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04 : 夏が来る

 いつもの如く、さっぱり止められる気配のない目覚ましを順番に止めていった透子は、丸くなって眠り込んでいる慎二の肩をゆさゆさと揺らした。
 「しーんじー。朝だよー」
 「……」
 「慎二ってばー」
 さらに揺さぶる。
 いつもならこの辺りで反応がある筈なのに、何故か今日は違った。全然動かない。声もたてない。
 「…慎二?」
 ちょっと心配になって、向こうを向いてしまっている慎二の顔を覗きこんだ。
 慎二は、眠っているのか起きているのか、眉間にちょっと皺を寄せて目を閉じていた。寝息は聞こえない―――もしかして、具合でも悪いのだろうか。
 額に手を当ててみたが、熱があるかどうか、よく分からなかった。おでこを合わせたら分かるかな、と一瞬思ったが、その場面を思い浮かべて、慌てて慎二から離れた。
 ―――どうしよう。
 ピクリとも動かない慎二を見下ろして、透子は途方に暮れた。

 

 「先生。慎二が起きないんだけど…」
 1階に下りて透子がまずそう告げると、先生は予想に反して平然とした顔で答えた。
 「ああ…そうか、もうそんな時期だったな。ほっとけ」
 「―――そんな時期???」
 春眠暁を覚えず、とはよく聞くが、暦は既に7月だ。透子が眉をひそめると、先生はその表情の意味を察して苦笑した。
 「工藤特有の“時期”だよ。去年も一昨年も、ちょうど今頃、ストライキを起こしてな―――ん? もしかしたら同じ日だったかもしれんなぁ…」
 「…具合悪いとか、そういうんじゃないの?」
 「ないない。放っときゃあ明日には普段の工藤に戻っとるよ。仕事はなんとでもなる、寝かせておけ」
 「なんとでもなる、って、先生にしては随分甘やかしてない?」
 「なぁに。年1回位で済むなら御の字だ。高校時代のあいつを考えればなぁ」
 放浪癖があって、授業をさぼってどこかに消えていた、という話を思い出して、深く納得する。それにしても先生も、そんな慎二をよく尾道に誘ったものだ。
 「それより、早く朝飯を食っちまおう」
 「あ…うん」
 先生に促され、透子は朝食の席についた。
 向かいの席に慎二の姿がない、朝の風景―――なんだかとても、変な気分だった。

