちょっと、多恵子ちゃん」
 グラスを手にした多恵子の手首を見て、佳那子の顔色が変わった。
 「どうしたの、それ」
 「え?」
 佳那子の視線を追うように、自分の手の甲に視線を落とす。そしてそこに、うっすらと残る切り傷を見つけ、嫌な気分になった。
 薄手のセーターの袖口を引っ張り、傷跡を隠した。佳那子には、何の傷かはもうわかっているだろう。多恵子の自殺癖については、既に聞き及んでいるのだから。だからこそ、見せてはならない傷だった。

 季節は秋を過ぎ、そろそろ冬に向かっている。あと1週間もすれば12月だ。
 9月に、あの繋ぎ合わされた手紙を見てからの2ヶ月あまりは、自分でもうんざりな日々だったと思う。
 なんとか、生きてた。バイトをこなし、ライブをこなし、2週間に1度の偽りの家族ごっこをこなし―――その度に、やり場のない孤独感に苛まれる。
 誰かの体温が欲しかった。けれど、もう誰かに抱かれるのは無理だと、多恵子の体が証明している。
 だから、どうしようもない場合は、体のどこかを傷つけ、その痛みで誤魔化した―――そう、昨日、手の甲に傷をつけたように。

 「ハハ…、ちょっと、嫌なことがあってね」
 多恵子は、わざと明るい口調でそう言って、カクテルを口にした。
 「昔なら、声かけりゃ一晩付き合って忘れさせてくれる男も結構いたんだけどさ。みんな忙しいみたいで、僕なんてお呼びじゃないみたい」
 嘘八百もいいところだ。多恵子の男性経験など、そんな風に豪語できるレベルではない。片手で足りてしまう。けれど、そういう人間だと思われていた方が楽だ。事実、シンジ1人と決めるまでは、短い期間とはいえ、“お気に入り”レベルの複数の男と寝た。やり場のない寂しさを、彼らの体温で誤魔化し続けた。その事実は、消そうにも消えない。
 「で、自棄になって暴れて、これよ。馬鹿だよね、ほんと」
 「……」
 佳那子は、どこか悲しげな顔で、じっと多恵子を見つめていた。
 やがて、小さく溜め息をつき、2人の間にあったピスタチオナッツの皿を脇にどかす。テーブルの上で手を組み、真正面から多恵子を見据えると、佳那子は漸く口を開いた。
 「ねぇ、多恵子ちゃん。多恵子ちゃんは久保田のこと、ずっと好きだったんでしょ?」
 心臓が、ビクン、と痙攣を起こした。
 普段なら、「何言ってんの」と笑い飛ばすところなのに―――やはり、昨日の今日で、心が弱っていたのだろう。
 「―――うん」
 多恵子は、思わずそう、口にしてしまっていた。そして次の瞬間、ハッとしたように口を噤んだ。
 その、心の中のやりとりが分かってしまったのだろう。佳那子はクスリと笑った。
 「駄目よ、今更誤魔化しても。それに、そんなこと、初対面の時からわかってたわ」
 「…えっ」
 そんな馬鹿な、と思ったが、よく考えれば当然なのかもしれない。
 だって、多恵子も、佳那子の気持ちに気づいていた。初対面の時から。同じ男に心を寄せている同士…わからない方がおかしい位なのかもしれない。
 「あ…あの、でも、誤解のないように言っておくけど、隼雄には指一本触ってないからね」
 ついさっき自分が口にした内容を思い出した多恵子は、慌ててフォローに入った。
 「最初に確かに“親愛のキス”はしたけど、それ以上は―――だから、あいつは穢れてないから! その点、佳那子ちゃんは別に心配することないよ?」
 「―――穢れてない、って…やだわ、そんな話がしたくて、この話を切り出した訳じゃないわよ。第一、久保田だって、学生時代に多少は遊んだんでしょう? 経験者捕まえて、穢れるも何もないと思うわよ?」
 あっけらかんとそう言って笑う佳那子に、多恵子は唖然とした顔をするしかなかった。
 ―――いや…優等生でモラリストではあるけど…。こういうところは、おおらかな女なんだよね…佳那子ちゃんは。
 多恵子が口にした「穢れる」は、実はそういう意味ではない。生まれながらに穢れた存在だと、多恵子は自分を思っている。けれど、それをあえて佳那子に言う気はなかった。
 「そういう話がしたかったんじゃなくて―――私がしたかったのは、多恵子ちゃんの自殺未遂の話よ」
 佳那子の笑顔が、急に真剣みを増す。
 「正直に答えて。…もしかして、多恵子ちゃんが自殺を考えるのって、久保田が原因?」
 「は?」
 思わず、目をパチパチと瞬いてしまう。
 「違うよ? ていうか、何それ」
 「その、つまり―――久保田に彼女が出来ると、死にたくなるとか。そういう話、よくあるじゃない」
 「―――ああ…あるね、ドラマとかで」
 いや、でも。
 そりゃ、毎回落ち込みはしたけれど…、まさか自分が、そういうタイプと思われていたとは。
 ついさっきまでの沈んだ気分も忘れ、多恵子は肩を震わせて笑いを噛み殺した。なんだか、無性に可笑しい。元々多恵子は、久保田と恋愛関係になることは望んでいない。一度、夢の中で抱かれたあの時を最後に、久保田はもっと別の存在になった。もっと―――高い次元の、何かに。
 「か、佳那子ちゃん、そんな風に僕の事思ってた訳?」
 「…だって…久保田から話聞いても、それ位しか思い浮かばなかったんだもの。原因が」
 ちょっと頬が赤くなったのを誤魔化すみたいに、佳那子は軽く多恵子を睨んだ。可愛い―――美人だけれど、佳那子は可愛い。かつて、中西沙和に抱いた庇護欲のようなものを、多恵子は佳那子にも感じていた。不思議なことに。
 1つ答えが出たことで落ち着いたのか、佳那子は姿勢を崩し、カクテルグラスを口に運んだ。が、ふと思いついたように目を上げ、不思議そうな顔を多恵子に向けた。
 「…ねえ。じゃあ、何故多恵子ちゃんは、久保田と付き合わなかったの? 一番近くにいたし、久保田だって多恵子ちゃんの事、大事に思ってるじゃない。やろうと思えば出来たんじゃない?」
 「―――まあ、そうかもしれないけど…」
 久保田が、多恵子を女と認識していたとは到底思えないが…一理なくもない。でも、何故か、そういう選択肢は、頭の中から除外してきた。何故―――何故、だろう?
 「なんか…違うと思ったんだよね。隼雄と僕ってのは。隼雄の、真っ直ぐ未来を見据えて、自信満々に突き進んでいくエネルギーみたいなのに凄く惹かれるけど…でも、隼雄の相手は僕じゃないし、僕の相手は隼雄じゃないと思った」
 「じゃあ…誰が多恵子ちゃんの相手なの?」
 「それは―――」

