Step Beat × Risky TOP




― future hope ―
extra story of "Step Beat×Risky"

 

 家の中のあちこちを、奏を探して歩き回っていた累は、最後にある1ヶ所に思い当り、慌ててその場所へと駆けつけた。
 「奏―――…」
 ロフトに上がる階段をトントン、と駆け上がる。すると、フロアベッドの上に、奏が丸まって寝転がっている姿が目に飛び込んできた。
 「…やっぱりここだよ」
 つい、呆れた声になってしまう。
 眠っている奏は、サボテンのテラリウムを器用に抱え込んでいる。それで、なんとなくわかった。ああ、また意に染まないオファーが来たんだな、と。
 彼が一宮の家に戻ってからは、度々見る光景。それが居間だったり、外階段の上だったり、自分の部屋のロフトの上だったり―――まぁ、場所はその都度違うのだが、落ち込んでいる時は、必ずテラリウム持参で眠る。
 でも…“この部屋”のロフトは、今回が初めてだ。よほど参ってるんだろうな、と、累は眉を寄せた。

 奏にとっては、“あの2人”を象徴する、この部屋―――今、奏は一体、どんな夢を見ているのだろう?


***


 まだ、頭が重い。
 気持ちよく熟睡中のところを無理矢理ガクガク揺さぶられて起こされた奏は、すこぶる機嫌が悪かった。
 カレンが待ってるから一緒に来てくれ、と強引に家から連れ出されたが、なんだって自分が行かねばならないのか、そこのところがさっぱり理解できない。
 「お前なぁ…。相手がカレンってことは、一応デートだろ? なんでオレを連れて行こうとするんだよ。オレが行っても、ただの邪魔者だろ」
 「ちょっと難しい相談を受けてるんだよ、今。僕じゃ全然ダメ。絶対回答不可能。でも、奏だったら絶対答えられるからさ。たまには協力してくれたっていいだろ?」
 「…いっつも協力してるだろ、オレは」
 「奏の言う“協力”は、カレンと僕を2人きりで置き去りにすることだろっ」
 「それが普通は“協力”なんだよっ。困り果てるお前らが普通じゃないんだって」
 「いいから早くっ!」
 ―――全くもう、変な奴らだよなぁ、わが弟・わが友人ながら。
 猛烈な勢いで腕を引く累の肩の辺りを眺めつつ、奏はため息をついた。


 累が“脱・友達チャレンジ宣言”してから、そろそろ2ヶ月。
 以前なら、カレンと2人きりにされたって、別に累は困りはしなかった。ただ普通に本の話や仕事の話をしていられた。宣言後も暫くは、それまで同様、まるで兄と妹みたいに和やかに会話していたのだ。
 なのに、今の累には、それができない。僅かに顔を赤らめ、うろたえたように視線を彷徨わせる。そんな累を見て、カレンまでうろたえ、会話が続かなくなる。
 つまり、これは、累が多少なりともカレンを“女性”として意識し出したからこそ起こっている現象―――大いに歓迎すべき現象と言える。
 ―――にしても、お前ら、中学生かよ。
 向かい合わせで、テーブルの真ん中辺りで視線を彷徨わせ、ひたすらモジモジしっぱなしの2人を見るたび、奏は心の中で思わずそう突っ込みを入れずにはいられない。
 まあ、累はわかる。累の交際経験なんて、学校の行き帰りを一緒にするとか、図書館で一緒に勉強するとか、そんな世界だったから。でも、カレンは…お前、それは詐欺だろう、と言いたくなるほどの変わりよう。―――いや。変わっていないのかもしれない。対象を累に限定するならば。
 以前、「あたしには似合わない企画」と本人も認めていた、あの“シーガル”の企画。“calm & innocent”―――累の前にいるカレンであれば、あの企画もこなせたかもしれない。こと、累に関しては、カレンはバカがつくほどに、ピュアだから。


