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20: 掴めぬ虹  

 マグカップを手に、慎二が戻ってくると、すぐ傍で「ピピッ」という電子音がした。
 「何度だった?」
 ゴトン、とカップをテーブルに置きながら訊ねる慎二に、透子は、シャツの隙間から体温計を引っ張り出して、気が進まない様子でその数字を読み取った。
 「……37度2分」
 「うーん…微熱か。続くなぁ」
 さすがに、心配になって、眉を寄せてしまう。けれど、透子はさして気にしている様子も見せず、さっさと体温計をテーブル脇に置き、パンにマーガリンを塗り始めてしまった。
 「やっぱり、病院に行った方がいいんじゃないかな」
 「こんな微熱位で行ったら、笑われちゃうよ」
 「そうは言うけど…もう、2週間以上続いてるだろう?」
 そうなのだ。
 透子は、2週間ほど前から、こうした微熱がずっと続いている。風邪かな、と最初の1日2日は早めに寝ていたのだが、卒業研究も追い込みに入り、あまり悠長にしていられないらしく、ここ2、3日は夜遅くまで机に向かっている。慎二は、体を壊したら元も子もない、と思うのだが、透子自身は「微熱程度だから」と取り合う様子がないのだ。
 「この位の熱、慎二だってしょっちゅう出してるじゃない」
 「…う…、まあ、オレは、オレだし」
 「だーいじょうぶ。心配ないから。卒研追い込みってことで、バイトの日数減らしてもらってるんだし」
 「―――とにかく、無理はするなよ?」
 「うん」
 返事だけはいいのだが―――透子の“無理”は尋常の“無理”ではないから、“無理しない”でも十分無理の領域に入っている可能性は高い。大丈夫かなぁ、という顔で透子を一瞥した慎二は、小さくため息をついて、自分もパンにマーガリンを塗り始めた。
 「透子は今日は、バイト?」
 「ううん。でも、ちょっと出かけてくるかも。…慎二は?」
 「締め切り近いからなぁ…。カンヅメかな」
 「大変だね」
 雑誌の表紙の仕事が、いい色が出なくて、少々難航しているのだ。パンを齧りながら、傍らに立てかけてあるアートボードをチラリと見て、透子も少し眉をひそめた。

 そこで少し、会話は途切れた。
 朝のニュースが流れる中、それぞれに黙々と、朝食を頬張っていたのだが。

 「―――…あの…、慎二」
 「ん?」
 躊躇うような透子の声に、ちょうどカフェオレの入っているマグカップを口に運んでいた慎二は、そのまま、少し首を傾げるように透子の方を見た。
 透子は、両手でマグカップを包んで、どう表現していいか分からない表情で、慎二の顔を見ていた。何か言いたそう、というか、でも言いたくなさそう、というか―――そういう透子の表情は、昔は時々あったけれど、最近ではちょっと珍しい。
 「? どうかしたの」
 「……」
 「…………」
 何か言いかけるように開いた透子の唇が、きゅっ、と結ばれる。見れば、慎二とほぼ同時に食べ始めた筈のパンは、半分ほどしか手を着けられていない。やはり具合が悪いのだろうか、と慎二が心配になった刹那、唐突に透子は、表情を一変させた。
 「…っと、ううん、なんでもないの」
 「え? でも」
 「ホントに! なんでもない、ごめん」
 ―――それが、なんでもない、って態度かなぁ…。
 わざとらしくテレビに目を向け、株価の終値なんてどうでもいいものを注視する透子に、慎二は余計、不安になった。
 何か心配事でもあるのだろうか―――そう思って改めて訊こうと慎二は思ったが、テレビで気象情報が始まってしまったせいで、タイミングを逸した。
 「あ、今日の気圧配置、関東地方は結構不安定だなぁ。傘持って行かなきゃ。気温も低そうだから、慎二、家でカンヅメするならあったかくしててよ?」
 「…はいはい」
 そんな会話を挟んだことで、透子が言いかけたことは、どこかへと霧散してしまったのだ。


***


 ―――やっぱり、千秋にしとくべきだったかな。
 ここまできて、急激に後悔と不安が押し寄せてくる。透子は、ドアノブに掛けようとした手を止め、唇を噛んだ。

 いくら佐倉が「ランチタイムなら遠慮なくいらっしゃいよ」と言ってくれたからとはいえ、佐倉は仕事中なのだ。ランチの時間だって、大事な時間だろう。透子の相談事に乗ってる暇など、本当ならない筈だ。
 けれど、休日になるまでじっと待つだけの余裕が、今の透子にはなかった。
 一刻も早く、信頼できる人に相談しなくては―――そのことばかり、頭の中でグルグル回っている状態だ。

