Psychedelic Note | size: M / L / under800x600 | |
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唐突に夢から覚めて、瑞樹はがばっ、と何かに弾かれたかのようにベッドの上に起き上がった。
頭の中が、冷たい。
眠っていたにもかかわらず、まるで氷水でも浴びた後のように、頭の芯は痛みさえ覚えるほどに冷たい。暗闇を見つめながら荒い呼吸を整えると、芯を貫いていた冷たいものがじわりと溶け出して、背中や肩を伝っていく―――そして、ゆっくり、現実に戻る。
―――…夢、か。
大きく息を吐き出して、やっとこっちが現実だと理解する。再び枕に頭を沈めて、悪夢が遠ざかるのをじっと待った。
これまでは、母の記憶が瑞樹にとって一番恐ろしい記憶だった。母の夢を見た朝は、いつもこんな感じだった。落ち着け…落ち着け、ここにはもうあの女はいないんだ、と、覚醒してゆく自分の体に言い聞かせる。それの、繰り返し―――8歳の時から、ずっと、ずっと。
でも―――この夢の方が、あの夢より、ある意味ではダメージは大きいかもしれない。
この手で、人を
リアルに蘇る、手の感触――― 一度、殺意を持って人を傷つけたこの手だからこそ、こんなにもリアルなのだろう。
***
撮影現場に向かう前に事務所に寄ると、溝口が機材を用意しているところだった。
「お、成田。おっす」
「…はよ」
溝口は結構まめにこの事務所に顔を出しているようで、初顔合わせ以来、ここに来るたび必ず顔を合わせている。31歳と久保田よりまだ年上な溝口だが、会うたびに結構長い時間を一緒に過ごすので、今では既にタメ口だ。
「あ、成田さん、おはようございます。今日、青山で撮影でしたよね」
事務所奥の事務机についていた女性が、手元の紙の束に目を落として確認した。
彼女が、時田事務所の機能の中心―――事務、電話対応を受け持っている、川上だ。最初年齢がよく分からなかったのだが、その後聞いた話では、現在44歳だという。
元々、時田とは“フォト・ファインダー”の編集室にいた頃からの友達で、時田がカメラマンになる前に結婚退職し、ずっと主婦業をやっていたらしい。子供も中学生になり、時間にゆとりが出てきたところに、ちょうどこの事務所の開設が重なった。で…時田が持ちかけたタイムリーな話に乗った、という訳である。
さすがは元敏腕編集者。業界に古い知人も多い。単なる電話取次ぎ、経費計算を超えて、登録メンバー同士の仕事の調整などにも関わることがあるらしい。そして彼女自身―――子育て関係のライターとして、ここを事務所にしている仲間の1人でもある。彼女に支払う人件費が少々割安なのは、そうした事情からだ。
「11時入りの17時終了ですよね。緊急の電話が入ったら、どうします?」
「ああ…携帯の電源は入れておくんで、メールして下さい」
胸ポケットに入れた携帯にちょっと目を落としながら答えた瑞樹は、またちょっと浦島太郎な気分を味わっていた。
半年日本を離れている間に、日本の携帯事情はびっくりするほど変わっていた。確かに、1年と少し前ドコモが“iモード”をスタートしてから、携帯メールというやつがじわじわと浸透してきてはいた。が―――いつの間にやら、“メール”と言ったらそれは携帯メールを指すようになってしまっていた。久々に出向いた新宿の東口で、待ち合わせの人間が揃って携帯電話を見下ろしている様は、相当変だった。
―――こんなのでよくメールなんて打てるよなぁ…。
帰国してから買った携帯には、当然“iモード”の機能がついている。が、川上からの業務メールを受け取る以外で使ったことは一度もない。それは蕾夏も同様で、こんな機能いらないからもっと小型化してくれ、と2人とも思っているのだった。
「何、今日って撮影? 実際の撮影は今日が最初だろ。何の撮影?」
川上との短いやりとりを聞いていた溝口が、興味津々といった顔で訊ねた。
「ファッションビルの夏のバーゲンのポスター」
