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: 五年目の向日葵(ひまわり) (4)

 インターホンを鳴らして15秒後、玄関のドアが開かれた。
 珍しい客に目を丸くする佐倉に、透子は紙袋を掲げて見せた。
 「これ、ありがとう。クリーニングから返ってきたから、届けに来たの」
 「おやま、律儀だこと」
 せっかくだからコーヒーでも飲んで行きなさい、という佐倉の勧めに応じて、透子は佐倉の部屋に上がり込んだ。
 確か、東京に引っ越して間もない頃に慎二と1度来たきりだと思うその部屋は、相変わらず機能的で合理的で無駄も飾り気もなかった。大量のファッション雑誌が壁一面の作りつけの本棚にびっしり並んでいて、床に置かれた円筒形の入れ物には、何に使うのか筒状に丸めたカラフルな布が大量に収納されている。まるでデザイン事務所かファッション雑誌の編集室のようだ。
 「それで? ちょっとはお役に立った? このスーツ」
 透子から受け取ったクリーニング済みのスーツと靴を床に置くと、佐倉はそう言いながらキッチンに立った。キッチンに立つ佐倉というのも妙な図だ、と思いながら、透子は勧められるがままにソファに腰を下ろした。
 「うん。一度、地方版の新聞社が取材に来た時、写真撮られてた。まともな服着てたの慎二だけだったから、他のメンバーから押し出されちゃって、本人は凄い困り果ててたけどね」
 「あっはは、他の連中も似たり寄ったりな訳だ」
 「それと…ビジネスには繋がってないけど、慎二の絵が欲しいって人、何人か来た。素人さんもいたけど、画廊の人とか美術関係者っぽい人もいたの。結局売りはしなかったけど、顔繋ぎにはなったかも」
 「なら、スーツで正解ね。ただの芸術バカじゃない、ちゃんとビジネスマナーもできる奴、って思わせるには、まずは服装からだから。…透子、アメリカンじゃなくても飲める?」
 「飲めるよー」
 ―――全く…佐倉さんも子供扱いするんだから。
 軽い調子で返事をしながらも、透子は内心、ちょっと不服だった。こう見えて、透子の味覚は結構渋い。好物はさんまの塩焼きだし、寿司は思い切りわさびが効いてないと物足りない、コーヒーだって本当に美味しい店ではブラックで飲む位に渋いのだ。
 「あ、そう言えばね。初日にね、慎二の知り合いの人が来てたみたい」
 今思い出したとでも言うように、透子は、コーヒーを用意する佐倉の背中に向かって言った。
 「知り合い?」
 「うん。なんか、偶然通りかかって、入ってみたら慎二の絵があってびっくりしたみたい」
 「ふぅん。誰? 高校時代の友達とか、共同生活してた悪友たちとか?」
 「分かんない。慎二は友達だって言ってた。確か成田さんて名前だったんだけど…」
 成田、という名前を耳にした途端、佐倉は、くるりと透子の方を振り返り、目を丸くした。
 「成田?」
 「確か、そう言ってた」
 「成田、って言ったら、あの成田かな…。顔は結構いけてるけど、超無愛想で性格悪そうな男じゃなかった?」
 「…そこまで分かんないよ。会ったの、ものの10分かそこらだもん。あ、女の人連れてた。真っ黒な長い髪した、すんごい色白な人」
 透子の説明に軽く眉を上げた佐倉は、コーヒー豆の入った缶をテーブルに置き、スタスタと本棚へと向かった。そしてその中から1冊の雑誌を手に取ると、その前の方のページを開いて透子に差し出した。
 「その女の人、この人じゃない?」
 「?」
 佐倉から受け取った雑誌を覗き込んだ透子は、そこに、あの日見た女性を見つけた。
 どこだろう―――深い深い、森の写真。全体がぼんやりと緑色に光って見えるほどに深い森の中、大木の幹を抱きしめるようにして、あの彼女がいた。穏やかな表情で目を閉じ、口元を柔らかく綻ばせているその顔は、小さい写真ではあっても彼女だと分かる。そして顔より何より…醸しだす空気が、やっぱりどことなく慎二を彷彿とさせる。
 「そうそう、この人!」
 「やっぱりね。この写真撮ったのが、成田よ。成田瑞樹。あたしの大学時代の後輩」
 写真の横に、“成田瑞樹”という名前も印刷されている。瑞樹―――生命力旺盛な若木をイメージさせる名前だ。偶然なのかもしれないが、この写真にピッタリな名前だな、と透子は思った。
 「この女の人は?」
 「この子は、確か藤井さんて名前で、成田の…彼女、なのかなぁ、多分。1度会ったことあるけど、詳しくは知らないな」
 「そっかぁ…。慎二に似てるな、って思ったんだけど」
 写真をまじまじと見ながら透子がそう言うと、佐倉は思い切り怪訝そうな顔をした。
 「そおぉ? 慎二君に似てるかなぁ?」
 「ふわっとしたムードとか、こういう自然が似合いそうなとことか…なんか、雰囲気似てない?」
 「うーん…よく分からないけど―――もしそうだとしたら、あの成田が慎二君と仲良かったのも頷けるな」
 「え?」
 キョトンとする透子に、佐倉はニヤリと笑ってみせた。
 「あのね、成田って筋金入りの一匹狼で、友達も恋人もいらねー、って奴だったのよ。ほら、慎二君がモデルのアルバイトしたことあるって言ったでしょ。あの時成田が、その撮影スタジオでアルバイトしてて、それで知り合ったんだけど―――ちょっと不思議だったのよね。あの成田が、なんで慎二君とだけはあっさり打ち解けたのか。なるほどねぇ…、元々、こういうナチュラリストに弱い訳だ、あの男は」
 「ふぅん…」
 ―――なるほど、そういう繋がりだったのか。
 そこにはやっぱり、あの多恵子が介在しているのだろうけれど―――多恵子抜きでも、彼と慎二は交流があったらしい。佐倉に対する時よりずっと、自然でくつろいだ笑顔を見せていた慎二を思い出し、納得した。
 「もう1回会えないかなぁ…。藤井さんて人、慎二の絵気に入ってくれて、凄く話が合いそうだったんだけど…」
 さりげなくそう呟く透子に、佐倉は残念そうに眉を寄せた。
 「あらら…タイミング悪いな。2人揃って、仕事でイギリス行ってる筈だもの、今」
 「え? 仕事で?」
 「成田のね。成田、ついこの前までシステムエンジニアだったんだけど、この雑誌の賞取ったのをきっかけに、結構有名なカメラマンに気に入られたみたいで―――アシスタントとしてイギリスに同行してんのよ。藤井さんもそれにくっついてっちゃったみたい。帰ってくるのは、5月の終わりだって」
 「なんだ…じゃあ、半年は会えないのかぁ…」
 ちょっと、当てが外れた。透子は溜め息をつくと、雑誌の写真にぼんやりと目を落とした。

