←BACK二十四季 TOPNEXT→

05 : 招かれざる客 (1)

 その年の夏休みは、不思議なくらいに穏やかに、ゆっくりと過ぎて行った。


 真奈美は、夏休みのほとんどを宮崎に住む祖父母の家で過ごすと言っていた。荘太と古坂は、当然陸上部の練習と合宿。自分達は出ないものの先輩が出場するので、インターハイの応援にも行かなくてはいけないらしい。とにかく、夏休みだというのに、彼らは休みなどほとんどない。
 透子は、部活も帰省する場所もない代わりに、バイトに精を出した。バイトがない時間は先生のギャラリーを手伝った。実を言えば、慎二が働いている所で一緒に働いてみたい、という少々不純な動機なのだが。
 夏場で湿度調整などが難しいらしく、慎二はギャラリーの一番奥のさる有名画家の油絵をしきりに気にしていた。「早く売れてくれないかなぁ」とぼやいていたが、夏の間、その絵はずっと同じ場所に掛けられたままだった。絵はたまにしか売れなかったが、観光客用に置いている尾道の街並みを描いた絵葉書セットは、さすがは夏休みだけあって、毎日かなりの数売れた。慎二が描いた絵葉書と先生が描いた絵葉書では、どうやら慎二の方が人気があるようだ。

 慎二が、絵画教室で、子供達に絵を教えるところも見た。
 教室では、誰も慎二を「せんせい」とは呼んでいなかった。お兄ちゃん、が大半。酷い場合は慎二と呼び捨てにする子供もいる。
 教室いっぱいに白い紙を広げた慎二は、そんな子供達にクレパスを持たせ、その紙に好きなように絵を描かせた。いや、描かせるだけではなく、自ら紙の真ん中に座って同じクレパスで絵を描いた。
 小さな子供達は、同じく紙の上に裸足で乗っかって、キャーキャー言いながら絵を描いた。隣の子が描いた絵に絵を注ぎ足す子もいるし、紙全体の縁取りをし始める子もいる。どの子も、もの凄く楽しそうに絵を描いていた。
 透子も1回、その授業に参加させてもらった。
 美術はどうも苦手な透子は、もの凄く小さくチューリップの絵を端っこに描いた。
 「おねえちゃん、そんな豆粒みたいなチューリップじゃ駄目だよっ」
 子供達に笑われて、今度はもっと大きなひまわりを描いてみた。花と葉のバランスがどう考えてもおかしそのひまわりに、慎二が笑いながら空と雲を描き足した。すると、隣にいた男の子が車を、女の子が麦藁帽子を被った女の子を描く。髪型と服装から考えるに、どうやらそれは透子らしかった。
 魚の絵を描いたり、飛行機を描いたり…気づけば、大きな紙はあっという間に脈絡のない絵で埋め尽くされていた。
 楽しい―――絵を描いて、初めてそう感じた。
 「オレが受け持ってるのは、小学校中学年までだからね。絵の技術教えるより、絵を描く楽しさ教えるのが仕事のようなもんだろ?」
 その日の最後に、慎二は、ちょっと照れくさそうにそう説明してくれた。
 不思議だ―――人に物を教えるなんて柄じゃないように見えるのに。
 慎二は、勉強は苦手だと言うし教師に向いているとも思えないが、こと「絵の楽しさを教えること」に関してだけは天才かもしれない。透子はそう思った。

 慎二が油絵を描くところも、この夏、初めて見た。
 スケッチもよく描く慎二だが、本来は想像上の光景を絵にするのが好きらしい。ギャラリーの仕事が暇な時、構想をスケッチブックにまとめておいて、休みの日にカンバスにそれを起こしていくのだ。さすがに狭い自室では無理なので、縁側にイーゼルを運び出して描く。透子は縁側に座って、そんな慎二を夏中見ていた。
 「創作」に入っている時の慎二は、いつも以上に静かで、どこかピンと張り詰めたものを持っていて、透子も声をかけるのが躊躇われる。こんな部分も持っている人だったのか、と驚いた。そして、ちょっとだけ―――カッコイイ、と思った。

