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13

: 明日、見つけた。 (1)

 何のために絵を描くのか、その意味を見失っていた、あの頃。
 灰色の雑踏の中で、彼女と出会った。

 何故、彼女がオレを選んだのか、分からない。
 オレも、何故彼女の求めに応じてしまったのか、分からない。
 縋りつき、絡めとり、重ねた手。その手首に、幾重にも重なった傷跡が、悲鳴を上げていた。助けて、助けて、助けて―――と。
 誰かを必要としてた彼女と、誰かに必要とされたがってたオレ―――それだけの偶然。その日からオレたちは、抱き合い、身を寄せ合い、何かから逃れるようにしてお互いを求め合った。…それは、普通の恋愛とは、ちょっと違った関係だったかもしれない。それでも、オレたちの間にあったのは、やっぱり“情”ではなく、“愛”だったんだと思う。


 多恵子―――オレに、愛することと、憎むことを教えた人。
 君と出会って、君に何かを伝えたくて、オレは絵を描く意味を見つけた。
 だから、君は、永遠の人―――想い続ければ、生きていけると…君がまだどこかにいると信じ続けられると思ってた。

 …だけど、多恵子。
 人は、思い出だけでは生きていけない。君が、そうだったように。
 それが出来るのは、“あの人”だけ―――“あの人”のように、正気でいることをやめた人だけなんだ。


***


 「慎二―――…!!」
 未舗装のガタガタした坂道を駆け下りながら、透子は全身全霊で慎二の名を呼んだ。
 すると、ひまわり畑の方を見ていた後姿が、僅かに反応を見せる。一瞬の間を置いて、慎二は透子の方を振り返った。
 足がもつれそうになって、うまく走れない。たった100メートルかそこらの距離なのに、息が乱れて仕方ない。イーゼルに手を添えるようにして、少し驚いた顔で佇んでいる慎二の表情がはっきりと目に入ると、手にしている荷物さえもどかしくなって、透子はボストンバッグを投げ捨てた。
 「慎二……っ!」
 「…っわ…!」
 駆け込んだ勢いそのままに、慎二の腕に飛び込むように抱きついた。
 慌てて抱きとめた慎二は、その勢いに負けて2、3歩よろけると、小石と土と雑草の入り混じった地面に尻もちをついてしまった。透子も、そのせいで地面にペタリと座りこむ羽目になる。それでも、抱きついた胸にはしがみついたままだった。
 「と…透子…」
 「―――バ…カ…っ」
 背中に感じる手のひらの感触は、間違いなく慎二の手だ。
 頬を押しつけた胸が、慎二の速い鼓動を伝えてくれる。慎二が、ここにいいる―――それを実感したら、涙が一気に溢れてきた。
 「バカ…っ!! 慎二のバカっ!!」
 慎二に抱きとめられたまま、慎二の肩の辺りを拳で叩く。溢れてきた激情に比べて、その力は情けなくなる位弱かった。
 「あ、あんな別れ方して…っ…。し、死んじゃうんじゃないかって、もう二度と会えないんじゃないかって、そこまで思ったんだから…っ!」
 「…ごめん…」
 「置いていけば愛想尽かすとでも思ったの…!? 見縊ってるよ…っ! この位で慎二のこと、嫌いになってなんかやらないんだから…!!」
 「うん―――ごめん…」
 背中に回った腕の力が、強くなる―――抱きしめられた。息が苦しくなる位に。
 宥めるように、髪や耳元に押しつけられる唇に、それ以上言葉が出てこなかった。透子は、声を押し殺すことも忘れて、慎二にしがみついて泣いた。

 ―――慎二が、好き。
 慎二がいないと、呼吸ができない位、慎二が好き。
 ひまわりが太陽と水と大地とで生かされるなら、私が生きてくのに必要なのは、きっと慎二だけだ。だから、ほら―――今にも倒れそうにしおれてたのに、こうして抱きしめてもらえるだけで、あっという間に生き返る。

 好き、なんて言葉じゃ、きっと足りない。
 愛してる―――あなただけを。

 声を上げて泣く自分は、慎二から見たらまるっきり子供に見えるのかもしれないな―――そんなことが、ほんの少しだけ、頭の片隅を通り過ぎる。
 けれど、構わなかった。
 今だけ、子供のふりして、想いをありったけぶつけたい―――そうしなければ、気が違ってしまいそうだった。

