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この世が終わるその時に

 


 ―――輪廻転生を信じる?

 ある日、彼は、まるで何てことはない話のように軽い口調で、私にそう言った。

 私は、仏教もキリスト教も信じない。生命科学こそが人間の真理の全てであると思うからこそ、この道を選んだ。彼もその典型だと思っていた私は、そんな彼の宗教じみた言葉に、酷い違和感を覚えた。
 「キミは、信じるの」
 私が訊ねると、
 「ああ、信じるね」
 彼はあっさり、そう答えた。
 「信じていなければ、生きていけないよ。こんな世界では」


 彼は、世界が終わるその時を、待っていた。

 そして、その望み通り、彼の世界が終焉を迎えるのは、それから半年後のことだ。


***


 私が彼に興味を持ったのは、彼が超難関校であるうちの大学でも目立って優秀な奴だったせいばかりではない。

 彼は、涼やかな、凛々しい顔をしていた。明らかに体育会系ではなく文科系、着ている服もいつもこざっぱりしていて、10代の少年期にしては、妙に悟った顔をしている奴だった。
 何らかの法則によってクラス分けされた私達新入生だが、彼はクラスの誰とでも仲良くなった。明朗快活、いつも穏やかな笑みを見せる奴で、一般教養英語では見事な発音を披露し、友達同士で政治や経済についての議論をする時も、いつも彼の意見が一番支持された。そういう、絵に描いたような優等生が、彼だった。

 でも―――私は、いつも気になっていた。
 そういう優等生の彼が、時折、私に向ける奇妙な視線が。
 私だって、自分の外見がどの程度のレベルかをはっきり自覚してるから、さほど話をしたこともない彼のその視線の意味を取り違える気など毛頭ない。
 けれど、一瞬取り違えてしまいそうになるほど、彼の視線は異様に熱かった。恋しくて仕方ない人を―――けれど、触れ合うことのできない人を見つめるような、切なくて、苦しげで、思いつめたような視線だった。

 何故、彼がそんな目で見つめてくるのか、分からない。少し親しくなってからも、その視線の意味を口にはしない彼に、私は焦れていた。
 そこで、夏休み、大学の図書館で偶然会った時―――私は、思いきった賭けに出た。


 課題のための調べ物をしようと訪れた図書館で、彼は端っこの席に陣取り、本を読んでいた。
 周囲を見渡すが、知り合いの姿は一切ない。どうやら、彼1人で来ているようだ。
 ある考えが頭を掠め、直後、そんな馬鹿な真似を私がするなんて、と自分の突拍子もない考えに苦笑する。でも…あの視線の意味を知りたい、という思いは、夏休みに入る前辺りからますます大きくなっていた。
 無視して、用事を済ませて、さっさと帰る。その方が私らしい行動。
 けれど―――…。

 「…こんにちは」
 彼の隣の椅子をガタンと引いて、私は声をかけた。
 本を読むことに没頭していたらしい彼は、私の声に驚いたように顔を上げ、それから、声の主が私だと分かると、少し慌てたような顔をした。
 「あ…ああ、こんにちは。どうしたの、夏休みなのに」
 「課題のための調べ物」
 「へえ…順調に進んでる?」
 「まだ、全然。キミは?」
 「目途は立ってる」
 ―――さすが、教授陣からも一目置かれてるだけのことはある。まだ夏休みも半ばだというのに。
 「じゃ、一体何しに? 何読んでるの」
 訊ねながら、彼の手の内にある本の表紙を確認しようとした私だったけれど、彼はそれを察知していたかのように、あっさりパタンと本を閉じてしまった。勿論、表紙も背表紙も一切私には見せないよう、さり気なく本の向きを変えて。
 「―――ただの、趣味の本だよ。邪魔しちゃ悪いから、僕は席を替わる」
 まるで逃げるように席を立つ彼に、私の迷いは消えた。
 確かめなくては―――彼が何故、こうも私を意識するのか、その理由を。
 「ねえ、ちょっと待ってよ」
 席を立った彼のシャツの裾を、反射的に捕まえて。
 「この前、キミが持ってきてた参考書―――あれ、私に暫く貸してくれない? 図書館のは、先に借りられちゃってるんだ」


