Step Beat × Risky TOP




― Birthday 〜future hope 2〜 ―
extra story of "Step Beat×Risky"

 

 なんて無謀な子なんだろう。

 それが、ファースト・インプレッション。

 英語はほとんど喋れない。イギリスに親戚も知り合いもいない。モデル経験すらゼロ。そんな状態の癖に、「一流のモデルになりたくて単身イギリスに来た」なんて平然と言う彼女に、開いた口が塞がらなかった。
 そして、郁が彼女を拾ってくる羽目になった経緯を聞いて、完全に呆れ果てた。

 「“一晩好きにしていいから、その代わりモデルとして使ってくれ”って言われても、ねぇ…。あのまま放り出してたら、言葉通じないイギリス人カメラマンにまで声をかけそうだったから、とりあえず連れて来たんだ」

 ―――無謀を通り越して、自暴自棄かもしれない。

 全然笑わない女の子。不貞腐れたようにそっぽを向いて「あたし1人で何とかしてみせるから、放っといてよ」って…まるで、猫が全身の毛を逆立ててるみたいな、警戒心剥き出しな態度。
 「けっ、可愛くねえ女。体売る覚悟あるんなら、風俗行けよ、風俗。その方が金になるし、お前に向いてんじゃない? ガキの割には出るとこ出てるしさ」
 さっそく奏が、皮肉たっぷりの笑みを浮かべて、彼女をけしかける。
 焦った。郁に体を売ろうとした彼女のことだ。こんなことを言われたら、むきになって本当に売春でも何でもやってしまいそうな気がして。
 ところが、そうはならなかった。
 キッ、と奏を睨んだ彼女は、数秒後―――両手で顔を覆って、声を上げて泣き出したのだ。まるで、迷子になった小さな子供みたいに。
 驚き、途方に暮れる僕らを前に、彼女はいつまでも泣き続けた。そして泣きやんだ時、奏に向かってこう言った。
 「そういうあんたも、体売ってモデルの仕事取ってる口なんじゃないのっ!? どうせ今までの仕事、全部女のカメラマンなんでしょ。それともあんた、ゲイのカメラマン専門!?」

 思い出すのも恐ろしい毒舌バトルが、僕らの目の前で展開されて。
 そして30分後―――何故か彼女は、奏が契約しているモデル事務所に紹介されることに話がまとまっていた。
 …どうやらこの2人は、喧嘩によって人間関係を深めるタイプらしい。ゲラゲラ笑いながら肩を叩きあう2人を、僕と郁は、唖然とした顔で傍観していた。

 実はあの時、彼女はまだ男性経験がなかったのだと知ったのは、彼女と“友達”をやめることを宣言した後。
 1人でやっていくには、虚勢の一つや二つ張れなくてはいけない、と思っていたのだと言う。…そんな虚勢がモデルになるのに必要だとは、僕には思えないんだけれど。
 ということは、彼女にとっての初体験は、僕が知る限り、仕事をエサにホテルに連れ込まれた時、ということになる。仕事が貰えたんだから、経緯は別に何だってオッケー、と笑っていた当時の彼女を思い出し、なんとなくいたたまれない気分になった。あれが本心ではないと、今なら気づけるから。
 「夢のためだもん。あたし、自分がしてきた事に、後ろめたさは感じてない」
 これまでのことを振り返った彼女は、毅然とそう言い放った後、小さな声で付け足した。
 「でも―――やり直すことができるなら、今度は累君の隣が似合う女の子になりたいな。…そんな女の子に、なりたかった」

