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17: am8:15

 佐倉みなみの朝は、優雅なバスタイムから始まる。

 起床時刻は、ほぼ毎日朝7時過ぎ。眠たい頭をひっさげて、ふらふらとまず向かうのはリビングで、常にNHKにしか合わせていないテレビを点ける。カーテンを開け、今日の天気を目で確認した後に向かうのが、バスルームである。
 お風呂にお湯を張り終えるまでの時間、NHKの7時のニュースをぼんやり眺めつつピンポイントだけを頭の中に叩き込み、営業先で時事ネタを振られた時の対策完了。全国のニュースが終わって、各地方局からのニュースに変わる7時半には、お風呂の用意ができる。
 ここからが、佐倉の至福タイムである。

 「あー…、極楽」
 マンションを借りる際一番こだわった“脚を伸ばしてもまだ余る位に大きなお風呂”に浸かりきり、佐倉はご機嫌で大きく息をつく。
 7時半過ぎから約40分間にわたって風呂に入り続ける佐倉だが、ちゃんと前日の夜にも風呂には入っている。夜は神経を休めるためにラベンダーなどの香りのするバスソルトを使い、朝は目覚めを良くするためにシトラス系のバスソルトを使う。1日2回が佐倉の基本なのだ。
 今日はちょっと特別な日なので、実際にお湯にゆずの皮などを浮かべていたりする。なので、バスタイムの飲み物も、昨晩作って冷やしておいたゆず茶である。そう―――佐倉は、風呂に入りながら飲み物を飲むのだ。だから風呂場には、飲み物専用の台まで作ってある。あまり贅沢をしない佐倉の、一番の贅沢。それがバスタイムなのである。

 ああ、いい気分。
 大体、朝のバスタイムが充実してる日って、何かいい事があるのよね。幸先いいわ。この分でいけば、今夜は予定通り、お祝いパーティーができるわね、きっと。

