←04:春雷の声24-s TOP06:遣らずの雨→

05: 桜色痕

 「飲み会?」
 意味不明の単語を聞いたように、慎二が、キョトンとした顔で訊き返した。
 流し台の前、慎二と並んで夕飯の支度をしている透子は、浮かない表情で、小さく頷いた。
 「うん…あんまり、行きたくないんだけどね」
 「でも今、“明日飲み会に行くんだ”って言ったんじゃ…」
 「だから、行きたくないけど、行かないとちょっとまずくって」
 もの凄く気が進まない透子なので、そう告げる声も沈んでいる。はーっ、とため息をつくと、手にしていた菜箸とボウルを一旦置いて、慎二を見上げた。
 「ゼミの4年生全員での親睦会なの。コンパとか、友達に誘われて、とかなら断れば済むんだけど―――ゼミが絡むとなると、断る訳にもいかなくて。特に、今回が初めてだし」

 4月になり、大学がスタートした途端に、いきなり湧いて出た話だった。
 普段、透子は、飲みに行くことなど全くない。同じ学部の仲間に誘われることもあるが、大抵バイトが忙しく、付き合っている暇がなくて断っていた。数少ない暇な時間を一緒に過ごすのは荘太や千秋だが、あの2人は常にバイクに乗ってきているので、基本的にアルコールはご法度。唯一、透子が酒の類を口にするのは、慎二や佐倉にお店に連れて行ってもらった時だけだ。
 しかし今回は、断る理由がない。
 偶然にも、科学館の休館日でバイトがない日だし、運転はしないし、お酒が飲めない訳でもない。これから1年間、同じゼミで共同研究をやっていかねばならない仲間との親睦会、と言われてしまえば、お酒の席は慣れてないから嫌です、なんてセリフは到底言えそうになかった。

 「荘太とかの話聞いてると、学生の飲み会って、なんか凄まじいみたいで…陸上部が、記録会の後とか、よくやるらしいんだけどね。毎回、救急車呼ぶ寸前になる部員が必ず1人は発生するんだって」
 「ああ…体育会系は、先輩が飲めない後輩に一気飲み強要したりするらしいからね」
 と言いつつも、慎二も学生の飲み会には疎い。飲酒OKの年齢の時、慎二は学生ではなかったから。社会人でも同じなんじゃないか、と、どこかで思ってはいるものの、やはり学生の方が無茶はするだろうなぁ…と、漠然と感じている。
 「お酒飲んで、他のお客さんが迷惑しちゃうような騒ぎ方するのって、なんだかなー、って思うの。なんか、同じノリでやってけるのかな、って思うと…ちょっと、不安」
 「でも―――学生の飲み会も、メンバーによってムードも色々なんじゃないかな」
 「そうかなぁ…。そうだよねぇ…」
 「オレはむしろ、上手いこと乗せられて、透子が酔っ払わされるんじゃないかって、そっちが心配だけど」
 「う…っ、そ、それは、私もちょっと心配かもしれない」
 東京に来てすぐ、佐倉や荘太も一緒に飲みに行った時、前後不覚になるまで酔っ払ってしまった前科があるだけに―――あまり生意気なことは言えない透子だった。
 「まあ、参加してみたら、案外楽しいかもしれないよ。透子は今まで、今時の大学生っぽいこと、ほとんどしないで来てるからさ。いい機会だから、無理しない程度に楽しんでおいで」
 「…うん」
 慎二にそう言われ、透子は、まだ気乗りしないまま、仕方なさそうに頷いた。

