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―――いない。
ちっくしょー、やっぱり来てないか。
「あれ? 荘太」
探しものでもしているように廊下でキョロキョロしていた荘太は、名を呼ばれ、振り向いた。
そこにいたのは、大きなファイルを胸に抱えた、透子だった。
「あ…、透子」
「今日って荘太も講義あったんだ。後期初日から、3人揃って運がないねー」
あはは、と笑う透子に、荘太は反射的に、ムッとしたように眉を顰めた。
「運がない、って…、お前、俺に出くわすのが、そんなに不吉なのかよ」
「ちーがうよ。だって私達、前期も最終日に3人顔揃えたじゃない。で、後期も初日でしょ。夏休み入るずーっと前に最後の講義終わってる人も、後期の最初の日がもっと遅い人もいるのに、よりによって3人とも、夏休みが誰よりも短いなんて、ってこと」
9月。夏休みも終わり、今日からは大学の後期が始まっている。
4回生ともなると、出なくてはいけない講義はかなり少なく、酷い場合、1週間に1度しか大学に来ない、なんて奴もいる。そんな事情から、荘太や透子も、学内で顔を合わせることは極めて稀になりつつあったのだが―――…。
―――いや、ちょっと待て。
「3人?」
話の中心とはずれた部分がひっかかり、荘太の顔色が、僅かに変わる。
「うん。3人」
「って、橋本も来てるのか? 今日」
「え、来てるよ」
「どこに」
「さっきまで学食でお茶してて、今別れたとこ。私はこれからゼミに顔出すけど、千秋は用事ないから、もう帰るって」
「そ…っか」
「…なに? 何かあったの、千秋と」
珍しい位に難しい顔をする荘太を、さすがに不審に思ったのだろう。透子は、少し眉根を寄せて、荘太の顔を覗き込んだ。それに気づいた荘太は、慌てて笑顔を作った。
「いや、別に。この前の透子の誕生日祝いの時、あいつに100円借りたから、忘れないうちに返しておこうと思って」
実際、それは、本当のことだった。
透子の気象予報士試験が終わった、翌日。さすがに夜は晴れて公認の仲となった慎二に譲るべきだろう、ということで、昼間、透子の誕生日を祝うため、荘太と千秋が透子を連れ出した。ちょっとだけ豪華なランチとデザートバイキングを満喫し、透子の試験の手ごたえなどを聞いただけだが―――その時、確かに荘太は、千秋から100円借りていたのだ。
透子もそれを知っているから、この説明にあっさり笑顔になった。
「あー、そうだったっけね。律儀だよね、荘太も」
「ハハ、まーな。しゃーないから、俺がまた忘れてるようだったら、透子も言ってくれよ。“100円”って」
「うん。あ、そうそう。誕生日祝いに2人から貰った花瓶と写真立てね。慎二も可愛いって言って、次の日にスケッチしてた」
「へぇ。良かった。っつっても、俺じゃなく、選んだのは全部橋本だけど」
「でも、荘太もありがとね」
そう言ってニコッ、と、春の日差しの下で花を咲かせたタンポポみたいに笑う透子に、諦めたとはいえ、やっぱり胸がドキリとしてしまうけれど。
―――まあ、去年の今頃に比べたら、かなりマシになったよなぁ…。
透子の口から慎二の名が出ても、以前あったような不愉快な苛立ちは、もう感じない。
照れたような笑いを返しつつ、荘太は、長かった恋がやっと「懐かしい思い出」に変わってきたことを実感して、少し安堵した。
今の透子には、試験前に会った時にあった、あの重苦しい、それでいてギリギリまで張り詰めたような異常な焦燥感は、もう見られない。
誕生日祝いの席でも「試験には集中して臨めたから、これで落ちるんなら、諦めつくよ。ベストを尽くした自信はある」と明るい表情で断言していたので、きっと、試験前に何かがあったのだろう。ここ数ヶ月、透子の心を不安定にしてたものを、透子が克服するきっかけとなる、何かが。