 …やはり、千秋には相談できない。こんな時、佐倉しか思いつかない。頼れる“大人の女性”は。
 意を決し、透子は顔を上げて、ドアノブを回した。
 「こんにちはー」
 過去に2度ほど訪れたことのある、佐倉の事務所。大きな姿見があったりするのが、モデル事務所ならではだろう。タイルカーペットの敷かれた事務所内は、オフィスというより談話室のようなオシャレな空間だ。
 そこには、佐倉だけがいた。事務所の一番奥にある大きめのデスクに座って、何かの書類を見ている最中らしい。透子の声に反応して、ぱっ、と顔を上げられた顔は、透子の顔を見るなり、艶やかな笑顔に変わった。
 「ああ、いらっしゃい、透子」
 「佐倉さん1人なの?」
 「今はね。アルバイトの子、あと10分位で戻るから、それまではいい?」
 電話番その他のために、アルバイトの女の子を1名雇っているのだ。多分、ちょっと時間をずらして昼食を買いに行っているのだろう。透子は笑顔を作り、軽く頷いた。

 ドアを閉め、所在なさげに部屋の中をうろつく。
 覚悟を決めて来た筈だけれど、アルバイトの子が来るまでの10分という中途半端な時間に苛立つ。今すぐ話すべきか、それとも彼女が来てから―――佐倉とランチに出てからがいいのか。
 「それでー? 相談事って、何?」
 透子の迷いを断ち切るように、書類を見ていた佐倉が、明るい声で訊ねた。
 ドキン、と心臓が鳴り、一瞬、足が竦む。オフィスの中央に立ち竦んだ透子は、ぎこちない様子で佐倉の方を振り返った。
 ちょうど、書類を読み終わったところなのだろう。手にしていたA4サイズの紙を脇に置いた佐倉は、立ち上がり、いつも通りの笑みを透子に向けた。
 「恋愛相談は千秋ちゃんにするって言ってたから、バイトか大学の話? あ、卒研で煮詰まってるとか?」
 「……」
 「透子のゼミの教授、誰だっけ。地学のなんとかいう教授、生半可な優等生論文じゃ喜んでくれなくて、結構苦労するって聞いたけど、あれはただの―――…え!?」

 佐倉の目が、ギョッとしたように見開かれた。
 何故なら―――透子の大きな目に、突如、涙が浮かんだから。

 「と…透子? ちょっと、どうしたの! 一体!」
 「……佐倉さん」

 透子の瞬きと同時に、涙が、零れ落ちた。


***


 昼下がりの部屋に、電話の音が鳴り響いたのは、慎二が下書きの最終チェックを終える直前だった。
 編集部からの電話かな、と思いながら受話器を取った慎二だったが、そこから聞こえてきたのは、まるで想像しなかった人物の声だった。
 「はい、工藤―――…」
 『慎二君!?』
 スピーカーがハウリングを起こしそうな大音量に、思わず受話器を耳から遠ざけた。
 あまりの声の大きさに、一瞬、聴力が麻痺しかけたが、短い言葉からでもそれが佐倉の声であることだけは分かる。
 「さ…、佐倉、さん?」
 『慎二君ね!? 今すぐ、あたしのマンションに来て!』
 「は?」
 何故、マンションに?
 平日の昼間だ。佐倉だって仕事中だろう。事務所に、ならまだ分かるが、何故自宅になのか、慎二にはさっぱり分からない。
 「あ、あの…、何、どうしたの」
 『どーしたもこーしたもないわよっ! 理由はいいから、さっさと来る!』
 「…そう言われても…」
 『透子が倒れたのよ!』