 本当は、真っ赤な嘘だった。
 その参考書を見せて欲しかったのは本当。でも、図書館のものが借りられていたかどうかなんて、私は知らなかった。確かめに行こう、と件の本のある本棚に連れて行かれたら洒落にならないな、と思ったが、案外あっさり、彼は私が仕掛けた罠に引っかかった。
 初めて訪れた彼の家は、白い壁が目に眩しい、大きな家だった。
 家族は留守らしく、彼は鍵を自ら開け、私を目で促した。
 「麦茶位しか、ふるまえないと思うけど」
 「別にお構いなく」
 どこかから、ジジジジジと、蝉の鳴き声が聞こえている。こめかみから首筋に伝った汗をハンカチで軽く押さえながら、私は少しだけ、自分の大胆すぎる行動を後悔していた。
 家族が誰もいないとは計算違いだった。自宅通いだと聞いていたから、どこかで安心しきっていたけれど―――この優等生だって、男なのだ。こんな真似したら、たとえその気がなくても、危険な目に遭わないとも限らない。
 少々緊張しながら、彼の後について、玄関に入る。サウナのように暑かった外の空気から遮断され、汗がヒヤリと肌を冷やした。
 「1階の居間で待っててくれれば、持ってくるから」
 当然のようにそう言う彼に、私は覚悟を決め、更に彼を追い詰める。
 「どうせなら、キミの部屋、見せて欲しいんだけど―――ダメ?」
 「……」
 真夏の暑さの中にいても涼しげだった彼の優等生顔が、乱れる。
 私の真意を測ろうとするように、私の目を、真っ直ぐに見下ろす。目を逸らしたりすれば、こちらの負けだ。私はじっと、逃げ出したい気分を必死に堪えた。
 無言の時間が、暫し、流れる。
 断られるかな、と思い始めた時―――彼はふっと笑い、
 「―――…いいよ」
 と、一言、答えた。
 その笑い方が、どこか、自暴自棄になったような―――何かを諦めてしまったかのような笑いだったことに、私は眉をひそめた。彼がそんな笑い方をするところを、これまで一度も見たことがなかったから。
 「麦茶は、じゃあ、後でいいかな」
 「…うん…」

 鼓動が、速い。
 彼の背中を追って、階段を上る。今、彼が見せた笑い方が、脳裏に焼きついて離れない。
 何故なら―――その笑い方は、物凄く身に覚えのある笑い方だから。
 鏡で見たことは、とりあえず、ないけれど―――それは間違いなく、私自身が時折せずにはいられなくなる、笑い方だったから。

 彼の部屋は、2階にあった。
 「どうぞ?」
 内開きのドアを開け、彼に促される。
 「…お邪魔、します」
 今更、逃げる訳にはいかない。ごくりと唾を飲み込み、私は、彼1人のテリトリーに足を踏み入れた。
 一応、気を遣ってくれているのか、ドアは半分開けられたままにされた。けれど、無人のこの家で、部屋のドアを開け放ったままにすることに、さして意味はないように思う。
 参考書を探す彼の背中を時折気にしながら、私は部屋中をぼんやり眺めた。
 本がぎっしり詰まった本棚、きちんと整頓されている机の上―――嫌味がなくて、シンプル。彼らしい部屋だな、となんとなく思った。
 参考書は、どうやらかなり奥の書棚に収まっているらしく、彼は、手前の本を丁寧に机の上に積み上げていた。少し時間がかかるかな、と思った私は、若草色のベッドカバーに覆われたベッドに、何の気なく腰掛けようとした。
 すると、そんな私の行動を知る筈もない、と思われた彼が、突然、振り返った。
 「……っ」
 あまりにぴったりなタイミングに、思わず、体が硬直する。
 「―――何、してるんだ?」
 酷く冷たい声でそう問う彼の表情は、日頃の温厚な彼とは、まるで別人だった。
 決して荒らしてはいけないテリトリーを、他人に荒らされたような―――そんな顔。冷ややかで、僅かに怒りがこもっている顔。私が時折感じる、あの熱い視線とは対極のもの。
 「…つ…疲れた、から、ちょっと座ろうかと…」
 「…だったら、こっちに座って」
 ガタン、と少々乱暴に、彼が机の前の椅子を引く。
 とっさのことに、言われたとおりの行動がとれない私に焦れたのか、彼は私の腕を掴むと、半ば強引に、引いた椅子の前へと引っ張った。
 「…っ、痛い! 乱暴にしないでよ!」
 掴まれた腕が軋み、思わず私がそう抗議すると、彼は苛立った口調で返した。
 「確かに君は、男に対して物怖じしないその態度が好ましい女性ではあるけど、自分の置かれた状況を少し軽く見てないか?」
 「な…何よ、それ」
 「家族のいない家でベッドに座るのは、どう考えても賢明な行動じゃない」
 「…どういう、意味よ」
 「分からないのか?」
 意味なんて、分かっている。
 けれど、これは、私が仕掛けた罠―――私は、こいつのこの顔が見たかったんだから。
 「豹変した男に、押し倒されるかもしれない、ってことだよ。無防備にも程がある」
 私が理解していないと思って、彼はますます苛立った表情で、そう説明した。そんな彼を、私は、挑発するように笑った。
 「その位、覚悟の上よ?」
 「……っ、何、を…」
 「今更、何? キミっていつも、私のこと、目で追いかけてるじゃないの」
 「……」
 まさか、私が気づいているとは思わなかったのだろう。彼の目が、初めて、動揺のあまりグラついた。
 もう少し―――私は、私の腕を掴んでいる彼の手に、空いている方の手を添えた。体が触れてしまうほど、彼に身を寄せて。
 「気づいてないと、思ってた?」
 「…違うんだ…」
 苦しげに目を細め、掠れた声で、彼が呟く。
 違う―――そんなことは、分かってる。けれど。
 「…違ってても、いいよ?」
 「……」
 「私だって、キミのこと、嫌いじゃないもの」

