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07: 5連休

 ぽんぽん、と軽く押さえた土の上に、透子は、手にしたペットボトルの水を丁寧に注いだ。
 「もっと、間を空けた方が良かったかなぁ?」
 ほぼ等間隔に、5ヶ所。
 掘り返され水を与えられたそこは、周囲の乾いた白い地面とは色が異なっている。その下に埋まってる種はまだ小さいが、芽を出し、茎や葉を伸ばし、やがて花を咲かせた時を考えると、その間隔は適度なものに思われる。
 「いいんじゃないかな、その位で」
 余ってしまった種をデイパックの中にしまいながら、慎二は微笑んでそう答えた。
 「あんまり離れてると寂しいし。それに、風や雨で倒れそうになった時、お互い支えあえて、いいかもしれないよ」
 「そっか…。そうだよね」
 「透子ちゃーん」
 最後の1滴まで土に含ませたところで、少し離れた所から、明るい女性の声が透子を呼んだ。
 地面にしゃがんだまま顔を上げ、慎二と2人してそちらを見ると、ふくよかな体型を白いエプロンで包んだ女性が、2人に向かって手を振っていた。その足元には、記憶よりも随分と歳をとり、すっかり動きが緩慢になってしまった猫が1匹、じゃれついている。
 「うちの人、帰ってきたから、そろそろ戻っておいでー!」
 「はーい」
 よいしょ、と立ち上がった透子は、軽く手をはたきながら、足元の地面を見下ろした。それから、雑草だけが生えている、がらんとした空き地全体を見渡した。

 かつて、透子が暮らした場所。
 父がいて、母がいて、紘太がいた場所。あの日…透子が、全てを失った場所。
 去年の暮れ、慎二と一緒に震災後初めてここを訪れた時、一瞬見た気がした、幻影―――夏にはきっと、今蒔いた種が、5本の大輪の向日葵の花を咲かせるだろう。透子は、風に揺れる向日葵の花を思い浮かべ、口元に夢見るような笑みを浮かべた。

 「…透子。行こうか」
 「うん」

 ゴールデンウィークの5連休、2日目。
 震災から2度目の神戸は、抜けるような五月晴れだった。

***

 「工事が始まるまでに、種が取れるとええんやけどねぇ…」
 テーブルの上にお茶とお菓子を並べながら、ミヤマの奥さんはためいきをついた。それを聞いたミヤマのご主人が、なぁに大丈夫や、とのんびりした口調で答えた。
 「工事は盆明けからやろ。今蒔いたんやったら、7月には花が咲くわ。よほど天気の悪い日が続かん限り、盆前には種が取れる筈や。間に合わんくても、わしらが絶対引っこ抜かせんから、心配することあれへんで、透子ちゃん」
 「そうや。後のことは、ぜーんぶおばちゃん達に任せとったらええよ。あんたは今年は、大事な年なんやからね」
 口々にそう言う人の好い夫婦に、透子はニコリと笑うと「ありがとう」と返事した。
 「そうや、羊羹もらってたんやったわ。工藤さん、甘いもん、大丈夫やった?」
 「あ、はい」
 「それやったら食べていってもろたほうがええね。夫婦2人じゃあ、なかなか食べきれへんからねぇ」
 そう言う奥さんの声は明るいものだったが、その裏にある意味を感じ、慎二は曖昧な表情で彼女の背中を見送った。


 透子の家の向い側で“ミヤマ靴店”を営んでいたこの夫妻に、慎二は6年半前、避難所で出会った。
 勿論、彼らも被災者である。
 透子の家同様、地震で家が全壊し、夫婦2人と飼い猫のチロは、なんとか自力で瓦礫から這い出られた。けれど…同居していた大学生の息子は、出てこれなかった。
 しばらく、2人で必死に、息子の姿を探した。しかし、折り重なる木材やコンクリートの中に、その姿を確認することはできなかった。探して、探して、精魂尽き果てかけた時―――お向かいの井上時計店の子が、たった1人で瓦礫に取りすがっているのに気づいたのだった。
 まだ両親がこの下にいる、まだ紘太がこの下にいる、と、狂ったように瓦礫を掻き分けようとする透子を、火が迫ってきているのに気づいた2人は、必死の思いで瓦礫から引き剥がし、逃げた。
 『諦めるんや、透子ちゃん! あんただけでも生きなアカン―――助からなアカンよ!』
 離して、と泣き叫ぶ透子を、2人は、涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、引きずって行った。
 そして、透子は両親と弟を失い―――ミヤマ夫妻は、最愛の息子を亡くしたのだった。