 ―――陸。

 すとん、と、ジグソーパズルのピースが嵌るみたいに、その名前が、降りてきた。
 そして、その名前をその場所に当てはめた時、全てが一瞬にして見えた気がした。

 ―――ああ…そうか。

 多恵子は、自分のカクテルグラスの中の琥珀色を見つめ、霧が晴れた森を抜け出すみたいに、ゆっくりと口を開いた。
 「僕の相手は―――他に、いるよ。隼雄と、ちょっと似てる。僕が惹かれた部分がね。けど…そいつとは、付き合えない間柄だったから」
 佳那子の顔色が、少し変わった。が、多恵子はそれに気づかず、そのまま続けた。
 「いろいろ、難しい部分があって…お互い好きでも、別れるしかなかった。多分僕は―――絶対手に入らないそいつの姿を、隼雄の中に見てたのかもしれない。身近に、よく似た男がいたから…同じ光を放ってたから。でも―――やっぱり僕の相手は、別れるしかなかった男の方で、隼雄じゃないんだよね…」
 「…久保田じゃ、代わりになれないってこと?」
 「どうなんだろう…。細かいことは、よくわかんないよ。とにかく、隼雄にも僕にも、他の運命の相手がいるって、僕の本能がそう言い続けてたから。…だからさ。隼雄とどうこうなろうなんて、全然思ったことないよ?」

