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むかし、ひとつの、恋をした。
彼女との恋は、常に終わりを予感しながらの恋だった。
いつか終わる恋ならば、彼女が少しでも笑顔でいてくれるよう、遊び慣れた奴のフリして漂っていようと思った。
他の男の名前を口にしながら抱かれる彼女を、憎んだこともあった。自分以外の名前で呼ばれる―――それは、オレにとっては一番苦しく、辛いことだから。
自殺を何度も繰返す彼女に、耐え切れず、もう二度と会わないようにしようと思ったこともあった。手首に幾筋も残る傷―――それは、嫌が応にも、オレに母さんのことを思い出させるから。
それなのに。
オレは、彼女の傍に居続けた。終わりを予感しながらも、ずっと。
…いや。
いつかは行ってしまうと分かっていたからこそ、彼女の傍に居たのかもしれない。
大切な
オレもまた、いつも終わりを予感しながら生きている人間だから―――決してオレに“永遠”を求めない彼女に寂しさを覚えながらも、一方でそのことに安堵し、あんなにも愛することができたのかもしれない。
そんな自分のずるさに気づいたのは、透子と出会ってから。
透子と出会って―――その真っ直ぐな視線に囚われた自分を自覚した瞬間から。オレは、自分ほど卑怯な人間はこの世にいない、と思うようになっていた。
***
「透子」
声を掛けてドアを開けると、エンドレスで流しているCDのメロディが微かに流れてきた。
「透子、佐倉さんが…」
言いかけて、やめた。
透子は、机に突っ伏して、眠っていた。やりかけのレポートを下敷きにして。その寝顔は、僅かに蒼褪めているように見えた。
それは、決して、他人には見せない顔。
…慎二にも、なかなか見せてはくれない顔。
本当は、起こすべきなのだけれど。
少しでも長く眠らせてあげたくて、慎二は、透子を起こすことなく、静かにドアを閉めた。
「あら? どうしたの、透子は」
透子を呼ぶことなくキッチンに向かう慎二に、佐倉は不思議そうに目を丸くした。ケトルを手にした慎二は、苦笑のような、困ったような笑いを浮かべ、佐倉を振り返った。
「あ…うん、眠ってた。起こすのは可哀想だから、寝かせておこうと思って。せっかく来てくれたのに、ごめん」
「あたしはいいけど。どのみち、キミとの仕事の打ち合わせのために来たんだから」
「コーヒーでいいかな」
「あ、お構いなく。お茶なんていいから、早く座りなさいよ」
灰皿代わりの空き缶を引き寄せながら、佐倉はそう言って慎二に手招きした。
打ち合わせにしろ何にしろ、客にお茶も出さないのはちょっと…と思った慎二だったが、執拗な手招きに負け、ケトルを置いた。
向かい側に慎二が腰を下ろすのを待つのももどかしく、煙草を取り出した佐倉は、「いい?」という風に首を傾げる。「どうぞ」という風に促すと、ニッと笑った佐倉は、即座にバージニアスリムを口にくわえ、ライターで火をつけた。
「相変わらず、本数の減る様子がないね」
「そうねぇ。今後は、むしろ増えるかも。美容に気を遣う割合がぐっと減るからね」
「…本気で、完全に引退する気なんだ」
本来なら、去年いっぱいでモデル稼業をやめる気でいた佐倉だったが、契約の関係で若干ずれ込んでしまい、今月末の撮影が最後になるのだという。辞めた後は、かねてからの計画通り、モデルエージェントの事務所を開設する。慎二に依頼される仕事も、その新しい会社のパンフレットのデザインなのだ。
デザインは本来、慎二の専門分野ではない。が、佐倉は構わないと言う。「使えるものは使わなくちゃね」の精神で、事務所立ち上げに際しては、あらゆる「使える知り合い」が動員されているらしい。慎二も、そういう「使える知り合い」の1人だった訳だ。
