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慎二が、風邪をひいた。
「大丈夫だよ」
「…嘘ばっかり」
トーストを気が進まなそうに食べつつ言う慎二の声は、すっかり掠れてしまって、何を言っているのか聞き取るのも困難な状態だ。熱もあるので、目もちょっと虚ろになっている。
久々の、酷い風邪だ。透子にしてみれば、今日は1日、温かくして寝てなさい、という感じの症状だ。
なのに慎二は、今日、仕事のために外出する気でいる。
「別の日にしてもらえないの?」
心配そうに透子が眉を寄せるが、慎二は、無理無理、という風に首をだるそうに振った。
「担当の人、明日から出張しちゃうんだよ、1週間も。だから、無理」
「ううう…行かせたくないなぁ…」
でも、行かなければ、結局困るのは慎二なのだ。打ち合わせが後ろにずれ込んでも、納期も一緒にスライドしてくれる訳じゃないのだから。
「3時頃には帰るから、心配しなくていいよ」
「…私、バイト休もうかなぁ」
「そこまでしなくていいって」
「でも、慎二がこんな状態で出かけると思うと、先に家出る気なくなっちゃうよ。心配で」
「大丈夫だって。それに、春休みもあとちょっとだろ? 大学始まったら、大した時間できないよ?」
「…わかった。ああ、でもなー、せっかくの誕生日なのになー…」
そう。今日は、慎二の誕生日。
といっても、何をする訳でもなく、いつもよりちょっと豪華な食事にして、小ぶりなバースデーケーキでも買って…という程度だ。それでも、誕生日に主役が風邪ひいて寝込んでる上に、病をおして仕事に行くなんて―――なんとも悲しい話だ。
「その様子じゃ、あんまり食べられないよねぇ…」
とっくにトーストを平らげている透子に比べて、慎二はまだ半分ほどしか食べていない。いつもなら逆なのに。
「…多分。特別にご馳走作らなくてもいいよ。気持ちだけで十分だから」
「でも、誕生日の夕飯がおかゆってのもなぁ―――あ、そしたら、きのこのリゾットとか、どう?」
「あー…、それは食べたいな」
あっさりコンソメ味のリゾットは、慎二の好物でもある。トーストには食欲の湧かない慎二だが、透子の提案には、少し嬉しそうな顔で即答した。
そんな慎二の様子にくすっと笑いながら、ちょっとだけ、満たされた気分になる。
以前なら、慎二が食べ物をリクエストすることなんて、まずあり得なかった。透子の作れるものなら何でもいいよ、と、慎二は常に受身だったのだ。
希望を言ってもらえる。わがままを言ってもらえる。それは、透子にそれを叶えるだけの力があると信じてくれているからこそだ。
一人前になった、と、部分的ではあれ認めてもらえた気がして―――透子は、本当に嬉しかった。
***
―――天気、悪くなってきたなぁ。
科学館でのバイト帰り、スーパーで食材を買い込んだ透子は、昼休みに見た時より格段に雲の多くなった空を見上げ、ちょっと表情を曇らせた。
重苦しい、灰色の雲―――嵐を呼ぶ雲だ。こんな雲が広がった後は、天気が荒れると相場が決まっている。早く帰らないとまずいかもしれない。透子は、歩くスピードを少し上げた。
季節は、もう春。
元々、透子が一番好きな季節は、春だった。新学期がスタートする季節でもあるし、花がいっぱい咲いてて、気候も穏やかで―――そういう意味では、今でも春が一番いい季節だと思っている。でも…今の透子は、春があまり好きではなかった。
8月の終わりに、透子は1つ、年を取る。
慎二との10歳の差が、その日から、1つだけ縮まる。
だから、今の透子は、秋と冬が好き。慎二との差が、ちょっとだけ縮まったような気がする季節だから。
3月の終わりには、慎二も1つ、年を取る。
…せっかく追いついた年齢が、また1つ、広がる。
慎二が生まれてきてくれた日は、今の透子にとっては、両親と紘太の命日と同じ位大切な日だ。でも―――毎年、この日が来るのが、ちょっと悲しい。ああ、また離れてしまう…そう思って、毎年、焦りを感じるから。
―――永遠に、追いつける訳ないのに…バカみたい。
