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「ねえ、お願いっ! もう1回! もう1回だけっ!」
もう何度目か分からないセリフに、瑞樹は作業の手を止めず、無表情に返した。
「お断りします」
「あっ。丁寧語を使ってるってことは、まだ本気になってないわね。さ、もう一度企画書見て頂戴。絶対! 絶対損のない仕事よ」
目の前にバサリと差し出される企画書の束を一瞥することもなく、瑞樹は顔を上げ、さっきからうるさい女―――鈴村美和の顔を睨んだ。
「―――断る」
今度は、丁寧語なしで。
同時に、美和の頭が、がくんとうな垂れた。瑞樹のこの反応が、もう何を言っても無駄、というレベルであることを、重々承知しているから。
「あーもう…。プロになっても、相変わらず頑なねぇ、成田君。仕事は仕事と割り切れるようになったんじゃなかったの?」
「……」
「ホント、惜しいわねぇ…。凄くピッタリの企画なのに。知ってる? あの“シーガル”のポスターって、印刷枚数自体少なかったもんだから、ポスターコレクターの間では結構高値取引されているのよ。勿論、希少価値のせいだけじゃないわよ。理由は分かってるんでしょう?」
勿論、分かっている。けれど、この誘いに決してイエスと言ってはいけないことは、その何倍もよく分かっている。
「―――似た感じの芸能人かモデルを使えばいいでしょう」
「それじゃあダメなのよね。成田君が撮る藤井さんでないと」
「諦めて下さい」
「…もったいない…」
はーっ、とため息をつきながら、美和は力なく首を振った。全く理解できないわね、と言わんばかりのリアクションだが、瑞樹はそれに反応することなく、黙々と撮影の準備作業を続けた。
瑞樹が撮った蕾夏は、最高の“商品価値”がある―――それは、美和だけではなく、時田にも言われたことだ。重々承知している。
でも、蕾夏を商品にする気はない。もう二度と、仕事のカメラは蕾夏には向けない。
そのことは、ロンドンにいた頃、既に美和には説明した。なのに美和は、いまだに諦めていないらしい。帰国してから、こうした企画を彼女が持ち込むのは、既に2度目だ。よほど“シーガル”の仕事のインパクトが強かったのだろう。
「欲がないんだか、意固地なんだか、ただ単に“二人だけの世界”に入り込んじゃってる状態なんだか―――もったいないなぁ、本当に」
「おはようございまーす」
まだ諦め切れそうにない美和の声を、ちょっとハスキーな声が遮った。
凝ったデザインのサングラスをかけたその人物は、打ち合わせには顔を出さなかったが、どうやら本日のモデルらしい。
「あ、おはようございます」
慌てて撮影の段取りを説明に行く美和を見送り、これでやっと勧誘地獄から解放されるな、と瑞樹はホッと胸を撫で下ろした。
***
今回の仕事は、口紅の秋の新色のポスター撮りだった。
ああした仕事は有名どころの撮影事務所に頼んでしまうのが常だろうと思うのだが、前回使った所とクライアントである化粧品メーカーが少々トラブってしまったらしく、お試し的に瑞樹に仕事が転がり込んだのだ。このメーカーが比較的最近出来たメーカーであることや、使用するモデルがいわゆる有名人ではなく普通のモデルであることも、瑞樹のような新人でも採用してもらえた要因の一つだろう。
モデル撮影は気が張って疲れるので好きではないが、化粧品メーカーはイメージを大事にする。上手くこなせば後々に繋がるので、収入を考えればこうしたオファーは大歓迎だ。
「あまり見かけない顔だけど、新人さん?」
スタジオマンと照明のチェックを終えたところに、着替えとメイクを終わらせたモデルが声をかけてきた。