 私の言葉に免罪符を得た気分になったのだろうか。彼に引き寄せられて、唇を重ねた。
 意外なほどに慣れたキスに、ちょっと驚く。決してもてない訳じゃない彼だから、彼女がいた時期だってあった筈だとは思うけれど―――あまりに日頃見せる顔が涼しげだから、こういう本能的なキスをするタイプじゃないと思ってた。
 もしも私が、もうちょっと素直でありふれた恋愛観を持った女なら、勘違いしたかもしれない。このキスに酔いしれて、このまま彼の恋人になってもいいな、と思ったかもしれない。そう思う位、その時の彼は、とても情熱的だった。

 けれど。
 微かな音を聞いた気がして、私の意識がキス以外に向いた瞬間―――背中に回された彼の手が、唐突に強張った。
 「―――…?」
 不思議に思い、私の方から唇を離した。
 上目づかいに見上げた彼は、表情を凍りつかせていた。
 私の頭越しに、ドアの方を見据えている彼。その手は、微かに震えている。つい今しがたまで鼓動が聞こえるほど近くにいた筈の彼だけれど、体は触れていても、はるか彼方に遠のいたのを感じた。

 ガチャリ、という大きな音が背後から聞こえ、さすがに私もドアの方を振り返った。
 半分開いたドアの向こう、この部屋のドアとほぼ同じ形のドアが見えた。そのドアが勢いよく閉まる直前―――私が見たのは、ふわりと翻る、制服らしき紺色のプリーツスカートだった。
 バタン! と音をたて、向かいの部屋のドアは閉まった。
 まるで、何かを拒絶するかのように。

 「…帰ってくれ」
 彼は、低くそう言うと、私をドアの方へと押しやった。
 予想通りのセリフだ。私は、本能に限りなく近い部分で、彼が時折見せていたあの熱い視線の意味を悟りつつあった。
 「参考書は、どうするの」
 「…明日の昼過ぎ、図書館に行く。その時に持っていくよ」
 「…そう」
 ぐしゃっ、と、自棄になったように自らの髪を掻き混ぜると、彼はベッドの上に乱暴な身のこなしで腰を下ろした。うな垂れ、片手で額を押さえる彼は、やっぱり震えていた。
 「―――送ってくれなくて、いいから。…じゃ、また明日」
 見守っていてやりたい気もしたけど、見るに忍びない彼の姿に、私はそれだけ言い残して部屋を後にした。

 1階に下り、玄関で靴を履こうとした私は、その時、来た時にはなかったものに気づいた。
 きちんと揃えて脱いである、明らかに女性用のサイズの、真っ白なスニーカー。
 脳裏に、さきほど見た紺色のスカートが、また翻った。

***

 彼は、逃げることなく、翌日も図書館に来た。
 「…やあ」
 私の姿を見つけ、ふわりと微笑む彼は、昨日までの彼とはどこか違っていた。何か、憑きものが落ちたような―――何かを悟りきってしまったような、そんな清々しささえ感じる顔になっていた。
 「参考書、持ってきたから」
 「…そう」
 笑みさえ浮かべて差し出す参考書を、私は、複雑な心境で受け取った。
 昨日のあの時から今までの間に、彼に何があったのだろう? あまりの変わりように―――いや、逆にいつも仲間内で見せるとおりの彼の表情に、昨日のことも無かったことにする気なのではないか、とさえ思ってしまう。
 挑発したのはこっちだけど、そっちだって乗ってきた癖に、と、少し幻滅しかけたところに、彼は、涼やかな笑みのまま言葉を継いだ。
 「調べ物、まだある?」
 「…えっ?」
 「無いなら、ちょっと、外に付き合ってくれるかな」


