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08: ひえん草

 ガチャリとドアが開いた時、「どなた?」とまた訊かれるのではないかと、一瞬不安になった。
 けれど、ドアから覗いた顔は、透子の顔を見てニコリと明るく微笑んだ。
 「いらっしゃい、透子ちゃん」
 「こんにちは」
 そつなく笑顔を返す透子だったが、本当は、叫びだしたい位に嬉しかった。顔を合わせてすぐに名前を呼んでもらえるのは、これが初めてのことだったから。
 「どうぞ、入って」
 「はい。お邪魔します」
 促されるまま、玄関に入る時――― 一瞬、生垣の傍に置かれたプランターが目に入った。そこで花開いている鮮やかな青紫色の花を見つけた透子は、思わず足を止めた。

 ―――飛燕草(ひえんそう)だ。

 ついこの前まで名前も知らなかった花。
 慎二が好きそうな紫がかった花びらを見つめ、透子は表情を和ませた。

***

 「実はねぇ、透子ちゃんに電話もらってすぐ、カレンダーに書き込んでおいたのよ。“透子ちゃんが来る日”ってね」
 由紀江はそう言って、ダイニングの片隅にかけられたカレンダーを指差した。確かに、今日の日付の枠の中に、そのような文言が書かれている。
 「この前、一緒にケーキを焼いたでしょう? あの時、とっても楽しかったから、次に透子ちゃんが来る時は絶対に忘れないようにしよう、って思ったのよ」
 ケーキを焼いたのは、先月ではなく先々月だ。先月はクッキーを焼いたのだから。でも…一緒にお菓子を作ったということをちゃんと覚えていることに、透子は少なからず驚いた。
 「頑張ってるんですね」
 荷物を置きながら透子が言うと、由紀江は、少女のようにふふっと笑った。
 「私ね。この病気になってから、新しいお友達が出来なかったのよ。昨日あったこともすぐ忘れちゃうから、みんな呆れて離れていってしまうの。もう無理かと思って諦めてたけど―――今度こそ、頑張ってみようと思って。だって、」
 言いかけて、由紀江は刹那、言葉に詰まった。
 僅かに眉を寄せ、考える。それからおずおずと、不安そうに訊ねた。
 「…ねえ? 透子ちゃんは、慎二とはどうやって知り合ったんだったかしら」
 「……」
 “慎二とはどうやって知り合ったのか”―――そう訊ねるということは、透子が慎二の知り合いであることを理解している、という証拠。透子を通じて、慎二を見ているということだ。
 先月はまだ、「秀一と慎二、どっちのお友達だったかしら」と言っていた。この1ヶ月で、何があったのだろうか?
 「―――ええと…じゃあ、ババロア作りながら、お話しましょうか」
 透子が笑顔でそう言うと、由紀江の不安そうな顔が、ホッとしたような笑顔に変わった。


 慎二の母・由紀江のもとを訪れるのは、もうこれで5回目になる。
 慎二を慎二と認識できない由紀江に、「今の慎二」を植え付けていくこと。それが透子の役目だった。
 透子は、由紀江の中ではまだ白紙状態の存在だ。初めて出会い、何度も顔を合わせその人となりや背景、自分との関係などをこれから構築していく相手―――「井上透子」は、今、由紀江の中でだんだんと形になりつつある状態なのだ。そういう透子が「今の慎二」を語り、「今の慎二」の描いた絵を渡すことで、由紀江の中に「今の慎二」も少しずつ構築されていくかもしれない―――医者は、そう言っていた。

 「…それで、慎二さんが、家の前で泣きじゃくってる私に気づいてくれて―――…」

 ゼラチンを鍋で溶かしながら語るこの話も、過去に4回、由紀江に話している。
 けれど透子は、「もう話しましたよ」とは言わない。慎二と出会った経緯を、何度も何度も根気強く説明する。繰り返していけば、いずれは、由紀江の中に出来上がる筈だから。あの混乱の中、慎二に手を引かれてここまで来た、透子という1人の人間が。
 この、ほぼ月1回の訪問にお菓子作りを絡めたのも、医師から「ただ話をするよりも、何かを作ったり一緒に何かをしたり、そういう実体験を伴ったことの方が効果があるかもしれない」と言われたからだった。由紀江と一緒に何ができるだろう…と考えた時、唯一思いついたのが料理だったのだ。
 全ては、由紀江に、慎二を慎二と認めて欲しいから。だからこそ、やっていること。
 けれど―――それ以外にも、密かな理由があった。