 避難所へと透子を連れてきた慎二に、夫妻は、ほとんど口をきかない透子に代わり、井上家のことや震災直後の様子などを語ってくれた。
 以来、尾道へ行くまでの3週間、夫妻は何かにつけ、慎二と透子に声をかけてくれる存在であり続けた。1人きりの透子は、避難所の人数調整のために移動させるのに好都合だったらしく、何度も避難所を変えられたのだが、その都度夫妻は移転先にも顔を出してくれて、透子に元気を出すようにと言ってくれたのだ。尾道に向かう2人を最後に見送ってくれたのも、この人の好い夫妻だった。
 そうした経緯があったので、慎二は尾道に行ってからも、透子の近況などをミヤマ夫妻に報告していた。そうしたやり取りも、今年でもう7年目になる。

 夫妻には、結婚して名古屋に住んでいる娘がいたのだが、夫妻は神戸を離れようとはしなかった。
 元の家に一番近い仮設住宅に入居し、自治会の役員をしている。再開発事業などの交渉ごとでも、住民側代表の1人として頑張ってきた。
 『この町に、昔と同じ町並みを再建して、そこで靴屋をやりたいんや』
 ご主人はそう言い続けていたが―――今年の正月、その夢は、潰えた。
 ミヤマ靴店も、井上時計店も、元々の慎二の訪問先であった木下ベーカリーも―――あの一帯は全部、まとめて市に買い上げられ、大型の商業施設と公園に生まれ変わることになってしまった。大規模再開発の手が、とうとう、透子たちの住んでいた地域にまで広がってきたのである。
 当然、住人は反対した。透子から土地を譲り受けた叔母も、相当反対したらしい。けれど…条件が良かったこともあり、1人承諾し、2人承諾し―――そして、最後まで反対していたミヤマ夫妻も、折れる形となったのだった。
 工事着工は、今年のお盆明け。今日蒔いた向日葵も、その頃には抜かれる運命である。


 「なんや寂しい気もするけどなぁ…。でも、かえって良かったのかもしれへんな」
 ご主人は、熱いお茶をすすりながら、そう呟いた。
 「昔とおんなじ町並みにしたら、昔と同じ気持ちになれるかもしれんと思っとったけど―――なんぼそっくりに作り直してみても、息子の昭彦が帰ってくる訳でもあらへんしなぁ」
 「……」
 「心機一転、新しい町を作って、そこでまた靴を売ればええんや。第二の人生歩むんやったら、中途半端に昔の面影なんてない方がええかもしれへん。思い出は、未練になるからな」
 思い出が、未練になる―――…。
 もう二度と会うことなど出来ないのに、昔と同じ風景が、思い出ばかりを蘇らせる。前を向きたいのに、そこかしこに眠る思い出が、踏み出す足を引っ張ってしまう。ならば―――まるで違う風景の方が、いい。想っても想っても、決して叶うことのない想いであるならば。
 思い出すのもつらい位、しあわせな、思い出。それを持つ透子には、きっと実感を伴って理解できる言葉だったのだろう。
 「うん…おじさんの気持ち、よく分かる」
 しみじみとした口調で、透子はそう相槌を打った。

 つらい思い出は、確かに、つらいのだけれど。
 幸せで、幸せで、幸せすぎて―――思い出すのがつらい思い出も、この世にはあるのだ。

***

 ミヤマ夫妻の家を辞した2人は、日が傾いてくる中、三ノ宮に向かった。
 「おーい」
 待ち合わせ場所である市役所前には、既に2台のバイクが並んで停められており、その前で荘太と千秋が手を振っていた。てっきり渋滞に巻き込まれて遅れるだろうと思っていた慎二と透子は、ちょっと驚きながら、歩く速度を速めた。

