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透子が自分の軽率さに気づいたのは、入学式の翌日になってからだった。
あの時、慎二を学校の外へと連れ出すことで頭が一杯になっていて、気づかなかった。
笑顔で手を振っていた真奈美とその母の周囲には、他にもクラスメイトとその父兄がかなりの人数いた、ということに。
「井上さんっ! あのお兄さん、誰!? 井上さんの何!?」
「何やってる人!? モデル!? 芸能人!?」
「それとも水商売っ!?」
「―――…」
―――やっぱり誰も、普通のサラリーマンとは思わへんのやね…。
ぐるりと取り囲む4、5名の女子生徒を見回して、透子の笑顔は引きつった。
「…ただいまぁ…」
学校帰り、ギャラリーに寄ると、慎二が飾ってある絵を掛け替える作業をしていた。
「あ、お帰り。どうだった? 高校生活1日目」
「…慎二のおかげで、友達が沢山できたわ…」
「は???」
そんなこんなで。
透子の高校生活は、小さな騒動を巻き起こしつつも、無事にスタートした。
***
「部活?」
「そ、部活」
サンドイッチをパクつく荘太が、そう言って頷く。その隣で、入学初日に荘太と仲良くなったあの生徒―――古坂正志も頷いた。
「今日明日と、部活の見学があるから、2人はどこ見て回るんかな、と思って」
「…透子、どこ見て回るの?」
おずおずとした調子で、真奈美が訊ねてくる。ブリックパック牛乳にストローを突き刺していた透子は、うーん、と言って眉を寄せてしまった。
「私、部活やる気あらへんし」
「えっ、そうなの?」
「学校終わったら、バイトやるつもりでいるから」
「バイト?」
「うん。まだ探してへんけど。だから、部活見学はしてもいいけど、部活やる気はあらへんよ」
「安藤さんは? どこ見る?」
「あ、あたしは…全然、考えてない…」
古坂に問われて、真奈美は更に小さな声で答えた。なんとなくその場の流れで、入学以来この4人で昼食をとることが多くなったが、内気な真奈美は、そのメンバーに男子が入っているという状況にまだ慣れていないらしい。
「ふーん、2人ともフリーか。…じゃあさ、明日、僕らの入部テスト、見に来ない?」
「入部テスト?」
「陸上部。僕はハイジャンプで、荘太は短距離」
「古坂のハイジャンプは芸術品だよなー」
体育の授業ででも見たのか、荘太がそう言ってニヤリと笑った。
「背が高いとやっぱトクだよなぁ。俺がどう頑張ったって、あんだけの高さをあのフォームでは跳べないし」
「それなら荘太が足速いのは、体が小さくて空気抵抗が少ないからか?」
「…ちぇ」
古坂は背が高くて手足が長い、つまりひょろ長い体型をしている。比べて荘太は、小柄だけれど敏捷そうで、いかにもスプリンターといった体型をしている。同じ陸上でもまるで違う体型―――でも、なんだかそれぞれピッタリのものを選んでいるように思えて、透子はくすっと笑った。
「けど、邪魔になるんやない? 部外者が見学なんか行ったら」
「大丈夫。そのための“見学会”なんだから。それに、女の子見てくれた方が、俺も古坂も絶対やる気になるし。なー?」
荘太に肘を小突かれて、古坂も照れたような笑いを浮かべて頭を掻いた。なるほど、そういう効果もあるのか、と思った透子は、まだモジモジしている真奈美の顔を覗きこんだ。
「行ってみよっか」
「…うん、透子も一緒なら、行く」
恥ずかしそうに答える真奈美に、透子の顔がえへへ、と緩む。そして何故か、古坂の顔までが緩む。
「―――お前ら、2人揃って、危ねぇー…」
どうやら荘太だけは、真奈美のこういう顔に興味が無いようだ。呆れたような声を上げる荘太を、透子が軽く睨んだ。
***
翌日、荘太と古坂の誘いに応じて、男子陸上部の入部テストとやらを見学しに行って驚いた。
透子と真奈美以外にも、結構な人数の女子生徒が見学に来ている。その中には、新入生だけでなく2年や3年の生徒も混じっているようだ。