 「あ、透子ちゃん、お砂糖取ってくれる?」
 「はいっ」
 由紀江に言われ、透子は砂糖の入った容器を手に取り、由紀江に渡した。
 キッチンに、フルーツの爽やかな香りと、ほのかに甘いバニラエッセンスの香りが漂う。白いフリルのついたエプロンをした由紀江が、そのキッチンの中をパタパタと慣れた様子で動き回る。透子は、泡だて器を動かす手をちょっと止め、そんな由紀江の様子をぼんやりと眺めた。
 こういうのを―――ノスタルジー、と、呼ぶのだろうか。
 はるかだって、料理は上手かった。その手伝いをして、いつも西條家のキッチンに2人して立っていた。けれど、あの時は、こんな感情をはるかに抱くことはなかった。違いがあるとすれば―――由紀江が、正真正銘、2人の子供を育てた経験のある“母親”であること。
 ―――おかあさん…。
 透子と同じキッチンに立つ由紀江に、透子は強烈に、大好きだった母を思い出していた。
 由紀江に良くなって欲しい、という思いだけで、透子はこの家を訪れているのではない。透子自身―――こうしていると、母と一緒に料理をしているみたいで、ちょっと懐かしくて、嬉しかったのだ。

 「あー、でも、やっぱり女の子っていいわねぇ。こうやって一緒にお料理も出来るし。娘が出来たみたいで、おばさん、楽しいわぁ」
 「…えっ」
 突如、由紀江が発した言葉が、あまりにも今自分が考えていたこととシンクロしていたことに驚き、透子は思わず泡だて器を落としてしまいそうになった。
 「私、昔からお料理が好きでね、将来は娘と一緒にケーキ作ったりしたいな、って夢見てた頃もあるのよ。でも、うちは男の子だけだったから、ちょっと残念だったの。男の子でも料理する子はいるんでしょうけど、うちの子たちは、ちょっとねぇ…」
 「……」
 つい、脳裏に、エプロン姿でお菓子を作っている慎二、という図を思い浮かべてしまった透子は、不覚にも吹き出してしまった。
 「あら、変かしら、こんな風に思うの」
 透子が吹き出したのを見て、由紀江はキョトンとした顔をしてそう言った。慌てて透子は、笑ってしまう脇腹を宥めながら首を振った。
 「ち、違うんです。慎二が…慎二さんが、エプロンしてる姿を想像したら、案外似合ってるような気がしたから、つい」
 「そう? 似合うのかしら。エプロン姿なんて見たことないけど」
 「私もないですけど、菜箸とかボウルとか、結構似合うんだもの。おしゃれなレストランのパティシエとか、合うかもしれないなぁ、って。それに、慎二さん、結構器用ですよ。下ごしらえとか上手だし」
 「? 慎二が下ごしらえするところ、見る機会なんてあったの?」
 ―――あ、しまった。
 透子の顔が、一瞬、引きつる。変な疑問を持たせてしまうと、由紀江が混乱するかもしれない。由紀江の中の慎二の認識が現在何歳位なのか、透子にも見えないのだから。
 「え、ええ。引き取られた頃は、慎二さんの下宿で一緒にご厄介になってたから―――家主さんとか、そのご家族とかと一緒に、お料理作ったりしたんで、慎二さんが手伝うところも見てたんです」
 「ああ…、そうよね。慎二が引き取った、ってことは、同じ家に住んでた、ってことですものねぇ」
 「高校生の頃の話ですよ」
 ―――本当は、今も一緒に住んでいるんだけど。
 「今も、慎二にお料理振舞うこととか、ある?」
 「えっ」
 心の中の呟きが聞こえたみたいな由紀江の問いに、つい声が裏返ってしまった。けれど、由紀江はそれを不審に思わなかったらしく、少し心配そうに眉をひそめながら、小さなため息をついた。
 「あの子、昔から体が弱かったから、ちゃんとしたもの食べてるのか心配で心配で…。透子ちゃん、お料理の手際がいいし、とっても上手みたいだから、時々でも慎二にお料理を食べさせてくれると、助かるんだけれど」
 「あ、あー、そういうこと、ですか」
 「え?」
 「い、いえ。あの、えーと…はい。たまーに作ってます」
 「え、そうなの?」
 由紀江の表情が、ちょっと明るくなる。それを見て、透子はまた1つ、由紀江の回復の僅かな兆しに気づいた。
 現在の慎二の健康状態を心配する―――しかも、毎日の食事、という、極めて現実的な物事の上で。一時的な回復に過ぎないだろうことは、過去数度の訪問から十分分かっているが、それでも…嬉しかった。
 「…はい。栄養いっぱい取れるように、頑張って献立考えて、作ってます。だから、慎二さん、元気ですよ」
 「そう…。じゃあ、安心ね」
 安堵したように笑顔を見せた由紀江は、またババロア作りに専念しかけた。が、ふいに何かを思いついたように、再度、透子の方を振り返った。
 「もしかして透子ちゃん、慎二が好きなのかしら?」
 「……っ!!!」
 今度こそ、泡だて器を落としてしまった。
 「きゃーっ!」
 「あ、あらあら…。大丈夫? どこも汚れなかった?」
 急いで泡だて器を拾い、近くに置いてあったティッシュで床を拭く由紀江に、動揺しすぎた状態の透子は、言葉もないままコクコクと頷いた。そんな透子の反応を見て、質問の答えを理解した由紀江はくすっと笑った。
 「そう。慎二のこと、好きでいてくれるのね」
 「…あ…あの、どうして、そんなこと、訊いたんですか…?」
 冗談で訊いたとも思えない口調だった。ドギマギしながら透子が訊ねると、由紀江は、はにかんだような笑みを浮かべた。
 「ん…、ただの、空想よ」
 「空想?」
 「透子ちゃんがうちにお嫁さんに来てくれたらいいのにな、と思っただけ。娘って、楽しいものね」
 「―――…」