***

 その日は期末テストの最終日だった。
 最後のテストが終わるとすぐに、透子は鞄を抱えて、教室を飛び出して行こうとした。
 「え…っ、あ、おいっ! 透子っ!」
 廊下側一番後ろの席の荘太が、それに気づいて、妙に慌てたような声で透子を呼び止めた。そのままダッシュしていきそうだった透子は、その声に引き止められてくるりと振り向いた。
 「何?」
 「どこ行くんだよ。今日、バイト休みなんだろ?」
 バイト先のファーストフードは、今日と明日の2日間、店内の改装工事で休みになっている。やっと慣れてきてノッてるとこなのに、と数日前の昼休みに不平をもらしたので、そのことは荘太も真奈美も古坂も知っている筈だ。
 「うん。だから、もう帰るの」
 「帰る、って―――お前、忘れたのかよ!? 今日陸上部の記録会があるから、お前と安藤、揃って見学に来るって言ってたくせに」
 「あ…っ、そうだったね」
 そう言えば、そんな約束をしていたのだった。慌てて窓際の席に目を向けると、真奈美が困ったような顔をして佇んでいた。そういえばさっき「じゃあ、また明日ねー」と透子が言った時、真奈美は何か言いたそうな目をして返事を返してきた。透子の急いでいる様子に、指摘するのが躊躇われたのだろう。
 「ごめんー、すっかり忘れてた。今日はちょっと駄目になった」
 「はぁ? なんでだよ」
 「んー…、ちょっと、ねぇ。慎二が寝込んじゃって」
 本当は寝込んでいるのとはちょっと違うのだが―――荘太と古坂には申し訳ないが、やっぱり普通じゃない慎二の状態の方が、荘太や古坂の記録よりも気になる。
 「寝込んでるったって、大人じゃん、あの人」
 慎二の名前が出た途端、あからさまに不機嫌な顔になった荘太は、そう言って眉を上げた。それに呼応するように、透子も眉を上げる。
 「病気の時は大人も子供も関係ないんじゃない? 病人ほっぽってまで応援に行かなきゃいけないなんて、なんかヘン」
 「別に応援に来いなんて言ってねーじゃん。ただ、約束忘れたくせにしらっとしてる態度がムカつくだけだよっ」
 「最初にごめんって言ったじゃないっ」
 「全然済まないと思ってないのがミエミエなんだよっ」
 「お、おいおい、荘太…」
 前の席の古坂がおろおろと仲裁に入ろうとするが、元々短気な荘太に、売られた喧嘩はとことん無視できない透子の口喧嘩だ。そう簡単に仲裁できる筈もない。
 「済まないって思ってるもんっ。ふーんだ、荘太が不機嫌なのは、原因が慎二やからやろ。慎二がおばさんのお気に入りなもんやから嫉妬して」
 「ち…っ、違うわいっ! 俺は、10も年下のお前があいつの心配するのがお節介だって言いたいだけだっ!」
 「お節介!? なんで年下が年上の心配するのがお節介になるんよ、え!? 荘太の方こそ要らんお世話やわっ」
 「と、透子…、関西弁っ、関西弁戻ってるっ」
 慌てて駆けつけた真奈美が、エキサイトする透子の耳元で囁いた。その一言で我に返った透子は、他のクラスメイトが何事かと興味津々の目でこちらを見ているのにも気づき、ちょっと赤くなって口を噤んだ。
 荘太の方も、自分が理不尽な怒り方をしている自覚はあったらしく、まだ口を尖らせながらもそれ以上の文句を言う気配はなくなった。そんな荘太の頭にぽん、と手を乗せて、古坂が間を取り持つように言葉を挟んだ。
 「最近荘太、凄く頑張ってたもんな。井上さんにも見てもらいたかったんだよな」
 「…別に透子だけに見てもらいたかった訳じゃねーよっ」
 「安藤さんは来るでしょ?」
 古坂の問いに、真奈美は躊躇せずに頷いた。たとえ透子が行かなくても、ひとりで応援に行く気でいたから。それを見て、古坂の目がほっと安心したような目になった。透子も真奈美が行ってくれることに安堵し、再び荘太の方に目を向けた。
 「…ごめん、荘太。明日は練習、見に行く」
 「……」
 「今日、頑張って記録出しなよ。真奈が応援してくれてるんだから」
 「…じゃあ、新記録出なかったら、透子のせいってことでよろしく」
 不貞腐れた顔をしながらも、荘太はそう言って、透子を軽く睨み上げた。それが彼なりの「もういいよ」だと分かり、透子はくすっと笑った。

***

 バイトを始めてからは、バイト帰りにギャラリーに寄って慎二や先生と一緒に帰宅するのが常になっていた。だから、持たされているスペアキーを使うのは、1ヶ月ぶりのことだった。
 「ただいまぁー…」
 引き戸をカラカラと開けた透子は、静まり返った家の中に一歩踏み込んで恐る恐るといった感じで声を掛けてみた。が、予想通り、返事はなかった。
 理由のない不安に駆られながら、2階に上がり、慎二の部屋のドアをノックしてみた。しかし、それにも返事はなかった。
 「慎二…開けるよ?」
 一応、そう断りを入れて、ドアを開けてみる。そして、ベッドの上に慎二の姿を見つけて、ホッとしたような余計に不安になったような、不思議な気分になった。
 朝は閉められたままだったカーテンが開いている。GパンとTシャツに着替えている。閉じたままだった机の上のスケッチブックが広げられている。そんなことから、慎二が自分の登校後に一度は起きたらしいことに気づく。けれど、慎二は、やっぱり眠っていた。しかも、うつ伏せという、あまりおすすめできない姿勢で。
 「慎二…首、寝違えちゃうよ…?」
 返事がないと分かっていながらも、つい、そう口にする。眠っている慎二から、何かの説明を聞くのは不可能だ。透子は小さく溜め息をつくと、机の上に広げられたスケッチブックに目をやった。
 そして、その絵を見た瞬間。
 思わず、息を呑んだ。

 スケッチブックは、ブルーに染められていた。
 青、碧、蒼―――どんな「あお」と表現すればいいのだろう。見ていると吸い込まれてしまいそうなブルーが、決して広くはない画面いっぱいに広がっている。微妙なグラデーションで、上にいく程に明るい色になっていくブルーは、そう…ちょうど、海の底から上を仰いだらこんな風に見えるんじゃないかな、と、透子には思えた。
 描かれているのは、そんなブルーだけだった。
 これが何を意味しているのかは分からない。海なのか、空なのか、もしくはただの背景なのか―――でも、前景となるべきものは、まだ描かれていない。
 スケッチブックのすぐ横にアクリル絵の具が乱雑に散らばっている。重ね塗りのできるこの絵の具を選んだということは、このブルーがしっかり乾いてから、その上に重ねて描く予定なのかもしれない。けれど、散らばっている絵の具の色から、そこに何が描かれる予定なのかは、全く想像がつかなかった。

