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: Requiem (3)

 何故彼らが透子を訪ねて来たのか、透子自身、今ひとつその理由がよく分からなかった。
 けれど、写真を撮りに来たついでに、という言葉は、単なる詭弁ではなかったらしい。

 「混んでんなぁ…。蕾夏(らいか)、携帯の電源入れとけよ」
 「うん。はぐれたら鳴らせばいいよね。透子ちゃん、携帯持ってる?」
 「え…う、ううん、持ってない」
 「そっか。じゃあ、瑞樹から離れないようにして。背が高い分、私よりは人ごみの中いても見失い難いと思うから」
 今日はちょうど、かっぱ橋の商店街が七夕祭りの真っ最中だ。日頃から観光客で賑わっている浅草だが、今日は特に人出が多い。久々に大泣きしたせいで、目がちょっと熱っぽくて腫れぼったい透子は、2人の姿を見失ったら本当に迷子になるな、と思い、手の甲でごしごしと目を擦った。
 ―――なんで私、こんな所に連れて来られてるんだろう?
 のんびりしたペースで歩き出す彼らと並んで歩きながら、内心、首を傾げる。チラリと2人の横顔を窺ってみたが、2人共、既に被写体探しに集中しているらしく、透子の視線に気づく様子はなかった。


 彼、成田瑞樹は、この6月からフリーのカメラマンとして活動しだした、駆け出しのカメラマンだという。
 カメラマンが「写真を撮りに来た」と言えば、仕事かな、と思うところなのだが、今日はどうやら違うらしい。実際、瑞樹は、透子が“カメラマン”という単語から想像するような大掛かりな道具類は一切持ってきていない。中身があまり入っていないと分かるデイパック1つに、カメラが1台のみだった。
 そんな彼の隣にいる彼女は、名前を藤井蕾夏といった。
 らいか、という珍しい響きに、どんな字を書くのかと透子が訊ねると、彼女は持っていた手帳の空欄に蕾という字と夏という字を書いてみせた。「だから、私もひまわりの花とはまんざら無縁でもないんだよ」―――そう言って、彼女は笑った。
 アパートから浅草寺まで移動しながら蕾夏が語った話によると、彼女は今、ライターの仕事をしているのだという。けれど、つい半年ほど前までは、システムエンジニアだったのだそうだ。そういえば以前、瑞樹もシステムエンジニアで、さる有名な写真雑誌での受賞を機にカメラマンに転向したらしいと、佐倉が言っていた気がする。瑞樹との関係について蕾夏は明言はしなかったが、もし恋人同士だとすると、カップル揃って異業種に転職したということになる。なかなか変わったカップルだ。
 透子が「気象関係の仕事を目指してる」と言うと、蕾夏は「へーえ…お天気の仕事かぁ。素敵な仕事だね」と言って微笑んだ。奇しくも、慎二が返したのと同じ言葉に、透子はまた大泣きしそうになってしまった。

 再会から、既に30分―――多恵子という名を、2人はまだ一度も口にしていない。
 慎二の名前ですら、「慎二さんから連絡あった?」というその一言だけだ。
 そもそも瑞樹の方はほとんど喋らないのだが、常に笑顔で話しかけてくる蕾夏も、「気象予報士の試験て凄く難しいんだってね」とか「浅草って明日からほおずき市なんだってね」とか…そんな話ばかり。久保田から連絡を受けたと言っていたし、久保田には住所を教えていなかったのだから、佐倉から透子の家がどこなのかを聞いた筈だ。それなのに―――…。


 「瑞樹」
 ふいに、蕾夏が小さな声で瑞樹を呼びとめ、同時に透子の腕を控え目に掴んだ。
 何があったのだろう、と不思議そうな顔をする透子の目の前で、呼び止められて振り返った瑞樹は、蕾夏の視線を追うように、斜め前方へと目を向けた。つられて、透子もその視線を追った。
 視線の先には、風車などを売っている民芸品店があり、何人かが店先でうろうろしていた。
 「あの親子だよな」
 「うん」
 そんな短いやり取りが、瑞樹と蕾夏の間で交わされる。知り合いでも見つけたのかな、と思って見ていたら―――瑞樹は無言のままカメラを構え、素早くシャッターを切ってしまった。
 「……」
 キョトン、と、目を丸くしてしまう。
 もう一度、民芸品店に目を向ける。親子、親子…と人ごみの中を捜した透子は、どうやらそれらしき親子をやっと見つけた。浴衣をなかなか粋に着こなしている若い父親と、その父親に抱っこされた3歳くらいの女の子―――女の子の手には風車が握られていて、ちょうどお店の人に「これ下さい」と声を掛けているところだった。
 「どうかした?」
 目を丸くしている透子に気づいて、再び歩き出そうとした蕾夏が不思議そうな顔をした。透子は、目をパチパチと瞬くと、キョトンとした顔のまま蕾夏の方を見た。
 「今、何撮ったの?」
 「え? ああ…あそこで風車買ってるお父さんと、女の子。さっき、ちょうどあの女の子が風車を指差してるとこだったの。“これ欲しい! これ買って!”って感じで。瑞樹が撮ったのは、お父さんがその風車を掴んだ瞬間…だよね?」
 「見つけるのがあと5秒遅かったら、シャッターチャンス逃してたな」
 ニッ、と笑った瑞樹は、そう言って蕾夏の肩を軽く叩くと、またぶらぶらと歩き出した。
 まるで共犯者のように同じ笑みを返した蕾夏は、再度透子の方を見て、行こう? という風に促した。唖然としながらも、透子は蕾夏に軽く腕を持たれたまま、2人について歩き出した。
 ―――もしかして…超能力?
 他人には見えない、聞こえない形で、会話している―――そうとしか思えない。たったあれだけの会話で、お互いの意志をきっちり疎通させているなんて。