「…伝統行事か何かかな」
「うちの高校、結構陸上強いから、陸上やってる男の子って人気があるのかもよ」
「へー、そーなんや」
そういった前情報なしに入学した学校なので、どの部活の人気が高いかなんて考えたこともなかった。主力選手になる前に目をつけておこう、ということだろうか。なんだか、メジャーになる前のアイドルを追いかけている女の子と同じだなぁ、と思いつつも、荘太や古坂が彼女らの目にどう映るか、ちょっと気になった。
入部テストは、どうやら種目別に行われるらしく、まず先に行われたのは古坂が希望しているハイジャンプだった。
古坂の、背中を綺麗に反らしたジャンプは、なんだか重力を無視したかのような軽やかさで、陸上に詳しくない透子や真奈美の目にも「芸術的」に映った。他にも数名跳んでいたが、古坂が一番綺麗に跳んでいるのは明らかだ。
フォームの美しさは、記録にも反映するのだろうか。古坂は、1メートル80をクリアして、1年生トップの成績をおさめた。
そして、続いて行われた荘太の100メートル走は―――なんというか、爽快、だった。
スターティングポジションに立った段階で、荘太の顔つきは、完全に変わっていた。
いつものいたずらっ子のような顔がぴしっと引き締まり、100メートル先のゴールを睨んで、全神経を集中させる。両手を地面につき、クラウチング・スタートの姿勢を取る間も、ピリピリと張り詰めた空気は全く緩まない。テンションが最高潮に達した瞬間―――スタート合図の空砲が鳴った。
弾ける―――地面を蹴って、前へ。追い風に乗るように、一気に加速し、居並ぶ同級生の1歩前へ出る。どこかにバネでも仕込まれているんじゃないか、という位、地面を蹴る脚はリズミカルで、力強い。透子が驚いて口を開けている間に、荘太は、他の誰よりも速くゴールインしていた。
凄い。走るために生まれてきた生き物みたいだ。
透子は思わず、興奮で全身が粟立つのを感じて、両腕を抱きしめた。
「10秒93!」
ストップウォッチを見ていた先輩の声に、周囲の女子生徒達がキャーッと黄色い悲鳴を上げた。真奈美も、興奮したかのように透子のブレザーの裾をぎゅっと握り締めてきた。
「すごーい…! 小林君、自己新記録じゃない!?」
「えっ、そうなの?」
「うん、去年の全日本中学校陸上競技選手権大会の時は、11秒09で、6位だったの」
「ろ、6位!? あいつ、全国6位なの!?」
そりゃ速い筈だ。そんな猛者が町内にいたとは…透子はポカンとした顔で、女の子達の声援にぶんぶん手を振って応えている荘太を眺めた。
「けど、真奈、随分詳しいね。もしかして陸上部やった?」
「え…っ、ま、まさか! 運動なんて全部ダメだもん。うちの中学の卒業生なら誰でも知ってるよぉ。小林君、有名人だったんだもん」
真っ赤な顔で慌てて否定する真奈美の様子がちょっと不審ではあったが、確かに全国6位ならそうかもしれないなぁ、と納得もできた。
―――凄いなぁ…。
荘太の記録を塗り替えるべく、新たにスターティングポジションに立つ新入生達を眺めながら、透子は知らず、大きく息を吐き出していた。
タイムの速さより何より、彼らがスタートの瞬間放つ、あの強烈な闘志。
輝いている。眩しすぎる位に。そのまばゆい光に、透子は圧倒され、酔い痴れてしまった。
***
「いいなぁー…荘太も古坂君も」
自分達より1つ手前の停留所でバスを降りた真奈美に手を振った透子は、バスが動き出すと同時に、大きな溜め息をついた。
「んあ? 何が?」
「才能あって。何かに秀でてるって、カッコイイ」
角を曲がったせいで、車体が大きく揺れる。つり革に掴まっている荘太と透子も、一緒にグラリと揺れる。傾きながら、荘太はにんまりと笑った。
「惚れた?」
「それはない」
「…ちぇ、つまんねー」
「けど、走ってる荘太見てるのは楽しいわ。大会とか出るんやったら、また呼んで。真奈と2人して応援に行くから」
「おう。インターハイは他県でやるから、覚悟しとけよ」
