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12: 微炭酸水

 あれは、いつのことだっただろう?
 もうこの世にはいない親友の、元カレシ。そいつのために、尾道を訪れた―――確か、2回目。季節は、夏だった。

 「はい」
 と、そいつが差し出したのは、随分とレトロなシロモノだった。
 「どうしたの、それ」
 「ここ来る途中で、売ってたんだ。残り2本だったから、買ってきた」
 「は? あたしに? 透子に持ってってやりなさいよ」
 「透子や先生とは、この前、一緒に飲んだから」
 「…何。夏になるとそれ飲むのが、シンジ君流の夏の儀式な訳?」
 「あはは、そういう訳じゃないよ。ただオレも、懐かしいな、と思ってさ」

 真夏の炎天下、ほんと、どうかしてると思う。
 喫茶店で打ち合わせをする前に、木陰のある公園に寄り道して、2人してそれを飲んだ。

 「夏になるとさ、」
 葉陰から射す光に目を細めながら、
 「よく、差し入れてくれたんだ。路上でじーっと座ってると、喉渇くだろう、って。渋谷のどこに、ラムネなんて売ってる店、あったのかなぁ」
 彼が、懐かしそうに、そう呟いた。
 あっけないことに―――胸の中で、もう二度と動くことはないだろうと思っていた部分が、その瞬間、微かに動いた。


 空になった瓶の中で、カラカラと涼しげな音を立てる、淡い色のビー玉。
 丸いガラスの表面で、夏の陽射しが、キラリと弾けていた。


***


 たまたま、渋谷に用があった。
 そしてたまたま、季節が、夏だった。

 ―――あらま、あったじゃないの。
 ちょうど偶然、尾道で慎二とラムネを飲んだ話を思い出していたら。
 “ラムネ”と書かれた紙が、ガラス戸の内側から貼られている酒屋の軒先を見て、佐倉は、あまりのタイムリーさに思わず苦笑した。
 店の外観からして、最近ここに出店したとは到底思えない。多分、佐倉が生まれた年とそう変わらない頃からずっと、ここで酒屋をやってきました…という感じのたたずまいだ。だったら―――もしかしたら、慎二が昔差し入れてもらったというラムネも、この店で買ったものだったのかもしれない。
 チラッと腕時計に目をやると、午後2時過ぎ。
 少し考えた佐倉は、一度、軽く頷くと、酒屋のガラス戸を引いた。

***

 「しーんじ君」
 佐倉が声をかけると、スケッチブックに色鉛筆を走らせていた慎二が、少しだけ振り向いた。
 眩しげに細められた目が、佐倉の姿を捉えて、笑みに変わる。その笑い方は、嫌になるほど昔と変わらないのに―――感じるものがまるで違うのは、やはり、佐倉の方が変わってしまったからだろう。それを思うと、時の流れが、少し恨めしくなる。
 それでも、普段通りの余裕の笑みで歩み寄った佐倉は、慎二の手元のスケッチブックを覗き込んだ。
 「何描いてたの?」
 「ん? ああ、別にスケッチしてた訳じゃないよ。イメージを纏めてただけで。それより、珍しいね、公園に呼び出すなんて」
 「ふふ」
 ちょっと得意げに笑った佐倉は、背後に隠し持っていた袋から、涼しげな瓶を1本抜き取り、慎二の目の前に突き出した。
 「―――ラムネ?」
 「覚えてる? 尾道で、ちょうどこの位の時期に公園で飲んだの」
 「覚えてるよ。へぇ…懐かしいなぁ」
 「どこで買ったと思う?」
 含みを持たせた佐倉の口調に、慎二の表情が、少し変わる。
 「…もしかして…」
 「そ。渋谷」
 「…ほんとに売ってたんだ…」
 「そんな訳で、飲みましょう」
 ベンチを回り込んだ佐倉は、慎二の隣にストン、と腰を下ろし、自分の分のラムネも取り出した。