 ―――本当の目的は、佐倉さんには言えないなぁ…。
 透子がこの2人に会いたいと思ったのは、確かにあの藤井という名の女性が気に入ったこともあるが、それ以上に…彼に、訊いてみたいから。彼が知る慎二のこと。多恵子のこと。何故慎二が夢にうなされるのか、何故かつての恋人らしき人の名をああも苦しげに呼ぶのか。
 同じ事を、佐倉に問いただそうと思った頃もあった。けれど…透子がそんな質問をしたという事実が慎二に知れてしまうのは避けたい。そう思ってやめたのだ。
 その点、成田という人は、あの日再会するまで慎二とは音信不通だった人物―――つまり、今、交流のない相手だ。その点で、佐倉よりずっと好都合な相手と言える。だから、佐倉にそれとなく頼んで、コンタクトを取ってもらおうと思ったのだが…。

 「…っとと、そうだ、コーヒー淹れないとね」
 コーヒーの準備をしている途中だったことを思い出した佐倉は、慌ててキッチンへと戻っていった。その後姿を流し見ながら、透子はもう一度溜め息をついた。

 これも、天啓なのかもしれない。
 もう多恵子には関わるな、と。少なくともこの前、あの絵は自分のために描かれたものだと信じることができた。だから―――それ以外は、もういいじゃないか、と。そう、神様が言っているのかもしれない。
 そう―――気にすることなどないのだ。多恵子のことなど。自分と同じ目をした彼女は“過去”だ。慎二の夢の中に時々現れては、透子の知らない理由で彼を苦しめているだけ…それだけの存在。気にしなくていい。彼女と慎二の過去なんて暴かなくていい。ただ自分のことだけ考えて、今の平和をひたすら維持することだけに努力すればいい。
 …なのに、何故―――こうも、こだわってしまうのだろう? それが解けないと、慎二のことなど一生理解できないと思えるほどに。

 もっと、慎二のことを知りたい―――恋した人に対する、当たり前すぎる欲求。
 出会ってから5年経とうとする今も、透子にとって慎二は、やっぱり謎めいた存在のままだった。

***

 その年の年末年始を、慎二と透子は尾道で過ごした。
 本間とはるか、そして6月に生まれた愛娘・明日香は、結局、あのまま先生の家で新婚生活を送っていた。2階の部屋が大幅にリフォームされて3人で寝起きできる大部屋となっているのを見た慎二と透子は、これではまるで先生が親みたいだな、と顔を見合わせて苦笑いした。
 「母は、明日香可愛さですっかりご機嫌なんだけど…父が、ねぇ」
 とはるかが溜め息をつくとおり、はるかの父だけがいまだに冷戦モードのままだ。年が明けば2000年―――せっかくのミレニアムなんだから、と先生が諭しても、先生以上に意固地で頑固な父は首を縦には振らなかった。毎年恒例の新年会は、本間と明日香が増えた分賑やかなものになったが、はるかの父がいない分、少し気まずい新年会でもあった。