***

 翌日の飲み会は、大学に程近い居酒屋で行われた。
 透子が在籍しているゼミは、地学科ゼミでは一番人数の多い12人だが、女の子は透子を含めても3人だけである。しかも、そのうちの1人とは、3年の段階で既に意見対立してしまって気まずい仲になっている透子なので、その子が傍にいて離さないもう1人の女の子とは、あまり話せる状況になかった。
 で…結局、「井上さん、こっちこっち」と誘導されるがままに、よく知らない男の子2人の間に座る羽目になった。
 ―――まいったなぁ…。
 これから1年間のことを考え、ちょっと憂鬱になる。
 3年の時、地学で仲の良かった子とは、ゼミが離れてしまった。友人関係に引きずられる形でゼミを選びたくはなかったし、それは彼女も同じだったので、これで良かったと思っている。がしかし―――よりによって、数少ない女子の1人が、一番苦手な子だったとは。もう1人も彼女の友達のようなので、ゼミ内で女の子同士楽しくやるのは無理だろう。勿論、遊ぶためにゼミにいる訳ではないので、構わないといえば構わないけれど…やはり、ちょっと気が重い。
 「えー、それではっ。気象・三柳ゼミの12名全員が、無事卒研をやり遂げることを祈願して―――かんぱーい!」
 幹事の、随分と気の早い内容の音頭に、思わず全員から失笑が漏れる。透子もついつい笑ってしまいながら、みんなと同時にビールの入ったグラスを掲げた。

 「とりあえず、自己紹介といこうか」
 ある程度料理が並び、場が落ち着いてきたところで、幹事がそう提案してきた。
 同じ地学科にいたので、全員全くの初顔合わせ、ということはないが、名前と顔が一致する相手は極めて少ない。やろうやろう、ということになり、幹事から順に自己紹介が始まった。
 透子が苦手な子の時には「彼氏はいるんですかー?」なんていう冗談交じりの質問が飛んだが、本人はまんざらでもない表情で「募集中でぇ〜す」と答えて、場を盛り上げていた。嘘つけ、この前「彼とこれからデートなのぉ」ってノロけまくってた癖に、と突っ込みたい気持ちを押さえ、透子も周囲に合わせて力なく笑っておいた。
 透子の番は、最後から3番目だった。
 「えーと、井上透子ですっ。科学館の地学コーナーで、アルバイトやってます。割引はきかないけど、もし来ることあったら、声かけて下さい」
 「しっつもーん! プラネタリウムの職員割引とか、ゲットできない?」
 「あははは、無理かなー。職員じゃないし、プラネタリウムの担当でもないから」
 「卒業後も科学館希望?」
 「ううん、まだ決めてない」
 「なぁなぁ、彼氏は?」
 まさか自分にも同じ質問が飛ぶとは思わなかった。一瞬、笑顔を引きつらせた透子は、それでもなんとか笑顔をキープして答えた。
 「ええと―――ノーコメント、ってことで」
 肯定すれば場が白けそうだし、否定するのも嘘をついてるみたいで嫌なので、適当に誤魔化した。すると男性9人は、さっきの募集中発言の時以上に盛り上がってしまった。
 「お、逃げた逃げた。怪しいぞー」
 「でも、井上さんって、浮いた噂を全然聞かないよな。もしかしてフリー?」
 「いやいや、案外、学外の奴と付き合ってるのかも」
 「おいー、もうちょい希望の持てること言えよな、お前ら」
 「―――…」
 …正直に言った方が良かったんだろうか。
 まあ、でも、適当な憶測を口にして楽しんでるだけだろうから、場が盛り上がったのならそれでOKなのかもしれない。透子は、それ以上の言及は避け、ひたすら笑ってその場をやり過ごした。

 その後も、会は、思ったより和やかに進んだ。
 ノリの良い男の子何人かが、「彼女のノロケ話を1つするのと、このビールを飲み干すのと、どっちがいい?」などとお互いに脅しあって、罰ゲーム的にビールを一気にあおったりしていたが、飲めない人に無理矢理飲ませるようなシーンは全くない。ある程度、分別のついている人たちだな、と思って、透子はホッとした。
 それにしても―――彼らの話題に、思いのほか恋愛の話題が多いことに驚く。
 荘太や千秋と一緒にいて、恋愛話で盛り上がることは、まずない。高校時代も、そうだった。どちらの場合も、荘太という微妙な関係にある存在がいたせいもあるし、それ以外の友達との恋愛関係も複雑に絡み合っていたせいもある。千秋は恋愛には興味がないと言うし―――とにかく、深刻な恋愛相談ならまだしも、軽いノリでする恋愛話とは、ずっと無縁だったのだ。
 普通の大学生の飲み会は、こんな感じなのだろうか。ゼミの仲間の恋人の有無になんて全然興味のない透子には、よく分からない現象だった。

