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18: Drizzle Drizzle = 霧雨のこと

 「結構大掛かりになるもんだなぁ…」
 狭い部屋のあちこちに取り付けられるクリップ式のライトを見渡して、慎二は関心したようなため息をついた。
 「天気悪いのが災いしたかな」
 「いや。外光がない分、調整しやすい。…色見本、置いてみて」
 「あ、うん」
 指示に従い、イーゼルに置いた絵の右下に、協会から送られてきたハガキサイズの色見本を1枚置く。もう1枚を手に、慎二は、三脚にセットしたカメラを覗き込んでいる人物の隣に歩み寄った。
 「どう?」
 「…色が微妙だな」
 「オレも覗いてみていいかな」
 「どうぞ」
 交代してもらって、慎二もカメラのファインダーを覗きこんでみた。
 四角く切り取られた視界の中に、自分が描いた絵がきっちり収まっている。右下に置かれた色見本と、手元の色見本を何度か見比べ、更に絵全体の色合いを確認したが、慎二の感想も“微妙”だった。
 「…うーん、まぁ、いいか。色見本の色がどう写ってるかを確認して、絵の実際の色を判断するらしいから」
 「今の公募って、こんな形でやるんだな。てっきり実物を搬入して、並べて審査すんのかと思ってた」
 「うん。まだそういう絵画展も多いよ。ここは全国から凄い数の応募があるから、搬入審査よりスライド審査の方が効率いいんだと思う。でも、初めてだから、スライドなんてどう作ればいいか分からなくて参ったよ。成田君と知り合いで助かった」
 慎二が振り返って笑顔でそう言うと、背後で絵を眺めていた瑞樹も、ふっと笑った。


 オーバーではなく、本当に「助かった」というのが、慎二の今の思いだ。
 大体、“グループ・F”のグループ展以外、展覧会や公募に絵を出した経験がほぼゼロ―――高校時代には1度出したが、あれは慎二が出したのではなく、先生が勝手に出したのである―――の慎二だから、一般的な公募のスタイルだって、つい5、6年前まではほとんど知らなかった。尾道で先生の手伝いをし、先生が愛読している美術雑誌を読むようになって初めて、世の中にはこんなに絵画の公募展があったのか、と驚いたという位だ。
 出す気がないから全然気に留めていなかったが、まさか、こんな―――絵画の審査を、絵画を撮影したスライドフィルムで行うような公募展があるなんて、予想だにしなかった。第一、スライドってどうやって作るの、という基本的な部分がまるで分からない。
 で、やむなく、唯一フィルム関係には詳しい筈の知人である瑞樹に、救いの手を求めたのである。
 『ああ、スライド? リバーサルで撮って、それをマウント仕上げにすりゃいいだけ。スリーブ仕上げから自分で作る手もあるけど、面倒だろ』
 あっさり返された回答に、慎二は、返事ができなかった。
 ―――リバーサルで撮って、それをマウント仕上げにする、って……、何??
 固まっている気配が、電話越しにも分かったのだろう。
 『―――ちなみに、絵は、油? 水彩?』
 「……油絵だけど」
 『ふーん…。油は結構、照明が反射して、撮り難いんだよな。照明を工夫しないと』
 「…ええと…、ごめん。成田君、撮ってくれるかな」
 そんな訳で、急遽、プロカメラマンである瑞樹にお願いすることになったのだ。