 と、お風呂とは全然無関係な―――もっと言うなら、佐倉の体調や機嫌とはまるで無関係な物事の行き先を勝手に想像して佐倉がふふふと笑った時、電話が鳴った。
 風呂好きの佐倉が、風呂で電話を取れるようにしているのは、当然である。佐倉は、湯船から出ることなく、腕を伸ばして、壁にかかった受話器を取った。
 「はい」
 『やあ、おはよう』
 せっかくの上機嫌に、曇りがさす。相手は、事務所の共同経営者―――というか、出資者だ。
 スーパーキャリアを持つ佐倉だが、経営者という立場になれば、まだ若干30の小娘、資金力も経験も不十分だ。いつかはモデル事務所を持つ、と決意したのははるか10年以上前のことだが、たった1人で中堅どころのモデルを複数抱えられるだけの事務所を作ることはやはり不可能だった。で……2、3年前から仕事上で関係の深かったこの人物の協力を得て事務所を作ったのである。
 ビジネスパートナーとしては申し分ない男だが、正直、佐倉はあまりこの人物が好きではない。朝から何よ、と眉を寄せた佐倉は、ゆず茶をテーブルに置いた。
 「ああ…おはようございます。こんな朝早くから電話だなんて、何かトラブルでも?」
 『いや、別に。ただ、今朝になって急に今夜のスケジュールが空いたので、たまには食事でもどうかと思っただけだよ』
 「残念だけど、今夜はあいにく、先約があるから」
 『おや。デートかい、珍しく』
 まさかね、という相手の口調にムッとした佐倉は、相手が目の前にいるかのように、挑発的な笑みを口元に作った。
 「ごめんなさいねー、珍しくて。可愛い可愛い子猫ちゃんとの、大事な約束があるのよ。親の葬式でもない限り、約束優先なの」
 『…ふーん。それは、初耳だった』
 「ランチなら付き合えるけど?」
 『それは無理だな。昼は本業の方の役員会議だ』
 「じゃ、この話はなかったことに」
 『いや、ちょっと待って』
 人のバスタイムをこれ以上邪魔しないでよってば。
 うんざり、という顔をした佐倉は、一旦耳から離しかけた受話器を、諦めたようにもう一度耳に当てた。
 「…なんでしょう、専務」
 『この前の件。検討はしてもらえたかな』
 「―――ああ」
 やっぱり、その話か。気の重さに、思わずため息がもれる。
 「悪いけど―――あたしは、今の事務所で手一杯。実質、1人で4人のマネジメントをやってるのよ? これ以上の余力なんてないわよ」
 『モデル事務所よりは、君の才能を活かせると思うんだがね』
 「買いかぶっていただいて、光栄。でも、あたしは自分の事務所の方が大事なの。あなたの本業よりね」
 『……』
 「出資してるモデル事務所を優秀な社長に任せっぱなしにしてる分、本業は1人で頑張りなさいな。お父様から引き継いだばかりでギスギスしてるのは分かるけど―――あたしが入ったところで、さしたる追い風にはならないんじゃない。頭の固いじーさま連中で大変だろうけど、グラスノスチだかペレストロイカだかを好きなようにやりなさい」
 『…相変わらず、キツいねぇ』
 電話の向こうの男も、ため息をつく。が、ヘッドハンティングが実現しそうにないことは悟ったのだろう。それ以上、しつこく食い下がりはしなかった。
 『分かった。君をうちの役員に迎える案は、とりあえず廃案にしよう』
 「じゃ、そういうことで」
 『ああ、佐倉さん』
 電話を切ろうとしたところで、また、相手が遮った。何なのよ、と眉根を寄せる佐倉に、男は、酷く抑揚のない、バカにしたような口調で告げた。
 『旧ソ連のグラスノスチもペレストロイカも、もう10年前の話だよ。あんまり自然に使うと、歳、バレるから』
 「―――…」
 『じゃあ、また。せっかくのバスタイムに失礼したね』
 「……ええ、またね。二代目御曹司様」
 その瞬間、電話の向こうの気圧が、一気にハリケーンレベルまで急降下した気がした。“二代目”も“御曹司”も、彼にとってはタブーの呼び名だから。
 が、痛み分けと考えたのか、男は反撃することなく、電話を切った。

 「…全く…」
 せっかくの至福の時間を、嫌な男に邪魔されたものだ。忌々しげに受話器を壁掛け型の電話に叩きつけた佐倉は、気分をリフレッシュすべく、残っていたゆず茶を一気に飲み干した。
 ついさっきまでは、最高のバスタイムだったのに―――あの男のせいで、一気に台無しだ。幸先がいいと思っていたのに、幸先の悪い話になってしまった。そう思うと、この分ならきっと大丈夫、と思っていたことも、ふいに不安になってくる。

 ―――ううん、絶対、大丈夫。
 透子は、ここ一番の大勝負に強いんだから。将来かけた大勝負に、勝たない訳がない。

 「…って、あたしが不安がっても、意味ないのよね」
 ポツリ、と呟いたところで、壁に掛けられた防滴時計のアラームが鳴った。8時10分だ。
 名残惜しい気分でバスルームを出た佐倉は、手早くバスローブを羽織り、リビングへ向かった。
 再びテレビをつけると、当然ながら、画面に映るのはNHKだ。朝の連続テレビ小説が始まるが、佐倉は時計しか見ていない。ドラマの筋などまるっきり無視して、時折アップになる女優や俳優の顔をたまに見ては、老けたなぁ、とか、あのメイクはちょっと変だ、とか、あの子も昔はモデルだったのよねぇ、とかポツポツ考えながら、着替えをした。
 メイクと朝食の前に服装だけは整え、朝ドラの終了と同時に、姿見の前で、現役モデルよろしくポージングしてみせる。