 一体何のために自分の所に訪れたのか、その意図は、分からないけれど。
 なんだか、面白い―――この2人を見ているのは。


 人の撮影について行って、面白い事なんてあるんだろうか、と思っていたのに―――気づけば透子は、次は何を見つけるんだろう、と、ちょっとワクワクした気分になっていた。
 屋根の上に寝転んでる猫、障子に映った人の影、あさがおの鉢植えを抱えたカップルの後姿―――日常の、当たり前のように見過ごしているものが、蕾夏が指差したり、瑞樹が立ち止まってカメラを向けたりするたび、1つの絵となって網膜に焼きつた。そして透子は、それらの絵の中に、季節を見つけていた。
 夏の足音が聞こえてきそうな季節―――連日の雨で塵や埃が洗い流された空は、慎二が描く鮮やかなブルーだ。浮かんでいるのは、夏の入道雲よりまだ小ぶりな積雲、風に乗って流れていく蝶々雲…。瑞樹と蕾夏が切り取る日常は、そんな季節を彷彿させる色をしているように、透子には見えた。

 季節は、透子の中で、慎二へと繋がっている。
 だから透子は、2人にくっついて歩いている間ずっと、まるで慎二が隣にいるような…そんな錯覚を覚えていた。

***

 仲見世や裏通りを抜け、隅田川の河川敷に出た辺りで、ちょっと休憩しようということになった。
 「透子ちゃん、何か飲む?」
 自販機の前で蕾夏に訊ねられ、透子は首を振った。
 「私、アイス買ってくる。2人も食べるなら一緒に買ってくるけど…」
 「ううん、私はウーロン茶買うし―――瑞樹は、アイス自体無理だよね」
 どうやら瑞樹は甘いものが苦手らしい。くすっと笑って見上げる蕾夏に、「当たり前だ」と言って眉を顰めていた。


 2人と一旦別れ、商店街でカップアイスを買って戻るまで、正味10分少々だっただろうか。
 「あ、あれっ? 蕾夏さん、眠っちゃったの?」
 2人が座るベンチに戻ってきた透子は、ベンチの背もたれに頭がつきそうなほど傾いている蕾夏を見て、目を丸くした。
 瑞樹は、蕾夏の右隣に座って、なんだか諦めの境地といった顔をして蕾夏を眺めていた。
 「そんなに待たせたかなぁ…」
 「いや。いつものことだから、気にすんな」
 「いつも?」
 「公園のベンチに座ると、必ず眠るんだ、こいつ」
 「……」
 こんな短時間で…とは思わないが、でも眠くなる気持ちはなんだか分かる気がする。気持ち良さそうに眠る蕾夏の顔を見てちょっと笑った透子は、蕾夏の左隣に腰を下ろし、カップアイスを食べ始めた。

