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バスがカーブを曲がった弾みで、蕾夏の体はガクンと大きく傾いた。
うとうとしていた蕾夏は、その振動で目を覚まし、直後、自分が今にも椅子から転げ落ちそうになっていることに気づいて、慌てた。
「きゃ…」
「…っと、危ない」
限界ギリギリのところで、腕が掴まれ、ぐいっと引き戻される。浮きかけていた腰がストンと座席に戻った時、次の停留所の名前を告げる声がバス内に流れた。降りるべきバス停の1つ手前のバス停の名前だ。
「あ、ありがと…何、もう次の次?」
「ああ。住宅街だけど、もうかなりの急斜面に入ってるから結構揺れる」
瑞樹の言葉を実証するように、またバスが大きく揺れた。さっきとは反対方向に傾いだので、今度は瑞樹が抱えているデイパックの上に倒れこみそうになった。
「不安定だなぁ…お前。座り方どっかおかしいんじゃねーの」
「…大丈夫。ちょっと油断してただけだから」
可笑しそうに笑う瑞樹を軽く睨み、蕾夏はもう一度ちゃんと座り直した。
窓の外は、瑞樹が言う通り、急な坂道にへばりつくように家が林立している住宅密集地域のようだ。秋の午後7時半なので辺りは真っ暗だが、それでも、民家の軒を削りかねないほどの近さでバスが通過していることが分かる。曲がりくねった細い道―――ああ、住宅街ではあるけど、やっぱりここはもう山に入りかけてるんだな、と、蕾夏は実感した。
***
11月。瑞樹と蕾夏は、神戸に来ていた。目的は勿論、写真である。
と言っても、瑞樹にとっては半分仕事。神戸のショットバーなどを撮って回る情報誌の仕事だ。
『一番賑わう金曜の夜狙って行くから、なんだかんだで土曜日の昼間に東京に帰ることになるな。ついてねぇ…』
蕾夏が出社せずに済む土曜日が移動日になってしまうのが不服なのか、この週末の予定を連絡してきた瑞樹は、酷く面白くなさそうな声でそう言った。ちなみにこの電話も、撮影のために訪れている金沢からである。秋は空気が澄んできて風景写真を撮るにはいい季節だからか、どうも最近、観光地の撮影依頼が多いのだ。
そう言えば週末は、蕾夏の方が取材で留守だった。2週連続仕事で週末が潰れてしまうのは、確かにちょっと不運かもしれない。
「ふぅん…だったらさ。私、神戸行こうかなぁ」
ふと思いつき、蕾夏はそう提案してみた。
『お前が、神戸に?』
「ほら、私が神戸行く時って、何か用事があって行く時だけじゃない。純粋に観光とかで行ったことって、もう何年もないからさ。土曜日の午前中にでも新幹線で神戸に乗り込んで、土日2日間、市内観光するのもいいかなぁ、と」
この提案に、瑞樹が乗らない訳がなかった。さっきまでの不満度100パーセントの声は実は計算し尽くされた演技だったんじゃないか、なんて邪推してしまいそうなほど、態度が180度変わった。
それならば、久々に神戸の街を撮影して回るか、ということになったのだが、問題が1つあった。
「あ、でも、今からホテルとれるかなぁ? もう水曜日だよ?」
『ああ、そうか―――親父んとこ、って訳にはいかねーよなぁ』
瑞樹が関西圏に仕事で赴く場合、宿泊施設は父のマンションと相場が決まっている。が、瑞樹が泊まることしか考慮されていないその家に、蕾夏が泊まるスペースはない。となると、リビングで2人して雑魚寝という方法以外有り得ない。それはいくらなんでも可哀想である。
「うーん…ネットで調べようかなぁ。仕事で時々使ってるホテル検索調べたら、まだ出てくるかもしれない」
『あいにく俺、今ネット環境ないから。任せるからツインとっといて』
「…瑞樹はお父さんとこ泊まるんじゃないの」
『バカか。なんで蕾夏来てるのに、俺だけ親父んとこ泊まる必要があるんだよ』
「…分かった。ツインね」
『ダブルでもセミダブルでも構わねーけど』
「構いますっ!」
そんな訳で、一旦電話を切った蕾夏は、その夜のうちに神戸市内のホテルを検索してみた。
あと2、3日後に迫っているんじゃ無理かな、と思ったのだが、思いのほか空いているホテルはあった。駅から10分近く離れているホテルは、よほどの目玉がない限りやはり不人気らしく、まとめてごっそり部屋が空いているらしい。
―――うーん…港の方ってのも結構空いてるし、上の方の階なら夜景綺麗そうだけど…た、高いなぁ、値段も。ツイン素泊まりで3万近いよ。多少駅から遠くても、こっちのシティホテルにしようかなぁ…。
ディスプレイとにらめっこしつつ、あれこれ悩み続けた蕾夏だったが、残り数軒、というところで、あるホテルの情報に目を留めた。
そのホテルは、確かに神戸市内ではあるが、三宮や元町といった市街地にあるホテルではなかった。六甲山という有名な観光地にあるホテルでもない。摩耶山という、蕾夏の知らない山にあるホテルだった。
「摩耶山…?」
どこだろう。
ホテルの詳細情報から地図を確認してみると、それはどうやら、六甲山より神戸の市街地に近い、標高も200メートルほど六甲山より低い山らしい。六甲山には行ったことがある蕾夏だが、あの辺りの山は全部六甲山だと認識していたので、六甲山以外の山がこんな市街地近くにあったという事実に少々驚いた。
更に調べてみると、摩耶山についてはこんな説明が書かれていた。