 累に腕を引かれるままに連れて行かれたのは、自宅から歩いて10分ほどの所にあるイタリアンレストランだった。
 カレンは、入口に一番近い席に座って、頬杖をつきながらピザを指で弄んでいた。
 「お待たせ」
 累が声をかけると、パッと振り向く。慌てて、ピザを弄ぶ手を引っ込めた。
 「ホントに奏のこと呼んできたんだ」
 「当たり前だろう? 何しに家まで走ったと思ってるんだよ」
 「…うん。そうだよね」
 何言ってるの、という顔をする累に、カレンはちょっと視線を彷徨わせる。それを見て奏は、なんとなくカレンの考えていることが読めた。多分カレンは、累が適当な理由をつけて逃げ出したと思ったのだ。この気まずいような、じっとしていられない空気から。
 気を取り直したように顔を上げたカレンは、まだ累に腕を捕まれたままの奏に笑顔を向けた。
 「奏、久しぶり」
 「…よぉ。確かに久しぶり」
 「事務所辞めてから、会う機会減ったものね。例の広告って撮り終わった?」
 「終わった。いいカメラマンだったよ。また組んで仕事できたらいいな、って言ってた」
 「良かったじゃん」
 「まぁな」
 数日前の撮影を思い出して、自然、顔がほころぶ。まだ若手のカメラマンで、2ヶ月前までの奏とあまり接点がなかったせいか、結構自由にやらせてくれたのだ。
 いまだに、舞い込んで来る話の大半は、かつての“Frosty Beauty”に対する依頼だ。しかも、事務所に支払うマネージメント料がない分、受けた時の手取りははるかに多い。それでも奏は、そうした依頼を一切断り、多少金額が少なくても、本来の自分を必要としてくれるオファーのみを受けている。それでいい―――そう、思える。
 「あ、あの、じゃあ僕、あっちの席で暫くコーヒーでも飲んでるから」
 奏の腕を放すが早いか、累は慌てたようにそう言った。
 「は!? なんだよそれっ」
 「じゃあ、あとはヨロシク」
 ―――ヨロシクじゃないだろ、ヨロシクじゃ。
 唖然とする奏をよそに、累はそそくさと、店の奥にあるカウンターへと移動してしまった。その背中を目で追っていると、本当にコーヒーを注文してしまった。本気で、カレンと自分をこの場に残して、あの席に陣取る気らしい。
 眉をひそめてカレンを見下ろすと、カレンは奏を見上げて深いため息をつき、向い側の席を指さした。
 「とりあえず、座れば?」
 ―――いや、それより、いいのか? こんなんで。
 本気で心配になってくる。奏は、釈然としない気分のまま、黙ってカレンの向い側に腰掛けた。テーブルの上に鎮座している巨大ピザが気になり、一切れ口に放り込む。多分累とカレンでシェアして食べてたのだろうが、一切れ位なら構わないだろう。
 「で? どういうことだよ。累に何相談したんだ?」
 「―――別にそんな難しい話をしたんじゃないのよ? あたしは純粋に、ただただ累君に気に入られるような女性になりたい、って、それだけを思って」
 「わかったわかった。それはいいから、早く要点言えよ、要点」
 「あのね」
 少し前のめりになったカレンは、仕事でもここまでマジな顔したことないだろ、という位に真剣な目をして奏を見据えた。
 「累君の隣を歩くにふさわしい服装とメイクって、どんなのだと思う?」
 「……」
 ―――なんじゃそりゃ。
 思わず、パチパチと目を瞬く。
 というか…もしかしてカレンは、あの累に「ねぇ、どんな女の子となら一緒に歩きたい?」などといった相談をしたんだろうか。無茶もいいところだ。
 「…お前さ」
 「うん」
 「それを何で、オレに相談する訳?」
 「だって奏、女の子のメイクや服装に結構うるさいじゃない?」
 「そうだっけ」
 「ほら、仕事で撮った写真なんかを見せるとさ、“この服にはシャドウはブルー系よりピンク系だ”とか、“ジーンズの裾の位置が低すぎる、あと2センチ切れ”とか、“髪をこの長さにするなら、もう一段明るい色にしろ”とか…そんな風に、いろいろ文句言うでしょ」
 確かに、と心の中で相槌を打つ。
 事実、奏は、女性のモデル仲間のファッションやメイクには、結構うるさい。と言っても、日常生活の服装については、何を着てようがどうでもいい。自分自身がストリートファッションオンリーで貫いてるのに、女性にだけドレスアップしろだの上品にしろだの言えた立場ではないと思うから。うるさいのは、仕事の時のファッションについてだ。ヘアメイクが下手なのか、結構「なんだよこれ」と憤慨するような顔で写ってる時があって、そういうのを見せられるとついうるさく言ってしまう。同じモデル稼業をしている中での、まあ職業病のようなものだ。
 「だからって、なんで…」
 「仲間内でも、奏の指摘は案外的を射てるって評判だからよ。それに、奏は、累君の好みも熟知してるでしょ」
 「でも…お前よか、あいつを何とかした方がいいんじゃない」
 眉根を寄せた奏は、チラリと奥のカウンターに視線を走らせる。
 累の服装は、昔からずっと同じだ。何の変哲もない白の開襟シャツに、チノパン。冬になると、この上にアーガイルのセーターがプラスされる。せいぜい色に多少変化がある程度で、いつ見ても同じなのだ。
 「高校時代からずーっとあれだぜ、累は。お前、今時の24歳らしく、イメチェンしてやれよ」
 「イヤよ。あたしは累君のあの服装も含めて好きなんだもの」
 「…あーそう」
 唇を尖らすカレンに、のろけやがって、と、余計眉間の皺が深くなる。
 「じゃあお前も、別にいいんじゃない、今のままでも。お互い今の状態が一番“自分らしい”んだろ。それでいいじゃん」
 「それじゃあイヤなのっ! あたしと累君じゃ、なんか似合わないんだものっ」
 「なんだって急にそんなこと言い出したんだよ」
 「だって…っ! だって、累君の会社の編集の人が…」
 「編集?」
 「この前、累君と一緒に食事してるところに、偶然その編集の人が来合わせて―――凄く胡散臭そうな目で、何度もあたしのこと、見たんだもの。ちなみに、今日とあんまり変わんない格好よ? ねぇ、そんなに変?」
 今日とあまり変わらない格好―――。
 奏は、改めてカレンの服装をじっくりと眺めた。
 奏の目には、それはいかにも「カレンらしいファッション」に見える。濃紺と白のストライプのカットソーは、襟ぐりが限界ギリギリまで開いているセクシータイプ。カレンは首から胸元にかけてのラインに自信があるから、こういうトップスを選ぶことが多い。相当短めのタイトスカートだって、素足に自信のあるカレンだからこそできる選択だ。明るい色のふわふわの髪をくるんと1つに結い上げていて、光に透ける後れ毛は結構そそられるものがある。つまりは、奏好みの服装―――ついこの前までの。
 「別に変じゃないけど。カレンらしくていいじゃん」
 「でも、すごーくすごーく変な顔してたわよ!? あんまりジロジロ見るから、累君も気にしちゃって、何度もあたしに謝った位」
 そうは言うが、別段派手な服装ではないし、時代遅れな訳でも、バランスが悪い訳でもない。では何が問題なのか―――首を傾げた奏は、ふとあることに思い当り、目を上げた。
 「…なぁ、その編集者、男だろ」
 「うん」

