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「いーのうえっ」
閑散とした廊下を歩いていた透子は、背後から掛けられた声に、反射的に足を止めてしまった。
「……」
ただでさえ憂鬱な用件で訪れた夏休みの大学構内なのに、余計憂鬱さが増す。が、完全無視で突破できるほど甘い相手でないことは、既に実体験済みだ。
すぅ、と息を吸い込んだ透子は、クルリと振り向いた。
そして、目に飛び込んできた、見慣れたアイドル顔の満面の笑みに、憂鬱度が一気にメーターを振り切るまで上がった。
「よぉ。井上も就職指導?」
ニコニコ顔の露村は、そんな聞かずもがななことを訊いてきた。
「…今日来てる人の大半が、そうだと思うけど」
就職指導の必要な生徒の呼び出し日なんだから。
「うん。俺もそうだし」
「露村君、就職先まだ決まってなかったっけ」
「井上と同じ所にしようかな、と思って、様子見てるから」
「……」
―――勘弁してよ…。
今日は夕方から大きく天気が崩れる予想だが、頭が痛いのは、気圧の変化のせいではないだろう。全く―――この男は、自然災害より質が悪い。
「露村君てさ、」
腰に手をあてた透子は、憮然とした表情で、露村を睨み上げた。
「もしかして、“迷惑”って単語の意味、知らないの?」
「失礼な。今日は井上に、いい話があって待ってたのに」
「いい話?」
「そ。だからさ、今からデートしない?」
…何故、そうなる。
露村の思考回路は、さっぱり分からない。話にならない、とばかりにため息をついた透子は、再び踵を返し、廊下を歩き出した。
「あ、おい、井上っ。デートは?」
「無理。就職指導の先生から、このファイル、F3講義室にいるお客様に届けて欲しい、って頼まれちゃったから」
「俺もついてってやるよ」
「いーってばっ」
「んじゃ、いい話、F3行く道すがら、教えてやるよ」
そう言って露村は、若干早足で歩く透子にあっさり追いつき、当然のように並んで歩き出した。
露村と同じ位背丈があれば、全力を出せば、引き離せたかもしれないのに…こういう時、コンパスの違いが敗因になってしまう。諦めた透子は、露村の同行を黙認することにした。
それにしても―――何故露村は、こうも自分に執着するのだろう?
チラリと見上げた、隣を歩く露村の横顔に、透子は内心、首を傾げる。
慎二とただの同居人でないことは、例の絆創膏事件で納得してくれた筈だし、いくら露村が女性に人気のある学生であっても、透子の気持ちは1ミリたりとも動かない、ということも十分分かっている筈だ。なのに―――諦めるどころか、まだバイト先には出没するし、暇があればこうして声を掛けてくるし…。
「いい話ってのはさ。就職のこと」
透子の迷惑を無視して、露村は、マイペースに自分の話を切り出した。
「就職?」
「そう。実はさ、俺の親の知り合いが、地学とそう無関係でもない会社の、結構いいポストにいるんだ」
「ふぅん」
「地図データを配信してる会社でね。書籍より、ネットとかソフトでサービスしてるんだ。それも、単なる地図だけじゃなく、地質データとかの専門データを、専門機関と提携して提供してる、っていう。その重役、親父と仲いいし、まだ人材募集かける前らしいから、頼めば優先的に面接受けられるんだ」
「いいんじゃない? 露村君にピッタリだから、受けてみたら?」
「違うよ、鈍いなぁ」
軽く笑った露村は、歩きながらも少し身を屈め、透子の顔を覗き込んだ。
「俺じゃなくて、井上。よければさ、受けてみない? その会社」
「……」
さすがに、驚いた。
教官から預かったファイルを胸に抱いた透子は、大きな目を丸くして、露村の顔を見上げた。
「な…、なんで、私が?」
「だって、まだ就職先、決まってないだろ?」
「それを言うなら、露村君だってそうでしょ? 私に紹介してる余裕があるなら、まず露村君が受けなよ」
自分と同じ会社にしたい、なんて言っているが、その言葉を透子は鵜呑みにはしていなかった。