 ―――何なんだろう…この絵。
 今日、慎二がちょっと普通じゃなくなっていることに、この絵が何か関係しているような気がして。
 慎二が好んで使う、綺麗な、色。なのに、何故かそれが酷く禍々しい、不安定なものに見えて。
 釘付けになっている目を無理矢理絵から引き剥がし、透子は慎二の方に目を向けた。
 全く動かない慎二に、また不安が増していく。学生鞄をその場に取り落とすと、透子はベッドのすぐ傍らにぺたりと座り込み、慎二の顔をじっと覗きこんだ。
 瞼が、小刻みに震えている。夢を見ているのかもしれない。どんな夢を見ているのか、ここから覗くことができたらいいのに―――そんな風に思い、指先で慎二の額にかかった髪を摘んでみた。
 初めて触った慎二の髪は、猫っ毛気味な透子の髪よりも、さらに頼りなくて、柔らかい手触りだった。男にしては長いなぁ、と感心してしまう睫毛も、1本1本が細くて薄い色をしている―――なんだか、どこを取っても、ふわふわしたもので出来ているみたいに掴みどころがなくて曖昧に思える。
 「慎二…起きてよ…」
 心細い。
 慎二が、手の届かない所に行ってしまってる気がして、心細い。
 置いて行かないでよ、と、目の前で眠っている慎二に対して言うにはおかしすぎる言葉が、頭に浮かんできてしまう。一体、どうしてしまったのだろう―――慎二も、そして、自分も。
 髪を絡めていた指が、慎二の額にコツン、とぶつかる。しまった、と思った時、慎二の寝顔が僅かに歪んだ。
 「…慎二?」
 透子の声に応えるように、慎二の睫毛が微かに揺れる。やがて、瞼がゆっくりと持ち上がって、慎二の深い茶色をした目がその下から覗いた。
 うつろに、視線の定まらない目が、約10秒後、透子の顔の上に定まる。
 しばし、そのまま透子見つめ―――その目は、突如、驚いたように大きく見開かれた。

 「―――――……!!」
 ガバッ! と両手をついて起き上がった慎二に、透子もびっくりして、思わず後ろへと体を反らせた。
 「なっ、何っ!? ど、どうしたの、慎二!?」
 突然のことに、心臓がバクバクと暴れる。無意識のうちに制服のベストの前合わせの辺りを掴み、透子はちょっと裏返った声を上げてしまった。
 それでも慎二は、まだ驚いた顔のまま、透子を見つめていた。信じられないものでも見たかのように目を大きく見開き、息さえも詰めて―――瞬きすら忘れて、透子の顔を凝視していた。
 どの位の時間が経っただろう―――きっと、ほんの10秒かそこらなのだろうが、透子には永遠とも言えるほどに長い時間に感じた―――慎二は、ゆっくりと息を吐き出すと、全身の力を抜いた。それと同時に、目は数度瞬きを繰り返し、ベッドのシーツを掴んでいた手が、気だるそうに髪を掻き上げた。
 「透子…いつから、そこにいるの」
 「…ちょっと、前から」
 「バイトは?」
 「―――今日と明日は、お休み」
 慎二にもそれは昨日言った筈だ。覚えていないのだろうか。
 そう言えば慎二は、昨日もどことなくおかしかった気がする。なんとなくぼんやりしている、というか、上の空になっているような感じがした。もしかしたらあれが、今日の予兆だったのかもしれない。
 大きな溜め息をついた慎二は、ぐしゃぐしゃと髪を掻き混ぜ、完全に起き上がった。そして、ベッドを降りると、透子の方には目もくれずに机に向かった。
 広げてあったスケッチブックを、やや乱暴な仕草で閉じる慎二は、やっぱり普段の慎二ではない。もしかしてここに居てはいけなかったのだろうか―――透子は不安になり、視線を少し落とした。
 やっぱり、お節介なのかもしれない。
 荘太や古坂の大事な記録会を蹴ってまで帰ってきたって、自分に何が出来る訳でもない。ただ心配して、ただオロオロすることしかできない。先生にも「放っておけ」と言われたのに…どうしても、放っておけなかった。挙句に、こんな風に無視されて―――気まずい。気まずすぎて、自分の部屋に逃げ帰りたくなる。
 本当に逃げ帰ってしまおうか、と、透子が少し腰を浮かしかけた時、机の方を向いていた慎二が、ゆっくり振り返った。
 「…透子」
 反射的に、顔を上げる。不安げな顔をしている透子を見て、慎二はフワリと、いつもの笑みを見せた。
 「―――海、見に行こうか」

