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: 終 章  ― 冬・二十五度目の季節 ―

 ドアの向こうから聞こえるけたたましいベルの音に、透子は、眠い目を半開きにしてムクリと起き上がった。
 「…もー…っ」
 手を伸ばし、椅子の背もたれに掛けておいた厚手のフリースカーディガンを羽織る。12月ももう残すところ数日―――今朝は特に冷え込んでいるようだ。寒冷前線が来てるな、と、昨日のテレビで見た天気図を思い出しながら、透子は身震いをひとつして、部屋を抜け出た。
 慎二の部屋の扉を一気に開け放つと、目覚まし時計の大合唱が透子を襲った。
 バン、バン、バン、バン、バンっ!!
 順番に、目覚まし時計の頭をひっぱたく。やがて、しーん、と静まり返った部屋の中に残ったのは、慎二の幸せそうな寝息だけだった。
 ―――やっぱり慎二、どっかおかしいんじゃないの?
 何故、あの大音量の中で眠れるのだろう。苦笑しつつも呆れる透子の耳に、尾道を発つ日、真奈美が言ったセリフが甦ってきた。
 『なんか、透子の笑った顔がね。慎二さんのそういうとこも好き、って言ってるように見えたから』
 「…うう」
 否定できない。
 もう一度身震いした透子は、全然目を覚まさない慎二のもとへと歩み寄ると、掛け布団と毛布の角を少し持ち上げ、その中にスルリと滑り込んだ。
 早くも、冬の朝の冷たい空気に凍り始めていた透子の足が、慎二の足にくっつく。途端、それまでピクリとも動かなかった慎二の目が、パッチリと開かれた。
 「あ、起きた」
 ベッドの僅かなスペースにもぞもぞと潜りこんだ透子は、事態が把握できずに目を瞬いている慎二の様子に、悪戯が成功した時のような笑みを口元に浮かべた。それで、目が完全に覚めたのだろう。途端にうろたえた慎二は、大慌てで起き上がろうとした。
 「な、な、何してるの、透子」
 「だって、慎二、全然起きてくれないし、凄く寒いんだもん」
 「…ごめん。それは謝るから、こういう真似はやめ…」
 慎二の言葉より早く、透子は、慎二を引き止めるようにその腕を引くと、再び枕に頭を沈めた慎二の腕の中にすっぽりと収まった。
 「あったかーい」
 「―――全くもう…」
 嬉しそうに擦り寄る透子を引き剥がすだけの根性はさすがにないらしい。苦笑した慎二は、透子の髪をサラリと撫でると、その額に軽く唇を落とした。

 ―――こんなにおいしいシチュエイションになのに、これでおしまいなのが、慎二なんだよなぁ…。
 キス以上のことは、まだ一度もしてくれない。早く“取り返しのつかないこと”になっちゃえばいいのに、と、透子は時々過激になるのだが、気象予報士試験が終わるまではダメ、といつも突っぱねられる。透子の方が禁欲生活を送っているみたいで、普通逆なんじゃないの、と変な気分だ。
 でも。出会ってからここまで、6年かかっている。
 恋人になってからの時間も、のんびり、ゆっくりの方が、自分達には合っているのかもしれない―――そんな風に思う透子もいる。

 「…今日って、新幹線、何時の予定…?」
 ごそごそ体をずらして、上目遣いに自分を見上げる透子の問いに、慎二は少し首を傾げるようにしながら、今日のスケジュールを頭に思い描いた。
 「ええと…編集部に挨拶してから行くから―――早くて11時か12時かな」
 「じゃあ、まだ明るいうちに着けるね」
 呟いた声は、少し掠れ気味だった。そんな透子の声に、慎二の表情が曇る。
 「…不安?」
 「―――少し。想像すると、本当に大丈夫なのかな、って、自分に自信が持てなくなっちゃって…」
 今日、慎二と透子は、尾道へ“里帰り”する新幹線を途中下車して、神戸へ立ち寄ることにしている。
 実に、6年ぶりの神戸。クリスマスまではルミナリエがやっていたし、1月17日には追悼イベントもあるのだろうが、あえてその時期を避けて、こんな中途半端な時期を選んだ。その方が落ち着いて訪れることができると思ったから。
 でも―――いざ、その場所に立った時、自分がどうなるのか…正直、不安だ。あの日のことを思い出して、おかしくなってしまうかもしれない。行くと決めたのは自分だけれど、その瞬間が近づくにつれ、不安ばかりがこみ上げてきてしまう。
 「…大丈夫。オレがいるから」
 「……」
 「泣いたって、誰も透子のこと怒ったり笑ったりしないよ。…だから、好きなだけ泣けばいい」
 「ん…そうだね」
 はぁっ、と息を吐き出した透子は、俯いた顔を慎二の胸に寄せ、額をその鎖骨の辺りに押しつけた。
 頭を撫でられると、波立ちかけた心がゆっくりと凪いでいく。目を閉じて、伝わってくる微かな慎二の鼓動を感じていた透子は、昨日のことを―――2ヶ月ぶりに、慎二の生家を訪れた時のことを思い出していた。


***


 由紀江は、透子の顔を覚えていた。
 けれど、透子が何者なのかは、覚えていなかった。

 「ごめんなさい。ええと―――どなただったかしら。確かにお会いしたわよね、秋に」
 1人玄関に立つ透子に、由紀江は戸惑ったような顔をして、そう訊ねた。その表情は、2ヶ月前、初めて会った時のそれとは、微妙に異なっている。
 「…はい。工藤さんが事故に遭われたので、それに付き添って」
 「―――ああ! そうそう、そうでしたね。確かあの時、秀一が…」
 そう言いかける由紀江の眉間に、訝しげな皺が寄る。
 「…秀一じゃなく、慎二だったかしら」
 「……」
 「ごめんなさいね。私、酷く記憶が曖昧になることがあって―――お医者様にも注意されているのよ。日々、起きたことをメモするようにしなさい、って。とにかく、秀一か慎二のお友達だったわよね」