「今までも忙しかったけど、これからますます忙しくなるわ。本気で、お嫁に来てくれる子が欲しい位。透子なんかいいなぁ…料理上手いし、家計任せても安心だし。本人の自覚はなさそうだけど、観賞用としても結構いけてるしね」
「…佐倉さん…」
呆れたような顔をする慎二に、佐倉は楽しげにクスクス笑い、煙草の煙を吐き出した。
「冗談よ」
「…当たり前でしょう」
「で? その後、どうなったの」
「何が?」
「透子とよ。気象予報士試験も終わったんでしょ。透子、試験終わるまではデートより勉強優先なんだ、って寂しそうに言ってたわよ?」
―――ああ…なんだってこの人に、そういうことリークしちゃうかな。
佐倉の性格を、透子はまだよく読み切っていないらしい。はあぁ、とため息をついた慎二は、思わずこめかみを押さえた。
「佐倉さん―――仕事の打ち合わせに来たんだよね?」
「そうよ。でも、仕事よりそっちの方が興味あるし」
「…仕事の話、しようよ」
「気になって仕事にならないから、こっちが先。ね、本当のところ、どうなのよ。恋人らしいこと、何かした? もう手、出しちゃった?」
「……」
こういう時の佐倉は、ちょっと多恵子が乗り移ったみたいで、扱いに困る。
慎二がこういう話題に弱いのを知っていて、わざとからかうように、答え難いことを執拗に訊いてくる。だてに多恵子の親友をやってた訳じゃないよな、と、こういう時、つくづく思う。
気まずさに少し顔を赤らめた慎二は、じっと見つめてくる佐倉から視線を逸らした。
「―――別に、何も、ないよ」
「何も、って?」
「今まで通り、ってこと」
「…は? じゃあ、何? せいぜいキス止まり?」
「…そういうこと」
「バッカじゃないの!?」
心底馬鹿にしたような呆れた声で叫ぶと、佐倉は、視線をそらしたままの慎二の額を指で弾いた。
「キミねぇ。透子を大切にするのもいいけど、そんなにイイコでいると、そのうち透子に逃げられちゃうんじゃない? さっさとモノにしないと」
「…分かってます。分かってるけど、佐倉さんは1つ、大きな勘違いをしてると思う」
「何が勘違いよ」
「キス止まりになってる理由は、オレじゃないよ。透子の方」
「……」
意外な話だったのだろう。キョトンとした顔をになった佐倉は、呆気にとられたような顔で、二の句が告げなくなってしまった。
「…まあ、そういうことだから。佐倉さんは、心配しなくていいから」
「―――なんだか、全然、事態が飲み込めないんだけど」
「飲み込めなくてもいいから。ほら、仕事の話に入ろう?」
これ以上、この話を引きずる気はなかった。慎二は、まだ唖然とした顔のままの佐倉を放っておいて、脇にどけておいたスケッチブックや資料をテーブルの上に並べ始めた。
佐倉は相当納得のいかない様子だったが、ことの真相を聞き出すのは難しいと判断したのか、大人しく仕事の資料をバッグから取り出した。
「けど…慎二君が透子とくっつくとは、ちょっと意外だったわね」
「……」
「どっちの気持ちも、それなりに気づいてたつもりではいたけど―――慎二君は、多恵子の思い出と心中する気でいるのかと思ってた。透子を好きでも、多恵子ほどではないのかな、ってね」
「…そんなの…比較にならないよ」
佐倉はこの言葉を、どちらの意味に取ったのだろう。からかうように口笛を吹くと、
「一体、いつからよ」
と言って、慎二の目を覗き込んだ。
「…さあね」
曖昧な笑みを浮かべた慎二は、今度こそ、その話題を完全に切り上げた。
―――いつから?