***

 梅雨明け間近の夕方の海は、海面がうっすらとオレンジ色に染まって見えた。
 向島へと渡る船が、海面に白い波の尾を引きながら走っていく。船が出たばかりの桟橋は、人影もなく、ひっそりと静まりかえっていた。
 尾道水道は、向島がすぐそこに迫っていて、一瞬海ではなく河か何かではないかと錯覚してしまう。島が点在する瀬戸内ならではの光景を、透子は純粋に楽しむことができた。
 日が落ちてきたからだろうか。海風がちょっと冷たく感じる。透子がくしゅん、と小さなくしゃみをする。それを耳にして、パーカーのポケットに両手を突っ込んで海を眺めていた慎二が、ようやく振り向いた。
 「寒い?」
 「ん…少し…」
 「おいで」
 鼻をぐずぐずさせる透子に、慎二はちょっと苦笑し、手を差し出した。
 キョトン、と目を丸くした透子だったが、言われるがままに、慎二の傍に駆け寄った。すると慎二は、透子を背中から抱きしめるみたいに腕を回してきた。
 「ひゃ、ひゃあああっ! な、何っ!?」
 背中全体と肩に慎二の体温を感じて、透子は思わず大声を上げてしまった。そりゃ、避難所で寝泊りしていた時は、寒さのあまり慎二に抱きついて眠ったりもしたが―――こういうのはさすがに抵抗がある。
 「あったかくならない?」
 「なっ、なるけどっ」
 「ハハ…、透子、ホントに小さいなぁ。子供の風除けになってる気分」
 「…なんかそれ、何気に失礼やない?」
 「気にしない気にしない」
 女の子扱いされた上でこんなことをされたら、それはそれで意識してしまって困ってしまう。けれど、子供を抱っこするのと同じ感覚だと思うと面白くない。クスクスという笑い声を背後に聞きながら、透子は唇を尖らせた。
 ―――でも、良かった。慎二、笑ってくれて。
 背中が温かくなったこと以上にそのことにホッとして、透子は尖らせていた唇を綻ばせた。いつもの慎二がやっと戻ってきた気がして、嬉しくなってくる。

 何故、海なのか。
 本当は、ちょっと気になっていた。
 さっき見た、あの描きかけの絵―――海を連想する、吸い込まれそうなブルー。慎二は、どんなつもりで海を見に来たのだろう? 毎日、僅かながらも見ている海なのに、わざわざこうして見に来るのには、きっと何か理由があるのだろうと思うけれど、透子にはそれが何なのか分からない。

 僅かに体を捩って、背後に立つ慎二の顔をこっそり見上げる。慎二は、何を考えているのか分からない表情で、ぼんやりと海を眺めていた。
 「慎二」
 「ん?」
 「海、好き?」
 「好きだよ。なんで?」
 「…なんか、とても、辛そうに見えるから」
 感じたままを伝えると、慎二は、少し驚いたような顔をして透子を見下ろしてきた。
 「そう?」
 「うん。…なんだか、凄く寂しそう」
 「…ハハ、そうかなぁ…」
 誤魔化しているのか、慎二はそう言って笑って、また海に視線を戻してしまった。その目は、やっぱりどことなく寂しそうに見えた。
 「―――海ってさ、繋がってるんだよなぁ、と思って」
 「繋がってる?」
 「東京湾も神戸港も尾道水道も、同じ海で繋がってるだろ? 日本海とか太平洋とか名前が分けられてるけど、本当は同じ1つの水たまりなんだよな。…世界中が、海で繋がってるんだよなぁ…」
 「…そうだね」
 ―――だからって、なんで寂しい顔になるの?
 よく、分からない。けれど―――1つ、思いついた。

 慎二は、この海を通して、東京を見ているんじゃないだろうか。
 東京に慎二が置いてきたもの―――家族、友達…もしかしたら、恋人も。そんなものに、慎二は思いを馳せているのかもしれない。
 この海の続く先に、自分の知らない慎二の世界がある。どんな世界なんだろう―――そう思って再び海を眺めた透子の目には、目の前の海がさっきまでとは違う色をしているように見えた。