***

 「―――私があの家にずっと居るって思って、ハガキ送ってくれたの…?」
 「…多分、そうだろうな、とは思ってた。でも、透子が来てくれるとは、ほとんど思ってなかった」
 「ほとんど、ってことは、ほんの少しは思った…?」
 「…ほんの少しだけね。でもオレ、何探してるか言わなかったし」
 「うん。それ分かるまで、不安だった、ずっと。…私ね。慎二がいない間に、いろんな人に会ったの。佐倉さん、久保田さん…それと、成田さんと蕾夏さんにも。色んな人から、多恵子さんのことや慎二のこと、聞いた。多恵子さんが高校生の頃から自殺志願者だったことも、昔から慎二が優しい人だったことも―――だから、慎二が多恵子さんと別れた気持ちも、ちょっと分かった気がする」
 「―――そっか…」


 イーゼルを立てた場所のすぐ傍にある木の根元に、2人は並んで腰を下ろし、膝を抱えていた。
 真夏の太陽を、緑の葉が生い茂った枝が遮ってくれている。ひまわり畑よりほんの少し小高くなったその場所からは、慎二が描いたとおりの風景がほぼ全て見渡せた。
 「ねぇ、慎二―――この風景を、どうして探してたの?」
 引き寄せた膝に頬を押しつけるようにして、隣に座る慎二の顔を見上げながら、透子は訊ねた。久保田も佐倉も、慎二にこの風景の絵を見せられたものの、2人共記憶にないと言っていた。だから、慎二がこの風景にこだわった理由が、いまだに分からなかったのだ。
 肩膝だけを抱えた慎二は、透子の質問にすぐには答えず、遠い目をして目の前に広がるひまわり畑を眺めていた。やがて、目だけを透子の方に向け、少し困ったような笑みを見せた。
 「難しい質問だなぁ…。オレ、口上手くないから、一言で説明できないよ」
 「じゃあ、全部、説明してよ」
 「全部?」
 「多恵子さんとの出会いって、どんな風だったの?」
 サラリと口にされた質問に、慎二は一瞬、キョトンとした顔をし、続いて苦笑した。本当に全部説明させる気なんだな、と。
 「…オレが多恵子と会ったのは、渋谷で似顔絵描きしてた時―――多恵子が大学入って1ヶ月経ったあたりだよ」
 伸ばしていた方の足を引き寄せながら、慎二はそう切り出した。
 「なんでなのか、今もよく分からないけど…多恵子はオレを、“初めての相手”に選んだんだ」
 「…え?」
 妙な話に、透子は目をパチパチと瞬いた。それを見て、慎二が余計苦笑を深くする。
 「遊び慣れてるフリして、わざと挑発するような態度とって―――いわゆる“逆ナン”てやつなのかな。で、結果が“男なんて初めて”だからさ。…正直、困った。なんでオレなんて選ぶの、って」
 「……」
 瑞樹が多恵子のことを「変な女」と評したのも、なんだか頷けてしまう。話の内容に少々顔を赤らめながら、透子は頭の片隅でそんなことを思った。
 「自殺の常習者だってことは、会ったその日に気づいた。手首に、見えたから―――傷跡が、いくつも。こんな自暴自棄みたいなことするのも、そのせいなのかな、と思ったせいかなぁ…。日頃なら、誘ったり声掛けたりしないのに、言っちゃったんだよな、“またおいで”って」
 「…それで、恋人同士になったんだ?」
 訊ねながら、胸が痛んだ。過去の話だと、既にこの世にいない人だと分かっていても、やっぱり嫉妬心のようなものが湧いてしまう。ところが、慎二から返ってきた答えは、意外なものだった。
 「いや、彼氏彼女っていうステディな関係になったのは、それから1年後位だよ。オレもそういう感覚なかったし、多恵子には他に好きな人がいたしね」
 「―――…え???」
 「…透子も、会ってるよ」
 思わず、膝に預けていた頭を上げ、慎二の顔を凝視する。
 透子も、会っている―――思い当たるのは、2人しかいない。けれど、1人は多恵子の後輩だし、仮にも多恵子に恋愛感情を持つ慎二が、そういう相手と仲良くなる筈はないだろう。とすれば―――思い出すのは、余裕あり気な、落ち着いた笑顔の、あの人。
 「―――久保田、さん?」
 眉をひそめる透子に、慎二が返した笑みが、それが正解であることを告げていた。険しい顔になる透子の視線を避けるように、慎二はひまわり畑の方へと目を逸らした。
 「…そのことでは、傷つけられもしたし、人を憎むって気持ちを生まれて初めて味わう羽目にもなった。もう放っておこうって思った瞬間もあった。でも―――そうできなかったんだよな」
 「どうして…?」
 「…多恵子が、必要だったから」
 「……」
 「オレはいつも、誰かに必要とされたがってた。オレの存在を全面的に認めてくれる人を探してた。だから、多恵子に振り回されるのは苦にならなかったし、むしろ嬉しかったんだと思う。…多恵子も、隼雄君に対する気持ちは恋愛ってより崇拝で―――もの凄くストイックだったから。いつも誰かを求めてたけど、それを隼雄君に求めようとは思わなかったし、オレ以外に求める気にもなれなかった、って。…1年間、友達でも恋人でもない関係続ける中で、お互い自分のことがよく分かったから―――それでやっと、彼氏彼女って関係になれたんだ」
 一気にそう語った慎二は、はぁ、と息を吐き出し、透子の方を見て薄く微笑んだ。
 「色々あったけど―――嫉妬も、憎悪も、愛も…多恵子に教わった感情だから。オレ、結構、多恵子には感謝してるんだ」
 「…そうなんだ…」