 ―――それにしても…すっかり、“プロ”になったんだなぁ…。
 自宅の居間という見慣れた場所で、あっという間に照明をセットし、淡々と撮影を進める瑞樹を眺めつつ、なんとも不思議な気分になる。
 慎二が知る成田瑞樹は、撮影スタジオで雑用係をしている大学生だ。
 佐倉に頼まれて(というか、佐倉に頼まれた多恵子に頼まれて)1度だけ引き受けたモデルの仕事。撮影現場となったスタジオに、佐倉や多恵子の後輩に当たる瑞樹が、アルバイトとして働いていた。それが、2人が出会ったきっかけ。以来、時折フラリとスタジオに遊びに行っては、休憩時間中の瑞樹と話をしたりしたが、実際に瑞樹がカメラを構える姿などはさすがに見たことがなかった。
 ただ、やたら印象に残っているのは、撮影中、じっとカメラマンやスタジオマンの動きを見つめ続けていた、瑞樹の真剣な眼差し―――その目を見て慎二は、なんとなく、瑞樹に親近感を覚えたのだ。
 多分、それは、兄・秀一のせいで。
 報道カメラマンを目指していた兄が、報道写真展を見に行った時、食い入るように作品を見つめていた、あの目―――自分が目指すべき道を真っ直ぐに見据える目が、秀一と瑞樹はどこか似ていた。みんなが「近寄り難い」と言う瑞樹に対してやたら親近感を覚えたのは、やはり、慎二がどこかで彼に亡き兄を重ねていたからだろう。

 「けど、慎二さんが、賞取りものに出すようになるとは思わなかったな」
 撮影を終え、フィルムを巻き戻しながら、瑞樹が呟いた。
 「って言っても、賞じゃなく“副賞”目当てなとこが、ちょっとズレてるとも思うけど」
 「ハ…ハハハハ」
 笑って誤魔化す慎二だが、事実だ。
 賞取り合戦に一切無関心な慎二が、突如、結構有名なこの公募に応募してみようと思ったその動機は、“XX展入選”なんていう肩書きが欲しいとか、自分の実力を試したいとか、そういう普通のものではない。しかも、是非取りたいと思っている賞は、一番上の賞ではなく、上から2番目の賞である。
 1番目の賞の副賞は、そんな暇あるのか、と問い質したくなる、豪華世界旅行2名様ご招待だった。
 そして、2番目の賞の副賞は―――小柄な透子によく似合いそうな、ハッチバックの軽自動車だった。
 今、透子は、免許を取るために自動車学校に通っている。社会人になるんだし、あの会社に入るなら植物園だの動物園だのと忙しく動き回ることになるのだろう。だったら車があるといいのになぁ―――それが、慎二の出品動機である。
 「…いや、買えないから、って理由で欲しがってる訳じゃないんだ。買えない値段じゃないし。でも…オレが金出して買ったんじゃ、透子は受け取らないだろうな、と思って」
 「ま…、そうだろうな」
 透子のこれまでのことをある程度慎二から聞かされている瑞樹は、納得したように頷いた。
 「でも、都合よく“2番目”を取れる確率は、相当低いと思うけどな」
 「あはは、オレも、そう思う。佐倉さんからも、“車が必要なら、自分が頭金を出すから、残りは2人で返していけばいいじゃない”って言われたけど―――佐倉さんの申し出だって、透子は受けないよなぁ、きっと。まあ、取れなかった時は、諦めるよ。透子が欲しいって言った訳でもないし」
 「佐倉―――…」
 その名前に、瑞樹は紅茶の準備を始める慎二を振り返り、軽く眉をひそめた。
 「よく、会うのか。あの人と」
 「ああ、うん、時々ね」
 「…へぇ…」
 何か心に引っかかるものがあるような口調で相槌を打った瑞樹だったが、すぐには何も言わなかった。
 無言のまま、カメラからフィルムを取り出し、コトン、とテーブルの上に置く。と同時に、再び口を開いた。