 なるほど。
 もの凄く、納得した。
 それに納得した途端、累がカウンターに逃げた理由もわかる気がした。
 ―――言えないよなぁ、あいつには…。“その服装はセクシーすぎる”なんて指摘したら、自分もそういう目で見てるって白状するに等しいもんなぁ…。
 つまりそれは、既に累が、宣言通り「カレンを女性として見るようになった」ことを意味している。だったら、さっさとそれをカレンに伝えればいいのに―――でも、できないのだろう。累の性格からすると。
 必死の形相で「ねぇ、この服装のどこがいけないの!?」と迫るカレンに真っ赤になってうろたえている累の姿を想像して、奏はこみあげてくる笑いを噛み殺した。

 「何が可笑しいのよっ」
 「いや…うん、わかった。で、お前としちゃ、多少露出が減ってもいいから、累に気に入られるような格好をしたい訳だ」
 「当たり前よ」
 カレンの目が、さらに真剣みを帯びる。少しでも茶化した返答をすればぶん殴られそうだ。奏は、軽く咳払いすると、再度カレンの服装をまじまじと眺めた。
 「…うーん、そうだな―――まず、カットソーはもうちょい淡い色に変えて、中にキャミソールを重ね着する。出てる鎖骨とか全部隠せとは言わないから、ストラップだけでも肩から覗いてりゃ、多少露出が減るだろ。あ、色は、同系色な」
 「うんうん」
 「スカート丈も、あと5センチは伸ばしたいところだけど、どうしても嫌なら、あんまり薄い素材とかストレッチ素材はよくない。下着の線気にしなくていい素材にしろ。…ま、そんなとこ」
 奏がそんな風に締めくくると、カレンは意外そうな顔をした。
 「それだけ? もっとお嬢様ファッションとかしなくていいの?」
 「…あのな。似合う似合わないって問題があるだろ、それは。第一、累だって、お前の脚線美見るのは嫌いじゃない筈だし。他の男は悩殺しない程度に、累にだけは色気ふりまいとけ。やりすぎな位で、あいつはやっと気づくレベルなんだから」
 「そっ、それは―――…で、でも、本当にそれで大丈夫? 一緒にいて累君が恥ずかしい思いするとか、周りの人が見て凄く似合わないカップルって思ったりとか、そんなことない?」
 「ないって」
 他の女なら隠したがるような個所を積極的に出せるほど、外見に自信があるカレンなのに、なんでこう累のことになるとさっぱり自信がなくなるのだろう?
 …まぁ、でも、そんな姿も、微笑ましいと言えば微笑ましい。一生懸命、開いてしまっている胸元を少しでも引き上げようとしているカレンの涙ぐましい努力に、奏はまた笑いを噛み殺した。