 彼に連れられて行った先は、大学の屋上だった。
 「昨日は、ごめん」
 彼は、あっさり自分の非を認め、丁寧に頭を下げた。
 「どんな理由があっても、言い訳できることじゃない。本当に悪かった」
 あまりにもストレートに謝罪されて、かえってこっちがドギマギしてしまう。確かに彼には非があるのかもしれないが、それもこれも全部、私が仕掛けたことなのだから。
 「…い、いいよ。私がわざと挑発しただけなんだし―――ごめん。注意されたの逆手に取って、あんな真似させて」
 私がそう返すと、彼は、下げた頭を何度か横に振った。
 「そうじゃないんだ―――…」
 少し掠れてそう言った彼は、のろのろと顔を上げ、少し悲しげに私を見下ろした。
 「僕は、君を好きな訳じゃない」
 「……」
 「勿論、友人としては好きだけど―――ああいう意味では、一度も意識したことはない。もし君を誤解させてしまっていたのなら…」
 「…ううん。分かってた」
 彼にとっての私が、恋愛対象ではないことが。
 「分かっていたからこそ、知りたかったの。何故あんな目で、私の姿を追うのか。だから、昨日のことは、私が仕掛けた罠―――キミには、責任なんて全然ないよ」
 「…そう」
 「で、ね。…昨日のことで、なんとなく、分かった。もしかして私―――似てるんじゃない?」
 「…誰に」
 「キミの部屋のお向かいに住んでる、制服姿の女の子に」
 「―――…」
 私にバレてることは、ある程度、予想の範囲内だったらしい。
 誤解させていたのなら、と言った割に、私のこの言葉に、彼はさしたる動揺も見せなかった。ただ静かに、憂いを湛えた目で私を見下ろし続けていた。
 「…君は、狂ってると思う?」
 「―――そうね。一般常識から言えば、狂ってる方かもね」
 「…やっぱり、そうだろうね」
 「でも、否定はしない。だって、」

 ―――私も、同じだもの。

 勢いで言いそうになって、飲み込んだ。
 誰にもこの件を話したことはない。自分は自分だと割り切り、誰に責められても構うもんか、と開き直ったつもりでいてさえ、この悩みは人には言えない―――たとえ、目の前の男が、私と同じ罪を犯しているのだとしても。

 飲み込んだ言葉の後が出てこず、私は、石のように黙り込んでしまった。
 その反応で、彼にも理解できたらしい。私達2人が、同類だということが。
 「…いいよ、話さなくて」
 優しげな笑みを浮かべた彼は、私にそう言った。
 「僕達だけじゃない、って分かっただけでも、少し、救われる。もっとも―――それが果たして本当の救いになるのか、自分でも分からないけどね」
 「―――キミ、なんだか、たった1日で随分悟った顔になったんじゃない?」
 自分だけが取り残された気がして、ちょっと嫌味を口にしてしまう。が、口にした途端、彼が悟った顔になってしまった理由を想像し、瞬間、心臓が止まりそうになった。
 「ちょ…ちょっと、待って。まさか昨日、あの子と―――…」
 下世話な想像の欠片を口にした私に、彼は吹き出し、面白そうに笑った。
 「そこまで鬼畜じゃないよ、僕も」
 「…あ…そう」
 「ただ、2人で話し合って、確かめただけだ。それがたとえ許されることでなくても―――僕には彼女しかいないし、彼女には僕しかいない、って」
 「……」
 「嘘は、つかないことにした。君を愛せれば、まだ幸せだったのかもしれないけどね。でも…他の人で誤魔化すよりは、苦しくても自分に正直にいようと、2人して決めた。だから、僕はもう、大丈夫だ」
 そう話す彼の表情は、とても清々しくて、纏わりつく苦悩を脱ぎ去ったような感じがした。