“摩耶山は、標高が六甲山よりも低く市街地にも近いので、六甲山よりも美しい夜景が楽しめます。ロープウェイ山頂駅下車すぐにある
六甲山から見る神戸の夜景が100万ドルで日本三大夜景の1つである、と頭にインプットされていたので、突如現われた10倍の値段の夜景に、蕾夏の期待はかなり高まった。しかも、その掬星台からホテルまでが徒歩10分となれば、もうこれは泊まるしかない。
「瑞樹、摩耶山って知ってる? そこの頂上のホテルがツインで空いてるし、お手ごろ価格なんだけど」
念のため電話で確認する。神戸は瑞樹の元ホームグラウンドだ。回答は明快だった。
『ああ、知ってる。六甲山の山並みのひとつだろ。けど、行ったことない』
「え、そうなの?」
『デートスポットで、カップルだらけだぜ? 高校生が三脚担いで登る山じゃねーよ』
なるほど、納得。
「じゃあ、瑞樹も1000万ドルの夜景、知らないんだよね」
『ああ』
「ここにするっ」
こうして瑞樹と蕾夏は、摩耶山の山頂に建つホテルに泊まることが決定した。
掬星台とやらでひとしきり夜景を撮影していくつもりなので、チェックイン時刻はかなり遅めに設定した。ネットからの予約はやはり未だに不安があるので、朝出かける際に確認の電話を入れてみたが、予約はきちんと入っており、到着時刻についても何ら先方から指摘は受けなかった。交通機関がケーブルカーとかロープウェイという慣れないものなので気になっていたが、どうやら問題なく行けそうだ。
土曜の昼過ぎに神戸入りした蕾夏を出迎えた瑞樹は、少々寝不足気味だった。
「眠ぃ…。最後の1軒撮り終えたの、明け方の4時だぜ?」
「え…っ、だ、大丈夫? お父さんとこ行ったのは?」
「始発動いてから。今日親父、会社の連中とゴルフらしくて、俺と入れ違いで出てった。結局眠ったの、3時間かな…」
「…いつもそんなもんだけど、起きてた時間が長い分、辛そうだねぇ…」
「―――ま、大丈夫だろ。撮り始めりゃ目が覚めるし」
その言葉は、口から出まかせではなかった。いざライカM4を手にして歩き出すと、寝不足だなんて嘘だろうと言いたくなる位、瑞樹の顔に精気が戻ってきたのだ。
ハーバーランドからメリケンパーク、中華街、旧居留地―――南側のめぼしい撮影スポットをくまなく歩き、何か見つければ迷わずシャッターを切る。撮り尽くしたと思っていた神戸だが、蕾夏と一緒に回るのは初めてだからなのか、それとも瑞樹が上京した後に埋立地周辺が大きく様変わりしたせいなのか、思いのほか撮るべきものは多かった。三宮駅まで辿り着いた時には、日はとっぷりと暮れ、瑞樹より蕾夏の方がへたばっていた。
「も…もう、歩けない…」
「…っつーか、ここまで暗くなると、何も撮れねーって」
時刻は午後6時過ぎ。夕飯には少々早いが、8時までには山頂に着いておきたい。バスの時刻を逆算し、早めの夕食をとることにした。
そして、現在、午後7時半過ぎ。
急な坂道をくねくねとカーブしながら登り終えたバスは、間もなく目的の地・摩耶山のふもとに到着するのだった。
***
摩耶山のふもとから頂上へ行くには、2つの交通機関を乗り継ぐ必要がある。
まずは、ケーブルカー。5分間ケーブルカーで山の中腹まで登ったら、そこでロープウェイに乗り換える。
「…あれ? 今降りた人達、ケーブル乗らないのかな」
ケーブルカーの駅でバスを降りた蕾夏は、確か一緒に降りた筈の数名が辺りに見当たらないことに気づき、首を傾げた。確かに5、6人降りた筈だが、今、駅へと向かう階段を上っているのは、瑞樹と蕾夏の2人きりだ。
「この辺の住人だろ。定期券出してたし」
「ふぅん…そう言えばこの辺、まだ住宅街だもんねぇ。山ギリギリのところまで人が住んでるんだ」
山が海のすぐそばまで迫り出していて、海と山に挟まれた僅かな土地に、大量の人間がへばりつくようにして生きている神戸ならではだ。観光地に住んでるってヘンな気分じゃないかなぁ、などと蕾夏は思った。
それにしても、辺りが暗い。ケーブルカー駅だけがやたらと明るい。人の声もしないので、なんだか不安を掻き立てられる。
「まさか…もうケーブルカー止まってる、ってこと、ないよね…?」
ちょっと不安になってそう言うと、瑞樹が怪訝そうに眉をひそめた。
「最終時刻、調べたんだろ」
「うん、ケーブルは調べた。確か秋冬は夜10時位までって書いてあった気がする。夜景スポットだもん、遅くまであるだろうな、とは思ってたけど…」
「なら、大丈夫だろ」
でも、夜景スポットならば、もっと乗客がいてもいいのでは―――蕾夏が首を傾げたところで、階段を上り切って、駅の改札に着いた。
そこにもやっぱり、人はいなかった。が、券売機の電気はついている。女性の係員がひとり、瑞樹と蕾夏が現われたのを見て、改札の向こう側から走り出てきた。
「ケーブル、乗られますかぁ?」
「あ、はい、乗ります」
良かった、動いてるんだ、そう思った矢先、係員がこう続けた。
「ロープウェイにも乗られますか? ロープウェイは次が最終ですから下山はできませんよ。大丈夫ですか?」
「え?」
2人して、キョトンとしてしまう。
細かい時間は覚えていないが、間違いなく、ケーブルの最終は22時台だった。なのに、その先にあるロープウェイは、20時前の次の便が最終…?