不況の折から、まだ就職先の決まっていない生徒は多く、特に特殊専門分野である地学の人間は、内定率は学内でも最下位だ。露村があまり就職活動をしているように見えないのも、そうした周囲のムードのせいで、自分だけ焦ったってしょうがないや、という気分になっているだけのように、透子には思えた。
けれど露村は、透子の言葉を、ケロッとした調子で跳ね除けた。
「俺さー。井上と違って、別に就職先にこだわり無いんだよね。地学関係じゃなくても、別にいいや、っていうか、大学出てまで気象だ地質だって研究職に近いことやるのも、なんだかなー、っていうか。口上手いから、営業職が向いてるかな、とか思ってる位で、実際、営業で1社受けたよ。落ちたけど」
「…そう、なんだ」
そりゃ、露村の勝手だが―――同じゼミの仲間としては、ちょっと寂しい話だ。
「でも、井上は、あくまで地学に関係ある就職先にこだわってるんだろ? 成績もいいし、教授陣のウケもいいから、一般企業を随分薦められてるのに、全然受けようとしないし。だから、ちょうどいい会社だと思って、話持ってきたって訳」
「…それは…、あ、ありがとう」
そう、答えるしかない。
困ったような、膨れたような微妙な顔で礼を言う透子に、露村はニンマリと笑った。
「これでちょっとは、ポイント上がった? “露村君て、私のことこーんなに考えてくれてたのね、透子感激”とか思った?」
「―――別に」
思わず、ムッとしたように、眉根を寄せる。
「そういう下心優先のことだって分かると、逆に心証悪くなる一方だと思う」
「ちぇっ、なんだよ。ちょっとでも心証良くしたい、っていう下心がなけりゃ、こんな話、持って来る訳ないだろー?」
「ゼミ仲間としての心証は、元々、別に悪くないよ。露村君の心証が悪いのは、恋愛に関してだけ。“どれだけ努力しても無理です好きになれません”って、言葉でも態度でも示してるのに、さっぱり諦めてくれないから嫌だ、って言ってるの」
「…きつー…」
「ごめんね。きつい奴で」
だから愛想尽かしてよ。
そういうニュアンスをこめて抑揚の無い声で言い捨てるが、露村はまるで意に介さない。分かってて無視、なのだから、ニュアンスを汲み取れない鈍感な人間より質が悪い。
「俺、井上のそういう、恋愛関連限定のきつい性格も好き。身持ちが堅いよなー、って分かるから、彼女にした時安心で」
「……」
「それにさ」
突如、露村の腕が透子の肩に回され、肩を抱かれて歩く形になった。
さすがにギョッとして肩を強張らせる透子に、露村が楽しげに笑った。
「ほらー、こういうとこ。ま、あの同居人と恋人同士だとか言ってもさ、この男慣れしてないオーラは消せないよなー」
「何っ、その“男慣れしてないオーラ”って」
「どーせ大した関係じゃないんでしょ、あのおにーさんと」
「…そんなこと…」
「春頃のあのバンドエイドだってさ、あの瞬間はショックだったけど、よく考えたら、俺が井上にちょっかい出してるの知った翌日だったこと考えると、フェイクの可能性高いよなーって。それとも、俺のこと追い払えると思ってあの人に頼んだとか?」
「そ、そんな訳ないでしょっ!」
あの後、ゼミの仲間の視線が痛くて、大変な思いをしたのは透子なのだから。カラオケ後の展開が展開だけに、隠されたキスマークの相手が露村ではないかと一瞬誤解されたりもして、甚だ迷惑なことを女の子から言われたりもしたのだし。
「ま、キス位はする仲だって分かったけど? よーく考えた結果、決定打はまだだな、って想像ついたから、遠慮しないことにした」
「すっごい迷惑っ! 私は慎二が好きだって、何度も言ってるでしょ!? なのになんで諦めないのっ」
「そんなもん、人間の気持ちなんて、ちょっとしたきっかけで簡単に変わるってことを知ってるからに決まってるじゃん」
あっさり吐かれた言葉に―――透子は、思わず顔を強張らせた。
「いい子いい子、って、保護者面して井上を囲ってるだけの男なら、俺が横から掻っ攫える可能性だってゼロじゃないよ。井上が俺のこと、あの人よか井上の役に立つ頼れる男だ、って認識すればさ」