 その一言に、慎二の顔色が変わった。

***

 忙しなくインターホンを鳴らした10秒後、開いたドアから覗いた顔は、何故か怒りを湛えた表情だった。
 「と…っ、透子は?」
 「…寝てる。とりあえず入って」
 佐倉はそうそっけなく言い放ち、先に立って部屋の中に入ってしまった。怒りの表情の意味がよく分からない慎二だったが、仕方なく、ドアを閉め、佐倉の部屋に足を踏み入れた。
 佐倉が促すままついて行くと、佐倉の寝室らしき部屋に通された。その中央、セミダブル位のベッドに横たわっている透子を見つけて、家からここまで張り詰めていた緊張の糸が切れた気がした。
 ―――と…とりあえず、大事には至ってないみたいだな…。
 眠っている透子の顔は、顔色もいいし、苦しそうでもない。大きく息を吐き出した慎二は、部屋のドアに手を掛けたまま、全身の力をやっと抜くことができた。
 「…倒れたって聞いて、酷い病気か何かかと思った…」
 「バカね。もしそうなら、救急車呼んでるでしょうが」
 佐倉はそう言うが、慎二にはトラウマがあるのだ。
 授業中、突然、先生が慎二を呼び出して言った言葉―――「お兄さんが倒れたそうだ、もう授業はいいから、早く戻りなさい」。…怖かった。多恵子を愛した時も、透子が倒れたと聞いた時も。もう誰も失いたくない―――あんな思いは、もうごめんだ。
 ドアの端を掴む手が、無意識のうちに、震える。そんな慎二を見て、少し怪訝そうに眉をひそめた佐倉だったが。
 「…ま、いいわ。とにかく、そこ、座って」
 ダイニング兼居間のテーブルセットを目で指し示し、自らもその一角に座った。やっと落ち着いた慎二も、それに倣い、佐倉の向かい側の席に着いた。

 「けど、知らなかった。透子が今日、佐倉さんに会いに行ってたなんて」
 「―――今朝、電話があったのよ、携帯に。なんか相談事があるから、ちょっとの時間会って欲しい、って言われてね。ほかならぬ透子の頼みだから、喜んでOKしたってわけ。と言っても、あたしも仕事あるから、うちの事務所で、ランチタイムを利用して、ってことになったんだけどね」
 「事務所で? でも…」
 じゃあ何故、佐倉の家で倒れているのだろう? 辻褄の合わない話に慎二が怪訝な顔をすると、佐倉は大きなため息をつき、苛立った様子でテーブルの上の煙草に手を伸ばした。
 「煙草、いい?」
 「どうぞ」
 ―――話し難い話、かな。
 余裕のない様子で、バージニアスリムを1本取り出して口にくわえる佐倉を眺めつつ、チラリとそう思う。佐倉が喫煙者以外の前で煙草を口にするのは、動揺を抑え落ち着きたい時だと、相場が決まっているから。
 煙草に火を点けたライターをパチン、と閉じ、煙を吐き出した佐倉は、疲れたように天井を仰いで、暫し目を閉じたまま黙っていた。やがて、少し落ち着きを取り戻したのか、佐倉は目を開け、慎二を真っ直ぐに見据えた。
 「ちょっと、訊くけど」
 「うん」
 「かなり訊き難い上に答え難くもある質問だと思うけど、正直に答えて」
 「うん……?」
 「慎二君、透子に何かとんでもないことを望んだりした覚え、ない?」
 「は?」
 とんでもないこと?
 ぱちくりと目を見開いた慎二は、即座に首を振った。記憶を掘り返すまでもなく、そんな覚えはまるっきりない。
 「ない、けど」
 「本当でしょうね」
 「…ないよ。透子には普段から“もっと我侭言って”と言われている位だから」
 「……」
 「というか、何? とんでもないこと、って」
 本当に分からなくて慎二が訊ねると、佐倉は、少しうろたえた表情を見せつつも、ぶっきらぼうな口調で言い放った。
 「…例えば、“早く子供が欲しい”、とか何とか、そんなこと」
 「―――…」
 一瞬、聞き違えかと思った。
 だが、どうやらそうではないらしい事を察して―――慎二は、思わず席を立ってしまいそうになった。
 「えぇ!? な、何それ!」
 「何それはこっちよ! それ以外どー考えりゃいいのか、あたしにはさっぱり分からないっつーのよっ!」
 「ないない、絶対ないって! まだ透子は大学生だろう!? 結婚だってしてないし、そんな話が出る訳ないじゃないか! それに……」
 それに―――あり得ない話だ。そんなこと。こと、慎二に関しては。
 けれど、さすがにそれを口に出すのはまずい気がした。勢いで口にしてしまいそうになった言葉を、慎二は慌てて飲み込んだ。
 「…と、とにかく、オレはそんなこと、言ったことは一度もないよ?」
 「……」
 「…てか……、え? “それ以外どう考えればいいのか”、って……?」
 「―――いいわ。事情を説明してあげる」
 どうやら本当に言った覚えはないんだな、と判断したのだろうか。ため息をついた佐倉は、そう言って、手にしていた煙草を忙しなく吸い、半分ほど残して灰皿に押し付けた。
 そして、キッ、と慎二を睨み据え、感情を押し殺した声で、淡々と説明を始めた。