 「もしかして、退屈?」
 ちょっと疲れてぼんやりしていたら、隣に座っていた男が、そう声をかけてきた。
 我に返った透子は、慌てて彼の方を見た。いつの間に席を代わったのだろう、先ほどまで隣にいた男ではなく、透子も名前と顔が一致している男が、そこにいた。
 「あ…ううん、そういう訳じゃないけど。…露村君、いつ隣に来たの?」
 透子が、少し驚いたような顔でそう言うと、露村は呆れたような顔をして笑った。
 「参ったなあ。席代わったのも気づいてなかったんだ?」
 「う…ご、ごめん」
 露村は、3年の時にも、同じ演習を取っていた仲間だ。
 演習の最後に彼が発表したレポートは、非常に緻密なデータで構成されていて、教授からも褒められていた。さして話をする機会も多くなかった彼だが、そうした事情から、透子の印象にも残っていた。
 ゼミが離れてしまった友達が、「あいつって結構モテるんだよ」と言ってた記憶がある。確かに、容姿は整っている方だろう。さっきまでは、他の2人の女の子の間に座らされていたが、どうやら透子がぼーっとしているうちに、脱出してきたらしい。
 「井上って、普段はすげー元気なのに、宴会の場では大人しいんだな。ちょっと意外」
 「うん―――実は、こういう飲み会って、これが初めてだから」
 正直に透子が言うと、露村はびっくりしたように目を丸くした。
 「えぇ? もう4年だぜ? この3年間、一体何してたんだよ」
 「勉学とバイトに明け暮れてたから。それに、飲み会って、ただの食事に比べて、お金かかるでしょ? バイト休んでまで参加する気にならなくて」
 「…堅実だなー」
 感心したような声でそう言った露村は、直後、何か裏のありそうな怪しい笑みを浮かべた。
 「ま、そういうとこが、俺好みだけどさ」
 「は?」
 「なあ、井上」
 がたん、と椅子が音をたてて、露村との間が少し狭まる。反射的に、透子は椅子の上で、露村から遠ざかるように体の位置をずらしてしまった。
 「正直なところ、どうなんだよ、さっきの」
 「え? 何が?」
 「か・れ・し。ノーコメントとか言ってたけど―――ほんとは、いないんだろ?」
 「……」
 いない、と決めてかかる、その根拠は何なのだろう。
 確かに、ガキっぽいし、女っぽくないし、飲み会の類より気圧配置ばかり気になる辺りは、男から見て恋愛対象外っぽいのかもしれない。でも…こうも確信を持って言われると、ちょっとムッとしてしまう。透子は、眉間に皺を寄せて、ちょっとぶっきらぼうに言い放った。
 「いるよ」
 「えっ」
 「彼氏でしょ。いるよ。さっきは、場が白けるかな、って思ったから、誤魔化しておいたけど」
 「嘘つけ。全然そんな素振り、なかったじゃんか。あ…、まさか、小林とか言わないよな? 陸上の。あいつは友達だろ?」
 荘太のことまで露村が知っているのは意外だったが、露村の言葉は間違いではない。透子は、憮然とした顔で頷いた。
 「じゃ、誰だよ。この1年ばかし、井上の行動はある程度見てきたけど、個人的に親しい奴なんていないじゃん」
 「…って、えっ? 何それっ。行動を見てきた、って」
 「そりゃそうだろ。俺、井上狙いだもん」
 「……」
 予想外の、展開。
 というか、露村の外見や人気から、当然露村には彼女がいると、透子は思っていたのだ。いや、そう思っていた、というのとも違う。正直、露村に対する認識は“顔と名前が一致する人”以上でも以下でもなかった。ただなんとなく、露村がフリーだとは全く考えなかっただけだ。
 「2年の時、転部してきた当初から、可愛い子だなー、とは思ってたんだけどさ。去年、同じ演習を1年ぶっ通しで受けただろ? あんまり話す機会もなかったから、これといった行動もとれなかったけど―――井上にも彼氏いなそうだし、まあ焦ることないや、って思ってたんだ。で、今回、同じゼミになって大ラッキー」
 「…知らなかった」
 「だろうなぁ」
 呆然とする透子に苦笑した露村は、すぐに表情を引き締め、少し声のボリュームを落とした。
 「なあ…本当に、彼氏、いるの?」
 「…うん」
 「学内、じゃないよな。だったら俺が気づいてる筈だし。バイト先の人?」
 「ううん、違う。説明しても、多分露村君には分からないよ。ただ、彼氏いるのは本当―――それに、一緒に暮らしてるし」
 これ以上疑われたくなくて、はっきりとそう言った。
 すると露村は、一瞬目を丸くしたかと思うと、たちの悪い冗談でも聞いたみたいに大笑いしだした。
 「あははははは。嘘つくにしても、もうちょいマシな嘘つけよ」
 「嘘じゃないよ?」
 「だって、井上、一緒に暮らしてる人って、アレだろ? お前引き取った、後見人とかいう人」
 さすがにギョッとした。大きく目を見開いた透子は、しげしげと露村の顔を凝視した。
 「な…なんでそれ、知ってるの?」
 「2年の頃、小林と同じ講義を取ってたからさ。いつも一緒にいるあの女の子って誰? ってな話から、ぽつぽつ情報仕入れてたんだ。あまりしつこく聞くから、途中から警戒して一切情報漏らさなくなったけど」
 「…荘太のやつ…」
 「なあ。男を遠ざける理由、何かある訳? 同居人をダミーにしたって、すぐバレるもんなのに」
 露村はあくまで、慎二は透子の彼氏ではない、と信じ込んでいるらしい。まあ、彼氏という代名詞がつくようになったのは、まだ半年あまりのことなのだから、仕方ないのかもしれないが。
 「嘘じゃないもん。確かに、私を引き取ってくれた後見人だけど―――今は、彼氏なの。去年の秋から、そういうことになったから」
 そっけない口調で透子がそう言うと、露村はようやく表情を変え、まじまじと透子の顔を見つめた。
 「…マジ?」
 「うん」
 「けど、相手、10も年上だろ?」
 「…うん」
 「てことは、31? …おっさんじゃん」
 「見た目、20代半ばで止まってるもん。引き取られてから7年目だけど、初めて会った頃とほとんど変わってないよ」
 「…ふぅん」
 面白くなさそうに眉を顰めた露村は、グラス半分ほど残っていたビールを、一気に飲み干した。
 「えーと…だから、そういう訳なんで」
 何をどう言っていいやら分からず、透子がそんな妙な言葉で話を切り上げようとすると、露村はトン、とグラスを置き、意味深にふっと笑った。
 「ま、俺には別に、関係ないし」
 「え?」

