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16: 銀木犀(ぎんもくせい)

 「…な…なんか、現実味ないなぁ…」
 どこか呆然と呟く透子に、
 「そうか?」
 隣を歩く千秋は、あっけらかんとした口調でそう言った。
 千秋がヘルメットを無意識に叩くペチペチという音と、透子が提げている紙袋が透子に当たってガサガサいう音が、相槌のように時々割って入る。まだまだ暑いが、秋風を感じる中、キャンパスから駐輪場までの道のりを歩く2人の速度は、いつもよりちょっとゆっくりめだった。
 「まだ1日だけだが、合宿みたいで、なかなか面白いぞ。今度透子も泊まりに来てみたらいい」
 「…はあ…」
 上機嫌でそう言う千秋を、透子は、まだ信じられない気持ちで眺めた。
 じめじめした部分の少ない、カラッとした性格だとは前から思っていた。それでもなお―――信じられない。この吹っ切りの良さは。


 10日ほど前、千秋から弟の話を聞かされた時は、正直、かなりショックを受けた。
 「身内の恥と思って隠してきたが、1人に話したなら、何人に話しても同じだ」と開き直った様子の千秋は、実に淡々とこれまでの経緯を語ったが、ひた隠しにしてきた千秋の気持ちを思い、透子は思わず涙ぐんでしまった。
 だが、もっと驚きだったのは、その話に続いた、荘太の説明だ。
 「でな。弟君、来週の今日から1週間、大学のサークル合宿で、家を留守にするらしいんだよ。いる時だとまたゴチャゴチャ煩いから、その時を狙って、橋本をうちで匿うことになった」
 つまりは、今、荘太自身も住んでいる千葉の祖父母の家に、千秋を住まわせよう、というのだ。
 元々、親戚や知り合いが頻繁に宿代わりに使うので、祖父母も慣れているらしい。実際、透子も以前、移り住まないかと誘われたほどだし。
 千秋と荘太の微妙な距離感を思うと引っかかるものがあるが、安全第一を考え、透子もその案を支持した。が……実現は難しいのではないか、とも思った。橋本家優先・道場優先で生きてきた千秋が、両親に何と説明して家を出るか。そこが、大きなネックとなるから。
 その懸念を透子がぶつけると、千秋は当然といった口調で告げた。

 「武留の不埒な行為については、小林に話したその日の内に、母にだけは打ち明けてあったからな。私達が別れた理由を前から気にしていたし、武留の私への執着心には薄々気づいていたので、卒倒しそうになりながらも理解してくれたぞ」

 いくら「1人に話したら何人に話しても同じ」でも、まさか、親にありのまま話すとは―――まあ、信じてもらえる自信があったからこそ言ったのかもしれないが。
 道場長である父には、さすがに気づかれる訳にはいかない。間違いなく血の雨が降るし、怒った父が武留を跡継ぎから外せば、困るのは千秋の方だ。そこで、母子で協議した結果、千秋は「教職訓練コースの課外実習の一環として、千葉の老夫婦の家でボランティア活動をする」ことになった。
 いくら教員志望でも、英語科の千秋だ。無理があるんじゃないか、と透子は思ったが―――昨日、無事荘太の祖父母の家に避難できたところをみると、道場長はあっさり騙されてしまったらしい。