 この日、私と彼は、互いの秘密の一部を共有する仲となった。

 その時から、私達は、共に戦う仲間―――同志のような関係になっていったのだ。

***

 彼が私を目で追う時の視線に気づいていたのは、私自身だけではなかったようで―――その後、学内で何かと一緒に行動する機会の多くなった私達を、周囲の人間は“恋人同士”と考えているようだった。
 別に、構わない―――恋しい人は、お互い、他にいるのだけれど、その相手が世間的に許されない相手である以上、カモフラージュのためにも私達が恋人同士なのだと思われていた方が、何かと都合が良いから。

 結構、きわどい話もしたと思う。
 あれは確か、2年の夏休み明け―――珍しく、彼が煙草を持って来た日だった。


 「キミが煙草なんて、珍しいじゃない」
 学食で、テーブルの上に置かれた煙草を見つけ、そう言うと、彼は、少し不機嫌そうに眉を寄せ、その煙草を1本手に取った。
 「基本的には吸わないけどね。たまーに、吸わずにはいられない日があるんだ」
 「ふぅん…煙草は、遺伝子を傷つけるわよ。医学生として、あまりお勧めの生活習慣じゃないなぁ」
 「…君に言われてもね。君こそ、1日半箱、この1年ずっとだろう? 女性なんだし、今すぐやめた方がいいんじゃないか?」
 煙草に火をつけながらそう言われ、さすがにちょっとムッとした。
 「いいのよ。私は、遺伝子を後世に残す気、一切ないもの」
 だって、それは出来ない相談なんだから。
 言葉にせずとも、言いたいことは分かったのだろう。彼は肩を竦め、ライターをテーブルに投げ出した。
 「残念ながら、僕も同じだ。僕の遺伝子を残す気はないよ」
 「…ま、そうでしょうね」
 医学を学んでいるだけに、その辺のことは覚悟しなければならないことは、お互いよく分かっている。私達が愛した相手は、禁忌の相手―――結ばれてはいけない相手だということは、百も承知だ。
 「でも私は、どうしても耐えられない時は、そのリスクも負う気でいるけど」
 事実、そう思っていたので、本心をストレートに口にする。すると彼は、ちょっと呆れた目をして私を見、続いて肩を震わせて笑った。
 「なんていうか―――君は、見た目もちょっと似てるけど、中身もかなり似てるなぁ…」
 「そうなの?」
 「タブーを恐れない子だよ。もっとも…僕もさほど、タブーに忠実な人間ではないけど」
 彼がくゆらせる煙を目で追っていたら、なんだか煙草が吸いたくなってきた。バッグから愛好している煙草を取り出した私は、それを口にくわえ、彼の煙草の先に近づけた。
 こういうシーンは、結構、嫌いじゃない。
 相手が自分にとって安全な男だと分かってるからこそ、出来ること。なのに周囲は、こういう場面を目撃しては、やっぱりあの2人はできてたのか、と納得するらしい。筋違いな納得の仕方に、当の本人達は苦笑するしかない。


 こんな風に、お互いに抱えている禁忌の恋に関しては、ある程度話し合える仲にはなっていたが―――彼は、それ以外の素顔はほとんど見せない男だった。
 医学部に通っていながら、どうやら他に夢を持っているらしいことは、なんとなく感じていた。
 私が医者を目指すことになったのは、母親の胎内にいた頃から共に過ごしてきた、私とはあまり似ていない二卵性双生児の兄のせいなのだが―――彼の場合、彼にDNAを分け与えた男が、自分と同じ職業に就くことを彼に強要しているせいらしい。
 彼が本当にやりたい事が、何なのか―――ついに彼は、教えてくれなかったけれど。
 密かに愛し合っている“彼女”のこと、そして、父親の希望とはまるでかけ離れているらしい、本当の夢―――この2つが、彼を生き難くしていることを、私はなんとなく感じ取っていた。

 そして、あの話を聞いたのは、2年生の終わり頃―――春休み前、やはり屋上で、のんびり過ごしていた時だった。

 