 蕾夏が眠ってしまうと、途端に会話がなくなる。
 ―――ちょっと、居心地悪いなぁ…。
 黙々とアイスを口に運びながら、蕾夏を挟んだ向こう側にいる瑞樹の様子を窺う。黙ってウーロン茶を飲んでいる瑞樹は、無意識なのか、蕾夏の髪を空いている手でくるくる弄びながら、ずっと川面の方を眺めていた。
 彼らは一体、どういうつもりで自分を連れ出したのだろう?
 何か話があるとか、逆に訊きたいことがあるとか、そういう理由で訪ねてきたものと思っていたのに、そういう素振りは全くない。ちょうど浅草に来たから、気晴らしに連れ出してやるか、と思っただけのことだろうか? …よく分からない。
 「……何」
 透子の視線を感じたのだろう。瑞樹が、目だけを透子の方に向け、少し眉をひそめるようにした。言いたいことでもあるのか、とでも言うように。
 「え…えっと、どうして1度しか会ってない私を、こうやって誘ってくれたんだろう、と思って…」
 しどろもどろに透子がそう言うと、瑞樹は、ああ、という顔をして、傍らに眠る蕾夏に一瞬だけ視線を向けた。
 「俺じゃない。蕾夏だ」
 「え?」
 「俺に訊きたいことや話したいことを沢山抱えてる筈だから、会って聞いてやってくれ、と言ってた」
 「……!」
 透子の瞳が、ぐらりと揺れた。思わず、眠っている蕾夏の顔をまじまじと見つめてしまう。
 「あれば聞くし、ないなら別に何も話さなくていい。俺の方は、訊きたいことも話したいこともないし」
 ―――不思議な人たちだなぁ…。
 訊きたいことも話したいこともないのに、透子が話したいことを聞くために来たなんて―――全然想像していなかった。そう、確かに透子は、瑞樹に―――多恵子を除けば一番慎二と親しかった筈の人に、訊ねたいことが沢山ある。
 「…私…」
 まだ少し躊躇いを残しながら、口を開く。所在無げにTシャツの裾を弄っていた透子は、思い切って顔を上げ、瑞樹の方を向いた。
 「―――私、多恵子さんに似てる?」
 「……」
 「写真、見たことあるの。1枚だけだけど。それに、成田さんも佐倉さんも久保田さんも…初めて会った時、みんな同じ反応だった。まるで、この世にいる筈のない人が目の前に現れたみたいに、ビックリした顔してた。…そんなに似てるのかな、私と多恵子さんて」
 「…似てるって言われたか?」
 黙って首を振る。すると瑞樹は、そうだろうな、という顔でふっと笑った。
 「確かに、初めて見た瞬間はギョッとするけど、5分も見てりゃ全然違うことは分かる。飯島さんとお前は、全然似てない。持ってるもんが、まるで正反対だからな」
 「正反対?」
 「…“生”と“死”、正反対のもんを持ってる」
 ―――“生”と、“死”。
 ゾクリ、と、背筋が冷えた。
 佐倉や久保田が語った多恵子像からは、自殺というキーワード以外、“死”を感じさせるものは見つからなかった。けれど…透子は、あの写真を見ている。マイクに手を添えて真っ直ぐに前を見据える、飯島多恵子の写真―――あの時、思った。なんだか酷く凄絶な感じのする人だ、自分と同じ目をしているのに、何故こんなにも違うのだろう…と。
 あの凄絶さは、“死”を内包しているからこそ生まれるもの。そう考えると、なんとなく、理解できる。
 「…成田さんは、何故多恵子さんが死にたがってたのか、その理由を知ってるの?」
 「いや」
 「でも…久保田さん、言ってた。成田さんが一番、多恵子さんを理解してた、って」
 「…ハ…、隼雄のやつ」
 苦笑した瑞樹は、ウーロン茶を一口あおると、大きく息を吐き出した。
 「―――理由は、聞いてない。ただ、感じてただけだ。ああ、こいつ同類だな、と」
 「同類? 成田さんの?」
 「生きてる意味が、生き続ける意味が分からない奴―――ただ、俺は“死んだら負けだ”と思ってたし、飯島さんは“死ななくてはならない”と思ってた。そこが決定的に違ってたけどな」

 “死ななくてはならない”―――…。
 透子自身、そう思った時があった。家族でただ1人、生き残ってしまった時―――痛烈に思った。早く死ななくては、と。多恵子の事情は知らないが、そう思う人間がいることを、透子は身を持って知っている。
 けれど―――“生きなきゃ、と思う”。慎二のその言葉を聞いて、思い直した。
 そう…慎二もまた、兄に先立たれて、自分が死ねばよかったと己を責めた人間の1人だ。けれど慎二は、生き残った意味を見つけるために、生きなきゃと自分に言い聞かせてた。それを見て透子も、生きるしかない、という諦めから、生きなければ、という思いへと変わったのだ。