 それから暫く、カレンは「じゃあ、メイクは?」「レストランで食事ってシーンなら?」などなど、1人でぐるぐる悩んでいたファッション関係の相談を、次から次へと繰り出した。最後の方には、もう奏も面倒になってきて、「好きなもん着れば」と言いたくなったほどに。
 「うーん、やっぱり奏って、この手のこと相談するにはいい相手よねぇ」
 悩みがなくなったせいか、カレンの表情は、疲れ果てた奏とは対照的に、明るい。
 「…モデル仲間に訊けよ。女同士の方が、突っ込んだ話ができるだろ」
 「だぁめよ、男の目から見た意見が聞きたかったんだもの。女の子の服装にあれこれ文句つける男なんて、滅多にいないじゃない? 奏、あんた、モデル辞めたらスタイリストとかメイクになったら?」
 「スタイリストなぁ…」

 頬杖をついた奏は、ぼんやりと「スタイリストやメイクアップアーティストになった自分」を想像した。
 そして、不思議な気分になった。

 モデルを最高に輝かせるために、最高の下地を作り、最高の装飾を加える職業。
 そんな仕事をしている自分が、奏は何故か、驚くほどはっきりと脳裏に思い描く事ができたのだ。


***


 さらに1時間後。
 「―――やっぱり信じられない奴らだよ、お前らは」
 「…ごめん」
 奏は、自宅への道を辿りつつ、隣を歩く累を呆れた顔で睨んだ。
 「まだ太陽がこーんなに高いのに、用事が済んだらはいサヨウナラ、って、そんなのありかよっ。映画観に行くなり、ウィンドーショッピングするなり、幾らでもデートのしようがあるだろっ」
 「だって、カレンが“この服のままじゃ一緒に歩きたくない”って言うんだから、仕方ないじゃないか」
 拗ねたような口調の累の返事に、奏の目がますますつり上がる。
 「お前の態度がそう言わせてるんだよ。素直に言やあいいのに…ああいう格好してるカレンと目を合わそうとしないのは、どうしても目が胸に吸い寄せられるからだって」
 「言える訳ないだろ、バカっ!」
 「…てことは、そう思ってるってことじゃないか」
 バカなヤツ、と余計呆れた目を返すと、何も言い返せなくなった累は、がっくりとうな垂れてしまった。
 何をそんなに落ち込むのか理解不能だが、友達だった女性をそんな目で見るのは、やっぱり累の性格からしたら「許せないこと」なのかもしれないな、と、奏はなんとなく思った。全く…カレンが累と腕を組んで歩くシーンなど、まだ暫くは拝めそうにない。
 「…なぁ。お前さ、なんでカレンの気持ちに応えようって気になったんだ?」
 前から気になっていたことなので、いい機会だと思い、思い切って訊ねる。すると累は、うな垂れていた頭をゆっくりもたげ、軽く奏の方を流し見た。
 「―――聞いたら、奏、怒るかも」
 「何だよ。聞かなきゃ、怒るかどうかもわかんないだろ」
 「…サラが理由なんだよね」
 その言葉に、奏の足がピタリと止まった。
 「え?」
 「なんかさ―――カレンって、サラと重なる部分が多くない?」
 確かに―――奏も、時田から話を聞いてる最中にそう思った。
 サラの方の事情は知らないが、あの話し振りから想像するに、両親は既にこの世になく、頼れるような親類もいないのだろう。一方カレンも、両親は他界し、親戚筋もほとんどいない。父親の弟という人が北海道にいるらしいが、元々仲のよろしくない兄弟らしく、全く音信不通だと聞いている。
 サラもカレンも、家族に恵まれなかった。そして、自分の力で生きていかねばならないが故に、「ただで終わってたまるか」という不屈の精神と強烈な野心を持っている。でも―――その裏で、2人とも、切なくなるほどの思いで“家族”を求めている。
 「確かに、多いよな」
 奏が相槌を打つと、累は少し嬉しそうに笑った。
 「だろ? サラの話を郁から聞かされて―――実際、サラにも会って。カレンに告白されたのって、ちょうどそのタイミングだったんだ。だから余計、カレンとサラが重なって見えた。新婚当初の父さんと母さんに会って、あんな家庭に生まれたかった、って泣いてたサラが、そのままカレンの気持ちに思えたんだ」
 「…うん…そうかもしれないな」
 「なんか、それをだぶらせて考えてたらさ―――僕が、抱きしめてやらなきゃ、って思ったんだ」