 「透子が事務所を訪ねて来たのは、12時ちょっと前。相談事って何よ、とあたしが訊ねたら、透子……急に、泣き出して」
 「えっ」
 「泣きながら、言うのよ―――“佐倉さん、どうしよう、もしかしたら、赤ちゃんができたかもしれない”って」
 「……」
 「…来るべきものが来ない、ってことよ。ついでに、食欲もなくて、微熱が2週間も続いてる。悪阻(つわり)のような症状もある。そんな筈ない、って思うけど、考えれば考えるほどそんな気がしてきて、どうしていいか分からない、って」
 そんな筈、ない。
 真っ白になりかけた頭の片隅、まだ冷静な部分の慎二が、その言葉に深く頷く。そんな筈はない―――もし本当なら、自分が生き残ったこと以上の奇跡だ。
 「そ…、それで?」
 「決まってるじゃないの。有無を言わさず、産婦人科に連れてったわよ」
 「結果は?」
 「―――そこが、大問題」
 ため息混じりに言った佐倉は、長くなりかけた髪をだるそうに掻き上げた。
 「物理的に言えば、透子の勘違い」
 「物理的?」
 「そう、物理的。単に、ストレスや疲労から、周期が乱れてただけ。どこにも赤ちゃんなんていなかった―――それが、現実よ。でもね、慎二君。透子の基礎体温は上がってたし、いわゆる悪阻の症状も出ていたのも事実よ。そういう症状だけで言うなら、透子の体はまさに、妊娠したような反応を示してたの」
 「……どういう、意味?」
 「分からない?」
 そう言って佐倉は、少し間を置いて、ゆっくりした口調で告げた。
 「医者(せんせい)曰く―――“想像妊娠”ですって」
 「……」
 「聞いたことあるでしょ。子供が欲しい欲しいと思ってる女性には、たまにあることよ。でも、透子は“どうしよう”って泣いてた―――子供が欲しいと思い詰めてるようには見えなかった。だからあたしは、慎二君が何か言ったんだろうと思ったのよ。あの子は、キミが望めば、何が何でもその望みを叶えようと思い詰める子だから」
 「……なんで…」

 なんで、そんなことを。
 上手く、声が出なかった。あまりにも思いがけない話に。

 「―――ねえ。本当に、透子を追い詰めるようなこと、なかったの?」
 「…分からないけど、」
 呟くようにそう言って、慎二は一瞬、言葉を切った。視線を彷徨わせ、僅かに躊躇した後、諦めたように続きを口にした。
 「分からないけど―――佐倉さんが想像するようなことは、オレは絶対言わない。…というか、言えない」
 「言えない?」
 「無理、だから」
 「え?」
 「…どんなに望んだところで、オレ、子供は残せないから。小さい頃患った病気のせいで」
 佐倉の表情が、さすがに、変わった。
 「本当なの、それ」
 「うん」
 「…透子も、知ってるんだ、それ」
 「…うん」
 「知ってて―――慎二君を選んだわけか、あの子は」
 納得したようにそう呟き、佐倉は大きく息をついて、背もたれに深くもたれた。
 「なぁるほどねぇ……。そういうことか」
 「何?」
 「これでやっと、全てに納得がいったわ」
 「納得?」
 「慎二君。2週間位前に、何かその件について触れた記憶、ない?」

 2週間位前―――…。

 改めて、記憶をめぐらせた慎二は―――あることを思い出し、思わず息を呑んだ。

***

 それは、2週間と少し前―――そう、ちょうどピンホールカメラを作った週の、土曜日のこと。
 慎二と透子の部屋を、とある家族が訪れた。慎二の高校時代の同級生・小森と、その妻子である。
 小森は、高校時代は慎二同様美術部に属しており、卒業後は、家を出た慎二と共同生活を送った仲間だ。慎二が尾道へ行った後も、残った仲間と暫く共同生活を送っていたが、慎二の上京を待たずして独立し、今年の春、いわゆる“できちゃった婚”をした。互いに自由人同士で、あまり行き来したこともなかったのだが、このほど無事子供が生まれたこともあり、初めて慎二達の家を訪れたのだ。