日本人にしては明るすぎる色のショートヘアが特徴的なそのモデルは、どうやら瑞樹と同年輩らしいことが、撮影前の最終打ち合わせでの話からなんとなく推測できた。多分、モデルとしてはかなりキャリアのある方だろう。どちらかというと中性的なサバサバした態度をとる人物で、その受け答えから、先輩である佐倉をどことなく彷彿とさせる。
「新人中の新人だと思うけど」
「ふーん、そう。ね、どういうスタイルで撮るタイプ?」
「スタイル?」
「ほら、カメラマンにも色々いるじゃない。グラビア系出身だと、やたら褒めまくるし。“あー、いいねー、その目線サイコーだよー”なんて」
「…ああ、いるな」
バイト時代にそういうカメラマンを見たことがある。そうやってモデルを乗せるのだと分かっていても、お前どういう気分でそのセリフ吐いてやがるんだ、と、見ていて少々気持ち悪かった。思い出すと、思わず不愉快そうな顔になってしまう。
「あなたの場合、そういう撮り方する姿、全然想像つかないから」
「あんたもそれに乗ってくるタイプに見えないしな」
「あら、ご明察。そう、あれやられると、私もげんなりしちゃうタイプなのよ」
あはは、と笑った彼女は、瑞樹の手元にあった香盤表を覗き込み、その紙面を指で弾いた。
「でも、今回はちょっと、ある程度乗せてもらわないと厳しいかもね」
「は?」
「だってほら、この口紅のキャッチコピー」
彼女が弾いた部分は、香盤表の一番上にある、ポスターに後から入ることになっていコピー文だった。
『魅せる Delicious Color』
「Delicious Color だもの。おいしそうに撮っていただかないと」
メイクは整ったものの、まだ口紅は塗っていないらしい自分の口元を指差し、彼女はニッ、と笑った。
「うまそうな色、ねぇ…」
別途、撮ることになっている商品撮影用の口紅の山に目をやり、瑞樹は軽く眉をひそめた。
このコピーの意味は、いくら無神経な瑞樹でも分かる。魅せたい相手は、当然、男―――男に“おいしそうだ”と思わせる色、ってことは、つまりはこの口紅で狙った相手を誘惑してやれ、というしたたかな女心のコピーな訳だ。
瑞樹に声を掛けてくる時は決まって妙に鮮やかで真っ赤な口紅をしてくる女が、過去に何人かいた。サラダ油でも飲んだのか、と揶揄したくなるほどグロスを塗りたくった女というバージョンも何人かいたと思う。心情は分からないでもない。男性向けグラビア雑誌を飾るグラビアアイドルも、強調するのは胸と唇だから。
ただ、問題は―――そういったものに、瑞樹自身が、一度もそそられた経験がない、ということ。
でかい胸は不気味だし、真っ赤すぎる口はケバいし、グロス塗りすぎな唇は気持ち悪そうだ。ああいうのが氾濫してるということは、それが男をそそる材料であることはもの凄くよく分かるのだが、実体験として納得はできない。
「乗せ難いテーマだな」
そうとしか言いようがない。すると彼女は、ちょっと呆れた顔をした。
「大丈夫なの? 普段はどうしてるのよ」
「俺からは、具体的なポーズ以外、あんまり指示は出さない。あとはモデルのイメージに任せてる」
「モデルのイメージに?」
「恋人とデートしてるシーンを思い出せ、とか、初めて友達と携帯メールで繋がった時を思い出してみろ、とか」
「ああ、なるほど…モデルのキャラクターを引き出すタイプなのね。へーえ、面白い」
無意識ではあるが、その手法は、実は時田のアシスタントをしていて学んだ方法だった。
時田も、モデルを威圧したり逆に褒めちぎったりして撮影するタイプではなかった。モデルにいろんなシチュエーションイメージを与えて、そこからモデルが表現してきたものを撮る―――そういう手法をとっていた。元々ポートレートの撮れなかった瑞樹は、当然、モデル撮影のやり方なんて心得ていない。だから自然と、時田の手法を真似る形になったのだ。
「自分の男誘惑するつもりでやってもらえりゃ、それでいいけど」
