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21: 瑪瑙(めのう)  

 小さい頃、将来の夢を訊かれたら、何も考えずに“花嫁さん”と答えていた。
 旦那様がいて、小さな子供が2人いて、黄色いセキセイインコを1羽飼っていて―――そういう図を、当たり前のように思い描いていた。別に、そんな将来を心から望んでいた訳ではなく、ただ……それが“普通”だったから。
 成長するにつれ、そんな曖昧な夢はどんどん別の夢に置き換わる。時計職人になりたい、パン屋さんになりたい、数学者になりたい、英語の先生になりたい―――気象のプロになりたい。幼い頃の無邪気な夢は、より具体的で、より切実な夢に塗りつぶされ、今ではちっぽけな夢の欠片しか残っていない。
 22歳になった私の一番大きな夢は、やっぱり“花嫁さん”。
 ただし、ただの花嫁じゃない。“慎二の花嫁さん”―――それ以外の花嫁はあり得ない。
 小さな子供も、セキセイインコもいらない。そんなものはどうでもいい。慎二がいなければ―――それが叶わなかったら、どんなにそれが“幸せそう”な絵でも、私にとっては地獄絵にしかならない。100人中100人から「お前は不幸だ」と言われたって、慎二といられれば、それだけで私は幸せだから。

 幸せって、何だろう?
 凄く凄く、主観的なことなんじゃないかな、と、私は思うのに―――何故この世には、“普通の幸せ”なんていう基準値があるんだろう?
 あと1日しか命のない人を、人はみんな不幸だと言う。可哀想だ、気の毒だと言う。けれど本人は、もしかしたら世界中で一番幸福を感じている人かもしれない。その人ほど豊かに生き、満足した気持ちで最期を迎えられる人はいない、というほどに。
 優しくて経済力があって誠実な旦那様と結婚して、子育てしながら優雅に暮らしている女性を、人は“幸せもの”だと言う。羨ましい、そんな風になりたい、と言う。けれど本人は、世界中で一番不幸な人間だと思っているかもしれない。満たされなくて満たされなくて、生きるのが辛いほどに苦しんでいるかもしれない。
 誰にも分からないんだ。その人の本当の幸せなんて。
 本人にしか分からない―――本当の幸福、本当の苦しみ、本当の希望は。

 でも、慎二にだけは、分かって欲しくて……なのに、慎二は時々、苦しそうで。そんな慎二を見てると、いつか……いつか、この手を放してしまうんじゃないか、って、怖くて怖くて。
 だから無意識のうちに、あんな奇跡を作り出してしまったんだ。私は。

 現実にはいない、小さな小さな命―――自分の望みを叶えるために、そんな幻を作り出してしまった私を、私は、世界で一番卑怯な人間だと思った。


***


 「はい、もう1回提出」
 ぽん、と教授から手渡された論文には、赤ペンで何箇所かチェックが入っていた。
 「だ…駄目、ですか」
 「んー、駄目じゃないよー? なかなかいいよ。データは正確だし、理論の発展性もよろしい」
 昆布茶をずずっ、とすすりながら、教授はそう言い、ニッコリと笑った。
 「でも、なんていうかねー。浪漫が欲しいのね、浪漫が」
 「…ロマン?」
 「日頃のキミらしさっていうかねー、変に真面目に書こうとしないで、生の声をレポート用紙に書き殴っちゃって欲しいのね。気象は浪漫ですよ、浪漫!」
 「…はあ…」
 ―――なんか…私の周りって、こういう人がやたら多い気するなぁ。
 江野本先輩しかり、その伯父である江野本社長しかり、そしてこのゼミの教授しかり―――天気図を見て「ロマンですねー!」と握りこぶしで力説するような輩ばかりが揃っている気がする。それとも、気象の世界の人間では、これがスタンダードなのだろうか。
 「卒研だからって、型にはまった書き方することはないんだから。去年の卒業生の中には“俺は台風にエナジーを感じるぜ!”なんて文体で卒業した奴もいるんだよ」
 「うわー…、凄いですねぇ…」
 「ま、僕のゼミだから通ったんだろうけどね。キミも台風にスリルとパッションを感じるタイプだし、せっかくうちのゼミ取ったんだから、もっとパワフルな論文にチャレンジしてみなさい。まだ時間があるし」
 「頑張ります」
 「うんうん、頑張ってね」
 …もしかしたら、先日、佐倉が言っていた「生半可な優等生論文じゃ喜んでくれない教授」とは、この教授のことだったのかもしれない。
 でも、面白い―――透子はくすっと笑い、論文を胸に抱いて頭を下げた。