「あのね」
ちょうど、F3の講義室前に到着したので、透子は足を止め、露村の手を振り解いた。
「大体私は、慎二のこと、“頼れる・役立つ”なんて理由で好きになった訳じゃないから! 就職先が露村君の口利きで決まったって、感謝はするけど、慎二より露村君を好きになるなんてあり得ないよ」
「そうかな」
「そうなの! それに! 私、別に“地学に関係する就職先”を探してる訳じゃないからっ」
慎二のこともそうだが、それと同じ位、この件については露村の勘違いをはっきり正しておきたかった。ファイルをしっかりと抱きしめた透子は、キッ、と露村を睨み上げた。
「私はね、地学全般じゃなく、“気象の”仕事をしたいの! 鉱物も地質も天文も、そりゃ面白いよ? でも私は、日常の中にある極当たり前な季節の移り変わりを仕事にしたいの。そもそも、地学科に転入しようって思ったのだって、光の加減や空気の微妙な違いや、そういうものの中に感じた“季節”に気づいて、あー、面白いなー、地球って生きてるんだな、って思ったことがきっかけだったんだもの。地図情報システムも、意義のある立派な仕事だけど、私がどうしてもやりたいってこだわり続けてる仕事とは別の仕事なの。話を持ってきてくれたのは嬉しいけど、方向違いなの。露村君が“大学卒業してまで研究なんかやりたくないね”って言ってるモノだって、私はこの先ずーっと研究し続けたいものなのっ。分かった!?」
「―――…」
一気にまくし立てる透子に、露村は、呆気にとられたように反論できずにいた。
言いたいだけ言うと、少し気分が落ち着いた。すると、途端に、言い過ぎたかな、という後悔が少しだけ浮かんでくる。
気まずそうに1歩後ろに下がった透子は、F3講義室のドアに手を掛けながら、ボソボソと付け足した。
「―――で…でも、露村君なりに、私のこと考えてくれたのは、分かった。それは、感謝してる。ありがと」
「…や、いいけど」
「その仕事、露村君が受けなよ。露村君、気象ゼミに流れてきたけど、元々地質調査の方が興味ありそうだったじゃない。コンピューター使うのも得意だし、向いてると思うよ」
「…うーん…そうかなぁ。俺は営業の方が向いてると思うんだけど…」
「その会社の営業って手もあるじゃない」
「なるほど」
考え付かなかったのか、露村は、透子の提案にポン、と手を叩いた。全く…ちゃっかりしてるんだか、抜けてるんだか、よく分からない。変な人、と思いながら、透子は、講義室のドアを開けた。
すると。
「―――…!!」
広い講義室のどこかにいるだろう、と思われていた客人が、いきなり目の前に立っていて、透子だけでなく露村までもが、ギョッとして固まった。
そこにいたのは、40歳から50歳位の、人のよさそうな中年男性。パン屋のおじさん、と称したくなる、キャラクターチックな顔だちと体型の人物だった。
就職指導の教官からは、ただ「外部の人だけど、資料を渡すために待っていただいてるから。わたしと同じ年頃の方だし、今日講義室を使ってる生徒もいないだろうから、すぐ分かると思うよ」とだけ言っていたが―――見覚えの無い顔からも、この人物が教官の言っていた人であることは、ほぼ間違いないだろう。
「あ…っ、あのっ」
はっ、と我に返り、透子は慌てて、胸に抱きしめていたファイルを、その男性に差し出した。
「横田先生から預かったファイルです」
「ああ、ありがとうございます」
やはり、そうだったらしい。透子が差し出したファイルを、男性はニコニコの笑顔で受け取った。
が、その中身を碌に確かめようともせず、男性の視線は、すぐに透子に向けられた。そして、透子が思いもよらなかったことを口にした。
「あなたが、井上透子さん…ですね?」
「えっ」
自分は、ただ、先生からの頼まれ物をたまたま届けただけなのに。
何故、先生の客人が、いきなり透子のフルネームを口にするのだろう―――さっぱり事情が分からない。
「井上透子さんですね?」
重ねて男性に確認され、透子は戸惑いながらも、