「…荘太にとっては、夢物語じゃないもんなぁ」
中学時代に全国6位に入っているのだ。インターハイは、高校生ならみんな憧れているだろうが、荘太のレベルでは当然の目標だろう。
羨ましいよなぁ、と、素直に思う。
自分にも何か“才能”と呼べるものはあるだろうか、と考えた時、透子は何も浮かばない。実際にあるかどうかは別にしても、これだけは、と思えるものが1つも思い当たらないのは、なんだか寂しい。私って結構つまらない人間やなぁ、と考えると、隣にいる荘太のような人間が、酷く眩しい存在に思えた。
「あ。今日は私、駅前まで乗ってく」
いつも降りるバス停の手前で、バスが赤信号で止まったのを機に、透子は思い出したように荘太に告げた。
「駅前? 何か用事?」
「うん、バイト探し」
「ふーん…。なら、俺もちょっとついてこうかな」
荘太がついてきても意味ないよ、と透子は思ったが、結局荘太は次のバス停を無視し、透子と一緒に駅前でバスを降りた。
***
実を言えば透子は、ここ数日、新聞を見たりアルバイト情報誌を本屋で立ち読みしたりして、アルバイトを探し始めていた。
しかし―――その結果は、透子をかなり落胆させた。
どのアルバイトも、応募資格が「16歳以上」だったのだ。
「うう…、ここもあかんなぁ…」
実際、店舗に足を運んでみたものの、やはり結果は同じだった。「16歳以上」―――誕生日の来ていない15歳の透子に、応募資格はないということだ。
「なんで“高校生以上”じゃなくて“16歳以上”なんだろうなぁ」
「法律の問題かなぁ。でも、同じ高1やのになぁ…」
なんだか、納得いかない。
15歳はバイトができなくて、16歳はできる。この1歳の差に、何の意味があるんだろう?
4月生まれの子は今すぐにでも働けるけれど、自分は8月まで待たなくてはいけない。その差は、一体何だと言うんだろう?
透子は商店街育ちだ。母の代わりに時計店の店番をしたことだってあるし、ご近所の大売出しで呼び込み役をやったことだってある。そうした経験のない高校生よりはずっと商売慣れしている筈だ、と、透子は自信を持っている。
なのに、15歳だというだけで、働くことができない。
納得いかない。どうしようもなく、もどかしい。
「透子、誕生日いつ?」
「…8月」
「じゃあ、8月まで待てばいいじゃん。何でそんなすぐにバイトしたがるんだよ。小遣い足りねーとか、買いたいもんがあるとか?」
俺にはわかんねぇ、という顔で隣を歩く荘太をチラリと見、透子は少しうな垂れた。
「…買いたいもんなんてあらへんよ。バイトしたお金は、全部慎二に渡すつもりでいるんやし」
そう言われ、荘太の顔色が、僅かに変わった。
「―――先生も慎二も“透子は学業に専念しろ”って言う。親に遠慮する子供がおらへんのと同じように、透子も自分達には遠慮なんてするな、子供の特権なんやから安心して甘えろ、って。けど…そんな訳にはいかへんよ」
「……」
「慎二と、高校行く約束した時から決めてた。高校生になったら、絶対バイトするって。大したお金にはならへんと思うけど、少し位は学費とか家計の足しになるかも―――ううん、せめてお小遣いの分位は自分で稼がないと。慎二も先生も、私とは縁もゆかりもない、赤の他人なんやもん。子供と同じようにべったり甘えるなんて許されへんわ」
「…そ、っかあ…」
今度は、荘太がうな垂れる番だった。透子の事情を知っていながら当たり前の心理に考えが及ばなかったことに、荘太はちょっとショックを受けていた。
「お前も、“早く大人になりたい”んだなぁ…」
「え? ああ、荘太もこの前言ってたね。早く大人になって、家を出て行きたい、って」
「…けど、中身が全然違うじゃん。俺、大人になって家を出たって、一人で生活できる自信もなければ、どうすれば生きてけるか想像もつかねーもん。透子は、生きるためにやらきゃならない事、ちゃんと分かってるだろ」
「生きるためにやらなきゃならない事、かぁ…」
―――そんな事を、いつ、学んだのだろう?