 よし、完璧。

 “できる女社長風佐倉みなみ”の下地が出来上がったところで、佐倉は、鏡の向こうの自分にニッと笑ってみせた。


***


 小林荘太と橋本千秋の朝は、ジョギングを兼ねた犬の散歩から始まる。

 「こら、小林! 犬より速く走ってどうするんだ!」
 2頭いる大型犬の片一方に引っ張られながら、千秋が、前方を走っている荘太に怒鳴る。
 リードがピンと張った状態で犬に引かれて走っている千秋とは違い、荘太の方は、リードが完全に緩んでおり、犬とほぼ並ぶ位置関係で走っている。時々、犬を追い越している瞬間もあるのだから、犬と人間どっちがメインの散歩なのやら、さっぱり分からない。
 「えー、だってこいつ、遅いしー」
 「遅くない! こいつらは普通の小走りだ、お前が速すぎるんだ!」
 「先行くぞー」
 「あっ、おいっ!」
 言うが早いか、荘太は自分が繋いでいる犬を軽くけしかけた。すると、千秋の犬とほぼ同じ速度で小走りしていた犬が、競馬のコーナーを抜けた直線よろしく、一気に猛ダッシュを始めた。
 そのスピードに引っ張られ、荘太も、ほぼ全速力で走っていく。これでようやく、犬が人を引っ張る「普通の犬の散歩」になるのだ。ただし、そのスピードが、通常の散歩の倍近いスピードなのが問題だが。
 ―――ば…化け物…。
 体力には自信のある千秋だが、荘太の超人レベルの体力には追いつかない。みるみる小さくなる荘太の背中を見送りながら、通常スピードの犬の散歩に付き合うのが精一杯だ。男女差なのか、それとも荘太がおかしいのか―――ちょっと悔しくなり、千秋は内心、ちっ、と舌打ちをした。


 透子に“合宿”と言った千秋だが、実際、荘太の祖父母の家での居候生活は、合宿の色合いが非常に強い。
 犬の散歩もそうだが、ただで住まわせてもらうのは…ということで買って出た廊下の雑巾かけも、せっかくだから、と荘太に時々橋本流古武道の基礎を教えているのも、日曜日などに荘太と大喧嘩しながら何故か親戚の分も含め10名近くの食事を作ったりするのも―――ノリとしては、完全に、体育会系部活動の合宿だ。
 「ごめんね、荘太のやつ、デリカシーがないから…」と、その様子を聞いた透子は千秋が気を悪くしているのではと気遣っていたが、千秋自身は、自分が完全に男扱いであることに、さほど不満は感じなかった。
 というか―――出会った時からずっとこの調子の関係だったから、同じ屋根の下に住むようになった途端、急に態度を変えられたら、その方が嫌だ。変に意識してしまいそうだし、なんだか荘太っぽくなくて。

 ―――まあ…、そうは言っても、一生この扱いだと、ちょっと困るけどな。
 いや、橋本千秋個人としては、それでも構わないとすら思ってしまうのだが――― 一応“恋”をしている女性としては、ちょっと位見る目が変わってくれるといいな、と思わないこともない。