 「でも、大丈夫? 弟君、合宿から帰ってきたら、大暴れするんじゃない?」
 「かもな。だが、橋本流3段の母が目を光らせているし、万が一小林の家まで来れたにしても、番犬が2頭いて、不審者を見るとダブルで吠え立てる。犬嫌いの武留は、1歩も入れやしないだろう」
 「そっか…。なら、いいけど」
 「―――なんだ。何か引っかかる部分がありそうな顔だな」
 歯切れの悪い相槌を打つ透子に、千秋が眉をひそめる。どこに問題があるんだ、という顔をされて、透子は慌てて誤魔化し笑いをした。
 「え、えーと、別に引っかかってる訳じゃないよ? ただ、おじいさん達がいるとはいえ、荘太と千秋が同じ家に住んでる、と思うと、なんか妙な感じっていうか、何て言うか……あはははは」
 「変か? 身寄りがなくなって、工藤さんの居候先に匿われた透子と、ほぼ同じ状況だと思うが」
 「…私の時は、まだ中学生で、慎二は恋愛対象じゃなかったもん」
 裏を返せば、「千秋の場合は、もう十分大人で、荘太は恋愛対象だ」という意味だ。真っ赤になって否定した千秋だから、むきになって怒るかな、と思いつつ透子がそう言うと、千秋はふっと笑い、視線を前に向けた。
 「小林にとっては、それと同じなんだろう」
 「……」
 「私も今は、それでいい」
 「…いい、の?」
 「……うん。いい」
 噛み締めるようにそういい、千秋は頷いた。
 「前の恋人の時は、出会った瞬間恋に落ちて、あっという間に行き着いてしまった恋だった。でも、小林とは、透子と工藤さんみたいな恋がしたい」
 「私と、慎二みたいな?」
 「うん。…スローテンポでもいい、時間をかけて、お互いのいいとこ、悪いとこ、認め合っていける関係になりたい」
 そう言って千秋は、透子の方に目を向け、口の端を上げた。
 「私は透子より1つ上だが、スローな恋愛では透子が先輩だろう? 6年かけた先輩が目の前にいるから、多少の年月では諦めたりしないぞ、私は」
 「…そう」
 きっと、今回のことで、自分の気持ちの正体を認められるようになったのだろう。迷いを吹っ切った千秋は、とても綺麗に見えた。
 「私が、先輩、かぁ」
 透子はくすっと笑い、視線を空に向けた。
 「じゃあ私も、千秋達に追い抜かれないように、がんばらないとなぁ」

 手に提げた紙袋の持ち手を、ぎゅっ、と握りなおす。
 その中に収められた絵を思い―――透子は、それを渡すべき人に、暫し思いを馳せた。


***


 ―――…あ、銀木犀。

 今まで気づかなかったものに気づき、透子は、インターホンを押そうとした手を止めた。

 1年前、もう少し遅い季節に初めてこの家を訪れた時は、満開の金木犀が透子を出迎えた。辺り一面に広がる甘い優しい香りに、ああ、ここで慎二は生まれ育ったんだなぁ、としみじみ思ったことを、今でもはっきり覚えている。
 でも、あの時は、あまりにも金木犀が見事だったから、気づかなかった。
 その後ろで、控え目に白い花をつけている、清楚な銀木犀の花に。
 ―――でも、不思議。銀木犀って、金木犀より少し遅れて咲くんじゃなかったっけ。
 今、手前に植えられた見事な金木犀の木は、ちらほらと花をつけ始めた、という感じだ。後ろの銀木犀も、ほぼ似たような感じ。だからこそ、この控え目な花に気づくことができた。
 金木犀は一旦咲き始めると早いから、明日来ていたら銀木犀を見落としてしまったかもしれない。見つけることのできた偶然に、透子は口元を綻ばせた。

 改めて、玄関に向き直り、インターホンを押す。
 ピンポーン、という音がドアの向こうに響き、暫し待つ。けれど、家の中で人の動く気配は全くなかった。
 「……」
 どうしたのだろう。
 慎二の母・由紀江は、いまだ不安定な精神状態にあるが、インターホンに反応しない、ということはこれまで一度もなかった。約束を忘れて留守にしたのか、とも思うが、透子が来る日は慎二の父が出勤前に念を押しておいてくれるらしい。今まで、それが功を奏してきたのに、今日突然朝のことを忘れて外出したとも思えない。
 もう一度、インターホンを押す。が、やはり、それに応えて人が出てくる様子はない。困った透子は、躊躇いながらも、玄関のドアに手を掛けた。
 そして―――そこで初めて、鍵がかかっていないことに気づき、青褪めた。
 「由紀江さん?」
 慌ててドアを開け、家の中に駆け込む。が、応える声はなく、静寂だけが返ってきた。
 玄関には、由紀江のものと思われる、透子とさして変わらない小さめな靴が置いてある。が、それはいつものように揃えて置かれているのではなく、まるっきり方向違いを向いた右足と左足が、バラバラに放り出されていた。そう…ちょうど、慌てて家に上がった時に、無造作に脱ぎ捨てたみたいに。
 鼓動が、不安に、嫌な感じに乱れる。透子は、急ぎ靴を脱いで家に上がり、由紀江の姿を探した。
 「由紀江さん! 由紀江さん、どこ!?」
 玄関に一番近い居間には、その姿はなかった。
 更に廊下を進み、ダイニングも覗いてみたが、やはりその姿はない。ダイニングから続くキッチンにも姿はなく、使われていないティーカップが2客、シンクの上に用意されていた。きっと、透子が来ることを覚えていて、紅茶を淹れるための準備として置いておいたのだろう。
 この3つの部屋以外、透子は入ったことがない。1階にはあと、小さな和室があるが、そこには由紀江は足を踏み入れないと聞いた。何故ならそこには―――…。