「おおっ! じゃあ被写体は金髪おねーちゃんだな。うう、羨ましいよなぁ」
確かに、モデルは金髪の白人らしいが…別に嬉しくない。というより、ポートレート撮影の苦手な瑞樹としては、いきなり人物撮影かよ、とちょっとブルーだったりする。
「溝口さんは?」
「俺は国立競技場よ。撮るのは土埃にまみれた選手やら、レッドカード食らってキレてる選手ばっか。ああ、つまんねぇ」
「…とか言いながら、スポーツ写真専門で5年も生きてる癖に」
「ハハ…まあね」
結局、それだけ好きだということだろう。溝口は照れたように笑い、再び機材の準備に戻った。
朝のうちにどうしてもFAXしておきたかった書類を手に、瑞樹は、FAXの横にあるノートに名前と今の時間、そして送り先の電話番号を書いた。NTTの通信記録を基に、後ほど電話代の請求が月末に纏めて来る、という寸法だ。
誰がこういうルールを考えたのだろう? 時田の顔を一瞬思い浮かべ、すぐに否定する。比較的ずぼらなタイプな時田では現実味がない。多分、川上なのだろう。
このために事務所に寄ったのであって、あまり時間はない。手早くFAXを送り終えた瑞樹は、軽く機材のチェックをして、早々に出発することにした。
「がんばれよー、成田」
溝口が、今朝のスポーツ紙を振りながら笑う。それに軽く手を挙げて応えた瑞樹は、ライカではなく一眼レフの入ったカメラバッグを掴み、事務所を後にした。
***
撮影現場で今日初めて顔を合わせたモデルは、さらさらのストレートの金髪をした、かなり長身のモデルだった。
「ヨロシクオネガイシマス」
非常に怪しい発音で、モデルはそう挨拶し、ペコリと頭を下げた。どうやら、まだ日本語は覚えきれていないようだ。大丈夫かよ、と眉をひそめた瑞樹だったが、
「If you are not good at Japanese, I'll give you instructions
in English.(日本語が苦手なら、英語で指示を出しますよ)」
と念のため声を掛けてみると、顔を上げた彼女はパッ、と顔を赤らめ、
「…イエ、ダイジョウブデス」
と笑顔で答えた。余計な心配だったようだが、ただ、がちがちに緊張していた彼女のムードがそれで一気に柔らかくなったので、英語で話しかけたのは無駄ではなかったらしい。帰国直後でよかった。あと半年もすれば、英語なんて完全に頭から抜けてるだろうから。
「うーん…。やっぱり成田君に新人モデルぶつけたのは、まずかったかしら」
一連のやり取りを見て、妙に真剣な表情でそんなことをのたまっているのは、広告代理店の担当者―――鈴村美和だ。
彼女とは、ロンドン時代、仕事で関わった。というか、瑞樹が思い出したくもない仕事、あの“シーガル”のポスター撮影の時の広告代理店側の責任者が彼女だった。彼女が瑞樹の試し撮りに目をつけたがために、誰にも見せるつもりのないものを商品にする羽目になった。その延長線上に、今、和臣と奈々美の家に蕾夏のポスターが貼ってある…という訳だ。
彼女は、勿論、イギリスの広告代理店の社員だったのだが、瑞樹たちより先に帰国し、6月に入ってすぐ、日本の広告代理店の男性と結婚した。そして、ヘッドハンティング的に、その会社に転職したのだ。彼女にとってもこの仕事は、帰国後初めての仕事に違いない。
「…なんだよ、それ」
「彼女、確かに日本語、あんまり得意じゃないらしいのよ。成田君はまだ英語慣れしてるから、いざって時には英語で…と考えたのは確かだけど、でも…あれは彼女、ちょっと誤解するかもねぇ」
「誤解?」
「さっきから、キミの後姿ばっかり見てるわよ、彼女」
…確かに、さっきから、斜め後ろからの視線をやたらと感じる。けれど、瑞樹からすれば、彼女のためを思って言ったというよりは、自分の指示が全然伝わらないのでは仕事にならないから確認をとったまでのことだ。
「…見るもんなくて、暇なんだろ」
「そうかしらねぇ? ま、いいわ。彼女、見た目が冷たい部分がちょっとあって心配だったけど、この分なら大丈夫そうね」
見た目が、冷たくて。