「…あの、俺達、摩耶山上のホテルに宿泊するんで、下山の必要はないんだけど」
事情がよく飲み込めないままに瑞樹がそう言うと、係員はホッとしたように笑った。
「ああ、そうなんですか。それなら大丈夫ですね。じゃ、動かしますから、切符買ってお乗り下さい」
「はあ…」
言われるがままに、ケーブルカーとロープウェイの共通券を買う。2人の切符に改札のスタンプを押した女性は、そのまま、目の前に停車しているケーブルカーに乗り込んだ。
「はい、どこでも好きなとこ座って下さいねー。席選び放題ですからー」
「はあ…」
―――マジで、俺たちしかいないのかよ。
しかも、あの女係員1人で、改札から運転まで全部やるのかよ―――まあ、俺ら2人だけしか客いないなら、1人で十分だけど。
夜景スポットなら、もっと観光客がいていい筈だし、駅もそれに合わせて人を沢山配備している筈だ。今日がたまたま観光客が少ない訳ではないだろう。このムードからして、この時間にケーブルに乗る客は、元々ほとんどいないらしい。
「…なあ、蕾夏。掬星台ってとこ、ロープウェイの先にあるんだよな?」
結局、選び放題の中から一番海側の席についたところで、瑞樹が隣に座った蕾夏に耳打ちする。蕾夏も、どことなく納得のいかない顔を瑞樹に向けてきた。
「うん。でも…その掬星台に行くロープウェイが、次が最終なんだよね? どういうことなんだろう…」
―――なんとなく、嫌な予感。
けれど、今更遅い。ケーブルカーは、たった2人しかいない客を乗せて、急斜度の斜面をゆっくり登り始めた。
『摩耶山中腹の“虹の駅”までの5分間、摩耶山の自然をお楽しみ下さい』
などと観光テープが流れるものの、辺りは真っ暗闇だ。
摩耶山のふもとから“虹の駅”までの5分間で分かったことは、このケーブルカーは、夜に乗っても何も面白いことはない、ということだけだった。
***
「はい、お疲れさまでした、“虹の駅”到着ですー」
改札も運転もこなしてきた女性係員が、ケーブルカーのドアを開けてくれた。時刻表通りに運行してるだけだと分かっていても、2人しか乗客がいないと、なんだか自分達だけのために動かしてくれたみたいに感じて、少々恐縮する。瑞樹に続いて下りながら、蕾夏は思わず「すみませんでした」などと言って係員にぺこぺこ頭を下げてしまった。
「ロープウェイは50分の出発ですから、お急ぎ下さいね」
「あ、はい」
腕時計を確認すると、あと5分しかない。少し急ぎ足になった2人は、何故か同時に、駅の右側のドアから外に出ようとした。
「あっ、お客さんー! 違いますー! ロープウェイ乗り場は左ですー!」
係員の叫び声に、慌てて左のドアに進路を変えた。時間がないだけに、ちょっと焦る。
「ねぇ、右側って外、どうなってたの?」
背が低い分、外の様子が分からなかった蕾夏が、瑞樹の背後から小声で訊ねる。
「ん? なんか、展望台っぽかった。よく見えなかったけど」
「えっ! そうなの? 見たい〜」
「…って言うと思ったから言わなかったんだ。時間ねーんだろ。ほら」
恨めしそうな顔をする蕾夏の頭をポンと叩きながら、瑞樹は、今一瞬だけ見た光景を思い出した。
実は、瑞樹の目には、しっかり外の様子が見えていた。右側のドアの外は、狭いながらも展望台のように整備されていて、ぐるりと張り巡らされた柵の向こう側に、かなり迫力のある夜景が広がっていたのだ。時間が許せばここで暫く長居したいと思うほど、その夜景は強烈だった。
―――本能が、被写体がある方向を察知すんのかな…怖ぇ…。
理由もなく右に曲がろうとした自分達に、少々寒気を覚える。
とにかく、最終のロープウェイが出るまでに時間がない。まだ背後の右側ドアを気にしている蕾夏には気の毒だが、瑞樹は蕾夏の腕を引っ張るようにして左側のドアを出た。
そして。
一歩踏み出した途端、2人は、目の前の光景に思わず立ち止まった。
目の前に広がっていたのは、漆黒の闇。
左右と真っ直ぐの合計3本の道があるようだが、左右の2本は完全に闇に溶けている。真っ直ぐに伸びる道の50メートルほど先に、やたらと暗い街灯が1本立っているだけ。あとは駅舎の灯り以外、何の照明もない。ロープウェイ乗り場がどこにあるのやら、何も見えない。
「……」
一瞬、2人して、言葉もなく呆然とする。
何か見落としたか、と思って辺りをぐるりと見回したが、ロープウェイ関係の看板はやっぱりない。いくら次が最終便だからとはいえ、いくらなんでも真っ暗すぎだ。
「…あ、あのー」
多少は下山する客がいるらしく、下りのケーブルカーの誘導作業に入っていた例の女性係員に、慌てて蕾夏が声をかけた。振り向いた彼女は、キョトンとした目をしていた。
「はい?」
「すいません、ロープウェイ乗り場って、どこでしょう?」
「ああ、その道を真っ直ぐ行って、右に曲がればありますよ」
真っ暗闇の左右の道を指差されたらどうしようかと思ったが、彼女が指差したのは真っ直ぐ伸びてる方の道だった。改めてその方向を見たが、やはりロープウェイという文字はどこにも見えない。
半信半疑ながらも、2人は、ちょっと急ぎ足でたった1本の街灯に向かって歩き出した。そして街灯の真下に辿り着いた時、そこに銀色の看板が出ていることに気づいた。