 その時かもしれない。
 ただ“友達”をやめるだけじゃなく、彼女の“恋人”になろう、と、本当の意味で覚悟が決まったのは。


***


 「はぁ? 誕生日?」
 「うん…どうするのが一番、喜んでもらえるのかなぁ、と思って」
 ベッドに寝転んでファッション雑誌を読んでいた奏は、戸口に立ったまま煮え切らない態度を取る累を一瞥し、小さくため息をついた。
 「なんでオレに訊くかなぁ…。カレン本人に訊きゃあいいのに」
 「それはそうなんだけど、さ。本人には何も教えずに、当日あっと驚かせたいってのもあるだろ?」
 「―――セスナ雇って、空に"I love you"とか"Happy Birthday"とか書く、ああいう類?」
 「違うっ! それはやり過ぎだよっ!」
 「なぁんでもいいじゃん、誕生日なんてさぁー。カレンの誕生日なんて、もう何回経験したよ。今更サプライズもイリュージョンも要らないって」
 そう言ってごろん、と転がって累に背を向けてしまう奏を、累は慌てて引き戻した。
 「そーはいかないんだってっ! か…彼氏になってからは初バースデーなんだから、そっ、それなりに…っ」
 ぐいぐい、と奏が着ているTシャツの背中を引っ張る累に、奏は面倒そうに眉を顰め、仕方なく振り向いた。
 「…んで? 累は、どうしたいの」
 「……」
 その質問に耳まで真っ赤になる累を見て、奏は意味深に片方だけ眉を上げた。
 「はーん…なるほど」
 「な…っ、なんだよ、なるほどって」
 うろたえたら駄目だと思うのに、余計顔が熱くなって、うろたえてしまう。あたふたする累をよそに、奏はむくりと起き上がると、ニヤリと笑った。
 「お前がオレに訊きたかったのは、カレンを喜ばせる誕生日の過ごし方、じゃなくて、どうすりゃ“そういうムード”に持っていけるか、だろ?」
 「ぐ……」
 「まぁ、確かに、もう“脱友達宣言”から3ヶ月近いし、いい頃合なんじゃない?」
 …事実だけに、何も言い返せない。まさしく、累が奏に訊きたかったのは“それ”だから。


 もしも、世の中の女性を幾つかのジャンルに分けることができるとしたら、カレンは間違いなく「セクシータイプ」に属すると思われる。
 友達であった頃も、スタイルいいよなぁ、と感心はしていたが、その彼女が、自分を恋愛対象として見ていたと知ってしまうと―――いくら鈍感な累でも、感心だけでは済まなくなってくる。友達時代同様に無防備に眼前に晒される脚や胸元が、気になって気になって仕方なくなってくる。
 しかも、累に対する想いを隠す必要のなくなったカレンは、友達時代には見せなかった面を、累に見せてくれる。
 まるで10代の初恋を知ったばかりの女の子のような純粋さや、カレンもやっぱり大和撫子だよなぁ、と思わせるような恥じらいの部分。そういうカレンは、ちょっと―――いや、かなり、魅力的だ。無邪気に累を慕っている“だけ”のフリをしてた頃だって、カレンのことは大事だったけれど、その頃のカレンに感じていたのとは違う種類の愛しさが、カレンが新しい面を見せるたび、湧いてくる。
 恋愛感情が生まれてくれば、健康で正常である以上、当然の欲求も生まれてくる。
 つまり、普通の大人の恋人同士ならあってしかるべき、スキンシップが欲しくなってくる。