どれだけ大人になれば、安心できるんだろう。慎二と釣り合いがとれる、って。
…ずっと、無理なのかもなぁ…。同世代の中でも、チビだしなぁ…。
「……あれ?」
バースデーケーキを買おうと立ち寄った店の中に、見覚えの後姿があった。
スラリとしたスタイルも、最近定着しつつあるショートヘアも―――そして何より、その立ち姿が、素人のそれとは全く違っているから、後姿でも見間違える筈がない。
「佐倉さんっ」
自動ドアを抜けた透子が声をかけると、ケーキのショーケースを覗き込んでいた彼女が、振り向いた。驚いた顔は―――やっぱり、佐倉みなみだった。
「あらら、透子じゃないの。奇遇だこと」
「私は、慎二のバースデーケーキ買いに…。佐倉さんは?」
あまりケーキなど食べるようには見えない佐倉だから、ちょっとミスマッチだ。不思議に思って透子が目を丸くすると、佐倉はくすっと笑った。
「あたしも、同じ。慎二君と透子にバースデーケーキ買ってってやろうと思ったのよ」
「えっ。じゃあ、うち来る途中なの?」
「そういうこと。ああ、でも、ケーキ渡したらすぐ帰るつもりだけどね。今日はちょっと、帰って色々調べ物があるから」
そういえば―――キャリアウーマンで、仕事にしか興味ないように見える佐倉だが、慎二の誕生日も透子の誕生日もきっちり覚えていて、その都度ケーキなり何なりをご馳走してくれる。意外と義理堅いというか、面倒見の良い人なのだ。
「小ぶりなホールケーキもあるみたいだけど…どれにする? 好きなの選んで」
「あ…ううん、1ホールは、ちょっと…」
言い難そうに言う透子に、佐倉は少し不思議そうな顔をした。
「あら、遠慮することないじゃない? 毎年のことなんだし」
「うん、でも―――実は」
興ざめな話だよなぁ、と思いつつも、透子は、佐倉に事実を告げた。
***
家に帰ると、先に帰ってきていた慎二は、自室で完全に寝ていた。
ちゃんと薬は飲んだぞ、とアピールするためか、ゆすぎ終えたと見られるコップを重石にして、「しばらく寝るから、帰ってきたら起こして」と書かれたメモが、シンクの上に置かれていた。
「…誕生日に風邪で寝込むなんて、大バカ」
ドアの隙間から慎二の部屋の中を覗き込んだ佐倉は、無情に言い放った。
「仕方ないよ。絵画教室で、子供からもらってきちゃったんだもん。佐倉さん、紅茶でいい?」
「ああ、お構いなく。すぐ退散するから」
「でも、ケーキは食べてくでしょ? 佐倉さんの分も買ったんだし」
結局、ホールケーキは無理、ということで、ショートケーキを3つ買ったのだ。慎二は当分起きないだろうし、慎二が起きるまで佐倉に待ってもらう訳にもいかない。慎二には申し訳ないが、佐倉と一緒に食べてしまおう、と透子は考えた。
「慎二君と一緒に食べなくていいの?」
「うん、いいの。慎二とはお夕飯一緒に食べるから」
そう言いながら、紅茶の準備をしていた透子は、ふとあることに気づき、佐倉の方を振り返った。
「佐倉さん、お夕飯は?」
「ん? ああ、適当」
「適当、って…まさか、コンビニ弁当とか、そんなの?」
「あ…あははは、炊事、苦手だからね」
ちょっと引きつった笑い顔で、佐倉はそう答えた。つまりは、コンビニ弁当説を肯定している訳だ。さすがに、透子の眉がつり上がった。
「コンビニ弁当なんかで、モデルが務まってた訳? モデルって体が資本なんでしょ? スタイル維持したり、肌荒れを予防したりとか―――カロリー計算とかして、きっちりした食生活送ってるもんなんじゃない?」
「んー、そうなんだけどね。むしろ、モデルやってたから、コンビニ派になっちゃったのよねぇ」
「え?」
「肉や魚は外食の時に摂らざるを得ないからね。日頃は、ビタミン・ミネラルバランスとローカロリーを念頭においた食事しか摂らないのよ。だからどのみち、食べるのはサラダとかスープに、サプリメント―――となると、一人暮らしで食材余らせちゃうよりは、コンビニでサラダとか買う方が、無駄がない訳」
…なるほど。そういう事情なら、納得いかなくもない。