 「きゃーっ! かーわいいーっ!」
 小森夫妻が連れてきた、まだ生まれて間もない赤ちゃんを見て、透子は涙を浮かべんばかりに感激して声を上げた。
 可愛い愛娘に感動しまくる透子に、小森もその妻も満足げだった。特に小森の妻は、自らがかなり大柄なせいもあって、小さな透子をやたら気に入ったらしい。
 「よかったら抱いてみる? この子、結構おとなしいのよ」
 「えっ、いいんですか?」
 「どうぞどうぞ。ほら、そーっとね」
 透子は、生まれたての赤ちゃんを、随分危なげない様子で小森の妻から受け取った。そしてしっかり腕に抱くと、嬉しそうに赤ちゃんの背中を軽く叩いてあげた。
 「あらー。透子ちゃん、上手なのねぇ」
 「ああ、弟が生まれた時―――出産後に、母の体調があんまり思わしくなかったから、2、3ヶ月までは私が抱っこしてばっかりいたの」
 当時、透子は、まだ8歳かそこらだった筈だ。よく新生児を抱いたりできたものだ、と、大人3人は感心した。

 「なんだよ、工藤。可愛い子じゃん」
 絵を見せてくれ、という小森を慎二が自分の部屋に招き入れると、小森は、肘で慎二をつつきながら、ヒソヒソ声でそう言った。
 「ちょっと目の辺りは、多恵子ちゃんに似てるな。お前、ああいう大きな目に弱いんだなぁ」
 「…いや、そういう訳じゃないんだけど…」
 「どうすんの、この先」
 「どうする、って?」
 「滅多に彼女とか作らなかったお前が、一緒に暮らしてる位なんだから―――真剣に考えてるんだろ? 結婚とかさ」
 そう言って小森は、ドアの間から見える、妻と子と透子の様子に目配せした。
 「確かにいいお母さんになりそうな子だよなぁ。うちの奥さんより、子供抱いてる姿がさまになってるよ」
 「……」
 「あれ? 何、そこまで考えてないの?」
 「―――考えてるさ、勿論」

 考えているに決まっている。
 そこまで考えたからこそ、一歩踏み出す勇気を持ったのだから。

 自分が慎二を幸せにするのだ、と―――そう宣言した透子の揺るぎない想いに、逃げ続ける自分には終止符を打とうと決意できた。自分と生きることが幸せなのだと、透子自身がそう言うのなら―――“普通の幸せ”よりも、その気持ちの方が重要だと思ったから。
 けれど。
 けれど、それでも……時々、透子が選択できる別の道を思い、胸が痛む。
 慎二を選ぶことは、“普通の幸せ”を捨てることを意味する。いくら本人がそれでいいと言っても―――本当にそうしてしまっていいのか、と、時々立ち止まってしまう。残酷だと言われてもいいから、透子の手を放し、他の男に渡すべきなのではないか。慎二ほどには愛することはできないにしても、透子が好きになれる男は、まだ他にいる筈だ。それなら…想いの強さより、穏やかで賑やかな人生を選ばせてやるべきなのではないか。…そんな風に、ふと思ってしまう。
 きっと透子は、いい母親になるだろう。今は実感はないだろうが、それなりの歳になれば、子供のいない人生を寂しく思うかもしれない。それに、子供好きだ。
 本当に、いいのだろうか―――透子の言葉に決意を固めた今も、やはり、僅かな迷いは残っている。その迷いが、こんな時、ふと顔を出してしまうのだ。