 「…何がスキンシップだよ。そういう遠まわしな言い方したって、話は同じなんだからさ。やりたいならやりたいって、ストレートに言っちまえよ」
 「バカ、奏がストレートすぎるんだよっ」
 なんとかここまで説明をした累は、奏の露骨な発言に、また顔を赤らめた。でも、ここをクリアしないと、本当に訊きたいところに話が進まないので、累はそれ以上奏を睨んだりはせず、はーっと息を吐き出して先を続けた。
 「と…とにかくさ。僕の方はそういう気持ちだし、カレンも多分、今みたいな軽い付き合いをいつまでも続けてくのは望んでないと思うんだ。だから、機会があれば…って、最近、ずっと思ってたんだけど―――」
 「けど?」
 「なんかどうも、そういうムードにならないんだよなぁ…」
 デスクの前にある椅子にストン、と腰掛けた累は、そう言って眉をひそめた。
 「カレン、僕の前では、前以上に無邪気になっちゃって…どうも、そういう方向に、その場のムードがならないんだよね。食事した帰りも、前なら僕の部屋に寄りたそうにしてたのに、付き合うようになったら“じゃ、またね”って上機嫌で駅とかで別れちゃうし」
 「ああ…なんか、わかる」
 その場面を想像したのか、奏は、立てた膝に頬杖をついて、くっくっと笑った。
 「前はバカだったからな、あいつ。累に好きな女がいるんじゃないかって心配で心配で、何も言えない癖に嫉妬ばっかしてて―――オレもあの頃は、あいつのこと馬鹿にしてたっけ」
 「…そうなんだ…」
 「あ、誤解するなよ。今は馬鹿になんてしてない。お前への気持ちを誤魔化さなくなってからのあいつは、いい女だと思う。一番どうしようもない時期を共に戦った戦友だし、結構尊敬してるよ」
 どうやら奏は、累の表情が少し暗くなった理由を、付き合っている彼女の過去をけなされたせい、と考えたらしい。が、累は、奏が入れたフォローに対して、余計表情を暗くした。
 自分がカレンの気持ちに気づいていない間も、奏とカレンは、そんな風に本音を曝け出しあっていた訳だ。そう思うと、なんだかちょっと、面白くない気分になる。もっとはっきり言えば―――嫉妬を覚えてしまう。
 「まぁ、とにかく、だ」
 累が何も返してこないので、奏は勝手に話を先に進めることにした。
 「難しく考えるな。決めたんなら、さっさと部屋に連れ込んで、有無を言わさず押し倒せ」
 「…嫌だよ、そんなムードのない展開」
 「ムードなんかにこだわってるから、チャンスがなかなか来ないんだって」
 「そんなこと言うけど、大切にしたい、好きな女の子が相手だよ? 奏は、そういう時もムードにはこだわらない訳?」
 累が口を尖らせて言うと、奏は、一瞬目を丸くして、続いて眉間に皺を寄せた。
 「うーん…考えたことないな」
 「たとえば藤井さん相手でも、ムード無関係に“さっさと部屋に連れ込んで、有無を言わさず押し倒”す訳?」
 「……」
 眉間に皺を寄せていた奏が、また目を丸くする。そして―――その顔が、どんどん赤く染まっていった。
 ―――あ、あれ?
 その反応は、累からすると少々意外だった。しかも、赤面している奏の顔は、表情そのものを取って見ると、赤面しているというよりも蒼褪めているのに近い表情に見える。人間って、顔を真っ赤にしながら蒼褪められるんだ…と、変な部分に感心しながら、累は、なんかまずいスイッチでも押しちゃったのかな、と、少しうろたえた。
 「―――お前…あいつの名前出すのは、ちょっと卑怯だぞ」
 「え?」
 「…なんでもない」
 真っ赤になって蒼褪めたまま(矛盾した表現だが、そうとしか言いようがない)、奏は累をひと睨みし、そっぽを向いた。はあぁーっ、と大きなため息をつきながら髪をぐしゃぐしゃと掻き混ぜた奏は、やがて累の方に視線を戻すと、累が着ているシャツの襟元を掴んで、ぐい、と引いた。
 「―――わかった。ポイントだけは一緒に考えてやる。要するに、カレンをその気にさせるムード作りゃいいんだろ」
 耳元で囁かれた言葉に、累は一抹の不安を感じながらも頷いた。それを見て、奏は酷く満足そうににんまりと笑った。
 「まぁ、任せとけよ。最高の誕生日にしてやるから」