 「外寒いけど、ここはポカポカしてて春みたいねぇ」
 縁側でぼんやり庭を眺めている透子は、その声に顔を上げた。
 見れば、はるかが、座布団を持ってきて透子の隣に腰を下ろしているところだった。その腕の中に明日香がいないのに気づき、ちょっと目を丸くした。
 「あれ? 明日香ちゃんは?」
 「叔父さんの“描き初め”のモチーフにされてるわ。竜さんが膝に抱っこしてポーズとらせてるの」
 竜さん、というのは、本間のことだ。2人の恋人時代を知らない透子からすると、はるかが本間をそんな風に呼ぶのはもの凄く違和感があるのだが、2人は凄く仲が良さそうで、思いのほかお似合いのカップルだ。多分、明日香がいなくても、遅かれ早かれ結婚していたんだろうな、と透子は感じた。
 「ポーズなんてとらせて大丈夫? まだ6ヶ月だよね?」
 「大丈夫よ、無茶な格好はさせてないから。でも、普段なら“高い高い”でも泣く子なのに、今日は全然泣かないのよ。機嫌よく笑ってるの。全く…あんな小さくても女の子よねぇ」
 「は?」
 「工藤さんにあやされて、ご機嫌なんでしょ、きっと」
 面白くなさそうに言うはるかに、透子は思わず吹き出した。確かに、むずかっている明日香に慎二が「はいはい、泣き止もうねー」と言って頬をつつくと、明日香はぴたりと泣き止み、慎二の顔を見ながらキャッキャッと笑ったりするのだ。
 「はるかさんの子供だから、慎二みたいなタイプが好みなんじゃない?」
 「やあねぇ。今から面食いじゃ先が思いやられるじゃない」
 「あははははは」
 そういうはるかも、結局結婚した相手は本間だから、さほど面くいな訳ではないと思うのだけれど。
 「ね。ところで…少しは、進展した?」
 少し透子との間合いを詰めて、はるかが訊ねる。その意味を察して、透子は曖昧に笑った。
 「ううん。あんまり」
 「そうなの? 透子ちゃん、随分女っぽくなったから、工藤さんとうまくいってるのかな、とか思ったのに」
 「別に…女っぽくなんて、なってないもん」
 そうは言うが、多少はマシになったのかな、と最近は思うこともある。大学で同じ講義を取っている男の子から、時々映画やコンサートに誘われたりするし、バイト先で声を掛けられたりもする。慎二の目には子供のままなのかもしれないが、一応、周囲の自分を見る目は、昔と変わったのかもしれない。
 「…あのさ、はるかさん。前から訊いてみたかったんだけど―――訊いてもいい?」
 「なぁに?」
 「ほら、前、言ってたでしょ? あの田村さんて人との出会いの話の時。好きな人を諦めようと必死になってた、って―――私がこの家に来る前に。あれって…やっぱり、慎二だよね? どうして諦めようとしてたの?」
 「―――ああ…やだなぁ、そんな話したんだったわね」
 そう言ってちょっと顔を赤らめたはるかは、崩していた膝を正し、座布団の上に正座し直した。
 「実は、工藤さんが尾道に来て2年目…だから、震災の前の年、の夏ごろにね。私の職場の同僚が、工藤さんを紹介してくれって私に頼んできたの。一番仲良かった子だし、私より綺麗で仕事も出来たから、実は私も…なんて言えなくて―――仕方なく紹介したの。彼女も頑張って、2、3回デートに誘い出してはいたみたいなんだけど…結局、振られちゃったのよね」
 「どうして?」
 「うん…その子が言うにはね。工藤さん、こう言ったんだって―――“自分はまだ前の彼女と別れたばかりで、暫くそういう気持ちになれない”って」
 前の彼女と別れたばかり―――…?
 キョトンと目を丸くした透子は、あるものを思い出していた。鮮やかなキスマークの入った、あの卒業証書―――94年3月。震災の前の年の卒業証書だ。でも、慎二が尾道に来たのは93年の春の筈。…一体いつ、慎二は多恵子と別れたのだろう?
 「尾道に来てから、ずっと工藤さん見てたけど…親しい女性がいる訳じゃないし、勿論付き合ってる女性がいるムードもなかったのよ。なのにそう言うってことは、東京にずっと忘れられない人がいるんだろうな、と思って…。尾道に来て1年以上経ってもそう言うほどに、その人のこと好きなんだな、と思ったら…私なんかじゃ無理だな、って諦めの境地よ。あの頃は特に自分に自信がなかったしね」
 「…そうなんだ…」

 ―――もしかしたら…他に好きな人が出来たとか、愛想が尽きたとか、そういう別れ方じゃないのかもしれない。
 まだお互い好きなのに、何か別れざるを得ない事情があって、仕方なく別れた相手なのかもしれない。だからこそ、何年経っても忘れられないのかも―――。はるかの話を聞いた透子は、初めてその可能性に行き着いた。
 でも…だとしたら、何故慎二は、多恵子に会いに行かないのだろう?
 それとも、もう会うことも許されないような事情を抱えているのだろうか?
 恋しい人に会えないなんて―――慎二は、辛くはないんだろうか…。

 「…やっぱり透子ちゃん、女らしくなったわ」
 考え込む透子の横顔を眺めながら、はるかはそう言ってくすっと笑った。
 「え?」
 「恋は女性を綺麗にするって言うけど―――ドキドキしたりうっとりしたり、そういうプラスの気持ちだけが原因じゃないんだと、私は思うの。嫉妬したり、疑ったり、自己嫌悪に陥ったり…そういうマイナスのものも、女の人を綺麗にすると思う。たくさんの感情を知れば知るほど、より女らしく、綺麗になってくんじゃないかな、って」
 「……」
 「悩んだり苦しんだりした分だけ―――今の透子ちゃんは、子供の頃より女らしくて綺麗になったわよ」
 からかうように額をつつかれた透子は、少し顔を赤らめると、はるかの視線を避けるように庭に目を移した。

 嫉妬したり、疑ったり、自己嫌悪に陥ったり…大人になるのは、本当に汚いことだ。
 けれど、そういった汚さを知ることも、綺麗な大人の女性になるには必要なこと―――はるかはそれを、透子に言いたかったのかもしれない。

***

 ―――寒い…。
 うたた寝をしていた透子は、背筋を駆け上る寒さに気づいて、ハッと目を開けた。
 レポートをまとめてるうちに、うっかり眠ってしまったらしい。見ると、レポート用紙に書いた文字の最後の方は、眠気のあまり透子自身にも読めないほど、ぐにゃぐにゃになっていた。慌てて消しゴムをかけたはいいが、何を書くつもりだったか思い出せない。仕方なく、その前の文字もキリのいい所まで消してしまった。
 時計を見ると、午前1時―――どうりで寒い筈だ。ぶるっと身震いした透子は、眠気覚ましのために脱いでいたカーディガンを羽織り、足元の電気ストーブを止めると、足音を忍ばせるようにして部屋を出た。ホットミルクかココアでも作ろうと思ったのだ。
 ふと見ると、慎二の部屋の扉の隙間から、僅かに灯りが漏れていた。ベッドサイドの白熱電球の灯りではない。この色はデスクライトの色だ。
 ―――まだ、お仕事中かな。
 どうせなら2人分作ろうかな、と思った透子は、慎二の部屋の扉に手を掛けた。
 「慎二―――…?」
 躊躇いがちにかけた声に、返事はない。ソロソロと扉を開けてみると、案の定、慎二は、机に突っ伏して眠り込んでいた。
 「…風邪ひいちゃうよ、慎二…」
 つい2分前まで、自分も同じ格好で眠っていたのだけれど―――苦笑いした透子は、慎二の部屋に入り、壁に掛けてあるダウンジャケットを手に取ると、それを慎二の肩に掛けた。
 机の上には、まだ彩色されていない下絵が何枚か散らばっていた。その絵柄から察するに、恐らく雑誌の表紙と挿絵の仕事だろう。紫陽花が描かれているということは、6月号あたりの絵なのだろうか。まだ2月になったばかりだというのに…少し、不思議な気がして、透子は眉を寄せた。