 千秋がやっと家に着くと、荘太は当然、とっくに到着して、犬を犬小屋にきっちり繋ぎ終えていた。
 「お、結構早かったな、橋本も。さすが」
 「……お前ほどじゃないがな」
 まだはしゃいでいる犬をどうどうと宥めつつ、千秋は軽く荘太を睨んだ。
 「今からでも実業団に針路変更した方がよくないか? 生徒をほっぽり出して、顧問1人がトラックを何周も走ってたら、洒落にならないぞ」
 「失礼だなー。犬は、手加減しなくて済むし、速く走ることに文句も言わないから、遠慮なく全力出させてもらってるだけだぞ。生徒無視で走るの楽しむような顧問にはならないって」
 「…怪しいな」
 「それと。今日のは、昨日投げ飛ばされた仕返しだし」
 ニンマリ、と笑う荘太に、思わず犬を放してしまいそうになる。気まずそうに顔を赤らめた千秋は、
 「あ、あれは―――謝っただろう、昨日のうちに、しっかりとっ」
 と、若干早口にまくし立てながら、犬を犬小屋の横の杭にきちんと繋ぎなおした。
 「大体小林が、急に後ろから近づいてくるからいけないんだ」
 「そりゃそうかもしれないけどさぁ…。驚いたぜ、ほんと。後ろから肩叩いただけで投げ飛ばされるとは思わなかった。挙句に決め台詞が“私の後ろには立つな”って―――ゴルゴ13かよ、橋本は」
 「…すまない。どうも、家にいる時、武留の気配に神経を尖らせていた癖が抜けないらしい」
 「―――武留も、投げ飛ばされてたのか」
 「問題の事件以来、な。多分、投げ飛ばした回数は、軽く両手は超えてる」
 「…あいつ、正真正銘のバカだな」
 そこまで嫌われ警戒されているのに、それでもまだ付きまとっていたとは―――荘太は、懲りない弟の顔を思い出して呆れたように呟いた。
 ちなみにその武留は、千秋の行き先をついに掴んだらしいが、逆上して家を飛び出そうとしたところを母に綺麗に投げ飛ばされたらしい。あの小柄な母に、あのいかつい息子があっさり投げ飛ばされるのだから、武留の跡継ぎへの道は険しい。こんどの昇段試験も駄目だな、と、千秋も肩を竦めてため息をついた。
 「あ、そうだ、橋本。今夜って時間あるか?」
 犬を繋ぎ終え、千秋が立ち上がったところで、荘太が訊ねた。
 「? ああ、一応、5時頃には帰ってきてると思うが」
 「だったら―――まだわかんねーけど、パーティー行こうぜ」
 「パーティー?」
 なんだそりゃ、という顔を千秋がすると、荘太は、縁側越しに見える和室の壁に掛かったカレンダーを目で指し示した。
 「ほら、今日だろ。透子の運命の日」
 「―――…あ、そうか」
 日付と曜日を確認して、すぐに思い出した。
 「今日だったのか。透子本人があまりにサバサバした顔をしてるから、すっかり結果発表のことが頭から抜け落ちてた」
 「そう、俺も忘れかけてたんだ。そしたら昨日の夜、佐倉さんから―――ほら、あの2人の面倒をよく見てる人から連絡があって、結果が吉と出たら、店押さえてパーティーやるから、橋本も誘って来いって」
 「へえ…。ほんとに面倒見のいい人だな」
 「まるで透子の母親みたいに、透子の心配ばっかりしてる人だよ。ああ、工藤さんの心配もしてるから、2人の母親か」
 苦笑の混じった荘太のセリフに、千秋の眉がピクリと動いた。
 「―――なんだか、随分よく知ってるみたいだな」
 「は?」
 「佐倉さんのこと」
 キョトン、と目を丸くした荘太は、やがて、ああ、と納得がいったように頷いた。
 「まーな。2回位、工藤さんと透子も含めて一緒に飲んだことあるし、尾道にいた頃にも会ったし。それに―――俺、あの人と工藤さんがくっついてくんないかなー、って期待してたから、結構しっかり行動パターン観察してたしな」
 「はぁ!? な、なんだ、それは!」
 「…そーゆー卑怯なこと考えてた時代だってあったってこと」
 バツが悪そうに、ぶっきらぼうにそう言うと、荘太はそっぽを向いて縁側へと歩き出した。

 ―――卑怯…、か。
 でも、そういう気持ちは、分からないでもない。
 千秋だって、ついこの前まで、どこかで透子に嫉妬していた。透子に慎二という絶対的な存在がいなければ、透子との間はもっと微妙なものになっていただろう。
 恋は、決して、綺麗な感情だけで出来ているものじゃない。
 カッコ悪い自分や、卑怯な自分、小さくて情けない自分を嫌というほど見せつけられる。それでも“請”わずにはいられない……それが、“請い”―――“恋”だ。