 濃い緑の葉が涼しげな影を作る木陰で、懐かしのラムネを飲む。
 いい大人が揃って、何やってんだろう、と思う。
 それでも慎二には、洒落たティーカップとかワイングラスより、ラムネの方が似合っているように、佐倉には思える。かつての多恵子がそうであったように。そして―――今の透子が、そうであるように。
 比べて、自分のことを考えてみると。
 「…似合わないなー…」
 「え?」
 思わず呟いた一言を慎二に聞きとがめられ、佐倉は苦笑いと共に首を振った。
 そうすれば、慎二はそれ以上、何も訊かない。「そう?」という顔で曖昧に笑い、また、夏の空をぼんやり見上げながら、ラムネで喉を潤す。そんな時の横顔も、昔とこれっぽっちも変わっていない。
 「仕事の方は、どう?」
 ラムネに口をつけながら、慎二の方を流し見て訊ねた。
 「んー、まあ、そこそこ。折原先生との仕事も、結構評判いいしね」
 折原先生、というのは、今年の始めから慎二が手がけている、連載小説の作家の名前だ。去年の春頃に、慎二の絵を気に入った折原が直接頼んできたもので、その夏の終わり頃―――そう、2ヶ月間の放浪の旅から帰って間もなく、折原作品をいくつか読んだ慎二が「是非一緒にやりましょう」と引き受けたのである。
 「うん、あの連載、慎二君の絵がピッタリマッチしてる」
 口の端を上げて佐倉がそう言うと、慎二は、ちょっと意外そうな顔をした。
 「読んでくれてるんだ? あの連載」
 「ま、ね。元々折原作品て結構好きだったし。どことなく童話めいてて、でも実は現実を皮肉ったブラックユーモアだったりもして、割とあたし好みよ」
 「ふーん…知らなかったな、ああいうの読むとは」
 ―――なぁんて、ウソ。
 心の中でだけ、ちょっと舌を出してみる。
 本当は、折原作品なんて、一度だって読んだことはなかった。慎二が、そのカラー表紙とモノクロ挿絵を手がけるらしい、と話を聞くまでは。聞いて初めて、興味が湧いてきて、既存作品をごっそり読み漁っただけだ。勿論、今慎二に告げた感想そのものには、嘘偽りはないけれど。
 「佐倉さんこそ、事務所開きの方は順調?」
 「まあ、そこそこ。一番マネージメントしたいモデルが、来月にならないと契約できない状況なのがもどかしいけど―――後輩モデル2人は、もうあたしの下で仕事取り始めてる。元いたエージェントとも円満に切れてるから、滑り出しは順調な方だと思うわよ」
 「…やっぱりそういうのって、才覚だよなぁ…。オレより年下なのに」
 幾度となく佐倉に“甲斐性なし”と言われている慎二が、そう言ってバツが悪そうに笑う。その笑顔を見て、佐倉は軽く睨みをきかせた。
 「そこ、笑うところじゃないから」
 「…スミマセン」
 「まあね。慎二君の場合、将来透子に食べさせてもらうような立場になっても、なーんとなく周りはそれで納得しちゃう気するけど。いいわねぇ、見た目が春霞みたいだと、周囲の目も優しくて」
 「…いや、あんまり優しくない気がするんだけど…」
 お前がしっかりせんから、と文句を言う尾道の“先生”を思い出して眉をひそめる慎二に、佐倉も「確かに優しくない人もいるかもねぇ」と笑った。
 「で? 透子といえば、例のお天気博士って、どうなったの」
 笑いながら佐倉が訊くと、ラムネを飲もうとしていた慎二の手が、ぴたりと止まった。
 続いて向けられた目は、少し沈んだ色をしていた。
 「…それが、結構手ごわくて」