“ロープウェイ乗り場こちら”と、銀色の金属に刻み込まれたその文字は確かに黒字ではあるが、この薄暗い街灯の下では掻き消されてしまい、遠目にはただの銀色の板にしか見えない。
「読める訳ねーだろ、こんな看板っ!」
さすがに瑞樹がそう怒鳴ったところに、
『えー、ロープウェイご利用の方、間もなく最終便が発車いたします。お急ぎ下さーい』
という放送が、看板が指し示す矢印の方角から聞こえた。
憤っている場合ではなかった。最終便を逃したら、ホテルに辿り着けない。2人は、夜間の観光客に対して何ら配慮していない不親切な看板に対する怒りをとりあえず引っ込め、ロープウェイ駅へとダッシュした。
***
当然と言えば当然だが、ロープウェイの客も2人だけだ。
「最初揺れますんで、注意して下さいね」
と中年の男性係員に言われて乗り込んだロープウェイは、見たところ、満員時ならば10名近く乗れそうな大きさだった。その端っこの席に2人並んで座ると、有無を言わさずドアが閉められた。
―――そっか…ケーブルカーと違って、ロープウェイって係員が同乗しないんだっけ。
しかも、どういう趣向なのか、ロープウェイの室内は照明が全くない。真っ暗だ。今は駅舎の灯りがあるから問題ないが、この先5分間、真っ暗の状態のまま登るんだろうか―――それを想像して、蕾夏はますます不安になった。
「ね、ねぇ…大丈夫、だよね?」
「何が」
「止まったりしないよね、このロープウェイ」
「…ああ、そうか。お前、飛行機とかダメだったな、地面に足ついてなくて」
薄暗がりの中でも、明らかに顔色が悪くなってきている蕾夏を見て、瑞樹は苦笑し、微妙に震えだしているその手を握ってやった。もっとも、今日は風もないし、快晴だ。ロープウェイが事故を起こす確率は限りなくゼロに近いだろう。
係員が言ったとおり、ガクン、と不吉な揺れ方をしながら、ロープウェイは静かに発車した。
蕾夏の懸念が的中し、動き始めてからも室内の電気が点くことはなかった。駅舎から外に出ると、そこは摩耶山の中腹の森の上―――真っ暗闇だ。
「う…うわぁ…ちょっと、怖いかも…」
握っている蕾夏の手が、ますます落ち着かなくなる。が、瑞樹は、先ほど展望台からの眺めを目にしているので、電気が点かない理由をほぼ察していた。
「蕾夏、ほら」
「え?」
瑞樹が、車窓の外に広がる山の斜面の向こうを指差す。方角的には、南東の方角―――そちらに目を向けた蕾夏は、次の瞬間、驚きに思わず息を呑んだ。
山の稜線に僅かに切り取られた神戸の夜景は、夜景、なんて言葉では物足りないほどだった。まさに、満天の星―――そう呼びたくなるような、圧倒的な光の洪水。
東京の、比較的高層のビルから眺めた夜景でも、十分綺麗だと思った。けれど、これは…どう表現すればいいのか。綺麗という形容詞だけでは表現しきれない気がする。
「…信じられない―――…」
口をついて出たのは、そんな感嘆の声だった。
「ほんとに、手で掬えそうだね」
「ああ―――看板に偽りはなさそうだ」
まだ山の中腹なので、途切れ途切れにしか夜景は見えない。が、頂上から見たら、それこそ手で光を掬えるように見えるに違いない。薄暗がりの中目を合わせた2人は、無意識のうちに笑みを零していた。
多少、予想外な展開に慌てさせられたが―――ちょっと焦ったり不安を感じた程度なら、この夜景の代償には安すぎる位だ。
頂上までの5分間、地面に足のつかない宙吊り状態ながらも、2人は暗闇の空中散歩を満喫できた。
***
最後に大きく揺れながら、ロープウェイは頂上駅に到着した。
「はい、“星の駅”到着です、お疲れさまでした〜」
ロープウェイを降り、駅の外に出ようとしたら、なんと駅員が既に閉まっているシャッターを瑞樹と蕾夏を通すために開けているところだった。ガラガラと上げられるシャッターに半ば呆然としながらも、2人は外に出た。背後でまたガラガラと閉められるシャッターに、言いようのない不安を覚える。
「…そりゃ、最終便だけどさぁ…最後の客降ろすまでは、シャッター開けといてくれてもいいのに」
「もう下山できないのに、間違って乗ろうとする客がいるからだろ。…にしても、ちょっとなぁ…」
ぶつぶつ言いながらも、夜景の魅力には勝てない。2人は駅を出てすぐ目の前に広がる展望公園・掬星台へと向かった。
掬星台から眺める神戸の夜景は、期待通り、まさしく「星を手で掬うかのような夜景」だった。
「すごーい…。これなら“1000万ドルの夜景”ってキャッチフレーズ、嘘じゃないね」
山上のせいか、少し風が強い。700メートル上がった分、街中よりかなり気温も下がっている。ジャケットの襟を引き寄せ、思わず身震いしながらも、蕾夏はひたすら夜景に見惚れていた。本当は、肩にかけている大型のバッグの中に防寒用のショールを入れてきているのだが、感動のあまりその存在すら忘れていた。
一方の瑞樹も、久々に見る本格的な夜景に触発され、きっちり三脚などを設置して夜景を撮りまくった。ライカでは望遠にも限界があるので、仕事用の一眼レフを取り出し、かなり寄ったアングルのものなども撮る。あれは何のタワーだろうか、あのビル群はどの辺りだろうか、と指差してははしゃぐ蕾夏に合わせ、次々に撮影していく。フレームの中の夜景はまるで宝石箱を乱暴に引っくり返したみたいで、本当に1000万ドルはありそうに見えた。
