Step Beat COMPLEX TOP






― thanksgiving ―

※注意※「Step Beat COMPLEX」第40話辺りのお話です。そこまで読了後にお読み下さい。

 

 瑞樹の額の髪の生え際には、小さな小さな、けれど思いのほかはっきりした傷跡が、1ヶ所ある。
 普段は前髪に隠れて見えないその傷跡に、瑞樹以外で初めて気づいたのは、蕾夏だった。

 ロンドンの下宿先の、あのフロアベッドの上。天窓越しに月を眺めていたら、蕾夏にその傷跡を指差され、
 「どうしたの? ここ」
 と訊ねられた。瑞樹自身、その傷のことはすっかり忘れていた。指摘されて、久々に思い出した、ちっぽけな傷だ。

 「4歳の誕生日の傷跡」
 それが、瑞樹の答えだった。
 「理由は忘れたけど、ギャーギャー泣く海晴にあの女がキレて、海晴に向かってグラスを投げて」
 かばったら、グラスが割れて、その破片が偶然額を直撃、大量出血。
 デカい絆創膏貼って、親父が買ってきたケーキに立ってるろうそくを吹き消した。確かそれが4本だったと思うから、4歳の誕生日。

 「…痛かった?」
 「いや、別に」
 「ケーキ、食べたの?」
 「さあ? 甘いの、昔から苦手だからな」
 ケーキを食べたかどうか、覚えていない。けれど、大きな絆創膏の理由を、母が「階段から落ちて額を切った」と説明したのだけは、何故か覚えている。

 すっかり、忘れてた。
 とるに足らない、ちっぽけな傷だから。

 傷があるのに、痛くない。そんな瑞樹が、哀しくて―――蕾夏はその傷跡に、そっと唇を寄せた。


***


 「…なあ。いい加減、どこ行くか教えろよ」
 電車に揺られながら、瑞樹がいささか不満そうに言うと、車窓を眺めていた蕾夏は、チラリと瑞樹の方を流し見てクスッと笑った。
 「ナイショ」
 「…あ、そ」
 “今度の休み、写真を撮りに行かない?”と言われた時も、勿論“どこに?”と訊ねたが、やはり答えは“ナイショ”だった。
 行き先不明のまま、在来線を乗り継ぐ。11月の空は、快晴―――車窓に広がる平凡な風景の上に、ぽっかりと白い雲がいくつか浮かんでいるのが見える。なかなかの撮影日和だ。
 房総半島をひたすら南下しているのは分かるが、最終目的地がどこなのか、それが瑞樹にはよく分からない。いや、どこに行く気なのか、ということより、何を撮りに行く気なのか、そっちが問題なのだが。
 「大丈夫。瑞樹がガッカリしたり、なんだよこれって怒ったりするような所じゃないって保証するから」
 そう言う蕾夏の顔は、妙に嬉しそうで、ワクワクしているように見える。サプライズを仕掛けるのが好きなのは、蕾夏だけでなく瑞樹も同じなので、その心境は分からなくもない。が―――少々、面白くない。
 まあ、でも―――行き先がどこであれ、久々の遠出だ。こうして2人して電車に揺られているのは、悪い気分ではない。不服げにしながらも、瑞樹はひとまず、もうどこに行くか訊くのはやめることにした。