 最近の慎二は、仕事をし過ぎなのではないだろうか。透子はこの頃、ちょっと心配している。
 年明けと同時に、慎二は、編集部でのバイトを辞めた。その代わり、ちょうどオファーのあったシリーズものの本の表紙と挿絵の仕事を請け負った。全4巻のその本には、表紙を含めカラーイラストを合計40点も描かなくてはいけないのだという。バイトを辞めたのも、この仕事を請け負う心積もりがあったからのようだ。
 新しく請け負ったこの仕事は、最後の1冊の納稿が4月半ばだという。少なくともそれまでの間は、このペースで仕事をしなくてはいけないらしい。バイトよりはるかに高い原稿料が入るらしいが、こんな夜中まで描かねばならないほど忙しいのは、ちょっと考えものではないだろうか。
 子供絵画教室も、相変わらず週1回受け持っているし、画廊に置く絵も時々売れるので、また置かせてもらう絵を描いたりもしている。
 働きすぎなのでは―――やっぱり、そう思えてくる。
 仕事をしている時間を単純に足せば、会社員が聞いたら「その位で泣き言を言うな」と言う位の時間なのかもしれない。けれど…クリエイティブの仕事とは、結構、打ち合わせや実際の作業の時間より、試行錯誤している時間の方が長いのだ。なんだか、自分が大学に行っている間、慎二はずっと絵のことしか考えてないんじゃないか…そんな気さえしてくるほど、慎二はずっと絵ばかり描いている。
 一体、どうしてしまったのだろう―――なんだか、不安だ。
 第一、慎二らしくない。別に生活には困っていないし、最低レベルが維持できればそれで良い、という感覚は透子も慎二も同じだ。何故急に、こんなに仕事漬けになってしまったのだろう?

 電話で先生に相談しても、「珍しく工藤がやる気になってるんなら、そのままやらせとけ」としか言ってくれない。透子の不安は、先生には分からないらしい。
 「…そんなに働かなくていいのに…」
 溜め息をついた透子は、気持ち良さそうに眠っている慎二の髪をくしゃくしゃと掻き混ぜた。
 ―――慎二が仕事すればするほど、なんか、差が開いていく気がする。
 4月になれば、透子も3年生になる。より専門的なことを学ぶようになって、もっと難しいことも分かるようになる。できれば在学中に気象予報士の試験に合格したいと思っている。それに受かれば、かなり高い確率で、望む仕事に就くこともできるだろう。
 けれど…そうやって透子が成長してもなお、慎二は、透子が前に進んだのと同じ距離だけ、前に進んでしまう。それどころか、1つ大きな仕事をこなすたびに、その距離はさらに開いてしまうように思える。
 10年という年齢の差は、透子がどれだけ努力しても、縮まってくれない。いつまでも自分は、慎二にとって「10歳年下の女の子」のままだ。…そのことが、とても、辛い。

 「ん……」
 髪を触られたせいか、慎二がふいに目を覚ました。
 眉を顰めて、ゆっくりと目を開ける。そして、自分の頭の上にある透子の手に気づくと、慌てたように起き上がった。
 「うわ…、失敗。全然眠る気なかったのになぁ…」
 目を擦りながら、欠伸混じりにそう言う慎二に、透子は思わずクスクス笑った。
 「その割には気持ち良さそうに眠ってたよ? …まだお仕事するの? もう1時過ぎだよ」
 「もう少しだけね。透子こそどうしたの、この時間に」
 「レポートやってた。明後日が提出期限だから。ホットミルクかココア淹れようと思って部屋出たら、慎二の部屋の電気もついてるから驚いちゃった」
 「あんまり根詰めちゃ駄目だよ」
 「慎二もね。…ホットミルクとココア、どっちがいい? 慎二の分も作ってあげる」
 「んー…、ココアかな」
 「分かった」
 慎二に笑顔を返すと、透子はそっと部屋を出、キッチンに向かった。早くも、絵の続きを描くべく、背後の慎二が意識を集中しだすのを感じながら。


 片想いのままでも構わない。
 慎二があの人を忘れられないままでも構わない。
 こうして、小さい部屋で2人して過ごせれば―――ただ穏やかに、静かに生きていければ…それ以上のことは、我慢できる。たとえどんなに苦しくても、我慢できる。
 だから、慎二―――あんまり、不安がらせないで。

 慎二が、いつもの慎二じゃないと、不安で仕方ない。今ある小さな幸せを守ることさえ、なんだか危ういように思えてしまう。
 けれど、不安がっている自分を見せるのは、なんだか嫌だ。心の内がどうであれ、慎二にはできるだけ笑顔を見せたい―――透子は、理由の見えない不安を断ち切ろうとするように、いつもより少し荒っぽい仕草で、ケトルをコンロの上に置いた。