寒さのせいか、人影はまばらだ。が、時折すれ違う観光客は、想像通り、どれもこれもカップルだった。
―――やっぱり、1人じゃ来れねーな、ここは。
周囲の人間お構いなしでいちゃつくカップルたちを目にしては、苦笑した。もうロープウェイも動いていないというのに、カップルの数が増え続けることが少し不思議ではあったが、さして気にも留めなかった。さすがは有名なデートスポットだな、と感心するだけだ。
ここで終わっていれば、多少のトラブルも旅の思い出、と笑い飛ばせたかもしれない。
真の試練は、この直後、2人を待ちうけていた。
***
夜景撮影も十分満喫したところで、2人は、駅のすぐ隣に設置された観光案内板を確認した。
「んーと…現在地がここ、と。この坂下りるとすぐ道があるから、それを右行って、道なりに10分―――バス停が見えたら、その先を右折、かな」
「…にしても、駅以外、何も見えねーなぁ、ここ…。ネットの周辺情報じゃ、レストランとかもこの先にある筈だろ」
「うん…ていうかさぁ…暗いよね、この駅の灯りも、掬星台の街灯も、全体的に」
おそらく、夜景を楽しむために、あらゆる灯りを控え目にしているのだろう。にしたって、これでは、懐中電灯の1つも欲しくなってしまう。
他の観光客は何も思わないのか、と不思議になるが、その理由は、この案内板の場所まで来て少し分かる気がした。
案内板の前、小道を挟んだ駅の反対側には、かなりの台数の車が停められていたのだ。つまり、この時間帯の観光客は、全て車の客―――徒歩で移動しているのは、瑞樹と蕾夏ぐらいのものなのだ。
「お前、そのカッコじゃ寒くない?」
襟を掻き寄せるようにしている蕾夏を見下ろして、比較的厚手のジャケットに身を包んでいた瑞樹が眉をひそめる。が、蕾夏は微笑んで首を横に振った。
「大丈夫、10分位なら、このまま歩ける。荷物の下の方にショール入れちゃったから、出すの面倒だし」
「途中でも寒かったら羽織れよ。…じゃ、行くか」
なんだか薄暗さが不安感を煽る。夜景見物の人々を目当てに来ている筈のたこ焼き屋の車も、営業中なのに何故か無人。ちょっと嫌な予感を覚えながらも、瑞樹と蕾夏は、案内板の前を通り過ぎ、広い道へと続く小さな坂を下りた。
が、しかし。
ものの数メートルの坂を下ったところで、2人の足はピタリと止まった。
「―――…」
目の前が、真っ暗。
街灯すらない。ただ、真っ暗―――木々のシルエットすらほとんど判別不能という、有り得ない暗黒ぶりだ。
辛うじて、左右に伸びる対面通行のアスファルトのドライブウェイが見えるが、それとて見えるのは数メートル先が限界だ。左は下り坂、右は緩やかな上り坂。どちらもその先は、闇の中へと消えている。
夜目に慣れてきたとはいえ、この真っ暗さは普通ではない。何か間違えただろうか、と振り向くと、そこにはちゃんと今通ってきた坂道があり、その上には例の無人のたこ焼き屋のワンボックスカーが停車している。全体的に薄暗い中、無駄に明るいたこ焼き屋のちょうちんばかりが目立つ。
「…他に道、なかったよな」
こめかみを掻きつつ呟く瑞樹に、蕾夏もふるふると首を振った。
「第一、あの案内板からここまで、このちっちゃな坂道だけじゃない。わき道作る余裕もないよ」
「…だよな」
しかも、地図とはなんだか道の位置関係が微妙に違っている。本当に右に行って大丈夫なのだろうか。
どのみち、他に道がない。それに、左に行ったらどう考えても山を下りる方角になってしまう。
「―――とにかく、1本道だろ? 行ってみようぜ」
「えっ、い、行くのっ?」
「当たり前だろ。お前、ここに野宿する気かよ。それとも、ビビって足が竦んでるか?」
「そ…っ、そんなこと、ないよ?」
強がって笑顔を作っているものの、蕾夏の目はかなり怯えている。そう言えばこいつ、お化け屋敷の類がまるっきりダメだったよなぁ、と思い出した。
「ま、ビビってるっつっても、連れてくけど」
「え…も、もう一度、案内板確認してからにしようよ」
問答無用。
この期に及んでまだ灯りのある場所に未練を残している蕾夏の手を取り、瑞樹は意を決して歩き出した。
***
「…ねぇ、瑞樹」
もの凄く、心細そうな声。
「ん?」
「車が通る道って、こんなに暗くていいのかなぁ」
「…人が歩く道よりは、街灯の本数要らねーとは思うけど…」
「でも、駅から徒歩10分て説明されてるホテルがあるってことは、ここ歩く歩行者も間違いなくいるってことじゃない。なのに…この暗さじゃ、車から歩行者見えないよね、きっと」
「…そうだな」
「これじゃ轢かれちゃうよ。ペンライトでもあればいいのに―――あ、携帯電話ってどうかな。バックライトで気づいてもらえないかな。そう言えば今日って三日月だったね。月明かりもないから見通し悪いのかなぁ。この先にほんとに道があるのかどうか、私の目だと全然見えないよ―――う、うわ、まだ街灯ないじゃんっ。ねぇ、この先、道ってどうなってる?」
―――こりゃ、結構キてんなぁ…。
心細げな声でやたらと喋る蕾夏に、瑞樹は半ば呆れ、半ば吹き出しそうになった。