 透子の誕生日には、はるかが真っ白なケーキを焼いてくれた。お盆には慎二に神戸へ連れて行ってもらい、両親と紘太に会った。夏休み後半になって戻ってきた真奈美を誘い、荘太や古坂も一緒にプールにも行った。最後の最後で、宿題の絵で苦しめられたが、先生のスパルタ指導でなんとか切り抜けた。
 賑やかで、楽しかった夏休みだったが、透子の目に焼きついたのは、やっぱり慎二の姿だった。
 元々、優しくて、でもちょっと頼りない慎二が結構好きだったけれど、子供に囲まれて楽しそうに絵を描いてる姿も、たった一人でイーゼルに向かっている姿も、それまでの慎二とは違う慎二であるにも関わらず、やっぱり「慎二らしい」と思える姿で、透子は好きだった。好きな姿が増えた分、透子は春頃よりももっと、慎二が好きになった。


 初めて見る慎二の姿に、驚き、戸惑い、時には見惚れてしまった夏。

 そんな夏が終わりを迎える頃、1人目の「招かれざる客」が、西條家を訪れた。

***

 その日、透子はバイトが早めに終わる日だった。
 いつも通りギャラリーに寄ったが、何故か慎二はいなかった。
 「先生、慎二は?」
 バイヤーが持ち込んだ絵を荷解きしていた先生に訊ねると、先生は渋い顔をした。
 「それが、急にはるかから電話がかかってきてな。さっき早退した」
 「え?」
 はるかと言えば、今日は遅くなるから、と言って、昨日のうちに今日の分もシチューを作って冷蔵庫に入れておいていた筈だ。そのはるかに呼び出されたということは、慎二も夕飯時に家を抜けるということだろうか。
 そんなことは、これが初めてだ。釈然としない気持ちと、どことなく不愉快な気分を抱えたまま、先生より一足早く家に帰った。
 はるかは相変わらず、月に1度のペースで遅くなる。今日のように前もって分かっている日もあれば、当日になって突然電話してくる場合もあった。先生は余り気にしている様子はないが、透子はやっぱり気にしていた。慎二は…気にしていないように見えるが、それはきっと、事情を知っているからのような気がする。
 ―――なんか、やだなぁ。
 はぁ、と溜め息をついた透子は、門をくぐり、玄関の引き戸を引いた。鍵が開いているということは、慎二はまだ家にいるということだ。
 「ただいまぁ…」
 透子が引き戸を閉めつつ声を掛けると、奥からドタドタと足音がして、慎二が顔を覗かせた。その慎二の姿を見た途端、透子はその場に固まってしまった。
 「あ、透子…びっくりした。今日って早いんだっけ」
 「―――…」

 で…っ、出たっ! ファッション雑誌モード慎二っ!!

 入学式の時と同じスーツに、あの時同様にビシッと決まってる髪形。半年振りに見るスーツ姿は、透子には少々ダメージが大きすぎた。
 「な、な、な、何っ!? なんで慎二、そんな格好してんのっ!?」
 「ああ、うん…先生から聞かなかった? はるかさんに」
 「呼び出し喰らったんでしょ!? だからって、なんでそんな格好なのよ!? 普段から会ってる相手なのに、こんな…」
 「―――う、うーん…何て言うか…」
 困ったな、という顔をして、慎二はこめかみを掻いた。
 「何て言うか、何?」
 言葉を濁そうとする慎二に透子が眉を上げると、慎二は諦めたように溜め息をつき、気が進まなそうに話し出した。
 「…実は、はるかさん、このところずっとトラブル抱えててね。時々、相談には乗ってたんだ。今日もその関係で遅くなるんだけど―――オレは、その助っ人を頼まれたから行く訳」
 「助っ人? それとその格好と、どういう関係があるの?」
 「これは、つまり―――トラブル解決のための作戦、というか…」
 「?????」
 全然、分からない。
 とにかく―――はるかは何かトラブルに巻き込まれていて、慎二はそのトラブルを解決するために、こんな格好をしている…と、要約するればそういう事だろか。
 …要約しても、全然分からない。
 「あの、透子。これ、はるかさんの問題だし、オレはあくまで助っ人だから、その―――先生には、話さないでおいてくれるかな」
 慎二は済まなそうにそう付け加えるが、話すも何も、透子自身が理解できていないのだから、先生に話すことなど何もない。眉をひそめたまま、条件反射のようにコクンと頷く透子を見て、慎二はあまり安堵した様子は見せないながらも、一応笑顔を返した。
 「ごめん、夕飯一緒できなくて」
 「うん…それは、別にいいけど…」
 「じゃあオレ、そろそろ」
 と慎二が言いかけた時―――玄関の呼び鈴が鳴った。