***

 そして、数日後。
 待ち合わせ場所に現われたカレンは、いつもと違う累の姿を見て、ただでさえパッチリと大きな目を更に大きく見開いた。
 「る…累君、だよね…?」
 「うん」
 「どうしたの、その服装」
 「…奏に無理矢理着せられたんだ…」
 奏がまず最初にしたことは、累のファッションを徹底的に変えることだった。
 高校時代から全然変わらない服装を一新、ロンドンの若いビジネスマンの間で流行になっているシックな感じのするスーツを選び、それに合わせる深いブルーのネクタイを選んだ。上下揃いのスーツなんてこれが初めてに等しい累は、それだけでも落ち着かなくて家に逃げ帰りたくなるのだが、奏が払ってくれたスーツの値段を思い出すと、とてもそんな真似はできない。
 散髪も、いつも行く店ではなく、奏が仕事で時々使う店に引っ張って行かれた。どういう技法をどこに使われたのか全然わからないが、奏の指示通りにカットされた髪は、いつもと同じようでどことなく違っていた。
 慣れない―――もの凄く、慣れない。姿見などない部屋なので、全身像を見たのは近所の店のショーウインドウのガラスが最初だったが、そこに映っていたのは、奏とも普段の自分とも違う、第三の男だった。
 「あの…変、かな」
 ためらいがちに訊ねると、目をまん丸にしていたカレンは、まだ呆然としながらも、ふるふると首を横に振った。
 「変な訳ないじゃない! カッコいいー…。やっぱり累君って美形だったのね。当たり前のことに、今更気づいたわ」
 「…基本的に奏と同じ顔の筈なんだけど」
 「うん。でも、奏のスーツ姿と全然違う! 奏ってスーツ着ると、ちょっと近寄りがたくて怖い感じだけど、累君のスーツ姿って、思わずうっとり見惚れちゃう感じだわー…」
 本当にうっとりした目で見惚れられて、ますます居心地が悪くなる。まぁ…でも、カッコいい、と言っているのだから、奏のセレクトは正しかったらしい。
 「でも、累君てば酷いわ。そういう格好してくるなら、ちゃんと言っといてくれないと…あたし、いつもの格好で来ちゃったじゃない」
 一頻り感心し終えて、やっとそこに考えが及んだらしい。カレンはちょっと頬を膨らまして累を軽く睨み上げた。
 そう言うカレンの服装は、確かに“いつもの格好”だ。襟ぐりの広く開いたラフな素材の七部袖カットソーと、デニム素材のミニスカート。累と比べると、明らかにカジュアルすぎる。勿論これも、計画のうちだ。
 「カレンはその格好でいいんだ。これから、誕生日プレゼント買いに行くんだから」
 「え?」
 「ま…とりあえず、行こう?」
 累がそう言って腕を差し出すと、カレンは、不思議そうに首を傾げながらも、その腕にスルリと自分の腕を絡めた。
 「どこに行くの?」
 「秘密」
 ―――なるほど。こうやってサプライズを仕掛けるのって、結構楽しいかもしれない。
 意味深な笑みをカレンに返しつつ、累は密かにそんなことを思った。

***

 それから1時間後。
 累は、かなりのダメージを食らってふらふらになりかけていた。
 「ほんとにこんなの買ってもらっちゃっていいの?」
 「…勿論、いいよ。予算より随分安上がりだったんで、僕の方が拍子抜けしてる」
 「でも…ねぇ、ほんとに似合う?」
 心配そうにカレンに訊ねられ、レジカウンター前でこめかみを押さえていた累は、チラリと背後を振り返った。
 そして、今自分が買い与えたばかりの服を身にまとっているカレンを見て、また頭がグラリと傾く気がした。

 『いいか、この絵みたいな感じの服を探せ。色は黒かワインレッドな。裾は、一番短いところで膝頭が出る程度。袖はあってもいいけど、二の腕隠れちゃ駄目だぞ』
 と言って奏がサラサラと描いてくれたイラストは、累の目には、スリップと言う名の下着とあまり変わらないしろものに見えた。裾が一直線じゃなくバラバラになっている、肩紐が太めのスリップ。どう考えてもそうとしか思えない。
 でも、センスも良くてカレンをよく知る奏のアドバイスだからと思い、累は一生懸命、そのイラストを記憶した。そして、そのイラストと似た服を求めて数軒のブティックを渡り歩き―――ついに、ほぼ同じものを発見した。
 カレンもそのドレスを気に入り、試着した結果、店中の店員が大絶賛した。勿論、累だって大絶賛した。
 けれど―――…。

 「累君? どうしたの、やっぱりどっかヘン?」
 「…いや…に、似合ってるよ」
 なんとか笑顔を作り、くるりとまた前を向く。これ以上見ていると、体中の血が沸騰してしまいそうだ。
 ―――似合ってるけど…一体、どこに目をやりゃあいいんだよ…っ!
 黒のスリップドレスは、カレンにぴったりサイズで、彼女のボディラインを思い切り強調している上に、胸元もかなり開いている。二重だか三重だかになっている裾の部分は柔らかなジョーゼット素材になっていて、歩くたびにふわふわと、まるで優雅な熱帯魚の尾ひれのように揺れて靡く。だから、時々覗く脚に嫌でも目が向いてしまう。
 もしかして奏は、ただ累を困らせたくて、こういう困った服を提案したのではないだろうか。なんだか、そんな邪推をしたくなってしまう。自分が思わぬところで赤面させられたものだから、その復讐をしているのかも。…いやいや、奏に限ってそんなことは―――…。
 …十二分に、あり得る。
 「お待たせしました」
 カレンが着ていたカットソーやスカートを紙袋に包み終えた店員が、そう言って紙袋を差し出してきた。慌てて顔を上げた累は、不自然に見えない程度の笑顔でそれを受け取った。
 実を言うと、奏のアドバイスは、ここまでだ。奏曰く「服装が変われば、おのずとムードも変わる」のだそうだ。半信半疑ながらも、累はその言葉に賭けてみることにした。
 よし、と活を入れ、振り返る。
 「お待たせ。行こうか」
 「うん。あの―――ありがとう。こんな素敵なバースディプレゼント、想像もしてなかった」
 そう言って、にっこりと微笑んだカレンを見た瞬間。
 “悩殺”という言葉の意味を、累は、生まれて初めて実感したのだった。