 ずっと、久保田の中に、陸を見ていた。
 だから余計、触れるのが怖かった。魂が叫びだしそうな程に愛を感じても、この手を伸ばしてはいけないと思った。
 禁忌の相手―――半分だけ血を分けた、兄。彼が成し得なかった未来を、久保田が体現していた。親の反対を押し切り、自分が決めた道をつき進む―――そんな久保田の姿は、医者の道を捨て、宇宙を目指した陸を彷彿とさせていたのだ。
 血が繋がっていても、惹かれずにはいられなかった、光―――同じものを持つ久保田に、惹かれずにはいられなかった。
 常に多恵子が追っていたもの。…それは、陸だった。

 「…ねぇ、佳那子ちゃん」
 真剣な面持ちで多恵子を見つめる佳那子に、多恵子はニッ、と笑いかけた。
 「僕も白状したから、そろそろ佳那子ちゃんも白状しなよ」
 「……」
 「なんで、隼雄と付き合ってるって言わないの? 僕に遠慮してた? もしかして」
 「―――そんな失礼なこと、しないわよ」
 クスリ、と笑い、佳那子は目を伏せた。“失礼なこと”―――その表現は、多恵子を満足させる。佳那子はわかっているのだ。そういう気の遣われ方をするのを、多恵子が一番嫌うことを。
 佳那子は、目を伏せたまま、カクテルグラスをしばし弄んでいた。が、やがて目を上げると、フワリと柔らかな笑みを浮かべた。
 「―――私たち、公には、暫く“恋人”にはなれないのよ」
 「…え?」
 意味が、よくわからない。多恵子は眉をひそめ、少し身を乗り出した。
 「あまり詳しい事情は言えないけど…つまり、家同士が、あまり仲が良くない訳。全く、まさかそんな奴が同じ会社に入社して、しかもそいつと恋に落ちるとは思ってもみなかったけどね。…ま、これも運命よ」
 意外な展開に、目が丸くなる。
 「じゃあ、何? ロミオとジュリエットってやつ?」
 「ふふ…、そうね。そんなとこ。もっとも、私も久保田も、ロミオとジュリエットみたいに死んであの世で一緒になりましょう、なんてバッドエンドは嫌だけど」
 クスクス笑う佳那子。その笑顔を、多恵子は不思議な気分で見ていた。

 何かが、頭の中で、はじけた。
 なんだろう―――何か、感じた。今、この瞬間に。

 「じゃあ…いつまで“友達”続けなくちゃいけない訳?」
 「家を説得できるまで」
 「…できるの?」
 そう訊ねると、佳那子は、とてつもなく美しい笑顔を見せた。
 「できるわよ―――してみせる。この気持ちがある間は、そう信じていけるわ。きっと」
 「……」

 ―――理想の“自分”が、ここに、いる。
 多恵子は、体が震えるのを感じた。
 どんな障害が目の前に横たわっていても、愛する力でそれを乗り越えていく力を持つ、しなやかで、美しい存在。多恵子が、そうなりたくても、なれなかった“自分”。それが、現実のものとして、今目の前にいる。

 無理だった。障害が、大きすぎて。
 お互いの体の中を流れる、半分だけ同じ血―――それを乗り越えていくだけの力は、まだ15歳の多恵子にはなかった。だから、あんな風に、陸だけを先に行かせる羽目になった。2人で生きる道も、2人で死ぬ道もとれぬまま、こうして1人きりで生きていく羽目になった。
 未熟だった、自分達。陸が、宇宙を目指しながらそれを実現できなかったのと同様に、多恵子もまた、陸を愛し続けようと思いながら、それを成しえなかった。

 でも―――久保田と佳那子なら、大丈夫だ。
 詳細はわからずとも、それは確信できる。陸が成しえなかった未来を、多恵子が成しえなかった未来を、彼らはきっと実現していってくれる―――これから先も、ずっと。