瑞樹がそう言うと、彼女の眉がピクリと動いた。
「別れたばっかりなんだけど」
「…あ、そう」
「今、あいつの顔を思い浮かべても、むしろ逆効果。誘惑するどころか、二度と顔見せるな、って気分になりそうよ」
それは、いくらなんでもまずい。ううむ、と瑞樹も眉間に皺を寄せた。
となると、仮想の誰かを思い浮かべてやるしかない訳だが―――経験上、目の前の女のようなタイプは、瑞樹にわらわら群がってた連中のように、男をナンパしたり誘惑したりするのに執念を燃やすタイプではないと分かる。決して受身ではないだろうが、積極的に男に言い寄った経験もあまりないのではないだろうか。
暫し考えて…あるアイディアが浮かぶ。
ある意味、ナイスアイディア。けれど―――彼女のキャラを読み間違えていたら、バッドアイディア。
「―――だったら」
香盤表を傍らの椅子に放ると、瑞樹は軽く首を傾げて、ニッ、と口元に笑みを浮かべた。
「俺を誘惑してみろよ」
「…はっ?」
「俺をその気にさせるつもりでやってみろ、ってこと」
「……」
彼女は、唖然としたように瑞樹を見上げた。暫く、あんぐりといった感じに口をあけていたが、やがてその顔は、呆れたような、観念したような、何ともいえない笑いに変わった。
「…はーん。その様子だと、誘惑され慣れてるようね。日頃からそうやって女を試してる訳? 相当悪い男ね」
「まさか」
言い寄られ慣れているのは本当だが、自分からそう仕掛けたことなど、一度もない。まあ、本当にぶちキレてしまった時は、必要とあらば悪い男の振り位は平然とやってのけるのだが。
「まあ、いいわ。目の前に“魅せる”相手がいるってのは、撮影としてはかなり悪くないもの。せいぜい魅せられてよね」
面白そうだと思ったのか、彼女はそう言ってからかうように笑った。
自信ありげなその笑みに、瑞樹も余裕綽々でふっと笑った。
***
撮影スタートの直前まで、事細かなメイクの直しが入る。セットの中には、スタイリストやメイクアップアーティストでごった返していた。
なんと言っても、今回の主役は“口紅”だ。デザイナーもそこに加わって、背景や照明の具合を見ながら、どの口紅するかで最後まで揉めた。勿論、主力商品となる色に合わせて組んだセットなのだが、メーカー側が挙げた3本のうちどれを使うかは、最終的には現場サイドに任されていたのだ。
結局、選ばれたのは、プラムローズというピンクのような紫のような、微妙な色だった。何か入っているのか、ライトを浴びるとキラキラ乱反射した感じになるのだが、度が過ぎるので慌てて照明を調整し直した。
「どう? ちょっとは“デリシャス”な感じかしら」
腰に手を当てて、笑ってしまうほど典型的な“モデル立ち”をしてみせる彼女に、瑞樹はレンズを付け替えながら苦笑した。
「俺のツボではないな」
「3ヵ月後には、これが若い子の間では流行る色合いになるんですからね。ツボじゃなくても、それらしく撮っていただかなくちゃ」
―――はいはい、分かってますとも、十分。
はーっ、と息を吐き出した瑞樹は、ちらりと背後を振り向いた。
何もない空間―――あえて言うなら、テーブルと、消耗品の一部が無造作に並べられているだけの、ライトから外れた場所。
何かを確かめるようにそこに暫し視線を向け続けた瑞樹は、最後にもう一度深呼吸すると、セットの方に向き直った。
「準備が出来てるなら、始める」
「ええ。準備OK。…言っておくけど、マジに落とすつもりでやるわよ」
挑発するように口の端を吊り上げる彼女に、狙った男を陥落させようという女のしたたかさよりも、プロ根性のようなものを感じる。プライベートと仕事を混同しないタイプ―――どうやら、キャラの読み間違いの可能性は、限りなく低そうだ。
目にかかった髪を乱雑に掻き上げると、瑞樹はカメラを手に取り、挑発気味な笑みを口元に浮かべた。