「ほんとはねぇ…そういう健康管理もやってくれるような、可愛いお嫁さんが欲しかったんだけど。悲しいかな、ノーマルのあたしに嫁入りしてくれるような奇特なレズビアンはいなかったのよね」
「…佐倉さんが言うと、洒落になんないよ…」
佐倉は、男性より女性にモテるタイプだと、透子は思っている。
スレンダーで長身で、いつも涼やかな顔をしていて―――最近はショートにしているから余計、服装次第では少年に見えなくもない。事実、歌舞伎町で“その筋”の人に声をかけられたことがある、と笑って言ってたことがあるほどだ。
性格的にも、どちらかと言うと男性的。養うのが好きだ、という言葉は本当らしく、実際、まだ食べていけない後輩モデルなんかの面倒も自宅で見ていたこともあるらしい。バリバリ仕事をして、お金を稼いで、気に入った子を養ってあげる―――そういう、どう考えても男の人生としか思えない人生が、佐倉の理想なのだそうだ。
「あ、透子なんて、どぉ? 家事はパーフェクトだし、見た目可愛いし、理想的なんだけど」
「だーかーら。洒落にならないってばっ。いくら佐倉さんがノーマル宣言してても、あまり言動が怪しいと、本気で疑ってかかる人も出てくるよ? きっと」
そう言って透子が軽く睨むと、佐倉は面白そうに笑い、肩を竦めた。
紅茶を2人分用意し、ショートケーキをテーブルに並べたところで、透子は慎二の部屋の中を覗いてみた。
よほど深く眠っているのか、寝息すら聞えない。暑いのか、腕を両方とも布団から投げ出していた。やはり、起こすのはやめよう―――そう思って、ドアを閉めておいた。
「あー、ショートケーキなんて、本当に久々だわ」
ケーキの周りのセロファンを取りながら、佐倉はちょっと嬉しそうな顔をした。
「実は、モデルの仕事がもう1本だけ入っちゃったから、少しカロリーセーブしてたのよね」
「えっ、もう辞めたんじゃなかったの?」
「今度こそ最後の1本にするわよ。ちょっと諸事情あってね。この仕事だけは、断りたくなかったのよ」
「諸事情…って?」
「ナイショ」
ニッ、と笑った佐倉は、そう言って最初の一口を頬張った。透子も頬張り、2人同時に思わず「おいしーい!」と口にしてしまう。このケーキ屋のケーキは、前々から2人とも気に入っていたのだ。
「ねえ。その後、どう?」
二口目と同時に、佐倉が意味深な目つきで透子に訊ねた。
「どう、って、何が?」
「慎二君とよ。ちょっとは発展した?」
危うく、フォークに乗せたケーキを落とすところだった。
寸でのところで、ケーキを皿に戻した透子は、ちょっと視線を泳がせた後、目をテーブルの上に落とした。
「…あー…、ううん、別に」
「あらま。去年末の勢いはどーしちゃった訳? 随分大胆なこと言ってたじゃないの」
「う…あ、あの頃はそう、思ってたんだけどねっ」
「“思ってたんだけど”、何よ?」
「…なんか、ちょっと、怖くなった」
「は?」
ぱくっ、と二口目を頬張った透子は、不思議そうな目をする佐倉にちょっとだけ苦笑を返し、また視線を落としてしまった。
「何が怖い訳? あ、もしかして、初めてだから、そーゆーことそのものが怖いとか?」
「ううん、そうじゃないの」
「じゃ、何?」
「―――ずーっと前にね、慎二が、言ってるの、偶然聞いちゃったの」
「?」
「…“もう、誰のキスも覚えないって誓った”って。…忘れないために」
「……」
『はるかさんとキスしても、きっと忘れる。ごめん…誓ったから。もう誰のキスも覚えないって。忘れないために』
あの時、偶然耳にしてしまったセリフ。
去年の夏、慎二の気持ちが分かってからは、そんなことすら忘れてしまっていたけれど―――いざ、恋人同士という関係が現実味を帯びてくると、忘れかけていたあの言葉が、また脳裏に蘇ってしまった。蘇って…透子を、苛んだ。
「私、多恵子さんと、顔似てるし―――多恵子さんも、慎二が初めてだったって言うし。なんか…怖い。どこかで、比べられちゃうんじゃないか、って」
「……」
「多恵子さん1人を覚え続けてきた慎二だから。似ていれば似ていたで、多恵子さんのこと余計思い出しちゃうかもしれないし、もし違っていたら…逆に、幻滅される気もするし」
「そんな訳ないじゃないの」