 小森夫妻が帰っていった後、あんなことを口走ってしまったのも、その迷いが頭をよぎったせいだ。

 「透子にはやっぱり、あんな可愛い子供がいる人生の方が、似合うのかもしれないなぁ…」
 片づけをしながら無意識のうちに呟いたその言葉に、透子は振り返り、少し硬い表情で慎二をじっと見つめた。
 「…どういう意味?」
 「深い意味はないよ。赤ちゃんを抱っこしてた姿がよく似合ってたから、そう思っただけで」
 「……」
 透子の目が、少し悲しそうに歪む。
 「似合うかどうかなんて、どうでもいいじゃない。私は、慎二の傍にいられれば、それでいいんだもの」
 「うん―――ごめん。分かってる。ただ……オレにはあげることが出来ない“幸せ”だから、さ。時々…そんな自分が悲しくなるだけだよ」
 「悲しいなんて思わないで!」
 鋭い声でそう言うと、透子は慎二の元に駆け寄り、その胸に抱きついた。
 「信じて……私は、どんな幸せを捨ててでも、慎二といる幸せを守りたいの。世界中の幸せを持ってきても、慎二の傍にいる幸せとは引き換えにできない―――財産も、安定も、子供も要らない。そんなものがあっても、慎二がいなきゃ意味がないじゃないっ」
 「…ご…ごめん、分かってるよ」
 「ホントに?」
 「うん…本当に」
 「じゃあ、そんな風に言わないでよ…」
 「うん…。ごめん」

 透子の言う“幸せ”を、ちゃんと理解してる。それでいいと、慎二だって思っている。
 それでも―――迷いは、簡単には消えない。ただそれだけだ。透子の言葉を疑っている訳じゃない。ただ…時々、罪悪感を覚えるだけ。透子に捨てさせなければならない“可能性”の、あまりの大きさに。

 そう透子に告げたけれど―――透子は、離れるのを怖がるみたいに、なかなか慎二を放そうとはしなかった。いつまでもいつまでも、慎二にしがみついたまま、不安そうに小刻みに震えていた。

***

 「―――思い当たる節があるわけね」
 慎二の表情の変化を読んで、佐倉が軽く眉を上げた。観念した慎二は、目を上げて、目だけで頷いてみせた。
 「…友達の子供を抱いてる透子を見て、ちょっと―――そういう幸せをあげられない自分が情けない、って言って、透子に怒られた」
 「ふーん。なるほどね」
 うんうん、と納得したように頷いた佐倉は、腕組みをして慎二を睨んだ。
 「キミがそんな事言うから、透子は不安になっちゃったんじゃないの? いつかキミが、透子に“普通のお母さんになって欲しい”なんて希望を押し付けて、透子を自分から引き剥がそうとするんじゃないか、って」
 「……」
 「実際、そういう理由で、あの子を拒み続けてたんでしょ? キミは。あの子だって、自分の覚悟のほどをキミに理解してもらえた、と思ってはいても、どこかでいつも不安なんだと思う。“透子の幸せ”より“普通の幸せ”をキミが優先するんじゃないか、って……ずっと、不安だったのよ。だから、その可能性にキミが触れたせいで大きな不安がぶり返しちゃった時から、無意識のうちに、奇跡を願ったの」
 「奇跡?」
 「“透子が望む幸せ”とキミの言う“普通の幸せ”を、両立することを、よ」
 「……」
 「キミの傍にいながら、普通のお母さんになること―――つまり、キミ自身の子供を授かることを」

 奇跡を―――…。

 慎二の子供さえいれば、慎二は傍にいることを許してくれるだろう―――自分が望む「慎二の傍にいる」という幸せを、子供さえ生まれれば、慎二も認めてくれるだろう、と。
 傍にいたい、傍にいたい―――願い続けて、透子は、実在しない子供を宿したのだ。子供自体は望んでなどいないのに―――どうしよう、と泣きながらうろたえるほどに、望んでいないのに―――ただ慎二の傍にいたいがために、慎二の子供という空想を創り出す。その望み故に、体温が上がり、まるで母親のような体へと“本当に”変化する。

 人間の―――いや、女性の持つ、不思議な力に、慎二は圧倒された。
 その不思議な力を持つ透子に―――圧倒されてしまった。
 「…想像妊娠って結果にショックを受けて落ち込んでる透子を、そのまま帰すことができなくて、ここに連れて来たのよ。そしたら透子、泣き出して―――気が緩んだせいで、熱が一気に上がっちゃったみたいで、倒れちゃったのよ」
 「…そ…う、なんだ」
 そう相槌を打つので、精一杯だ。そんな慎二の様子を見て、佐倉は、くすっと笑った。
 「そうそう。倒れる前に透子、凄いこと言ってたわよ」
 「凄いこと?」
 眉をひそめる慎二に、佐倉は、口の端だけを綺麗に上げた。けれど、その口から飛び出した言葉は、笑みには似つかわしくない衝撃的なものだった。
 「いっそ、子供なんて産めない体ならいいのに―――だって」
 「……」
 「事情知らなかったから、あたし、子供嫌いな透子に慎二君が子供が欲しいって迫ったのか、なんて馬鹿なこと想像して、腹立てちゃったけど―――今なら分かる。あの子がなんでそんなこと言ったのか。…母親になれる可能性を捨ててでも、キミの傍にいたい、って意味の言葉よ、あれは」