そんなのは、決まっている。
透子は、最初から“特別”だった。
何故なら―――透子は唯一、いつも誰かに見つけてもらいたがっていた慎二が、自ら“見つけた”存在だったのだから。
***
「…あの…キミ、大丈夫?」
そう、声をかけて―――うずくまっている子供が顔を上げた時、さすがに、息を呑んだ。
ペルシャ猫を思わせる、大きな印象的な瞳。
心労のせいか、頬もやつれて見えたから、余計に―――その見知らぬ少女は、出会った頃の多恵子と、重なって見えた。
慎二の顔を見上げた彼女の頬に、一筋、新たな涙が伝った。
抱きとめてやりたい。衝動的に、そう思った。なのに―――彼女は何も答えず視線を逸らすと、また顔を伏せてしまった。生まれて初めて経験した、はっきりとした“拒絶”に、慎二は戸惑い、どうしていいか分からずにいた。
小さすぎるその体は、全身で慎二を拒んでいた。いや…慎二だけじゃない。微かに震えながら声を押し殺して泣く姿は、全ての人を拒絶していた。
でも、拒絶されるがままに踵を返すなんて、できなかった。
彼女の傍へ歩み寄った慎二は、いまだ顔を上げようとしない彼女傍らにしゃがみこみ、彼女の頭を緩く撫でた。
「―――お父さんとお母さんは?」
訊ねても、答えは返ってこなかった。が…暫く頭を撫でていると、やっと少しだけ、返ってきた。
「…みんな、いなくなっちゃったの」
「……」
「…私、ひとりぼっちになっちゃったの」
楽器を思わせるような柔らかで伸びのある声は、涙のせいでしゃくりあげ、僅かに掠れていた。
言い終わると同時に、彼女の震えが更に激しくなる。傷だらけの手で抱えた膝を余計引き寄せて、彼女は少しだけ、声を上げて泣くようになっていた。
彼女の言葉から、今目の前にある焼け焦げた瓦礫の中で、彼女の家族が全員息絶えたのだ、ということは容易に想像できた。彼女自身、相当な怪我を負っているが、助かったのは奇跡に近いだろう。
彼女は、生き残ってしまったのだ。
慎二が、奇跡によって生かされてしまったように。多恵子が、共に死のうと誓い合った人に、最後の瞬間助けられ、生き残ってしまったように―――置いていかれた。たった一人、絶望しか存在しない世界に。
「―――じゃあ」
慎二は、彼女の頭から手を離すと、膝を抱えている彼女の手に、自分の手を重ねた。
「オレ、一緒にいるよ。…オレも一人だからさ」
「―――…」
震えていた彼女の肩が、小さく跳ねた。
ゆっくりと顔を上げた彼女の目が、慎二を捉える。けれど、その目は、驚きも喜びも拒否感も示してはいなかった。ただ―――嘆き以外の感情が凍りついてしまったみたいに、無表情、だった。
慎二を必要としているとは思えない…家族以外は必要としていない、そんな瞳。
けれど―――慎二は何故か、手を離すことが出来なかった。
「…キミ、名前は?」
うっすらと笑みを作り、訊ねる。彼女は、まるで条件反射のように、一切表情に変化を見せずに、答えた。
「―――とう…こ」
「…オレは、シンジ」
両手で、小さな手を握り締める。
自分に少しも救いを求めていない手―――でも、初めて自分の方から握り締めた手。その手は、瓦礫を掘り起こそうとしたからなのか、10本すべての指の爪が、痛々しく割れてしまっていた。
透子は、すぐには慎二に懐いてはくれなかった。
まるで影のようについて歩く慎二を、追い払わない代わりに、その手を取ろうともしなかった。一言も喋らず、感情の消えうせた顔で前を見つめるばかり―――もしかしたら、誰のことも目に入っていなかったのかもしれない。
それが、初めて変化したのは、出会った日の翌日の夜―――救命活動を優先した結果、やっと透子の家族の遺体が収容され、その遺体確認に赴いた時だ。
初めて見る透子の両親と弟を前に、慎二は、吐き気を堪えるだけでやっとだった。
人の死に直面するのは、初めてではない。兄の死に顔は覚えているし、その時のショックだって生々しく覚えている。けれど―――突きつけられた現実は、そんな経験では追いつかないほど、過酷なものだった。
顔面蒼白になった透子は、それでも、必死に家族のもとへと駆け寄った。けれど、その足取りは危なっかしく、今にも倒れてしまいそうに見えた。慎二は、こみ上げてくる吐き気を必死に堪えながら、透子の手を握り続けた。