 「…あ、井上」
 研究室を出たところで、やはり論文を見てもらいに来たらしい露村と鉢合わせしてしまった。
 2ヶ月ほど前までは、少々、会うのが気の重い相手だった露村だが、今はそうでもない。透子は軽く微笑み、足を止めた。
 「久しぶり。露村君も、論文?」
 「ああ。井上、どうだった?」
 「もっとロマンが欲しいって言われて、再提出」
 言われた通りのことを伝えると、露村の眉が、うんざりしたように顰められた。
 「やっぱりかよー。俺、もう3回目だぜ、これで。これ以上面白くなんてならないって」
 「えー、“面白くない”で2回リターン食らっちゃってるの? 意外に頭固いんだね、露村君て」
 性格は結構吹っ飛んじゃってるとこあるのに。
 というセリフは、口にするまでもないだろう。露村にも分かったらしく、うんざり顔が、ちょっとムッとしたようなしかめっ面に変わった。
 「…まあ、とにかく、これクリアしないとさ。せっかく就職決まったのに、卒業できなかったら洒落にならないっしょ」
 「だよね。それに、早く自由の身にならないと、彼女さんが可哀想だよ。付き合い始めたばっかりなのに」
 「ハ、ハハハ、まーな。それもあるか」
 透子の茶化しに、露村が焦ったように笑う。透子もちょっと笑い返した後、「じゃ、バイトの時間迫ってるから」と言って、露村と別れた。

 結局露村は、透子に勧めたあの会社を自分で受け、透子が内定をもらう少し前に、無事内定をもらった。
 透子に関しては、あの日、慎二のさしかける傘中に飛び込んだ透子を見て、一応諦めがついたらしい。現在露村は、教育学科の1年生の女の子と付き合っている。一度見たことがあるが、驚くほど可愛い女の子だった。あんな子と両思いになれる位の人なのに、なんで私なんかに執着したんだろう、と、つくづく不思議に思ったほどだ。

 ―――そんな風に、簡単に次の人を好きになれる恋もあるんだよね、世の中には。
 廊下を歩きながら、ふと、そんなことを思う。
 決して、露村を不真面目だとか軽いとか、そんな風には思わない。同じ人の恋愛であっても、相手次第で想いの深さは変わる。簡単に忘れられる恋もあれば、忘れるのに身を裂かれるほどの苦痛を伴う恋もある―――当たり前のことだ。

 想いの深さって、どうすれば、相手に伝わるんだろう?
 地球まるごと1個分の重さと同じ重さで、あなたを愛してる―――そう信じてもらうのは、やっぱり無理なんだろうか。
 足元に視線を落とした透子は、どうすればいいか分からず、小さなため息をひとつ、ついた。