「は…はあ、そう、ですが」
と答えた。
すると男性は、満足したように大きく頷き、更に予想外なことを透子に告げた。
「ちょっと、お時間よろしいですか? 是非お話したいことがあって」
「は? あ、あの―――私に、ですか?」
「あなたにです」
そして続けられた一言は―――透子を最も、驚愕させた。
「あなたの進路について、工藤さんからのご相談を受けていたので―――そのことについて」
***
『四季気象サービス株式会社 代表取締役 江野本一馬』
大学近くの喫茶店に場所を移し、透子と向き合ったその人物は、そう書かれた名刺を透子に差し出した。
「江野本……」
よく知る先輩と同じ苗字に、透子が眉をひそめる。その意味を察したのだろう。江野本は、ハハハ、と明るく笑った。
「わたしも驚きましたよ。まさか井上さんが、うちの甥っ子の知り合いだとは思いませんでしたから。工藤さんから大学名を伺って、偶然、征矢君と同じ大学だったから、もしや、と思って征矢君に電話したら、ビンゴでした。世間って狭いですねぇ」
「は…あ…」
―――背後からの視線が、痛いなぁ…。
井上1人じゃ危ない、と言い張ってついてきた露村が、カウンター席に陣取り、コーヒー片手にじっとこちらを見ているのだ。小さな喫茶店だから、会話の内容だって筒抜けだろう。どうにもやり難い。
「それで、あの―――慎…工藤、さん、とは、一体どういう経緯で…」
まず、そこを確認しないと、落ち着かない。透子は恐る恐る、江野本に訊ねた。
すると江野本は、ニッコリと微笑み、説明し出した。
「いえね。本当の偶然だったんですよ」
「偶然?」
「あなたのアルバイト先で、あまやどりした仲なんです」
その後、江野本が語り出した、慎二との出会いの話を聞いて―――透子は、それがいつのことか、すぐに分かった。
雨の中、1つの傘に2人で入って帰った、梅雨直前の夕方。あの少し後に、何故か慎二から江野本先輩のことを訊ねられたことも、すぐに思い出した。
そして、江野本が続いて説明した、その後の慎二の行動のこと―――なんとか透子に会うだけでもしてもらえないか、と何度となく江野本のもとへと足を運んだ、という話を聞いて―――何故最近、慎二が時折行き先不明の外出を重ねるようになったのか、その理由を察した。
「あの人は、あれですね、聞き上手ですね。あなたと一緒に暮らしているせいなのか、それともあなたが、あの人の影響を受けたせいなのか―――四季の移り変わりのことにとても繊細な感性をお持ちで、わたしの話にもいい反応を返してくれるんですよ。天気なんて、明日傘が要るかいらないか、しか興味のない大人が多い中で、ああいう人は貴重ですよ。だからわたしも、ついつい、工藤さんが来るのを心待ちにするようになっちゃいましてねぇ…」
まいったまいった、と笑う江野本と向き合いながら、透子は、急激に速まる鼓動を感じながら、ちょっと視線を落とした。
―――慎二…。
慎二が何故、この話を透子には黙って進めていたのか―――透子には、よく分かる。面接も受けられない状態が続いている透子に、受けられる可能性がかなり低い面接の話などして、最終的にぬか喜びになったら可哀想だ、と思ったのだろう。そういう慎二の優しさが分かるから…余計、鼓動が速まる。
「うちの会社は、わたしのワンマン経営の部分も多いですが、採用に関してはシビアでしてねぇ。求人広告を全く出していないことからも分かるように、少数精鋭、本当に気に入った人間をヘッド・ハンティングしてくる以外の方法では、人材は補充しないことにしているんですよ」
そこで言葉を切った江野本は、砂糖のたっぷり入ったコーヒーを口に運び、一息ついた。
「聞けば井上さんは、まだ大学4年生ですし―――実務経験もない、院生でもない学生を新規採用はちょっと…と、採用担当も消極的だったんですが……工藤さんの話を聞いているうちに、ちょっと、気が変わりましてね」
「え…っ」
「彼が、言うんですよ。あなたは“季節を自分の言葉で語る才能を持った人”だと」
―――自分の…言葉で?