 「…君は、輪廻転生を信じる?」
 屋上のフェンスに肘をつき、そこからの景色を眺めていた彼が、唐突にそう私に問うた。
 「キミは、信じるの」
 私が訊ねると、
 「ああ、信じるね」
 彼はあっさり、そう答えた。
 「信じていなければ、生きていけないよ。こんな世界では」
 「……」
 そうかも、しれない。
 もしも魂が輪廻転生するのであれば―――次の世を、私は望むかもしれない。愛さずにはいられない“彼”と、他人となれる来世を。
 「でも…そんなものを信じて、ロマンチックに心中の道なんて選んじゃってさ。もしそのまま、輪廻転生することなくあの世に消えちゃったら、どうする? もしくは、自分だけ生き残っちゃったりしたら」
 冗談半分で私がそう言うと、彼は苦笑し、
 「君は現実的だね」
 と面白そうに言った。
 「そんな真似する位なら、罪を犯して現世で結ばれる道を選ぶ?」
 「…かも、知れない。死んだらどうなるかなんて、誰にも分からないじゃない?」
 「ハハ…、確かに」
 「―――どうかしたの? 随分、疲れた顔してるけど」
 笑い方にも、覇気がない。なんだか、酷く疲れ果てた顔をしている彼が気になって、思わず眉をひそめた。
 「…別に、どうってことはないよ。ただ…僕は、彼女の幸せを願っているけど―――僕のいない幸せが彼女にはあるのかな、と思ったり、いざ“その時”が来たら、果たして僕は本当に彼女を道連れに出来るのかな、と思ってみたり―――難しいな、と思っただけだよ。今更ながらにね」
 彼は、力ない笑いを私に返すと、再び視線を遠くへ向けた。
 遠く、遠く―――彼の目は、はるか彼方を見ていた。それは、この世ではない世界―――生きている人間では、届かない世界のように見えた。

 「…僕は、地上(ここ)で逃げ場を失ったなら、迷わず行くことができると思う」
 不思議なほどきっぱりとした口調で、彼は言った。
 「今、僕らは、2人で逃げおおせる場所を探してる。そして、その目途が立ちつつあるから―――僕らは、あの人に縛られない世界で、2人で生きていけたらいいと、そう思ってる。でも…万が一、その場所に辿りつくことができなければ―――もうこの世に、僕らの幸せはない。彼女にとっても僕にとっても、この世は地獄だ。恋愛の問題だけでなく…他の問題でも」
 「…なんか、色々事情を抱えてそうじゃないの」
 「まあね」
 短くそう答えた彼だったが、その不幸の理由は、語ってくれなかった。

 風に乱された髪を整えようともせず、彼はずっと、遠いところを見ていた。
 そして、私に話すでもなく、誰かに聞かせるでもなく、呟いた。

 「―――僕らは、2人きりだ。引き離される位なら―――こんな世界は、いらない」

 

 彼がこの事を語ったのは、この時、一度きり。

 彼は、この世が終わる、その日を待っていた。


***


 3年生の夏。
 うだるような暑さに、課題にも身が入らず、ゴロゴロとして過ごしていた。
 いとしの君は、ただいま、隣の部屋で爆睡中―――無防備な寝顔を私に晒して、ステキな夢を見ている。
 廊下からそっとその様子を覗き見し、時々、殺意すら覚えることがある。私が日々、どんな思いで可愛い妹で居続けているのか―――生れ落ちる前から一緒にいるこの男は、まるで知らずに、幸せな夢をむさぼっているのだから。
 以前とは違い、今はこの男も、私の気持ちを知っている。
 私も、この男の本音を知っている。この男は、私の数百倍もモラリストだ。だから、自分の気持ちに蓋をすることを厭わない。双子の妹相手だなんて、神様が許さない―――本気でそう思って、自分に嘘をついて他の女を抱いている。そうすることが私の幸せのためにも一番いいことなのだと、そう自分に言い聞かせながら。
 「…本気で絞め殺したくなるよ、マジで」
 最近、疲れてきてるのかもしれない。
 軽く、部屋のドアを蹴飛ばす。ちょうどその時、居間の方から、電話のベルが聞こえてきた。
 睡眠中の男を再度横目で確認しつつ、私は居間へと走った。両親は外出中、兄は睡眠中。私が電話に出るしかない。
 5回目のベルが鳴り終わり、6回目がちょっとだけ鳴ったところで、私は受話器を取った。
 「ハイ、澤口です」
 私が言うと、受話器の向こうから、聞き覚えのある声が、
 『澤口か!? オレ! 水谷!』
 と返してきた。同じゼミの仲間だった。
 「ああ、なんだ、水谷君? どうしたの」
 そして返ってきた答えに―――私は、直後、受話器を落としそうになるのだった。

 『飯島が―――飯島 陸が、死んだらしい』

 

 事故だったらしい、と、誰かが通夜の席で噂していた。
 妹と海へ日帰り旅行に行き、海に落ちた妹を助けようとしたのだ、と。
 “事故”から、既に10日――― 遺体は、ついに上がらなかった。目撃者証言や妹からの聞き取り調査の結果、潮の流れなどを計算しても、これは発見は不可能だ、と判断され、私の同志・飯島 陸はこの世から消えた。

