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マンションのエントランス前をウロウロしていた透子は、近づいてくるヒールの足音にピタリと立ち止まった。
暗がりに目を凝らすと、ジーンズにTシャツというラフスタイルの長身の女性の姿が微かに見えた。
「佐倉さん!」
思わず声を上げると、ヒールの音が一旦止まり、続いて急ぎ歩きのような速さで足音が近づいた。やがて、エントランスの灯りに照らし出された姿は、間違いなく佐倉だった。びっくりしたように、目を丸くしている。
「…えっ、透子? どうしたの、こんな時間に」
「慎二はどこ!?」
佐倉の声を無視して詰め寄る。すると、佐倉のびっくり顔が怪訝そうな顔に変わった。
「慎二君がどうしたの」
「留守中のことは佐倉さんに頼んであるって―――知ってるんでしょう!? 慎二、どこに行ったの!?」
「留守中って…ああ、何、もう行っちゃったの? 放浪の旅に出るのって、週明けからだって聞いてたけど」
「ねぇ、行き先は…!?」
焦れてきて、つい声を荒げてしまう。そんな透子に、さすがの佐倉も異常を感じたらしく、その顔を少し強張らせて眉を寄せた。
「何、どうしたのよ一体」
「慎二が…帰ってこないの。何かの冗談だと思いたくて、昨日一晩待ってみたけど…帰ってこないの」
「旅行に行くって話は聞いてるんでしょ?」
「うん。でも、行き先は教えてもらってないし、いつ帰るかも…。佐倉さん、聞いてるんでしょう? 頼まれたってことは、慎二から詳しい話を聞いてるんでしょう?」
「残念だけど、あたしも知らないのよ。というか、あの話し振りからすると、本当に行き先も期間も決まってない感じだったけど。いつ帰るか分からないから、当面の仕事は片付けておいたって言ってたわよ?」
そう答える佐倉の口調は、決して嘘を言っているようには思えない。ということは、佐倉も本当に知らないのだろう。
「…ど…どうしよう…」
「―――ちょっと。一体何があったのよ。大の大人の男が、ちゃんと“旅行だ”って言って、仕事もきっちり片付けた上で出掛けたんだから、そんなに蒼褪めることもないでしょうに」
口元に手を置き、蒼褪めた顔で微かに震えている透子を見かねたのか、佐倉が透子の背中を宥めるようにさすった。途端―――堪え切れなくなって、涙が零れてしまった。
「でも…っ! でも、慎二がもし死んじゃったら…っ!」
「…はぁ!? なんで慎二君がいきなり死んだりするのよ」
「だ…だって、私、知らなかったんだものっ。まさか―――まさか、多恵子さんが―――っ…」
「―――…」
その言葉を聞いた瞬間―――今度は、佐倉の方が蒼褪めた。
***
「はい…はい、そうですか。分かりました。…いえ、急ぎの用事ではないですから。ええ―――はい、失礼します」
日頃の声のトーンとは全く違う声色での電話を終えた佐倉は、受話器を置くと同時に大きな溜め息をついた。
「何て?」
待ちきれず透子が訊ねると、振り向いた佐倉は軽く肩を竦めた。
「編集部の方には、11月号の分まで入稿済み。つまり9月入稿分までは仕事がしてあるってこと。…今年の初め頃から、今年中に海外に絵を描きに行くって伝えてたみたい」
「…パスポート持ってないのに、海外行く訳ないじゃない」
「仕事柄、その方が通りが良かったんでしょうよ。とにかく、9月中には戻らないと10月の原稿が落ちるのは確実ね」
では、9月中には戻る気でいるのか―――そう安心してしまっていいのだろうか、と、透子は目線をテーブルの上に落とし、考え込んだ。
「ところで、夕飯は食べたの、透子」
「…ううん。食欲ない」
「―――分かった。苺なら食べられない? ちょうど昨日買ったのが1パック丸ごとあるから」
透子の返事を待たずに、佐倉はキッチンへ向かい、冷蔵庫を開けた。その様子を一瞥した透子だったが、結局、またテーブルの上に視線を落としてしまった。