 西條家には、この夏まで呼び鈴がなかった。だから、家の人間もはるかも客も、みんなドアを叩いたり「こんばんはー」と大声を上げたりしなくてはいけなかった。不便だから、と言っても、先生が取り合ってくれなかったのだ。
 そんな西條家に呼び鈴が設置されたのは、実は荘太のせいだった。
 夏、プールに誘いに来た荘太は、くもりガラスの入った引き戸をバンバン叩いた。が、ちょうど透子も先生も慎二もそれぞれに忙しくしている時間帯だったために、すぐにはそれに気づかなかった。苛立った荘太は、さらに力を込めて思い切り戸を叩いた。結果―――サッシの隙間にジャストミートした拳は、くもりガラスを突き破ってしまった。
 勿論、プールは中止。拳から血をダラダラ流す荘太に慎二は顔面蒼白になるし、「先生が変なこだわり持つからこーゆーことになんねんっ」と半泣きで憤慨する透子に先生は頭が上がらないし―――そんな訳で、すっかり懲りた先生は、遅ればせながら呼び鈴をつけたのだった。

 それでも、はるかを含めこの家の人間同士は、いまだに戸を叩いて来訪を報せている。
 つまり、呼び鈴は、客が来た合図―――慎二と透子は、玄関を上がってすぐの廊下で、2人して顔を見合わせた。
 「は…はい」
 一応、慎二が声を掛ける。その声に反応して、くもりガラスの向こうに人影が揺れた。
 「すみませーん、こちら、工藤慎二さんのお宅ですかー?」
 「? そうですけどー」
 珍しい。慎二名指しの客だなんて。ますます怪訝な顔をする2人に、扉の向こうの来訪者は、突然、態度を豹変させた。
 「はーん…その声は慎二君ね? ちょっと、早く開けなさいよ」
 「!!」
 ―――この声は。
 慎二が応対するまでもない。透子は慌てて玄関に飛び降り、引き戸を開けた。
 途端に玄関に流れ込む、ローズ系の香水の香り。そこには、全身をイタリアブランドで固めた派手な女性が仁王立ちしていた。
 「あら、透子! 慎二君も久しぶり」
 「お…っ、叔母さんっ!!!」
 目をまん丸にする透子と慎二をよそに、久々に再会する透子の叔母は、得意げに小さな紙袋を掲げて見せた。
 「インドネシア土産のバリ・コーヒーよ。…上がらせてもらっていいかしら?」

***

 透子の叔母、松原聡子は、アンティーク家具の輸入業を営んでいるキャリアウーマンで、慎二の更に10歳上―――現在35歳の独身貴族である。
 震災の5日後、急遽帰国して避難所で慎二に連れられた透子と再会した。その後何日間か、大阪と神戸をバイクで往復する日々を過ごしたが、両親と紘太の葬儀が終わると、「透子の今後については慎二に任せる」と言って仕事のためにまた日本を離れてしまった。つまり、慎二が透子を引き取った時、聡子は既に日本にいなかった訳だ。
 勿論、唯一残った親族なのだから、すぐにその件で連絡は入れた。が、その時も聡子は「社長は買い付けのためにパリに飛んでいます」という状態で、結局伝言するしかなかった。まぁそれでも、1週間後には「いいんじゃない、頼むわ」と返事を寄こしてきた。以来、2人と聡子の間には、何のやりとりもなかった。