***

 ―――確かに、奏が言った通りかもしれない。
 服装が変われば、おのずとムードも変わる―――不本意ながら、累も認めざるを得なかった。

 完全な正装ではないものの、普段なら絶対しないセミフォーマルなファッションに身を包んだ累とカレンは、普段なら足を踏み入れられない類のレストランに予約を入れ、そこでディナーを楽しんだ。
 慣れない服装のせいか、最初は2人とも少々硬いムードだったが、慣れるに従って日頃の調子を取り戻し、ワインを飲んだりオードブルを口に運んだりしながら、楽しく話すことができた。ただ、カレンはいつもとは微妙に違っていた。何と言えばいいのか―――日頃の無邪気さが抑えられて、しっとりとした女らしいムードを醸し出している気がする。やっぱりそれも、着ているドレスのせいのように、累には思えた。
 そして、累自身も、やはり服装の影響を受けていた。
 スーツを着ると、背筋がピン、と真っ直ぐに伸びる。背筋が伸びると、自然、立ち振る舞いも自信ありげなものに変わる。極当たり前のようにカレンをエスコートするような態度をとれる自分が、なんだか不思議で仕方なかった。

 スキーを習おうかな、という時、ウェアから靴から板から全部道具を揃えてしまう人の話をよく耳にする。似たような話をゴルフでも聞く。
 まだどんなスポーツか実体験してないし、やってみたところで「やっぱり向いてない」となるかもしれないのに、一式全部揃えてしまう人間は、実は案外多いらしい。つまり、外見から入るタイプ―――プロスキーヤーのようなウェア、プロゴルファーのようなクラブを揃えることで「その気」になる訳だ。
 案外、デートも、同じことが言えるのかもしれない。
 大人の男女の、洗練されたデートを楽しみたいと思ったら、テーブルマナーを学ぶよりも綿密な計画を立てるよりも、まずはそれらしい服装を身にまとって、自分を「その気」にさせるのが手っ取り早いのかもしれない。
 なるほど、奏の説は、一理ある―――レストランを出る頃には、累もそう思うようになっていた。

 