「…いい根性だ。落としてみろ」
その言葉と同時に、一気に神経を集中し、カメラを構えた。
***
「―――手前の3番のやつ、もうちょい右」
「はいっ」
「それと落ち葉、上のやつ。さっきので動いたから、元の角度に戻して」
「こうっすよね」
「ああ、OK」
商品位置を直していたスタジオマンの手がどいた時点で、少しずつ角度を変えながら10枚連続で撮影する。そこで、予定のフィルムを全て使い切った。
ほっ、と緊張が緩む。ファインダーから目を離した瑞樹は、撮影に影響のないようセットの両端に控えている関係者のうち、総責任者である美和の方に目を向けた。
「全カット、撮影終わりました」
「お疲れ様です。えー、以上で全撮影終了です。長時間ありがとうございましたー」
ぱらぱらと拍手を交えつつ、全員それぞれに頭を下げたり、労いのために肩を叩いたりする。瑞樹も、早朝から夕方までにわたる撮影の間ずっとアシストし続けてくれたこのスタジオのスタジオマン2名に労いの言葉をかけておいた。
それにしても、1日で結構な量のイメージを撮ったものだ。モデル撮影が2種類、商品イメージ写真が3種類。それぞれ全く違うセット組み―――大御所クラスだと、多分モデル撮影しか請け負わず、商品は弟子に撮らせてしまうのだろうな、と分かる構成だ。いくら撮影現場好きの瑞樹でも、少々疲れてしまった。といっても、体力的にではなく、精神的に、だが。
撮影の後片付けは、スタジオマンに任せてしまえばいいのは分かっているのだが、まだそういう立場にも慣れていないので、なんとなく手伝ってしまった。
「なんか、悪いっすよ」
スタジオマンの2人は申し訳なさそうにしていたが、
「俺もこの前までアシスタントだったし。機材触るの、好きだから」
と瑞樹が言うと、「オレ達も結構好きなんですよね」と笑って相槌を打った。カメラを構えなくても、撮影に携わるだけで楽しい、という人種は、何も瑞樹だけではないのだ。
「みんな、お疲れ様ー。タイトスケジュールをこなしてもらえて、クライアントもこっちも大満足よ」
クライアントとの話にきりがついたのか、美和が3人のもとに歩み寄り、それぞれの背中をポン、と軽く叩いた。その横には、その後のスケジュールがなかったのか、自分の出番が終わってからもずっと撮影を見学していたモデルの彼女も控えていた。
「ねね、キミたち。どうだった? 私の撮影見てて、キャッチ通り“魅せ”られた?」
悪戯っぽく笑う彼女に、スタジオマン2人はちょっと顔を赤らめた。
「いや、もー、なんつーか、見てて焦りましたよ。あんな表情で迫ってこられたら、オレならヤバイです」
「しかし、演技であそこまで出来るなんて、やっぱプロですねー」
「ふふふふふ、素直なご意見ありがとう」
ご満悦、という風にニッコリと笑った彼女は、チラリと瑞樹の方に目を向けた。
「…で? 肝心のあなたは?」
それに応え、瑞樹もニッコリと、わざとらしく笑った。
「残念だったな」
「―――ちょっと。それじゃ意味ないじゃないの」
「俺が落ちなくても必要な写真は撮れたから、心配するな」
実際、キャッチからイメージしたとおりの、満足のいく写真が撮れた。これほどスムーズにいった撮影はない、と思えるほどに。
相手を魅惑しようと、まるで挑みかかるようにカメラを見据える彼女は、普通の男ならクラクラする位に扇情的だった筈だ。瑞樹がその挑発にちっとも表情を変えないから、余計に闘志を燃やしていたのも、手に取るように分かった。その闘志も手伝って、ファインダーの中の彼女は、まさに“男を魅惑する小悪魔”状態だった。
被写体としては、大満足。
けれど、瑞樹自身がそれに欲望を感じるかどうかは、別問題。