 が、しかし―――…。


 「…で、どうなのよ。あいつの本性、見抜けた?」
 肘で二の腕の辺りを小突かれ、透子はうんざりした顔で聡子を軽く睨んだ。
 「―――何、本性って」
 「きーまってるじゃないのー。見ず知らずの子を引き取ろうだなんて、絶対裏があると思うのが当たり前でしょー? で、どうだった? やっぱり年金や義援金狙い? それともロリコンだった?」
 「…叔母さん」
 はああぁーっ、と、深い深いため息をついた透子は、正座したままぐるりと叔母の方に体を向け、努めて冷静な口調で告げた。
 「そんな風に思ってるんだったら、なんで慎二に任せたりしたの」
 「―――やあねぇ。本気で怒っちゃって。冗談に決まってるでしょ」
 頭の硬い子ねぇ、などと不本意なことを言われて、透子の眉がピクリと動く。が、反論するのも面倒になって、また溜め息をついてしまった。
 ―――こういう人だもんだから、お母さんともおじいちゃんとも折り合いがつかなかったんだな、きっと。
 生前、母は、たった1人の血を分けた妹である筈のこの人を、あまり良くは思っていなかった。祖父も「あれは放っておけ」と言うばかりで、姉妹の不仲を嘆いている風でもなかった。そんな事情から、透子が記憶する限り、聡子と会うのはこれがまだ3回目だ(聡子に言わせると、透子がまだ小さい頃に更に2度会っているらしいが、全然覚えていない)。そしてその3回とも、聡子の印象は最悪だった。
 ―――早く慎二、帰って来ないかなぁ。
 壁掛け時計を見ると、8時を大きく回っている。
 慎二はあの後、やはりどうしてもはるかとの約束をすっぽかす訳にはいかない、という事で、透子に聡子の件は任せて、家を飛び出して行ってしまった。大事な話がある、という聡子は、慎二の帰宅を待つと言った。結果、聡子は慎二が食べる筈だったシチューを平らげ、食後のお茶まで飲んでいるのだった。
 「あっ、どうかお構いなくー」
 先生がお茶菓子を持ってきたのを見て、聡子がニコニコと笑顔で言った。それを無感動な目つきで一瞥した先生は、聡子の向かい側の席に腰を下ろして、一言告げた。
 「誰があんたに持ってきたと言った」
 「……」
 「透子、葛餅貰ったから、食べなさい」
 「やった。いいの?」
 「太りたいならな」
 「太っちゃおっと」
 先生が差し出したお皿を受け取り、透子は嬉々として葛餅を堪能し始めた。隣に座る聡子の視線が痛いが、この際無視だ。
 先生がここまで態度を硬化させたのは、食事中の会話が原因だろう。
 『その年齢まで独身でいらっしゃるのには、何か原因でも? 絵に没頭しすぎて、女性に向けるべき情熱がなくなっちゃったとか…』
 聡子のセリフに、先生は露骨に不愉快な顔をした。そして、不愉快になった先生は徹底的に相手を叩きのめさないと気が済まないタイプである。
 『…若い頃、結婚半年足らずで妻に先立たれましてね。それ以来独りですよ。ところであなたも、私の心配をしている場合ではない年齢とお見受けしますが、何か深刻な問題でも抱えておいでですか』
 …この組み合わせは、水と油かもしれない。早く慎二が帰って来てくれないだろうか。透子は、葛餅を口に運びながらまた時計を見た。

 「ただいまー」
 ちょうどその時、待ち侘びた声が玄関から聞こえ、透子はフォークを放り出して立ち上がった。
 「慎二っ」
 「ごめんごめん」
 玄関で靴を脱いでいた慎二は、ちょっと疲れたような表情で振り返り、透子に苦笑いを向けた。
 「聡子さんは?」
 「まだいるよ。…慎二、大丈夫? 凄く疲れてるみたいだけど」
 「あー…、大丈夫」
 そう答える慎二の声は、やっぱり疲れている感じがする。ほんのりアルコールの香りがするところを見ると、どうやら酒を飲まされてしまったらしい。
 「はるかさんは?」
 「…まだ、トラブル解決中。事情説明してあるから大丈夫だよ」
 はるかがどんなトラブルを抱えているのか分からないが、その助太刀を中断してまで慎二は帰って来てくれたのだ。申し訳ないな、と思いつつも、こちらを優先してくれたことにちょっと安堵した。
 「…ごめんね」
 透子が、少し体を縮めるようにしてそう言うと、慎二は「気にするな」と言う風にポン、と透子の頭に手を乗せて笑ってくれた。