 ―――どういう意味?
 訊きたかったが、露村は、その謎の言葉を残して、反対側の隣の席に座る人物に、別の話を振り始めてしまった。

***

 飲み会は2時間ほどで終わったが、その後、全員がカラオケに流れた。
 透子はもう帰りたかったが、1人だけ抜けるなんて許さないぞ、と周囲が騒ぐので、仕方なくついていった。
 ―――ああ、やり難い。
 カラオケルームでも、ちゃっかり透子の隣をキープしている露村に、透子のテンションはどんどん下がっていく。
 露村以外の男どもは「露村、抜け駆け卑怯ーっ」とブーイングを起こすし、透子以外の女の子2人は、多分三柳ゼミでは一番華のある男子生徒であろう露村が、これみよがしに透子にばかりくっつくので、ずっと冷たい視線を透子に向けている。いくら宴会慣れしていない透子でも、露村の態度が宴会の席では“いただけない態度”なのは分かる。場の空気を読め、と文句を言いたいが、ただ隣に座っているだけのことに文句を言うのも、自意識過剰みたいで嫌だった。
 だから、自棄になって、カラオケを目一杯盛り上げようと、タンバリンやら鈴やらをジャンジャン鳴らす。
 順番が回ってきたら、思い入れ120パーセントでノリノリで歌う。
 さすがにデュエットのお誘いは他の女の子に譲ったが、透子はひたすら、カラオケの盛り上げ役に徹した。そうでもしないと、この空気に耐えられなかったのだ。