 「ふふふー、なんか、夢みたい」
 ワインに結構酔ってしまったので、酔い覚ましを兼ねてハイド・パークの辺りをぶらぶら歩いていると、カレンが累の腕に掴まってくすぐったそうな笑い声をあげ、そんなことを言った。
 「夢みたい、って、何が?」
 「んー、全部。こーんな服着てデートしてるのも、あんな素敵なお店で食事するのも、夜のハイド・パークを散歩するのも、全部」
 「オーバーだなぁ…。カレンの方が、ああいう店には慣れてるだろ?」
 仕事の関係者に連れられてフォーマルな店に行くこともある、と、以前聞いた覚えがあった。勿論、そういう時着て行くのは、仕事関係の“衣装”な訳だが。
 「確かに、こういう服も仕事でなら何度も着たし、夜のハイド・パークも初めてじゃないわよ? でも、そういう問題じゃないの」
 ふふっ、とまた笑ったカレンは、甘えているみたいに累にすり寄ってきた。普段の累なら緊張しすぎてフリーズ寸前な事態だが、程よく酔いが回っているので、大丈夫。案外、すり寄ってきているカレンの方も、結構酔っているのかもしれない。
 「なんかねぇ、お姫様にでもなった気分―――こんな幸せ、あっていいのかなぁ、って位」
 「…やっぱりオーバーだよ」
 「そんなことない。だってあたし、こういうのずーっと夢見てたんだもの。…ううん、素敵な服とか、高級な店とかは関係ないんだと思う。ただ―――こうやって、凄く大切に扱ってもらうのを、夢見てたのかもしれないなぁ」
 「……」
 “大切に扱われる”―――これまでの人生で、あまり大切に扱われた経験がなかったからこそ、自然と出てきてしまう言葉なのだろう。
 いくら虚勢を張ってみせたところで、カレンはやっぱり傷つきやすくてナイーブな女の子だ。もっと早く気づいてやれれば良かったのに―――累の胸が、ちくちくと痛んだ。
 「累君が大切に扱ってくれるとね、あたし、世界で一番綺麗な女の子になったような気分になれるの。たとえあたしがどんな過去を持っていても、今、世界で一番幸せなのはあたしに違いないって、本気でそう思えるの。幸せすぎて、知らない人にまで自慢したくなっちゃう位に」
 「…なんで…?」
 「そんなの決まってるじゃない」
 ぴたっ、と足を止めたカレンは、そんな事もわからないの、とでも言いたげな、ちょっと拗ねたような顔をして累を見上げた。
 「あたしにとって、累君が“一番”だからよ」
 「一番?」
 「累君の上なんて、誰もいないの。神様だって、あたしにとっては累君より下よ。そんな人に大切にされて、有頂天にならない訳ないじゃない?」
 「―――…」

 ―――愛しさって、こんなに急激に増えるもんなんだろうか。
 なんだか、メーターが故障したんじゃないかと思うほど、一気に感情レベルが上がっていくのがわかる。
 たったこれっぽっちのプレゼントなのに―――それが自分からのプレゼントだというだけで、“世界で一番幸せ”だと思ってくれる。そんなカレンが、どうしようもなく、愛しい。

 そう感じたら、あとはあっという間だった。累は、自分の中の何かに命じられるままにカレンの肩に手を置き、その頬に唇を押し付けていた。
 耳元で、カレンが息を呑むのがわかる。それはそうだろう。今まで累は、こんなキスすらしたことがなかったのだから。
 「る、累君…?」
 肩に置かれた手を軽く掴み、カレンは戸惑った目で累を見上げてきた。淡い街灯の光の中でも、その頬が桜色に染まってるのがわかって、累は思わず微笑を深くしてしまった。
 もう一度身を屈めて、今度は唇に触れる―――手を置いた肩が、驚いたように小さく跳ねた。でも、やっと事態を飲み込めたのだろう。カレンは、すぐに累の背中に手を回してきた。それに応えるように、もう一度、口づけた。


 …なんて、簡単。
 はるか遠くにあるように感じたものが、今、あっけないほど簡単に、手の内にある。
 ずっと傍にいた存在だから、その関係がずっと心地よかったから、どうすればいいかわからなかった。差し出されたその手をどうやって握ればいいのか―――友達と恋人の境界線をどうやって越えればいいのか、迷って戸惑って憤っていた。
 でも、答えはとても単純…かつ、複雑。
 愛しさが一定量を超えてしまえば、あとは考える必要なんてなかったんだ。
 キミを抱きしめたい―――その想いが強ければ、ムードだとかシチュエイションだとか、そんなものは無関係。できればこんな人目につく往来じゃない方がいいのにな、とか、アルコールが入ってるんじゃ酔った勢いって言われないかな、とか、そんなことが頭を掠めるけど、それはどうでもいいことだ。
 想いが許容量を超えたこの瞬間、手を伸ばすことをためらわないこと―――それが一番、重要だったんだ。