***


 「え…っ、まだ忙しい、って…」
 「…そうなの」
 溜め息混じりの透子のセリフに、千秋は目を丸くした。
 「でも、もう6月だぞ? 工藤さんを仕事の鬼にしてる仕事は、4月中旬で終わりだったんじゃないのか?」
 「そうなんだけど―――どういう訳か、なんか、忙しそうなんだよねぇ…。あ、千秋、この店寄るよ」
 和菓子屋の前で立ち止まった透子に合わせ、千秋が、押して歩いていたバイクをその店の前に停めた。この店の和菓子が、透子のお気に入りなのだ。

 透子が千秋を家に招くのは、かなり久しぶりのことだった。
 前回は、2年の春―――もう1年以上前だ。バイクを買ったばかりの頃で、ある日突然「バイクで送ってやる」と言われ、家まで来てもらった。後で聞いたら、荘太との件でごたついているのを密かに心配してのことだったらしい。
 今日も同じように、唐突に「送ってやる」と言われた。多分今度も、慎二のことで気を揉んでいる透子を気遣ってのことだろう。千秋は、学部が離れてしまった今も、こうして仲良くしてくれる。荘太同様、透子にとっては大切な友達だ。

 透子イチオシの和菓子を2人分買って、家までの道のりをのんびりと歩く。6月の陽射しは結構強くて、バイクを押している千秋は随分暑そうだ。
 「忙しい、って言ったって、倒れるほどの忙しさじゃないんだろう? なら、心配する事もないんじゃないか?」
 額の汗を手の甲で拭いながら、千秋が訊ねる。透子は、和菓子の入った紙袋を抱きしめるようにして、少し眉根を寄せた。
 「うん…、確かに人に言わせると“あれで普通の社会人レベル”だったりするんだけど―――ゆとりのない慎二って、なんか、変で。絶対あんなペース持つ筈ない性格なのに、なんでこんなに頑張ってるのか、その理由が見えないのが不安なの」
 「理由、ねぇ…。何か欲しいものでもあるとか?」
 「慎二って、物欲ほとんどないもん。家だって、私がいるから多少は新しいアパート選んだけど、本当は雨風凌げればなんでもいいや、って程度なんだから。時々、絵の題材拾いに1泊程度の旅に出ちゃったりするけど、その時だってどこで寝泊りしてるのか怪しいよ。私がいない時は野宿なんじゃないかって心配してる位だもん」
 「…逞しいんだか、人生捨ててるんだか、よく分からないな」
 結構裕福そうな家に育ってるみたいなのにね―――と、透子は心の中で呟いた。逆に裕福に育っているから、金品に対する執着心が薄いのかもしれないが。
 そう。慎二は、何かが欲しいから働くとか、もっといい暮らしがしたいから頑張るとか、そういうことを考える人ではない。だから、今やたらと仕事をしているのも、そんな目的のためではない筈だ。では何故―――それが、分からない。
 分からないと、不安になる。
 何故なら―――透子はもう1つ、不安を抱えているから。
 「物欲じゃないとしたら―――じゃあ、透子のため、かな」
 天を仰ぐようにしながら、千秋が呟く。その言葉に、透子は怪訝そうに千秋の横顔を見上げた。
 「私のため?」
 「例えば、学費とか」
 「学費は、なんとかなってるよ。4年間の授業料に手が届かなかった分は、バイトでかなり補ってるし」
 「そうか…。まあ、学費でないにしても、なんか、透子のためなんじゃないか?」
 「どうして?」
 「なんて言うか―――うまく言えないけど、あの人、自分のためにはさっぱり頑張りそうにないけど、透子のためならがむしゃらに頑張りそうに見える」
 「……」
 「東京に戻ったことだって、自分が戻りたかったと言うより、透子が東京に行くから、って理由が強いんじゃないか? 仕事も家も保障されていない状態だ。血縁でもないのに…普通は、なかなか決断できないと思う。それだけ、透子を大切にしてるし、透子のために頑張ってるってことなんじゃないか?」
 確かに―――そうかもしれない。でも、事実、透子は今お金に困っている訳でもないし、何か買いたいものがある訳でもない。心あたりがないのだから、そんな自惚れた想像が湧いてくる筈もないのだ。千秋は確信を持ったような目で言うが、透子は首を傾げるしかなかった。
 「しかし、透子も変な奴だな。それだけ工藤さんに大切にされてるのに、なんで思い切ってぶつかって行かないんだ?」
 「だって…」
 「いきなり転部するだけの度胸と行動力があるなら、ダメモトで告白すればいいのに」
 「…そんな訳にはいかないよ」
 唇を尖らせた透子は、軽く千秋を睨むと、思わず視線を落とした。
 「慎二に関してだけは、私、当たって砕けるつもり、ないもん。…砕ける位なら、今のままの方がいい」
 「臆病だな」
 「…うん」
 慎二に対してだけは、臆病すぎる位臆病。今手にしている幸せを守るだけで、精一杯だ。
 他の人って、どうなんだろう。普通、好きになった相手に対して、こんなに臆病になるものなんだろうか。もしかして自分だけ? ―――そう思うと、また自己嫌悪に陥りそうになる。
 「―――まあ、仕方ないさ。小林曰く、“透子の世界の中心”だからな、あの同居人は」
 落ち込んだ顔をする透子を見かねて、千秋は苦笑いを浮かべ、透子の頭にぽん、と手を乗せた。途端、片手だけで支える羽目になったバイクが一瞬グラついた。
 慌ててバイクを立て直す千秋の姿は、日頃の彼女らしくないコミカルさだ。落ち込みかけていた透子も、思わず吹き出してしまった。