 お天気博士の話は、先日、慎二に電話をした時に聞いた。
 6月のはじめ頃、透子のバイト先を訪ねた折、慎二が偶然出会った人物だそうで、どうやら都内で気象関係の会社を経営しているらしい、とのことだった。
 慎二は、そこに透子を雇ってもらえないか、と考え、お天気博士…というか、社長に直談判しに行った。しかし「今年は新規採用の予定はない」とのことで、あっさり追い返されてしまったのだ。
 以来、慎二は、天気のことや星のことなどを聞かせてくれ、と個人的に何度か社長に会いに行っている。でも実は、そうした面会の中でそれとなく、「せめて面接だけでも受けさせてやってくれないか」と説得を試みているらしい。気象の会社自体がほとんどない中、1社も面接すら受けられずにいる透子が可哀想で、どうしても諦められなかったのだ。

 「隠してるのも辛いんだけど…面接すらさせてもらえないかもしれないのに、中途半端に期待もたせたらまずいしね」
 「そうねぇ…。社長さん、女の人なら良かったのにねぇ。相手が中年のおじさんじゃあ、慎二君の色仕掛けじゃ落とせないし」
 「色仕掛け、って…」
 「もち、冗談よ?」
 「…そりゃ、そうでしょ」
 呆れたような、困ったような笑いを見せ、慎二はまた、ラムネの瓶に口をつけた。
 色仕掛け、では、ないけれど。
 でも、もしも相手が女社長であったなら―――慎二の必死の頼みに、つい、ほだされて了承してしまうかもしれない。そういう、変なオーラがあるのだ。この工藤慎二という男には。
 ―――案外、あたしも、透子も、そのオーラにやられちゃってるタイプなのかも。
 「…そう言えばさ、訊きそびれてたけど、」

 あ、しまった。

 ずっと口にすまいと思ってきた質問の導入部が、ポロリと口からこぼれてしまって、佐倉は、開けた口を慌てて閉めた。
 けれど、遅かった。慎二は既に、何? という目で、佐倉の方に顔を向けてしまっていた。
 「何?」
 目だけでなく、言葉で訊ねられて、逃げ場がなくなった。
 無理矢理作ろうとする誤魔化し笑いが、いまひとつぎこちなくなる。もう、さり気なさを演出するのは不可能なので、佐倉は、本当の質問からは微妙に外れた質問をしてみた。
 「そ―――その後、透子とは、どう?」
 「は?」
 「ちょっとは、進展あった?」
 はい? という顔でキョトンとした慎二は、直後、またその話か、という苦笑を見せた。
 「…あのさ。なんか、2、3ヶ月に1度は訊いてない? それ」
 その通り。
 訊きそびれてたけど、という前置きと、激しく矛盾する質問。佐倉は、下手をすれば、慎二と顔を合わせるたびに「どう、進展あったの」と訊くのだから。半分は興味本位から、半分は―――少々、複雑な事情から。
 「…や、それは、さ。慎二君と透子が、一緒に暮らしてる割にはあまりにもスローテンポだもんだから、あたしから見てもイライラするっていうか、焦るっていうか」
 「あはは、オレ達のことで、佐倉さんが焦ってどうすんの」