 「―――ちょっとは距離、置いた方がいいんじゃねーの」
 「……」

 一瞬、その言葉の意味が、いまいち分からなかった。
 が、数秒後―――意味に気づいた慎二は、少し驚きを含んだ苦笑を浮かべ、瑞樹の方に顔を向けた。
 「…どこから拾ってきたの、そんな話」
 「さぁ? なんとなく」
 「多恵子も言ってたけど、相変わらず“食えないタイプ”だなぁ…」
 「そうでもないんじゃない」
 カメラを取り外した三脚の脚を1つずつ縮めながら、瑞樹は微かな笑みを口元にだけ浮かべた。
 「何も気づいてねーっていう鈍そうな顔装っておきながら、その実、かなりの事を見透かしてる誰かさんに比べれば」
 ―――それって、オレのこと言ってるんだろうなぁ。
 慎二は困ったような顔をして、茶葉の入ったポットにお湯を注いだ。
 別に、鈍そうな顔を装った覚えはないのだ。気づいたことを顔に出さないだけで。そもそも、このノホホンとしたオーラがまずいのか、慎二のことを“鋭い”なんて思う人はほとんどいない。実際には、慎二はぼーっとしながら、相手の視線を追い、言葉に耳をすまし、そこから結構いろんな情報を得ているのだけれど。
 「成田君、佐倉さんが苦手だって言ってなかったっけ。彼女の心配するなんて、珍しいね」
 「…知り合いが、あの女と無関係じゃない立場になったんで、とばっちりがそいつに降りかかるのを心配してるだけ」
 「成田君も“知り合い”の心配するようになったんだ」
 くすっ、と笑って慎二が振り向くと、瑞樹も静かに笑い返した。
 「色々、あったからな」
 「…そっか」
 その“色々”が、どんなことかは分からないが―――どこか自分と似た、人生を諦めたような部分を持っていた瑞樹が、佐倉が傷ついたり、知人がとばっちりを食ったりするのを心配できるようになったのは、とても喜ばしいことのように、慎二には思えた。そう……慎二自身が、ひとりきりじゃない未来を夢見ることが出来ることになったのと同じように。
 「―――佐倉さんなら、大丈夫だよ」
 ティーポットの中、ローズ色の中で踊る紅茶の葉っぱを眺めながら、慎二は呟くように言った。
 「彼女が求めてるのは、“心地よい居場所”だから」
 「……」
 「オレと透子は―――ただ黙って、ドアを開けて待ってれば、それでいいんだと思う」

 酷く、曖昧な言い方しか、できないけれど。
 でも……“ドアを開けて、待っている”。それが一番、近いんだと思う。
 家の中に上がりこみ、いつまでもいつまでも居座るのではなく―――雨に濡れた佐倉がひょっこり顔を見せた時、ドアを閉ざすことなく受け入れ、じゃあ帰るね、と言ったら手を振って見送る。それでいいのだ。自分も、そして、透子も。

 「例えば、2、3日前みたいなどしゃ降りに降られて濡れた佐倉さんが、なんとかして、とオレ達に助けを求めてきても―――多分、オレ達では何も出来ないと思う。でも、今日みたいな雨なら…」
 言いかけて、慎二は、窓の外に目をやった。
 「今日みたいな、音もなく降り続ける霧雨に濡れた佐倉さんなら―――家に招きいれて、服を乾かしてやること位はできる。佐倉さんもそれを知ってるから、どしゃぶりの日は来ないんだ。霧雨に降られて寒くなると、ふらりと現れて、少しあったかい気分になって帰ってく。…それで、いいんだと思う」
 「―――なかなか、詩的だな」
 詩的で、比喩だらけの言葉だけれど、瑞樹には通じたらしい。
 「あんだけ激しい女だと、どしゃぶり専用シェルターは、相当のツワモノでないと務まらないだろうな」
 苦笑混じりの瑞樹のセリフに、慎二も苦笑いを返した。


***


 不思議なほど、冷静でいられた。
 背筋を伸ばし、真向かいに並んで座る江野本社長と人事部長の顔を交互に見ながら、透子は震えることも、緊張のあまり声が出なくなることもなかった。
 別に、面接試験を楽観視してる訳ではない。いくら社長が「大丈夫」と太鼓判を押していても、なめてかかれば容赦なく落とされるだろう、と考えている。それでもなお、緊張はしなかった。
 あるがままの自分でぶつかるしかない、と、開き直っているのかもしれない。
 そう開き直ることができるのは―――慎二が「小賢しく体裁を繕うより、自然体でぶつかれ」と言ってくれたから。「繕った自分で負けたら後悔するけれど、ありのままの自分が受け入れられなければ諦めがつくだろう」と言われて、本当にその通りだと思ったから。