 ―――まさか。

 嫌な予感に、廊下に飛び出す。その予感を裏付けるように、これまで一度たりとも開いたのを見たことがなかった廊下奥のふすまが、半分近く開いていた。
 思い切ってふすまを目一杯開けた透子は―――そこに、由紀江の姿を見つけ、手にしていた荷物をとり落とした。

 「由紀江さんっ!」
 和室の中央に、放心したようにぺたんと座り込んでいた由紀江は、透子の声にも反応しなかった。
 由紀江の傍らには、半分歪んでしまったケーキの箱が、放り出したように転がっている。多分、透子のためにケーキを買いに行って―――そこから帰宅した時、何かが起きたのだ。
 素早く、部屋の中を見渡す。
 室内にあるのは、隅に詰まれた座布団と桐のタンス、それと、こじんまりとした文机だけ。あると聞いていた仏壇は、万が一にも由紀江に見られることがないよう、タンスという形にカモフラージュされているらしい。それを察して、透子はホッと胸を撫で下ろした。
 「…由紀江さん…」
 由紀江の傍らに歩み寄り、畳に膝をついて、由紀江の顔を覗き込む。
 呆然と中空を見つめていた由紀江の目が、僅かに動く。一度、ゆっくりと瞬きをした由紀江は、ノロノロと透子の方へと顔を向けた。
 「―――…だ…れ…?」
 「……」
 ―――由紀江さん…。
 胸が、チリリと痛くなる。それでも透子は、なんとか笑みを作って、由紀江の背中に手を置いた。
 「…透子です。慎二さんにお世話になってる」
 「とうこ……」
 「ハイ。透子です」
 「透子ちゃん、」
 まるで童女のような、無邪気な目。
 けれど、その表情はまさしく―――子供を失い、正気を失った母親の表情だ。
 「秀一さんは、どこなの…?」
 「……」
 「秀一さんが、いないの」
 見上げてくる、慎二とよく似た瞳が、揺れる。
 「いないの…いないの…どこにもいないのよ。ねえ、いつからいないの? どこへ行ってしまったの? 危ない所へ取材に行くのだけはやめてって、あんなに言っていたのに―――ねえ、この前のニューヨークのニュース、透子ちゃんも見た? ビルが崩れて、おっかなかったでしょう。秀一さんは、報道カメラマンになるって言っていたの。まさか、あんな現場に行ったりしないわよね? 秀一さんがあそこにいる筈はないわよね?」
 「由紀江さん…」
 「秀一さんはどこ…!?」
 ますます動揺し、焦点が合わなくなる由紀江の瞳。秀一を探してか、衝動的に立ち上がろうとする由紀江に、透子は堪えきれず、自分より一回り大きいその体を必死に抱きとめた。
 「秀一さん…っ!」
 「ゆ…由紀江、さん! 落ち着いて…!」
 正気を失った人とは、力の限界も失うものなのだろうか。華奢なその体には似つかわしくない力に、透子の方が負けて、転がってしまいそうになる。それでも透子は、離したら何かが壊れてしまいそうな気がして、がむしゃらに由紀江に抱きつき続けた。
 「しゅ…秀一さん、は、お仕事してるんです…っ! ただ、ちょっと留守してるだけなんです! だからお願い―――お願いだから、落ち着いて、由紀江さん…!」
 ずるずるとふすまの方へと這って行く由紀江を、力の限り引き止める。すると―――尋常ではなかった由紀江の力が、突如、ふっと緩んだ。