 ―――私、こそ。
 再び「おかあさん」と呼ぶ人ができれば―――それが慎二のお母さんなら、どんなにいいだろう。この家に来るたび、そんなことを思っている。
 でも、その為には―――…。

 「ごめんね。変なこと言っちゃって。…ところで、透子ちゃん。今はどちらに住んでいるの? ご家族と一緒?」
 フルーツを型の中に並べる由紀江が、そんなことを言う。
 透子には、家族がいない―――30分前、そう説明したのに。
 「…いえ。家族は、震災で全員、亡くなりましたから」
 薄く笑みを作りながら透子が答えると、由紀江は顔を上げ、済まなそうな顔をした。
 「まぁ…そうだったの。だから慎二に引き取られたんだったのね。ごめんなさい」
 「いいえ。…よしっ、できた! 生地、型に流し込んじゃいますね」
 湿っぽさを吹き飛ばすように、極力明るい声でそう言い、透子はお菓子作りに戻った。

 道は、まだまだ遠い―――いや、まだ、ほんの入り口に立っただけなのだ。

***

 冷蔵庫で冷やしたババロアが食べごろになり、由紀江と2人でその半分程度を平らげた頃、インターホンの呼び鈴が鳴った。
 「ああ、透子ちゃん、いらっしゃい」
 「お邪魔してます」
 慎二の父だった。日曜日なので、普段とは違ってリラックスした私服姿だ。椅子から腰を浮かせ、透子はペコリと頭を下げた。
 「透子ちゃんが来るから、って言っておいたのに、あなたってば勝手に出かけてしまうんだもの」
 不服そうに由紀江が言うと、父は困ったように笑って、手にしていた本をテーブルの上に置いた。多分、本屋で買ってきたばかりなのだろう。本屋のロゴの入ったブックカバーの掛かった文庫本2冊が、輪ゴムで1つに束ねられていた。
 「ごめんごめん。どうしても欲しい本があったからね。それに、女同士の方が、気兼ねなくていいんじゃないかい?」
 「そりゃあ、そうだけど…」
 実際には、父の不在は、透子も前もって知っていた。わざと席を外してくれたのだ。
 父は、秀一と接点を持つ人間だ。そうした人間が加わるよりも、慎二としか接点を持たない透子と1対1で話した方が、由紀江の意識が慎二に集中しやすいのではないか、と父は言っていた。勿論、そんな推論が正しいかどうかなんて、誰にも分からない。担当医にも、こうしたケースは初めてなのだから。でも…思いつくことは、全てやってみようと、父も、そして透子も思っている。
 「あの、じゃあ、私そろそろ失礼しますね」
 ちょうど良い頃合なので、透子はそう言って席を立った。すると由紀江は、露骨に残念そうな顔をした。
 「あら…、もうちょっと、いいじゃないの」
 「いえ。そろそろ戻らないといけない用事もあるから」
 「そう…」
 しゅん、とした顔をする由紀江は、ちょっと可愛い。自分の親よりはるかに年上の女性に使う表現ではないのかもしれないけれど。
 「また、来月、必ず来ますから」
 「ええ。次は、お菓子じゃなくお料理にしましょうか」
 「あ、じゃあ、慎二さんの一番好きなお料理、教えて下さい」
 「ふふふ、いいわよ? おばさんは透子ちゃんの味方だから」
 意味深な由紀江の笑みに、父が「なんだい? 味方って」と不思議そうな顔をする。慎二が好き、という話を由紀江がまだ引きずっているらしいことが透子には分かるので、物問い顔の父にも、困ったような曖昧な笑みしか返せなかった。
 「あ…、それと、」
 こほん、と咳払いをひとつすると、透子は、足元に置いていた紙袋を持ち上げ、由紀江の方に差し出した。
 「これ―――慎二さんが、由紀江さんに、って」
 「まあ、絵ね? ありがとう!」
 これが本来の一番の目的だが、透子はいつも、慎二の絵を由紀江に渡すのは、工藤家を辞する直前―――1日の最後にしている。
 一番、大事なものだから、他の話題で掻き消えてしまわないよう、最後に渡す。そうすれば由紀江は、ババロアを作ったことは忘れても、絵をもらったことは覚えてくれる筈だと思うから。
 「何の絵かしら…開けてもいい?」
 「ええ、どうぞ」
 少女のように目を輝かせた由紀江は、さっそく紙袋からカンバスを取り出した。そして、カンバスを丁寧に包んでいる紙を器用に解くと―――そこに、鮮やかな青紫色の花が、顔を覗かせた。
 「―――…飛燕草…?」
 「はい。…明日、由紀江さんのお誕生日だから、って」
 透子はそう言って、カンバスの裏を指差した。そこには慎二の字で、「Happy Birthday 2001.5.21」と入っていた。
 「…ありがとう…」
 ふわりと微笑んだ由紀江は、愛しそうに、小ぶりなカンバスをきゅっと抱きしめた。その笑顔は、何も知らない童女のようでもあるし、子供を抱きしめる母親の顔のようにも見えた。
 純真無垢な子供の精神と、豊かな母性が、この人の中で並存している。
 不思議だ―――なんて、不思議な存在なんだろう。
 「…慎二さんから、教えられました。飛燕草って、5月21日の誕生日の花なんだって。花言葉は…」
 「“自由”」
 透子が口にする前に、由紀江が答えた。
 透子の目を見つめる由紀江の目が、笑みに細められる。
 「飛燕草の花言葉は、“自由”よ。…私が、慎二にそう、教えたの。ずっとずっと昔にね」