思わぬ話に、透子は目を丸くし、江野本の顔を凝視した。
「意味がよく分からず、実はこっそり、あなたのバイト中の姿も拝見しに行きました」
「! い、いらっしゃったんですか!?」
「ハハハ、すみません。でも、子供たちに気象の仕組みを説明しているあなたを、どうしても見ておきたくなりまして―――それで、工藤さんが言いたいことが、なんとなく分かりました」
そう言って江野本は、どこか楽しげに目を細めた。
「日々の細かな気象情報や実験結果、過去数十年蓄積された膨大な過去データ―――あなたは、そういうものの分析を的確にやりながらも、気象の道を志す人間が始めに心惹かれる筈の部分―――空の青さや春の草木の美しさ、冬の氷の冷たさなんかをいつまでも忘れず、それをデータに結び付けて人に伝えることが出来る人なんですよ」
「……」
「呆れるほどクレバーで現実的なあなたと、詩人や絵描きのような究極のロマンチストのあなた。2人のあなたが、あなたの中では、矛盾せず共存しているんです。気象という分野の中では」
現実的な透子と、ロマンチストな透子。
それは、以前から、千秋に何度も言われてきた。玉子が1パックいくらだった、という超現実主義の透子と、荘太の走る姿に風や芸術を感じる透子―――そのどちらもが透子の偽らざる姿であることが、透子の面白い所だ、と。
「この業界は、データ量の豊富さと予測の的確さが重要ですが、わたしはそれだけで終わってる人間は好きじゃないんですよ。冬の終わりの0.1度の気温差に、雪崩の危険を察知して身構える一方で、雪割草の開花を思ってちょっと嬉しくなる―――そういう人が、わたしが一緒に仕事のしたいプロです」
「……」
「とはいえ、あなたが経験不足であることは、否めない」
はぁ、と小さく息をついた江野本は、少し表情を引き締め、抱えていた茶封筒を取り出した。
「ここに、うちの会社の概要パンフレットと、現在進行中の新規事業に関するレジュメを入れておきました。おうちでじっくり読んで下さい」
「えっ」
「実は今、動植物園を相手としたサービスを立ち上げ中なんです」
「…動植物園…」
「うちの顧客の多くは、地方自治団体や流通産業ですが―――植物や動物の飼育・栽培には、気象は大きく影響しますからね。植物のエキスパートと、うちの予報官とが組んで、日々の気温や湿度の変化から、経験則だけでは防ぎきれない病害虫の発生や冷害被害などを食い止めようと、まあ、そういうプロジェクトです。桜の開花予測なんかも、気象庁とは別に、植物園毎に発表しますし―――時には、そうした施設に出向いて、来園者に天気と動植物の関係なんかを説明したり」
「……」
「まだ準備段階で、正直、ここ1ヶ月は人手不足を実感しつつあります。いい人材が欲しい―――そう思ってるところだったんですよ」
意味深な笑みと共に告げられた事情に―――透子は、心の片隅で、すっと埋まらずにイライラしていたピースが、ぴったりと嵌るのを感じた。
毎日の中で、四季を感じながら仕事がしたい―――透子が一番、一番望んでいた仕事。
天気予報でも何でもいい、と思っていたけれど…これほど、透子の理想に近い仕事は、他に無いように思えた。
秋のみのむしの姿や、やっと芽吹いた木々の新芽に、じっとしていられずに飛び出していった、小さい頃の慎二。“不思議君”だった慎二と通じる世界が、この仕事の中にはある。恋人としては無理でも、一生を慎二と同じ世界を見つめて生きていけたら―――そう思っていた頃からずっと望んだ世界が、そこにあると信じられた。
やりたい。この仕事。
どんなことをしても―――このチャンスを掴みたい。その想いが、抑えられないほど湧き上がってくる。
「…お願いします」
透子は、膝の上で組んだ手をぎゅっと握り締め、江野本を真っ直ぐに見つめた。
「お願いします。なんとか―――なんとか、面接だけでも受けさせてもらえませんか?」