 「―――…」

 不思議に思い、顔を上げると、由紀江の目は、廊下と和室の境目に放り出された紙袋に向けられていた。
 いや―――その紙袋から少しだけ顔を出した、慎二が描いた絵に向けられていた。
 「…彼岸花だわ」
 「……」
 覗いていたのは、赤い花。
 この時期、一番見事に咲く彼岸花を、慎二らしい柔らかいタッチで描いたものだった。
 「綺麗……」
 「…慎二さんが、描いたんです」

 お願い。
 お願い、お願い、お願い―――秀一さんではなく、慎二を見て。
 死んでしまった人ではなく、今、ここに生きて、あなたを愛している慎二のことを見て。

 その祈りが届いたのか、髪を振り乱した由紀江の口元に、ゆっくりと、柔らかな笑みが静かに浮かんだ。
 「そう―――慎二が描いた絵なの…」
 そう呟いた直後―――由紀江は、心が限界にきたかのように、気を失ってしまった。

***

 『それで、今は?』
 「…うん…座布団折って頭の下に入れてあげて、和室に寝かせてるの」
 『そう』
 電話の向こうで、慎二が深いため息をついた。
 どうすればいいか分からず、動揺のあまり慎二に助けを求めてしまったが―――慎二にとっては辛い話だろう。今更ながらに後悔がせり上がってきて、透子はぐっと涙を飲み込んだ。
 「ご…ごめんね、慎二。私1人で何とかしなきゃいけないのに」
 『そんなことないよ。…透子こそ、ごめん。驚いただろ? そんな風になる母さん見たの、初めてだから』
 「……」
 『ありがとう』
 慎二の方が辛いだろうに、受話器から聞こえる慎二の声は、落ち込む透子を励ますような色をしていた。
 『透子が行く日で、良かったよ。少しすれば、何もなかったみたいに目を覚ますから。だから、心配しないで』
 「…うん…分かった」
 『じゃあ、切るよ。編集さんからの電話待ちしてるから』
 「あ、うん。ごめんね、仕事の邪魔して」
 そうだ。今日慎二は、家で仕事をしながら、編集部からの電話を待っているのだった。電話を自分が独占していては、仕事にならない。透子は慌ててお礼やら何やらを素早く慎二に伝え、早々に電話を切った。


 実際、慎二の言う通りだった。
 気を失ってから15分もすると、由紀江は、まるで何もなかったかのように目を覚まし、そこにいる透子を見て目を丸くした。

 「あら…透子ちゃん。私、一体どうしたんだったかしら」

 透子は何も言わず、由紀江と一緒にキッチンに立ち、紅茶を淹れ、歪んでしまったケーキを食べた。
 ケーキが歪んだ理由について、由紀江はしきりに不思議がったが、それを説明する気にはなれない。説明した途端、透子には分からない由紀江の中のスイッチが入り、また秀一の死という“現実の夢”の中へと由紀江が戻ってしまう気がして―――怖くて、言えなかった。
 由紀江の中の夢と現実の境目は、とても薄くて、脆い。
 こうして透子を透子と認識し、楽しげにケーキを食べている「普通の工藤由紀江」の方が、実は夢の中に生きている由紀江で―――さっき、髪を振り乱し、周囲を把握できぬままに秀一の姿を探して叫び声を上げていた「異常な工藤由紀江」の方が、現実を生きている由紀江の方なのだ。まともに見える状態が狂気の中で、狂って見える状態が正気の中だなんて―――なんとも、皮肉な話だ。
 多分、今の由紀江は、アメリカで起きた同時多発テロのことなど覚えていないだろう。
 不安材料となるニュースなど、頭から締め出している。それも、無意識に。だからこそ、正気に戻った一瞬に、襲ってくるのだ。凶暴な牙を持った“現実”として。