そのキーワードに、瑞樹は、斜め後ろを振り返った。
そう―――さっき初めて顔を合わせた時、それを感じた。緊張しているせいか、それとも元々無表情なタイプなのか、彼女の第一印象は“冷たそう”だった。その印象と端正な顔立ちから、“クール・ビューティー”という単語が思い浮かんで、瑞樹は一瞬、背筋が冷たくなったのだ。
今、一番思い出したくないものを―――今朝見た夢を、思い出しそうになって。
―――やばい。今はそんなものを思い出してる場合じゃないっていうのに。
目の合った彼女が、慌てたようにニコリと微笑む。やはり、視線の主は彼女だったらしい。瑞樹は、特にそれには反応せず、再び香盤表に目を落とした。集中したい―――余計なものに、思考を邪魔されたくない。
「失礼しまーす。露出測り終わりました」
ちょうどそこに、スタジオマンがフラッシュメーター片手にやってきた。
22、3歳だろうか。スタジオマンとしては若手だから、もしかしたら学生アルバイトの雑用係からそのまま就職した口かもしれない。その姿が、自分のアルバイト時代と重なって、つい懐かしさを覚えてしまった。
「出た目はこんな感じです」
「んー…、じゃあ、全体にまんべんなくf7.5で出るようにお願いします」
「分かりました。あ、2パターンあるんですよね、撮影」
「ああ、2パターン目は、今から確認するから」
ちょうどその2つ目の絵コンテについて考えていたところだ。瑞樹は、スタジオマンを伴って、ほぼセットの組み終わった撮影現場へと赴いた。
もう、思考を乱されたくはない―――それ以降、撮影が始まるまで、瑞樹はセット組みの作業にいつも以上に没頭した。
セットが完成したのは、スタジオ入りから1時間と少し後だった。
「すみません、リハやりたいんで、その格好のまんまでいいから、そこ立ってもらえますか」
少し早めに昼食を終えて戻ってきたモデルに頼むと、彼女は「ハイ」と答え、着替え前のラフな服装のまま駆け寄ってきて、組み上げられたセットの真ん中に収まった。
彼女のこの日の衣装は、赤の筈。今着ているのは白い服だ。それを頭に入れた瑞樹は、三脚に固定した一眼レフのファインダーを覗き込んだ。
「1カット目と同じポーズとってもらえるかな。小道具は、あるつもりで」
「ハイ」
素直に頷いた彼女は、本来なら手に持つ筈の大きな白い箱があるつもりになって、体の前で箱を抱えるようなポーズを取った。
―――うーん、もうちょい、絞り開けて撮った方が良さそうだな。髪の色がああだから、少し絞った方が色が綺麗に出るかと思ったけど…。
と、瑞樹が現実的な計算を頭の中で働かせていると、ふいに、手元に目を落としていたモデルが、目を上げた。
ファインダー越しに、目が合って。
次の瞬間―――ゾクリ、と、背筋を悪寒が駆け上がった。
「―――…ッ」
カメラを支えていた手が、痙攣する。
三脚に固定しておいて良かった。手持ちしていれば、下手すれば落としていたかもしれない。息を引いた瑞樹は、反射的に
「アノ…、コノカット、目ハ下デスカ?」
どうやら、この質問をするために目を上げたらしい。はっ、と息を吐き出し、一呼吸置いた。
「…あ、ああ、絵コンテでは斜め下になってるけど、その場で変えるかもしれないから」
「ハイ」
「もういいよ。…じゃ、休憩入るから」
少々そっけなく彼女にそう言い渡すと、瑞樹は手早く照明器具の電源を落とし、他のスタッフに軽く声を掛けてから、廊下に出た。
***
―――寒気がする。
ぶるっ、と身を震わせた瑞樹は、廊下の壁にもたれかかり、大きく深呼吸をした。
休憩時間は40分―――早く食事に行かなくては、と思うけれど、体が動かない。第一、今、どんな好物を目の前に出されても、食欲など欠片も湧かないことは分かりきったことだ。
さっき、瑞樹の目には、比較的無表情に思えるモデルのブラウン色の目が、記憶に残る人物の目と重なって見えていた。ファインダー越しに、まるで血の通わない人形であるかのように無表情にこちらを見つめていた、氷のような微笑―――初めてカメラを向けた時の、一宮