***

 「ただいまぁ」
 「おかえり」
 夕方、バイトから帰宅した透子は、靴を脱ごうとして、ある物に目を留めた。
 「―――…」
 玄関脇に、梱包された大きな絵が立てかけられている。大きさから言って多分、ここ何ヶ月かずっと気になっていたあの絵―――慎二がなかなか見せてくれなかった、あの絵だろう。
 梱包されている、ということは、どこかへ運び出すということだ。そして、絵を運び出すのは、画廊に絵を納品する時と大体決まっている。
 「え…っ、これって、あの絵? もしかして、売りに出しちゃうの? まだ私、見せてもらってないのに」
 思わず、そんな、という口調で透子がそう言うと、慎二はクスクス笑って首を振った。
 「違うよ。売るんなら、もっと早く運んでるだろ?」
 「じゃあ、どうするの?」
 「…うん。実は―――…」
 少し照れたような表情を一瞬見せた慎二は、靴を脱いだ透子のもとに歩み寄り、1枚の紙を透子に差し出した。
 「先週、届いたんだ」
 「?」
 受け取ったその紙の文面を、透子は怪訝な表情で読み進めた。
 そこには、結構有名な美術雑誌のロゴが入っており、一番上に「選考結果のお知らせ」とあった。タイプ打ちされた文面の中、1箇所だけ穴のあいている部分があり、そこには、とある海外の画材メーカーの名前を冠した賞の名前が入っていた。
 「え? これって…」
 「実はこの絵、この公募展に出品してたんだ」
 「ええ!? い、いつの間に!?」
 「ここ、ちょっと変わってて、作品をスライドに撮影して、それで選考するんだ。ほら、前に、成田君と会った、って言っただろう?」
 「…もしかして、その時の用事が、スライド撮影?」
 「そういうこと」
 「ひどーい!」
 全然、まるっきり、知らなかった。思わず透子は、慎二の胸を叩いてしまった。
 「なんで教えてくれなかったの!? ずるーい! 私もスライド撮影見たかったのにー!」
 「あはは、ごめんごめん。透子には、結果が出るまで内緒にしようと思ってたから」
 「なんで?」
 すると、困ったような笑みを見せた慎二は、思いがけない理由を語った。
 「うん…ほんとはさ、この公募展に出そうと思った理由、銀賞の副賞になってる軽自動車を、透子にプレゼントしたかったからなんだ」
 「……え?」
 「免許取れたし。お金出して買うことになると、透子、絶対遠慮するからね。本当に透子にピッタリな車だったんだけど…んー、人生なかなか上手くいかないなぁ。上から2番目狙うなんて、ピンポイントすぎて無謀だ、って成田君にも言われたけど」
 「…慎二って、不思議な動機で出品するんだね」
 「そうかな?」
 そんなに不思議とも思ってない顔であっさりそう返され、透子はガクリと肩を落とした。
 …でも。
 素直に、嬉しい。慎二の気持ちが。
 「…ありがとう」
 ぽつり、と透子がお礼を言うと、慎二は、慌てたように首を振った。
 「いや、結局、取れなかったんだし」
 「そんなの、どうでもいいの。慎二がそんな事考えてくれたってだけで、凄く感謝したい気分なの。それに、上から2番目じゃないけど、賞が取れたんだし! ねえ、この賞って、どういう賞なの?」
 「ええと、金・銀が1点ずつ、銅が2点、その下に、各協賛スポンサーの名前の入った賞が全部で6つあって、これはその中の1つかな」
 「てことは、上から10番以内!? すごーい! ここの公募って、応募総数が結構凄いって、前に先生が言ってたんじゃない!?」
 「うん、まあ、ね。コネの多い世界で、ここは珍しく会派とか誰の弟子かとか全然考慮しない公募で有名だって先生から聞いてたから、出す気になった部分もあるんだけど」
 「うわー、見たーい。ねえ、どんな絵描いたの? 搬入する前に見せてよ」
 梱包されてしまった絵を手で撫でてねだってみたが、慎二の答えはシンプルだった。
 「会場でね」
 「…えー…、ずるい」
 「―――って言うと思ったから、梱包するまで教えなかったんだよ、入賞したこと」
 「でもぉ…」
 「…オレもまだ、大きな会場でこれがどう見えるか確かめてないからさ。透子と一緒に見たいと思ったんだ」
 ぽん、と絵の縁に手を置くと、慎二は少し身を屈めて、透子の額にコツン、と自分の額をぶつけた。
 「だから、透子。初日に来てくれるかな」

 ―――何を描いたんだろう、慎二は。
 いつになく妙に気を持たせる慎二を不審に思いながらも、透子は結局、頷いてしまった。

***

 慎二が入賞を果たした公募展は、その週の土曜日から始まった。
 「最初に、上位4名の授賞式があるから、少し遅れて行った方がいいよ。プレスとかいて、邪魔だし」
 との慎二の言葉に透子も同意して、午後になってから行くことにした。
 「そう言えば、慎二が取った賞は、表彰式とか副賞はないの?」
 「表彰式は、勘弁して…。あっても絶対逃げ出すよ、オレ。副賞は、賞金10万円と、あのメーカーの油絵の具が貰えるらしいよ。高い絵の具だから、ちょっとラッキーかな」
 「てことは、カメラメーカーの名前ついてた賞の人はカメラが、ビールメーカーの名前ついてた賞の人はビールが貰えるのかな…。なんか、面白いね」
 そう考えると、画材メーカーの賞というのは、凄く慎二にピッタリな賞だな、と透子には思えた。絵のこと以外、あまり興味のない慎二だから、カメラやビールを貰っても、あまり嬉しくはないだろう。