 焦るのよっ。悪かったわねっ。

 人の気も知らないで―――いや、知られたらまずいのだけれど―――あっけらかんと笑う慎二に、知らず眉間に皺が寄る。あたしがこうして色々と気を揉むのも、全てはあんたのせいでしょ―――責任転嫁と分かっていても、そう詰りたくなってしまう。
 「それじゃあ、単刀直入に訊くわよ」
 「え?」
 「透子が首筋に貼ってた、絆創膏」
 指先で、自分の首筋をトントン、と叩き、佐倉は軽く首を傾げた。
 「あれって、どういう意味?」
 「……」
 またしても、はい? という顔で、慎二がキョトンとする。
 そして、それがいつ頃の事件を指しているのかを理解して―――今度はむしろ、怪訝そうに眉をひそめた。
 「…ああ、それって、4月の頭の話かな」
 「そうよ」
 「どこでそんなの見たの。っていうか、なんで今頃? もう7月終わるよ?」
 「だから訊きそびれてたって言ったじゃないのよっ! …見たのは、慎二君の言う通り、4月の頭よ。仕事先が偶然、透子のバイト先の近所だったから、バイトを覗きに行った時に」
 「へぇ…そんなこと、あったのか」
 「で? 真相は?」
 ぐっ、とラムネの瓶を握り締めて少し詰め寄る佐倉に、慎二は、気圧されたように少しのけぞり、苦笑を返した。
 「残念ながら」
 「…何それ。あんな“いかにも”な場所、怪我する訳ないじゃないの」
 「いや、そうなんだけど。あれは、あれ止まりの話。透子の同期の男の子が、彼氏いるって信じてくれない、って透子がぶつぶつ言ってたから、害虫避けにやっただけだよ」
 「―――…なぁんだ…」
 体から、一気に力が抜ける。
 心底、落胆した表情になった佐倉は、疲れ果てたようにベンチの背もたれにダラリと寄りかかった。
 「なーにやってんだか、もー…。期待持たせんじゃないわよ、全くー…」
 「…だから、なんで佐倉さんがオレ達のことでそこまで落胆するの…」

 ―――どうせ、わかんないわよ、慎二君には。

 焦れるような苛立ちに、佐倉は無言のまま、ラムネをくいっとあおった。

***

 あれは、4月のはじめ。
 バイト先にひょっこり顔を見せた佐倉を見つけ、透子は一瞬、顔を強張らせた。
 常にないその表情に、佐倉は一瞬、引っ掛かりを感じた。が、次の瞬間にはいつもの透子の笑顔に戻っていたので、すぐにそのことは忘れてしまった。
 透子の新しいバイト先を訪れたのは、それが初めてだった。テキパキと展示ケースを拭いたり、客の質問にはきはきと答えている透子を暫し眺めて、この子ってほんとにこういう分野のことが好きなんだな、と改めて思った。
 どこかいい所に就職できるといいんだけどね―――と、小さくため息をついた時。
 偶然、見つけてしまった。
 科学館の制服の襟で、ほとんど隠れてしまっていた、透子の首筋。そこに、いかにも怪しげな絆創膏がぺたっと貼り付けてあるのを。

 あの時の感情は、比較的理論派を自称している佐倉でも、上手く説明ができない。
 慎二や透子をからかうネタを見つけた時の、小気味良さ。ああ、やっとそういう関係に落ち着いたのね、という、保護者的安堵。それと―――説明の難しい、寂しさ。それらが全部、ごちゃまぜになったき持ち。

 正直に言えば、少し、動揺していた。あくまでも、ほんの少し。
 けれど、透子は、勘のいい子だ。
 客への説明が終わり、佐倉とちょっと立ち話をしに戻ってきた透子は、また一瞬だけ、顔を強張らせた。その表情の変化で、佐倉は、自分の目線が、つい透子の首筋に向いてしまっていたことに気づいた。
 透子はこの時も、すぐにいつもの笑顔に戻った。

 「どうしちゃたの、それ」
 今更、気づいていないフリをするのもな、と思い、からかい加減に佐倉が訊ねると。
 「寝てるうちに、寝苦しくて引っかいちゃったみたい。変な場所だから、友達にもからかわれて、困ってるの」
 さり気ない口調でそう言って、透子は、ブラウスの襟をきちっと正した。そして、まるで、佐倉がこれ以上この絆創膏のことに触れるのを阻止しようとでもするように、明るい口調でバイトのことを次々と話しだした。
 最初はそれを、透子の照れ隠しというか、からかわれるのを嫌ってのことかと、佐倉は考えていた。
 けれど―――もう時間だから、と佐倉がその場を立ち去る際、その考えは、別の考えに塗り替えられた。