「……」
「もし正社員が無理なら、アルバイトでも構いません。雑用でもいいから、そのプロジェクトのお手伝いがしたいんです」
「―――あなたなら、そう言うと思ってました」
ニッコリと笑った江野本は、茶封筒をテーブルの上に置き、透子の方へと押しやった。
「井上さん、運転免許は?」
「あ…、ええと、気象予報士試験が終わったら、取るつもりでいます。今、お金貯めてる最中なんで…」
「確か、気象予報士試験は、8月の末でしたね」
「? はい」
「そして、確か、10月の頭が合格発表でしたね」
そう言った江野本の顔が、突如、真剣なものに変わる。人のよいおじさんから、経営者の顔に。
「…死ぬ気で、頑張りなさい」
「…はい…?」
「気象予報士試験にパスしたら、面接を受けさせてあげましょう」
言葉を、失う。
気象予報士試験の合格率は、10パーセントを大幅に割り込んでいるのだから。
確かに前回、透子は、かなり惜しい成績で合格できなかった。とはいえ―――ほんのちょっと気を弛めればあっさり落ちる、そういうレベルの資格試験なのは確かだ。
「若くして大きな希望を持った人間は、その若さをカバーするだけの“何か”が必要ですからね」
経営者顔の江野本は、そう言って最後に、ニンマリと笑った。
「大丈夫。さっき、講義室の外で怒鳴っていたようなことを面接でも聞かせてもらえれば、採用は9割以上、確実ですよ。若干わたしよりは頭が硬いですが―――うちの連中も、結局は、わたしの好みで、わたしが採用を決めたプロばかりですからね」
***
江野本が喫茶店を去った後も、なんだか、雲の上を歩いてるみたいな気分だった。
「…さすが、保護者歴長い奴は、やることが違うな」
透子の同意も得ないまま、透子の向かいの席に移ってきた露村は、面白くなさそうな顔をしつつも、そう皮肉めいた口調で言った。
「実の親だって、何のコネもない会社に、そこまで足運んで頼み込むかね。良かったな、井上。いい“親代わり”で」
「……」
「…やっぱり、お前らって、恋人っていうよりは親子なんじゃない?」
親代わり―――…。
否定なんて、できない。少なくとも、尾道にいた頃は、それが自分と慎二の関係だったのだから。
まだ自分は、慎二と対等な立場には立てていない。どれほど透子が慎二の心配をしたって、それはただの心配でしかない。慎二のためにできることは、まだまだ少なくて…時々、なかなか埋まらない差に、焦りを覚える。
早く、対等な大人になりたい。
年齢の問題じゃなく、いろんな意味で―――社会人になる、ということもそうだけど、精神的な強さとか、気遣いとか…そういうことでも。
今回のことでも、透子が落胆する結果になったら可哀想だから、なんて慎二が気遣う必要のない位、大人な人間でいたかった。
こういう人と知り合ったよ、と透子に名刺を渡して、あとは勝手にしろ、と投げられる位に―――強い大人でいたかった。そうすれば、慎二との差に落ち込むこともなかったのに。
「…私、もう帰るから」
苛立った透子がガタンと席を立つと、
「あ、俺もちょうど帰ろうと思ってたから」
と露村も席を立ち、透子の分のレシートを手に取ろう―――として、既に無いことに気づいた。
「…コーヒー代、さっきの江野本さんが、払ってくれたから」
「なんだ、そっか。ちぇ…またポイント稼ぎ損ねた。マスター! これ、俺の分ね」
―――コーヒー代位、私だって、自分で払えるんだけどなぁ…。
江野本の分だって、わざわざ足を運んでもらった手前、透子が払いたかったのに―――なんだか、誰も彼もが、自分を子ども扱いしてこぞって面倒見ようとしているような気がしてきて、透子はちょっと憂鬱な気分になった。
自分のコーヒー代を払い終えた露村は、透子の後を追うように店を出た。