 「じゃあ…お邪魔しました」
 1時間ほどの時間を過ごした後、透子は身支度を済ませ、由紀江にペコリと頭を下げた。
 「あら、もう帰ってしまうの? お夕飯も一緒に食べていけばいいのに」
 残念そうな顔をする由紀江に、透子は困ったように微笑み、首を横に振った。
 「いえ、もう帰らなきゃ。…これ、慎二さんから、新しい絵です」
 「慎二から?」
 透子が差し出した紙袋を受け取ると、由紀江は、少しワクワクしたような表情で、袋から絵を取り出した。
 「まあ、彼岸花ね! 綺麗……」
 「今が見頃だから。ここに来る途中でも、ご近所の家に彼岸花が咲いてたし」
 「慎二に“ありがとう”って伝えてね。…ああ、そうそう。透子ちゃん、外にある金木犀と銀木犀、見た?」
 「え?」
 急に飛んだ話に透子がキョトンとすると、由紀江は、透子の前を通り過ぎ、サンダルに足を通して、玄関の扉を開けた。途端―――独特の香りが、ふわりと家の中へと流れ込む。
 「ほら。ここに2本」
 「ああ…、はい。来る時、両方咲き始めてて、綺麗だなぁ、いい香りだなぁ、って」
 「今年は銀木犀の開花がちょっと早かったから」
 ふふっ、と笑った由紀江は、どこか懐かしむような目を、2本の花木に向けた。
 「この金木犀はね―――秀一さんの木なの」
 「……えっ」
 透子の表情が、緊張に強張った。
 けれど、夢の世界を漂う由紀江は、動揺することなく、まるで昔語りでもするように穏やかに続けた。
 「秀一さんが生まれた年に、主人が植えてくれた金木犀なの。どんどん伸びちゃって、剪定(せんてい)が大変な位―――でも秀一さん、もっと男っぽい木が良かった、なんてボヤいてたわ。勝手よねぇ、息子なんて」
 「……」

 ―――これのせいなのかも、しれない。
 由紀江のスイッチを入れてしまうものなんて、透子にも誰にも分からない。でも……そんな気がした。ケーキを買いに行って帰って来た時、ふとこの金木犀の香りを嗅いで、由紀江の中の秀一に関するスイッチが唐突に入ってしまったのではないか、と。

 そんな事を、頭の片隅で考えていた透子に、由紀江は更に続けた。
 「そしてね。こっちの銀木犀が、慎二の木」
 「……っ」
 不意打ちだった。ドキン、と跳ねた心臓を宥めるように、透子は無意識のうちに、胸を手で押さえた。
 「一度、ダメになりかけて、それを家族みんなで必死になって持ち直させてね。ああ…今では、金木犀と同じ位の背丈ね。綺麗な花をつけるようになって、良かったわ」
 「―――…ええ…、綺麗」
 「透子ちゃんは、どちらが好き?」
 悪びれた風もなく、振り返ってそう訊ねる由紀江に、透子は、泣きそうになるのを堪えながら、笑顔を返した。
 「…銀木犀の方が、好き―――かな」
 「そう。ちょっと待ってね」
 由紀江はそう言うと、玄関にいつも置いてある手バサミを手に、玄関の外へと出た。そして、銀木犀の枝から、花をつけた枝をパチン、と切り取った。
 が、そのままではまずいと思ったのだろう。すぐに家の中に戻り、切り取った枝を湿したティッシュやビニールで包んだ上で、また戻ってきた。
 「はい、これ」
 差し出された銀木犀から、ふわりと、金木犀とは微妙に違った香りが漂った。
 「銀木犀はね、金木犀より香りが弱いから、あまり目立たないんだけど―――お部屋に飾ったら、とてもいい香りがするわよ」
 「……」
 金木犀の後ろでひっそりと香る、清楚な白い花。
 なんだか、慎二にはあまりにもピッタリな花で―――透子は、触れるのを躊躇うかのように、おずおずと差し出された枝を受け取った。
 「…ありがとう」
 透子が、嬉しそうに微笑むと、由紀江も嬉しそうに笑顔を返した。