透子は、もう大丈夫だ―――研究室へと向かう透子を手を振って見送りつつ、荘太は心の中で、そう呟いた。
透子は、もう、大丈夫。
今、溺れそうになってるのは―――。
「…むしろ、あいつだよな」
そう、声に出して呟く荘太の表情が、不安げに曇った。
***
「―――……」
胴着姿の千秋は、見慣れた風景の中に混じった異質な人物を見つけた途端、らしくなく、目を大きく見開いて固まった。
何故お前がここにいる、と、千秋の目が荘太を凝視する。
それにニッ、と笑って応えた荘太だが、声を出すことはできない。
何故なら、ここは橋本道場の中であり、今は稽古を始める直前であり―――千秋は稽古する側、荘太は自称“入門を希望して見学を願い出た見学生”だから。
「それでは柔軟体操、はじめええぇい!」
道場長―――初めて見るが、多分、千秋の父だろう―――の掛け声と同時に、道場内に散らばる12、3人の門下生が、柔軟体操を始めた。
はっきり言って、これは、賭けだった。
橋本流に興味がない訳ではないが、荘太が見学を願い出た理由は、純粋に稽古の様子が見たいから、ではない。そういう卑怯な行為は、橋本流を愛する千秋からすれば、許し難いことかもしれない。ただ千秋を怒らせて終わり、となってしまう可能性も、ゼロではないのだ。
でも、これ以外ない―――荘太は、そう思っている。
教育実習中、あれほどかかってきた電話が、一切かかってこない。
こちらから電話をしても、碌に話さないうちに、まるで逃げるように切られる。
1、2週間に1度は、近場をツーリングするのが恒例になっていたのに、教育実習が終わった6月に行って以来、なんのかのと理由をつけては断られてしまう。
夏休み前には、大学でも何度か顔を合わせた。そんな時は以前と変わらない様子なのだが、「午後から暇なら幕張まで飛ばすか」などと誘うと、曖昧な表情で断る。大学の外で、透子を加えず千秋と会ったのなんて、もう随分前の事―――教育実習が始まる前が最後だった気がする。
避けられてる。
もっと細かく言うならば、大学の外で荘太と2人で会うことを、千秋は避けている。
理由などまるで分からない。荘太を意識しているのなら、大学内での以前通りの様子に説明がつかないし、透子を交えて遊びに行った時などの態度も解せない。じゃあ、千秋は一体、何を意識して、荘太を中途半端に避けるのだろう?
考えて、考えて。
考え尽くした果てに出てきた答えは―――あまり、荘太が想像したくないような仮説だった。
訊いたところで、千秋は何も喋らないだろう。それならば―――確認するためには、ここに来るしかないのだ。
「橋本、伊藤」
「はい」
考え事に眉を寄せていた荘太は、道場長の声に我に返り、道場の中央に目をやった。
どうやら、実際に1対1で組んでの、模範演技らしい。千秋と、千秋より幾分背の高い、多分高校生位の少年が、道場中央に進み出た。
午後6時という時間帯のせいか、胴着姿の大半が中高生の少年だ。千秋も、少年と見まごう体型だ。静かな表情で対戦相手と向き合い、厳かに一礼する千秋は、男だらけの空間なのに、まるで違和感がなかった。
「はじめ!」
掛け声と同時に、両者が、構える。
足の裏が畳を擦る音と、微かな衣擦れの音だけが、シンとした道場に響く。間合いを詰めたり、時に相手を掴んだり、相手をかわしたり―――千秋と対戦相手は、中央で目まぐるしく互いの立ち位置を変えつつ、心理戦を繰り広げていた。
―――やっぱ、すげーな…。
思わず、ため息がもれる。
道場長から後継者としてお墨付きがもらえる程なのだから、当然なのだが―――千秋の動きは、周りのガキどもとは、まるで比べものにならない。腕の構え、足のさばき、その1つ1つが、同じ武道とは思えないほどに洗練された、美しい動きだ。
透子は、荘太の走る姿を“芸術”と称したが、荘太に言わせれば、千秋の武道こそ真の“芸術”だと思う。サラブレッドの馬が駆ける姿が芸術であるように、千秋も、細胞レベルにまで行き渡った武道家魂が、僅かな動きにさえ溢れているような、そんな芸術性を感じる。