鳥目傾向があるのか、蕾夏にはほとんど何も見えていないらしいが、瑞樹には一応、微かながらも10メートルほど先までの道路の端に引かれた白のラインが見えている。古いのか、所々ペンキが剥がれてはいるものの、この先にもちゃんと道はあって、その道幅はちゃんと車2台がすれ違える広さを保っている、位のことは分かる。
そういう、情報量の差を考えてみても、蕾夏の状態はちょっと、キてるとしか表現できない。
ホラー映画を無理矢理見せた時もそうだったが、蕾夏は、何か怖いことが起こりそうだと不安になってくると、その不安を打ち消そうとするみたいに、やたらめったら喋る。心の動揺度を心電図みたいにグラフにでも出来るなら、今、蕾夏のグラフは上下に思いっきり針がふれまくってる状態だろう。
なんでも昔―――アメリカに行く前と言うから5歳より前か―――父親に無理矢理お化け屋敷に突っ込まれたことがあって、その時の恐怖体験から「暗闇を歩く」ことがどうにも苦手になってしまったらしい。蕾夏の怖がるリアクションが面白すぎたのがお化け屋敷に突っ込まれた原因らしいが、それにしても甚だ迷惑な親だ。
「お前さ。前、ジョイポリスかどっかの占いアトラクションでも、もの凄く騒いでたよな。真っ暗な館内一周して、途中途中の質問に答えてくやつ」
「う…うん、だってあれ、怖かったもの。卑怯だよ、占いって書いてあるから入ったのに、あんなに真っ暗なんて。しかも最後に、何の前触れもなく地面がぐにゃぐにゃ動くとこ歩かされたしっ」
「けど、係員に“泣き出すかと思ってハラハラしましたよ”って言われる客、かなり珍しいんじゃねーの」
「そんなことないっ。女の子ならみんな怖がるってば―――あ、ガードレールだ。よかったぁ…この内側歩けば、車に轢かれずに済むね」
暗闇の中に浮かび上がった真っ白なガードレールを見て、蕾夏が少し安心したような声を出す。が、それを聞いた瑞樹は、蕾夏がどういう意味で言ってるのかを悟り、ギョッとした。
「バ、バカ! お前が言ってる“内側”は、外側だ!」
「え?」
「山道で歩行者と車道を分けるガードレールなんてあるかよ。そのガードレールは、谷底に落っこちないためのガードレールだ。越えたら、摩耶山から転げ落ちるぞ」
「……」
数秒、沈黙。
そして、握っている蕾夏の手がカタカタ震えだした。
―――うわ、悪化させたか。
しまったな、と思ってももう遅い。蕾夏は次第に、パニックの様相を呈してきた。
「や、やっぱ携帯電話出そうっ。…あ、ここ、圏外だ。や、やだなぁ…遭難しても、助け呼べないよ」
「…こんなアスファルトの道で遭難する奴いねーよ。ダメなら駅まで戻りゃいいんだし」
「駅のとこって圏内だった!?」
「いや、知らねー…」
「なんでこんなに街灯ないの!? 山に街灯設置するのってそんなに大変なのかな―――あっ、なんかこっち側、見晴台みたいになってる。もしかして夜景楽しませるために街灯の数削ってるの!? でも、歩行者が轢かれちゃったら意味ないじゃんっ」
「そうだよな」
「やだよー、もー、全然見えないよー。瑞樹、見える? この先ってカーブしてる? それとも真っ直ぐ?」
「大丈夫。気にするな。俺からは見えてるから」
「私は見えないよっ」
「大丈夫大丈夫。ほら、これなら平気だろ?」
半泣き状態の蕾夏の肩を抱くようにして歩きながら、瑞樹の中に、ふつふつと怒りが湧きあがってきていた。
誰に対しての怒りだろう―――強いて言うなら、神戸市観光協会かもしれない。
ケーブルカーに乗る時から感じていた、妙な違和感。
関西随一の夜景の名所。格好のデート・スポット。それは嘘ではないし、自分達もこの目で確かめた。ならば何故、ロープウェイがこんな早い時刻で下山できなくなるのか。徒歩圏内にホテルもあるのに、何故こうも暗くて危険な道なのか。
とことん、徒歩客に配慮していない、この状況。
つまり―――午後8時以降、摩耶山は、徒歩では観光できないのだ。“夜景”の名所なのに。
対象客は、夜景目的のカップル。ただし、車限定。もしかしたら観光協会の連中は「若いカップルは公共交通機関なんて使わない」とでも思ってるのかもしれない。動く密室好きなカップルが多いのは確かだが、瑞樹と蕾夏がそうであるように、歩くことそのものが好きな連中だっているのに。
夜景を見たいな、と思って登ったはいいが、もう公共交通機関では下山できない。ホテルに泊まろうにも、道路は歩行者用には出来てない上に真っ暗闇。掬星台に取り残されてしまった徒歩観光客は、泣く泣くタクシーを呼ぶか、暗闇の恐怖に打ち勝ってホテルまで辿り着く以外道がないのである。そう言えばさっき、掬星台の入口で客を乗せていないタクシーとすれ違った。下山できなくなった客が呼んだことは想像に難くない。
―――馬鹿野郎、だったら、ホテルの交通案内に“駅から徒歩10分”なんて書くなよ。チェックイン時刻ももっと早い時間までしか受け付けるな。蕾夏が朝電話してんだろ? 一言確認しろよ、車か歩きか位。
いや、それより、神戸市。地元のカップルだけが摩耶山の夜景を見に来る訳じゃねーこと位、もう分かってんだろ? 東京から車で来る奴なんて珍しいぞ。ロープウェイ動かすなりバスを巡回させるなり、もうちょい頭使え。街灯の2、3本、ケチるんじゃねえっ! 俺みたいに平気な奴ばっかりじゃねーんだ。蕾夏を泣かせるような真似しやがって…それでも観光都市か!? もっと予算を割けっ!