***


 アパートに戻ったのは、日がかなり傾いてからだった。
 編集部の人から呼び出されたらしく、慎二はメモを置いて外出していた。持ち帰った銀木犀の枝を、誕生日プレゼントの花瓶に挿した透子は、それを慎二の部屋の机の上に飾った。
 シンプルな花瓶に、清楚な白い花は、よく似合っている。暫し見惚れていたら、玄関でガチャガチャという音がして、ドアが開いた。
 「お帰りなさい」
 慌てて玄関に駆け寄る。慎二は、顔を出した透子を見て、靴を脱ぎながらふわりと笑った。
 「ただいま。透子の方が早かったんだね」
 「私も10分前に帰ってきたばっかりだよ」
 「そう」
 そこで―――慎二の表情が、変わった。
 「……」
 少し不思議そうな顔をした慎二は、何かを探すように視線を彷徨わせながら、部屋を横切った。そして、自分の部屋に入ったところで、気になったものの正体を見つけ、目を丸くした。
 「―――銀木犀?」
 慎二の視線の先には、透子が活けた銀木犀があった。きっと、玄関にいてもその香りが鼻を掠めたのだろう。
 「…うん。帰りに、由紀江さんに貰ったの」
 「えっ。じゃあ」
 「そう。慎二の家の玄関脇に植えられてる、銀木犀なの」
 「へぇ……」
 慎二の口元が、微かに綻ぶ。慎二は、どこか懐かしげに目を細めると、銀木犀の白い花を指先で撫でた。
 「今年は、もう咲いてるんだなぁ」
 「……」
 ―――あ、ダメだ。
 金木犀より柔らかな優しい香りに、堪えていたものが湧いてくる。透子は、突如浮かんできた涙を、慌てて指で拭った。
 けれど、気配で分かってしまったらしい。振り返った慎二が、少し気遣うような様子で、透子の顔を覗き込んできた。
 「透子?」
 「…うん」
 「何、どうしたの」
 「…なんでも、ない」
 「なんでもなかったら、泣かないだろ? 普通」
 「…なんでもない。ただちょっと、慎二のこと、抱きしめてあげたくなっただけ」

 何言ってるんだろ、私。バカみたい。
 口にして、後悔する。電話口でも、慎二より自分の方が弱ってしまい、むしろ慎二に慰められていた程なのに―――。

 けれど、慎二は、笑ったりしなかった。
 「…そっか」
 小さな呟きと同時に、逸らした視線の隅っこで、慎二が動くのが見えた。
 透子の横をすり抜け、ベッドの端に腰掛ける。キョトンとした顔の透子を僅かに見上げる形になった慎二は、くすっと小さく笑って、軽く首を傾げるような仕草をした。
 「それなら、遠慮なく、抱きしめてくれればいいのに」
 「えっ」
 「この高さなら、できるんじゃない?」
 からかうような口調とは対照的に、慎二の笑みが、消える。
 と同時に、慎二の目が、寂しそうな目に変わった。そう―――まるで、迷子になってしまった子供みたいな目に。
 「…抱きしめてよ、透子」
 「……」
 胸が、鈍く痛む。
 耐え切れず、透子は手を伸ばし、慎二の頭を引き寄せた。
 明るい色の髪に指を梳き入れ、頬を押し付ける。背中にそっと回される慎二の手を感じて、透子は、堪えられない涙と共に目を閉じた。

 悲しくて。
 咲き誇る金木犀の陰でひっそりと花をつける銀木犀が、そのまま、もうこの世にはいないのに由紀江の心を占め続ける秀一と、もう何年も由紀江に見つけてもらえずに待ち続けている慎二の姿に思えて―――悲しくて、悲しくて。
 たった1年2年で何とかなるなんて、最初から思っていない。一生をかけてでも、と覚悟した上で始めたことだ。でも―――それでも時々、たまらなくなる。何故、見つけてくれないの、慎二はここにいるのに、ここでずっと待っているのに、と。

 慎二の手が透子の肩に置かれ、少し、体が離される。
 え、と思って目を開けると、今度は逆に、頭の後ろに回った慎二の手に引き寄せられた。反射的に目を閉じた刹那―――縋るように、口づけられた。

 ―――クラクラする。
 銀木犀の香りに酔ったんだろうか。なんだか…ただ、キスしてるだけでも、立っていられない位にクラクラと眩暈がする。
 フラついたところを、慎二に抱きとめられて、唇が離れた。
 「や……」
 離れちゃ、やだ。
 思わず、追いかけるように、慎二にしがみつく。それを合図にしたみたいに、慎二は透子を抱きとめたまま体を入れ替えて、透子をベッドに横たえた。
 少し驚いて目を丸くした透子は、真上に見える慎二の目を、声も出せずに見つめ返した。何が起きたのか分からない、といった様子の透子に、慎二はちょっと苦笑し、その唇に軽いキスを落とした。
 「―――この前の約束、覚えてる? 透子」
 「…ん…、えっ?」
 「透子がお礼くれる、って言うからさ。言っただろ? “前から欲しかったもの、貰おうかな”って」
 「……うん…」
 「…今、貰ってもいい?」