昨日の朝―――慎二が出て行ってしまったことに気づいた透子は、すぐに追いかけて、慎二の姿を探した。けれど、一体何十秒、何分あの場で呆けていたのか、既に見渡せる所に慎二の姿はなかった。地下鉄の駅まで行ってみたが、やはり見つからなかった。
半ば足を引きずるようにしながら家に戻ると、ローテーブルの上に、手紙と封筒が置いてあった。
『探し物を見つけに行きます。
どこにあるか分からないから、行き先は言えないけど、危ない場所には行かないから心配しないで下さい。
家賃や公共料金は問題ないし、生活費もいつも口座から下ろしてもらえば大丈夫だと思うけど、念のため当座の現金を残しておきます。
勝手なことして、本当にごめん。昨日言ったとおり、佐倉さんに後のことは頼んであるから、何かあればすぐに彼女に連絡して下さい』
銀行の口座には、年内一杯は生活に困らないだけのお金がきちんと残されていた。封筒の中に入っていた現金は、その金額から察するに、多分絵を売ったお金だろう。慎二の部屋を見てみたところ、いつも机の上に乗っている画材の類が無くなっていた。それ以外のものについては、さすがに透子にも分からなかった。
子供絵画教室は、やはり「海外に絵を描きに行く」という理由で、3ヶ月間他の先生に代講に入ってもらうことになっているらしい。雑誌の仕事は、透子も関係者と面識があるので、さすがに透子が電話したのでは心配をさせてしまうと思い、佐倉に代わって電話してもらった。が、こちらも9月までの仕事は既に片付けているらしい。
バイトを辞めた理由が、はっきりと分かった。あのシリーズものの仕事を請け負うため、というより、今回の計画のためだろう。バイトばかりは前倒しで仕事をする訳にもいかない。バイトを辞める分の穴埋めをするためにあの仕事を請け負った、というのが本当のところらしい。
…見事なまでに、計画的犯行。
「今では透子の方が精神的にはオレより大人な位だし―――でも、毎日一緒に寝起きしている状態だと、オレも透子も引きずられちゃうから。…ちょっと、透子には厳しいかもしれないけど」
慎二はそう、佐倉に言ったという。
顔を見れば、泣いて縋る透子に結局は甘い顔をしてしまうのが分かっているから、いない間に白黒つけろということらしい。透子の気持ちを分かっている癖に、そんなことを言う。鬼、悪魔、最低、冷血漢、偽善者―――ありとあらゆる罵詈雑言が頭に並ぶ。行き先も告げず、いつ帰るかも分からない状態で放っておけば愛想を尽かすとでも思っているのだろうか。
何を探しに行ったのだろう、慎二は。
まさか今更、車の轍を辿ってどこまでも行ってしまった訳ではないだろう。そこにはきっと、あの人が―――多恵子が関わっている筈だ。そう感じるから、余計落ち着かない。
「―――大丈夫。そんな顔しなさんな。慎二君の考えることって、いつもよく分からないけど…透子が心配しているようなことは、絶対ない。あたしが保証するから」
ガラス製の器に盛り付けた苺をテーブルの上にコトリと置き、佐倉は慰めるように少しだけ笑った。けれど、目が本当には笑っていないこと位、透子にだってすぐ分かる。佐倉も、不安を覚えている―――それを誤魔化すためか、それとも透子にも食べるよう促すためか、佐倉は苺を1つ摘み、口の中に放り込んだ。
「ん、結構イケる。透子も食べてみなさいよ」
食欲なんて、欠片も湧いてこない。それでも透子は、苺を摘んで、気の進まない様子でそれを口に入れた。
甘酸っぱい味が、舌の上に広がる。美味しい、と感じるよりも、甘酸っぱさだけをダイレクトに感じる。味覚って心に随分左右されるんだな、と、頭の隅でぼんやり思った。
「…ねえ、透子」
一応苺を食べ始めたことに安堵したのか、透子の向かい側に腰を下ろした佐倉は、じっと透子の目を見据えて話を切り出した。