 「…どうして…慎二の言葉、多恵子さんに届かなかったんだろう…」
 私には、届いたのに―――そのもどかしさに、透子は唇を噛んだ。
 「慎二は、多恵子さんに“生きて欲しい”って思ってた筈なのに…どうして、多恵子さんの傍を離れちゃったんだろう。ずっと傍にいて、声が()れるまで訴え続けたら、もしかしたら届いたかもしれないのに…」
 「―――それをしたら、飯島さんが可哀想だと思ったんだろ、きっと」
 あっさりと発せられた言葉に、透子は眉をひそめた。
 「可哀想? 死ぬより可哀想なことなんて…」
 思わずそう言い返すと、瑞樹の目が陰りを帯びた。
 「それは、生きてる方が幸せだと信じて疑わない奴らの言い分だろ」
 「……」
 「死ぬ方が、生きるより何倍も幸せな奴もいる―――気が狂うほどの痛みを…治療法も痛みを和らげる方法も見つかっていない痛みを抱えてる奴に、それでも死ぬのは罪だから我慢しろ、なんて言えるか? その痛みがどれほどのものか知らずに、モラルで生きることを強要する―――その方が酷いことだろ」
 息を、飲んだ。
 瑞樹も、そういう痛みを抱えていた1人なのだ―――そう、感じて。
 感情的になった、と少し後悔したのだろうか。瑞樹は、ふい、と視線を逸らすと、ちょっと乱暴に前髪を掻き上げた。心を落ち着かせようとするように、じっと川面を見据える。やがて、大きく息を吐き出すと、やっと透子の方に視線を戻してくれた。
 「だからって、死んじまって構わない、とは俺も言わない。…でも、痛みに耐える力には、個人差があるだろ」
 「……」
 「飯島さんは、その力が極端に弱かった。感情が豊かすぎて、痛みを無視できなかったからな。…多分、慎二さんも、それを感じてたんだと思う。痛みの原因を取り除く術がない以上、無理矢理引き止めるのは酷だと思ったのかもしれない」
 尊厳死、という単語が、何故か透子の脳裏に浮かんだ。
 あれと、多恵子のケースとは全く別だろうが、瑞樹の言わんとするものは、どこか似た部分を持っている気がする。新しい治療法が見つかるまで、耐え難い痛みに耐え、自由を奪われたまま生きろ、と強要するのは、酷だ。そんな状態、“生きている”とは言えないのだから。
 「…うん…そうかも、しれない…」
 優しいだけがとりえだ、と、自らそう言う慎二なら、そう考えるかもしれない。
 自分の祈りより、多恵子の望みを優先してやるのかもしれない―――たとえそれが、モラルに反することでも。
 「…よかった。やっと、なんか、納得できた」
 透子はそう言って、瑞樹に微かな笑みを返した。
 「やっぱり、成田さんに聞いて良かった。久保田さんや佐倉さんの話聞いても、あんまりピンと来なかったけど、なんとなく、慎二が多恵子さんと別れた気持ちが、ちょっと分かった気がする。自分が壊れないためもあったんだろうし、多恵子さんを自由にしてあげたいって気持ちもあったんだろうな、って…そう思う」
 それを聞いて、瑞樹もほんの僅かに口元に笑みを浮かべた。