***

 「お待たせしました」
 先生との間で静かな無言のバトルを展開していた聡子は、そう言って居間に顔を出した慎二を、不機嫌極まりない顔でジロリと睨んだ。
 「待たせてもらったわよ」
 「遅いぞ、工藤」
 先生にまで睨まれてしまうと、これでも急いで帰ってきたんだけどなぁ、という本音は、ちょっと口に出し難い。慎二は無言で先生の隣に腰を下ろした。
 「へーえ…。あんたも、そういう格好すると、それなりなのねぇ」
 妙に感心した声で聡子が呟く。その隣で、透子の眉がピクリと動いたが、聡子は気づいていないようだ。
 「神戸で会った時は、“拾ってやって下さい”って札つけられて道端に置き去りにされた捨て猫みたいに見えたのにね。あははははは」
 「…ははは…」
 どういうリアクションをすればいいのか分からない。一応笑い返しておいたら、隣で先生が「怒れよ…」と小さな声で突っ込みを入れていた。
 「あの、それで…大事な話っていうのは」
 これでもし「別に何もないの〜」などと言う展開になったら、先生も透子もぶちキレてしまうんだろうな、と思いながら慎二がそう切り出すと、聡子はちょっと居ずまいを正した。ちゃんと大事な話があるらしい。
 「実は、あの土地の話なんだけど」
 「土地?」
 「神戸の土地よ。姉さん一家が住んでたあの家が建ってた土地。父が亡くなって、姉の所有する土地ってことになってた筈だから、今は透子の土地ってことよねぇ?」
 また随分とドロドロした話をしに来たものだ。嫌な予感に、慎二は眉をひそめた。
 「その筈ですけど…。権利書は燃えちゃったんで、役所でいろいろ手続きさせられましたから」
 「あの土地、どうする気?」
 「……」
 「透子、戻る気あるの? ないんだったら、私に任せてもらえないかな」
 慎二ではなく、透子の方に目を向けて、聡子はそう持ちかけた。
 「任せる…って?」
 硬い表情の透子とは対照的に、聡子は笑みさえ浮かべて話を進める。
 「贈与なり売却なり、つまり私に譲って欲しいってこと」
 「…叔母さんが住む、ってこと?」
 「まさか。住まないわよ、あんなとこ。でも、将来そこの土地持ってれば、小さなマンションの1つも建てて家賃収入で生きてくことはできるじゃない? 私も結婚する気ないし、将来のことを考えたいのよ。私が現役退くのは、短く見積もっても20年先だろうから、再開発も終わって、あの土地も今よりずっといい立地になるだろうしね」
 「あんた…なんて話を子供にしとるんだ」
 あまりにも現金な話に、先生が露骨に眉を顰めた。いや、先生じゃなくても、こんな話は眉を顰めたくなるだろう。子供相手じゃなくたって、あの現場にいる人々のことを考えたら不謹慎も甚だしい。
 「あら。私は透子が面倒な事に巻き込まれるのは気の毒だと思うからこそ言ってるのよ? あれだけ周辺が焼けちゃえば、再開発の何のと住民同士で問題になるのは目に見えてるもの」
 あっけらかんと聡子が言うと、先生は余計に眉を顰めた。そういう話をしてるんじゃない、と言いたいが、聡子はお構いなしだ。
 「それに、透子が神戸に戻る気でいるんだったら、この話はナシにするわ。透子の気持ち優先よ。たまたま手ごろな広さの土地があるから言ってるだけで、別にあの土地に執着してる訳じゃ」
 「―――いいよ」
 まだ続きそうな聡子の言葉を遮って、透子が、掠れた声でそう言った。
 大人3人の視線が集中する中、透子は、冷めきった顔をしていた。やや斜め下に落としていた視線を上げ、叔母を見据える。その目も白けきっていて、冷たかった。
 「財産なんていらない。贈与税払って、とっとと持ってっちゃっていい。私は神戸に戻るつもりなんてない。ここが今の私の家だもん―――叔母さんの好きにして」
 「透子…」
 「それと、うちの両親と紘太のお骨。神戸にある松原家の墓に―――おじいちゃん達のお墓に入れる筈が、震災でお寺もろともやられちゃったから、納骨堂にひとまず収めてるけど―――私が大人になったら、東京の井上家のお墓にちゃんと入れるから、心配しないで」
 「……」
 「おじいちゃんは寂しがるかもしれへんけど…」
 透子は言葉を切り、ちょっと寂しそうに微笑んだ。
 「いずれ叔母さんもそのお墓に入ると思うと、可哀想でお母さん達を入れられへんわ」
 「―――…」
 「…ごめん、慎二。あとは手続きとかの難しい話だろうから、私、先部屋に戻っていい?」
 疲れきったような透子の声に、慎二は当然、頷いた。それに応えるように透子は微かにニコリと笑うと、立ち上がり、居間を出て行った。
 一瞬戻った関西弁が、透子の心理状態を表している気がする。多分、この叔母に期待などしていなかっただろうが…それでも、こんな話を聞かされて、ショックを受けない筈がない。
 「俺も不愉快だ。先に失礼させてもらう」
 先生も憮然とした表情でそう言い残し、部屋に戻ってしまった。子供に金の話なんざするな、が先生の考え方なのだから、ああいう表情になるのも無理からぬことだ。