「ん…分かってるけど、ね。…結局、自分に自信がないんだと思う」
「…自信、か」
「チビでガキで経験不足で、顔だけ昔の恋人に似てるなんて…最悪。慎二の気持ち、疑う訳じゃないけど―――でも、時々、怖くなる。慎二が私を好きになってくれる理由が、よく分からなくて。それって結局、自分に魅力があるなんて思えないからなんだよね」
「あたしから見ると、透子なんて、魅力の塊だけどねぇ」
少し呆れたように言う佐倉に、透子は、とんでもない、という風に首をぶんぶん振った。
「まさか! 私なんて、もし私が佐倉さんみたいだったらなぁ、って、いつも思ってるのに」
「は? あたし?」
「うん。背も高いし、スタイルいいし、美人だし―――それに、高校生の時からプロとして活躍して、しっかり自活もしてるでしょ? いいなぁ…。佐倉さんだったら、外見も年齢も慎二と釣り合うし」
「おやま。光栄デスネ」
あまり光栄とも思っていないような口調でそう相槌を打つと、佐倉はクスッと笑った。
「あたしは、もし自分が1日だけ他の人間になれるなら、透子になりたいって思うけどね」
「…えっ」
「見るからに可愛い、元気な女の子。男から見て、傍にいてくれたらきっと楽しいだろうな、って思うようなタイプ」
「…そう、かなぁ?」
思わず、首を傾げた。荘太には“甘え下手すぎて興ざめだ”と言われるし、千秋からは“若いのに主婦化しすぎだ”と眉をひそめられるし―――自分では、あまり男性から見て好ましいタイプとも思えないのだが。
「ま…、自分の魅力なんてね。自分では一生、分からないもんよ。言っとくけど、慎二君は結構、日々やきもきしてると思うわよ? 地学科なんて、男だらけだし」
「は…ははははは、まさか」
「ま、そういうのを、顔に出すタイプじゃないけどさ」
「……」
―――いや、まさか。
日頃の慎二を、佐倉は見ていないから、そんなことを言うのだ。もっとも、コンパの類を悉く断ってしまう透子なので、もしそういう話になった時、慎二がどういう顔をするのかは、実際には確認したことはないのだが。
「…私のことよりさぁ…佐倉さんは、どうなの?」
ちょっと気まずい話題になったので、透子はそう言って、矛先を相手に向けた。
「あたし?」
「彼氏とか、いないの? 親が結婚結婚てうるさくなる頃だよね、もう」
「…嫌なこと言うわねぇ」
佐倉の顔が、うんざり、といった表情になる。しかし、佐倉ももう29だ。30目前ともなれば、親がうるさくなって当然だろう。
しかし、佐倉から返ってきたのは、意外な答えだった。
「うちの両親はね、もう諦めてんのよ」
「諦めてる?」
「そ。あたしは一生独身のつもり。それは、大学卒業した辺りから時々主張してたからね。親も、この子はそういう子なんだ、って諦めちゃったみたいで、結婚の2文字なんて全然口にしないわよ」
「け…結婚、しないの? 佐倉さん」
「する気、ゼロ。男なんてまっぴらよ」
皮肉めいた笑いを浮かべた佐倉は、小さく息をつき、半分ほどの大きさになったケーキをつついた。
「マジな恋愛なんて、もうこりごり―――男なんて、移り気だし、口先だけだし、ほんと碌でもない生き物だと思うわよ。一度、散々な思いさせられたから、もう沢山」
「…そんな、ヘヴィーな恋愛、したの?」
「したの」
「…ええと…まさか、あの、久保田さん?」
唯一知っている“佐倉の元カレ”を思い出して、思わずそう確認してしまう。すると佐倉は、ギョッとした顔になって、手にしていたフォークを取り落とした。
「は!? な、なんでそこに久保田君の名前が出てくる訳!?」
「え、だって…元カレだよね? 佐倉さんの」
「…そんな説明、したっけ」
「してないけど、勘で」
「…無駄なとこばっかり、勘が鋭いんだからね、この子は…」
コツン、と透子の額を弾いた佐倉は、観念したように続けた。
「まあ、元カレなのは事実だけどね。でも、そのヘヴィーな恋愛は、大学卒業してからの話。相手は久保田君じゃないわよ」
「あ、そうなんだ」
「多恵子が死んじゃって、一番、精神的に参ってる時だったからね―――もう、思い出すだけでうんざり。だからあたし、もう特定の男とマジな付き合いする気なんて、全然ないのよ」