 会場に到着すると、受付で名前を確認された。そして、受賞者であることが分かると、リボンで作った花がついたピンが手渡された。
 「おめでとうございます。受賞者は、このピンをつけていただくことになっていますので…」
 「は、はあ…」
 どうやら、会場を訪れた顔見知り以外の人にも、受賞者であることが分かるようにしているらしい。面倒だなぁ、と思いつつも、慎二は仕方なくピンをジャケットのポケットの辺りに、なるべく目立たない所につけた。
 「工藤さんの作品は、B展示室の一番奥正面に展示されてます」
 「ありがとうございます」
 受付嬢に一礼し、2人は連れ立って歩き出した。

 「奥正面、かぁ…。緊張するなぁ」
 入り口に一番近いA展示室から順に見つつ、慎二がぽつりと呟いた。
 「どうして?」
 「ん? ほら、こうやって展示室を見渡すとさ。入り口正面の壁と、部屋の一番奥正面の壁が、一番目につくだろ?」
 慎二に言われ、透子も、広い展示室をぐるりと見渡してみた。確かに―――入り口を入った時は、正面にあった“審査員参考作品”がまず最初に目に入った。そして、順路に沿って歩き出すと、その進行方向正面にある一番奥の壁にある巨大な作品が、一番目立つ。
 「多分、あの大きな作品って、金賞取った絵だと思うよ」
 「そっか…。つまり“いい場所”だから、賞を取った作品を優先して飾るんだね」
 「“いい場所”、かぁ…。オレは、なるべく端に飾って欲しいなぁ…」
 「…慎二ってホント、こういうの向いてないね」
 この性格で、よく絵を商売にしてるなぁ、とつくづく思う。でも…こういう展示会で、優劣つけられて並べられるのとは感じ方が違う、というのは、なんとなく透子にも想像できる。そんな苦手なものに出品してしまったその理由が「透子に軽自動車をプレゼントしたいから」だなんて―――呆れると同時に、妙にくすぐったい気分だ。

 A展示室の正面に飾られた巨大油絵は、慎二の想像通り、金賞受賞作品だった。
 「うーん…本間さんと同系統の、シュールレアリズムだな」
 「…大作なのは、間違いないよね」
 でも、大作であること以外は、全然分かんない。
 という本音は、不用意に口には出来ない。どこにこの絵の作者がいるか分からないのだから。でも、透子の目にその絵は、青と黒と灰と黄色が、不規則なパッチワークで並んでいる巨大な壁、としか映らなかった。何故これのタイトルが“葛藤のコンチェルト”なのだろう?
 「でも、この青は、いい色だよ」
 2メートル近いカンバス一面に散らばった青を指差して、慎二がそう言った。
 「…慎二の青の方が好きだなぁ…」
 周囲には聞こえないよう、小声でそう呟く透子に、慎二はぽんぽん、とその頭を撫でて、「次、行こう」と促した。

 金賞の作品の数作品先には、カメラメーカーの名前がついた賞を取った作品が展示されていた。光と影の表現が絶妙な、精巧な風景画だった。カメラメーカーがこれを選んだのは、なんとなく分かるな、と透子は思った。
 それ以外の作品も、透子に理解可能な絵、不可能な絵、色々あった。が、どれも審査を通過した入選作だけあって、理解できる絵に関してはどれも高レベルで、見応えのあるものばかりだ。
 ―――こんな中で、慎二の絵は、トップ10に入ったのかぁ…。
 控え目な性格が災いしているが、本当はもっと、絵描きとして売れてしかるべき人なのかもしれない。私がプロデュースしたら、もっと認められる画家になるかな……、なんて頭の片隅で思いながら、透子は慎二に続き、B展示室へと移った。
 そして、順路に沿って踵を返した時―――正面奥に飾られた絵を見つけ、息を呑んだ。