 そんな透子の努力を嘲笑うかのように、露村の攻撃の手はゆるまない。

 「結構遅くなっちゃったよなー。女の子達、危ないからさ。それぞれ誰か、送ってってやれよ」
 そう提案したのは、露村だった。
 カラオケが終わった段階で、既に夜の11時を回っていた。こんな時間は序の口という人もいるらしく、「えー?」という声を上げる連中もちらほらいた。が、透子を除く女の子2人は、その提案に嬉々としていた。
 「あたし達2人とも、同じ方向なんだ。露村君、送ってくれない?」
 透子が苦手な女の子が、明るい声でそう言う。が、露村はさらりとそれを受け流し、
 「ああ、ごめん。俺、家が木場の方だからさ。ちょうど途中だから、井上送ってくよ」
 と言った。
 当然、女の子2人の眉が吊り上る。他の男が「じゃ、俺が」と名乗り出ても、もう1人はまだマシだが、透子と敵対してしまっているあの女の子は完全にふくれっ面だ。
 「私、1人で帰れるから。じゃ、また明日」
 逃げるようにそう言い残すと、透子は、まだ誰が送るかで揉めている現場を、足早に立ち去った。露村が何か言っていたが、そんなことで足を止める訳にはいかない。誰かに追いつかれる前に、電車に乗ってしまおう―――そう思って、ひたすら早足で歩いた。

 なのに。

 「おーい、井上ーっ」
 もの凄い勢いで走ってくる足音と、明らかに露村だと分かる声。それでも足は止めず、肩越しにチラリと後ろを確認すると、露村が1人で、透子を追いかけてきていた。
 ―――あああ、もうっ。
 露村がどうやってあの場から脱出してきたか、この数時間の露村を知ってしまった透子には、嫌というほど分かる。追いつき、透子の隣に並びかけた露村に、透子は知らず、大きなため息をついてしまった。
 「送るって」
 「…いい」
 「マジで危ないからさ。家まで送るよ」
 「いいってば。駅から電話して、慎二に迎えに来てもらうことにしてるんだから」
 「駅で待ってる間、危ないじゃん。一緒に待っててやるよ」
 「―――あのね、露村君」
 もう限界だった。透子は足を止め、露村を睨み上げた。
 「はっきり言うね。私、凄く迷惑してる」
 「迷惑?」
 「私以外の2人のあの視線、見たでしょう? 元々、あんまり上手くいってない相手なんだからね? あの子達が露村君に興味持ってるの、ミエミエだったじゃない。なのに私にばっかり構ってたら、露村君じゃなく私が睨まれるの」
 透子がそう言うと、露村は悪びれることなく、ニコニコ笑って言った。
 「ああ、あの2人なら大丈夫。奥田と友坂が送ってく、って言ったら、随分機嫌良くなったから」
 「…そういう問題?」
 「そういう問題。だってあいつら、彼氏持ちだろ? 単なる“構われたい病”で、いわば今日限りのホストみたいな感じで自分らを構ってくれる男が欲しいだけな訳。俺に固執してる訳じゃないよ」
 …そんなものなんだろうか。透子はそもそも、彼氏がいるのに、他の男に構われたいなんて思う訳がない、と思っているので、彼女らの心理など到底分からない。
 「そんな訳で、井上は俺が送ってくから」
 むんず、と透子の腕を掴むと、露村は先に立って歩き出してしまった。小柄な透子が敵う筈もなく、仕方なく露村に引っ張られていく。
 「じゃあ、送ってもらうけど―――私が彼氏いるのは、ちゃんと理解してくれてるよね?」
 「ん? ああ、一応ね」
 「一応、って…」
 「だって、俄かには信じがたいからねぇ」
 ずんずん歩く露村は、そう言って口の端を吊り上げた。
 「去年の秋から、って井上は言うけど―――その人、それまでもずーっと井上と暮らしてたんだろ? 普通の男なら、そんなに長い期間、恋愛対象になり得る女と一緒に暮らせる訳ないよ。俺なら、惚れてなくても手ぇ出すね、絶対。なのに、その間ずっと何もなかったってことは、井上はその人から見たら子供だ、ってことなんじゃない? 10も離れてるんだし」
 「……」
 「ま、なんか大事故でもあって、突然恋愛感情が芽生えたんなら、百歩譲って“あり得なくもない”って思うけどさ。親族愛とか兄弟愛みたいな感情を、恋愛感情と勘違いしてる可能性の方がずっと高いと思うぜ」
 「…そんなこと、ないもん」