試合の行方より、その動きに見入っていた荘太だったが。
ふと視線を感じ、道場中央から視線を外へと移した。
「……」
そこにあったのは、他の門下生と一緒に、壁際で試合を眺めている筈の、ある男の視線。
険悪な、憎しみさえこもった目で、じっと荘太を睨みすえているのは―――千秋の弟・
昇段試験の試合を見に行った時などにも、何度か顔は見ているが、あんな風に憎悪の目を向けられるほど、荘太と武留に接点はない。あるとすれば唯一、前回、この道場を訪れた時のことだけだ。
『誰、こいつ。部外者を道場に入れていいのかよ』
あのセリフは、神聖な道場を部外者に荒らされた、という憤りの言葉ではなかった。
そして、今向けられているこの目も、興味本位で見学に来た奴を邪魔者扱いしているだけの目では、決してない。
―――…あいつ…。
知らず、荘太の目も、険しくなった。やはり…想像したくない仮説は、限りなく事実に近いようだ。
とその時、小さな掛け声が、千秋と対戦相手双方の口から発せられた。
目にも留まらぬ速さで、両者が交錯する。力では相手が勝っているように見えたが――― 一瞬の後、ダン! という音と共に投げ飛ばされていたのは、千秋ではなく、対戦相手の方だった。
「1本!」
わっ、とあがる歓声の中、表情を険しくしていた荘太も、その爽快さに口元を綻ばせた。
けれど、武留の方は、そんな最中もずっと、荘太を睨み据えたままだった。
***
それからも3番ほど練習試合が行われ、その日の稽古は終わった。
道場長や多くの門下生が、一礼して出て行く中、どうやら千秋は、2人ほどの門下生と一緒に雑巾がけをするつもりらしい。仕方なく、道場の外で待つことにした荘太だったが。
「おい」
靴を履き終えた荘太を、低い声が引きとめた。
振り向くと、案の定、そこに仁王立ちしていたのは、先に道場から出ていた武留。比較的小柄な荘太からすると、見上げるような大男だ。
「何か?」
「お前、千秋と同じ大学の奴だろ。4月に、ここで会った」
「そうだけど?」
それが何か、というしれっとした顔を荘太がすると、武留の顔が、僅かに気色ばむ。
「な…っ、何しに来たんだ、お前、」
「小林」
暴走しかけた武留の言葉を鋭く遮り、荘太は、武留の方にしっかりと向き直った。
「こ・ば・や・し」
「……」
「姉貴にこの前注意されてただろ。20歳にもなって、姉の友人に挨拶もできないのか、って。それなのに、挨拶もなしに、いきなり“お前”呼ばわりか?」
毒気を抜かれたように、一瞬言葉を詰まらせた武留だったが、今回は前のようには退かなかった。
「―――うるせえ。何しに来たんだ。入門希望なんて大嘘こきやがって」
「嘘でもないぜ? 橋本流古武道には興味があるし、今日の見てて、週1で通うのも悪くない、って思った位だし」
「貴様なんか入門させねぇ!」
「お、いきなり“お前”から“貴様”に昇格か」
「黙れっ!」
カッとなった武留が、荘太の胸倉を掴んだ。
「分かってるんだぞ―――お前の目的は姉貴だろ。武道だの精神鍛錬だのぬかして、ほんとは姉貴につきまといたいだけなんだろ。分かってんだよ、4月の時だって、上手いこと姉貴に取り入って、家に入り込んだんだろ、貴様はっ」
「…ハ…、あんまりそれ、大声で言わない方がいいんじゃねーの? 近所に“あそこの跡継ぎは極度のシス・コンだ”って噂立てられるだろ」
「…っ、うるせえっ!」
血がのぼり、顔を紅潮させた武留が、拳を振り上げる。体格の差から、さすがに少しだけ身構えた荘太だったが。
「武留!!」
背後から割って入った鋭い声に、武留の手が、反射的に止まった。
振り返る暇もなかった。
全速力で走ってきた千秋の手が、荘太の胸倉を掴む武留の手首を握る。あ、と思った次の瞬間には、千秋よりふた回りは大きい武留のがっしりした腕は、あっけなく千秋に捻り上げられていた。