「あっ、バス停!」
瑞樹が心の中で怒鳴ると同時に、蕾夏がバス停のシルエットを見つけて、声を上げた。
確かに、バス停があった。バスを停めるためか、道幅もそこだけが路肩を膨らませたみたいに広くとってある。2人はバス停に駆け寄り、それが目的のホテルの前にあるというバス停かどうか確認した。
「…なんつー不親切なバス停だよ、これ」
バス停の上部の丸い部分には「バス停」としか書かれていない。停留所名がない。
「瑞樹、瑞樹、これっ」
「え? ああ」
蕾夏に携帯電話を渡され、その意図が分かった。携帯電話をパカッと開いた瑞樹は、バックライトの僅かな光をたよりに、バス停に取り付けられた路線図に目を凝らした。
至極シンプルな一直線の路線図は、どの停留所名も同じ大きさで書かれていた。この停留所の名前だけ赤で書いてあるとか、そういうこともない。もう少し丁寧に見てみると、“現在地にはこのシールが貼られています”と小さな字で書いてあり、ほとんど色あせて白と見分けがつかなくなったピンク色の丸いシールが貼られていた。
「…ちっきしょ、ムカつく…」
「ねぇ、どうなの? ホテル前って停留所?」
「ええと―――ああ、オッケー、ここで間違いない」
「てことは、この傍にホテルがある筈なんだよね?」
その筈だ。2人して、ぐるりと辺りを見回してみる。
がしかし、周囲には何の灯りも見えない。まるで道路の頭上を覆うような勢いで、道路の両端から木々の枝が迫ってきていて、あたり一面、真っ暗だ。ホテルどころか建物らしき影も見えない。ホテル前という停留所名を、少々疑いたくなる。
「バス停が見えたらその先を右折、なんだろ。そこに右折する道あるじゃん。その先じゃねーの」
「そ、そうかな」
また不安げな声を出す蕾夏の肩を抱き、瑞樹は、やはり真っ暗闇の中に消えかけているその右折道路を曲がった。
途端。
100メートルほどの緩やかな坂道のその先に―――もの凄く場違いなまばゆい光が見えた。
外壁全体に柔らかな色合いの電飾を施したその外観には、瑞樹も蕾夏も見覚えがあった。ネットからプリントアウトしてきたホテル情報に載っていた写真―――予約した山上のホテルだ。
「つ…着いたああああぁぁ…」
腕の中の蕾夏の体が、くたり、と力を失う。
慌てて見下ろすと、安堵のあまり脱力してしまった蕾夏は、緊張の糸が切れたみたいにボロボロ涙を零していた。
「お、おいおい…、泣くか? 普通」
「だってぇ…凄く不安だったんだもの…」
「…俺が一緒でもそこまで不安だったのかよ。なんかなぁ…」
瑞樹に半ば縋りつくようにして泣き笑いしている蕾夏を見ると、少々複雑な心境になる。まあ、でも―――気持ちは分からなくもないが。
「もうヤダ。早く部屋入って、あったかいシャワー浴びて、早く寝たい」
「ああ…俺も、さすがに疲れた」
くしゃっと蕾夏の髪を撫でた瑞樹は、蕾夏の手を取り、再び歩き出した。が、久々に握ったその手が異常なまでに冷たいのに気づき、一瞬ギョッとした。
―――うわ、まずい。
相当寒かったのに、パニックのあまり、ショールを出すことを忘れていたらしい。不安からではなく、寒さから小刻みに震えている手に、俄かに焦りを覚える。瑞樹は、蕾夏の手を引っ張るようにして、少し早足気味に坂道を上り始めた。
こうして2人は、とうとう、最終目的地に到着し、ひと時の休息を得ることができた。
―――なんて、普通な結末は、待っていなかった。
***
「はい、確かにご予約はいただいてまして、確認のお電話もいただいておりますが―――じ、実はですね、こちらのミスで、実際の部屋数よりも多くの予約をお受けしてしまいまして、まことに申し訳ないのですが、本日お部屋をご用意できないんでして…」
「―――…」
―――唖然。
ホテルのフロントで、もの凄く済まなそうにしている支配人を前にして、2人は何の言葉も出てこなかった。
あんな思いして、駅からここまで歩いてきたのに。
暖房ききまくりのロビーにいても、体の芯からくる震えで寒くて仕方ない位なのに。
なのに、ここまで来て、泊まれない? ―――冗談でしょーっ!!!