 嫉妬も、憎悪も…愛も。
 透子にそうした感情を教えてくれたのは、慎二だ。
 慎二と出会うまで、そんな感情は知らなかった。家族への愛はあったし、学校の友達の間に好き、嫌いという感情はあった。でも、自分でもコントロールできないほどの激情を知ったのは、慎二と出会ってから―――そうした感情を1つ1つ知ることで、子供から大人に脱皮していった。

 ―――慎二にとっては、それが、多恵子さんだったんだね…。
 慎二にとっての多恵子という存在が、やっと形となって見えた気がする。ただ付き合ってたというだけの関係じゃなく、慎二を変えた人なのだ、と。
 「ねえ。そういう相手だったら、何がなんでも生きて欲しい、って思わなかった…?」
 「思ったよ。でも…引き止めるのは無理だって思った」
 「どうして?」
 「…多恵子の幸せは、地上(ここ)にはないって、分かったから」
 「…地上(ここ)は、多恵子さんに不幸な所だった、ってこと?」
 「それもあったけどね。それ以上に…多恵子にとっての幸せは、別の所にあったから」
 意味が分からず、透子は眉をひそめた。慎二は、一呼吸置くと、どこか遠くを見るような目で口を開いた。
 「―――多恵子にはね。オレより、隼雄君より、もっとずっと愛してた人がいたんだ」
 「…えっ?」
 「隼雄君と出会うよりもっと前から―――ずっとずっと、その人だけを愛してた。その人も、多恵子を愛してた。けれど2人は、この世では結ばれない関係だったんだ」
 「……」
 「だから、2人して、別の世界に行こうとした。そして―――彼だけが行ってしまって、多恵子だけが取り残された。多恵子が15歳の時だって」
 「―――…」
 別の世界―――それが何を意味するのか、分かる。そして、彼だけがそこへ行って、多恵子だけが取り残された、その意味も。
 透子の目が、大きく丸くなる。喉が渇き、冷や汗が背中を伝う。何とか唾を飲み込み、声を絞り出した。
 「じゃ…じゃあ、多恵子さんも…」
 「…うん。多恵子も、“生き残り”なんだ」
 「……」
 「多恵子はこの世に、耐えられない不幸を背負っていて…それを一緒に抱えてあげられるのは、彼しかいなかった。だから―――多恵子の幸せは、彼のいなくなった地上(ここ)にはなかったんだ。…それが分かったから、オレは多恵子から離れることにしたんだよ。生きて欲しかったけど…彼の代わりにはなれないから」
 「…どうしても、代わりにはなれなかったの…? 久保田さんでも…?」
 「―――人は、1人1人がスペシャルだからさ。誰も、誰かの代わりになるなんてできないんだよ」
 苦しげな表情で透子が訊ねると、慎二はそう言って、少し寂しそうに微笑んだ。そのセリフに、慎二が“彼”の代わりになれないのと同様に、誰も多恵子の代わりにはなれないのだ、と言い切られた気がして、透子の胸は痛んだ。
 「…尾道に行く前の、最後の3ヶ月―――多恵子と一緒に暮らして、あちこち行って…いろんな話をして。その中で、この景色の話も聞いたんだ」
 慎二がひまわり畑の方へ目を向けるのにつられるように、透子も目の前の風景へと視線を移した。
 「多恵子の家は、ちょっと複雑な事情抱えてて、多恵子は小さい頃、ずっと施設に預けられてたんだ。その施設の遠足みたいなやつで、小さい頃、このひまわり畑に連れてきてもらったんだって。今まで見た中で、一番綺麗な風景だったって―――でも、小さすぎて、それがどこなのか覚えていないのが残念だ、って言ってた。幸せも不幸せも、何も知らずに施設で暮らしてた頃の、それが唯一の楽しかった思い出だから…オレに見せたかった、って言ってたんだ」
 「だから、場所が分からなかったんだ…」
 「うん。多恵子の親が、その施設がどこなのか知ってる筈だと思ったけど、親の転居先探すのに手間取ってね。施設分かった後も、名前変わったり場所が移動してたり、退職した職員探して東北まで行ったりで、結構時間かかっちゃったよ」
 「え…っ、多恵子さんの親に、教えてもらえたの?」
 久保田の話では難しそうな感じだったのに―――驚いたように目だけ慎二の方に向けると、慎二も同じように透子の方に目を向け、くすっと笑った。
 「お母さんの方に、ね。案の定、多恵子の自殺願望の理由を根掘り葉掘り訊かれて大変だったけど」
 「…私には教えたのに、親には秘密にしちゃったの?」
 少し呆れたように言うと、慎二はそれには答えず、またひまわり畑の方に目を向けてしまった。
 親も知らないことを自分が知ってしまっていいのか、と申し訳ない気持ちもあるけれど…ちょっと、嬉しい。慎二が、透子にだけ話してくれるなんて。それがどんな理由であれ…特別扱いされた気がして。
 「多恵子さんがひまわりを好きになったのも、この景色を覚えていたからかもしれないね」
 透子もひまわり畑へと視線を戻し、そう呟いた。