「慎二君の仕事の状況が掴めたところで、改めて訊くけど。多恵子のこと―――透子は、誰に聞いたの?」
「……」
「慎二君、な訳ないよね? あたしとの会話の中ですら、多恵子の名前は滅多に出さない人なんだから」
「―――慎二が、夢にうなされて、名前呼んでたの。“多恵子”って。聞いたのは2回…どっちも、7月5日」
「…7月5日、か」
忌々しそうに眉を顰めた佐倉は、大きな溜め息と共に呟いた。が、ストレートの髪を鬱陶しそうに掻き上げると「それで?」と透子に続きを促した。
「それと…卒業証書。偶然見ちゃった。多分、多恵子さんが慎二に送ってきたやつだと思う。それまでも、多恵子さんは慎二の恋人なんじゃないかな、と思ったてたけど…あれで、確信したの」
「悪趣味なキスマークが入ったやつでしょ」
「佐倉さん、知ってるの?」
「ハ…、知ってるも何も、目の前で作ってるの見たわよ。何バカなことしてんの、って思ったけど―――結局、あれが、慎二君を東京に呼び戻す羽目になった訳か。…皮肉な話」
どうやら佐倉は、今の説明だけで、透子が一城に入学した経緯を察したらしい。疲れたように笑う佐倉を見て、やはり慎二は東京に戻ってくるべきではない人間だったのだろうか、と少し不安になった。
「多恵子が死んだって話は、慎二君から聞いたのよね」
「うん。でも…ただ死んだとしか聞いてない」
「死んだ、か…。推測で言ってる訳じゃないな、その言い方だと」
「推測?」
妙な話に、思わず眉をひそめる。透子の当惑に気づいた佐倉は、ちょっと苦笑し、また溜め息をついた。
「頑張ったんだけどなぁ…慎二君にはバレないように。嫌な予感はしたのよ、成田って名前が出てきた時。なんで喋っちゃったのかしら、あいつ」
成田―――透子の脳裏に、半年ほど前に1度だけ会った人物の顔が思い浮かんだ。グループ展であった、あの男の人だ。
「あの、佐倉さん…どういうこと?」
「…多恵子のね、遺言だったのよ」
「遺言?」
キョトンとした顔をする透子に、佐倉は少し言葉を切り、ゆっくりとした口調で告げた。
「“死んでも、シンジには知らせないで。絶対に言わないで”―――多恵子があたしに託した唯一の“遺言”」
「……」
「だからあたしは、多恵子が死んだ時も慎二君の行方を捜したりしなかったし、慎二君と再会しても多恵子が死んだとは一切言わなかった。多恵子から残された言葉はそれだけだったし、それに…透子がいたしね。多恵子が死んだと知った時、慎二君がどういう行動に出るか怖かったのよ。透子がまたひとりで取り残されたりしたら―――そう思ったら、言えなかった」
「ま…待って」
頭が、混乱する。
“遺言”、“死んだ時”、“行方を捜す”―――妙な言葉に、頭が混乱する。こめかみを押さえた透子は、一層眉を寄せ、佐倉の目を凝視した。
「多恵子さんは―――多恵子さんは、いつ、亡くなったの?」
「…大学を卒業した年の、12月。奇しくも震災の1ヶ月前ってことね」
「…病気、だったの?」
佐倉の目が、暗く陰りを帯びた。
「まあ、一種の病気かもね」
「……?」
「―――多恵子は、自宅のマンションの屋上から飛び降りたのよ。つまり、自殺」
心臓が、痙攣を起こした。
脳裏に甦ったのは、卒業生名簿に書かれた住所を手掛かりに訪れた、あの白壁のマンション―――あそこに彼女がいなかった意味を理解した透子の背筋に、冷たいものが走った。
***
飯島多恵子は、佐倉の、高校時代からの親友だった。
自由奔放な性格、人を小ばかにしたような態度、くるくるとよく変わる表情―――自分のことを「僕」と呼び、面白い事があるとケラケラと盛大に笑う。ジャズが大好きで、歌わせればプロのジャズシンガー顔負けの迫力満点の歌を披露してみせる。
多恵子は、鮮烈なイメージの少女だった。灰色一色に塗り籠められた高校生活の中、彼女だけ、全然別の色をしていた。
彼女が最初に手首を切ったのは、高校1年の春休み。