 「―――…あ……」

 目の前に、色が、広がる。
 青い青い空と、一面に広がる、鮮やかな黄色―――そのどれもが、鮮やかでありながら、優しい色をしている。慎二独特の色…透子に生きることを教えてくれた色だ。
 そこに描かれていたのは、去年、慎二と一緒に見た、あの向日葵畑だった。
 去年も慎二は、あの風景を数点のスケッチに描いた。けれど、これだけ大きな作品として、しかも油絵で描くのは、これが初めてだろう。淡い水彩スケッチのイメージがあったせいか、見覚えのあるアングルのその絵は、とにかく色のイメージが鮮烈だった。
 「…あの向日葵畑を描いたの…」
 「…うん。1年かけて、イメージがだんだん蓄積してって―――今年の夏ごろ、やっと、油で描けるところまで来たんだ。ほんと、オレってピンホールカメラ並にスローだよなぁ…」
 「綺麗……」
 うっとりと、透子が呟くと、慎二は照れたように笑い、透子の手を取って絵の近くへと連れて行った。
 近づくにつれ、絵の細部が次第にはっきりしてくる。慎二らしい、筆跡の残る鮮やかな向日葵、地面にさりげなく落とされた影―――そんな中に、透子は、あの時見た覚えのないものがそこに描き込まれているのを見つけて、少し目を丸くした。
 「…ねえ、慎二」
 「ん?」
 「この男の子と女の子、誰?」
 向日葵畑の真ん中で、男の子が1人、手を振っている。そして、画面手前には、麦藁帽子を被った女の子がいて、その男の子に手を振り返しながら、今まさに向日葵畑に足を踏み入れようとしているところだ。
 おーい、行くぞ、と言っている少年に、待ってよ、と女の子が答えているようにも見える。仲のいい2人なんだな、という、微笑ましいワンシーンだ。
 「この男の子が、慎二なの?」
 慎二を見上げて透子が訊ねると、慎二はくすっと笑い、ゆっくりと答えた。
 「…この男の子が、“陸”だよ」
 「―――…えっ」
 「そして、この手前にいる女の子が、多恵子。…これは、陸と多恵子の絵なんだ」
 「……」

 陸さんと、多恵子さんの―――…。

 大きく目を見開いた透子は、もう一度、目を向日葵畑の絵に戻した。
 そう思って改めて見ると―――まるでそのシーンが、先立った陸を追いかけていった多恵子そのものに見えて…胸が、締め付けられた。
 「…1年間、少しずつ降り積もっていったイメージの中で、なんか、どうしても足りない部分があるのが、ずっと気になっててね。あと少しなのに、何故か絵筆が執れなかったんだ。それを模索してる最中に―――透子が、言ったんだよ」
 「私?」
 「そう。ほら、七夕の時。多恵子がなんだか、彦星を待っている織姫に思えて、切ない、って」
 「……ああ、」
 思い出した。確かにそんなことを言った。慎二を彦星に、多恵子を織姫になぞらえて。そうしたら、慎二に言われたのだ―――多恵子にとっての彦星は、陸だ、と。
 「あの言葉聞いた時、何が足りなかったか分かった。あの景色は、多恵子にとっては一番幸せな景色で―――オレはそこに、多恵子だけじゃなく、陸にも居て欲しかったんだな、って」
 そう言って慎二は、吸い寄せられるように絵に見入っている透子の背後から、その小さな両肩にポン、と手を乗せた。
 「多恵子と陸は、今、あそこにいる」
 「……」
 「あそこで陸と2人、次の命が貰える日を待ってる。今度は、2人一緒に生きていける人生が与えられるのを夢見ながら…さ。…多分、多恵子は今、生きていた時より、幸せだよ。一番一緒にいたかった人と、ずっと一緒にいられるんだから」
 「……うん」

 透子には、絵の中の2人が、とても幸せそうに見えた。
 でもそれは、この風景が美しく、幸せな色をしているせいじゃない。
 ひとりじゃないから。
 一番愛していた人と、ずっと一緒にいられるから―――それは、透子にとっても、最大の幸せだからだ。

 慎二はこの絵に、“約束”というタイトルをつけていた。
 やっと来てくれたんだね―――絵の中の少年は、少女にそう囁いているように、透子には思えた。

***

 「帰る前に、ちょっと寄り道に付き合ってくれるかな」
 一通り展示作品を見終わると、慎二は透子に、そんなことを言った。
 まだ陽も高いし、断る理由もない。当然のように透子は頷いたのだが―――連れて行かれた先は、ちょっと予想外な場所だった。