 日本の原風景の中に溶け込んだような、明るい太陽を思わせるひまわりの花―――真っ青な空に浮かんだ白い雲も、風に揺れる大きな花も、ずっとこうして眺めていたくなるような、幸せな光景だ。
 多恵子がどんな不幸を背負っていたのか、多恵子が求め続けた“彼”がどんな人なのか、透子は知らない。けれど…たった1人取り残された多恵子が、この風景を思い出した時にどんな気持ちになったかは、なんとなく分かる。
 それは、もう戻れない時間への懐古かもしれないし、届かないものへの憧れかもしれない。透子が、家族が生きていたあの時間を思い出して感じる暖かさと痛みを、多恵子もきっとこの景色に対して感じただろう。
 自ら命を絶つ前に、この場所を見つけることができていたら…多恵子は、思い止まっただろうか。
 彼女が求めたものより美しく懐かしい景色を目の前にすれば―――思い止まってくれただろうか。

 「―――電話もしない、手紙も書かない、一切連絡を絶つってことが、約束だったんだ」
 暫しの沈黙の後、慎二が、呟くようにそう切り出した。
 「会わずに、想い続ければ―――信じられるって思ったから。どこかに多恵子が生きてるって、信じられると思ったから。多恵子も、オレが信じたい間は信じさせてあげたいって言ってくれた。だから、どれだけ辛い思いしても、泣きついて電話するような無様な真似はしないよ、って約束したんだ」
 「…うん…」
 「…オレがいなくなったら、多恵子はすぐにでも望みを叶えるかもしれない―――だから、この先の未来を生きさせる方法を、何か考えてくれって、隼雄君に頼まれて…オレ、多恵子に“来年のオレの誕生日に、卒業証書を送ってくれ”って言ったんだ」
 脳裏に、あのキスマーク入りの卒業証書が甦る。思わず慎二の方を見ると、慎二も透子の方を見て微かに笑っていた。
 「それが、あの卒業証書なんだ…」
 「うん。オレも、返事として絵を送ったんだ。それが、オレと多恵子が別れた時―――オレは、そう思ってる」
 「それ以来、連絡は一度も?」
 「約束だからね」
 そう言った慎二の顔から、次第に笑みが消える。大きな溜め息を一つつくと、俯いてしまった。
 「…辛かったと思う。オレって逃げ場失って、多恵子がどんだけ苦しい思いしたか、傍で見てきたオレには分かるから―――死ぬまでの1年半の多恵子を思うと、胸が、痛いんだ。苦しくてもいいから、傍にいてやればよかった、って何度も後悔した。でも…もう、引き止めないって、約束したから―――顔見ればきっと引き止めずにはいられなくなるから…」
 「…うん…そうだよね…」
 「だからオレは、絵を描いたんだ」
 「絵?」
 「ただ漠然と絵を描くのが好きなだけだったオレが、絵を描くことで生きていこうと思ったのは、多恵子と別れる決意した時だったんだ。多恵子に分かって欲しい気持ちを、絵にこめて描くことを覚えて―――オレ、絵を描く意味をやっと見つけたんだよ」
 少し目を丸くした透子は、ふいに、遠い昔の会話を思い出した。