「……」
たった1人の男のせいで、そこまで捨て切ってしまって、いいものなんだろうか―――佐倉がどんな目に遭ったのか分からないから、なんとも言えないが。
「じゃあ、好きな人とか…いないの?」
透子のその問いに、佐倉の表情が、一瞬、強張った。
が、それは本当に一瞬のことで―――佐倉はすぐに、いつもの彼女らしい強気な笑みに、口の端を綺麗に吊り上げた。
「好きな奴は、いるわよ」
「…その人と付き合いたいとか、思わないの?」
「思わない。今の関係が、一番自分にも心地いいからね」
―――そんなもんなんだろうか…。
好きになった相手なら、どんな手段を使ってでも手に入れてみせる、って思うのが、佐倉のようなタイプの当然の考え方だと思うのだけれど。
でも―――佐倉の笑い方が、到底強がりを言っているようにも、誤魔化しているようにも見えなかったので、透子は佐倉の言葉を信じるしかなかった。
***
そんなこんなで、30分ほど経って。
「あらら…雨になっちゃったみたいだなぁ」
窓の外から僅かに聞える雨音に、佐倉は眉をひそめた。
「佐倉さん、傘って持ってるの?」
「残念ながら、今日は持ってない」
「ビニール傘でよければ、貸すよ? あんまり大きな傘じゃないけど、ないよりは断然マシだし」
「ほんと? そりゃ助かるわ」
そう言った佐倉は、チラリと時計を見て、表情を変えた。
「あっちゃ、まずいな―――そろそろ帰らないと。本屋寄りたいし、電話の約束あるしね」
「あっ、じゃあ…ちょっとだけ、待って?」
さっそく腰を浮かす佐倉より早く、透子が立ち上がった。
「今日の夕飯のサラダ、今すぐ作っちゃうから。タッパーに取り分けるから、持ってってよ。多分、コンビニのサラダよりは鮮度も味もいい筈だよ」
「…うーん、ますます主婦化してるね、透子」
まるで実家の母親が娘にお惣菜を持たせるような話に、佐倉がちょっと苦笑した。透子もそれに苦笑を返しながら、さっそく冷蔵庫からレタスやサラダ用のほうれん草などを取り出した。
「しっかし…誕生日の主は、結局、最後まで起きずじまいだったわね」
「うん―――お薬が効いてるからじゃないかな」
「退散する前に、一応、顔だけ拝んでおいていい?」
「どうぞどうぞ」
レタスを洗う背後で、佐倉が慎二の部屋のドアを開ける気配がした。慎二が目を覚ましちゃうかな? と少し思ったが、せっかく佐倉が誕生日を祝いに来てくれたのだから、目を覚ましたら覚ましたで構わないかな、とも思った。
―――しまったなぁ…。ケーキ食べるのやめて、リゾットも作っちゃえば良かった。
手早くサラダの用意をしながら、透子は少しだけ後悔した。
事務所立ち上げの準備で奔走している上に、モデルの仕事も1件請けてしまったという佐倉。炊事が苦手だと言う位だから、手作りの料理なんて、ずっと食べていないだろう。リゾットも作って、それもお裾分けできたら良かったのに…と。
正直、佐倉みなみという人は、透子からすると最初は苦手な人だった。
けれど―――尾道から東京に来る際、一番心をくだいて協力してくれたのは、他でもない佐倉だった。慎二が出て行ってしまった時も、まるで妹の面倒を見るみたいに細々と心配してくれた。見た目のドライさとは対照的なその細やかさは、人によっては“おせっかい”と言うのかもしれない。が―――肉親のいない透子にとって、そうした佐倉の親切は、本当に嬉しかった。
仕事のできる女性、という点でも、透子は佐倉に憧れる。外見は、どう頑張っても佐倉のようにはなれないが、せめて仕事ぶりだけでも佐倉と肩を並べられるような人間になりたい―――それは、気象予報官という明確な目標を見つけた時からの、透子の秘めた思いだった。
だから、こんな食事位は。
お世話になるばっかりで、何も返せないけれど―――佐倉が苦手だという食事面位は、佐倉が負担を感じない範囲内で、少しでもお返しをしたい。
その絶好のチャンスだったのに…そう思うと、この30分が惜しかったように思う。今度佐倉が来る時は、絶対何か手料理をご馳走させてもらおう―――透子はそう、心に誓った。