 遺影の飯島 陸は、いつものあのさわやかで涼しげな「表向きの笑顔」を祭壇の上から振りまいていた。同期生は泣き崩れ、その中には女性の姿も多々見られた。
 「あたし、飯島君のこと、好きだったのに…」
 なんて言うゼミの仲間の女子生徒を、周囲の仲間が慰めたりしている。その光景を、私は、一歩離れた場所から冷めた目で見ていた。
 なんだか、現実味が湧かない。
 逃避している気はないけれど―――ピンとこない。またいつもの笑顔でフラリと姿を見せそうで…実感が湧かないのだ。

 通夜の席、噂の妹の姿を探したけれど、見つからなかった。
 「飯島が死んだのがショックで、まだ入院中らしいぜ」
 と、電話してきた水谷が、耳元で囁いた。
 息子の死に涙し、喪服姿で目を押さえる母親。その隣に、憮然とした、怒りを露わにした表情で立っている父親―――きっと妹は、あの父親から、通夜への同席を拒絶されたんだろうな、とぼんやり思う。私と兄が同じ末路を辿ったら、きっとうちの母親が、同じような態度を取るに違いない。私は母に憎まれ、兄は母に溺愛されているから。

 ―――飯島のバカ。
 事故? そんなの、私には信じられない。
 飯島は、この世の終わりを待っていた。そして、待ちきれずに―――愛しい妹を、道連れにしようとしたのだ。いや、もしかしたら、その逆かもしれないし…2人揃って、次の命を受けるために、一緒に旅立とうとしたのかもしれないが。

 …飯島の、バカ…。
 妹だけじゃなく、私のことまで置いていったんだよ、あんたは。

 これから先、一緒に苦しむ仲間を失って―――私は、どうやって生きていけばいいのよ。


 そう思った時、冷ややかだった私の目に、涙が浮かんだ。

 かけがいのない仲間を、失った―――その事実に、体の芯が凍ってしまったような気がした。

***

 噂の妹に会えたのは、飯島の告別式の数日後だった。
 向日葵の花が好きな奴なんだ、と言っていた、飯島の笑顔を思い出した私は、向日葵を数本花屋で購入し、花束にして持参した。
 水谷が言っていたことは本当だったようで、彼女はその日も入院中。自殺を図る恐れがあるから、ということで、刃物の類は病室内に持ち込まないように、釘をさされた。
 「向日葵は、構いませんか」
 「向日葵は、大丈夫でしょう」
 こんなもんで自殺図ったって話もないしね。
 私は花束を抱え、彼女の病室のドアをノックした。

 返事がないので、待ちきれずドアを開けると―――彼女は、眠っていた。
 枕の上に広がる、明るい色の髪。目を閉じているので分かり難いが、その顔は確かに、私とどことなく似ていた。
 「…多恵子ちゃん…?」
 声をかけてみたが、反応がない。
 まさか死んでいるのでは、と不安になり、枕元に駆け寄って、耳を彼女の口元に近づけてみる。耳元をくすぐる微かな寝息を感じ、ホッと胸を撫で下ろした。
 一体、どんな夢を見ているのだろう―――愛する人と死への旅に出たというのに、たった1人、この世に取り残されてしまった彼女は。
 きっと、この世が終わるその瞬間は、絶対に飯島と一緒にいたいと思っていたのだろうに…生き残ってしまった彼女には、もうそのチャンスがない。飯島は幸せな最期だったかもしれないが、この子は孤独の中で死ぬことしか出来ないのだ。
 飯島と一緒に、海の中に沈む夢でも見ているのだろうか―――閉じられた瞼は、ピクリとも動かなかった。

 「…多恵子ちゃん。はじめまして。私、澤口 (たまき)―――飯島の、同志だよ」
 眠る彼女の耳元に、そっと囁く。
 「私も、飯島やあなたと同じ―――血の繋がった人を、愛してしまったの。飯島がいてくれるだけで、私、心強かった…こんな許されない想いを抱いているのは、私だけじゃないんだ、って思って…強くいられた。私が愛してるのは、(ひかり)だけなんだけど―――飯島のことも、大好きだったよ」
 涙が、ポタリと、彼女の耳たぶの上に落ちた。
 「ねえ。…きっと飯島は、最期の瞬間、あなたの未来を自分の手で断ち切るのを、ためらったんだと思う」
 愛してたから。
 もしかしたら、自分以外の誰かと幸せになれる道が、まだ残っているのかもしれない―――そんな可能性が、死に直面して、ふいに頭を過ぎったから―――助けずには、いられなかったんだ。飯島は。愛してたから―――女性としても、そして、妹としても。
 「多恵子ちゃんは、飯島に置いていかれたんじゃない」
 言い聞かせるように。
 「飯島から、命を託されたんだ―――そう、信じようよ」
 私は、眠る彼女に、そう囁き続けた。