 夢中でキスを続けていたら、苦しくなったのか、カレンが累の肩を軽く押し返した。それを合図に、唇を離した。
 僅かに呼吸を乱したカレンが、恥ずかしそうな笑みを浮かべて、至近距離から累を見上げていた。余韻を楽しんでいるみたいな、潤んだ目―――なんだかそんな表情も、今日はひたすら、累を煽る材料にしかならない。
 「…あ…りがと、累君。最高のプレゼントだった。今の」
 「ん…どっちがプレゼントされたんだか、わからないけどね」
 苦笑しながらの累のセリフに、カレンがくすっと笑う。そんなカレンを抱き寄せて、累は耳元に口を寄せた。
 「―――あのさ…カレン」
 「うん?」
 「今から僕の部屋、来ない?」
 「―――…」
 しばしの、沈黙。
 ちょっと性急すぎたかな、と、返事を待ちながら思う。確率は五分五分といった目算だったけれど、口にせずにはいられなかった。なんだか、言ってしまってからの方が、心臓がドキドキとうるさくなっていた。
 時間にして、10秒もなかっただろう。やがてカレンは、口を開いた。
 「…ううん、今日はやめとく」
 「……」
 やっぱり急には無理だよな―――と、半分納得しつつ半分落胆した累だったが、続くカレンのセリフに、そんな考えは打ち砕かれた。
 「多分、本借りて帰っても、あたし、今晩は読めないと思うの。なんか胸が一杯だし、本読むよりこの余韻に浸ってたいしね」
 「―――…」

 …本?
 何で今、ここに、本の話が出てくるんだ???

 事情の飲み込めない累をよそに、カレンは累の胸に手をつき、累を見上げてにっこり微笑んだ。
 「その代わり、もう少し散歩、付き合ってくれる?」
 「…う…うん、いいよ」
 ほとんど脊髄反射で答えると、カレンは嬉しそうに笑い、さっそく累の腕に腕を絡めた。が、何かを思い出したのか、踏み出そうとした一歩を引っ込めた。
 再び見上げてきたカレンの顔は、これまで以上に赤く染まっている。口にするのが恥ずかしくてしょうがない、という顔をしたカレンは、秘密を打ち明けるみたいな小声で、告げた。
 「あ…っ、あの、ね。今日は累君が凄く頑張ってくれたから―――る、累君の誕生日は、あたし、頑張るからっ」
 「…え?」
 「そ、その…累君の誕生日位には、キスの続き、できるといいかなー、なんて―――あっ、あの、別に急いでる訳じゃないからねっ? でも、誕生日に自分をプレゼントするってのもありかな、とか…う、うわ、あたし、何言ってるんだろう」
 「―――…」
 自分の言ったセリフに余計顔を赤らめるカレンを、累は、呆然とした顔で見下ろしていた。
 こと、ここに至って、カレンの頭の中がどうなっているのか、ようやくわかった気がしたから。


 ―――もしかして。
 もしかして、さっき言ったセリフが“そういう誘い”だってこと―――気がついてもらえてない…!?
 っていうか、もしかしてカレン、「僕の部屋」=「本を借りる場所」だと思ってる!? い、いや、確かに今まで、カレンがうちに来る時って本借りる時だけだったけど…。

 …とにかく。
 カレンは、全然予想もしていないらしい。僕がカレンを見る目が、既に“そういうレベル”に達しているのだということを。
 今日キスしたのも、僕が“頑張った”結果だと思っているのだろう―――キスの次の段階に進むのを耐える方が、よっぽど“頑張る”必要があるというのに。


 「つ、つまり―――累君に最高の誕生日をプレゼントしてもらったから、次はあたしの番ね、ってことで…オーケー?」
 真っ赤になっている頬を手で押さえながら、カレンが上目遣いに累を見上げる。
 こういう表情も、もの凄く、煽られる。でも―――今更、カレンの勘違いを訂正することも、奏が言ったように“さっさと部屋に連れ込んで、有無を言わさず押し倒”すことも、累の性格では不可能だった。
 結果。
 累は、ふわっと柔らかな笑みを浮かべ、こう答えたのだった。
 「…うん。わかった、楽しみにしてる」

 ちなみに、今は8月末。…累の誕生日は、10月末である。
 “生殺し”という単語の意味を、累はこの日、生まれて初めて実感した。


 ―――奏が聞いたら、絶対、呆れるよなぁ…。
 超ご機嫌状態で、累と腕を組んで再び歩き始めるカレンを見下ろしながら、累は気づかれないように大きなため息をついた。
 差し出された手をやっと握ったと思ったら、今度は自分の方が手を差し出してじっと待たねばならない立場になるとは―――全く、恋愛は、難しい。

 …まぁ、でも。
 カレンが待った時間を考えれば、たかだか2ヶ月、待てなくてどうする。

 未来は、明るい―――累は、一歩前進できた自分達に一応満足して、自分の腕に絡んでいるカレンの腕を、そっと引き寄せた。


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