 久々のアルコールのせいもあって、胸の奥がムカムカした。
 でも、ムカムカの最大の原因は、露村の暴言の前半部分だ。
 自分が、もっと大人なら―――たとえ同じ年齢であっても、もっと大人っぽい外見ならば、もうちょっと自信が持てたと思う。そう…例えばあの、佐倉みたいな感じであれば。
 聖母みたいな慈愛に満ちた微笑を浮かべて、慎二の髪を梳いていた佐倉を思い出すと、自信なんて微塵も持てなくなってしまう。佐倉の方がよっぽどふさわしい、そう思うから、慎二の想いにも自信がなくなってしまう。
 人が一番、気にしていることを―――でも、その憤りを露村にぶつけてしまえば、慎二から見たら透子は子供すぎた、という事実を認めてしまうことになる。
 だから透子は、何も言わなかった。
 何も言わず、心の中で何度も「そんなことはない」とだけ繰り返していた。

***

 「透子」
 気まずいムードの中、駅の改札に佇んでいた透子は、慎二の声に顔を上げた。
 淡い色のパーカーを着た慎二は、大分伸びた薄い色の髪を後ろで束ねた、いつものスタイルをしている。透子の隣にいた露村は、予想とは違う人物の登場に、ちょっと驚いたような顔をした。
 「キミが、露村君?」
 迎えに来て欲しいという電話で、露村の名前を透子から聞いていた慎二は、露村に柔らかな笑みを向ける。狼狽したように一瞬視線を泳がせた露村は、それでも落ち着いた様子を作り、ペコリとお辞儀した。
 「…こんばんは。すみませんでした、井上さんを遅くまで連れまわして」
 「いや。ありがとう、わざわざこんな所まで」
 「…いえ。じゃあ、俺はこれで」
 そう言うと、露村は透子にも小声で「じゃ」と挨拶し、さっき通り抜けたばかりの改札を再びくぐった。その背中は、意気消沈しているようにも、いきがっているようにも見えない。本人を前にしても、まだ疑ってるんだな、と感じた透子は、憂鬱な気分にため息をついた。

 「…うーん。あれは、透子狙いだなぁ」
 アパートに向けて歩き出して間もなく、慎二が突然、そんなことを言った。
 ギョッとした透子は、思わず慎二を見上げた。
 「な、なんで?」
 「え? いや、だって…あの表情見れば分かるよ。なんとなく」
 「そ、そうなんだ…」
 露村のことは、慎二には何も言うつもりはなかったのに―――そんなに簡単に分かるものなのだろうか。露村の態度がそれだけあからさまだった、ということなのかもしれない。
 「透子が迷惑してるのも、一目で分かったけどね」
 そう言ってクスクス笑う慎二に、張り詰めていた糸が一気に緩むのを感じる。うな垂れた透子は、縋るように、慎二の腕に腕を絡めた。その様子は、腕を組んで歩く、と言うより、慎二に掴まって歩く、といった風情だ。
 「…私には慎二がいるから、って何度も言ったのに、信じてくれないの」
 「信じてくれない?」
 「その―――慎二が、私の、彼氏だ…って」
 「……」
 「肉親愛みたいな愛情を、恋愛と勘違いしてるだけなんじゃないか、なんて言うの。10も歳が離れてるから、慎二から見たらきっと私は子供みたいな感じだった筈だ、って。でなけりゃ、恋人同士になる前の何年間も、平気で一緒に暮らせる訳ない、って」
 「…だから、諦めない、って?」
 「…うん。どうせいつかは、勘違いだって気づくだろうから、それまで楽しみに待ってる、だって。失礼しちゃうでしょ」
 「―――それはなかなか、失礼な話だなぁ」
 あまり失礼とも思っていないようなノンビリした口調でそう言い、慎二は軽く眉根を寄せた。
 「明日からも、さっきの子と顔合わせるの」
 「うん。だって、同じゼミだもん。ほぼ毎日、研究室に出入りすることになるし」
 そう答えた透子は、そこでハッとあることに思い当たり、慌てて顔を上げ、慎二の腕に掴まる力を強くした。
 「あっ、でも! 大丈夫だから! 明日からも、ちゃんと分かってもらえるまで、きちんと説明する。し、慎二はどうあれ、私は―――私にとっては慎二は、ずっと恋愛対象だったからっ。勘違いでも錯覚でもないし―――だから、露村君の気持ちには応えられないよ、って」
 必死に透子がそう言うと、慎二は苦笑を漏らし、空いている方の手で、透子の頭をくしゃっと撫でた。