奏の目と。
そしてその瞬間思い出したのは、今朝見た夢。
この手で、奏を殺してしまう夢だった。
あの時は、蕾夏をなんとかして救わなければという使命感の方が怒りに勝っていたから、冷静になれた。
蕾夏の状態が、あと少しでもマシな状態だったら。喉を絞め上げられた奏が、あんな風に罪を自覚しきった、罰せられることを望んでいるような目をしていなければ―――殺してた。確実に。自分にその権利がある訳でもないのに。
瑞樹を苛む悪夢は、後一歩で人を殺める寸前までいってしまった、自分が持っている殺意のせいだ。手にリアルに残る命を奪いゆく感触は、拭っても、拭っても、消えてくれはしなかった。
―――あの女も、夢を見ることは、あったんだろうか。
ふと脳裏に、自分を殺そうとした母が蘇る。
母も、自分を殺し損ねた後、悪夢にうなされたりしただろうか―――ふとそんなことを思い、後悔する。結びつけるのはやめておこう。下手にそんなことをすると、一番やりたくないことをしてしまいそうだ。
なんだってこんな日に、あんな夢を見たんだか―――くしゃっ、と前髪を乱暴に掻き上げる。早く、余計なものを追い出したかった。今はこんな感傷に支配されている場合ではないのだから。
と、その時。胸ポケットに入れた携帯電話が、ブルブルと短く震えた。
マナーモードにしていた携帯に、メールが入った合図だった。緊急の電話でも入ったのだろうか―――眉をひそめた瑞樹は、胸ポケットから携帯電話を引っ張り出し、開いた。
メールのボタンを押して、一覧で確認する。そして、今届いたばかりのメールのヘッダーを確認した時…心臓が、大きく跳ねた。
『昼休みです rai』
何の用件だか推測不能なタイトルと、"rai"の3文字。瑞樹は慌てて、壁に預けていた背中を起こし、そのメールを開いた。
『こっちは今、昼休み。パスタランチ食べてます。撮影準備は順調? 午後から撮影だよね。初仕事上手くいくように応援してるから』
携帯メールが苦手な蕾夏にしては、出血大サービス級の長文だ。キーボードならものの2、30秒で済むこのメールに、蕾夏が何分かけたかは想像に難くない。
だから、余計に―――弱った心に、こたえた。
無意識のうちに、リダイヤルを押していた。もしかして、編集部の人間と同席していたらまずいな、と気づいたのは、受話器から呼び出し音が聞こえてからだった。
『―――はい』
2コールもいかないうちに、電話は繋がった。少し慌てたような、弾んだ息が、受話器から聞こえてきた。
「蕾夏?」
『うん。び、びっくりした。メールで返ってくるかと思ったから』
「今、大丈夫か?」
『大丈夫だよ。1人だから』
蕾夏が1人らしいことに、少し安堵しながらも、一方で眉をひそめる。彼女が、新しい職場で結構難しい立場に置かれていることは、日々の電話の中からなんとなく察しているから。
「俺の方もびっくりした。まさかお前が携帯メール寄こしてくるとは思わなかったから」
『ふふ…、頑張ったでしょ。あ、でも…大丈夫だった? 撮影準備の真っ最中とかじゃなかった?』
「ああ、大丈夫。今、休憩中だから。…正直、助かった。ちょっと、キてたから」
『―――どうかしたの?』
いつもより僅かに気弱な声に、何かを感じたのだろう。受話器の向こうの声が、少し心配そうな声色になった。
『カンプ見た感じでは、撮りやすそうだって話だったのに。モデルさんに問題でもあったの?』
「いや。ただ―――…」
『ただ?』
奏の名前を出すのは、やっぱり躊躇われた。今でも時々、奏の名前は蕾夏との会話の中に出てくる。けれど…この件で出すのは、まずい。傷を抉るようなものだ。
「…いや。ただ単に、初仕事で神経質になってるだけで」
結局、そう説明する。到底、それで納得するような蕾夏ではないが、そのムードから何かを察したのか、僅かの沈黙の後、ゆっくりと口を開いた。
『―――私、頑張るから』
「…は?」
『幽体離脱ってやったことないけど、頑張って、せめて気持ちだけでも瑞樹の撮影現場に飛ばすから。瑞樹の斜め後ろ5メートル辺りにいると思って、撮影してね』