 荘太と千秋は、この5連休、長距離のツーリングを計画した。
 昨日、東京をバイクで出発し、なるべく下道を使って海沿いで西を目指す。途中、民宿などで1泊し、今日は神戸で1泊。明日からは今度は内陸の中央道沿いを走って東京を目指すのだという。5連休のうちの4日間を使う、なかなか豪勢な旅である。
 バイクも車も運転しない透子からすれば、想像しただけで疲れてしまいそうな日程だが、本人たちは計画段階で相当楽しそうだったので、多分楽しいのだろう。事実、今、手を振っている2人の顔は、長距離移動の疲れも見せず、晴れやかだ。

 「凄い、もう着いてたの? 渋滞に巻き込まれると思ったのに」
 驚いたように透子が言うと、荘太が自慢げにニッと笑った。
 「東名や名神は、巨大駐車場状態みたいだけどな。下はそこそこ。バイクは小回りきくから、渋滞には強いんだぜ」
 「ふぅーん…。疲れてない?」
 「俺は平気。橋本も平気だよな?」
 「鍛えてるからな」
 疲れなど微塵も感じていないような涼やかな顔で答えた千秋は、透子の背後にいる慎二に視線を移すと、居ずまいを正して深々と頭を下げた。
 「…お久しぶりです」
 「え? あ、ああ、久しぶり」
 確かに、久しぶりだ。最後に会ったのはいつだろう? 確か、何かの用事で、透子と一緒に家に来た時が最後だと思うが―――それも多分、半年以上前のことだろう。
 相変わらず悟ったような顔をした子だなぁ、と、慎二は思う。
 初めてディズニーランドで会った時から、その印象は変わらない。むしろ、強まってきた感がある。常に涼やかで、一分の隙も見せないその姿勢は、どことなく佐倉を彷彿とさせる。佐倉と千秋ではまるで年齢が違うのだが―――考えてみたら、10年ほど前、初めて会った時の佐倉も、既にこんな感じだったような気がする。
 ―――弱いんだよなぁ…このタイプは。
 慎二は、見るからにきりっとしたタイプの女性が苦手である。たとえば、そう―――親友の彼氏に休日に会ったというのに、まるで剣道の試合の前のような挨拶の仕方をするような女性が。まさか同じような挨拶を返せる筈もなく、慎二は困ったような笑顔で、極々軽く頭を下げておいた。
 一方、千秋の隣にいる荘太の方は、あっさりしたもので、「ども」と一言言って会釈しただけだった。久々にその視線がやたら冷たいのは―――…。
 ―――バンドエイド事件のせいだよな、きっと。
 まあ、気持ちが分からないでもないので、こちらにも曖昧な笑みで会釈しておいた。
 「透子達、バスって何時だっけ」
 「ええと…夜8時かな」
 「じゃ、とりあえず、ファミレスかどっか入って何か飲もうぜ。さっきから喉渇いて喉渇いて…」
 荘太の要望を受けて、4人は、バイクが停められそうな店を探して歩き出した。
 「それにしても、千秋ってタフだね、やっぱり。こんだけの距離、荘太と同じペースで飛ばして来るなんて」
 バイクを引っ張りながら歩く千秋に、透子が感心したようにそう言うと、相変わらず涼しい顔の千秋は、ちょっと呆れたような目つきをした。
 「お前らもそこそこ、タフだと思うぞ」
 「え、そう?」
 「夜行高速バスで東京−神戸間を往復、しかも日帰りとはね。いくら安いからって、タフでなきゃ出来ないんじゃないか?」
 「……」
 全くもって、その通りである。さすがの透子も、反論不可能だった。


 間もなく、目的のファミレスが見つかり、4人は適当な席に陣取った。
 「俺、アイスコーヒーにしとこ」
 「私はアメリカンだな」
 「んーと…、アイスティーかな。慎二は?」
 「同じくアイスティー」
 メニューも見ないままにさっさと注文を決めた4人は、テーブルの上に置かれた呼び出しボタンを押した。すると、1人のウェイトレスが、即座に注文を聞きに飛んできた。
 「はい、お待たせ―――…」
 言いかけたところで。
 ウェイトレスの表情が、営業スマイルのまま、固まった。