 結局、もう一つの不安について、透子は千秋には言うことができなかった。口にしたら、その不安が的中してしまいそうで。

 けれど―――皮肉なことに、その瞬間は、その日の夜突然訪れた。

***

 「旅行?」
 キョトンと目を丸くする透子に、慎二は、ちょっと言い辛そうにしながらも頷いた。
 「今回は、ちょっと長くなるんだ。できるだけ早く出発したかったけど、留守中の分の仕事も先に片付けようとしてたら、結局今日までかかっちゃって」
 「じゃあ…仕事漬けになってたのって、旅行するためだったの?」
 「まあ、そんなとこ」
 理由は分かったが、いまいち納得できない。
 確かに慎二は、極たまに1泊2日程度の旅に出たりする。透子を伴うこともあるし、1人きりの場合もある。行き先は海だったり山だったり―――絵のテーマや季節の色を仕入れるための旅だ。透子が同行しなかった時は、必ず、行った先で見つけたものをお土産に持ち帰ってくれる。木の葉だったり貝殻だったり押し花だったり―――それを楽しみにしているから、透子も寂しがらずに待つことができた。
 でも、4月にあのシリーズものの本の仕事が終わってから2ヶ月近く、本当に仕事詰めの毎日だった。一体どれだけ留守にする気なのだろう―――眉をひそめた透子は、読みかけていた本をパタンと閉じると、透子の部屋の入口辺りに佇んでいる慎二の方へとベッドの上できちんと向き直った。
 「長い、って…長いって、どの位? 1週間、じゃないよね。先に仕事を片付ける必要があるってことは」
 「うん」
 「1ヶ月?」
 「…いや、その―――何日行って来るか、決めてないんだ。ちょっと、探し物をしてて…それ見つかるまでって思ってるから」
 「探し物、って?」
 慎二は、答えなかった。
 透子の視線を避けるように目を逸らすと、考え込むように少し眉根を寄せる。そして、暫しの沈黙の後、思い切って部屋の中に入ってきた。
 勉強机と対になった椅子をガタンと引き、そこに腰掛ける。ベッドの上に横座りしている透子は、立っている時より近くなった慎二の目線に一瞬ドキリとした。その目が、いつもよりずっと真剣味を帯びているから、余計に。
 「―――とにかく、そんな訳で、結構長い間留守にする羽目になりそうなんだ。今までは1日2日の留守だったから良かったけど…さすがに何日も透子1人この家に置いておくのはまずいかな、と思うんだ」
 「…別に、まずくないよ? 私、1人で待てるもん」
 「何ヶ月でも?」
 「……」
 「いつ帰ってくるか分からなくても?」
 ―――なんで、そんなこと言うの。
 嫌な予感が、体の奥底から浮かび上がってくる。ベッドスプレッドを握る手に、知らず力が入ってしまう。
 「実は、留守中のこと、一応佐倉さんに頼んであるんだ。旅行が長期になるようなら、透子と一緒に住んで欲しい、って。彼女も結構留守がちだけど、暫く東京を中心に動くみたいだから、透子に寂しい思いさせないと思う。部屋も余ってるみたいだし」
 「…いい。私、ここで慎二のこと待つから」
 「…長期になりそうだな、って透子が判断したら、って話だよ。…頼むから、佐倉さんとこに行って。勿論、他に行ける場所あるならそこでもいいよ。千秋ちゃんとことか、荘太君のとことか。その場合は、佐倉さんに行き先ちゃんと伝えてくれればいいから」
 「長い間でも構わない。私、ここで待つ」
 「だから、それは」
 「何ヶ月でも待つ。いつ帰ってくるか分からなくても、待つ。私、ここ以外に住む気なんてない」
 「…そんなこと言われると、心配で家空けられないよ」
 「心配なんてしないでよ! 私、1人でも平気だもん。平日は大学だし、前期のレポート作成でどうせ夜も遅くまで勉強机に向かってばっかりだし、休みの日も慎二いないんならバイト入れまくってお金どんどん稼ぐもん。寂しければ千秋とかに時々泊まりに来てもらうし…だから」
 「透子」
 きつめの語調で名前を呼ばれ、透子はびくん、と肩を跳ねさせ、口を噤んだ。
 困ったような顔をした慎二は、暫く黙ったまま透子の目をじっと見据えていた。説得なんてされるものか、と思って、透子もその目をじっと見返す。分かるから―――もしもこの留守中に自分が佐倉や千秋や荘太のところに身を寄せたら、たとえ慎二が戻ってきても二度と一緒には暮らしてもらえないと。そのつもりで慎二が佐倉に後を頼んだのだと、本能が察知しているから。
 やがて慎二は、ちょっと俯いて大きな溜め息をつくと、落ちてきた前髪を掻き上げながら顔を上げた。
 「…実はさ。去年の今頃から、考えてたんだ。これから先のこと」
 「…先のこと、って…」
 「透子は、もう20歳だし…あと2ヶ月もすれば21歳になるし。オレはもう後見人でも何でもない、透子にとっては他人でしかないだろ? だから、このまま一緒に住んでていいのかな、って」
 「何がいけないの」
 その先が聞きたくなくて、透子は咄嗟にそう口に出した。
 「別にいいじゃない。誰にも文句言われてないし、私にとっては、慎二に限らず叔母さん以外の人間は全員“他人”だもん。何がいけないの?」
 「…透子が問題ないと思っても、周りはそうは思わないんだよ。他に家族がいるとか、女同士だとかならまだしも…赤の他人の男とふたり暮らしなんて、誤解されて困るのは透子の方なんだよ?」
 「いいじゃない! 誤解する奴はさせとけばいいじゃない! 私は全然困らないもん。慎二は困るの? 誤解されるのが嫌なの?」
 「違うよ。そんなんじゃない」
 「じゃあ、なんで!?」
 やめておけ、と、心の中のもう一人の透子がブレーキをかける。けれど、それを無視して、透子は慎二の方ににじり寄った。
 「私、1人でここで待つ。慎二が帰ってきたら、ここでまた今まで通りに暮らす。それでいいじゃない…何が駄目なの? 慎二は私と暮らすの嫌なの?」
 「そんな訳ないって。オレは誤解されても困らないよ。でも…透子はいずれ困るようになるから」
 「ならないっ! 慎二は全然分かってないからそんなこと言うのよ!」
 「…分かってるよ」
 「分かってない」
 何かが、プツンと音を立てて、切れた。
 膝の上に置いた手をぎゅっと握り締めると、透子は、急激にこみ上げてきた涙を抑えようともせず、叫んだ。
 「分かってないっ! 慎二は全然分かってないっ! 私が一緒にいたい人も、誤解されたくない人も、慎二1人だけなんだから! だって…だって私は―――私が好きなのは、慎二だけだもの!」
 「…うん。分かってる」
 「違うっ! まだ分かってくれないの!? 私が言ってる“好き”は…」
 「分かってる」
 慎二の目が、少し悲しそうに、寂しそうに細められた。
 「…分かってる」
 「……」
 「分かってたよ―――透子の言う“好き”の意味は」
 「―――…」
 驚きに大きく見開いた透子の目から、涙が零れ落ちた。