 ふと見ると、手にしていたカップアイスの残りが、かなり融けてしまっていた。慌ててそれを平らげはじめた透子に合わせ、瑞樹もウーロン茶の缶を再び口に運んだ。
 また暫く、沈黙が流れる。
 蕾夏が目を覚ます気配は全くない。微動だにせず、静かに眠り込んでいる。アイスを食べながらチラリと見ると、やっぱり瑞樹は、蕾夏の髪を指に巻きつけたり解いたりしていた。
 「…やっぱり蕾夏さん、ちょっと慎二に似てる気がする」
 最後の一口を飲み込み、ついそんなことを言う。すると瑞樹は、髪を弄っていた手を止め、「は?」という顔をした。
 「眠ってる時の雰囲気も、慎二と似てるし」
 「そうか?」
 「それに、成田さんと多恵子さんが似ていたんだとしたら、多恵子さんの彼氏だった慎二と、成田さんの彼女の蕾夏さんが似てるのは、案外当たり前なのかも」
 「…一緒にするな。俺が飯島さんなら、慎二さんを尾道に行かせたりしねーよ。あんな変な女に惚れてくれる奇特な男、他にいないからな」
 「へ、変な女、って…」
 …まあ、確かに。自殺願望にどっぷり漬かりながら、周囲を振り回し続けた多恵子は、そう表現されても仕方ないのかもしれない。
 それでも慎二は、多恵子を本当に好きだったのだ。人の死というものに対して、普通の人以上に敏感で傷つきやすい慎二だから、多恵子との時間は辛い時間でもあっただろうに…。
 「―――敵わないなぁ…」
 ポツリと、呟く。口にした途端、本当に敵わないな、という実感がずっしり圧し掛かってきた。その重みに負けたように、透子はガクリとうな垂れてしまった。
 「聞けば聞くほど、慎二って多恵子さんをもの凄く愛してたんだなぁ、って思い知らされちゃう。元々そうだろうとは思ってたけど、なんか…表面的なもんじゃなくて、もっと凄く深い部分で愛してたんだろうなぁ、と思うと…なんかもう、慎二、多恵子さん以外の人好きにならない気がする。誰が現われても、多恵子さんには敵わないんじゃないかなぁ…」
 「…なんだ、そりゃ」
 そんな訳あるか、とでも言いたげに、瑞樹が呆れた顔をする。透子は、拗ねたように唇を尖らせた。
 「…死んじゃうって、ずるい。綺麗な思い出ばっかり残って、汚い思い出はどんどん薄れていって―――もう、幻滅することも喧嘩別れすることもないんだもの。死んじゃった人には、敵わないよ」
 力なくそう言う透子に、瑞樹は呆れ顔のまま、くくっと可笑しそうに笑った。
 「アホらし。死んだ奴に嫉妬してどうしようってんだよ」
 「だって! だって…慎二、優しい人だもん。きっと、ずっと多恵子さんのこと忘れないと思う。忘れたりしたら、多恵子さんが可哀想だ、って…」
 「忘れず想い続けることが、本当に死んだ奴のためなら、な」
 まだ笑いを含みながら言われた言葉に、透子は眉をひそめた。
 笑いの収まったらしい瑞樹は、またウーロン茶を一口飲み、短く息を吐き出した。
 「慎二さんが飯島さん忘れて他の女と結婚でもしたら、飯島さんが悲しむと思うか?」
 「…それは…」
 「悲しむとして、それをどうやって確かめるんだ? もう死んじまった飯島さんの喜怒哀楽なんざ、誰にも確かめられねーよ」
 「……」
 「馬鹿馬鹿しい―――死んだ奴に、何ができる」
 何が、できる。
 冷酷にも思えるその一言に、透子は、空になったアイスカップを持つ手を少し強張らせた。何もできない―――死んだら、そこで終わりだ、そう信じるからこそ、“死んだら負けだ”と言うのだろう、この人は。
 「死んだ奴は、もう笑わないし、もう泣かない。忘れたら可哀想だ、と、何年も何年も死んだ奴のことばっかり考えて生きていくのは、死んだ奴のためじゃない。自分のためだ」
 「…自分のため…?」
 「死を受け入れられないから、生かし続けちまうんだよ―――自分の中でな」
 「……」
 「死を完全には認められない自分の弱さを誤魔化して、生かし続ける。そうやって生かすことが、故人のためだと思ってる。…けどな。そいつは“生き続けられる”んじゃない。“死ねない”んだ。もう笑うことも泣くこともできないし、残された奴を慰める体もないのに―――“死ねない”んだよ」
 それは―――もっと、可哀想だ。
 自分がその立場だったら、苦しい。いや、死んでしまったら、その苦しみを感じることもないだろうけれど―――でも、嫌だ。死んでしまってもなお、残された人の中にそんな形で生き続けようとは思わない。ちゃんと死んで、思い出になりたい…できれば、温かくて、優しい思い出の一部に。
 「…死んだ人を、笑わせたり泣かせたり怒らせたりするのは、生き残った人の方なんだね」
 口にして、実感した。
 死者を粗末に扱う罪悪感が“祟り”を生む。死への恐怖が天国や地獄を生む。人間が死を怖がるのは、その先にあるのが“無”であることを本能的に知っているからだ、と、何かの本で読んだ。そう…死んだら、“無”に還る―――父も、母も、紘太も、今はどこにもいない。ただ透子の中で、決して消えない思い出として、大切に残っているだけだ。

 震災の日にある、慰霊祭。
 死んだ人をその日しか思い出せないのか、一体誰のための式典なんだ、と冷やかな目で見ていた透子だったが、その意味が、やっと少し、分かった気がした。
 あれは、生き続けるために必要な儀式―――死を受け入れて、少しずつ思い出に変換していくための儀式。死んでしまった魂を慰める儀式は、本当は、生き残った人の罪悪感や喪失感を慰めるためにあるんだ…と。

 もしかしたら慎二も、そうなのかもしれない。
 あの日見た、描きかけのひまわり畑の絵―――あの風景を探すこの旅は、慎二にとって、多恵子を思い出に変えていくための儀式なのかもしれない。