 「そう言えば、そろそろ瑞樹の誕生日だよね」
 外の風景を眺めながら、蕾夏が、唐突にそう口にした。
 「ああ。来週だな」
 「去年は、ロンドン行き決まってたから、送別会兼ねてみんなで集まったよね。瑞樹の誕生日に。今年は―――無理かなぁ…」
 「…無理だろ」
 現在、佳那子が家出中。久保田は佐々木家にて監禁状態。奈々美は妊娠中。和臣は何もないが、生まれてくる子供のことで頭が飽和状態なので、ほとんど使い物にならず。
 はっきり言って、友達の誕生日なんて、全員頭から抜け落ちているだろう。それでなくとも、元々、お互いの誕生日を祝いあうような間柄ではないのだし。
 「2人だけでもさ、何かおいしいもの食べようよ。誕生日祝いに」
 向き直った蕾夏がそう言うが、瑞樹は少し渋い顔をした。
 「けど、その日って俺、“I:M”の仕事だから、何時に終わるか分かんねーし」
 「遅くまでやってる、ダイニングバーみたいな所でもいいじゃない?」
 「…まあな。でも、別に食いもんにはこだわらないぜ。お前いてくれりゃ、それで十分」
 あっさりと瑞樹が口にした言葉に、蕾夏は照れたように僅かに頬を染め、「…そっか」と相槌を打った。同じことを蕾夏から言われたら、きっと自分も赤面してしまうのだろうけれど―――蕾夏の反応がちょっと面白くて、瑞樹は、さっきまでの憮然とした表情を崩し、小さく笑った。
 笑う瑞樹を軽く睨んだ蕾夏だったが、やがて表情を和らげると、目を細めてふわりと微笑んだ。
 「―――でも、良かった」
 「え?」
 「誕生日、お祝いする気になったんだな、って思って」
 「……」

 『昔から誕生日祝った事なんてない。別にめでたいとも思わねぇし』
 『なんで? めでたいじゃない。生まれて来た日だよ?』
 『生まれて来た日って、そんなにめでたいもんかな』

 2年前―――隅田川のほとりで交わした会話が、脳裏に蘇る。
 ずっと、瑞樹にとって誕生日は、何でもない日常と何ら変わることのない、意味のない日だった。いや、むしろ、1年で一番煩わしく厭わしい日だった。
 多分、誕生日を最後に祝ったのは、4歳の誕生日―――5歳の誕生日以降は、瑞樹が祝われることを拒否したので、誕生日祝いをしたことがない。父の手前、「照れくさいし、甘いもの嫌いだから」と言って断ったが、勿論そんなのは表向きの理由だ。
 4歳の夏―――母が、海晴と自分を夏祭りの人ごみの中に置き去りにして、その秘密を瑞樹に押し付けた、あの日から。
 瑞樹の中の何かが、だんだん死んでいってしまったから。
 分からなかった。何故、誕生日を祝う必要があるのか。生まれてきたことに感謝もできないし、自分が生まれてきた意義なんてあるとは思えない。少しでも意味を探ろうと、必死に海晴を守っていたけれど―――母が自分に向ける、怯えたような憤ったような、あの何とも言えない目を見るたびに、掴みかけた意味は簡単に掌から零れ落ちた。
 そんな目をする位なら、産まなきゃよかったのに、と。
 俺を産んだせいで、窪塚と親父、どちらも選べない地獄にはまっちまった、なんて言う位なら、産まなきゃよかったのに、と。
 そういう思いがどこかにずっとあるから、誕生日は嫌いだった。生まれてこなきゃよかった、と思う人間にとって、誕生日は嬉しくもなんともない、憂鬱な日常の一部だ。

 「…手放しで“ああめでたい”って感じじゃねーけど」
 苦笑を浮かべた瑞樹は、そこでちょっと言葉を切り、額にかかった前髪を掻き上げた。
 「でも―――去年のお前の誕生日に、ちょっと考え、変わったかも」
 「え?」
 「あのサボテンのテラリウム買いながら、思った。もし蕾夏が生まれてきてなかったら、俺、今頃どうしてたかな、って。逆のことも考えた。俺が生まれてきてなかったら、蕾夏は今頃、どうしてただろう、って」
 「……」
 「生まれてこなければ、蕾夏に出会うこともなかったんだよな…って思った時、初めて、生まれてきた意味を1つ、見つけたから」

 だから、生まれてこなきゃよかった、とは、思わない。
 たった1つでも、この命に意味があるのなら―――それだけで、命を繋いできたことは無駄じゃなかったと、信じられるから。