 「とにもかくにも、気象予報士試験、合格おめでとう」
 「ありがとうございます」
 社長にニコニコと笑顔で言われ、透子は微笑んで軽く頭を下げた。
 「知識面では申し分ないので、もうちょっと内面のことを聞かせてもらいましょうかね。小瀬木君、始めて」
 「はい」
 人事部長の小瀬木が、社長の言葉に応え、書類をトントン、と整えて顔を上げた。社長よりもう少し若い、40代半ばといった年頃だろうか。ふっくらパン屋のおやじさん、といった社長とは正反対に、細くて胃腸薬が手放せなそうなタイプに見える男性だったが、向けられた笑顔は思いのほか柔らかかった。
 「えー…、井上さんは、当初、英語科で入学されたのに、途中から地学科に転部されたそうですが―――その理由は、何ですか?」
 「はい―――あの、とても曖昧な理由ですが、構いませんか?」
 「どうぞ」
 軽く深呼吸した透子は、少しずつ考えを頭の中で纏めながら、口を開いた。
 「…大学進学を決めた当初は、まだ将来の夢なんて見えていなかったので、ただ漠然と“人に何かを教える・伝える仕事がしたい”と思ってました。英語を選んだ理由は、自分自身、苦手だった英語が高校の先生の授業のおかげで一番得意な科目になったからです。教師、というのはちょっとイメージが違うな、とぼんやり思いながらも、例えば英会話教室の子供クラスなんかをやれたら…、と、考えてました。でも―――1年生の終わり頃、見つけてしまったんです」
 「何、を?」
 「季節をです」
 その時のことを思い出し、透子の顔に、懐かしげな笑みが浮かんだ。
 「テレビで偶然、その日が二十四節季の“雨水(うすい)”だと知った日―――道端で、融け残って硬く凍っていた雪が、太陽の光に温められて融ける瞬間に、偶然出会ってしまったんです。…その年最初の“春”を見つけた、って、思って……凄く、感動しました」
 「それで、地学科に?」
 「はい。季節を見つけ、感じ、それを伝える仕事がしたい、って、強く思ったんです」
 「なるほど。雨水の日に、突如、季節に目覚めたんですか」
 「いえ」
 思わず、遮った。
 少し驚いた目をした社長と人事部長に、ちょっとだけ、緊張する。透子は、躊躇したように瞳を僅かに揺らした後、思い切って説明を始めた。
 「その時初めて自覚しただけで―――ずっと、その望みはあったんだと思います。季節を感じる仕事がしたい、って」
 「ほう…。では、そう思うようになった経緯を聞かせてもらえますか?」
 今度は、人事部長ではなく、社長が少し身を乗り出すようにして訊ねた。
 どこまで喋ればいいんだろう―――迷いつつも、透子は、ありのままを語ることにした。
 「―――…私は、15歳の時、震災で家族全員と家を失いました」
 「……」
 「…震災直後の私は、何を見ても、灰色にしか見えなくなってました。瓦礫や焼け跡ばかりだから当然かもしれませんが……色を感じるだけの心がなかったからかもしれません。そんな時、偶然知り合った人が、私を引き取ってくれたんです」
 「工藤さん、ですね?」
 「…はい」
 確認する社長に、透子は微笑で応えた。
 「工藤さんは、絵描きで―――季節の移り変わりにとても敏感な人で、工藤さんの描く絵は、どの絵も、季節を感じさせる色で溢れてました。絵を描くには、季節の色をたくさん吸収しなくてはいけない、と言って、よく私を連れて海や森へ季節を探しに行きました。そうして、工藤さんの傍で季節を探して暮らすうちに……灰色だった世界が、だんだん、色づいてくるように思えてきたんです」
 「季節の色で?」
 「はい。季節の色で。色なんてなさそうに思える冬にだって、ちゃんと色があるってことに気づけて、なんだか凄く嬉しかったんです。幸せだった頃には全然気にも留めなかったたくさんの季節の移り変わりに、毎日、少しずつ気づけるようになって―――そのことが、英語の成績が上がったことの何十倍も嬉しかったんです」