カランカラン、というドアベルの音と共に踏み出すと、店に入ってきた時は曇り空だった空は、いつの間にか、大粒の雨がパラつく天気に変わっていた。
「あーあ、とうとう降ってきたか―――井上、傘持ってる?」
「折り畳みなら」
「じゃ、一緒に相合傘させて」
「!? じょ、じょーだんでしょ!? 絶対イヤ!」
とんでもない、という顔で透子が後退ると、露村は、拗ねたように口を尖らせた。
「この降りだと、駅着くまでには本格的な降りになるよ? 俺に、土砂降りの中、傘なしで帰れ、って?」
「…っ、じゃあ、いいよ。私の折り畳み傘貸すから、1人で帰って」
「はー? だったら井上はどーすんの」
「相合傘して帰る位なら、傘なしでずぶ濡れで帰った方がマシ」
「冗談! このフェミニストの露村君が、そんなこと、井上にさせられる訳が、」
「―――透子」
店の前で揉めていた2人の間に、穏やかな声が割って入った。
言い合いをピタリと止めた2人が、声の方へと目を向けると―――そこに、傘をさした慎二が立っていた。
「し…慎二…」
何故、ここに。
事情が分からず、呆然としてしまう透子の横で、露村が、面白くなさそうな顔で僅かに会釈した。それに気づいた慎二は、ふわりと微笑んで、同じく軽く頭を下げてみせた。
「江野本さんには、会えた?」
「…う、うん。江野本さんはさっき、雨降り出す前に帰っちゃったけど―――あの、慎二は、なんで?」
「え? あ……ハハハ、なんか、江野本さんが今日透子に会いに行くって聞いたから、じっとしてられなくてさ。それで、透子を迎えに来ただけ」
「……」
慎二―――…。
知らず、口元が綻んでしまう。照れたような、困ったような笑顔で答える慎二が、なんだか……泣きたくなるほど、愛しくて。
包み込むみたいな大きさを持っているけれど、子供みたいな部分も沢山残ってて。
漂うような生き方しかできないけれど―――漂いながら、透子の手を引っ張って、連れて行ってくれる。透子がまだ見たことのない世界へ。
「…慎二」
泣き笑いのような笑みを浮かべていた透子は、一度、大きく息を吐き出すと、改めてニッコリと笑った。
「傘、入れてもらってもいい?」
「え? あ、ああ、いいよ。…今日は傘、忘れたの?」
用意周到な透子には珍しい話に、慎二が少し目を丸くする。
「ううん」
透子は首を振り、ぴょん、と慎二の傘の下に飛び込んだ。そして、くるりと露村の方に向き直ると、肩に掛けたバッグの中から、いつも使っている折り畳み傘を取り出した。
「露村君」
「……」
「ごめんね」
折り畳み傘を、露村に差し出す。
―――ごめんね。
私、慎二にしか、甘えることができない人間だから。
驚いたような露村の顔が、差し出された小さな傘に、透子の言葉の意味を感じ取り、不貞腐れたような表情に変わる。が―――ここで騒ぎ立てても意味がないと考えたのだろう。むくれつつも、露村は透子の傘を受け取った。
「…俺、もう1杯、コーヒー飲んで帰るわ」
「うん。じゃ…また、ゼミで」
「おー」
やる気のなさそうな返事を残し、露村は、今出てきたばかりの喫茶店のドアを開けた。
そして、肩越しに慎二の姿を確認し―――いつものふわりとした笑みで軽く会釈する慎二に内心舌打ちしつつも、ひょこりと頭を下げて、店内へと消えた。
***
「そっか―――気象予報士試験が、透子の登竜門になったのか…」
相合傘で歩き出し、透子の手短な説明を聞いた慎二は、そう言って小さくため息をついた。
「やっぱり、一筋縄ではいかないなぁ、江野本さんは」
「…でも…無理もないよ。あの会社、気象庁のキャリアだった人までいるらしいもん。そういう中に、新卒の私が混じるなんて、正直自分でも自信ないよ」
「江野本さんが気に入ったんなら、大丈夫だよ」
「そうかなぁ」
「あの人、ただ仕事ができるだけの人じゃ、満足じゃないみたいだから」
そう言って、慎二はふっと笑った。