「よし…できた、っと」
サラダとドレッシングを別容器に入れ、紙袋に丁寧に収めて、準備完了。
佐倉の名前を呼ぼうと思ったが、寝ている慎二のことを思い出して、慌てて口を閉ざした。透子は、紙袋をシンクの上に置いたまま、そっと慎二の部屋に近づいた。
「さ―――…」
佐倉さん、と声をかけようとした透子だったが。
思わず、言葉を飲み込んでしまった。
佐倉は、眠っている慎二の傍に座っていた。
やはり慎二は、全く目を覚まさなかったらしい。さっき透子が見たのと同じ姿勢で、相変わらず寝息も立てずに眠っている。そんな慎二の髪を、佐倉は、乱れを直すように、指で梳いていた。
いつも涼しげな、キリッとした表情をしている佐倉。笑う時も、人をからかうような笑い方や、自信満々な笑い方ばかりをする佐倉。
その佐倉が―――まるで、聖母のような笑みを、口元に浮かべている。
愛しい者を見つめる時の微笑だ―――直感的に、そう思った。それが、どんな“愛”なのかは別にしても…ただの“親友の元カレ”を見つめる微笑ではないのは、明らかだ。
「―――…」
…どうしよう。
動揺が、全身に走る。どうすればいいか分からない。でもとにかく―――透子は、佐倉には気づかれないよう、数歩後ろに下がった。そして、どう頑張っても部屋の中は覗けない位置まで下がると、一度大きく息を吸って、口を開いた。
「…佐倉、さん」
空気が、揺らいだ。
部屋の中で、佐倉が立ち上がる気配がした。
「準備、できたよ」
「ほんと? ありがと」
すぐに、佐倉が出てきた。いつもと何ら、変わらない表情で。
どんな顔をしていいか分からないので、透子は、佐倉と目を合わせる前に、シンクの上に置いた紙袋を取りに行ってしまった。
―――ホント…余計なところばっかり、勘がいいよなぁ…私って。
気づかない方が、お互いに良かったのかもしれない。
もう佐倉には、無邪気に慎二の話なんて出来ないだろう。そういう透子の変化に気づいたら、佐倉も気づいてしまうかもしれない。何がきっかけかは別として―――ああ、知られてしまったんだな、と。
「…はい、これ」
まだ心がグラグラしたままだが、透子はなんとか平素の笑みを作り、佐倉に紙袋を渡した。
「ええと、サラダとドレッシングは別々に入れてあるから」
「わお、気がきくじゃないの。さすが透子」
紙袋を受け取った佐倉は、そう言って美しく微笑み、透子の頭をくしゃくしゃっと撫でた。
「ありがと。これならいつでも慎二君のお嫁さんになれるんじゃない? まあ、今もそれと変わらない生活してるみたいだけど」
「……」
からかうような佐倉の言葉に、透子は咄嗟には反応できなかった。
―――どんな気持ちで、そのセリフ言ってるの? 佐倉さん。
でも―――皮肉じゃないのだけは、分かるから。
「…ありがと」
曖昧な笑みで、そう返した。
「珍しく素直じゃないの。よしよし」
更に透子の頭を撫でた佐倉は、また時計を確認し、
「おっと。もうタイムリミットだわ。じゃ、傘お借りするから」
と言って、慌しく玄関へと向かってしまった。
「傘と容器、返すのいつでもいい?」
「うん。いつでもいい。雷鳴ってるみたいだから、気をつけてね」
「ありがと」
「今度来る時は、絶対、手料理ふるまうから。覚悟しといてね」
透子がそう言うと、佐倉はちょっと目を丸くし、そして、照れたような嬉しそうな笑顔を浮かべた。
サラリと透子の髪を掻き上げると、その頬に軽くキスを落とす。…こういう真似をしても変に見えないところが、佐倉の不思議なところだ。
「じゃあ、ローカロリーなメニューでお願い」
「…うん」
「じゃ、おやすみ」
そう言い残し、佐倉は部屋を出て行った。
パタン、とドアが閉まると、雨音が扉で遮られ、中途半端な静けさが、部屋に戻ってきた。
遠くで、雷の音がする。
「…春雷…かな」
ポツリと呟いた透子は、まだ動揺を隠しきれない胸を軽く押さえ、苦い思いで、玄関の鍵をカチリとかけた。
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