 元気に手を振って、佐倉を見送った筈の透子。
 エレベーターホールへと出る前、そっと肩越しに佐倉が振り返ると―――透子は何故か、酷く辛そうな、まるで罪悪感にうちひしがれたような目をして、佐倉を見送っていたのだ。


 ―――まさか。
 小さな疑惑に、佐倉の胸がざわつく。
 間違っても、ショックを受けたような目で見た覚えは、佐倉にはなかった。そういうショックは、ほとんどなかったのだし。
 けれど、透子のあの罪悪感を滲ませた目には、激しいデ・ジャ・ヴを感じる。
 それは、他でもない―――佐倉自身の目だ。

 大学生だった頃。親友の多恵子が、久保田という同期生に憧れの感情を抱いていることに薄々気づいていながら、佐倉はその久保田と交際した。
 多恵子には慎二がいたし、多恵子自身が2人の交際を応援していたので、あまり罪悪感を持たずに済んだが―――それでも、多恵子が時々見せる、親鳥を盗られてしまった雛鳥のような表情に、佐倉の胸はチクチク痛んでいた。
 『その、あたしってば酷いことしてるわ、って目、やめてくんないかな、佐倉』
 いつだったか、多恵子にそう言われて、自分がどんな目で多恵子を見ていたかに気づいた。
 『僕にとっちゃ、隼雄も佐倉も、最高レベルの“お気に入り”―――でもさ、セックスしたり1日中抱き合ってゴロゴロしたりするような相手じゃないよ。神様にでも仏様にでも、それだけは誓える。そーゆーのは、シンジの特等席だから』
 そう多恵子が言っても、そしてそれが本心であっても、多恵子が胸を痛めていることに変わりはなかった。そして、それに気づけないほど、佐倉は鈍感ではなかった。
 結局、男同士みたいな関係に疲れてしまってほどなく別れたが―――別れた時、久保田も佐倉もホッとしたのだ。ああ、これでやっと、多恵子と前みたいな関係に戻れる、と。

 自分も、あの頃の多恵子みたいな目を、透子に見せてしまったんだろうか。見せたとしたら―――いつ?
 いくら考えても、そんな隙を見せた記憶はない。それに佐倉には、慎二を想う以上に透子を想う気持ちが強くある。慎二と透子がキスをしようが抱き合おうが、女としての胸の痛みの数十倍、透子を見守る存在としての「良かったね」という気持ちの方が大きいのだ。
 だから、絶対に、透子に気づかれる筈がない。
 あの日―――キラリと光ったラムネの中のビー玉と一緒に、佐倉の中で微かに芽生えた、淡い恋心など。

 …でも。
 だったら、あの透子の目を、どう説明すればいい―――…?

***

 「―――佐倉さん?」
 怪訝そうな慎二の声に、佐倉はハッ、と我に返った。
 うつろに遠くを見ていた目を、慎二に向ける。そこには、少し心配そうな顔をした慎二の、真っ直ぐな瞳があった。
 「大丈夫?」
 「…大丈夫。なんでもないから」
 気まずくなった佐倉は、思わず視線を逸らし、ベンチに預けていた背を起こした。

 佐倉が一番恐れているのは、自分のちっぽけな恋心なんかが露呈した結果、慎二や透子が自分から離れていってしまうことだ。2人に遠慮なく相談事をされたり、くだらない事で笑いあったりすることが、佐倉の心のオアシスだから。
 だから、4月のあの頃は、精神的にちょっと不安定になった。
 特にその少し前辺りから、透子からの電話が減ってきていたように感じていたから、尚更、不安定になった。
 確かめたい、でも、透子に訊ねる訳にはいかない―――そんな状態だったので、佐倉らしくもなく、恋愛感情の絡まない相手と、お互いを慰めあう夜を過ごしてしまったりもした。後悔はしていないが、この先も仕事で深く関わってくる人物だったことを考えると、少々軽率すぎたな、と舌打ちしたくなる部分もある。