 『じゃあ慎二に、この道を選ばせたモノって、何?』
 『……』
 『何が慎二の背中を押したの? 慎二に絵筆を握らせたモノって、何…?』
 『…忘れた。何がオレに絵を描かせたかなんて―――そんなきっかけ、もう忘れたよ』

 ―――そっか…。だから答えられなかったんだ。
 慎二に絵筆を握らせたのは、生きて欲しいという、多恵子さんへの祈りだ。その祈りを絵に描いて初めて、今の慎二の絵が出来上がったんだ…。

 「最初は、遠く離れた多恵子に伝えるつもりで…そのうち、いろんな人に伝えたくなって―――透子にも、伝えたくて。オレが今みたいな絵を描けるようになったのは、多恵子のおかげでもあるんだ。なのにオレは、多恵子が一番苦しい時期に、傍にいてやれなかった―――何か、多恵子のためにできることないかな、って考えた時…これしか思いつかなかったんだ」
 「…この風景を探すこと…?」
 「うん…それくらいしか、オレにできること、なかったんだ。…情けないよな。こんな凄いもんもらっといて、これしかできないなんて」
 「―――そんなことないよ」
 なんだか、たまらない気持ちになって。
 胸が、苦しくて苦しくて苦しくて―――透子は、手を伸ばして、膝を抱えている慎二の手をぎゅっと握った。
 「きっと多恵子さん、喜んでるよ。一番、幸せな景色を―――慎二に見せたかった景色を、慎二に見つけてもらえて」


 死んでしまった人を笑わせたり泣かせたりするのは、生き残った人間。
 だから、笑って欲しい―――慎二の中に生きる多恵子に。慎二を許して、解放してあげて欲しい。ありがとう、もういいよ、と言って―――思い出に変わって欲しい。

 傷つけられ、夢にうなされてもなお、多恵子のためにこの景色を探した慎二の優しさを思うと、胸が苦しかった。
 だから透子は、祈るような思いで、慎二の手を握り続けた―――慎二の中にいる多恵子が、慎二に「もういいよ」と言ってくれるまで、ずっと。


***


 絵は、その日の夕方にはほぼ完成した。
 とはいえ、これから東京に戻るのでは真夜中になってしまうので、2人はもう1日、民宿のお世話になることにした。
 近くにちょっとした観光スポットがあることもあって、そのこじんまりした民宿は、いつも結構盛況らしい。この日も慎二の他に、関西から来た学生のグループが5名ほど泊まっていて、狭い玄関はスニーカーだらけになっていた。
 夕飯のしたくも大変そうだな、と思った透子は、思い切ってその手伝いを買って出た。狭い台所だから、男では手伝おうにもかえって邪魔になりそうだけれど、透子は小柄だし慣れているので、きっと役に立つと思ったのだ。

 夕食を並べるのを手伝っていると、民宿のおかみさんが興味津々の顔で透子の顔を覗きこんできた。
 「あの…何か?」
 怪訝そうに透子が訊ねると、おかみさんは、妙に感心したような声を漏らした。
 「はー…。やっぱり、工藤さんが言ってたとおり、かわいらしい顔してるわ」
 「は!?」
 「工藤さん、しょっちゅうカレンダー気にしてるから、可愛い恋人でも残してきてるんじゃねえか、長いこと留守にしてたら悪い男にさらわれるぞー、てからかったら、“そりゃあ、もの凄く可愛いですけど”って真っ赤になって言ってたさ」
 「……」
 「2日前まで若い女の子も泊まりにきてたから、工藤さんみたいなのが1人で来てりゃあ、そりゃ興味持って声もかけるわ。けど工藤さん、東京に恋人いるから勘弁してくれって言って、さっぱり相手にしなくてねぇ。でも、あの人の困った顔は、母性本能くすぐられて、女の子にしてみりゃかえって逆効果だわ。あはははは」
 思わず振り返って、足元にじゃれつくこの宿の飼い犬を苦労して引き剥がしている慎二の姿を凝視してしまう。
 ―――どういう意味…?
 心臓が、妙な具合に暴れる。勿論、慎二が言った“恋人”が自分だと決まった訳ではない。多恵子のことを指していると考えることだってできる。でも―――…。
 無意識のうちに、指先で、唇に触れる。つい、考えてしまう。まだ聞いていない、あのキスの意味を。
 「はい、これで最後の酢の物だよ」
 お盆の上に、小鉢が更に2つ置かれた。我に返った透子は、慌ててそれを二間続きの食卓へと運んだ。