それ以外にも、睡眠薬を大量に飲んだり、酔った勢いを借りて2階の窓から落っこちたり。お堅い進学校にあって、多恵子は非常に評判の悪い生徒だった。抜群に成績が良かったから放校処分にはならなかったが、そうでなければとっくに学校から追い出されていただろう。
そう―――彼女は、高1の時既に、筋金入りの自殺志願者だった。
けれど、思春期によくある狂言やヒステリーでない。2度目のリストカットの時、多恵子は本当に死の一歩手前まで行ったのだ。この子は本気で死ぬ気だと、その時、佐倉は悟った。
理由は、分からない。誰が訊ねても答えなかった。専門医にさえ、多恵子の心を読むことはできなかった。
親の職業は医師で、多恵子の家は白亜の立派な家だった。親の借金返済のために高校時代からモデルをやっていたような佐倉の目には、多恵子の家庭はとても恵まれたものに見えた。多恵子の母は、多恵子とどことなく似た顔をした、でも多恵子とは全く違う優しげな愛らしい笑顔の人だった。多恵子とは親子と言うより姉妹のように仲が良く、家庭内不和などなさそうに思えた。
裕福な家庭に育ち、学業は優秀、歌の才能にも恵まれて、友達もたくさんいて―――何故、死のうとするのか。理解しろと言う方が無理な話だ。高校時代の3年間で、佐倉は多恵子の自殺願望を理解する努力をやめた。
佐倉が慎二の存在を知ったのは、大学3年の5月のこと。一緒に仕事をする筈だったモデルが怪我をして、急遽代役を探さなくてはいけないという話を多恵子にした時だ。
「ふーん…。それなら1人、心あたりあるよ?」
あっさりと言う多恵子の言葉を、佐倉は素直に解釈したりはしない。多恵子は一筋縄ではいかない奴なのだ。疑いの眼差しで多恵子を睨んだ。
「言っとくけど、あたしのお眼鏡に適うだけのルックスで、カメラマンの注文にも忠実な、何より社会常識のある奴でないと駄目よ? あんたと同じ常識レベルの男は願い下げだからね」
「あっはは、大丈夫。佐倉なら、思わず家の中に飼っておきたくなっちゃうような奴だからさ。顔綺麗だし、性格いいし、最高に癒し系な奴だよ。あ、ただし、お持ち帰りは禁止ね」
「…何。珍しく随分持ち上げるじゃない。多恵子のお気に入り?」
「勿論。スペシャル級に」
多恵子は、ラッキーストライクの煙を吐き出しながら、ニヤリと笑うと意外なことを口にした。
「なんたって、シンジは僕の初めての“男”だからね。いくら佐倉ちゃんでも、そうやすやすと渡す訳にはいかないよ」
出会ったのは大学に入って間もなくだと後から聞かされた。2年間もその事実を知らずにいた佐倉の驚愕は半端ではなかった。
あの多恵子と付き合ってるなんて―――どんな奴か、とくと拝見させてもらおうじゃないの。
そんな挑戦的な気分でいた佐倉は、目の前に現れた慎二を見て、不覚にも「なるほど」と思ってしまった。
癒し系と表現した多恵子の気持ちが、なんとなく分かる。5月の空にふわふわ漂う白い雲みたいに掴み所のない笑い方に、佐倉もつられてへらっと笑ってしまいそうになるのだから。
これは、
一体何者なのか、どういう経緯で知り合ったのか、何も知らないけれど―――とりあえず佐倉は、慎二という存在を歓迎した。年が明け、冬休みの間に慎二が多恵子の住むマンションに転がり込み、2人が同棲し始めたと聞いても、親友を独占されたのは面白くなかったが、まあいいんじゃない、と思った。
だから―――同棲スタートからさほど経たない3月の初旬、慎二が尾道に行ってしまうと聞かされ、酷いショックを受けた。
「一体どういうことよ!? キミがいなくなったら、一体誰が多恵子を止めるのよ!?」
バイト先に押しかけて詰め寄る佐倉に、慎二は困ったような曖昧な表情を返すばかりだった。
「…ごめん。佐倉さんの期待に添えなくて。オレ、多恵子を止めるだけの力なんてないんだよ」
「何それ。止められないって諦めたから、多恵子と別れる訳!?」