父と母は、燃え残った指輪を確認することで、本人と判別できた。
が―――残る、たった7つの弟は、判別が難しい。身につけていたもの全てが焼け落ち、手がかりは何も残っていなかったから。それでも透子は、ただ1人生き残った責任を果たそうとするかのように、見るも無残なその遺体から離れなかった。何ひとつ見落とすまいと、震えながら、弟の痕跡を探した。
そして、やっと見つけたのは、偶然家具の下敷きになっていて、僅かに生身のまま残っていた、右足の親指。
それを見つけた途端―――透子は、何かの糸が切れてしまったかのように、ガクリと膝を折った。
それまで感情を顕わにしなかった透子が、自分の方から、慎二の手に縋りついた。そして、大声を上げて泣き崩れた。紘太、紘太、と何度も弟の名前を泣き叫ぶ透子を、慎二は、ただ抱きとめてやることしかできなかった。
震災の前日、寝る前に、紘太の足の爪を切ってやったのは、透子だった。
手元が狂って、右足の親指を深爪にしてしまい、紘太を泣かせてしまった。
『ごめんね、紘太、ごめんね。お姉ちゃん、明日紘太の好きなプリン買ってきてあげる。だから、もう泣かんといて』
そう言って宥めたけれど…透子が紘太にプリンを買ってあげる筈だった“明日”は、来なかった。紘太との最後の思い出は、皮肉にも、紘太の死を確認する決め手となったのだ。
透子は、泣いて、泣いて、泣いて―――声が出なくなるまで、ずっとずっと泣き続けていた。
そして…その間ずっと、慎二の腕に抱きついていた。
その時から、少しずつ。透子は、慎二に心を開いてくれるようになった。
無彩色の世界に、少しずつ色がさしていくように―――凍っていた透子の心は、少しずつ、少しずつ、春の日差しに融けだしていって。
そして、慎二にだけ、やっと笑顔を見せてくれるようになった時。
慎二は、決心した。この子を尾道に連れて行こうと。
慎二はずっと、満たされていなかった。
兄を失い、正気を失った母が自分を兄の名で呼んだ日から―――いつもいつも、満たされていなかった。自分を、誰にも代わることのできない存在として必要として欲しいのに、必要とされなくて。誰かの代わりではなく求められたいのに、いつも誰かの代わりにしかなれなくて。
多恵子を愛した時も、いつも、どこかで寂しさを覚えていた。
多恵子は、自分を必要としてくれた。けれど…それは、本当の望みを叶えられない苦しさを紛らわすための、一時の“夢”として、だったから。多恵子を生かしているのも、多恵子が心から望んでいるのも、自分ではない。それが分かっていながらの恋は、寂しくて、悲しかった。
けれど、透子は。
透子だけは、その思いの全てで、慎二だけを必要としてくれる。目で、言葉で、慎二の傍にいたいと言ってくれる。そんな透子の眼差しだけは、慎二も信じることができる。
透子が、真っ直ぐな眼差しで「慎二」と名前を呼んでくれると、満たされなかったものが、ゆっくり満たされるのを感じた。
透子の心が、少しずつ融けだしていったのと同じように―――慎二もまた、いつの間にか凍っていたものが、少しずつ、融けていくのを感じていたのだ。
問題を抱えすぎた自分が、人並な家庭を築けるとは思っていない。
だから、いつか自分の子供に注ぐ筈の愛情も、全部透子に注いであげよう。
透子が望む限り、ずっと傍にいてあげよう。いつか透子が恋をしてこの手を離れる時は、透子の両親が見られなかった透子の花嫁姿を、自分が代わりにこの目に焼きつけよう。そして自分は―――多恵子は生きていると信じながら、一生、多恵子の思い出だけを胸に生き続ければいい。
そう、思っていた。
―――筈、だった。
愛しい、という想いの中に、あってはならない想いを見つけてしまったのは、透子が高3の時。
はるかが、慎二が東京へ戻ることを知ってしまい、泣きながら縋ってきた時だった。
「忘れてもいいの―――工藤さんが誰かのキスを覚えていたいのなら、私のことは忘れてもいいの。だから…お願い。今だけ、離さないでいて」
終わりにするから、抱いて下さい。そう言うはるかを、慎二は拒みきれなかった。