 「…私は、小林の方が、いい男だと思うぞ」
 慰めるためか、何のためか、千秋がそう呟くと、荘太は驚いたように振り向いた。
 「はあ?」
 「いや、その―――透子には工藤さんの方が合ってると思うが、小林の方が勝ってる部分も多々あるぞ、ってことだ」
 すると荘太は、ニンマリと笑って、あっさり答えた。
 「そんなこたぁ、分かってるよ」
 「…そういうところは、直した方がいいと思うがな」
 「そうたーぁ。ちあきちゃーぁん」
 千秋の呆れ声に半分かぶさるように、荘太の祖母の声が、家の中から聞こえた。
 この“千秋ちゃん”というのが、どうにも脱力してしまうのだが―――反射的にぐにゃりとした気分になりながら縁側に目を向けると、祖母が半分顔を出していた。
 「15分になるよー。帰ってるんなら、早く中に入んなさい」
 「はい」
 8時15分には、テレビの前に全員集合して、正座して連続テレビ小説を見るのが、この家の習慣なのだ。
 「透子、受かってるかな」
 「だといいんだけどな―――受かれば将来が拓けて、落ちると就職浪人ほぼ確実って、落差が激しいよなぁ」
 なんてことをボソボソ言い合いながら、荘太と千秋は家の中に駆け込んだ。


***


 井上透子の朝は、工藤慎二を起こすことから始まる。

 「もーっ、しーんーじー!」
 「…んー…」
 「ほらほら、しっかりして!」
 床にあぐらをかいた状態で、ぐらぐらと斜めに傾き始める慎二を見兼ねて、透子はキッチンから舞い戻り、慎二の体をぐい、と押し戻した。
 実は慎二は、周囲が想像するほど「どうしようもない奴」ではない。意外に炊事もできるし、掃除や洗濯もできる。勿論、やってくれる人がいたらやらないのだろうが、その気になればやれる、自立可能な人間なのだ。
 ただし、寝起きに関してだけは絶望的に「どうしようもない奴」である。目覚ましを何個鳴らしても、起きない日は本当に起きないし、起きてもこんな風に半分眠っている状態のまま。多分、血圧が相当低いのだろう。
 「ほらー、頑張れー」
 「…うーん…」
 「ねーってば! ほら、“桃太郎”暗唱して、“桃太郎”」
 「…えー…?」
 「も・も・た・ろ・う! 何か頭使えば、目が覚めるでしょ」
 「…うー…」
 目を瞑ったまま眉根を寄せた慎二は、半分寝ぼけた声で、それでも暗唱を始めた。
 「…むかーし、むかし。…おばあさんが、山へ、柴刈りに……」
 「は?」
 「…行ったら、上流からおじいさんがー……」
 「……」
 「…………」

 ―――寝てる。
 しかも、上流からおじいさんが流れてきてるし。

 おじいさんが、上流からドンブラコ、ドンブラコと流れてくる図を想像して、思わず吹き出してしまった。
 自分でもしょうがないなと思うけれど、こんな時、「しっかりしてよ」という気持ちより、「なんだか可愛い」という気持ちが勝ってしまう。クスクス笑った透子は、傾いてしまった慎二の体を支えると、その顔を覗き込んだ。
 そして―――軽く、唇にキスをした。

 「……」
 ぱちっ、と、慎二の目が開く。
 ビックリしたような慎二の丸い目と至近距離でぶつかり、透子は、いたずらっ子のような笑みを慎二に返した。
 「目、覚めた?」
 「―――…覚めた」
 「牛乳、冷たいのとあったかいの、どっちがいい?」
 「…冷たい方かな」
 「分かった」
 すっと立ち上がった透子は、弾むような足取りでキッチンへと戻っていった。そんな透子の後姿を、慎二は、まだキョトンとしたままの表情で見送り、括っていない長めの髪を掻き上げた。
 そして、暫し後―――大きなため息とともに、後ろの壁に寄りかかった。
 「…透子ってさ」
 「え?」
 「時と場合によって、かなり人が変わるよね」
 笑いを含んだ声でそう言われ、冷蔵庫を閉じた透子は、心外、という顔で振り返った。
 「そお?」
 「かなり」
 「…なんか、やだなぁ、それ。態度に一貫性がないのって、いい加減な感じしない?」
 「いや、そういう意味じゃないけど」
 「…よく分かんない」
 「いいよ。分かんなくて」
 くすっと笑った慎二は、弾みをつけて立ち上がり、自分も朝食の準備を手伝った。