「……」
斜め後ろ5メートル―――それは、“VITT”の撮影の時、蕾夏がずっと待機していた場所だ。
“瑞樹も、信じて。ファインダーの向こうに何を見ても、ちゃんと私、ここにいるから”―――あの時、蕾夏が口にした言葉を思い出し、瑞樹はこの一見意味不明な励ましの意味を理解した。
「…ばーか。幽体離脱したら、お前、仕事できねーじゃん」
冗談めかした蕾夏の口調に合わせて、瑞樹も冗談で応えた。すると蕾夏は、可笑しそうにくすくす笑った。
『あははは、確かにそうだね。半分だけ幽体離脱、とか、できるのかな』
「手、抜いてるって、先輩ライターに睨まれるぞ」
『それも困るなぁ』
楽しげな蕾夏の笑い声を聞いていたら、すーっと何かが抜け落ちていく感じがした。
前からそうだった。初めて声を聞いてから実際に顔を合わせるまでの4ヶ月間、いつもこの声だけに救われてきた。蕾夏の声を聞くと、いつも気持ちがリセットされる。
「―――サンキュ、蕾夏。ちょっと気が楽になった」
さっきまでより穏やかになった声で瑞樹がそう言うと、電話の向こうの蕾夏の気配も、ほっと緩んだ感じがした。
『ホント? 良かった』
「ああ。もう、大丈夫」
『がんばって』
―――もう、大丈夫。
電話を切った時、今朝の夢の余韻は、僅かな痛みとなって胸の奥に残っているだけになっていた。
***
「じゃ、よろしくお願いします」
勢揃いしたスタッフや関係者に軽く頭を下げると、瑞樹はカメラの前で、大きく深呼吸をした。
同席しているのは、広告代理店の美和と、クライアントの広報部の人間、デザイナー、モデルエージェントの担当者、それとスタイリストだ。考えてみたら、“シーガル”の時も“VITT”の時も、そうした関係者を排除した状態だった。結構気が散るよなぁ、と思いもするが、時田のようにわがままを言える立場ではない。
セットの中央では、淡い色合いのバック紙を背景にして、モデルがスタイリストに衣装の最終チェックを受けていた。髪がイマイチだったらしく、少し背中を屈めて直してもらっている。小道具の、プレゼントをイメージした大きな箱は、まだ足元だ。
「リサ」
モデルの名前を呼ぶと、彼女は顔を上げ、「ハイ」と少し緊張した声を上げた。衣装準備の間に、また緊張感がぶり返したらしい。苦笑した瑞樹は、なるべく軽い口調を心がけた。
「恋人は?」
「…ハイ?」
「恋人はいる? プライベートな質問だけど」
突然の質問に、リサは目をパチパチさせた。が、戸惑いつつも、顔を少し赤らめてコクリと頷いた。
「じゃあ、その恋人に渡すプレゼントのつもりで、その箱、見るようにして」
「…何ノ、プレゼント、デスカ?」
「誕生日でも、クリスマスでも、何でも。贈ったことは?」
「―――去年ノクリスマス、ネクタイ、贈リマシタ」
照れたように微笑むリサの顔に、緊張の色はもうほとんどなかった。ホッと息をついた瑞樹は、軽く頷き、カメラに手を添えた。
―――でも、これ、ファッションビルのバーゲンのポスターなんだよな。
バーゲンで恋人へのプレゼントを買うのも、いかがなものか、とは思うものの。
デザイナーが提出したデザインカンプから瑞樹がイメージしたのは、そういう感じだった。自分が渡すもので、相手をびっくりさせてやろう―――相手はどんな顔をするだろう、喜んでくれるだろうか、そんなワクワク感を宿した絵だった。
瑞樹の脳裏に浮かぶのは、去年の蕾夏の誕生日だ。
異国の地に着いて間もなく、街角の花屋で蕾夏が一瞬だけ目を止めた、サボテンのテラリウム―――あれを買った時の心境が、まさにそんな感じだった。その時の気持ちは、自分のものを買う時以上に高揚していて、なんとも言えない楽しさがあった。
バーゲンは買い物のイベントなんだから、買い物をするワクワク感が伝わるのは、あながち的外れではないだろう。自分のあの時の感情をファインダーの中に追い求めることにして、瑞樹はゆっくりと、ファインダーを覗き込んだ。
撮影中、モデルのリサは、瑞樹やデザイナーがイメージしたとおりの表情をしてくれた。