 「えっ、ここ?」
 「そう。ここ」
 そこは、高級店とは趣が異なる、ちょっとオシャレなアクセサリーショップだった。
 ぽかん、としていると、慎二が先にドアを開けた。さっさと店内に入って行ってしまうので、透子も訳が分からないまま、その後を追った。
 店内も、外観同様に洒落た内装で、アクセサリーショップというより、小洒落たカフェのようだ。が、さりげなく置かれたショーケースの中に飾られた指輪やネックレスは、天然石を使ったものがほとんどのようだ。
 「いらっしゃいませ―――あ、工藤さん!」
 「こんにちは」
 出迎えた店員と慎二のやりとりに、すぐ傍らにあるルビーのピアスに目をとられていた透子は、はっとして視線を2人に向けた。見ると―――店員は、透子にも見覚えのある女性だった。
 「えっ、小森さんの奥さん!?」
 先日、赤ちゃんを連れて遊びに来た、小森の妻だったのだ。小森の妻も、透子の姿を見つけ、明るく笑い返した。
 「こんにちはー、透子ちゃん。この前はご馳走様」
 「ここって、小森さんのお店だったんだ…」
 「そ。雇われ店長だけどね」
 なるほど、慎二とは縁がなさそうな店だが、一応接点は見つかった。が、何故この店に連れて来られたのかは、いまいち理解できない。笑顔で挨拶しながらも、透子は、まだ戸惑いを滲ませた目で、チラリと慎二を見上げてしまった。
 そんな透子に笑い返した慎二は、けれど何も説明せず、小森の妻の方に再度目を向けた。
 「あの、この前頼んだやつ。出来てるかな」
 「ええ、勿論! きっちり昨日、完成してます。持ってきますね」
 にこやかにそう答えた小森の妻は、ちょっと待っててね、と小声で透子に告げ、店の奥へと消えた。
 店にはもう1人女性店員がいて、その人に「そちらにおかけください」と言われたので、2人は店内の椅子に腰掛けた。
 「慎二、“この前頼んだやつ”って?」
 店員を意識して、少し声を落として透子が訊ねると、慎二は曖昧な笑みを浮かべて、テーブルの上に置かれたキューブ状のガラスケースに目をやった。
 「このお店、天然石を使った手作りのアクセサリーを売ってるんだ。小森の奥さんともう1人がデザイナーで、オリジナルの1点もの作ったり、客が考えたデザインに沿って作ったりするんだよ」
 「ふーん……、っえ? じゃあ、慎二が“頼んだ”のって?」
 「そう。オレがデザイン考えたものを頼んだんだ」
 「お待たせしました」
 一体何を、と透子が問おうとしたところに、小森の妻が戻ってきた。その手に、ベルベット張りの箱を1つ携えて。
 「ご希望通りに仕上がった自信、ありますよ」
 ニッ、と笑った彼女は、テーブルの上にその箱を置き、透子からも慎二からも見えるように向けて、開いた。
 そして、黒いビロード地の上に置かれた“それ”を見て―――透子は、思わず声を上げてしまった。
 「う…わー、可愛い!」

 そこに置かれていたのは、プラチナ台の小ぶりなリングだった。
 一見、花をモチーフにしているように見えるが、よく見ると四つ葉のクローバーが3つ、折り重なっているデザインだ。四つ葉のクローバーの葉は、赤い石を葉の形に切り出したものと、ガラスかダイヤか分からない小さな石を敷き詰めたもの、2種類あって、それが交互に留められて四つ葉を形作っている。3つ折り重なっても鬱陶しくない、女性の指からはみ出さないよう考えられた絶妙なデザインだ。
 透子は、宝石のことなど、何も分からない。ただ、大振りなダイヤやルビーがゴロンとしているような高い指輪より、その指輪は可愛くて、素敵に見えた。特に、四つ葉を形作る名前の分からない赤い不透明な石の光沢が、なんだかとても暖かくて、キラキラと鋭い石より好ましく思える。

 「これ、慎二がデザインしたの!?」
 「んー、一応、ね。少しお店の人にも手伝ってもらったけど」
 「すごーい…、可愛いー…」
 「気に入った?」
 目を輝かせていた透子は、慎二が当然のように口にした問いかけに、一瞬にして我に返り、驚いたように顔を上げた。
 「え?」
 「透子へのプレゼントなんだけど、これ」
 「―――…」