 そう―――慎二と歩いた森、坂道、海辺、並木道。どこにだって、季節は溢れてた。
 季節のことなど考えなかった透子は、慎二に季節を教えられた。
 父がいなくても、母がいなくても、弟がいなくても、世界はこんなに美しくて、たくさんの色で溢れかえっている。だから―――だから、生きようよ、と。

 「…私が工藤さんに季節を教えられたように、私も誰かに―――季節に気づくことのできない人に、季節を教えてあげたい。どこかでずっと、そう思ってたんです。そのことに気づいたのが、あの雪解けの日だったんだと思います」
 「―――季節に気づくことのできない人、ですか…」
 社長は、その部分を、どこか感慨深げに繰り返し、苦笑を浮かべた。
 「都会暮らしの現代人は、大半がアウトですねぇ。大人も子供も、天気予報は傘の要不要のためにしか見ないし、暑さ寒さは快適か不快かの尺度でしかない。季節の移り変わりを楽しむ余裕なんて、持ち合わせていない人が大半でしょう」
 「…そうかも、しれません」
 「人との出会いは、人生を変えますね」

 あなたにとっての工藤さんが、あなたを変えたように。
 社長の目が、言外にそう伝えた気がして、透子はふわりと微笑んだ。


 慎二と出会って、季節を知り、そして―――たくさんの“心”を知った。
 恋心、慈愛、献身―――嫉妬、自己嫌悪、劣等感。プラスの心、マイナスの心、みんなみんな…慎二と出会って、初めて実感した。
 家族以外を思いやることも、人の弱さを理解することも……教えてくれたのは、やっぱり、慎二。いや―――慎二の傍にいたい、と、ただそれだけを想い続けて必死にもがいた、6年の月日だ。
 たった1人との出会いでも、人生は、こんなに変わる。日々、たくさんの人と出会って別れているのだもの。人間て、毎日毎日、変化していくのが当たり前なのかもしれない。そう……まるで、季節が移り変わっていくように。


 「おや、どうも空気が湿っぽいと思ったら、雨が降ってきたようですねぇ」
 窓の外を見て、社長がそう言った。
 透子も窓の外に目をやると、この会社に来る時は曇りだった空が、今は更に暗い色に変わり、窓ガラスに細かい雨粒がたくさんついていた。
 「霧雨ですか。風流ですね」
 白く煙って見える窓の外に、人事部長もそう呟く。堅物そうなルックスだけれど―――笑顔同様、口にする言葉もちょっとロマンチックで、そのギャップが面白いかもしれない、と透子は内心小さく笑った。
 「井上さんなら、こういう霧雨の時、傘はいるのかいらないのか、とイライラしてる人に、どんな天気予報をしますか?」
 まるでクイズのように、唐突に社長がそんな質問をした。
 えっ、と、一瞬言葉に詰まった透子だったが―――暫し考えた後、思い切って答えた。

 「汚したくない大事な服を着てる人は、傘を持っていきましょう。でも、ちょっと位濡れてもいい服を着てる人なら―――思い切って、霧雨をいっぱい浴びながら、歩いてみましょう」

 「ハハハハハ、現代人は、乾いちゃってますからねぇ。霧雨で潤したら、ちょっとは優しくなれるかもしれませんね」
 透子の答えに、社長はそう言って、実に愉快そうに笑った。