***

 「すまないね、いつも」
 駅までの道のりを歩きながら、慎二の父は、透子に心配そうな視線を投げかけた。
 夕暮れも迫ってきているので、人通りの少ない日曜日の住宅街は危ない、と言って駅まで送ることを申し出てくれたのだが、実際のところは透子と話がしたかったのだろう。透子も、同じ気持ちだった
 「疲れたんじゃないかい? 半日近くも」
 「いえ、全然。私、慎二のお母さんってことを抜きにしても、由紀江さんて好きですから」
 「そうかい? 無理はしなくていいよ?」
 「ほんとです。それに今日は、こんなものもいただいちゃったし」
 透子の腕の中には、新聞紙に包まれた飛燕草の花束がある。慎二の絵を受け取った由紀江が、お礼にと、プランターに植えてあったものの一部を切って分けてくれたのだ。
 「でも…今日、驚いちゃいました。由紀江さん、私の顔と名前がちゃんと一致してたし、慎二のこともたくさん話してくれて」
 透子がそう言うと、父は数度頷き、微笑んだ。
 「ああ、実は、ここ2週間ほど、普段の生活でもなるべく透子ちゃんの名前を出すようにしてたんだよ」
 「え?」
 「この前透子ちゃんと作ったケーキはおいしかった、とか、あの絵は先月透子ちゃんが持ってきてくれた慎二の絵だ、とかね。折に触れて、透子ちゃんの話をするようにしてたんだ。その時点では覚えてない時もあったけど、暫く説明すれば、だんだん思い出せるようになってきて―――思い出すまでの時間が短くなってきてね」
 「…そうだったんですか…」
 「君が頑張ってるんだから、わたしも、出来る限りのことはしないと…ね」
 慎二の父はそう言うと、小さなため息を漏らした。
 「頑張って―――1日でも早く、由紀江に治ってもらわないと…」
 「そんな…焦ることないですよ。私、5年10年かかる覚悟は、ちゃんと出来てますから」
 当然のように透子がそう答えると、父は思わず足を止め、少し身を屈めるようにして、透子の顔を覗き込んだ。
 「透子ちゃんは、これからの人だろう? これから社会に出て、恋も結婚もして―――いつまでもうちのことに関わっていられなくなる。いや、うちのことに構っていては駄目なんだよ」
 「……」
 「それは…一応、君と慎二のことは、聞いているよ。つまりその…」
 「…私、慎二が好きです」
 言い辛そうにしている父を助けるように、透子は自分からそう告げた。
 「慎二も…好きだって言ってくれました。その言葉、最初は信じられなかったけど、今は信じてます。まだ、将来のことなんて分からないけど―――少なくとも私は、慎二以外の人との未来なんて、絶対考えられません」
 「そりゃあ、今はそうだと思う。でも―――聞いているだろう? 慎二のことは」
 「……」
 「それは勿論、子供は天からの授かりものだから、どんな相手と結婚しようと、授からない場合は授からない。けれど…わざわざ可能性が限りなくゼロに近い相手を選ぶことは、諸手を挙げて賛成できることじゃない。特に、透子ちゃんは、1人きりなんだから…」