「そ、それでですね。私どもの方で一応、別のホテルをご用意いたしましたので、まことに申し訳ありませんが、全くの同額でそちらにお移りいただいてもよろしいでしょうか」
固まってる2人に、支配人は超低姿勢でそう告げた。
彼が告げたホテルの名前は、瑞樹も蕾夏も知っている、六甲山では一番有名なホテルだ。とてもじゃないが、このホテルの宿泊費用と同額で泊まれる訳がない。そういう意味では、ラッキーな展開。
…が、しかし。
「あ…あの…」
「はい?」
「移るのは構わないんですが、私達、歩きなんで、移ろうにも移れないんですけど…」
「えっ」
蕾夏の言葉に、支配人の顔色が一気に変わった。まさか歩きでこの時間に来る客がいるとは、予想だにしていなかったらしい。
「で、では、急いで車の手配をいたしますので―――コーヒーお出ししますから、ロビーでお待ち下さい」
バタバタと慌てだす支配人の顔が異様に引きつってるのが気になりはするが、とりあえず今夜の宿泊先には無事送り届けてもらえそうだ。ホッとした蕾夏は、背後の瑞樹を振り返った。
「……」
―――こ…これのせいか…支配人の顔が妙に強張ってたの。
和臣命名「人を2、3人殺してそうなオーラ」を放って、憮然とした表情で立っている瑞樹を見て、蕾夏は深く納得した。
「…な…なんか、悪いなぁ。倍近い値段するとこに泊めてもらえる上に、コーヒーまでご馳走になっちゃって」
「……」
「そ、それに、あっちのホテルだと、JRの駅までシャトルバス出てるんだって。下山の交通費、浮いちゃった。あははは…」
「…………」
「―――ねぇ、瑞樹」
「何」
「怒ってる?」
「…怒ってるように見えるか」
それ以外には見えないよ。
コーヒーカップを口に運びながら、蕾夏は眉をひそめた。自分が決めた宿泊先だけに、少々責任を感じてしまう。
「心配するな。お前に怒ってる訳じゃねーから」
蕾夏の懸念を察したのか、瑞樹がそう言って微かに笑った。が、依然として不機嫌そうな態度は改めない。
「…そう言えばさぁ…コッツウォルズでホテル予約した時も、なんか突然、宿泊先変更されたよね。高いホテルに」
「ああ…あったな。寒くて死にそうだった湖水地方だろ」
「なんだかなぁ…私達って、ついてないのかも」
「…バッカ。んな訳ないだろ」
深いため息をつく蕾夏に、瑞樹は唐突に不機嫌な顔を崩すと、ちょっと耳貸せ、という風に蕾夏の頭を引き寄せた。
「―――考えてもみろよ。湖水地方の時も、外国で焦りはしたけど、結果だけ見たら超破格で高級ホテルに泊まれたんだぜ?」
「…う、うん…?」
「今日だって、素直に六甲山に泊まってたら絶対見られなかった筈のスペシャル級の夜景が拝めた上に、高級ホテルまで運転手つきだ」
「うん…」
「俺達がついてない訳ない。最高にラッキーだ」
「…だったら瑞樹、なんでそんな不機嫌な態度とるの。支配人さん、怯えてたよ、絶対」
予想外にご機嫌な瑞樹の発言に余計蕾夏が眉をひそめると、瑞樹はしてやったりという風にニヤリと笑って、言い放った。
「演技に決まってるだろ」
「は!?」
「キレたのは本当だけど、少しオーバー目に不機嫌にしてるだけ。蕾夏を泣かせた上に寒い思いをさせた罪だ。もっと恐縮しろってんだよ」
「……」
「ま…足代タダになりそうだし、コーヒーもそこそこ美味いし、ホテル代の差額考えたら、ぎりぎりでチャラかな」
―――支配人さん…お気の毒に…。
ホテルが泣かせた訳じゃないのに、と、瑞樹の妙な発想にちょっと呆れつつも、蕾夏は、なんだか可笑しくなって、つい吹き出してしまった。
確かに自分達は、最高にラッキーな部類に入るのかもしれない。
でもそれは、高級ホテルに安く泊まれたからでもなければ、最終のロープウェイに偶然間に合ってしまったからでもない。あまりにも人がいないケーブルカーやロープウェイに不安を感じたことも、真っ暗闇の夜道に泣きそうになったことも含めて、全部、ラッキーかもしれない。
だって、何のトラブルもない旅なんて、面白くも何ともないもんね―――?
そう思えてしまう辺り、私も相当神経が図太い方なのかも―――なんて思って、蕾夏は余計に笑えてしまった。
この話は、一部を除き、ノンフィクションです。
…半端じゃなく、怖かったです。摩耶山の夜道。そして、涙でヨレヨレになって駆け込んだゴール地点で待っていた「ホテル移動」という結末…。
あまりにも哀しかったので、瑞樹と蕾夏に同じ運命を辿ってもらいました(筆者権限)。そんな訳で、これが何年頃のお話かは不明。職業から考えてRisky後ですね。
さすがにホテルの名前は出せませんでしたが、この場を借りてお詫びします。
支配人様。宿泊先移動の際、ものすごーく機嫌が悪そうに終始眉を顰めてた男が1名おりましたが、あれは演技です。
コーヒーをご馳走してくださった上に、Quoカードまでいただき、ありがとうございました。
「車ないのにQuoなんて使えねぇ」と彼は文句を言ってますが、結城は大切に使わせていただきます。確かコンビニでも使えましたよね? あれ? 使えない?(汗)
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