***


 「―――…透子?」

 まさか、と思って佐倉が声をかけると、小さな花柄の傘がピクン、と揺れて、振り返った。
 珍しく紺のスーツに身を包んだ透子が、佐倉の姿を見つけ、ニコリと笑う。驚いた佐倉は、慌てて、ビルの軒下に形ばかり入っている透子に駆け寄った。
 「えへへ…。佐倉さん、留守だったから、そのまま帰るのも癪だな、と思って、ちょっとだけ待ってたの」
 「ど…どーしたのよ、一体!? こんな時間から、こんな所に」
 こんな時間、とは、平日の午後4時。こんな所、とは、佐倉のモデル事務所が入っているビル、である。
 話の展開から考えて、透子はどうやら、佐倉を訪ねて事務所まで行ったらしい。それで、留守だったから仕方なくビルを出て、でも少し待てば帰って来るかも、とビルの前でうろうろしてた―――そういうことだろう。
 そこまで想像したところで、ふいに、佐倉の脳裏に嫌な予感が過ぎる。
 「まさか、例の会社の面接で、何か……」
 今日が面接日だと前もって聞いていたので、即座にそこに考えが及んだ。心配げに佐倉が眉根を寄せると、透子は苦笑を見せ、ふるふると首を振った。
 「ううん、面接で失敗したとか、とんでもない事聞かれて嫌な思いしたとか、そういうんじゃないの」
 「あ…、そ、そう。良かった。じゃあ、何?」
 「うん、実は―――…」
 少し気を持たせるかのように間をおいた透子は、次の瞬間、満面の笑みを浮かべてピースサインをしてみせた。
 「内定、もらえました!!」
 「えっ」
 「即日オッケーもらえたの! 私、就職決まったんだよ、佐倉さん!」
 「―――…」

 就職が、決まった―――…。

 一瞬、その事実を把握し兼ねた佐倉は、ポカンとした表情で透子を見下ろした。
 が、数秒後、やっと現実感を伴ってその意味を理解して―――佐倉は、あっという間に表情を崩した。
 「や……っ、やったじゃないの、透子…っ!!」
 「うん、ありがと……、ひ、ひゃああっ!」
 思わず、透子が声を上げた。感極まった佐倉が、傘を持ったまま、透子をぎゅーっと抱きしめたのだ。そのあまりの勢いに、透子の手から傘が落っこちそうになるほどに。
 「さっ、さっ、佐倉さんっ」
 「おめでとーっ! ああ、良かったあぁ…! さすがに気象関係はあたしもお手上げで、なーんにも力になってやれないなぁ、って自分で自分に腹立ってたのよ。あー、ほんと、良かった」
 ますますぎゅーぎゅーに透子を抱きしめる佐倉は、何度も何度も「良かった」を繰り返した。あまりに締め付けるので透子が苦しがっていたのだが、そのことにも気づかないで。
 そして、一頻り喜んだところで、ふとあることに気づいて、慌てて透子を離した。
 「あら? ちょっと、透子。もしかして、その面接帰り?」
 服装からも時間からも、そうとしか思えない。目を丸くする佐倉に、傘を持ち直した透子は、コクンと軽く頷いた。
 「うん、そう。面接会場から直接ここ来たの」
 「…慎二君には? 結果、もう連絡した?」
 当然、合否結果はまず、慎二に伝える筈だと思っていた。けれど、佐倉の問いに、透子はくすっと笑い、思いがけない言葉を返した。
 「ううん―――まだ、これから。最初に佐倉さんに伝えようと思って」
 「……あ…あたし、に?」
 「うん」
 「…なんで?」
 「うーん…、なんで、かなぁ」
 そう言って透子は首を傾げるが、その表情は、理由に全く心当たりなし、という表情ではなかった。ますます訳が分からず佐倉が呆然としていると、透子はふふふ、と笑って、真っ直ぐに佐倉を見上げた。
 「最近ずっと、私、佐倉さんにあんまり相談事してこなかったから」
 「……」
 佐倉の心臓が、ちょっとだけ、跳ねる。気づいてた―――いや、気にしてた、ここ最近、ずっと。透子からあまり電話がないこと、以前なら気軽に愚痴ったり相談したりしたことを、最近、ほとんど佐倉には言わなくなっている気がすること。
 「慎二は、いつも傍で見てて、私の就職の様子も試験の様子も全部分かってるけど―――佐倉さんは、慎二から聞くしかなくて、きっと慎二以上に心配かけちゃったんだろうな、と思ったの。だから、より心配してそうな佐倉さんから先に、早く安心させたいと思って」
 「…透子…」