 朝食をとって、少しのんびりすると、大体8時過ぎ位になる。
 4年生になってからの透子は、あまり朝早くから大学に行く必要はないため、朝はゆっくりめだ。だが、ここ1ヶ月ほどは、少々事情が違う。
 「透子って今日、何と何があるんだっけ」
 自身も着替えたり後片付けをしたりしながら、慎二が訊ねる。バタバタと出かける準備をする透子は、えーと、と天井を仰ぎ、指を折った。
 「まず、車校行って学科受けて、昼前の実技受けるでしょ。午後イチで科学館行って、今日はプラネタリウムの案内係で―――帰りに、寄れそうなら本屋行って、参考書仕入れてくる。学校はナシ」
 「忙しいなぁ…」
 「免許取るまではね。慎二は?」
 「オレは今日1日、家」
 「もしかしてまた、あの絵、描くの?」
 そう言う透子の目が、居間の端を大きく占拠しているイーゼルに向けられる。
 100号とまではいかないが、かなり大きなカンバスが乗せられたイーゼル。このところ慎二は、仕事以外の時間の大半を、この絵を描くことに費やしている。が、今は、大きな白い布を上から掛けられていて、何が描かれているかは分からない。
 「昨日の夜だって、結構遅くまで描いてたんでしょ? 部屋で」
 「んー、まあね」
 「…ねえ。これって、何の絵?」
 マグカップを拭き上げる慎二の傍にとととっ、と駆け寄り、探るように見上げる。けれど、慎二の答えはいつもと同じだ。
 「ナイショ」
 「なんでぇ? 気になるよ、これ、すっごく」
 尾道の画家仲間とのグループ展は来年の春だから、ちょっと早いかも、と思う。画廊に今も常に2点程度は絵を置いている慎二だから、画廊のための絵の可能性はあるかもしれない。が、売るために出す絵なので、いつも描くのはもっと小さな、お手頃サイズの絵だ。100号クラスの絵など、ここ最近、見た記憶がない。
 そもそも、この狭い家に引っ越してきてからは、大きな絵を描いたのは、例の震災展のための向日葵の絵が最初で最後だった。やはり、何かの展覧会のために描いている、と考えた方が無難な気がする。
 「“グループ・F”以外のグループ展にでも出すの?」
 「だから、秘密だって」
 「…ケチ」
 ちょっと唇を尖らせる透子だったが、慎二は涼しい顔で笑うばかりで、やっぱり教えてくれる気配はなかった。
 「とにかく、オレは家にいるから、帰る時連絡入れておいで」
 「え、なんで?」
 いつにない言葉に透子が不思議そうな顔をすると、慎二はふっと笑い、拭き上げたマグカップを置いた。
 「受かってたら、一旦家帰るより、そのままお店に直行した方がいいだろ?」
 「―――…」