***

 海からの帰り、偶然、荘太と会った。
 部活帰りらしい荘太は、先生の家の前を20メートルほど越した所を歩いていた。背後を歩く気配に気づいたのか振り向き、それが透子と慎二だと分かると、ちょっと居心地の悪そうな顔をした。
 「新記録出たぁ!?」
 手を振りながら透子が訊ねると、荘太はニヤリと笑ってVサインを作って見せた。が、特に何を言うでもなく、「おめでとーっ!」という透子の声に手を振り返して、そのまま自分の家に引っ込んでしまった。
 母親が熱を上げている相手、というのは、そんなに憎たらしいものなのだろうか―――荘太の慎二に対する敵愾心が、透子には今ひとつ理解できなかった。別に不倫をするでもなし、いわばテレビアイドルに熱を上げているのと同じに過ぎないレベルなのに、何故そうも嫌がるのだろう?
 マザコン気味なのかもね、と自分なりの結論を出した透子は、今後、荘太の前ではなるべく慎二の名前は出さないようにしよう、と密かに思った。


 ―――眠れないなぁ…。
 ベッドにもぐりこんだはいいが、さっぱり寝付けない。
 ちょっと読むだけのつもりだった本も、既に半分近くまで読み進んでしまっていた。透子は溜め息をつき、ぱたん、と本を閉じた。
 眠れないのは多分、あれが原因。
 背中から回された、大きな手―――男としては細身で頼りない、と思っていた慎二だったけれど、透子よりずっとずっと広くて大きかった。小さい頃、亡くなった父にあんな風に後ろから抱きかかえられてテレビを見るのが習慣になっていたが、慎二の腕の中は、父のそれとは全く違っていた。
 ―――違ってたけど、意味は同じなんだ、きっと。
 そう思っても、心臓がうるさく鳴るのは止められなかった。子供扱いされているのは分かっていても、慎二を父と同じようには思えない。…なんだか、凄く難しい年齢なんだな、と、自分の年齢の危うさを思い知った気分だ。

 ―――大体、慎二が悪いんやからねっ。後見人や言うても、慎二と私は赤の他人なんやから、あんな風に気安く触るのは…子供子供言うても、私も来月には16になるんやしっ。
 よし、今度ああいう事があったら、絶対突っぱねよう。共同生活にはケジメが必要やもん、ケジメが。
 …けど…あったかくて、なんか安心できたよなぁ…。
 ―――突っぱねるどころか、すり寄って行っちゃいそうな気がする。

 「…ああ、もうっ」
 がばっ、と起き上がった透子は、ベッドを降りて部屋を出た。
 チラリと慎二の部屋のドアに目をやったが、中の様子を窺うのはやめておいた。寝る前、まだ慎二はちょっといつもと違う感じだったが、昨日のような上の空状態ではなくなっていた。きっと明日の朝にはいつもの慎二に戻っているだろう。
 階下に下りた透子は、台所に行って、水を1杯汲んだ。一気にそれを飲み干し、大きく息を吐き出すと、少しは気分が落ち着いた気がした。
 ―――あ…、そう言えば、来週、保護者面談があるんだった。
 慎二と先生、どちらが来てくれるのだろう? 先生は辛辣なことを言いそうだし、慎二は…色々と、問題になりそうだ。困ったなぁ、と思いつつも、とにかく忘れてしまう前にカレンダーに書き込んでおこうと、透子は居間へと向かった。
 居間の電気をつけて、飾り棚の上の赤いサインペンを手に取る。居間のカレンダーは先生、透子、慎二の共用スケジュール表になっていて、先生が黒、慎二が青、透子が赤のサインペンを使うルールになっている。14日に何か入ってたかな、とカレンダーを確認するが、14日の枠には黒い字も青い字も書かれてはいなかった。
 「保護者面談…、っと」
 下に余白を空けながらそう書き込んだ透子は、サインペンのキャップを閉めてカレンダー全体を見渡し、あることに気づいて眉をひそめた。
 誰が決めたのか知らないが、西條家では、慎二がその日の最後に日付の数字をバツ印で消すのが日課になっている。慎二が消すから、当然、日付は青いバツ印で消されていく。
 なのに、今日の日付―――いや、日付が変わったから昨日の日付だ―――は、まだ消されていなかった。
 「珍しい…消し忘れたのかな」
 代わりに消しておいてあげよう、と、再びサインペンのキャップを取ろうとした透子は、そこでふと思いなおし、飾り棚から青いサインペンを取り上げた。綺麗に青で統一されているバツ印の中、赤が1つだけ混じるのは変だと思ったのだ。

 「…7月5日…か…」

 5という数字を青いペンで消しながら、何気なく、呟く。
 同じ日だったかもしれない、と先生は言っていた。もしそうだとしたら、この日は慎二にとって、何か意味のある日なのかもしれない。何の日なのかは分からないナけれど、ちょっと覚えておこう、と、透子は思った。

 1学期も、残すところ2週間。
 もうすぐ、夏が来る。


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