 ウェイトレスの視線は、透子の顔の上で止まっていた。余りにも思いがけないものを目にしてしまって、思考が完全にストップしてしまったかのように。
 そんな彼女の顔を見上げた透子も、次の瞬間、目を大きく見開いて息を呑んだ。やはり、そこにあった顔は、透子にとっても思いがけない顔だったから。
 今時の女の子らしく、髪の色は明るい色に変わっているが―――顔立ちも、ポニーテールという髪型までもが、昔と同じだ。

 「ユウちゃん―――…」

 透子が中学生の時、最も仲良くしていた友達・ユウだった。

***

 ファミレスの外、客の邪魔にならない駐車場の隅っこで、透子は、ファミレスの制服姿のユウと向き合った。
 「あの…、良かったの?」
 ユウは今、勤務時間の筈だ。ユウに言われるがまま、店を出てここに来てしまったが…果たして、仕事の最中に抜け出してきてしまったユウは、大丈夫なのだろうか。透子はちょっと心配になって、おずおずと訊ねた。
 ぎこちない表情のユウは、透子の目をまっすぐ見ようとしない。植え込みの辺りに視線を流したまま、
 「…ちょうど、休憩入るところやったから」
 と、そっけない口調で返した。
 「えっと…バイト?」
 「…ううん。フルタイム」
 「そう、なんだ。正社員なんだ、ユウちゃんは」
 「……」
 「で、でも、久しぶりだね、ホントに。最後に会ったのってほら―――…」
 「―――透子は、何しに来たん? 神戸に」
 透子の言葉を、ユウの硬い声が遮った。
 逸らされていた視線が、透子の方に向けられる。真正面から透子を見据えたユウの目の思いがけない鋭さに、透子の心臓が跳ねた。
 「…えっ」
 「友達連れて、今更神戸に何しに来たん? 観光?」
 考えてもみない言葉だった。透子は慌てて大きく首を横に振った。
 「ち、違うよ。観光じゃないよ。それに、友達は今旅行中で、その途中で合流しただけ。私と一緒に神戸に来たのは、慎二だけだよ」
 「慎二、って、透子を引き取ったあの人?」
 「う、うん」

 ユウと最後にちゃんと会ったのは、1つ目の避難所にいた時だったと思う。が…あいにく、あまり細かいことは覚えていない。
 家族の死が認められなくて―――自分だけが生き残ってしまったという事実が、頭では分かっていても、心が受け止められなくて。あの時の透子は、周囲なんて全然見えていなかった。唯一、分かるのは、慎二だけ。常に傍にいて、透子を抱きしめてくれる慎二の存在だけだった。
 別の避難所にいたユウは、わざわざ透子を訪ねて来てくれた。全てを失った透子の現状にショックを受け、可哀想に、と言って自分も涙を流した。その時、慎二とも会っていて、多少の言葉は交わしていたと思う。
 結局、尾道に行く直前には、色々あって直接会うことはなかったのだが、ミヤマ夫妻も、透子とユウの仲の良さはよく知っていた。ユウちゃんにも伝えておくよ、と言っていたので、その後の透子の動向は、ユウもある程度知っているのだろう。