***

 アパートの部屋に到着して時計を確認すると、零時をちょっと回っていた。
 「あーあ、やっぱり飲み会なんて、疲れるばっかりだよなぁ…」
 馴染んだ部屋の空気に触れた途端、疲れがどっと押し寄せてくる。こんなことなら、場を白けさせようとも、カラオケをパスして帰ってくれば良かった。
 「お酒は? あんまり飲まずに済んだ?」
 部屋の鍵などをローテーブルの上に放り出しながら慎二が訊ねる。水を飲もうと台所に立った透子は、ちょっと首を傾げ、記憶を辿ってみた。
 「ええと―――ビール2杯と、カクテル1杯半、カラオケしながらカクテルもう1杯、かな。でも、久しぶりのアルコールだから、結構きちゃってる気するなぁ…」
 グラスに半分ほど水を注ぎ、それを一気に飲み干した。体の芯がカッと熱かったような感じだったのが、それで幾分かクールダウンされた気がする。
 「はーっ…生き返るー。慎二、何か飲む?」
 「え? ああ、うん…透子が飲むなら、冷蔵庫ん中に麦茶冷やしてあるけど」
 「あ、飲むー」
 じゃあ2人分いれよう、と、グラスを2つ用意した透子だったが。

 「?」
 ふいに、何かが、肩に触れた。
 それが、慎二の手だ、と気づくより先に、透子はクルリと回れ右させられていた。いつの間に、後ろに来ていたのだろう―――酔っているせいかもしれないが、全然気づかなかった。
 「どうしたの? 慎二」
 キョトンとした顔で透子が慎二を見上げると、慎二は透子を見下ろし、フワリと柔らかに笑った。その綺麗な笑顔に見とれていたら―――突如、何も見えなくなった。

 最初感じたのは、熱、だった。
 体温が近づくと、こんなに熱って感じるものなんだ―――そんな場違いなことに意識が向いた次の瞬間、唇を奪われていた。
 「……っ」
 それは、いつもの、じゃれるみたいな軽いキスじゃなくて。
 多分、あの日以来の―――慎二と恋人同士になった日以来の、恋人にするみたいなキスだった。
 アルコールのせいじゃなく、頭がクラクラする。足元がふらついたせいで、背後の流し台にぶつかった。倒れそうになって、慌てて慎二のシャツを両手で掴んだが、ウエストの高さしかない流し台に押し付けるみたいにされたせいで、危うく足が浮いてしまいそうになった。
 ―――な…なん、で?
 その言葉しか、浮かんでこない。なんでこんなことになっているのか、その理由が全然分からない。
 水を飲んで冷やされた熱が、その倍以上の凶暴さで襲ってくる。長い長い口づけを、透子はその熱に浮かされたまま、混乱状態で耐えた。
 「……ん、」
 唇が離れた瞬間、がくん、と体が落ちそうになった。
 が、慎二がそれを支えてくれた、と思ったら―――予想だにしないことが、起きた。