***

 結局蕾夏は、30分近く眠り込んだままだった。
 「ごめんねぇ。誘っておきながら、ずっとほったらかしで眠っちゃったりして」
 河川敷をぶらぶら散歩しながら、蕾夏は済まなそうにそう言った。
 「ううん。成田さんから、色々お話聞けたから、退屈しなかった」
 「そ? じゃあ、眠って正解だったかな」
 くすっと笑った蕾夏は、ふわりと風に舞った髪を掻き上げると、少し先で散歩中の犬を撮っている瑞樹の方に視線を移した。
 ―――まさか、わざと眠ってたとか、そんなことないよね…?
 でも、ちょっと怪しい。座れば絶対眠り込んでしまうと分かっていて、こういうコース取りにしたんじゃないか、と疑いたくなってしまう。蕾夏がいれば、透子は絶対瑞樹と踏み込んだ話をしようとは思わなかっただろうし、わざわざセッティングされても、結構話しにくかった筈だから。
 「ねえ、蕾夏さん」
 「ん? なぁに?」
 「今日、ひまわりの花束持ってきてくれたのって…どうして?」
 透子が訊ねると、振り向いた蕾夏は、キョトンと目を丸くした。
 「いけなかった?」
 「う、ううん。そうじゃない。嬉しかったの。でも…なんでひまわりを選んだのかな、と思って」
 「深い意味はないよ? ただ、透子ちゃんにはひまわりの花だな、って思っただけ」
 「え?」
 「慎二さんが描いた、あの震災の絵―――あそこで頑張って花咲かせてたひまわりは、きっと透子ちゃんなんだろうな、と思って。後で、家族亡くした話とか聞いて、なるほどって思ったの。慎二さんがあの絵で“頑張って生き残れ”って言ってた相手は、透子ちゃんなんだな、って」
 「……」
 「―――早く帰るといいね、慎二さん」
 そう言って、蕾夏は柔らかに微笑んだ。
 「あんなに透子ちゃんを大切に思ってくれてる人だもの。透子ちゃんが倒れちゃう前に、きっと帰ってきてくれるよ」

 ―――やっぱり、不思議な人だ。蕾夏さんて。
 蕾夏さんにそう言われると、簡単に信じられてしまう。やっぱり慎二にどこか似てるからかなぁ…。

 蕾夏の言葉に頷いた透子は、にっこりと笑った。
 自分を励ますためじゃなく、本心からそう思って笑顔になれたのは、なんだかもの凄く久しぶりのことのような気がした。


***


 それから更に1週間経ち、慎二がいなくなって1ヶ月が経った。

 「お前さぁ。夏休みの間だけでも、うち来れば?」
 千秋から話を聞いていた荘太は、1ヶ月経ったことを理由に、そう透子に提案してきた。
 「…あ、別に、下心あって言ってる訳じゃないからなっ」
 「―――うん、分かってる。でも、いいよ。1人でも大丈夫だから」
 慌てたように付け足す荘太の様子に苦笑しながら、透子はそう答えた。実は今朝、千秋からも同じことを言われたばかりだ。夏休みの間、うちに来ないか…と。
 「レポートだってちゃんと仕上げたし、試験もなかなかいい調子できてるし。結構落ち着いてると思うよ、自分でも。夏休み入っても、バイトだ課題だと忙しいもん。それに、気象予報士試験の勉強もあるしね」
 来年、年明け早々に、透子は気象予報士の試験を受けることにしている。合格率を見る限りまだ勉強中の透子が一発で合格するとは思えないのだが、とにかく一度受けて、どんな感じの試験なのかを体感しておきたいと思ったのだ。
 「けど、工藤さんの心配しながらじゃ、勉強にも身が入らないだろ」
 「…あの家出て勉強する方が、余計身が入らない気がするけど」
 「遅い時間までバイトしても、同じ家なら、俺がバイクの後ろ乗っけて連れて帰れるしさぁ…」
 「今だって遅い日はそうやって送ってきてくれてるじゃない。これ以上いいよ」
 「…ちぇ。つまんねー」
 本当につまらなそうに、荘太は口を尖らせた。透子が心配なのもあるのだろうが、夏の間、まるで遊びに来た従姉妹みたいに同じ家で過ごすのも楽しそうだな、という期待もあったのかもしれない。
 ―――あんな辛い思いさせたのに、避けたり嫌ったりしないでくれるんだよね、荘太は。
 勿論、沢山の葛藤をその笑顔の裏に隠していることは、想像に難くない。でも―――それでも、嬉しかった。
 「ありがと、荘太。誘ってくれて」
 ごめんね、より何より、その言葉が先に出てきた。


 夏休みに入ってすぐ、2泊3日の泊りがけのフィールドワークがあった。
 過去にも1度、泊りがけのフィールドワークはあったが、慎二がいなくなってからは初めてだ。もし、いない間に慎二が帰ってきたら、と思うと、今家を空けるのは嫌だった。しかし、今回のフィールドワークは非公開の富士山測候所を見学させてもらえるという貴重なものだし、単位取得のためには是非参加しないとまずいものだったので、さすがに不参加という訳にはいかない。
 留守中に慎二が戻ってきた時のために置手紙をして、後ろ髪を引かれる思いで出掛けた。しかし、帰ってきた時、その手紙は、出掛ける時置いた場所から1ミリも動いておらず、誰かが部屋に入った気配もなかった。帰って来る瞬間はちゃんと出迎えたいと思っていた透子は、ほんの少しだけホッとし、その何倍も寂しさを感じた。