 「……」
 「恋愛対象として考えた事がなかったから、そういう関係になれるかどうか、全然見通しは立たなかったけど―――でも、僕にそういう相手がいないのなら、こんな僕でも必要としてくれるカレンに、精一杯誠意を持ってこたえてやらなきゃ、って。その結果、やっぱり無理だった、ってなるかもしれない。でも…ただ“そんな目で見たことないから無理”って突っぱねるよりは、ずっと後悔しなくて済むって思ったんだ」
 ちょっと意外だった。カレンの勢いに押されたとか、そんなことを想像していたのに、まさかこの累が、自分から進んでカレンを受け止めようとしたなんて。
 「…へーえ。恋愛に疎い累にしては、随分積極的なこと考えたんだな」
 無意識のうちにそう呟くと、累は、ちょと照れたような顔をした。
 「でも、実際に行動に移せたのは、藤井さんに励まされたからだけどね」
 「…は?」
 「藤井さんと成田さんも、友達から恋人になったパターンじゃない。僕の立場は、ちょうど藤井さんと同じで―――でも、成田さんは、ずっと待っててくれたって。藤井さんの中に、恋人としての“好き”が増えるまで、ずっと。カレンもきっと、そうやって待っててくれるから、って言われて―――急がなくていいなら、試してみる価値はある、って思った」
 累の横顔を見つめる奏の目が、僅かに揺れた。
 その気配に気づき、累はハッとしたように奏の方を見た。
 「…あっ、ご、ごめん」
 「―――いや」
 済まなそうに眉を寄せる累に、奏は、いつもより多少トーンが暗めの苦笑を返した。

 2ヶ月経っても、まだ、何ひとつ忘れてはいない。
 瑞樹に対する思い、蕾夏に対する思い―――その全ては色鮮やかで、奏の心の大半をそれが埋め尽くしていると言っても過言ではない。自分の手の届かない所で、それぞれの道を歩き始めてしまったあの2人を思うと、どうしようもないほどに寂しい。
 ずっと、傍にいたかった。
 たとえ、手に入らなくても―――たとえどれだけ、苦しくても。

 「…奏。あのさ、ひとつ、訊いてもいい?」
 「何?」
 「奏は、藤井さんのどこが好きだった?」
 累の問いかけに、奏は、何故そんなことを訊くんだ、という顔をした。
 「だって、今までの奏の好みとはかけ離れてるよね、彼女って」
 「ああ、そういうことか。…いや。限りなく、オレの好みだった」
 「え?」
 累の目が丸くなる。まぁ、無理もないだろう。奏自身ですら、一時はそう思ったのだから。また苦笑し、奏は髪を軽く掻き上げた。
 「オレの好みは、大人しくて尽くすタイプの女より、自分の力で道を切り拓くタイプの強い女だから」
 「強い女?」
 「蕾夏はダイヤモンドレベルに強い女だよ」
 ピンとこないのか、累はまだ要領を得ない顔をしている。そんな累に、奏はニッと笑ってみせた。
 「サラやカレンの強さとは、また別の種類の強さだけどな。―――あいつ以上に強い女が現れない限り、オレ、あいつを諦めることはできないと思う。手に入らないってことは納得してるし、成田より上に行けるとも思ってない。でも…諦められた訳じゃない。この思いを抱えて、耐えていくしかない。他の誰かが現れるまで」
 「…でも…それじゃ、苦しいだろ?」
 「苦しくても仕方ないさ。多分、そういう血筋に生まれてんだよ、オレ達は。なにせ、25年経ってもまだ郁を忘れられない、あのサラ・ヴィットの血を引いてるんだから」
 “あのサラ・ヴィットの血を引いている”。
 その説明は、至極納得のいく説明だったのだろう。累は、「確かにね」と言って、小さく笑った。
 「…じゃあ、僕も、そんな風に思えるようになるかな。カレンのこと」
 「さぁな」
 「なれるといいな」
 ふわりと優しげに微笑む累は、どことなく憧れを滲ませた目で、奏を見つめた。
 「その位、誰か1人の人を想うことができたら…なんだか、どんな事でもできそうな気がしてくる。奏が、フリーとしての新しい第一歩を踏み出したみたいにさ」
 「―――そうだな…。なれるといいよな」
 素直に、その言葉を口にできた。
 心からそう、思うから。累が思っていることは、奏がそのまま、あの半年間で実感してきたことだから。