 ―――頭の中が真っ白になるというのは、こういうことかもしれない。
 言葉を続けようと開いていた唇が、次第に震えだす。膝の上に置いた拳も、力を入れすぎたみたいに震え始める。心臓は動いているのだろうか…まるで血が通わなくなったみたいに、胸の中心から順に体がどんどん冷たくなっていった。
 慎二のセリフを、頭の中で何度も何度も繰り返す。単純なセリフ―――なのに、意味がうまく、飲み込めない。
 慎二に“好き”と言ったのは、19歳の誕生日の夜―――振られるのが怖くて、本気にされないのが怖くて、半ば誤魔化すようにしながらの言葉だった。
 “オレも好きだよ”という言葉に、本気には取ってもらえなかったと思った。本気に取ってもらえないのは、自分がそう仕向けてきたからだと思った。
 だから、もう、言葉にはできなかった。視線でしか…見つめることでしか想いを伝えることはできなかった。何も感じていないフリをしながら、毎日毎日、たった一言を飲み込みながら、慎二の傍にいたのだ。
 なのに―――分かっていた…?

 「い…いつ、から…」
 「…いつから、かな。“好き”って言われた、何日か後かな。ごめん。その場ですぐ察してやれなくて」
 この1年半以上もの間にあったいくつもの場面が、頭の中に甦る。
 慎二と一緒に神宮外苑の並木道、荘太にキスされて混乱したまま帰った夜、地学科に転部するのを決意した日、ひまわりの絵を見せられた去年の7月5日、佐倉の独り言に猜疑心を掻きたてられた日の喧嘩、そしてひまわりを描いた理由を教えてもらった冬の夜―――あの時も、あの時も、慎二はずっと気づいていたということなのだろうか? 透子の視線の意味に。透子が慎二に抱いている想いの正体に。
 「酷い…っ」
 「…うん。ごめん」
 「酷いよ―――…! 知ってて、なんでこんなこと言うの!? どうして追い出すようなこと言うの!? ずっと…ずっと、尾道にいる頃から慎二しか見えなかったのに、今更私が他の人好きになる訳ないじゃない…! 迷惑だから!? 私なんかじゃ恋愛対象にならないから!?」
 「…そんなんじゃないよ」
 「じゃあ何!?」
 涙が、止まらなかった。
 だから―――言葉も、止まらなかった。
 「私が…私が多恵子さんに似てるから―――だから、多恵子さん以上には想えないの!? だから、私じゃ駄目なの…!?」
 「……」

 慎二の表情が、凍りついた。
 困ったような表情が消え去る。信じられないものを見たような目で、透子の目を凝視する。その顔は、少し蒼褪めてさえいるように見えた。

 「…と…透子…なんで…」
 「知ってた―――知ってたの、ずっと前から。慎二が好きな人。慎二が今も忘れられない人。飯島多恵子っていうんでしょう? …慎二、夢にうなされて、多恵子さんの名前呼んでた―――私が高2の時の、7月5日」
 「……」
 「その次の年も、多恵子さんの名前呼んでた。それに、見ちゃったんだもの…多恵子さんの卒業証書」
 「―――それで、一城、か…」
 吐き出す息に混じってそう呟く慎二の口元に、自嘲気味な苦笑いが浮かぶ。けれど、透子はまだ止まれなかった。
 「大学で偶然多恵子さんの写真見て、ショックだった―――慎二が優しくしてくれるのも、一緒にいてくれるのも、結局私が多恵子さんに似てるからなんじゃないかって。多恵子さんの正体が分からないから…名前と顔しか分からないから、余計そう思えて苦しかった。…でも…でも、もういいの。多恵子さんの身代わりでもいいの」
 「透子…」
 「一生片想いでも、もういいの。傍にいてくれれば、それでいいの。慎二と一緒にいられないのが一番辛いよ―――慎二が誰かと結婚するまでの間で構わないから、一緒にいさせてよ。慎二がいないと、私―――私…っ…」
 「…もう、いいから」
 涙で視界が曇って、何も見えない。でも、慎二が椅子から立ち上がって、透子のすぐ隣に腰を下ろすのは分かった。
 ふわり、と。暖かい腕に、体が包まれる。涙でぐしゃぐしゃになった頬に、慎二のシャツの胸元が当たる。宥めるように髪を梳かれて、余計涙が止まらなくなった。
 「オレは、一度だって、透子を多恵子の身代わりと思ったことはないよ。でも…オレは駄目だよ、透子」
 無言のまま、狂ったように首を横に振る。
 「頼むよ、透子…。言っただろ? 透子より大切なものなんて、この世にないって。オレ、透子には、誰よりも幸せになって欲しいんだよ。このまま一緒にいたら」
 「やだ…っ! 離れたって一緒だもの…! 慎二以外の人なんて好きにならないもの…!」
 「…オレじゃ駄目なんだよ…透子」

 ―――どうして、駄目なの―――…?