長年、色気を前面に押し出して迫られることが多かったから、感覚が麻痺してしまったのかもしれない。今、マリリン・モンロー並みのセクシーな女性が目の前でストリップを始めても、自分だけは何も感じないのではないか、と本気で思えるのだから。
「…なんか悔しいわね〜。やっぱりあなた、実は相当のワルなんじゃないの?」
「まあまあ、いい写真が撮れたんだから、いいじゃないの」
本当に悔しそうに彼女が眉を上げるのを見て、美和が苦笑しながらその肩を宥めるように叩いた。それから、ふと思い出したように、撮影台の上の商品に目をやった。
「ああ、そうそう。撮影に使った口紅、ライトの熱で変質してるといけないからって、このまま廃棄処分なんですって。みんな、好きなの持って帰っていいわよ。私も貰うつもりだし」
「えっ、ほんとっすか」
その言葉に真っ先に反応したのは、何故か口紅とは無縁の男性スタジオマンだった。そんな反応を示す理由なんて1つしか考えられないから、男と別れたばかりのモデルとしては、当然冷ややかな目つきになる。
「ふーん。カノジョへのプレゼントって訳ね」
「あ、いや、その…あははははは」
「一番気に入った色は、私と鈴村さんが持って帰るんだからねっ。女の特権よ、当然でしょ」
勿論でございます、とスタジオマン2名が女性2名に場を譲るのを見ながら、瑞樹はぼんやりと、幾重にも重なったサテン地の上にズラリと並ぶ口紅を眺めていた。
グラデーションになるように、左から順に薄い色から濃い色へと並べられている、18色の口紅。
多分、さっき撮影に使ったのは、右から3番目の比較的鮮やかな色。メーカー側がイチ押ししている色だ。でも―――瑞樹の目は、何故か、左から2番目の色に吸い寄せられていた。
「とりあえず、一番お気に入りのこれだけはキープね」
モデルの彼女が選んだのは、やっぱりイチ押しのあのプラムローズだった。続いて美和は、それとは全く異なった系統の、オレンジブラウンを選んだ。
「オレらは、後でいいです。やっぱ成田さんから選んで下さいよ」
スタジオマン達が遠慮をするので、瑞樹は迷わず、左から2番目を選んだ。それを見て、美和がくすくすと笑い声をたてた。
「それ選ぶと思ってた。いかにも藤井さんのイメージだものね」
―――実名出すんじゃねーよっ。
内心そう毒づきながらも、美和の言う通りだったので、瑞樹は何も反論せず、口紅をポケットに押し込んだ。
「あ、そう言えば、成田君」
「え?」
「撮影中、何度もあの辺振り返ってたけど―――何かあった?」
口紅を押し込んだ手を戻す間もなく、美和が指し示す方向に目をやる。
それは、確かに瑞樹が何度か振り返っていた場所。作業テーブルの置かれた壁際だ。普通ならば、撮影中に気にかけるような場所ではない。けれど、瑞樹は、最低でも5回はそこを振り返っていた。
「…いや、別に」
ただの偶然でしょう、と瑞樹はあっさりかわし、薄く微笑んだ。
あの場所は、瑞樹の立ち位置から見て、ちょうど斜め後ろ、5メートル。
見える筈のないものを、瑞樹は、振り返るたびにそこに見ていた。勿論―――そんなことを、誰にも言うつもりはなかった。
***
「えー? ってことは、合計5回もセット替えやったの? ハードな撮影だったんだね」
今日の撮影の段取りを聞いて、定位置に座り込んだ蕾夏が目を丸くした。自らもアシスタントとしてセットを組んだり壊したりを何度も経験したので、その大変さがよく分かるのだろう。
「それなりにな。言うほどはハードじゃなかったと思うけど」
「そんなハードな仕事があるんだったら、別の日にしたのに…なんでもっと早く言ってくれなかったの?」
「お前がそう言うだろうと思ったから」
作戦成功、とばかりにニヤリと笑う瑞樹に、蕾夏は不服そうに唇を尖らせた。
明日は2人揃って午前中が完全オフだ。久々にオールナイトでビデオ鑑賞会でもやろうか、と、仕事帰りに待ち合わせをして、外で食事もしたのだが、仕事の詳細を話せば「じゃあ私、帰るから」と蕾夏が言うのは目に見えていたので、家に着くまでは黙っていたのだ。