「ってーーーっ!!」
ぐい、と勢いよく背面へと捻られた腕に、武留が思わず声をあげる。が、息を弾ませた千秋は、その泣き言を無視するかのように、更に腕をねじ上げた。
「お前は何をしてるんだ、武留! 私の大事な友人だと、この前あんなに言ったのに―――それが、姉の友人に対する態度か!?」
「あ…っ、あね、きっ。こ、こいつは、」
「問答無用!」
ぎぎぎ、と、武留の腕が軋む。さすがにそれ以上はやめた方が…と荘太も口に出しそうになったが、その辺はちゃんとわきまえているのだろう。千秋は、武留の腕が限界を超える前に、武留の腕を捻り上げるのをやめ、掴んだ腕で武留を腕投げにした。
1歩ずれれば石畳だったが、幸い、武留が叩きつけられたのは土の上だった。それでも、結構なダメージらしく、武留は、千秋が腕を放しても動かなかった。
「大丈夫か、小林」
ぐい、と汗を拭った千秋が、荘太を振り返る。呆気にとられていた荘太は、一瞬、ぽかんとした顔をしてしまったが、
「あ? ああ、なんとも」
と答え、それを裏付けるようにニッと笑ってみせた。それを見て、千秋もホッとしたように微かに笑った。
けれど、その微笑も、すぐに消える。
地面で、ノロノロと体を起こし始めた弟に目をやった千秋は、険しい表情で、低く告げた。
「―――小林は、私が呼んだんだ」
「……」
「小林は、うちの大学のトップ・ランナーで、来年には教師になる。陸上部顧問になった暁に、陸上の訓練に武道が使えないか、と前からうちの道場に興味を持っていた。それで、金を返してもらう約束もあったし、6時のコースは人数も少なめだから、私が呼んだ」
「……」
「武留、」
鋭く、武留を呼ぶ。
顔を上げた武留を睨み据えた千秋は、何かを堪えるように、下ろしていた手をぎゅっ、と堅く握り締めた。
「小林に、謝れ」
武留は、不服顔だった。千秋の説明を疑っているのかもしれない。
しかし、いきなり暴力をふるった事実を前にしては、申し開きは無理と悟ったのだろう。渋々頭を下げ、「すみませんでした」と蚊の鳴くような声で謝罪した。
***
「…済まなかったな。雑巾がけを手伝わせる羽目になって」
道場端の水場で手を洗え終えたところで、千秋が、呟くようにそう言った。
屈めていた腰を伸ばすように背伸びをしていた荘太は、その言葉に振り返り、苦笑いを返した。
「いーって。橋本が嘘ついて庇ってくれたから、あのこわーい弟にぶん殴られずに済んだんだし、俺」
「…完全に嘘な訳じゃないだろう?」
「まあ…そう、かもしれねーけど」
確かに、日頃から荘太とそういう話を―――武道を、柔軟性やバランス感覚の鍛錬などの形で利用できないか、なんて話をしていたからこそ、スラスラ出てきた嘘だ。とりあえず、千秋が、こんな形で押しかけてきたことを怒ってはいないらしいことを察し、荘太はほんの少しだけホッとした。
結局、武留はあのまま、同じ敷地内にある自宅に戻り、千秋は「道場の話をするから」と荘太と2人道場に残った。
門下生がまだ2名残って雑巾がけをしていたが、荘太が「あっ、俺がやるから、俺が」と言って帰してしまった。一刻も早く、千秋を“第三者”の視線から庇う必要があると思ったから。
気丈に、武留を恫喝した千秋。
けれど―――すごすごと帰る武留の背中を見送る千秋の拳は、怒りのためか、それともそれ以外の理由からか、ずっと小刻みに震えていたのだ。
「それで?」
道場の壁に寄りかかり、千秋を流し見る。
「俺はどういう理由で、橋本とツーリングに行けなくなっちまった訳?」
「……」
「教育実習ん時は、毎日のようにグチグチ電話してきた橋本が、こっちがバイト先変わるかどうかで相談したい時は“忙しいからまた今度”か? 橋本らしくないだろ、そんなの」
「……ごめん」
少し掠れた声で、謝る。けれど、荘太が欲しいのは謝罪ではない。