 あ、駄目だ。

 と思った時は、遅かった。あえて考えないように考えないようにと頭の隅っこに追いやっていたものが、一気に頭の中心に移動してくる。
 「え、透子―――だ、大丈夫?」
 「―――…ダメ」
 急激に襲ってきた緊張にヨロリ、とよろけた透子は、冷蔵庫にぶつかった。
 「あああ、やだやだやだ。なるべく考えないようにしようと思ってたのに―――スイッチ入っちゃった。どうしよー。心臓ドキドキしてきた」
 「え…っ、うわ、ごめん」
 慌てて慎二は、透子の頭をぽんぽんと撫でた。合格発表の日なのに透子があまりに平然としているから、これは自信があるからなんだな、と漠然と思っていたのに―――まさか、緊張しないようにあえて考えるのを避けていたとは。
 「受かってるかなぁ? 今更心配してもしょうがないんだけど、凄い不安で…。ああ、もー、なんで合格発表が郵送なんだろう? 大学受験みたいに受験番号貼り出す方式の方が気が楽だよ。合格通知届くのをじーっと待ってるのって、なんか、凄いプレッシャー」
 「う、うーん…まあ、どっちもドキドキには変わりない気するけどなぁ、オレは」
 「ねえ、慎二っ」
 ひし、と慎二の腕を掴み、透子はギリギリといった表情で慎二を仰ぎ見た。
 「やっぱり今日、本屋やめて、直接帰って来る。時間のロスにはなるけど、やっぱり電話で聞くより、実際に目で確認したいの。だから、合格通知は、絶対開けないで待ってて」
 「…う…ん、分かった」
 「絶対ねっ」
 必死、という形相の透子の迫力に押されて、慎二は1歩後退りつつ、頷いた。
 「ま、まあ、とにかく―――今やきもきしても、郵便物来ないと誰にも合否は分からないんだから。ひとまず、頭から追い出しておいた方がいいよ」
 「が…頑張ってみる」
 「…ごめん。思い出させちゃって」
 「ううん、いいの。慎二が悪い訳じゃないから」
 そう言って笑う透子の顔は、若干青褪め、頬も引き攣っている。
 少しよろめきながら、再び、出かける準備を始める透子を眺めつつ、慎二は、しまったなぁ、と内心深く後悔した。


 8時15分になったら、朝ドラが始まったので、透子が民放の情報番組に変えた。
 ニュースはNHK派の透子だが、朝ドラはあまり好きではない。トップニュースを、情報番組らしいBGM付で流しているテレビをチラチラ見ながら、透子は教本を鞄に詰め、立ち上がった。
 「よし…、と。じゃあ、行ってきます」
 「行ってらっしゃい」
 慎二の声を背後に聞きながら、玄関で靴を履きかけた透子だったが。
 「あ、透子」
 「え?」
 慎二に呼ばれ、反射的に、振り向いた。
 と同時に、慎二に腕を引かれ―――唇に、軽くキスをされた。

 「―――……」
 突然のことに、一瞬、固まる。
 その一瞬が過ぎた後、透子の顔が、一気に真っ赤に染まった。

 「な、な、な、なにっ」
 「緊張しないおまじない」
 「嘘っ。こ、こんなおまじない、聞いたことないっ」
 「でも、さっきのドキドキは、吹っ飛んだだろ?」
 悪びれない笑顔で慎二にそう言われ、返す言葉もない。何か文句を言おうとして開いた口を、透子は諦めたように閉じ、がくりとうな垂れた。
 「…じゃ…、行ってきます」
 「うん。行ってらっしゃい」
 満足げな笑顔の慎二に見送られ、透子は、まだ顔が赤いままで、家を出た。

 ―――緊張のドキドキは吹っ飛んだけど、他のドキドキが収まらないから、意味ないじゃないっ。

 日頃、あんなこと、滅多にしないくせに―――こういう時ばかり心をかき乱す慎二に、透子はちょっと悔しくなった。

 


 「―――…ほらね」
 ドアが閉まって数秒後、慎二は、苦笑とともに、そう呟いた。

 オレが寝てるか寝ぼけてるかしてる時限定で、ああいう真似ができる小悪魔に変身するんだよなぁ、透子は。
 起きてると、こんなキスひとつで、あの有様だけど。ホント、時と場合によって、態度が180度違うよなー…。

 キス以上のこともしてる仲なのになぁ、と不思議な気もするが―――そのギャップが、透子らしいと言えば、透子らしいのかもしれない。
 くすっと笑った慎二は、大きく伸びを一度すると、踵を返し、描きかけの絵へと向き直った。

 


 それぞれに試験の行方を心配していた人々が、透子から気象予報士試験合格の報せをもらい、合格祝いのパーティーに集うのは、それから12時間後のこと。

グラスノスチ(情報公開)・ペレストロイカ(体制再構築)=いずれも旧ソ連でゴルバチョフ政権時代行われた改革運動


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