 陸と多恵子が生きられなかった未来を、生きてくれる―――…。

 「―――佳那子ちゃん」
 「ん? なに?」
 多恵子は、泣きそうになるのをぐっとこらえ、強気に口の端を上げ、笑ってみせた。
 「愛してる」
 「―――…え?」
 多恵子は席を立つと、要領を得ないような顔をしている佳那子の額に、そっと口付けた。
 「今日のこと、隼雄には、何も言わないで―――2人だけの秘密にしよう?」

 ―――解放された。地上から。

 やっと、「そら」へ、行ける。


***


 朝から、時折小雨が降っていたが、それが夜になって、雪に変わっていた。
 今年初めての雪かもしれない。素敵―――待ち合わせのバーまでの道のりを、多恵子は、白い雪が羽根のように降りてくる漆黒の空を、口元に笑みを浮かべて見上げていた。
 佳那子と2人で飲んでから、1週間と少し。久保田の顔を見るのは、2週間以上ぶりだ。
 いつもは、心のどこかにひっかかるものを感じながらだから、会うのが楽しみのような辛いような、複雑な気分だった。が、今日は違う。楽しみな気分しかない。早く久保田に会いたかった。

 もう、決めたから。全部。
 この1週間、何度も確認した。シンジが描いた陸の絵を抱きしめて、毎日、毎日確認した。そして、全て決めた。これから先のことを。

 あと1つだけ、やり残したこと―――それが終われば、本当に笑顔で旅立てる。

***

 「隼雄はいつ帰省すんの? 隼雄に合わせるのが良くない?」
 情報誌片手に多恵子が言うと、佳那子が言いにくそうに口を挟んだ。
 「ごめん…、実は、久保田より私が問題かも」
 「は? なんで?」
 「会社の同期の子と一緒に、ハワイ行く約束させられちゃったのよ。どうせチケット取れないと思ってたのに、なんか取れちゃったみたいで」
 「いつからいつ?」
 「30から3日」
 「ううー…、じゃあ、強制的に28か29だなぁ。隼雄、行ける?」
 「俺は行ける。多恵子こそどうなんだ?」
 「僕はずっと暇だから、いつでもいいよ」
 ―――どうせ、いないんだけどな、その頃には。
 けれど、そのことは一切、表には出さない。多恵子は、いつもの笑顔で久保田に情報誌を手渡し、飲みかけのカクテルを口に運んだ。
 年末年始に数日間行われるジャズ・ライブは、かねてから3人で行くと約束していたライブだった。今日はその日程を決めるべく、スケジュールを調整するために集まっているのだ。
 「よし。じゃ、28か29、どっちか取れた方に強制参加な。俺、ちょっと電話してくる」
 腕時計を見た久保田は、そう言って席を立った。既に夜遅いが、久保田にはチケット取りの上手い仲間がいるのだ。今日中に連絡を入れれば、明日の朝には、チケットをゲットすべく動いてくれる筈だ。勿論、後で牛丼の1杯も奢る必要があるのだが。
 「あ、久保田。ちょっと待って。ネクタイ曲がってる」
 そのまま、携帯電話を手に店の外に出ようとした久保田を、佳那子が呼び止めた。立ち上がり、手早く曲がってるネクタイを直すと、ポン、と久保田の肩を叩いた。
 「ん、OKよ」
 「サンキュ」
 もの凄く、自然な遣り取り―――いつも久保田のスーツ姿がピッシリ決まって見える理由が、なんだかわかった気がした。僅かに照れたような顔をして出て行く久保田を、多恵子は微笑んで見送ることが出来た。