ついこの前まで、そんなこと、考えたことなどなかった。考えなくて済んだ。両親がいて、住む家があって、通帳の置き場所も知らなければ、年金の存在も保険の存在も知らなかった。
家族を失って、住む家を失って―――最初に思ったのは、後を追って自分も死ぬことだった。
この先、生きていく意味なんてないと思ったから。両親も紘太もいない世界に自分が生き残ってもしょうがない。友達もいるし、学校も楽しかったけど、そんなものに執着心はなかった。自分も早く死のう。そう思った。
…いや。思っただけじゃない。
本当に、死のうとした。
真夜中、避難所を抜け出して、ガラスの破片で手首を切ろうとした。そしたら―――慎二が追いかけてきて、止めた。慎二に怒鳴られたのも叩かれたのも、あの時1回きりだ。
その時から、少しずつ、学び始めたのかもしれない。
死ねないのであれば、自分ひとりで生きなくてはいけない。そう思った時から、それまで考えもしなかったことを1つ1つ学び始めた。親を失った子供がどこに住めばいいのか、そうした子供にどんな支援や救済があるのか、就職するにはどうすればいいのか―――そんなことを、少しずつ。そして、思い知らされたのだ。自分はまだ“子供”で、“子供”がひとりで生きていくように、世の中は出来ていないのだ、と。
“大人”の助けがなくては、“子供”は生きていけない。
でも、慎二は、“親”ではない。
透子は確かに“子供”だが、助けてもらうのを当然と思えるほど“子供”ではない。そのことが、どうしようもないもどかしさになって、いつも透子を苛んでいた。
「…けど、焦っても、8月の誕生日が4月になる訳でもないし。ゆっくり探せよ。俺もなるべく求人広告気にしとくようにするからさ」
「ん…サンキュ」
慰めるように肩をぽん、と叩く荘太に、透子は笑みを返した。が、荘太の背後に視線を向けた瞬間、透子の顔から笑みが消えた。
「―――あれ?」
「え?」
「あれって、はるかさん?」
目を丸くする透子の視線を追って、荘太もその方向に目を向けた。
荘太の背後にあったのは、喫茶店。総ガラス張りなので、店内が外からもよく見える。
はるかの姿は店内の中ほどにあった。普段と同じ淡い色のブラウスとスカートを身につけて、なんだか浮かない顔をしてアイスコーヒーを飲んでいる。そして、その向かい側に―――見知らぬ男性が座っていた。
年のころは、多分慎二よりもっと上…30代に入ったか入らないか位だろう。すっきりした髪型といい、着慣れた様子のスーツといい、正しい社会人、といった感じがする。着ているスーツは高級そうだし、顔立ちも結構整っていて、職場でいかにもモテそうなタイプに見える。
時計を見ると、午後5時―――はるかは、まだ勤務中の筈だ。でも、男性の話に弱々しい笑顔で相槌を打っている女性は、どう見てもはるかにしか見えなかった。
「…誰だろう、相手のあの男。透子、見覚えある?」
「ううん、全然。はるかさんの仕事先の人かなぁ…」
「…もしかして、恋人?」
思わず、顔を見合わせる。
もしそうなら―――これは、一大スクープ。
「ど、どどどどーしようっ。先生、このこと知ってるのかなぁ?」
俄かに慌てだす透子を見て、荘太は呆れたように眉をひそめた。
「どうしよう、って…俺らが慌てても仕方ねーじゃん。第一、恋人かどうかも分からないのに。それに、はるかさんだって大人なんだから、恋人いたっていいじゃん、別に」
「け、けど…はるかさんのお父さん、滅茶苦茶厳しいんやもん。たまに帰ってくるけど、わざわざうちに来て先生に“留守中、はるかは真面目に過ごしてましたか”とか言うしっ」
「真面目だろ? はるかさん」
「真面目だけどっ」
「ならいーじゃん。何をそんなに焦ってんだよ、訳わかんねー」
「だって」
―――だって。何か、引っかかるもん、あの顔。
恋人とデートしてるのなら、もっと楽しそうな筈だ。男の方は確かに楽しそうだが、はるかは明らかに楽しくなさそうだ。それに、まだ勤務時間中という点も気になる。恋人だったにせよ、こんな時間にデートしてるなんて、おかしい。
とにかく、色々総合して、透子の中で危険信号が点灯してしまった訳だ。焦る。焦るが、何をどうしたいのかは全然分からない。
「もーいーじゃん、ほっとけば。俺らが口出すことじゃないんだしさー」
オロオロと挙動不審になる透子が恥ずかしくなってきたのか、荘太は怒ったような口調でそう言い、透子の腕を掴んでずるずると引きずるようにして歩き出した。
「でも、何か変やって」