8月の夜は、体力を全て奪われそうなほど、蒸し暑い。2人は、すぐにはビデオをスタートさせず、今日の撮影の様子などを話しながら、ウーロン茶とエアコンで体温が下がるのを待った。
「あのメーカー、うちの雑誌にも広告出してるから、秋には瑞樹が撮った写真が広告として挟まるね」
「へえ、あんな大手の雑誌に広告出してるメーカーだったのか。弱小かと思ってた」
「弱小って…まあ、有名どころほどじゃないけど、20代までの女の子には、そこそこ売れてる筈だよ。可愛い色合いが多いって」
「意外に詳しいな、お前」
「“A-Life”1月号の第2特集が、化粧品メーカーの比較記事だったの」
「…なるほど」
「ねえ、今回って、どうやって撮ったの? コンセプトとかキャッチ聞いてなかったからイメージできなかったんだけど」
問われて、一瞬、言葉に詰まった。
蕾夏は毎回、瑞樹の撮影現場の様子を、結構細かく知りたがる。今日のスタジオマンじゃないが、蕾夏もまた現場好きの人間の1人なのだ。瑞樹が、クライアント側が求めるイメージをどんな方法で形にしたのか、それを知るのが楽しみで仕方ないらしい。事実、今目の前にある蕾夏の目は、期待でキラキラしている。
―――ちょ…っと、言えねーよな…。
「…まあ、適当に。彼氏を誘う時でも思い浮かべてポーズとるように言った位か」
「ふーん。誘惑系かぁ。じゃあ、ちょっとセクシー路線なのかな」
鋭い。そのセクシー路線で、自分を誘惑してみろとけしかけたとあっては、やはりちょっと言えない。
「上手く撮れた?」
「まあな。タイトスケジュールだった割に、結構順調に撮れたし」
「そっか。良かったぁ。…でも、ちょっと複雑な心境だよなぁ、瑞樹が撮るセクシー路線ってのも…」
「…珍しいこと言うな。嫉妬?」
少しからかうように言ったら、蕾夏に軽く睨まれた。どう見ても否定していることにはならないその反応に、瑞樹は笑いを噛み殺しながらウーロン茶をあおった。
と、そこで初めて、ポケットの中の物を思い出した。
「あ、そうだ―――お前に、これ」
ポケットから、銀色に光る口紅ケースを取り出し、蕾夏の前に置いた。すぐにその正体に気づいたのだろう。蕾夏は、ウーロン茶のグラスを置いて、驚いたように目を見張った。
「…えっ、これ、どうしたの?」
「現場で貰った」
「で、でも、まだ発売前でしょ? いいの?」
「ライトの熱で、変質してる可能性があるから、どのみち廃棄処分らしい。欲しければ持ってけ、って」
「へーえ、得しちゃったなぁ。口紅って、こんなに小さいのに結構高いんだもん。ありがとー」
化粧にはあまり興味のない蕾夏だが、それなりに嬉しいらしい。ちょっといつもとは違う、はにかんだような喜び方をすると、さっそく口紅を手に取ってみた。
キャップを開けて捻ってみると、現れたのは、艶やかなベージュ系のピンク。蕾夏が日頃つけている口紅の色と似通っているが、それよりも色味が濃く、もう少し鮮やな色だった。
「あ、良かった。真っ赤とかだと絶対つけられないもん」
「んな色選ぶ訳ねーだろ」
「あはは、そうだよね。へーえ…グロスでも混じってるのかな、今使ってるのより、なんかツヤツヤしてそう」
「―――塗ってみれば?」
矯めつ眇めつ口紅を眺めていた蕾夏は、瑞樹がボソリと呟いた一言に、キョトン、と目を丸くした。
「え? 今?」
「そ。今」
言いながら、瑞樹の手は、背後の棚に置いてあったライカM4に伸びていた。そう、思い出したのだ。今これに入っているフィルムが、酷く中途半端な枚数だけ残っていて、現像に出すかどうかで迷っていたことを。それに、いかにも女性が喜びそうなものを手にして喜んでいる蕾夏、という図が妙に珍しくて、なんだか今の蕾夏を撮らない手はない気がした。