 頭が、真っ白になる。
 キョトン、と目を見開いて慎二の顔を見つめたまま、透子は、瞬きも忘れたみたいに固まってしまった。
 指輪を貰う、というシチュエーションが、なんだか実感が伴ってこない。しかも、プレゼントしてくれる相手が慎二だ、という事実が、余計非現実的な感じに思える。私に? なんで? ―――疑問に思うけれど、言葉にならなかった。

 「…ええと、私達、ちょっと奥に引っ込んでますね。今の時間、大抵お客さんが少ないんだけど…もし来たら、呼んで下さいね」
 気を利かせたのか、小森の妻がそう言って、もう1人の店員と共に店の奥へと引っ込んだ。スミマセン、と軽く頭を下げた慎二は、まだ呆然としている透子の顔を覗き込み、その頭をぽんぽん、と叩いた。
 「透子?」
 「―――…え…」
 「大丈夫?」
 そう言われて、やっと我に返った。
 瞬きを数度繰り返した透子は、改めて慎二の目を見つめて、
 「…どうして?」
 と、呟きに似た声で訊ねた。
 慎二は、すぐには答えなかった。苦笑のような、微笑のような笑みで、暫し透子を見つめ返し―――やがて、ビロード地の上のリングを摘み上げて、目の前にかざした。
 「…この赤い石、なんて石か知ってる?」
 「? ううん」
 「サード・オニキス―――日本名では、赤縞瑪瑙(あかしまめのう)って言うんだって。透子、8月生まれだろ? 8月の誕生石の1つだよ」
 「えっ、そうなの?」
 8月はぺリドットだけだと思っていた。驚いたように透子が目を丸くすると、慎二は笑い返し、軽く頷いた。
 「オレも知らなかった。…この前、ここに指輪を作って欲しいって相談しに来た時さ。偶然この石が入荷したてで置いてあって、いい色だったから小森の奥さんに訊いたんだよ。そしたら、8月の誕生石だって。それに…宝石言葉、っていうのかな。花言葉みたいに、石にも言葉があるんだって」
 「…どんな?」
 「うん―――サード・オニキスの宝石言葉は、“夫婦の幸福”だって」
 「……」
 「…この石を使おう、って、すぐ決まった」
 くすっ、と笑った慎二は、おもむろに、テーブルの上に置かれた透子の左手を取った。
 「透子―――オレ、分かってるよ、ちゃんと」
 「…えっ」
 「透子の“幸せ”。分かってる。時々迷ったり落ち込んだりするのは、自分にそれだけの自信がないだけで、透子を疑ってる訳じゃない。でも…分かってるだけじゃ、また透子を不安にさせるだろうから」
 そこで言葉を切った慎二は、まだ少し呆然とした面持ちの透子の手に、指輪を嵌めてやった。ただし―――薬指ではなく、中指に。
 「この指輪が、形にした“約束”。もう二度と―――絶対、透子の手を放したりしない、っていう約束」
 「……」
 「…母さんがちゃんと、オレと透子を理解できるようになるには、まだ時間がかかると思う。それに、少なくとも社会人になって暫くは、井上透子として羽ばたいて欲しいし。けれど、いつか……いつか必ず、今度はこの指に嵌める指輪、買おう?」

 そう言って、慎二は、四つ葉のクローバーの隣で空いている透子の薬指に、指先で軽く触れた。
 その意味を受け止めて―――透子の目に、涙が、浮かんだ。

 「…慎二…」
 「信じて―――透子をひとりにしないって」
 「……うん。慎二も、本当に信じてくれる?」
 「うん、大丈夫。信じてる」
 「…良かった―――…」


 3つの四つ葉のクローバーは、透子を見守っている筈の天国の家族を意味しているのだと、後で慎二に聞いた。

 透子の左手を包み込んでくれる慎二の手が、温かくて、優しかった。
 その温かさに、涙が溢れて溢れて―――透子は、慎二の手の甲に額を押し付けるようにして、肩を震わせて泣いた。午後のアクセサリーショップに、気まぐれな客がひょっこり顔を出すまで、ずっと。


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