 「その人と2人して、何しに来たの」
 「…前、住んでたとこに、行ってきた」
 ユウの、この冷たい態度の理由が、分かるようで、分からない。不安に駆られながらも、透子はそのまま、説明を続けた。
 「あの辺、とうとう再開発されるんだって。…今、うちのあった所、空き地になってるんだけど…そこに、向日葵の種、蒔いてきたの」
 「ヒマワリ?」」
 「うん。話せば長くなるんだけど―――とにかく、両親と、紘太と、私と慎二の分。5つ、種を蒔いてきたの。ここに住んでたんだ、っていう名残のため、って言うか―――ううん、本当は、何のためかは分からないんだけど」
 「…アッハ…、馬鹿馬鹿しい」
 皮肉な口調で吐き捨てるように言うと、心底冷たい目つきで、透子を睨み据えた。
 「今更、再開発がどうこうでセンチメンタルに浸ってる訳? 震災前の神戸が懐かしい、って? それとも、6年でこんなに復興したんや、って感動してるん? 観光客も戻ってきて良かったなぁ、って?」
 「…ユ…ユウちゃ…」
 「神戸を捨てた癖に」
 その言葉は。
 まるで、ナイフの刃みたいな、冷たい鋭さを持っていた。
 「ボロボロになった神戸捨てて、自分だけ尾道行った癖に。うちの中学の連中のほとんどが、壊れた学校直したり、仮設住宅にも入られへんでずーっと避難所暮らしを強いられたりしとった時も、自分だけ離れた所で普通の生活送ってた癖に」
 「……」
 「神戸に残った人間は、こういう時こそ助け合わなあかん、て言って、歯食いしばって、支えあって生きてきたんよ? うちは、透子と助け合って、苦しい生活、なんとか乗り越えていきたかった―――それやのに、透子はうちに何も言わんと、ひとりだけ神戸を逃げ出したんや。ボロボロになったまんま放り出しといて、やっとここまで立ち直った今になって、震災を知らん連中引き連れて笑顔で遊びに来てるやなんて―――卑怯や。あんたにそんな資格、ないわ」
 「…ユウちゃん…」

 何と返せば良いのか、分からない。
 崩れた石垣を前に、その石を積み上げることもせずに逃げ出し、やっと石垣の半分が積みあがったところに、何事もなかったような顔をして「わぁ、綺麗に直ったね」と眺めに来た―――神戸に残ったユウには、透子が、そんな風に見えるのかもしれない。
 神戸を捨てた…そう言われても仕方のない部分が、確かにあるのかもしれない。
 でも―――…。

 「…うちかて、大学行きたかったわ」
 いつの間にか目に滲んできていた涙を手の甲で拭うと、ユウは、涙を押さえ込んだような声で、呻くように言った。
 「けど、お父ちゃんの工場潰れて―――就職先もなかなか見つからへんし、お母ちゃんも怪我がなかなか治らへんし…弟も、おるし。うちがわがままなんて言える訳ないやろ? 短大行かせてもらっただけでも、ほんま感謝してる。みんなそうや。不況の真っ只中で家も仕事もなくなって…うちらだけやない。どの家も苦労してるんやから」
 「……」
 「…透子は、ラッキーやったわ。金持ちのおばさんがおって、優しい人に引き取られて、東京のいい大学に行かせてもらって―――弟の学費のために必死に働かなあかん、うちみたいな思いしなくて済んで…羨ましい。ほんまに」
 「…違…う…」
 「うちには、そう見えるんや!」

 言葉が、胸に、突き刺さった。
 言葉という目に見えないものが、こんなに鋭い凶器になるなんて、想像したこともなかった。その痛みに、透子の足元はグラリと揺れた。

 「なんで…!? ミヤマさんたち、透子の面倒をこれからも見る、って言ってくれてたんやろ!? なのに、なんで神戸捨てて尾道になんて行ったん!? 透子に家族がいなくなっても、うちがその分、いっぱい透子を助けようって思ってたのに! 苦しくて苦しくて、気がヘンになりそうな生活でも、透子が一緒に頑張ってくれてたら、うち、もっともっと頑張れた筈やったのに…!」
 「ち、違う、ユウちゃん、私―――…っ」