「え、えええええ、撮るのっ!?」
「撮る。無性に撮りたくなった。撮らせろ」
「な、なんか、この部屋で撮るのって変な感じだよなぁ…」
気が進まない様子の蕾夏をよそに、瑞樹は撮る気120パーセントだ。既に席を立ち、デスクトップパソコンの横に置かれた白熱灯タイプのライトを点けたりしている。そのライトを蕾夏の横顔に向けて、蛍光灯で青白くなってしまった顔色や強すぎる影を打ち消す―――簡易スタジオのようなものだ。
そこまでされてしまうと、今更「やだ」と言い難いものがある。観念して、蕾夏はバッグから手鏡を出し、一旦今の口紅を拭って、新しい口紅を引き直した。
「うわー…、やっぱりグロスみたい。ツヤツヤピカピカしてる。慣れないー」
「諦めろって」
「なんか、別人に写りそうだなぁ…」
鏡の中の見慣れない自分の顔にちょっと赤面していた蕾夏だったが、別に似合わないと思った訳ではないらしい。丁寧に唇を新しい色で彩ると、軽くティッシュで一度押さえ、おもむろに瑞樹の方を向いた。
既にファインダーを覗き込んでいた瑞樹は、ライトの中、こちらを向いた蕾夏と目が合い――― 一瞬、息を呑んだ。
ファインダーの中の蕾夏は、「どうかなぁ」という感じの、もの凄く“素”な顔でこっちを見ているだけなのに。
服装だって、今日のモデルが着てたみたいな黒のレース素材なんかじゃなく、超シンプルな白のコットンシャツなのに。
誘惑するような目もしていなければ、そんな態度もとっていないのに。口紅の色だって、むしろ清楚すぎる位のナチュラルな色なのに。
いつもと違ってツヤツヤと濡れたように光るピンクベージュの唇は、昼間の撮影ではついに一度も感じなかったものを、瑞樹に感じさせた。要するに―――煽られてしまった。たったこれだけの変化に。
「どう? やっぱり変?」
四角い枠の中の蕾夏が、ちょっと心配そうに眉をひそめる。
「…いや。滅茶苦茶似合う」
途端、ホッとしたように表情が綻ぶ。その一瞬に、瑞樹はシャッターを切った。
本当は、残っているフィルム枚数分だけ撮るつもりだったけれど―――もうどうでもよくなった。フィルムを巻き上げることすらせずに、瑞樹はM4をテーブルの上に放り出し、蕾夏の腕を引いた。
「? な…、」
驚きに何事かを口にしようとした唇に、その隙さえ与えず、唇を押しつけた。
奪った唇を、そのまま貪る。まるで、耐え難い飢えを癒そうとするみたいに。
常にない獰猛な唇に、蕾夏はびっくりしたように抵抗を忘れている。引き寄せたつもりが無意識に詰め寄っていたらしく、勢いに負けた蕾夏の体が傾きすぎて、もう背後にあったベッドに頭が半分沈み込みそうだ。ああ、これが理性が飛ぶってやつだな―――なんて考えるところを見ると、まだ自分には僅かの理性が残っているらしい。
さすがに息苦しさに勝てなくなり、まだ未練を感じてる自分を無理矢理引き剥がすみたいに、唇を離した。
「―――…っ、はぁ…」
解放された途端、くてん、と蕾夏の体から力が抜けてしまった。慌てて抱きかかえる瑞樹にしても、息があがってしまい、肩で息をしているような状態だ。
「…やっばー…、これ」
全身が心臓になったみたいに、脈打っている。呼吸を整えながら思わず呟いた一言に、くてんとしたままの蕾夏が、涙目で瑞樹を見上げた。
「…なにがー…?」
「…いや。昼間実感できなかったもんを、今、強烈に実感したってこと」
「???」
何それ、とますます涙目になる蕾夏に、瑞樹は苦笑しつつも、今度はもう少し優しいキスをした。
“Delicious Color”―――おいしそうな色。
それは、思わず唇を奪わずにはいられなくなる色。
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