 その可能性故に、慎二が手を放そうとするならば―――そんな可能性は、いらない。

 『その人にとってだけの“幸せ”ってものがあるんだと、私は思うんです。その“幸せ”に対して、“普通の不幸”がどれだけ対抗できるか―――そのキャパシティもそれぞれだと思う。簡単に覆る“幸せ”もあれば、世界中の“普通の不幸”を持って来ても覆らない“幸せ”もある。そのキャパシティは、他人には分からない―――決めるのは、本人だけなんだと、そう思うんです』

 かつて、そんな話を語ってくれた、瑞樹の恋人を思い出す。
 それぞれのキャパシティ―――慎二には測れない、透子のキャパシティ。けれど……思い知らされる。透子の言葉に。彼女のキャパシティは、慎二には想像ができないほどに大きいのだ、と。
 「あの子の世界には、キミしかいないのよ、本当に」
 「―――うん。分かる」
 「分かるだけじゃ、ダメなんじゃないかな」
 そう言って佐倉は、新たな煙草を手に取った。
 「分かってる、ってことを形にして示してあげないと―――また何かある度に、不安にさせるんじゃないかな。キミには前科があるからね」
 カチリ、とライターをつける音がして、煙草の先に火が灯った。
 「…前科、か」
 確かに、前科は飽きるほどある。透子の気持ちに気づかないフリをし、透子を置き去りにし、透子を愛してると言いながら突き放した―――そんな前科が。その前科が、透子を追い詰めている。
 「次、泣かしたら、あたしが許さないよ。慎二君」
 煙を吐き出しつつ軽く睨む佐倉に、慎二は、バツの悪そうな苦笑を返した。


 形にして示す―――…。
 言葉だけでは、透子を不安にする。ならば―――どんな方法があるんだろう?

 大体キミがしっかりしてないから、といつものお説教を始める佐倉に付き合いながら、慎二は、頭の片隅で何度も自問した。
 どうすれば―――どうすれば、透子に分かってもらえるだろう。自分も、透子が想うのに負けないほど、ずっと透子の傍にいたいと願っているのだということを。


***


 朦朧とした世界から目覚めたら―――すぐ傍に、慎二の顔が見えた。

 「―――透子」
 「……」
 見慣れた天井。見慣れた壁。佐倉の部屋で倒れた筈なのに―――ここは、自分の部屋だ。
 「…わ…たし…」
 「覚えてないかな。タクシーで帰って来たんだけど」
 「…ごめん…、全然、覚えてない」
 「―――気分は、どう?」
 「…だるい」
 けれど、ここ最近の胃のむかつきも、のぼせたような熱さも感じない。とてつもないだるさと疲れを感じるばかりだ。
 そのことは、説明しなくても、慎二には分かっているらしい。透子の顔を覗き込む慎二の表情は、今朝見た心配そうな顔ではなく、いたって普段通りの、穏やかな表情だ。多分……聞いたのだろう、佐倉から。ことの顛末の全てを。
 「もう少し、眠った方がいいよ」
 優しい手が、髪を梳いてくれる。
 でも透子は、素直に目を閉じる気にはなれなかった。慎二の手が離れてしまう前に、布団から手を出し、離れかけた手を必死で握った。
 「…ここに、いて」
 「……」
 「呆れたよね―――重たいよね、きっと。でも、お願い……ここに、いて」
 「……うん」
 ふわりと、慎二が微笑む。
 そして、ベッドの傍らに腰を下ろし、両手で透子の手を包んでくれた。
 「オレは、どこにも行かない」
 「……」
 「世界中の人が許さないって言っても―――オレは、透子の傍にいるよ。信じて」
 「…慎二…」


 どこにも、行かないで。
 傍にいて。ずっと傍にいて。もう二度と―――ひとりきりに、なりたくない。


 慎二の手の温かさに、心が、ほどける。安心したように伏せられた透子の目から、一筋、涙が零れ落ちた。


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