 …でも、命を託されても…たった1人きりだなんて、辛いね。

 あなたの世界が終わる時―――幻でもいいから、飯島が傍にいてくれたら、きっとそれは、考えうる最高のハッピーエンド。
 きっと飯島は、あなたを迎えに来てくれる―――新しい命を貰って、次の世で結ばれる、そのために。

 眠っている彼女の頬に、そっと唇を落とした。
 なんだか、飯島とのキスを思い出して―――酷く、切ない気分になった。

***

 「…ただいまぁ…」
 やっぱり、眠っていたとはいえ、かの人に会ったので気疲れしてしまったらしい。
 気だるさを纏いながら玄関を開ける。玄関には、光のスニーカーしか並んでいなかった。
 「ひかりー?」
 スリッパに履き替え、パタパタと音を立てながら、廊下を進む。半開きになった光の部屋のドアを覗き込むと、何故か光は、ベッドに座ったまま、真っ直ぐにこちらを見ていた。
 「…何よ、いるんだったら返事位すれば?」
 一瞬見据えてきたその目の強さに怯みそうになったけど、なんとか平常心で、そう文句を言う。けれど、光の思いつめたような目は、全然変わらなかった。
 あの時、飯島が見せた目と、どこか似ている目。
 この数年間―――私が光に見せてきたのと同じ、切なげで、苦しげな、憤りを露わにした目。
 「どこ行ってたんだよ、こんな休みの日に」
 怒りを抑え込んだような声で、光が詰問する。
 「この前亡くなった同期生の、妹さんのとこ。入院中だっていうから、お見舞いに」
 「…なんか、お前らしくないな、そういうの」
 「そう?」
 「お前、いつだって他人には無関心だったじゃないか。なのに、飯島って奴の通夜の日、1人で部屋で泣き崩れてたし…」
 「……」
 「そんなに、好きな奴だったのか?」
 ぎりり、と音がしそうな位、光の拳が握り締められる。
 「絶対涙見せないお前があんなに泣くほど―――飯島って奴が、好きだったのかよ」

 あまりにも的外れな光の憤りに、つい笑ってしまいそうになる。
 光、光、光―――私はいつだって、光のことしか考えられないのに。
 私だけを責めるの? 光。あんただって、私しか愛せないと言うその口で、他の女に嘘八百な甘い言葉を囁いてるくせに。
 同じ大学じゃないからって、バレてないとでも思ってるの? 私にどこか似た女ばかり選んでることだって、私は知ってる。自分の面影を映した女と腕を組んで、愛想よくデートを楽しんでいるあんたの姿を見た時、私がどれほど傷ついたか―――どれほど苦しかったか、あんたは知らない。

 ねえ。
 こんなことで、そんな風に嫉妬するのなら―――私を捕まえておけばいいんじゃないの?

 来世で結ばれることを信じるくらいなら―――この世で結ばれる道を選んだ方がいいんじゃない? たとえそれが、どんなに周囲から蔑まれる選択であっても。

 「―――もしそうだって言ったら、どうするの? 品行方正でモラリストの、光お兄様?」
 挑発するような笑みを浮かべ、光を見下ろす。
 これは、私が仕掛けた罠。ほんの少しだけ、光の方へと、手を差し出して。
 「“きょうだいなんだから、それはタブーだ”…そう言ったのは、光でしょう? 光を愛するよりも、他人を愛する方が私の幸せだと、そう思ってるんじゃなかったの?」
 「―――…」


 その手を、光に掴まれた時。
 私は一体、どんな顔をしていたのだろう?

 賭けに勝った、勝利の笑み? それとも、もう引き返せない道を選んでしまった、泣きそうな顔? …苦しげな顔の光を見る限り、なんだか後者のような気がする。
 でも、構わない―――私は、この世で血みどろになって生きる方が幸せだと感じる女だから。

 「―――離さないで、絶対に」
 「…意外にロマンチストだな、環」

 

 この世が終わるその時に。

 一緒にいたいのは、あなただけ。


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