 ―――なんで、こんな奴に、心を奪われちゃったんだろう。
 慎二の横顔をチラリと見て、内心、ため息をつく。
 でも、昔、多恵子の彼氏だった頃の慎二にはさして惹かれなかった癖に、何故、再会した慎二に惹かれたのか、その理由を佐倉はほぼ察している。

 初めて、欲望も恋愛感情もなく、ただ寂しさを紛らすために、互いの体温を求め合ってしまった相手。奇しくも、佐倉の精神不安定の犠牲になってしまった年下の男。
 彼は、報われない恋に苦しみ、もがいていた。
 諦めなければいけないのに、諦められなくて、でもこの恋が実る可能性は0パーセントで―――そんな姿は、慎二に対する気持ちに気づいて間もない頃の自分を、なんとなく彷彿させた。その同情心から、つい救いの手を差し伸べてしまったのかもしれない―――と最初の頃は思っていたのだが、そうではないことに佐倉は気づいた。

 呆れるほどに、一途で。
 1人の女を、忘れようとしても、忘れようとしても、いつまでも忘れることができなくて。
 そんな彼の一途さが、どことなく…慎二と共通していたからだ。

 佐倉が惹かれたのは、慎二の癒し系な笑い方でも、不思議な柔らかさを持った整った容姿でもない。多恵子は生きている―――そう自分に言い聞かせて、何年も忍ぶように生きてきた慎二の、その一途さだった。そう…、佐倉は、一途な人間に弱いのだ。

 そんな、佐倉だから。
 イライラするほどに進まない、慎二と透子の関係に、焦りを覚えてしまう。

 「…積極的だった透子が、ちょっと臆病になってる理由…慎二君、知ってる?」
 目を逸らしたまま、佐倉は、呟くようにそう言った。
 「あの子も、多恵子も―――2人共、慎二君が初めての男ってことになる訳でしょ。なまじ顔が似てるから、怖がってんのよ」
 「…何を?」
 「多恵子と、間違われるのを」
 「……」
 「もしくは―――比べられるのを。そう、言ってた。あの子」
 「……バカだなぁ……」
 慎二が、大きなため息をついた。
 そんなこと、ある訳がないのに―――言葉にせずとも、その一言で、慎二の気持ちは十分伝わる。佐倉は、少しだけ安堵して、口元を僅かに綻ばせた。
 「慎二君に対してだけは、その位、あの子は臆病なのよ。慎二君は―――あの子の、全てだから」
 「…うん」
 「あの子の不安に歩調合せてないで、強引に出てやる位の方が、安心するんじゃないの? 大事にするのもいいけどさ、」
 そこで言葉を切って、佐倉は、慎二の方を流し見た。
 「あんまり大事にしすぎると―――他の男が、掻っ攫っちゃうかもよ? あんな一途な子、今時貴重だから」
 佐倉の言葉に、慎二は少し目を丸くし、それから困ったように苦笑した。
 「それは、もの凄い脅しだなぁ……」

 ―――慎二君。キミもね。
 天然記念物レベルに一途すぎる男を、いっそ掻っ攫ってしまいたい、と思う過激な女だって、いるんだから。

 佐倉は絶対に、そんな過激な自分など目覚めさせない。
 慎二より誰より、一途な透子―――今、佐倉にとって、この世で誰よりも愛しい存在。一途な人間に弱い佐倉は、透子を泣かせる奴は、絶対に許さない。それが自分自身であれば、尚更許せない。

 慎二のふわふわした苦笑に、綺麗に口の端を上げてみせた佐倉は、それ以上何も言わず、残っていたラムネを一気に飲み干した。


 …でも、こんな日は。
 夏の陽射しにあてられたフリして、目の前にいる堕天使に、思わず手を伸ばしてしまいそうになるのだけれど。


 空になったラムネの瓶の中、ビー玉が、光を弾けさせながらカラン、と涼しげな音を立てた。


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