 何とか必死に口を開いた時。
 誰かが、透子の肩に、ポンと手を乗せた。

 驚いて振り向くと、いつの間に来ていたのか、慎二がそこに立っていた。酷く―――沈痛な面持ちで。
 「し…んじ…」
 思わず名前を呟くと、ユウも、ハッとしたように顔を上げ、慎二の顔を見上げた。そして、慎二の表情から、今のやりとりをある程度聞かれてしまったのだと察すると、気まずそうに顔を背けて涙をごしごしと拭った。
 そんな透子とユウを暫し眺めていた慎二は、小さくため息をつくと、透子の肩をぐいと引き寄せ、ファミレスの入り口の方へと押しやった。
 「…透子は、荘太君達の所に、先に戻ってて」
 「えっ」
 「いいから」
 やわらかいトーンの声でありながら、それは有無を言わせない口調だった。
 ―――ユウちゃん…。
 誤解を、解きたい。
 けれど…自分が何を言っても、無駄な気がした。神戸を見捨てた―――それは、ある面では確かに真実だと、透子自身が思っているから。
 「ユウちゃん」
 意を決した透子は、まだ顔を背けたままのユウに、訴えかけるように言った。
 「ごめんね」
 「―――…」
 「…ホンマに、ごめんね、ユウちゃん…」
 ユウは、こちらを向かなかった。
 胸が、軋む。唇を噛んだ透子は、一度慎二の顔を見上げてから、うなだれるようにしてファミレスの入り口の方へと歩き去った。

***

 透子が立ち去っても、ユウは顔を背けたままだった。
 こんなことになるのではないか、と心配だったから、こっそり様子を窺っていたのだが―――止めに入るのが、ちょっと遅かったのかもしれない。慎二は、ユウの横顔の目元を暫し見つめ、それから静かに口を開いた。
 「―――ユウちゃん、だっけ」
 「……」
 「ごめん。…ミヤマさんの申し出を断ったのは、透子じゃない。オレなんだ」
 ユウの肩が、ピクリと動いた。
 驚いたように目を見開いたユウは、声もなく、慎二の顔を見上げた。話を聞く気になってくれたのを察し、慎二はうっすらと微笑んだ。
 「いや…厳密に言うと、ちょっと違う。透子も断ったんだ。ミヤマさんが引き取るって話も、だけど…オレに引き取られる、って話も」
 「……え?」
 「市の係員の人が言う通り、施設に入る―――最初はそう言って、どっちの申し出も断ってたんだ」
 「…施設…って…孤児院、みたいな?」
 「そう。まだ、中学生だったし、唯一の肉親である叔母さんは、ほとんど日本にいない人だったからね」
 そういう選択肢は、ユウには思いつかなかったらしい。けれど―――両親を失い、頼る先も失くした子供の行く先としては、それが一番スタンダードとも言える。
 「オレが、それを根気強く説得して、半ば強引に尾道に連れて行ったんだ。そうしないと…神戸にいる限り、透子は立ち直れないと思ったから」
 「…どういう意味?」
 「―――透子は、死のうとしてたんだ」
 ユウの顔が、一気に強張った。
 「両親と紘太君の後を追って、死のうとしてた。なんとか止めたけど…本気だった」
 「…う…そ」
 嘘ではなかった。慎二は、重い気分を飲み込みながら、緩慢に首を振った。
 「…透子は、目の前で家族が家ごと火に飲まれるのを、どうすることもできずに見てるしかなかった―――真っ黒焦げの家族の遺体を、まだ15歳だった透子が、1人で確認したんだ。…そんな現実、大人でも、なかなか耐えられない。一番多感な時期にあった透子が死にたくなるのも、仕方ないと思う」
 「……」
 「透子は、ほとんど眠れずにいたし、眠っても家族のことを夢に見て、すぐ飛び起きてた。周囲にある何を見ても、どれもが家族との幸せな思い出か、家族を失った時のショックに繋がってしまって、避難所からほとんど出られなかったほどだったんだ。…あの家にも、尾道に行く直前になって、やっと1度だけ行けた。それから6年―――去年、空き地になったあそこに行くまで、透子は神戸には戻れなかったんだよ」
 思い出すのもつらい位に、幸せすぎる思い出が、そこにあるから。
 幸せで、幸せで…もう絶対に戻ってこないのに、そんなことばかり思い出させるから。
 「このまま神戸にいたら、透子がもたない、と思った。一度、これまでの生活を全部すっぱり切り捨てて、新しい土地で、新しい環境で再スタートする必要がある、って。…それは、逃げたことになるのかもしれないけど―――オレは、それでいいと思ってるんだ。卑怯でも何でもいい。それで、透子が生き延びてくれるのなら」