 

 男ばかりで気の毒だから、と、宿のおかみさんは透子だけ家族用の風呂を貸してくれた。
 体育会系の同年代の男性ばかり揃っていて、夕飯時にはかなり気まずい思いをした透子なので、おかみさんの気遣いはありがたかった。慎二が隣にいるので、あからさまに妙な態度をとる人は誰もいなかったが、それでも時折向けられる興味あり気な視線はちょっと怖かったのだ。
 「昼間、さんざん遊びまわったから、完全に眠りこけてるねぇ」
 風呂からの戻り道、学生グループの部屋の前を通ったおかみさんは、そう言ってクスクス笑った。確かに、廊下まで賑やかないびきが聞こえてくる。透子もおかみさんと顔を見合わせて笑ってしまった。
 部屋の前でおかみさんと別れた透子は、ふすまを開ける前に、ちょっと深呼吸をした。
 ―――同じ部屋ってのも、ちょっと緊張するなぁ…。
 添い寝してもらったこともあるし、今だって同じ家に住んでいるのだから平気と言えば平気なのだが…やっぱり、ちょっと普段通りとはいかない。眠れないかも…と思いながら、透子はふすまを開けた。
 「慎二…?」
 眠ってるかな、と思ったが、慎二は起きていた。旅をしている途中で買ったらしき本を、枕もとの灯りで読んでいた。
 「あー、駄目じゃない。ちゃんと寝てなきゃ」
 「寝転がってるよ。それに、随分気分良くなったし」
 ふすまを閉めながら口を尖らせる透子に、本から目を外した慎二は、そう言って苦笑を返した。その枕元には、さっきまで額に乗せていた濡らしたタオルが置かれている。
 ここ数日、炎天下で絵を描いたりしたものだから、その疲れが一気に出てしまったらしい。夕飯をとった後、慎二は熱を出してしまったのだ。「時々日陰に入ってちゃんと休憩してたんだけどなぁ」と慎二本人は呑気なことを言っていたが、透子からすれば冷や汗ものだ。
 「もう熱はかなり下がったよ」
 「だぁめ。帰ったらレバーとほうれん草ね」
 「…はいはい」
 本を取り上げられた慎二は、仕方なさそうに返事すると、大人しく斜めに向けていた顔を仰向けに戻した。どうやら、素直に眠ってくれるつもりらしいと悟った透子は、取り上げた本を壁際に置かれた文机の上に置いた。
 枕もとの灯りを豆電球にして、自分の布団の中にもぐりこむ。慎二がいることをこれ以上意識してしまわないうちに眠った方が得策だと思ったのだが、昼間聞いた話やおかみさんから聞いた話が頭の中に渦巻いていて、到底眠れそうになかった。