「―――どういうことなんだよ」
「……」
「あの弟だろ、理由は。何があったんだ? 教育実習終わった辺りからだよな」
「…説明するまでもなく、さっきので分かっただろう?」
「分かったのは、あの弟が異常なまでのシス・コンだってことだよ。そうだろうな、とは思ってたけど―――ありゃ、いきすぎだよなぁ…。でも、だからって橋本が、それを気にして交友関係狭める必要はないんじゃないか?」
「…お前は…」
そう、言いかけて。
千秋は、俯いたまま、黙ってしまった。
そのまま、1分近く、沈黙が続く。荘太が焦れ始めた頃になって―――千秋は顔を上げ、暗い目を荘太に向けた。
「お前は、知らないから…」
「え?」
「武留は、普通じゃないんだ」
吐き捨てるようにそう言うと、千秋は大きく息を吸い込み、感情のこもらない声で、告げた。
「私には、高校の頃、恋人がいた」
「……」
「両親に紹介するまでのことは、まだ高校生の身だし、気恥ずかしくてする気になれなかったが―――お互い、真剣だった。だからこそ、体も許したし、いつかは結婚しよう、なんて夢を2人で見たりもした。高2から2年間……いい思い出だ」
「…へ…え…」
当時を思い出したのか、微かに口元を綻ばす千秋に、唖然としたような相槌が思わずもれる。なんだか、想像がつかない。千秋に、そんな恋愛経験があったなんて。
けれど。
『忘れてるらしいが、私はお前らより1年長く生きてるんだ。その分だけ余計に、負ける回数をこなしてる―――それだけだ』
以前、千秋がそう言った時、確かに思った。少年のような外見の千秋だが、もしかしたら、自分達よりはるかにヘヴィーな恋愛を、過去に経験しているのかもしれない……と。
「…高校卒業を控え、本格的に家を継ぐという話になった時……両親は私に、門下生でも最も優秀な3つ年上の大学生と見合いをするよう言った」
「は? なんでまた」
「そういう家なんだ。私が道場を継ぐのは当然だが、女がいつまでも道場主では困る。だから、早く結婚して男子を産むのが私のもう1つの役目だ」
「…な…なんつー時代錯誤…」
「まあ、仕方ない。ともかく、その風習には従うにしても、私は好きでもない男と結婚するほど酔狂ではない。だから、それまで黙っていた恋人の事を、その時初めて両親に打ち明けたんだ。武道とは全く縁のないインテリな彼を、父はあまり喜んではくれなかったが、ともかく―――そういう相手がいるのなら、ということで、私と彼は婚約することになった。高校を卒業して、彼や私が新しい生活に慣れた頃を見計らって」
「は…あ…」
高校卒業時点といえば、荘太は、透子や慎二と共に上京した頃だ。あの年齢で、千秋は婚約することになった訳だ。なんというか―――まるで世界が違う。
「一応、先の見通しが立ったこともあって、両親と私は、武留にもその話をしたんだ」
千秋の声が、僅かに、低くなる。
核心に近づいた気がして、荘太も唇を引き結び、息を詰めた。
「…武留は、私が道場を継ぐのは知っていたが、そこに“早く結婚して子供を産んで欲しい”なんて親の要望が絡んでくるとは、全く知らなかった。私に恋人がいることも知らなかった。だから―――酷く、ショックを受けていた」
「ショック?」
「…顔を真っ赤にして、そんなことは絶対にさせない、俺が道場を継ぐから、婚約なんかするな、と怒鳴った」
「……」
「武留が、道場を継ぐ、と言い出したのは、突然武道に目覚めたからじゃない。単に、私が彼と婚約するのを阻止するためだったんだ」
「…な…るほど…」
さして道場に敬意をはらっているようにも見えない武留が、一体何故、と不思議に思っていたが―――そういうことだったのなら、納得がいく。あのシス・コンぶりなら、その位するかもしれない。