 8月になると、近所の家のブロック塀の上に、ひまわりの花が顔を出した。
 ちょうど花の部分だけ出ている状態のひまわりを見て、なんだか妙な焦りを感じた。
 ―――慎二が探してる所って、どの辺なんだろう。
 ひまわりのシーズンが終わるまでに、ちゃんと見つけて帰ってくるだろうか。北海道なら、かなり遅くまで咲いているのかもしれないが、東京近郊だったら8月の下旬にはシーズンが終わってしまうのではないだろうか。
 テレビを見ていると、時々、ひまわり畑の映像がニュースで流れる。どこそこのひまわり園でひまわりが最盛期を迎えた、などとやっていると、その映像と記憶の中の描きかけの絵を重ねてしまう。ここかな、それとも別の所かな、と。

 不思議な位、もう帰ってこないという不安は、どこにもない。
 寂しさに慣れていっても、慎二に対する想いが減ることもない。むしろ、前以上に慎二のことばかり考えてしまう。離れて暮らせば気持ちも離れるかもしれない、と、以前荘太に言われたことがあったが、どうやらそれは透子に限っては当てはまらなかったらしい。
 暇な時間は、慎二の部屋のベッドに転がって、音楽を聴く。慎二の顔を見たらまず何て言おうかな、なんて考えながら。

 誕生日は、一緒に祝えるといいのに―――それが、8月に入ってからの透子の1つの願いになっていた。


***


 「あぢぃ…。夏のバイクは地獄だな」
 ヘルメットをスポッと頭から抜き、荘太はぷるぷると頭を振った。まるで、行水後の犬みたいな仕草だ。
 「大丈夫か、透子。へばってないかー?」
 「うー…、大丈夫ー…」
 一方の透子は、かなりバテていた。今夜は熱帯夜、気温も高いが湿度も相当なものだ。ヘルメットを被っていたせいで、なんだか髪全体がじっとりと濡れてしまっている感じがする。
 「明日の透子のシフトって、何時から何時?」
 「13時から18時」
 「お、明日も一緒のシフトか。だったら帰り、どっかで食ってかない?」
 「んー、そうだね。…あ、荘太、麦茶飲んでく?」
 透子をバイト先から家まで送り届けた分、荘太は遠回りをしていることになる。これからまだ松戸の家までバイクを運転しなくてはいけないのだ。お礼に麦茶の1杯も振舞わなくては罰が当たる。
 実際、荘太もかなり喉が渇いていたのだろう。暑さにうんざりしていた顔が、パッと明るくなった。
 「飲む飲む。氷入れてくれるとなお嬉しい」
 「分かった。ついでに苺もご馳走しちゃおうかな。明日の朝までに食べちゃわないとまずいんだけど、1人だとちょっと量多いから」
 バイクの鍵を掛ける荘太を振り返りつつそう言い、透子は玄関の鍵を開けた。
 電気をつけ、いつものように新聞受けを開ける。節約のため新聞はとっていないが、郵便受けのないこのアパートでは、新聞受けが郵便受けの代わりなのだ。
 今日はチラシの投函が多かったらしく、開けた途端、バサバサとチラシが玄関に落ちた。
 「あーあ、もう…」
 溜め息をつき、しゃがみ込んでそれをせっせと拾い上げる。その中に、明らかにチラシをは違うものを1枚発見した時―――透子の心臓が、ドキン、と大きく脈打って、止まった。

 「―――…」
 それは、ハガキだった。
 差出人名はないが、“井上透子様”という字には、見覚えがある。高校時代、バイト先に出した履歴書の“保護者欄”に書かれた文字と、同じ筆跡―――…。
 ―――慎二の、字だ。

 「透子? どうした?」
 鍵を掛け終わったらしい荘太が、玄関先にしゃがみこんでいる透子を見下ろし、訝しげな声を掛けてくる。けれど、透子はそれに答えることができなかった。
 チラシを持った手が、震えて。
 再び鼓動を刻み始めた心臓が、酸素を求めてドクドクとうるさいほど鳴って。
 ごくん、と唾を飲み込むと、透子はゆっくりとそのハガキを拾い上げた。云うことを聞かない足で無理矢理立ち上がり、その字を目で何度もなぞる。何度見直しても、それはやっぱり慎二の字だった。
 「…工藤さんから、か?」
 透子の手元を覗き込んだ荘太が、そう言って眉をひそめた。透子は、無言のまま小さく頷いた。
 ハガキを裏返してみる。すると―――透子の目の前に、鮮やかな黄色と青が広がった。
 それは、ひまわり畑の絵だった。
 左には大きな木、右にはあぜ道、ひまわり畑の奥には、2軒の赤い屋根の民家―――スケッチの時の慎二の絵筆のタッチで、そんな風景が、ハガキという狭い空間に描き込まれていた。細部は覚えていないが、それは確かに、透子が昔見た描きかけの絵と酷似していた。
 ―――見つけたんだ…。
 ずっと探していた風景を、慎二はやっと見つけた。1枚の絵が、それを教えてくれた。
 「どこだよ、これ」
 「…分かんない…」
 ふと思いつき、表書きをもう一度確かめる。そこには、長野県のとある地名の消印が押されていた。
 他に何か手掛かりはないかと、目を皿のようにして、表書きも裏の絵も確認する。すると、絵の下の方に、まるで絵の一部かのように、小さな小さな字が書き込まれていた。
 『畠山さんという民宿にご厄介になってます。透子の誕生日までが向日葵(ひまわり)の見ごろのようです』
 誕生日まで―――…。
 透子の誕生日まで、あと6日。それまではここに居る、と言いたいのだろうか? でも…慎二が出て行ってから、ほぼ2ヶ月が経っている。