「採用するかどうかも分からないのに、わざわざ足運んでこんな話しに来たってこと自体、かなり自信持っていいと思うよ」
「…うん…」
そうだろうか、と、やっぱり不安はあるけれど。
そんなこと、今から心配しても仕方ない。今は、江野本が自分の将来性に少しは期待してくれているのだ、と解釈して、気象予報士に合格することだけ考えよう―――透子はそう自分に言い聞かせ、大きく息をついた。
「…ね、慎二」
「ん?」
「ごめんね、こんな風で」
透子がそう言うと、慎二は、少し驚いたように目を丸くした。
「なんで?」
「だって…私、自分の力だけじゃ、1社も受けられないままだったし。江野本さんのことも、慎二がいたからこそ、ここまで話が進んだんだし―――自分が、情けない。慎二を助けたいなんて言っておきながら、結局、自分自身のことすらまともにできてなくて」
「そんなことないよ」
「でも」
「そんなことないって。江野本さんのことは、単なる偶然だろ? たまたまオレが、あまやどりしてて江野本さんと知り合っただけ―――そりゃ、その後、江野本さんに食い下がったのはオレだけど、あの人が透子に話をしに行こうって思ったのは、あくまで透子自身が原因だよ」
「……」
「透子が一生懸命、子供たちに分かるように天気の話をしてたから―――その様子を見て初めて、江野本さんは透子にチャンスをやろう、って思ったんだから。透子に会おうかな、って思わせたのはオレでも、実際の透子に幻滅してたら、こうはならなかっただろ?」
「―――慎二って、励ますの、上手だね」
くすっ、と笑って、慎二を見上げる。すると慎二も、少しいたずらめいた笑いを透子に返した。
「それは、オレがほんとの事言ってるからだよ」
本当に―――敵わない。この人には。
「…ありがとう。励ましてくれたのも、だけど、江野本さんのことも」
「どういたしまして」
「何か、お礼しなくちゃ」
「お礼なんて、別にいいよ」
「でも―――あ、そうだ。慎二も免許持ってないよね。お金、結構貯まったから、2人で一緒に教習所通おっか」
「う…、そ、それは、嬉しいような情けないような、微妙な気分だなぁ…」
透子のバイト代で教習所に通う、というのに抵抗があるのだろう。慎二は微妙な表情で、困ったように笑った。
「えー。じゃあ、何がいいの?」
「だから、お礼なんていいって」
「それじゃ私の気持ちが済まないのっ」
透子が少しむくれると、慎二は更に困ったように透子を見下ろした。が―――何かを思いついたのか、ふいに表情を変えた。
「…じゃあさ」
少しだけ身を屈め、慎二は、透子の耳元に囁くように告げた。
「ほんとに感謝してるなら―――前から一番欲しかったもの、貰おうかな」
「……」
―――慎二が前から、一番欲しかったもの…?
…って、何?
眉をひそめた透子は、耳元から離れた慎二の顔を、まじまじと見上げた。
怪訝そうな透子の顔とは対照的に、慎二の顔は、やたら楽しげだった。
「何? それ」
「分からない?」
「…慎二、私にそれ、言ったことある?」
「さあ? どうだったかな。でも、よーく考えれば分かる筈のものだよ。透子なら」
「えぇ?」
驚いた透子は、首を捻り、よーく考えてみた。
でも―――さっぱり、何も浮かんでこない。慎二は日頃から、“何かを欲しがる”ということが全くない人だから。
「…ま、ゆっくり考えていいよ」
首を傾ける透子を面白そうに見ていた慎二は、そう言って、透子の肩に腕を回して抱き寄せた。
「試験終わるまでは、お礼はお預けでいいから」
…ほんと、何だろう? 慎二が欲しいものって。
それに慎二、なんでこんなに楽しそうなの??
なんだか、日頃の慎二より5割増しに楽しげな慎二の様子に、透子は、抱えてしまった宿題以上に首を傾げた。
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