「……」
「多恵子を見捨てて逃げる気!? 惚れた女なら、諦めないで引き止めてみせなさいよ、この弱虫っ!」
言葉の限りを尽くして慎二を詰り倒した佐倉は、慎二が尾道に経つ日も、決して慎二の見送りには行かなかった。
裏切られたような気がした。
慎二も、自分や仲間と同じ、多恵子を支え、守り、救おうとしてくれる仲間だと…そう思って、密かに親近感を持っていた。だからこそ、何の説明もせず尾道へ行ってしまった慎二を、多恵子から安楽の場所を奪ってしまった慎二を、佐倉は恨んだ。
そんな佐倉をよそに、多恵子はケロリとしていた。
「バッカじゃないの、佐倉。シンジは元々自由人じゃん。ずっと一緒にいると思い込んでる方が間違ってるんだって」
そう口にする多恵子の本心を知るのは、もっと後のこと―――多恵子が死んでからだった。
「多恵子はね。死ぬ時、ポケットの中に、遺言を残してたの。親しい人それぞれに」
席を立って、奥の部屋に消えていた佐倉は、ダイニングに戻るなりそう言い、透子に小さな紙切れを差し出した。
話の流れから、それが多恵子が佐倉に宛てた“遺書”であることは容易に想像がつく。躊躇うように手を引っ込めかける透子に、佐倉はもう一度その紙を押し付けた。
ちょうど、手帳を破り取ったような紙切れ―――何かに挟んであったのか、皺ひとつなく綺麗に伸ばされている。眉をひそめた透子は、一度唾を飲み込むと、その文面に目を走らせた。
エキセントリックそうな性格とは対照的に、多恵子の字は思いのほか達筆だった。大人びた、ハネ・トメのしっかりした文字が並ぶ。
『佐倉のことだから、僕が死んだら、真っ先にシンジを捜そうとすると思う。
でも、僕が死んでも、シンジには知らせないで。シンジをここに居られなくさせたのは僕だから。シンジとの約束、最後まで守りたい。だから、絶対に言わないで。
部屋にある腕時計、佐倉にあげる。佐倉の趣味じゃないだろうけど、僕が一番好きだったやつだから、形見に持って行って』
「“約束”…?」
「…その意味は、あたしにも分からない」
透子の手から“遺書”を抜き取り、佐倉は小さな溜め息をついた。
「ただ、分かったのは―――多恵子は、全然平気じゃなかったってこと。慎二君が尾道に行ってしまって、一番ショックを受けてたのは多恵子だったってこと。…自分のせいだって、慎二君といることより死を望んでしまう自分が悪いんだって、あれからずっと自分を責めてたこと、この遺書見て初めて分かった。全く―――死んでからじゃ遅いって言うのよ」
“遺書”を眺めながら、佐倉はそう言って、疲れ果てたようにふっと笑った。
その表情が、ふいに、哀しげに歪んだ。
「…でも、社会人になった途端、多恵子を避けるようになったあたしも、やっぱり慎二君と同じ“逃げた人間”なのかもね。止める自信がないから…仕事を理由に、多恵子から逃げたんだろうな、あたしも」
「佐倉さん…」
「そんなあたしに、こんな言葉残して…バカな奴―――…」
「……」
勝気で男勝りな佐倉の目から涙が零れ落ちるのを、透子は信じられない気持ちで眺めていた。
そして、気づいた。テーブルに両肘を突き、その手に半ば顔を埋めるようにしている佐倉の左手首に、革バンドが擦りきれた古びた腕時計が嵌められていることに。
―――この人…本当に、多恵子さんのこと、好きだったんだ…。
明らかに佐倉の趣味ではないその腕時計を見て、透子はそれを実感した。
実感した途端―――何故か、涙が出てきた。
誰かを残して死ぬって、罪なことだ―――そう思う自分もまた、両親と紘太に残された人間なのだと思い出し、余計、涙が出てきた。
***
2日経ち、3日経っても、慎二は帰って来なかった。
そんなに簡単に戻ってくる筈がないと覚悟はしていたから、それほどショックではなかった。とにかく、信じること―――慎二は必ず帰って来ると、そう信じて待つことだけを考えようと、透子は心に決めていた。