 聡子と2人きり、居間に取り残されて、その場には妙な沈黙の時が流れた。
 その沈黙を破ったのは、聡子の方だった。
 「―――ほんと、姉さんそっくりだわ、あの子」
 大きな溜め息と共に吐き出された言葉は、何故か酷く傷ついたような口調だった。
 「優等生で、人に甘えるってことを知らなくて―――私なんて、いっつもバカにされてた。どうりで懐かない訳よね。最悪に仲の悪かった姉さんのコピーだもの、透子は」
 「……」
 「震災の後に駆けつけた時だってそう―――この世でたった1人の肉親だっていうのに、あの子、ずっとあなたの手を握ったまま、警戒しきった目をして私のこと見てたわ」
 「…それが悔しくて、こんな話しに来たんですか」
 「バカね。そんな訳ないでしょ」
 聡子は呆れたような目をして慎二を睨んだ。
 「本当に、言ったまんまよ。もし戻る気がないなら…って。その方があの子にも私にも好都合だと思ったのに…」
 「…余計なことまで細かく喋るから、誤解されるんですよ」
 「―――何かしなきゃ、と思ってるのは、嘘じゃないのよ」
 落ち込んだように俯く聡子を見て、聡子という人を、なんとなく理解できた気がした。
 不器用で、どこかピントがずれてて―――仲良くなれなかった姉と透子が重なって見えて、感情を歪ませてしまって。でも、ただ1人残された肉親を他人に預けっぱなしにして平然とし続けられる程、厚顔無恥でもない。けれど、透子のために何をすればいいのか分からないし、何かしなきゃという思いの表現方法も分からない。
 誤解されやすい人なのだろう、この人は。透子の母とうまくいかなかったのも、案外、このちょっとずれてる部分が原因なのかもしれない。
 「…まあ、いいわ。あの子がそう言うんなら、受けて立つまでよ。土地は譲ってもらうわ。贈与関係の手続きをしたいから、日本に帰っている間に時間とってもらえるかしら、後見人さん?」
 「え? あ…、ちょっと、待って下さい」
 すっかり話は済んだものとして先に進めようとする聡子を、慎二は慌てて制した。
 透子の意志を尊重するのは勿論だが―――慎二には1つ、考えがあった。どうしても譲れない考えが。
 「もし、よければ―――取引、しませんか」
 慎二にしては珍しい、ニッ、という強気な笑み。その笑みに、聡子は訝しげに眉をひそめた。

***

 ノックの音に、それまでベッドに突っ伏していた透子は、のろのろと顔を上げた。
 カチャリ、と音を立てて、ドアが開く。その隙間から、慎二が顔を覗かせた。
 「…大丈夫? 透子」
 「…叔母さんは?」
 「とっくに帰ったよ。入っていい?」
 コクリ、と透子が頷くと、慎二はほっとしたような笑顔を見せ、部屋の中に足を踏み入れた。とっくに、という言葉は本当らしい。慎二は既にスーツから普段着に着替えていた。
 「話は、ついたの?」
 「…うん、ついたよ。透子の悪いようにはしてないから、安心していいよ」
 「―――全く、何考えてるんだろうね。いくらもう9月も終わるからって、まだあれから8ヶ月だよ?」
 「そうだね」
 透子の憤慨を受け止めるように、慎二はふわりと微笑んだ。透子が何に傷つき何に憤りを覚えたのか、ちゃんと分かってくれてる笑顔だと、透子は思った。

 行き場を失っていたものが、ストン、と受け止めてもらえるような、安心感。
 それまでこらえていた涙が、ポロリと零れ落ちた。

 「…おいで」
 手を差し出され、感情がピークに達してしまった。
 透子は、慎二の胸にしがみつくと、この家に来た日の夜以来と言えるほどに激しく泣き出した。抑えよう抑えようとしても、嗚咽が漏れる。何度もしゃくりあげる肩を、慎二はずっと抱きしめていてくれた。

 ―――こうやって抱きついて泣けるように、普段着に着替えてくれたのかもしれない。
 スーツじゃ、汚しちゃいそうで泣けなかったに違いない―――焼け爛れたような頭の片隅で、透子はそんなことを、ぼんやりと思った。


←BACK二十四季 TOPNEXT→


  Page Top
Copyright (C) 2003-2012 Psychedelic Note All rights reserved. since 2003.12.22