 「―――ありがと」
 小さな声で呟くようにそう言った蕾夏は、はにかんだような笑みを浮かべた。

***

 終点の3つ手前の駅で降りると、そこは、何の変哲もない、普通の住宅地だった。
 「? ここか?」
 「ううん。ここからちょっと歩くの」
 蕾夏に促されるまま、瑞樹も、古い商店街の狭い道を歩き出した。
 古くからある住宅地なのだろう、建っている家は、どれも瓦葺の屋根だ。たまに、近代的なコンクリート住宅などが建っていると、かえってそれが浮いて見える。
 瓦の重みで軒がたわんだ古い商店や民家は、それはそれで結構面白い被写体だ。蕾夏も、色あせたホーローの看板などを見つけては、「すごーい、まだ健在なんだね、こんなのが」と楽しげに声をあげる。瑞樹もそうした所では足を止め、ついこの前までは日本の当たり前の日常だったものたちにカメラを向け、無心にシャッターを切った。
 5分ほど歩くと、家と家の間に、小さな畑などが点在するようになった。元々、農村地帯だったのだろうか。使っているのかどうかは不明だが、車庫に小型のトラクターなどが置かれている家もちらほら見られる。
 そんな中を、10分近く歩いただろうか。橋や土手が見えてきた。
 「あそこがゴール」
 「……川?」
 「うん。行けば分かるから」
 そんなに見所のある川なのだろうか。よく分からないが、瑞樹は少し歩調を速めた。
 土手に上がる数段の階段を上る。そして、上りきった時―――蕾夏が何を見せたかったのか、瑞樹はその答えを、やっと目にすることができた。

 「―――…お見事…」
 「でしょう?」

 緩やかな流れの川を挟むようにして、両岸に。
 一体、何百メートルあるのだろう。延々と、コスモス畑が広がっていた。
 東京近郊では、もうコスモスは終わったと思っていた。近くの公園のコスモスも、10月の終わり頃に最後の1輪が花びらを落としたのだし。けれど―――目の前に広がるコスモス畑は、今が最盛期。淡いピンクや白、薄紫色のコスモスが、僅かな遊歩道を残して、川原一面に咲き乱れている。

 「実はね、私も、実際に来るのは今日が初めてなんだ」
 意外な場所に広がるコスモス畑に見惚れる瑞樹に満足したように、蕾夏はふふっ、と笑って、風にあおれらた長い髪を掻き上げた。
 「ほら、カメラマンの、小松君。彼の実家が、この辺なんだって。この前、彼女さんと一緒に埼玉の方にコスモスを撮りに行ったらしいんだけどね、コスモス目当ての客がいっぱい来てて、自然な写真撮るのに一苦労したって言ってたの。あれなら実家のコスモス畑に来りゃ良かった、ってボヤいてた」
 「…確かに、全然人がいねーよな、ここ」
 「うん。穴場なんだって。ご近所の老人会の人が、3年位前からやってるらしくって。ちょっと遅く咲く品種が多いから、他では花が終わる頃に、ここは一番の見頃になるんだって。ちょうどそれが瑞樹の誕生日の辺りだったから、誕生日のお祝い兼ねてどうしても来たくって―――地図引っ張ってきて、詳しく聞いちゃった」
 「誕生日、って…」
 電車の中で話していたこととの符合に気づき、思わず蕾夏を見下ろす。見上げてくる蕾夏の表情を見て、あの話題が意図的だったことは、すぐ分かった。
 「そう。ちょっと早いけど、これ、私からの瑞樹への誕生日プレゼント」
 「……」
 「あ、一応、物のプレゼントとして、写真集も用意してるけどね。でも…こっちがメイン。今年の誕生日、平日だし、仕事が忙しいし、特別なこと出来る状態じゃないだろうから――― 一番近い休みの日、ってことで、今日」
 そう言うと蕾夏は、瑞樹の手を取り、土手を駆け下り始めた。半ば引っ張られるようにして、瑞樹も少々急な斜面を駆け下りた。