「両親は、喜んだ。女の道場主なんて、本当は体裁が悪いと思っていたんだ。だから、武留が継ぐ気になってくれて万々歳という訳だ。私は改めて大学を受けることになり、両親は一転、まだ婚約なんて必要ないじゃないか、と言い出した。…私も、別に結婚を焦る年齢でもないから、婚約の件は了承した。ただ、彼との交際は続けると、両親にも武留にもはっきり宣言したんだ」
「…嫌がっただろ、あの弟じゃ」
「当然だ」
ふっ、と笑った千秋は、視線を逸らし、自らの腕を掴んだ。
「婚約話の取り消しで、亀裂が入ると踏んでいたらしい。でも、私と彼は、別れなかった。だから―――…」
「…だから?」
「―――だから、武留は、焦ったんだ」
千秋の顔が、強張る。
腕を掴む指先が、血の気を失って白くなる。あらゆる感情を押し殺すように、千秋は、冷たい目であらぬ方向を睨んだ。
「ある日、突然、武留が部屋に入ってきた」
「……?」
「…ふいをつかれた。普段なら絶対に負ける筈がないのに―――あっという間に押し倒された」
「…っ、ちょ、ちょっと、待てっ!」
さすがにギョッとして、荘太はその先を遮った。
けれど千秋は、皮肉っぽく口の端を上げ、視線を逸らしたまま吐き捨てた。
「ハ…ッ、心配するな。経験もない奴に、手際よく女が襲えるか。大したことはされていない」
「そ…そうか。でも…」
よく考えると凄い言い草だが―――それで終わるとは、ちょっと思えなかった。不安に眉を寄せて次の言葉を待つと、千秋は、視線を少し落とし、呟いた。
「力づくで押さえ込もうとする武留に必死に抵抗しているところに、何故か―――彼が、やってきた」
「えっ」
「…武留に、呼び出されてたんだ。“あんたは騙されてる、早く別れた方がいい、姉貴がどういう女か知りたかったら、いい物を見せてやるから来い”って言われて」
「……」
「…信じられないだろ。私だって信じられない。彼は、そのシーンを見て、私と武留の間に以前から何かあったものと思い込んだんだ。本当に」
……唖然。
あの、頭の中まで筋肉が詰まってそうな弟に、そんな、悪代官や越後屋のような裏工作ができること自体驚きだが―――その恋人にも、驚きだ。
何故、結婚を考えるほど愛した女より、大して知らない弟の小細工を信じてしまったのだろう? 理解できない。自分なら、恋人を責めるより先に、弟の胸倉を掴んで、気を失うまで殴り倒すに違いないのに。
「自業自得だ。あまりに家を優先しすぎた。彼は何も言わなかったけれど、家の都合で婚約が左右されたりする私に、疑念を抱きつつあったんだ。結局、自分のことはそれほど愛していないのではないか、もし家の事情でどうしても別れなければならなくなったら…私は、自分を捨て、家を選ぶのではないか、と。弟のこととそれを結び付けられるのは心外だが…何があっても彼を選ぶ、とは、私も言い切ることができなかった。お互い、その程度の気持ちだったんだな」
「…そんな…悲しいこと、言うなよ」
「いや。いいんだ」
大きく息を吐き出した千秋は、顔を上げ、いつもの涼やかな笑みを荘太に向けた。
「今、私は自由だ。小林が言うように、家にはとらわれず、私らしい方法で武道を極めていける。それに比べて武留は、私への妙な独占欲からあんな行動をとったせいで、さして好きでもない武道の道を歩む羽目になり、この先一生、道場に縛られ続ける運命だ。あんな形で屈辱を与えられたのは悔しいが、ダメ跡継ぎ街道まっしぐらの武留を見るのは、正直、結構愉快だぞ」
「…暗い楽しみ方だな、おい」
「フフ、ささやかな復讐だ。さっきも、小林にかこつけて武留を投げ飛ばせたから、いいストレス発散になった」
「……」
「…少々、油断しすぎてた。実習が上手くいかず悩んでいたからといって、ああも頻繁に小林に電話してれば、武留が目をつけるのは当然だったな」
―――それで、か。
千秋の態度がおかしくなったのが、教育実習が終わった辺りからだった理由が、やっと分かった。実習中、相談の電話をしていた千秋を、武留が見咎めて、あの調子であれこれ詮索したのに違いない。