 カレンが、累を動かす存在となってくれれば、最高に幸せな気分だ。
 累は、この世で一番大切にしてきた弟―――そしてカレンは、互いの痛みを分かち合った、かけがえのない“友達”だから。


***


 「え? 裏方の仕事?」
 スタジオの端っこでレンズの手入れをしていた時田は、驚いたように目を見開き、ホリゾントの剥げた部分を塗る奏の方を振り返った。
 「裏方って、何」
 「メイクとかスタイリストとか」
 「奏君が?」
 「変?」
 「いや、変っていうか…今、奏君自身がモデルだからね。なんか、イメージ湧かないよ。こんな見てくれのヘアメイクさんなんて、業界で全然見かけないし」
 「見てくれでメイクやる訳じゃないだろ」
 むっとしたように唇を尖らせた奏は、塗り終わったホリゾントを、少し離れた位置から眺めた。
 「郁も言ってた通り、モデルの仕事も、せいぜいあと3、4年てとこだと思うんだ。体が資本の仕事だから、30、40になっても続けるなんて不可能だし。だから、その次の仕事ってのが、フリーになってから常に頭ん中にありはしたんだよな。何をやれば、モデルとしてのキャリアが生かせるんだろう、って」
 「…で、スタイリストとメイク? 写真の方には進まないのかい。僕は結構向いてると思ったんだけど」
 「カメラマンはパス。オレ、絶対に超えられない人、2人も知ってるから」
 奏の言葉に、時田はちょっと寂しそうな笑みを浮かべた。
 「―――そうか。残念だな。実は少しばかり本気だったのに」
 「ゴメン。親の跡継ぐほど、出来た子供じゃなくて」
 ニッ、と笑った奏は、ホリゾントを塗り終えた刷毛を、ペンキの缶に突っ込んだ。
 「先週、カレンからその言葉が出てくるまでは、全然考えたこともなかったんだ。でも―――想像してみたら、なんだか、凄く当たり前のように、そこにいる自分が思い描けてさ。夜学でいいから、少し勉強してみようと思って。実は既に専門学校の目星もつけてる」
 「…ふーん。凄いね、奏君。えらくアグレッシブになって。失恋は成長を促す栄養剤ってとこかな?」
 「失恋じゃないよ」
 からかうような笑顔を見せる時田を、奏はちょっと睨んだ。
 「失ってないから、“恋”は。フラれただけで失恋なんて、誰が決めた?」
 「……」
 「もういいや、ってオレが思うまでは、“失恋”じゃない。まだ、この中にあるから。“恋”が」
 そう言って、胸を指さす奏は、以前とは比べ物にならないほど、輝くオーラを持っていた。


 誰かを思う、その想いが、自らを動かすパワーになる。
 累の知らない、奇跡。そして、オレは知っている、奇跡。
 きっとオレは、この先も、蕾夏を思い続ける。その想いを原動力にして、必死に進んでいく―――この“恋”が、ここにある限り。たとえそれが、成就する“恋”ではなくても。

 新たな、夢。
 日本に行って、オレが選んだ服を着て、オレが施したメイクで装った蕾夏を、成田に撮ってもらうこと。
 3人で、最高に綺麗な蕾夏の写真を、作り上げる―――それが、オレの夢。

 その日のことを想像して、奏の口元には、自然と笑みが浮かんでいた。


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