***

 その後も、ジャズの話題や何やで、いつもの如く盛り上がってしまった。
 佳那子はすっかり時間のことを忘れている様子だが、久保田は盛り上がる中でも、常に壁掛け時計を気にいしていた。ほんとに、姫君に仕える侍従みたいだな…と、多恵子は、そんな久保田の様子に苦笑した。
 「おい、佐々木」
 「え? なあに?」
 「時間」
 久保田が、背後の壁掛け時計を親指で指し示して初めて、佳那子は時間に気づいた。地下鉄なので雪の影響はないとはいえ、結構終電ギリギリの時間だ。佳那子は、傍らにかけておいたコートを掴むと、少し慌てた様子で席を立った。
 「あらら…ほんとだわ。ダッシュすれば間に合うかな」
 「急げよ。もし駄目だったら携帯に電話よこせ。タクシー拾うから」
 久保田の過保護発言に、さすがに佳那子も眉をひそめる。
 「大丈夫よ。タクシー位自分で拾えるから」
 「駄目だ! 最近はタクシーの運転手にも妙な奴が紛れてたりするんだぞ。女ひとりじゃバカな企みする輩も、乗る前に男がついてりゃ警戒するもんなんだよ」
 ―――隼雄ちゃん…考えすぎ…。
 呆れる多恵子と佳那子をよそに、久保田の顔は険しい。多恵子と佳那子は、一瞬目を合わせ、クスリと笑い合った。しょうがない男よね、といった感じに。
 「…はいはいはい。大丈夫よ。足には自信あるんだから、ちゃんと終電つかまえて見せるわよ。―――じゃあ多恵子ちゃん、お先にね」
 「ん、またね」
 手を振る佳那子に、多恵子も右手を挙げてみせた。
 でも―――実際、佳那子ほどの美人となれば、よからぬ事を考える奴がいても、おかしくはないかもしれない。バタバタと店を出て行く佳那子のスラリと健康的な後姿を見送りながら、多恵子はそんな事を思った。
 「隼雄がここまで気を遣うってことは、よっぽど厳しい家なんだね、佳那子ちゃんちは」
 「…ああ。あの家は、尋常じゃねーぞ」
 忌々しげなその声に、多恵子は久保田の方をチラリと見た。が、すぐにまた、視線を店のドアへと戻した。

 ―――今日、言おう。
 最初からそのつもりだったが、途中、少し迷った。あまりにもいつも通り、楽しく飲み、話し、笑い合えたから、それを壊すのが嫌なような気がして。
 でも。
 もう、先延ばししたくはない。…今日、言おう。

 「―――ねぇ、隼雄」
 多恵子は、視線をドアに向けたまま、普段通りの声で切り出した。
 「僕が佳那子ちゃんみたいに綺麗だったら、隼雄の恋人になれたかな」
 「―――…」
 斜め隣に座る久保田の気配が、ふいに変わる。
 けれど多恵子は、そのまま続けた。
 「僕が隼雄みたいに誠実で優しければ、佳那子ちゃんの恋人になれたかな」
 ゆっくりと、視線を久保田に向ける。
 バーボンを飲みかけていた久保田は、訝しげな顔をして、そのグラスをテーブルに戻してしまっていた。
 「―――どうした? 多恵子」
 声が、警戒している。知っている―――久保田は、不安を感じているのだ。過去にも何度かあった。久保田は、良い方向であれ悪い方向であれ、多恵子の様子が変化することには極端に臆病だった。それが死の前兆なのではないか―――そういう思いが、いつも久保田の頭の片隅にあるから。
 ―――変わらない、隼雄は。
 多恵子はふっと笑い、テーブルの上に置いてあったラッキーストライクを手に取り、1本口にくわえた。
 落ち着け、と自分に言い聞かせる。佳那子に言った時とは、やはり同じとはいかない。無意識のうちに、手がかすかに震えてしまう。手にしたライターの火までが、その震えを伝えているようで、余計焦りそうになる。
 ―――落ち着かなきゃ。
 これを言うために、今日まで来たんだから。
 煙を吐き出すと、多恵子は、まだ怪訝そうな顔をしている久保田に、意味深な笑顔を向けた。そして、幾分ゆっくりめに、口を開いた。

 「―――知らなかった? 僕、2人とも愛してるんだよ」
 怪訝そうな久保田の顔が、余計怪訝そうになる。
 「2人とも?」
 「隼雄と、佳那子ちゃん。両方愛してるんだよ」
 「…なんだよ、そりゃあ」
 眉を寄せ、難しい問題でも解こうとしているような顔をする久保田に、内心苦笑した。