こんな時、慎二が罪悪感を感じる相手は、いつも多恵子だけだった。多恵子だけを覚えていたい、そう言った筈なのに、拒みきれず応じてしまう自分が嫌だったから。
けれど。
この時―――慎二の脳裏に蘇ったのは、多恵子ではなかった。
『東京の大学に、行く。たとえ、ひとり暮らしすることになったとしても―――私、東京の大学に行く』
そう宣言して、真っ直ぐに慎二の目を見据えてきた、大人びた透子の瞳。
オレも東京に行くよ、と答えた時に、その目から静かに零れ落ちた、キラキラと光る、綺麗な涙。
透子の中に初めて“女性”を感じて、ドキリとさせられた瞬間。あの時のことが、驚くほど鮮やかに、脳裏に蘇ったのだ。
透子もいつか恋をして、こんな風に、誰かに抱きしめられる日が来る。今、自分に向けてくれているような真っ直ぐな視線を、自分の知らない誰かに向ける日が来る。
遠い遠い未来―――そう思っていたものが、すぐそこまで近づいているのを感じて、背筋が冷たくなった。
そして、背筋が冷たくなるほど、その日が来ることを恐れている自分に気づき―――愕然とした。
手放さなくてはいけないのに。
自分は決して、透子を最後まで幸せにできる人間ではないのに。
期限付きでなければ、保護者という立場でなければ、透子を愛してやれない人間―――そんな人間が、透子に“永遠”を求めるなんて、許されないのに。他の男に渡したくない…そんな想いに駆られるなんて、間違っているのに。
慎二は、気づいてしまった己の想いを、心の奥底に閉じ込めた。
神戸を去る時、透子の両親に誓った。透子が一人前になるまでは、何があっても見守っていく、と。気づいてしまったものを封印しなくては、その約束を守ることはできなかった。
それは、思いのほか上手くいっているように思えた。少なくとも…透子の気持ちに、気づくまでは。透子の視線の意味を知ってしまってからは、毎日、苦しかった。
そして、気づいた。
多恵子との恋では、こんな苦しさは味わうことはなかったな―――と。
終わりを決意していた多恵子と、終わりを運命付けられた自分。2人の間に“永遠”という選択肢は始めからなかった。望まなかった、と言ったら嘘になる。けれど、無理だということは、本能的に分かっていたから…悲しくはあっても、苦しくはなかった。
多恵子の願いを叶えるために、別れて、尾道に行くことを選んだ。
では、もしも多恵子との関係に終わりが定められていなかったら…自分は、どうしていただろう? …やっぱり、尾道に行ったのではないか。そんな気がした。
なんて、卑怯な人間なのだろう。自分という人間は。
どんな形であっても―――たとえ愛されなくても、多恵子の代わりに過ぎなくても、傍にいたい。そう必死に訴える透子に比べたら…逃げることしか考えられない自分は、なんてずるい人間なのだろう。
『慎二に、“家族”を取り戻してあげたい。慎二が1人きりにならないように、傍にいてあげたい―――他の人じゃ駄目、私がやりたいの。慎二を幸せにする役だけは』
全てを知った上で、透子がそう言った時―――これ以上、逃げ続けるのが、嫌になった。
透子を、幸せにしたい。
けれど…自分も、幸せになりたい。
人間ならば、当たり前の願い。その2つの願いが、透子といることで、満たされるのならば…逃げずに、前に進んでみよう。
そう思うことができた時、慎二は、やっと一歩、踏み出すことができた。
***
打ち合わせが終わり、佐倉を見送った慎二は、そっとドアを開け、透子の部屋の中を覗き込んだ。
透子は、さっきとは微妙に違う格好ではあるが、やっぱり眠っていた。
苦笑した慎二は、机の上で虚しく音楽を奏でていたCDラジカセを止め、ベッドの上に放り出してあった厚手のカーディガンを、透子の背中に掛けた。が、そうしたことが、透子の目を覚まさせてしまったらしい。
「―――ん…」
一瞬、眉根をぎゅっと寄せた透子は、ノロノロと目を開けた。
パチパチと、何度か瞬きを繰返す。そして、その目が慎二を捉えた途端―――慌てたように、ガバッと体を起こした。
「や、やだっ! 私、寝ちゃってた!?」
「うん。そりゃもう、スヤスヤと」
「やだーっ、起こしてよ、もうっ」