「変でも放っておけばいいのっ。そういうのを“余計なお世話”って言うんだ」
「“余計なお世話”!? ひっどーいっ! 人のバイト探しに付いて来るのだって、結構“余計なお世話”やない!?」
「はぁ!? お前なーっ! 人が心配してんのに、そういう事言うか!?」
「私もはるかさんが心配なのっ!」
「ガキが大人心配してどーすんだよっ、バカ!」
「バカやないもんっ、荘太のバカっ!」
怒鳴りあいながら駅前商店街を歩く2人は、挙動不審に喫茶店前をうろつく以上に目立ってしまっているのだが―――そのことに、荘太も透子も、気づいていないようだった。
***
「あの…、あたしの顔に、何かついてる…?」
はるかに困ったような顔をされて、透子はハッ、と我に返った。
「う、ううん、何でもないっ」
慌てて、手にしたスポンジに洗剤を含ませる。食器を運び終えたはるかは、何度も自分の顔をじっと見る透子を不審に思いつつも、それ以上訊いてはこなかった。
―――やっぱり、変に思ったよね、はるかさん…。
食事中も何度も顔を見てしまったし、それで箸が止まってしまって先生に2回も指摘された。いけないと思っても、ついはるかに目が行ってしまう。夕方見た光景が、どうしても頭に甦ってしまって。
こんなに気に掛かるのは、きっと、合格祝いの日のあの電話のせいだ。
なんだか後ろめたさを隠しているように聞こえた、はるかからの電話―――あの日、飲みに行ったという相手は、もしかしたら今日見たあの人なのではないだろうか。…なんだか、そんな気がする。
あの日も、あんな風に楽しくなさそうな顔をして、お酒を飲んでいたんだろうか。
そんな相手と、何故会ったりするのだろう? しかも、仕事の時間帯に。
実は恋人なんかじゃなくて、飲みに行ったのも喫茶店にいたのも「仕事」なのかもしれない。でも…店員というはるかの立場を考えると、取引先を接待するような仕事があるとは、ちょっと思えない。結局、考えは堂々巡りになってしまう。
「透子。絵画教室の父兄の人から水羊羹もらったけど、食べる?」
いつの間にか台所に来ていた慎二が、冷蔵庫に近づきつつ訊ねてきた。
「食べるっ」
「じゃ、オレも食べようかな」
「透子ちゃん、じゃあ、後はよろしくねー」
振り返ると、エプロンを外して、通勤用のバッグを肩から掛けたはるかが、笑顔で立っていた。透子が変な態度を取ったことは、あまり気にしていないらしい。なんだかホッとして、透子も笑顔を見せた。
「うん、おやすみなさい」
そんな透子に「おやすみ」と言ったはるかは、そのまま帰るのかと思いきや、冷蔵庫から水羊羹の箱を取り出した慎二の方を向き、少し躊躇うような表情を浮かべた。
「…あの、工藤さん」
「ん?」
「ちょっとだけ、いい?」
玄関の方を指差すはるかに、慎二は少し眉をひそめた。が、特に用件を訊ねることもなく、水羊羹の箱を冷蔵庫に戻し、はるかに続いて玄関へと向かってしまった。
「……」
―――大人の話、かな。
そう考えた直後、自分が思い浮かべたその言葉の響きに酷い嫌悪感を覚え、透子は力任せに湯飲みをスポンジで擦った。
荘太の言う通りだ。自分がいくらはるかの心配をしたって、そんなものは何の役にも立たない。はるかは、大人だ。何か悩みを抱えていたとしても、子供の透子に相談してくる筈もない。透子の心配は“余計なお世話”だ。
―――つまんないなぁ…子供って。
洗い物が終わり、蛇口を閉めつつ小さく溜め息をついた時、背後に人の気配を感じた。振り返ると、先生が眼鏡を外しながら台所に入ってくるところだった。
「ん? 工藤、こっちに来んかったか?」
「…来たけど、はるかさん見送りに出たみたい」
実際にその場面は見ていないが、玄関の引き戸の音がした。多分、門の所ででも話をしているのだろう。
「そうか。なら、すぐ戻って来るだろ。…水羊羹、先に食うか」
「うん」
素直にそう返事するものの、冷蔵庫を開ける透子の表情は冴えなかった。先生がそれに気づいたらいけないと思い、透子はなるべく顔を下に向けていた。
水羊羹の箱を手に居間に向かう時、やっぱり玄関が気になって、チラリとそちらを見てみた。
僅かに開いた引き戸の隙間から、街灯にぼんやり照らされた外の景色が微かに見えた。が、そこにいる筈の慎二やはるかの姿は見えなかった。
―――遠い、なぁ…。
胸がチクリと痛む。
けれど、その距離を縮める方法など分かる筈もない。透子は唇を噛み、玄関の引き戸に背を向けた。
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