 不覚にも、涙が滲みそうになる。
 自分のは、ただのおせっかいなのに。
 途中で見放してしまった、もうこの世にはいない親友への罪悪感。慎二を想う透子の一途さへの憧憬。そんな個人的な想いから、ただ一方的に、透子の世話を焼きたくてウロウロしてるに過ぎないのに。
 そんな勝手な干渉や心配を、透子が気遣い、認めてくれたことに、佐倉は泣きたいほどに安堵した。もしかしたら、透子に避けられているのかもしれない、と胸を痛めていたから、余計に。

 「恋愛の相談はね、これから、千秋にすることにしたの」
 透子は続けて、佐倉がちょっとドキリとするようなことを口にした。
 「千秋も今、恋愛中だから。お互い相談に乗りあおうね、って約束したから」
 「…そ…そう」
 ―――やっぱり…気づかれたんだろうか。あのことに。
 あれほど無邪気に、スローすぎる恋愛展開のことを佐倉に相談していた透子だ。千秋の存在を差し引いてもなお、腑に落ちない部分がある…気が、する。単に考えすぎなのかもしれないけれど。
 けれど、佐倉がそれを確かめる間もなく、透子は更に付け加えた。
 「でも、仕事のことは、佐倉さんに相談したいの」
 「……えっ」
 「勿論、慎二にも相談したり愚痴ったりするけど―――佐倉さんは、同じ女性だし、経験も慎二より豊富でしょ? だから…仕事のことは、佐倉さんのこと頼っても、いい?」

 いい、も、何も。
 頼られたいのは、佐倉の方なのに。
 慎二と2人で閉じてしまわないで、自分がちょっとだけ顔を覗かせることのできる場所を残しておいて欲しい、と、ずっと願ってやまないのは、佐倉の方なのに。

 もしかしたら透子は、そんな佐倉の気持ちも、知っているのかもしれない。
 慎二に対する気持ちも、透子に対する気持ちも、全て察した上で―――こうして、佐倉の居場所を作ってくれたのかもしれない。確証はないけれど…何故か、そんな気がした。

 「―――…バカね。いいに決まってるでしょ」
 くしゃっ、と透子の髪を撫でた佐倉は、その頭を胸元に抱き寄せた。
 指に絡む、柔らかい髪。撫でていると、愛しい、と自然に思える。子供は好きじゃないし、動物の類に目を細めるタイプでもないけれど―――何故か不思議と、透子に対しては、まるで母親みたいな気持ちになれる。どこかで、多恵子と重ねているのだろうか? …それは、佐倉自身にも、分からないけれど。
 いつも、キリキリしながら、戦いながら生きてる自分。
 そんな自分が、優しくなれる時間―――だからこそ自分は、慎二や透子を手放せないのかもしれない。

 「でもホントは、恋愛相談の方があたしは興味あるんだけどなぁ」
 茶化すように笑いながら佐倉が言うと、ちょっと目を上げた透子は、くすっと笑って、軽く反撃した。
 「私や慎二より優先順位が上な男の人が、佐倉さんに現れたら―――目一杯、恋愛相談もするかも」
 「……厳しいこと」
 「だから、頑張って素敵な人、見つけてね」

 ―――頑張っても、10年位、かかるかも。

 そう呟いて、透子に軽く睨まれてしまった佐倉は、本気で10年位かかるかも、と思いつつ、肩を竦めて苦笑した。


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