 「…同じこと、慎二にも言われました」
 透子はそう言い、くすっと笑った。
 「正直なこと言うと、私…まだ、結婚とか子供とか、そういう具体的なことは考えられないんです。でも、もし私が“家族が欲しい”って思うことがあるとしたら―――それは全部、慎二と2人で築く家族だと思うんです」
 「…透子ちゃん…」
 「工藤さんと、由紀江さんと、慎二と、私。…4人いれば、十分です。どうしても子供を育てたかったら、養子や里親って方法もあると思う。私だって、もう少しで施設に入れられるところだったんだもの。そういう子供を引き取って育てるのも、悪くないな、って。でも、そういう未来は、慎二と一緒でなければ“幸せ”じゃない―――慎二がいないだけで、不幸なんです、私って」
 だって、この世界は、慎二がくれた未来だから。
 慎二がいなければ、生きられなかった世界―――今ここにいるのは、慎二と出会えたから。だから、この先の未来も、慎二がいなくてはありえない未来だ。
 「私が幸せでい続けるには、慎二にも幸せでいてもらわなくちゃ」
 ニコッと笑い、透子は、腕に抱いた飛燕草を、更に抱きしめた。
 「だから、何年でも待ちます―――由紀江さんが、慎二を慎二と呼んでくれるまで」

***

 家に着く頃には、日はすっかり暮れていた。
 「ただいまぁ」
 「おかえり」
 出迎えた慎二は、手に菜箸を持っていた。思いがけないことに、透子は靴を脱ぐのも忘れて目を丸くした。
 「ど…どうしたの? え、もしかして、お夕飯作ってたの?」
 「うん。透子の貴重な日曜日を潰させちゃったからさ、夕飯位、オレが作ろうと思って」
 「嘘っ、そんなことしなくてよかったのに…」
 「大したもんじゃないし。カレーとサラダだから」
 「なんか悪いなぁ…」
 「オレの方が“なんか悪いなぁ”だよ」
 コツン、と透子の額を軽く小突くと、慎二は柔らかな笑みを返した。
 「…ありがとう。本当に」
 「…ううん」

 慎二が好きだし、慎二の両親も好きだ。
 幸せになりたい―――幸せになるなら、4人でなりたい。心から、そう思う。だから、何年でも待てる。きっと。

 「…あ、これ」
 腕に抱いている花束のことを思い出し、透子はそれを慎二に差し出した。
 「由紀江さんが、切ってくれたの。育ててる飛燕草」
 「へぇ…、今年も育ててるんだ。懐かしいなぁ…」
 ガサガサと音を立てて新聞紙を解くと、瑞々しい花が顔を覗かせた。それを見て、慎二は、かつてを懐かしむように目を細めた。


 飛燕草―――花言葉は“自由”。
 今も愛する子供の死に囚われたまま、もう1人の子供を見つけられない由紀江。彼女にも、自由になって欲しい。透子はそう思った。


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