「ごめん、小林」
「……」
「本当に、悪かった。…面倒だったんだ。武留に干渉される種を作るのが。ツーリングにも前からいい顔をしなかった。ゴチャゴチャ言われる位なら、ほとぼりが冷めるまで距離を置いた方が面倒がない、と思ったんだ」
「―――嘘つけ」
苦い顔で、荘太が放った一言に、千秋の笑みが、凍った。
何を言われたか分からない、とでもいうように、僅かに目を見開いた千秋は、声も出せずに、荘太の顔を凝視した。
「…さっき橋本、あの弟投げ飛ばした後、震えてただろ」
「……」
「確かに、面倒だったんだろうさ。橋本の言うこと全部が、嘘だとは思わない。でも、橋本が俺から距離置いた一番の理由は―――怖かったからだろ?」
「っ、な、何が、」
「弟が、だよ」
千秋の顔が、険しくなる。
弟に屈辱を与えられた千秋。歩む筈だった道をメチャクチャにされた千秋。だからこそ、“怖い”なんて感情は、一番認めたくない感情なのだろう。
「別に、私は…っ」
「あのな。怖くて当たり前だろ、そんなの。お前を他の男から引き剥がすために、実際にそれだけのことをやった奴だぞ、相手は! 弟とか、自分より実力が下とか、そういう問題より前に―――あいつは、橋本を酷い目にあわせた“男”だろ!?」
千秋の目が、ぐらりと揺れた。
「たとえ俺がただの友達でも、武留が思い詰めたら、今度は何をするか分からない。あれだけのことをした前科があるんだから、今度はもっと酷いことだってし兼ねない―――それが怖くて、距離を置いたんだろ」
「……」
「…そうしたくなるのは、当然だって。相手は、ストーカーより質が悪い、お前と同じ家に住んでる“実の弟”なんだから。逃げ場がない分、他人以上に怖くて、当然だ」
「…小林…」
「よく、がんばったよ、橋本は」
荘太はそう言って、痛々しいものを見るような、そしてどこか労うような笑みを、千秋に返した。
「もう十分、がんばったよ。だから―――無理せず、俺じゃなくあの弟から距離を置けって」
「え?」
「家、出ろよ」
「……」
「社会人になるまでは、うちのじーちゃんばーちゃんの家に居候すりゃいいよ。部屋はいくらでも余ってるから」
「…バ……ッカ、そんな訳には」
「いくって。全然問題なし。残り少ない大学生活、あの変態野郎に気を遣いながら無駄にする気か? アホらしい。あんなバカの面倒は、女だってだけで橋本を軽んじてる頭の古い両親に任せて、橋本は俺とツーリングしたり、透子んとこ遊びに行ったり、好きな時に好きなことをやれる人生歩めよ」
まるで、家族のしがらみなんて明日からでも捨てられるみたいに、あっけらかんとそんな提案をする荘太に、千秋は、目を見開いたまま、暫し呆然としていた。
…けれど。
怖くていいんだ。
もう十分、頑張ったんだ。
だからこの先、もっと楽に生きられる道を選んだって、いいんだ。
そう思ったら―――涙が、ひとしずく、目から零れ落ちた。
「……っ…う…」
最初のひとしずくが零れれば、あとはもう、堪え切れなくて―――千秋は、胴着の袖で両目を覆って、声を殺して、泣いた。
「ご……っ、めん、小林…っ。お、お前には関係ないのに、こんな重たい話、聞かせて…っ」
「いーっていーって」
苦笑した荘太は、千秋の傍に行き、その頭をぽんぽん、と叩いた。
「だって、友達だろ? 橋本だって、面倒見る義理もない俺の失恋を、根気良くフォローし続けてくれたじゃん」
その日千秋は、一体いつ振りだろう、と思うほどに、泣いて、泣いて、泣いた。
荘太も、これだけ泣く奴を宥めたことってあったかな、と思うほど、飽きることなく千秋の傍にい続けた。
そして、ひとしずくの涙から始まった涙が、やっと収まった時―――千秋と荘太は、自分達が「友達」から「親友」になれた気がした。
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