 「―――透子…ごめん」
 ふいに、薄闇の中から、そんな声が聞こえた。
 天井を見上げていた透子は、慎二の寝ている方へと顔を向け、眉をひそめた。
 「ごめん、って?」
 「寂しい思いさせて。2ヶ月も」
 「……」
 顔の表情を伴わないその声から、慎二の心情を読み取るのは難しかった。透子は、少し体を起こすと、右隣の少し離れた所に寝ている筈の慎二の方を窺った。
 「…佐倉さんの所に行かずに待ってたのは、私の選択だもん」
 「それでもさ」
 「…そう思うなら、別々に住もうなんて、もう言わないでよ」
 「……」
 沈黙だけが、返ってくる。僅かな灯りの中では、慎二の輪郭が見えるだけで、表情はやっぱり見えなかった。
 思い切って起き上がった透子は、膝歩きで慎二の傍までにじり寄った。電気をつけようか、と一瞬迷ったが、顔が見えない方が話がしやすいかもしれない、と思ってやめた。
 辛うじて確認できる慎二の表情は、困ったような、辛そうな顔だった。暗さに慣れたせいか、慎二の目も透子の目をちゃんと捉えている。
 「…ねぇ、慎二」
 「―――うん」
 「私…やっぱり、慎二と離れて暮らす気にはなれない。今回だけじゃなく、この先もずっと」
 「…だから、それは…」
 「誤解されても、非難されても、私は構わないもん。だから…一緒にいさせてよ」
 必死の透子の言葉に、慎二の表情が、余計辛そうになる。それを見た透子の表情も、辛そうなものに変わった。
 涙のこみあげてきそうな予感に、透子は軽く眉を寄せると、慎二の頭のすぐ横に手をついた。そして―――慎二の唇に、静かに自分の唇を重ねた。

 ファーストキスの時と同じ、淡雪みたいに儚い感触。
 本当はもっとちゃんとしたキスをして、自分の想いのたけをぶつけてしまいたいと思ったけれど、怖くてできなかった。怖い―――拒まれたら、制止されたら、どうしよう。僅かに触れるだけのキスに、不安から心臓が震えた。
 けれど、慎二は、突っぱねるようなことはしなかった。
 熱が残っていてだるいせいか、それとも他の理由があるのか―――透子を押しのけることも、引き寄せることもしなかった。

 恐る恐る唇を離して目を開けると、同時に涙が目に浮かんだ。
 ぼやけた視界の中、慎二の表情が少しだけ見えた。怒っている顔でも、迷惑そうな顔でもない。ただ…困ったような顔をしていた。
 「…こんなキス、しちゃ駄目だよ」
 宥めるような慎二のセリフに、瞬きした透子の目から涙が零れ落ちた。
 「自分はした癖に、そういうこと言うの…?」
 「……」
 「唇は特別な場所だって言ったじゃない。本当に好きな人のための場所だって。なのに、そんなこと言うの…?」
 「…透子…」
 「言わなくても、分かってる。慎二から見たら、私なんて子供だって。慎二の言う“好き”は、私とは違うって。でも―――でも…っ…」
 零れ落ちた涙が、頬に伝う。それを指ではらおうとした透子の手を、慎二が掴んで制した。
 涙でぼやけて、慎二の顔がよく見えない。自分の手首を掴んだ慎二の手は、熱のせいか、酷く熱かった。今、慎二は、どんな顔をしているのだろう―――それを確かめたくても、霞んで見えない。
 「…分かってないのは、透子の方だよ」
 僅かに、感情を押し殺そうとしているような慎二の声がした。
 「透子は、子供なんかじゃない。…だからこそ、離れて暮らそうって言ってるのに」
 「……」
 「…おとといより、昨日より…どんどん大人になって綺麗になる透子を見ながら、オレが毎日、どんな思いで一緒にいたか―――透子には、分からないよ、きっと…」
 「―――……」

 ―――頭が、混乱、する。
 言葉を失ったまま、慎二の言葉を、頭の中で何度も何度も繰り返す。都合のいい解釈をしてないか、何かを聞き間違えてないか、何度も自問する。けれど…何度やっても、1つの答えにしか辿り着かない。
 それは―――それは、慎二も、透子と同じ意味で、透子を“好き”だという答え。

