←BACK二十四季 TOP

 

afterwords

 「二十四季」、最後までお付き合いいただきまして、ありがとうございました。

 この作品が生まれた原因。それは、この作品の主役の片方・工藤慎二にあります。
 彼は、『「そら」まで何マイル』の準主役クラスのキャラクターで、「そら」連載当時、切な過ぎる奴として、読者様の間で結構人気がありました。
 結城自身、彼には当時から思い入れがあり、このまま終わらせるのは可哀想すぎるな…と思っていました。多恵子と別れて尾道に行った後、彼は一体どんな人生を送るのだろう―――そんな想像から、唐突に浮かび上がってきたのが、この「二十四季」のストーリーでした。

 「そら」系のシリーズは、常にそのテーマの中心に「死」があります。
 転じて言えば、それは、常に「生」が中心となっている、とも言えます。
 前作の「そら」が、死とは何なのか、生きるとは何なのかを、多恵子という「死にゆく存在」から語った物語だとするならば、今回の「二十四季」は、生き残った人間がいかにして生きてゆくのかを「生き続ける存在」から語った物語だと意識して書きました。
 家族を震災で一度に失った透子、兄に先立たれ、また多恵子をも失ってしまった慎二、そして息子を失って正気であることをやめてしまった由紀江―――更に言うならば、最愛の人と共に死ぬ筈だったのに、彼だけを旅立たせてしまった多恵子も。生き残った人々が、その死をどう受け止めるのか、その後どうやって生きるのか、その後の人生の中で死者をどう捉えていくのか―――結局はそれが、「二十四季」のテーマだったと思います。

 あと、「そら」に関係して、ちょっと補足というか、蛇足。

 「そら」を書いた時、何が一番怖かったかというと、それは、あれを読んだ人が、自ら命を絶つということを変に美化して肯定的に捉えてしまうことでした。
 書いた当時、かなりの葛藤がありましたし、その葛藤は今でもあります。ただ、多恵子にとっての幸せを考えた時、あの終わり方以外の結末はどうしても見えてこなかったので、それだけは譲れないな、と思って、断腸の思いで15禁指定をした記憶があります。
 「二十四季」は、「そら」で自殺を肯定的に受け止めた人に、「自殺する本人は良くても、残された人には、こんなに苦悩と葛藤の日々が待ってるんだよ」ということが伝えたくて書いた部分もあります。果たしてそれが伝わるのかどうか、甚だ不安ではあるのですが…。
 死を完全否定するつもりはありません。かといって、肯定するつもりもありません。
 ただ、死を何らかの形で意識する時、そこには常に「残される人」がついて回るのだと、それだけは分かって欲しいです。ネットでの集団自殺などが流行する昨今だから、余計に。

 ところで―――「二十四季」は、設定上、震災に関する記述がたびたび登場していますが、 結城自身は被災はしておりません。
 多くの文献を参考に、当時の様子やマスコミ報道のタイムテーブル等々、出来る限り事実に沿うよう書いたつもりですが、文字や体験談からでは計り知れない部分もあり、読んでいて「え?」と思う部分があるかもしれません。
 被災者の方々の中で、不愉快に感じる方がいらっしゃったら、申し訳ありません。ただ、この話は震災をテーマにした訳でも震災の検証小説でもないので、ストーリー展開上いたしかたない部分があることをご理解いただければ幸いです。

 さて、今後の展開ですが―――「二十四季」は完結しましたが、いくつか書きたいことも残りましたし、この後の慎二と透子の物語も、色々と頭に浮かんでいます。
 まとまった中・長編として書くことはないと思いますが、お題などを利用して、オムニバス的なショートショートにできればな、と思っています。
 千秋と荘太がどうなるのかが、一部の深読み読者様にとっては一番気になるところではないかと思いますが―――橋本千秋というキャラ、かなり複雑な過去を持つ人物ですので、彼女の話だけ独立させるのも面白いかな、なんて思ってる部分もあったり(笑)
 けれど、一番書いてみたいのは、慎二が“幽霊ごっこ”してた頃のお話です。この辺りも、「anthology」のような形で、過去のサイドストーリーとして描けたらいいな、と思っています。

 最後になりましたが。
 思いのほか長期にわたる連載になってしまったこのお話にお付き合い下さいまして、本当にありがとうございました。

2004.12.26 結城とも


←BACK二十四季 TOP


  Page Top
Copyright (C) 2003-2012 Psychedelic Note All rights reserved. since 2003.12.22