 首筋に、熱が走る。
 悲鳴を上げそうになった。熱い。一瞬にして、その部分に烙印を押されたかのような、痛みを伴う熱。
 「や……っ」
 肩や腕を辿る手の感触に、思わず震えた。
 薄手のチュニックブラウス越しでは、掌の熱も、ほとんどそのまま伝わる。体全部が心臓になったみたいに、熱くて、ドキンドキンと脈打ってる気がする。
 「し、慎二、やだ」
 襟元から覗く肌に次々唇を落とされて、透子は震える声で、なんとかそう訴えた。
 「や、やだやだ、怖い、お願い」
 泣きそうな声に、慎二が顔を上げた。
 実際、泣きそうになっていた。視界がぼやける。ぼやけた中に浮かび上がる慎二の顔は、まさか泣くとこまでいくとは思ってなかった、という風な、少し驚いたような顔だった。
 「透子…」
 「こ…怖いよ。慎二が急に、男の人になっちゃうと」
 「え?」
 慎二の目が、丸くなった。
 「男…の人に、なっちゃうと、って―――じゃあオレ、今まで何だったの?」
 「…し…慎二は、慎二だもん」
 「……」
 「慎二が、こ、こんなの―――嬉しいけど、急にだと怖いんだもん…」
 「―――…」

 慎二は数度、目をパチパチと瞬いた。
 そして―――数秒後、突然、吹き出した。

 「な―――何…っ??」
 透子の肩に額を押し付けて、可笑しそうに肩を震わせて笑う慎二に、透子は逆に呆気にとられた。
 つい数秒前の、なんとも言えない空気など、どこかに行ってしまったかのような笑い方―――そんなに笑うほど、おかしなことを言っただろうか。透子は、滲んできていた涙を手の甲で拭いながら、うまく回らない頭を傾げた。
 「ね、ねぇ、なんで笑ってるの?」
 「い…いや、ちょっと」
 「ちょっと、って?」
 食い下がるも、慎二はそれには答えず、透子から少し離れると、なんでもないという風に首を振った。勿論、まだ笑いは全然治まっていない。
 「な…なんでもないよ。透子らしいよなぁ、と思っただけで」
 「何が?」
 「だから、なんでもないって」
 「…納得いかないっ」
 「まあ、いいから」
 ぽん、と透子の頭に手を乗せると、慎二はいささか乱暴に、その頭をぐしゃぐしゃと撫でた。
 「とりあえず、露村君は、もう大丈夫だと思うよ」
 「えっ?」
 「信じてくれると思うから、明日には」
 「???」

 ―――なんで?
 その根拠が分からず、透子は、まだ涙で曇っている目を、何度も瞬いた。

***

 その根拠が分かったのは、その日のお風呂から上がって、洗面台の鏡を見た時。

 「し…っ、慎二!!!!!」
 バターン! と大きな音を立てて脱衣所から飛び出した透子は、自室でベッドに寝転がっていた慎二のもとへと飛んでいった。
 半分体を起こした慎二は、透子が何を騒いでいるのか、あらかじめ予想がついていたらしい。鬼の形相で仁王立ちする透子を見上げ、また吹き出した。
 「こっ、こっ、これっ」
 「あー、見事についちゃったなぁ。こんな綺麗なキスマーク、初めて見たかも」
 「どーするのっ!? こんな目立つ場所!!!」
 ハイネックを着ても、どう考えても露出してしまうであろう、耳の下2センチ半。しかもやや前寄り。痛々しい色ではないが、桜色をしたその痕は、誰が見たってキスマークにしか見えなかった。
 「絆創膏でも貼っていけばいいよ」
 「バレバレだってば、そんなのっ」
 「バレバレでいいんだよ。露村君に信じてもらうにはさ」
 ―――し…慎二…、性格変貌してる、絶対。
 ライバル出現に、ちょっと触発されたのか。いや―――前からこういう所はあった気がする。唇にキスをすると見せかけて頬にされたあの時のことを思い出し、透子はキスマークを手で押さえたまま、ふるふると震えた。
 「それと―――彼に言っといて。“オレはキミと違って大人だから、ある程度は自制が効くんだ”って」
 「……」
 「でなけりゃ、こんな無防備な透子の後見人を、20歳までまともにこなせる訳ないよ」

 そう言って楽しげに笑う慎二に、透子は何も言い返せなかった。
 ただ、明日、研究室に行った時、露村“以外”の仲間がこれを見てどう言うか―――それを考えて、急速に頭が痛くなってくるのだけを感じていた。


←04:春雷の声24-s TOP06:遣らずの雨→


  Page Top
Copyright (C) 2003-2012 Psychedelic Note All rights reserved. since 2003.12.22