 大きく見開いた透子の目から、また涙がパタッ、と音をたてて落ちた。
 視界が、少しだけはっきりする。その先に見えた慎二の顔は、どことなく寂しげな―――けれど、愛しいものを見るような笑顔だった。
 「…透子より大切なものなんて、ないよ」
 「…慎二…」
 「だから―――取り返しつかなくなる前に、離れて暮らしたいんだ」
 「…どうして…? 分かんないよ、なんで? 慎二も好きなら、それでいいじゃない。なんで?」
 「―――誓ったから。透子のお父さんと、お母さんと、紘太君に」
 手首を掴んでいた手が離れて、頬へと伸びる。涙の雫を指先で掬うと、そのまま透子の頬を撫でていく。
 「3人の分も、透子には幸せな人生を歩んでもらうって。そういう人生を歩めるように、オレは透子が大人になるまでちゃんと見守るって」
 「…私、幸せだよ…? 今、慎二といて幸せなのに…」
 「―――オレは、透子にはふさわしくないよ」
 「そんなこと…」
 反論しかけた透子の唇に、慎二の指先が触れた。黙って、というように。
 「…昼間の話、覚えてるだろ? 多恵子と出会った経緯考えても分かるとおり、昔のオレって、会ったばかりの人でもキスしたり寝たり…そういう奴だったんだよ。透子が想像してるより、ずっと汚れた人間だし、まともな大人が生きるべき道から、ずっと外れてた人間なんだ」
 「……」
 「今回みたいに、透子残してふらふら旅にも出ちゃうし、佐倉さんに甲斐性なしって言われちゃうような仕事の仕方しかできないし―――大人になった透子を守るには、オレは力がなさすぎる。透子を幸せにできる自信なんて、欠片もないんだよ」
 ―――幸せにする、自信…?
 理解、できなかった。慎二といる以外の幸せなんて、透子には思いつかない。眉根を寄せた透子は、涙で掠れてしまった声で訊ねた。
 「…慎二が言う“幸せ”って、何…?」
 「―――透子が、何の心配もなく、穏やかに生きられること。…頑張りすぎちゃう透子が、頑張らなくても生きていけること」
 「……」
 「透子と同じ速度で歳をとっていけて、オレよりまともな人生歩んでて、オレより健康で…透子に寂しい思いなんて一生させないような人―――そんな人が、透子にふさわしい人だよ」
 ―――そんな幸せ、私は、いらないよ…。
 言葉にならなくて、無言のまま小刻みに首を振る。どうして、分かってくれないのだろう? そんな幸せが欲しいなんて、一度も思ったことなどないのに。
 それ以上に―――慎二がいなければ、どんな幸福も、幸せとは感じられないのに…。
 「…慎二が、どんな人生歩んできたとしても、そんなの関係ないもん。今の慎二は、その人生があったからこそ、今の慎二になったんでしょ…? だったら、いいじゃない、それで」
 「…透子…」
 「稼ぐためにあくせく仕事してる慎二なんて、全然好きじゃないもん。今の慎二でいいじゃない。慎二の心配いろいろするのも、私、全然嫌じゃないよ? ちょっと家空けて寂しい思いするの位…」
 「透子」
 言い聞かせるように、少しきつく名前を呼ばれ、透子は言葉を飲み込んだ。
 真下から見上げてくる慎二の目は、透子の言葉程度で揺らぐようなものではなかった。日頃の慎二の優柔不断さなんて欠片もない…決して意志を曲げようとはしない目だった。それに気づき、絶望に限りなく近いものが、透子の胸の中に広がっていった。

 頭の中で、シグナルが点滅する。
 なんだろう、これは―――こんなにも頑なに透子を引き離そうとする慎二に、何故か、違和感を感じて。
 好きなのに、遠ざける。構わないと言っているのに、否定する。どうして、どうして、どうして―――頭の中に、その疑問ばかりが渦巻く。何か理由がある筈なのに、その答えが見えない。

 頬に置かれた手が、首の後ろに回り、透子を引き寄せた。
 少しだけ体を浮かした慎二は、透子の唇に、軽くキスをした。さっき透子からしたキスと、ほとんど変わらないキスを。
 「―――世界中で一番、愛してる」
 「……」
 「だから…世界中で一番、幸せになって。透子」

 ―――どうして、分かってくれないの…?
 慎二の言う“幸せ”なんて、私はいらないのに、どうして…?

 寂しげな慎二の微笑に、透子は返すべき言葉を失っていた。
 だから、こう言うだけで、精一杯だった。
 「…すぐには、イヤ。お願い―――来年の春まで…3年生の間だけは、待って」
 決して揺らがなかった慎二の目が、僅かに揺れる。
 「春までは、一緒にいて。…お願い…」
 必死の思いでの懇願と同時に、また、涙が零れ落ちる。涙に弱いせいなのか、それとも、大事な試験を年明けに控えている透子のためを思ったのか―――慎二は小さく息を吐き出すと、透子の涙を指で拭った。
 「…分かった。来年の春まで」
 「うん―――来年の、春まで」


 春までに、慎二が頑なに自分を遠ざけようとする理由が見つかるだろうか?
 確信など何もない。けれど―――来年の春で終わりにする気など、毛頭ない。

 リミットは、来年の春―――透子は、枕元についた手にぎゅっと力を入れると、今度は自分の方から口づけた。慎二の気持ちを、変えてみせる―――その決意を誓うように。


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