 ―――探しに、行かなくちゃ。
 慎二が、ここにいる。ここで隠れて、見つけてくれるのを待ってる。いくら慎二がかくれんぼが得意でも、もうお兄さんはいないんだもの。私が見つけなくちゃ。

 来て欲しくて―――もしまだこの家に透子がいるなら見つけに来て欲しくて、それを伝えるためにこの手紙を出したのだ、と、そう信じたい。決意を固めるように唇を引き結んだ透子は、目を上げ、荘太の目を見据えた。
 「…ごめん、荘太。明日のバイト…」
 「―――分かったよ。明日だけじゃないよな。2、3日は休むって、店長に言っておきゃいいんだろ」
 透子がどうするつもりかは、荘太にはお見通しらしい。荘太は、少し投げやりにそう言うと、呆れたようなため息をついた。
 「まぁったく…誕生日までに連絡なかったら、今度こそ俺がかっさらってやろうと思ってたのに―――ついてねーなー、とことん」
 「帰って来なくても、私は慎二のこと、ずっと待ってるもん」
 「…ちぇ」
 のろけやがって、というように透子の頭を軽く小突くと、荘太は透子を追い越して玄関の中に入った。
 「さっさと麦茶飲もうぜ。一息入れたら、すぐ出よう」
 「え?」
 「お前、その消印のエリアがどんだけ広いか分かってんのかよ。長野行って、その絵見せて闇雲に探す気か? こういう時こそ、文明の利器使わないと―――ネットカフェ、行こうぜ。ネットで調べりゃ、大体の場所が分かるかもしれない」
 「…応援しないんじゃなかったの?」
 「恋愛の応援はしないけど、透子が泣くのは、もう嫌だからな」
 そう言って、ニッ、と笑う荘太につられるように、透子もクスッと小さく笑った。


***


 その日の空は、夏らしい青空だった。
 バス停で走り去るバスを見送った透子は、ふぅ、と息を吐き出し、一度空を見上げた。真っ白な雲が流れていく。そよ風程度しか感じないが、上空はそれなりに風が吹いているのかもしれない。
 朝早く家を出、東京から電車を乗り継ぎバスに乗り―――時刻は既に正午を回っている。
 ―――静かな所だなぁ…。
 “ひまわり祭り”などをやる有名な観光農園ではないから、人影もほとんどない。車の姿もなかった。昨日荘太に協力してもらって色々調べたし、1つ手前のバス停にある問題の民宿で詳しい場所も聞いてきたから大丈夫だが、何も調べずに来たら、もっと時間がかかってしまっていただろう。
 「…よし」
 ちょっと気合を入れ、透子はボストンバックを持ち直し、歩き出した。

 慎二に会ったら何を言うか、まだ決めていない。
 笑顔で「お帰り」と言いたい気もするし、会った途端、泣き出してしまって何も言えないような気もする。きっと、会う瞬間まで決まらないんだろうな、と思った。
 でも、もっと想像がつかないのは―――慎二の方が、それに何と答えるか。
 追いかけてきた透子を、慎二は受け入れてくれるだろうか? 追い返したりはしないだろうか? 拒絶されることを考えると、途端に怖くなる。慎二が帰って来るまで家で待ってた方が無難だった、なんて弱気な言い訳に逃げ込んでしまいそうになる。

 それでも―――捜さずには、いられないから。
 たとえ拒絶される結果になっても、1日でも早く、慎二に会いたいから。

 「―――あ…っ」
 小さな橋を渡り、緩やかな坂の頂上に立った透子は、目の前の光景に、息を呑んだ。

 そこに広がっていたのは、視界一面のひまわりの花。
 その片隅に、イーゼルを立てて絵を描く後姿を見つけた時―――透子は堪えきれずに走り出していた。


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