クスクス笑う慎二を少し睨むようにしながら、透子は顔を赤らめ、起き上がった拍子にずり落ちそうになったカーディガンを引き上げた。
「佐倉さんが打ち合わせに来てたから、起こそうと思ったんだけどね」
「え、佐倉さん、来てたの? だったら余計、起こしてくれればよかったのに」
「うん。でも―――透子、このところずっと、大変だったから。…あんまり無理しない方がいいよ」
「…うん…大丈夫。このレポートが上がれば、一旦は小休止だから」
ちょっと笑顔を見せた透子は、そう言って軽く伸びをした。そうしながらも、透子の中に何か1本、ピンと張り詰めた糸のようなものを、慎二は感じた。
2週間ほど前、透子と出会ってから6度目の1月17日を迎えた。そして―――気象予報士試験は、その僅か10日後だった。
これまでに比べて落ち着いてはいるものの、やはりこの時期、透子の精神状態は不安定になる。それに加えて、今年は、慎二の母のこと、慎二自身のこと―――それに、年末にやっとのことで足を踏み入れた、“現在”の神戸のこと。透子の心は、あまりにも沢山のことを感じ過ぎて、オーバーヒート寸前だったに違いない。
試験の結果発表は、まだ1ヶ月も先だ。けれど、試験から帰って来た透子は、目つきが変わっていた。
よほど酷い結果だったのか、と心配したが、そうではなかったらしい。あと少し頑張れば、なんとかなったかもしれない…そういう出来だったのだそうだ。地に足をつけて勉強に専念できなかった自分が悔しかったのだと言う。
夏の試験は、絶対受かってみせる―――そう呟いた透子は、その日のうちに、とんでもない行動に出た。なんと、ずっと続けていたファーストフードでのアルバイトを辞めたのだ。
「あ、そうそう。明日ね、バイトの最終面接があるんだ。担当の人、多分決まると思うから、って耳打ちしてくれた」
再びシャープペンを手にした透子は、慎二を仰ぎ見て、少し嬉しそうに笑った。
「へえ、早いね。まだあれから1週間経ってないのに」
「うん。だって、春休みからは、本格的にやりたいんだもん」
透子が新たなアルバイト先に選んだのは、科学館のアルバイトスタッフだった。
プラネタリウムの係員がやりたい、と思ったらしいが、その募集はかかっていなかった。でも、科学館の展示物の中には、地学に関するものが少なくない。少しでも気象と関わりのある仕事がしたいから、と選んだ仕事だ。
机の前の壁一面に貼られた、沢山の空の写真。机の上に散りばめられた、沢山の天気図や難しそうな計算式―――その先に何があるのか、慎二は知っている。
『空を見て、地面を見て、季節の移り変わりを見ていくの―――“春”を見つけるカイト君に、今度は私がなるんだ』
透子が、追い求めるもの。
真っ直ぐに見つめるその先にあるのは、きっと、慎二が求めているものと同じもの。
感じた季節を―――春の柔らかな光を、夏の激しい気流を、秋の物憂い風を、冬の張り詰めた空気を、気づかない人に伝えたい。日々、見過ごしてしまっている、沢山の“命”の光―――それを見つけて、誰かに伝えたい。
「…頑張り過ぎない程度に、頑張れ」
ぽん、と透子の頭に手を置いて慎二が言うと、透子は、少しはにかんだような笑みを浮かべた。そんな透子がほほえましくて、慎二は、その唇に軽くキスをした。
途端―――透子の顔が、あっという間に、真っ赤に染まる。
―――ほらね。
過激なことを言うのに、いざとなると、こんなキスだけで真っ赤になるんだから。透子は。
愛されてる実感を求めて、慎二の方が焦ってしまうようなことを口にする透子。まだ私を子供扱いしてるんでしょ、と拗ねてみせる透子。
でも、本当の透子は、笑ってしまうほどに初心で、怖がりだ。
「…酷いよ、慎二。笑うなんて」
「あはは、ごめん」
思わず笑ってしまう慎二を見て、透子はますます真っ赤になった。耳まで赤くなるその様子が楽しくて、慎二は、透子の頭をくしゃっと撫でた。
時間は、まだ、いくらでもある。もう逃げないと、決めたのだから。
だから、ゆっくりでいい。
雪が、太陽の光に、少しずつ少しずつ融かされていくように―――そんな、スロー・テンポな、恋でいい。
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