 わからないだろう―――久保田には。「愛してる」…この言葉に、多恵子がどれ程の想いを託してくるか。
 シンジにすら、言わなかった言葉だ。いや…それどころか、生前の陸にも、結局は一度もこの言葉を言っていない。
 “お気に入り”ならいくらでもいた。佐倉のことも好きだった。親愛のキスはしていないものの、瑞樹のことも好きだった。けれど―――「愛してる」。そう言えるのは、久保田と佳那子だけなのだ。

 「つまりさ―――僕は終電なんて気にしない、でも、隼雄に終電を気にしてもらえる佳那子ちゃんは、羨ましい。僕は外見なんて気にしない、でも、ネクタイが曲がってると佳那子ちゃんに直してもらえる隼雄は、羨ましい…」
 多恵子の顔から、笑みが薄れていく。胸が、痛んできた。
 「―――僕が、2人のうちのどちらかだったら良かったのに」
 「……」
 ―――どちらかなら…どちらか1人と、ずっと、生きていけたかもしれないのに。
 「…そういうことだよ」
 もう、笑えなくなっていた。

 叫びだしそうな位に、想いばかりが溢れる。
 言ってしまいそうだった。洗いざらい、全部―――陸のこと、シンジのこと、瑞樹のこと。そして、「そら」のこと。
 けれど、言う訳にはいかない。言えば、久保田は、それを理解した上でも、多恵子を止めるだろう。彼にとって、死は全ての終わり―――そこに、例外はないのだから。

 ―――わかってもらえなくても、いい。
 私は、隼雄も、佳那子ちゃんも、愛してる―――ずっとずっと、これから先も。

 震えそうになる唇を無理矢理引き上げ、多恵子は、まだ眉をひそめている久保田を、ちょっと馬鹿にしたように鼻で笑ってみせた。
 「隼雄、なんて顔してんの。愛の告白された男の顔じゃないよ、それ」
 「…どうも、愛の告白されたとは思えないんだが」
 「本当だよ。僕は、隼雄も佳那子ちゃんも愛してる」
 多恵子はニッと笑うと、少し寂しげに、視線を逸らした。
 「でも、この体は一つしかない―――つまんないね、同時に2人も好きになるなんて」

***

 店の外に出てみると、地面がうっすらと雪に覆われていた。
 「さむ…」
 思わず、口にだしてしまう。
 「大丈夫か? よければタクシー同乗してくぞ」
 やはり、異状を察しているのだろうか。珍しく久保田が、そんな事を言った。
 いつもいつも、さりげなく優しく、さりげなく多恵子を気遣ってくれる人―――4年半の間、少しも変わらずに。そんなところも、愛しいと思える。

 ―――良かった。この人と、出会えて。
 この人が作ってくれた居場所があったから―――この人の輝きを一番傍で見られる席を、ずっと作っておいてくれたから、陸のいない地獄(ここ)でも、生きようと思うことができた。

 多恵子は、静かに笑みを作ると、久保田の胸元を掴み、引き寄せた。
 「多恵―――…」
 言いかけた唇を、自分の唇で塞いだ。
 淡く、消えてしまいそうな位の感触で。

 唇を離し、見上げると、久保田は驚いたように目を丸くしていた。4年半ぶりのキスだってことに、彼は気づいているだろうか―――多恵子は、クスリと笑った。
 「大丈夫。近いもん。歩いて帰るよ」
 「……」
 「おやすみ、隼雄。またね」

 またね―――…。

 その言葉を口にした時に、心が決まった。
 今夜にしよう、と。


***


 自宅マンションの屋上に上るのは、初めてだった。
 彼女は、屋上の背の低いフェンスギリギリのところに立ち、漆黒の空を見上げていた。「そら」に近づこうと、背のびしてみる。けれど、やっぱり、暗闇の中に「そら」は見つからなかった。

 星が見える夜だったら良かったのにな…と、少し思う。
 けれど、雪が降っている夜も、悪くはない。天使の羽根に包まれて、どこまでも飛んで行ける気がするから。

 …うん。
 やっぱり、今夜にしよう。

 コンクリートで出来た屋上には、アスファルトの地面同様に、うっすらと雪が積もっていた。多恵子は、服が濡れるのも構わず、そこに腰を下ろし、胸に抱えていた絵を目の前に掲げた。
 「陸…見える? 雪だよ」
 シンジが描いた、陸の絵―――雪の中だというのに、海の底はとても暖かそうに見えた。そう思った途端、気温の低さを実感して、多恵子は少し身震いをした。
 絵を地面に置き、着ていたコートの襟元をあわせる。飛び降りるより前に凍死するかな―――それも悪くない、と思い、ちょっと笑った。