「けど、珍しいよなぁ、透子が2日続けて夕飯外なんて」
向かいの席でハンバーグステーキを平らげる荘太が、少し眉をひそめるようにしてそう言った。
「…ごめん、付き合わせちゃって」
「え? ああ、いや、別に迷惑してねーって。俺は大歓迎だぜ? 橋本もそうだろ?」
「当たり前だ」
透子の隣でサラダを平らげる千秋も、そう言って頷いた。
確かに、荘太も千秋も、滅多にない透子からのお誘いに、迷惑というよりむしろ嬉しそうな顔で乗ってきた。日頃、2人からの誘いを何度も断っている癖に、こういう時だけ付き合ってもらうなんて―――透子は、あまり味のしない鶏肉を口に運びながら、半ばうな垂れるようにして俯いた。
2人には、慎二が家にいないことを知らせていない。心配させるだけだし、まだ話せるだけの精神状態に透子がないのも事実だ。だから荘太は、事実とはちょっと異なる想像をしたらしい。
「工藤さんと喧嘩でもしたのかよ」
何故か楽しげにそう探りを入れる荘太に、透子は自棄になったように鶏肉を切りながら唇を尖らせた。
「…そんなんじゃないもん」
「あ。今、答えるのにちょっと間が空いたぞ。やっぱり喧嘩かぁ。もしかしてお前、主婦業放棄? あの人、自炊なんて出来るのかよ。何も作れなくて餓死しそうだよなぁ」
「小林。黙って食え。人の不幸を喜ぶ姿は、はっきり言って見苦しいぞ」
あからさまに嬉しそうな顔をする荘太を、千秋がギロリと睨んだ。透子に対する気持ちに区切りはついたものの、相変わらず慎二は荘太にとって面白くない人物らしい。けっ、という顔をした荘太は、それでも一応口を閉ざし、黙々とハンバーグステーキを平らげだした。
「でも、本当にどうしたんだ? 透子。昼もほとんど食べてなかったし…何かあったのか?」
昼休みも学食で一緒だった千秋は、透子の方に目を向け、少し心配そうに眉をひそめた。
「まだ工藤さんの仕事が忙しいとか?」
「…うん…まあ、そんなとこ」
「工藤さんの心配するのは透子の勝手だろうけど、それで透子が体を壊したんじゃ、本末転倒だぞ。レポートの提出期限も迫ってるんだろ」
「分かってる。そのレポートのせいもあって、ちょっと疲れてるだけだから」
食欲なんて、全然ない。でも、食べずにいたら倒れるのは必至だ。千秋を安心させるため、透子はニッコリ笑ってみせると、食べたくもない鶏肉を口の中に押し込んだ。
夜になって、ひとりきりで部屋にいると、玄関の方にばかり意識がいってしまう。
なかなか寝付けないので、かなり遅くまでレポートの作成に時間を費やしたが、その作業は遅々として進まない。時計を見ては玄関の方に意識を向ける―――その繰り返しばかりで、ちっとも集中できないからだ。
「…やぁめた」
結局今日も、日付が変わった辺りで諦め、MDデッキの再生スイッチを押して、ベッドに寝転んだ。
流れてきたのは、ほぼ毎日繰り返し聴いているジャズの調べ。
『―――ジョン・コルトレーンの“マイ・フェイヴァリット・シングス”だよ』
ジャズとは無縁そうな慎二が、何故この曲を知っていたのか…佐倉の話を聞いて、分かった。ジャズが大好きだった多恵子の影響だ。
短い期間とはいえ、一緒に暮らしていたことがあるほどの仲なのだ。多恵子が好きな曲を慎二が自然と覚えても当然かもしれない。透子にしたって、ジャズなんて全然聴かなかった癖に、慎二のあの一言だけで、この曲だけはこうして毎日聴いているのだから。
自殺―――自ら、命を絶つ。その望みにとり憑かれてしまった人。
ショックだった。多恵子の死の真相が、単なる病気や事故ではなく自殺だったという、そのこと自体も確かにショックだったが、それ以上に―――ドキリとさせられた。自分と慎二が出会った時のことを思い出して。