瑞樹は、自分の中のイメージを追い求めることに没頭するあまり―――ファインダー越しに何度かリサと目が合ったことにすら、気づいてはいなかった。そして勿論、奏の目を思い出すことも―――母の目を思い出すこともなかった。
斜め後ろ5メートルの位置に、蕾夏がずっと立って見つめてくれているような気がして。
それだけで、余計なことは何一つ考えずに、シャッターを切ることができたのだ。
***
撮影は予定より順調に進み、瑞樹が帰宅したのは夜7時過ぎだった。
―――あー、疲れた。
夕飯は後回しにして、ベッドに倒れこむ。充実感はあるものの、やはり疲れた。と言っても、肉体的にというよりは、精神的に、なのだが。
撮影中、ずっと研ぎ澄ましていた神経が、まだ興奮状態にある感じがする。クールダウンの必要があるな、とぼんやり思いながら、瑞樹は暫く、天井を見上げたまま何もせずに寝転び続けた。
そんな状態が30分近くも続いただろうか。
突如、ピンポーン、と呼び鈴が鳴った。
「……?」
反射的に体を起こし、枕もとの時計を確認した。午後7時45分―――勿論、約束など誰ともしていないし、こんな時間に突然訊ねてくるような知り合いもいない。
眉をひそめた瑞樹だったが、無視する気にもなれなくて、結局起き上がり、玄関に向かった。
魚眼レンズで、外の様子を確認する。と―――そこに、信じられない人物の顔を発見して、瑞樹は慌てて玄関の鍵を開けた。
ガチャリ、と開いたドアの向こうに現れたのは、見間違いではなく―――やっぱり、蕾夏だった。
「蕾夏…」
「―――来ちゃった」
ビックリ顔の瑞樹に、蕾夏はそう言って、照れたような笑みを見せた。
「普通に家に帰ろうと思ったんだけど…気がついたら、瑞樹の家の方に向かう電車に乗っちゃってたの」
「なんで…」
「うーん、なんでかな」
自分でも、自分の行動がよく分からないらしい。困ったように首を傾げる蕾夏に、瑞樹は「とりあえず入れ」と、中に入るように促した。
いつもよりちょっと焦ったような態度で部屋に上がりこんだ蕾夏は、落ち着かない様子でローテーブルの指定位置に席を確保して、ぺたりと床に座り込んだ。同じくいつもの場所に腰を下ろした瑞樹と目が合って、余計そわそわしたように、視線を泳がせている。
「な、なんか、ねぇ…1日、落ち着かなくて。メール送っちゃったのも、じっと待ってるのが我慢できなかったからで―――瑞樹の初仕事に、私が浮き足立っても仕方ないって、分かってるんだけどね。でも、仕事してても、今瑞樹がスタジオに入った頃だよなー、とか、今頃撮影始まってるかなー、とか…」
「…で、気がついたら、ここに来てた、って訳か?」
「…ん…。あの、上手くいった? 今日の撮影」
少し心配げな様子になった蕾夏に、瑞樹はふっと笑ってみせた。
「上手くいった。誰かさんのおかげで」
「え?」
「斜め後ろ5メートル、ずっと視線感じてたから。蕾夏の」
「―――そう…良かった」
「…で? 突然来た、本当の理由は?」
もう一度、問う。撮影の結果が気になったのは嘘ではないだろうが、蕾夏の様子から、それが理由の全てでないことは明らかだった。というより―――瑞樹にも、直感的に理解できていた。何故蕾夏が、突然現れたのかを。
答えあぐねているように、蕾夏は少し瞳を揺らし、瑞樹の目をじっと見ていた。
その目が、全ての答えのような気がして―――瑞樹は、腕を蕾夏の背中に回し、抱き寄せた。
「―――瑞樹が、呼んでる気がしたの」
腕の中に収まった蕾夏が、ポツリと、そう答えた。
「メールした時も、家に帰る時も、なんだか…瑞樹が呼んでる気がして、じっとしていられなかったの」
「…うん」
「呼んだ…?」
「―――ああ。呼んだ」
抱きしめる腕が、強くなる。吐息が耳元を掠め、くすぐったさを感じた。
手のひらに伝わる熱も、唇に触れる肌も、何もかも。
蕾夏を抱きしめるこの感触は―――悪夢など忘れるほどに、とてつもなく、リアルだ。
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