 その疑問は、言葉にならなかった。ただ離れたくなくて、必死に慎二にしがみついて泣いた。
 頭の回線がショートしたみたいに、ひとつの言葉しか出てこない。あまりにその言葉を押し殺してきたから、行き場がなくなって、もう口から吐き出してしまわなくては生きていけなかったのかもしれない。

 「慎二が好き―――慎二だけが好きなの。お願い、一緒にいさせてよ―――…!」

 うわ言のようにそう繰り返しながら、透子はひたすら、慎二にしがみついて泣いた。
 涙も声も()れて―――ついには意識を手離してしまうまで。


***


 ガタン、という音に、透子はハッと目を覚ました。
 目を開けると、頬に使い慣れた枕の感触―――部屋着のままベッドに寝転んだ透子の体の上には、肌掛けが1枚掛けられていた。一瞬、自分の置かれた状況が飲み込めなかった透子だったが、昨日のことを思い出した途端、反射的に起き上がった。
 時計を見ると、明け方の6時…一体いつ眠ってしまったのだろう? いや、それよりも…慎二はどうしてしまっただろう?
 ―――それに、今の音は…?
 表情を険しくした透子は、ベッドから下り、部屋の扉を勢い良く開けた。
 すると、その音に驚いたらしい慎二が、靴を履く動作を止めて透子の方を振り返った。その格好は、明らかに外出する時の服装だ。
 「慎二…?」
 「―――眠ってる間に、行こうと思ったんだけどな」
 玄関に佇む慎二はそう言って苦笑した。その言葉の意味する所を察した透子は、玄関へと駆け寄り、慎二のシャツの裾を必死で掴んだ。
 「きょ、今日から行くなんて聞いてないっ! 来週早々にもって、そう言ってたじゃない」
 「…うん。気が変わったんだ。ごめん、勝手な真似して」
 「私が昨日、あんな事言ったから…?」
 「…そういう訳じゃないよ」
 きっと、それは、嘘だろう。昨日、あんなことがあったから―――来週まで一緒にいたら、余計透子が引き止めると思ったから、眠っている間に行ってしまおうと思ったのに違いない。
 けれど慎二は、本当に昨日のことなんて何とも思ってないみたいにふわりと微笑むと、透子と目線を合わせるように体を屈め、透子の頭をくしゃっと撫でた。
 「暫く戻れないけど、オレのことは心配しないで」
 「……」
 「多分透子、まだひとりっきりになったことがほとんどないから、凄く寂しいと思う。寂しくなったり、どこか具合が悪くなったりした時は、必ず佐倉さんか友達のところに行って。この家は、このままにしといていいからさ」
 「…待ってていいでしょう?」
 シャツの裾を掴む手に力をこめ、透子は縋りつくように言った。
 「慎二、出て行っちゃう訳じゃないんでしょう? 帰って来るんでしょう? だったら待ってる。ここでずっと、慎二のこと待ってる。いいでしょう?」
 「…ほら。オレ、こうやって透子のこと泣かせることしか出来ないんだからさ。…待つことないよ、透子。信じて待つのって、透子が思うよりずっと辛いことなんだから」
 不覚にも涙ぐんでしまった透子に、慎二は困ったような笑みを見せ、シャツの裾を掴む透子の手を離させようと、荷物を床に置いて透子の手首を握った。その行動に、これが最後のチャンスだと感じた透子は、必死に追い縋った。
 「た…っ、多恵子さんのとこに行くの?」
 透子の手を引き剥がす慎二の手が、一瞬、止まった。
 少し驚いたような目をして、慎二が同じ目線から透子を見つめる。その目に怯みそうになりながらも、透子は、震えそうな声で続けた。
 「多恵子さんの所に行っちゃうの…? もしかして慎二、もうここには帰って来るつもりはないの…?」
 慎二の目が、一瞬、動揺したように揺れた。肯定の意味か否定の意味か―――それを見極めようとしていた透子の心臓が、次の瞬間、止まった。

 透子の手を引き剥がした慎二の手が、透子の背中に回った。
 頭の上に置かれた手が、そのまま髪を撫でて、透子の後頭部を支えるように回される。驚いて透子が目を見開いた刹那―――唇が、重なった。
 「―――……っ…」
 唇に感じる温かい体温が慎二のものだなんて、すぐには信じられなかった。
 けれど、背中に回った手で引き寄せられ、更に強く唇を押し付けられて、実感した。夢じゃない、と。これは慎二の唇なんだ、と。
 透子は無意識のうちに目を閉じて、その体温をもっと感じ取ろうとした。何故、どうして―――そんなことより、ずっとずっと欲しかったものを自分に刻み込むことしか考えられなかった。

 どれ程の長さだったか…透子が息苦しさを感じる寸前で、唇は離れた。
 背中に回った手も、髪に差し入れられた手も、ゆっくりと緩む。恐る恐る目を開けると、至近距離に慎二の目があった。その、どこか哀しげな目を、透子は混乱したままの目で見つめ返した。
 「…多恵子のところには、行けないんだよ」
 「…どうして…?」
 思わずそう呟くと、慎二はふっと笑った―――とても、寂しげに。

 「多恵子は―――多恵子は、死んだんだよ、透子」

 「―――…」

 もう一度、軽く唇にキスされた。
 思考が完全に止まった状態で立ち竦む透子は、バタン、というドアが閉まる音で、やっと我に返った。そして、やっと理解した―――慎二に、置いていかれた、と。

 


 何かの冗談だと、そう思いたかった。

 けれど、その日の夜も、その次の日の夜も―――慎二は、本当に帰って来なかった。


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