透子は、死のうとしていた。早く死んで、両親と紘太に会いたいと思っていた。実際、葬式を出した翌日、避難所を抜け出し、ガラス片で手首を切って自殺を図ろうとした。それを、すんでのところで阻止したのは、慎二だった。
透子の頬をひっぱたき、「馬鹿な真似はやめろ」と怒鳴る慎二は、一体どんな気持ちだっただろう。
自分が愛した人と同じ目をした透子が、その彼女と同じように死を望んでるのを知って―――何を思っただろう。
その時、既に多恵子は死んでしまっていたのだが…慎二は、それを知らなかった。その後もずっとずっと―――東京に戻る時だって、知らなかった。多分、グループ展で、あの成田という人から聞かされるまではずっと…多恵子が望みを叶えてしまったかどうか、半分疑いながら、半分祈りながら、ずっとずっと…。
「―――…っ…」
また、涙がこみ上げてきた。
駄目だ。慎二がいなくなってから、酷く涙もろくなっている。ちょっとしたことで、すぐ泣きそうになってしまう。ベッドに寝転んだまま、透子は両腕で熱を帯び始めた目元を覆った。
―――慎二…早く帰ってきてよ…。
何を探しに行ったの? どこまで探しに行ったの? 慎二がいなくたって、私が考えることっていったら、やっぱり慎二のことだけだよ。寂しいからって、誰かのところに行くことなんて、これっぽっちも考えつかないよ。
泣きながら思い出すのは、最後に慎二が残していったあのキス―――あの時の温かさを恋しがってまた泣き、いつしか眠りにつく。目が覚めれば、泣きながら寝たせいで頭がガンガンした。
泣き腫らした目を氷で冷やし、それでも誤魔化しきれないところは慣れないファンデーションで誤魔化す。そんな日が数日続いたけれど、やっぱり慎二は帰ってこなかった。
***
その電話がかかってきたのは、慎二が出て行ってから10日後の、火曜日。6月も残すところあと僅かとなった日の、夜だった。
『透子、今度の木曜日、暇ある?』
電話の向こうの佐倉の声は、妙に慌てていた。どうやら、仕事の合間に電話をしてきたらしい。
「木曜? 講義は2時半には終わるし、その日はバイトもないけど―――何? どうかしたの?」
『先々週の土曜日以降、慎二君に会った奴が見つかったのよ』
ドキン、と心臓が跳ねた。先々週の土曜日―――慎二が出て行った日だ。
「だっ、誰!?」
『久保田君ていう、あたしや多恵子の同期生。ほら、例の成田。あいつと仲良かったから、成田の連絡先を知りたくて電話してみたのよ。そしたら、先週の月曜日に慎二君と会ったって』
「どこで!?」
『久保田君の家の前で待ってたらしいのよ。あいつ、学生時代と同じとこ住んでるから、慎二君も覚えてたんじゃないかな。あ、勿論、都内よ』
―――じゃあ、慎二、わざわざその人に会いに行ったんだ…。
「慎二と仲良かったの?」
『あんまり。慎二君、成田とは個人的に飲みに行ったりしてたけど、あたしや久保田君とはほとんど付き合いなかったし…。ただ、久保田君は多恵子が一番懐いてた奴だから、何か久保田君に訊きたいことでもあったのかも』
「懐いてた?」
『卒業後も親しくしてたし―――それに、多恵子に最後に会ったのも、久保田君だしね』
多恵子と一番、親しかった人。
一体、何のために会いに行ったのだろう? 都内なら、今までだっていくらでも会いに行けた筈だ。なのに…よりによって、こんな時に会いに行ったということは―――もしかしたら、慎二が探しに行ったものと、関係があるのだろうか?
『透子の話したら、どうしても会いたいって。木曜の夜、仕事引けてから時間とれそうだから、って言ってるのよ。どう? 会ってみる?』
「会うっ!」
迷うまでもない。透子は即座に、そう答えた。
会えば、分かるかもしれない。慎二が今、どこで、何を探しているのかを。
その可能性に、透子は、慎二がいなくなってから初めて、心が浮き立つような感じを覚えた。
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