 「陸―――…」
 呼びかける。
 「陸―――私、やっと、ここまで来たよ」


 『―――多恵子』


 それは、寒さが作り出した、幻聴なのかもしれない。
 けれど、多恵子はその時、確かに聴いた。陸が、多恵子の呼びかけに、応えるのを。
 多恵子は、慌てて立ち上がり、周囲を見渡した。どこかに、陸の幻影が見えるのではないかと、暗闇の中、必死に目を凝らした。
 「陸! 陸、どこ!?」
 返事はない。姿も見えない。
 「やだ、置いてかないで! どこにいるの!? 声だけでも聞かせてよ!」

 『―――多恵子』

 やっと、陸の声が聞こえて。
 多恵子は、緊張の糸が切れたように、顔を歪めた。ずっと耐えてきた涙が、堰を切って溢れてきた。

 『…多恵子、泣いてるの…?』
 「―――笑ってたのに…陸が泣かせるんだよ…」
 『…僕が?』
 「いつもいつも、陸のこと呼んでたのに、一度も返事してくれなかったじゃない。8年だよ? ずっとずっと寂しかった…陸がいなくて、どこにもいなくて寂しかったのに―――なんで、置いていくの?」
 『ごめん―――でも、僕はずっと、多恵子の傍にいたよ』
 「…ホント?」
 『本当。だから、全部知ってる―――8年間の多恵子の全てを』
 全てを―――…。
 ならば、陸に説明する必要はないのだろう。久保田のことも、シンジのことも、佳那子のことも…そして、瑞樹との約束も。
 『多恵子』
 「なに?」
 『今、隼雄のこと考えて、笑うことができる?』
 「…うん。笑えるよ」
 多恵子は、口元にふっと笑みを浮かべた。
 「―――今、目を閉じるとね、もう、病室で泣いてた、あの隼雄の顔は目に浮かばないの。目に浮かぶのは、笑ってる隼雄なの。佳那子ちゃんと一緒に、私の名前を呼んで、笑ってるの。…だから、私も笑える―――成田と約束したとおり、ちゃんと笑えるよ」
 『…そう。良かった』
 「陸も、褒めてね? 佳那子ちゃんが現れるまで、凄く苦しかったのに、頑張ったんだから」
 『…うん。そうだね。あの2人なら、僕たちが生きたかった未来を、ちゃんと引き継いでくれる。困難はあるみたいだけど、きっと乗り越えてくれるよ』
 「それに、兄妹じゃないし?」
 『あはは、そうだね』
 「ねぇ、陸―――次の命って、いつ貰えるのかな」
 『さぁ…僕にもよく、わからない』
 「もし、うまくいったらさ。私…隼雄と佳那子ちゃんの子供として生まれたいなぁ…ダメ?」
 『―――うん、それもいいね』
 「陸は?」
 『僕は―――多恵子とは違うところに生まれられれば、それでいいよ』
 「…そうだね…次は、血が繋がってなければ、なんでもいいよね」

 小さな笑い声をたて、多恵子は手に息を吹きかけた。かじかんでいた手が、わずかに温もる。そのまま、空を見上げた。
 真上から、雪がふわふわと落ちてくる、幻想的な世界―――止まりかけていた涙が、すっと頬を伝った。

 ―――「そら」…。
 その向こうには、新しい命が待っている。
 陸と一緒なら、どんなところも、怖くない。陸と一緒にいられれば、どんな世界でも。

 「―――ねぇ、陸」
 『…なに?』
 「そっちへ行ったらね―――もう一度、ちゃんと、キスして?」
 多恵子は、指先を唇に当て、柔らかく微笑んだ。

 「ここは、大好きな人のための場所なんでしょう? ―――だから、陸…」


 ―――今度こそ。

 恋人同士の、キスをしてね。


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