 その意味は、さすがに、一瞬で分かった。
 息を呑んだ透子は、慎二の腕を思わず掴み、目を見開いた。
 からかわれているのかと、思った。けれど、髪の先が頬を撫でるほどに近くにある慎二の目は、けっして冗談を言っている目ではない。さっき見せた、迷子になった子供のような心細さをまだ宿したその目に、透子は、また胸が締め付けられるような痛みを感じた。

 「…で…でも…っ」
 「でも―――何?」
 静かに促され、言葉に詰まりかける。
 うろたえたように瞳を揺らした透子は、自分の手が、いつの間にか微かに震え始めているのに気づいていなかった。
 「でも、慎二―――こ…、怖い、の」
 「怖い?」
 「…本当に、間違えない?」
 ぎゅっ、と、慎二のシャツの袖を握り締める。
 多分今、縋るような目をしてるのは、自分の方だ。それを感じながら、透子は苦しげに目を細め、慎二の目を真っ直ぐ見つめた。
 「わ、私のこと―――多恵子さんと間違えたり、比べたりしない……?」
 「―――…」
 慎二の目が、少し驚いたように、丸くなった。
 けれど、それは一瞬のことで―――慎二はすぐに、呆れたような苦笑を浮かべた。
 「本気で、そんなこと考えてたんだ」
 「…だ…って…」
 だって、その位、慎二は多恵子を愛してたから。
 そう言おうとした刹那―――慎二が、右手をそっと、透子の左胸に置いた。
 「……っ」
 心臓が、止まりそうになる。思わず体を硬くする透子に、慎二は宥めるように髪を撫でた。大丈夫、と安心させるかのように。
 「ほら―――透子にも、分かるだろ?」
 「……」
 「透子の心臓が、鼓動を打ってるのが」

 ドキン、ドキン、と。
 胸に置かれた慎二の手を介して、透子も、感じる。
 いつもより速い鼓動―――自分の体の中で、確かに刻まれている、生きている証し。
 薄い布越しに感じる慎二の掌の温かさにも、やっぱり同じものを見つける。生きて、温かな血がその下を巡っている……その証しを。

 「…こうして触れているのは、透子だよ」
 優しい唇が、耳元から首筋を辿り、覗いた胸元に落ちる。
 自分の熱よりも熱く、慎二の熱を感じた。
 「この温かさも、柔らかさも、透子。生きてるから―――生きていてくれるから、感じられる」
 「……」
 「…どうやって、比べたり間違えたりできるの」


 慎二―――…。

 涙が、溢れてくる。
 再び重ねられた唇に応えながら、透子は、少しでも慎二の体温を感じ取ろうと、夢中で慎二の手を探した。


 離れないで。
 離さないで。もっともっと、手を握っていて

 死んでしまった人ではなく―――今、ここに生きて、あなたを愛している私のことを見て。


 やっと探りあて、重ねられた掌に、透子はやっと安堵し、甘えるように指を絡めた。

 

***

 

 夢を、見た。


 それは、秋の夢。
 すっかり花の落ちた金木犀の陰に、散り遅れた銀木犀の白い花が、風に微かに揺られていた。

 透子は、慎二の名前を呼ぶ。

 慎二。
 慎二―――どこにいるの?
 どこに、いるの?

 風に揺れた白い花が、ふわり、と1つ、地面に落ちる。
 誰かの声を聞いた気がして、透子は、振り返る。


 そこで―――夢は、終わった。

 

 

 「―――……」
 薄闇の中、目を開けた。
 居間から差し込む光で、辺りは辛うじて見える。二、三度、緩慢な瞬きを繰り返した透子は、ゆっくりと頭を起こした。

 すぐ目の前に、慎二の寝顔があった。
 透子を抱き寄せるように回された腕は、眠ってもまだ、透子の肩を離していない。伏せられた瞼は、動かない。きっと夢も見ずに眠っているのだろう。
 なんだか、安心して寝入っている子供みたいに見えて―――透子は、くすっと笑った。

 「―――慎二…、見ぃつけた」


 再び寝入った透子は、慎二の温かさと銀木犀の香りに包まれて、もう夢を見ることはなかった。


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