 あの人も―――…。

 慎二の脳裏に、母の姿が浮かんだ。

 兄の死という現実に向かい合えず、逃避し続けている母。けれど…慎二は、悲しくともそれでいいと受け入れていた。そうすることで、母が生き延びてくれるのなら、それでいいと思った。
 ずるいのかもしれない。卑怯なのかもしれない。慎二が傷ついたように、ユウが傷ついたように、辛すぎる現実から逃げ出すことは、誰かを傷つける行為なのかもしれない。
 けれど―――それで、いい。
 背負い込むには重たすぎる現実を前にした時、人は、悲しくなるほど、弱い。自分は決して逃げない、絶対に大丈夫だと、誰に断言ができるだろう?

 「…本当はね。尾道に行く前、透子は、ユウちゃんに会いに行ったんだ」
 蒼褪め、唇を震わせていたユウは、その言葉に、パッと表情を変えた。
 「透子が?」
 「うん」
 「…どうして、一言挨拶していってくれなかったの」
 「―――声が、かけられなかったんだって」
 「……」
 「あまり仲が良さそうでもなかった弟と、2人でおにぎりを分け合って食べてるユウちゃんを見て―――羨ましくて、羨ましくて、声がかけられなかったんだって。…さっき、透子が“ごめんね”って言ってたのは、多分、そのことだよ」

 『弟の学費のために必死に働かなあかん、うちみたいな思いしなくて済んで…羨ましい。ほんまに』

 透子は、羨ましかっただろう。それを聞いて。
 もしも、紘太が生きていたら―――今頃、高校生だ。たとえきょうだい2人きり残されたとしても、透子は必死に働いて、紘太を大学に行かせただろう。そんな人生を、透子は望んでいたに違いない。
 でも、透子に支えられて生きている家族は、もう、いない。
 透子を支えてくれていた家族も…もう、いないのだ。

 「…もう、やめて…」
 顔を歪めたユウは、そう一言呻くと、片手で目元を覆った。その肩が、激しく震える。
 「そんな…そんなこと、言われたら―――うちだけが、どんどんイヤな人間になったみたいや…。もう、やめて」
 「…ごめん」
 ユウを、責めたつもりではなかったのだが…結果的には、そうなってしまったのかもしれない。慎二は、ユウの頭を、軽く撫でた。
 「オレはただ、分かって欲しかったんだ。透子は、悪くない―――ユウちゃんが悪くないのと同じように」
 「……」
 「…いつか、仲直りできるといいね」

 最後に慎二は、1枚のメモを、ユウに握らせた。
 自分と透子が住む家の、住所と電話番号。…いつの日か、ユウが、透子に連絡をくれたら―――そう、思ったのだ。

 


 ユウを残し、慎二がファミレスの入り口に戻ってみると、透子はまだ、店内には入っていなかった。
 泣き腫らしたような真っ赤な目をした透子は、自動ドアの脇で、両腕を抱きしめるようにして立っていた。俯いた顔は、慎二が近づいてもなお、まだ上げられることはなかった。
 頭を抱き寄せると、コツン、と透子の額が胸にぶつかった。
 「ユウちゃん、休憩で、1時間位戻らないって。透子によろしく、って言ってた」
 こくん、と、額をつけたまま頷くと、透子は慎二のシャツの裾をぎゅっと握った。
 「―――妬ましかったの…」
 「…うん」
 「どんなにどんなに望んでも、もう絶対手に入らないものに囲まれてるユウちゃんが妬ましくて…逃げ出したかったの」
 「…うん…」
 「…軽蔑する?」
 「―――いや。そう感じるのが、人間だと思うよ。オレは」
 ぽんぽん、と頭を撫でながら慎二がそう言うと、透子はやっと、安堵の息をついた。

 一度、目を強く擦って顔を上げた透子は、大きく深呼吸をした。
 「…戻れる?」
 こんな目をしていたのでは、多分、あの2人から、質問攻めに遭うと思うけれど。
 「―――ん、大丈夫」
 にこっ、と笑ってそう答える透子に、慎二もふわりとした笑みを返した。


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