 コスモスは、どれも蕾夏の胸の高さ以上あった。
 水を遣ったりするためのものなのか、畑の真ん中に何本か、人1人がやっと通れる位の道が作ってある。蕾夏がそこを歩くと、コスモスの中に蕾夏が埋まってしまったみたいに見える。
 「すごーい、迷路みたい」
 そう言って楽しげな笑い声をたてる蕾夏を、瑞樹は、コスモスと一緒にカメラにおさめた。
 たくさんのコスモスに囲まれて、蕾夏は、その背景に溶けてしまいそうに見える。そう―――その、淡く儚い色合いは、どことなく蕾夏を彷彿させる色だ。
 こんな時、蕾夏が、花の精が人の姿を借りて現れたかのように見える。
 川面をわたる風が、背の高いコスモスをざざっと揺らすと、一瞬ドキリとする。風がおさまった時…そこから、蕾夏の姿が消えてしまっているのではないか。そんな風に思えて。
 だから、何枚も何枚も、蕾夏の姿を焼き付けた。
 頬をくすぐるコスモスの花びらに、くすぐったそうに笑っている顔。長い髪を絡め取られて、ちょっと困っている顔。ちょうど寄って来たトンボに手を差し伸べている姿―――本当に久々だった。こんな風に、蕾夏を撮るのは。
 「やだなぁ。瑞樹、私ばっかり撮ってるんじゃない?」
 何度も感じるファインダー越しの視線に、蕾夏はちょっと拗ねたように唇を尖らせた。
 そんな顔にもシャッターを切ったら、怒ったようにポカポカと腕を叩いてきた。以前から全然変わらない蕾夏の反応に、瑞樹は思わず、声をたてて笑ってしまった。

 対岸のコスモス畑を撮ったり、素朴な昔ながらの石の橋をバックにコスモスを撮ったり―――ひとしきりカメラにおさめ、2人はやっと、土手に腰を下ろした。
 目の前では、たくさんのコスモスが、風にそよそよと靡いている。黙ってそれを眺めているだけで、なんだか気持ちが和んだ。
 「―――…なあ」
 「ん?」
 「なんで、誕生日祝いに、ここに来たいと思ったんだ? 写真集だけで十分だったのに」
 瑞樹が問うと、蕾夏は薄く微笑み、視線をコスモス畑に移した。
 「去年の誕生日、瑞樹、私にサボテンのテラリウムをくれたでしょ?」
 「…ああ」
 「あれもらった時、泣きたいほど、嬉しかった。飛行機に乗せられなくて、結局置いてきちゃったけど―――半年間、あの部屋で毎日毎日、あのサボテンと寝起きしてた思い出って、私には凄く大事な思い出なの。きっと私…何年経っても、誕生日、って言われたら、きっとあの時もらったテラリウムを思い出す。たとえ手元になくてもね」
 「……」
 「だから、瑞樹にも、忘れられない位素敵な誕生日の思い出をあげたかったの」

 痛みを痛みと感じられないような、哀しい誕生日の思い出しか持たない、瑞樹だから。

 「思い出すだけで、笑みが自然と浮かんでくるような―――そんな誕生日を、瑞樹に、あげたい。…そう、思ったの」


 誕生日ってね。
 その人が生まれてきてくれたことを、神様に感謝する日なんだと思う。
 だから、“おめでとう”じゃなく、“ありがとう”が正しいんだよ、きっと。


 膝を抱える瑞樹の手に、蕾夏が手を重ねた。解かれた手を、自然、絡め合う。

 「瑞樹―――…生まれてきてくれて、ありがとう」

 どちらからともなく、そっと唇を重ねた時―――風に揺れる淡く儚いコスモスは、瑞樹にとって、絶対に忘れることのできない、大切な誕生日の思い出になった。


Step Beat COMPLEX TOP


  Page Top
Copyright (C) 2003-2012 Psychedelic Note All rights reserved. since 2003.12.22