 医師の言う通りだ―――由紀江の様子に、透子は改めて、人間の脳の不思議さを感じた。
 夫と2人で生活している間、由紀江の頭の中では、秀一も慎二も、家を出て独立して生活していることになっているらしい。さっぱり顔を見せない“2人”を時折心配はするものの、総じて穏やかに、何の疑問も感じずに生活しているという。
 おかしくなるのは―――慎二が帰ってきた時だけ。
 一度、慎二の顔を“秀一”と認識してしまった母の脳は、慎二の顔を見ると同時に、慎二の存在を消す。2人いる筈の子供が、1人しかいない…その現実を、歪んだ形に無理矢理押し込めようとするのだ。
 慎二が今どうなっているかの認識は、その時々によって変わる。旅に出ている、学校に行っている、療養所に入っている―――既に、他界している。ほんの30分の間にでも、その認識はコロコロ変わる。けれど―――絶対に、目の前にいるのが慎二だとは認めない。
 それを認めたら、秀一がこの世にいない現実を思い出してしまうから。
 自らの命を守るため、脳は、慎二を慎二と認識することを拒絶する―――何故そんなことになるのかは、誰にも分からない。人の脳は、永遠の聖域だ。

 『せめて、秀一さんと慎二さんの認識が逆転してくれれば―――目の前にいるのが慎二さんで、秀一さんはどこか別の所で生きている、と考えてくれるようになれば、一歩前進なんですけどね。ご家族で何度か試してはみたんですが、駄目でした。もう認識の確立されているご主人や息子さんでは、新たな認識を組み立て直せないのでしょう』
 担当医は、そう言ったのに続けて、こう付け加えてくれた。
 『ですから―――まだ、由紀江さんの中の認識がまっさらな状態のあなたなら、できるかもしれません。あなたを介することで、“現在の慎二さん”を、由紀江さんの中に再構築していけるかもしれませんよ』


 「―――慎二さんには、日頃から、とてもお世話になってます」
 ニコリ、と笑った透子は、そう言って軽く頭を下げた。
 由紀江も、それを素直に飲み込んだらしく、「まあ、そうですか」と言って同じように会釈した。
 「慎二さん、とてもおうちのことを気にかけていて…でも、お仕事でなかなか戻れないので、代わりに私に様子を見てきてもらえないか、って。ですから、これから、時々―――ご迷惑でなければ、慎二さんがお母さんのために描いた絵を、届けに来たいんです」
 由紀江の目が、丸くなった。
 「慎二が…あの子が、そんなことを?」
 「はい」
 「私のために、絵を描いてくれるって?」
 「はい。そう言ってました」
 「そう…、そうなの…。良かった。あの子、まだ絵を描いてるのね」
 ふわっ、と、空気に溶けそうな笑みを浮かべると、由紀江は暫し、遠くを見つめるような、どこかうっとりした目をした。
 何を、見ているのだろう―――それは、分からない。今の由紀江の中で、慎二が何歳くらいで、どういう状況にいると認識されているのか、それすら分からないのだから。
 ただ、分かるのは―――今、この瞬間、彼女の脳裏に甦っているのは、秀一ではない、慎二の姿だということ。“絵”…それは、慎二という人間を連想する上で、最も大きなファクターだから。
 「ああ、ごめんなさい。いつまでも立ち話じゃ悪いわ。どうぞお入りなさい。クッキーと紅茶でよければ…」
 我に返って、慌てた様子で透子を招き入れようとする由紀江に、透子は笑顔で小さく首を振った。
 「いえ、今日はちょっと用事があるので、玄関先で失礼します」
 「そんな…こんなに寒い中、来てくれたのに」
 「また、年明けにもお邪魔します。その時には、必ず。…それと、これ」
 そう言うと透子は、手にしていた紙袋の中から1冊の本を取り出して、それを由紀江に差し出した。キョトンと目を丸くした由紀江は、首を傾けながら、それを受け取った。
 「…絵本…?」
 「慎二さんが、絵を担当したんです。…今日は、どうしてもこれを、お母さんに渡したくて来ただけですから」
 それは、以前、柳葉みどりと組んで出版した絵本だった。表紙にしっかりと慎二の名前の入ったそれは、母の知らない「現在の慎二」を印象付けるには、ちょうど良い物だ。
 「…綺麗な色ね…」
 手にした絵本の表紙を眺めた由紀江は、嬉しそうに微笑んだ。
 「そう…絵を、描いてるの」
 「…はい」
 「それなら、あの子はきっと大丈夫ね。あの子は、“奇跡の子”だもの―――きっと、大丈夫ね」

 ―――この人は、やっぱり、慎二のお母さんだ。
 表紙の絵を指でなぞりつつ、何度もそう呟く由紀江を見て、透子はそう思った。

 時間は、かかるかもしれない。
 けれど、いつか―――いつの日か必ず、この人が慎二の顔を見て、その名前を呼ぶ瞬間が来るに違いない。由紀江の、どこか愛しげな笑みに、透子はそれを確信していた。


***


 6年ぶりの神戸は、粉雪が舞っていた。

 「…別の土地に来たみたいだね…」
 「…うん…」
 焼け野原になった街は、大規模な再開発が行われて、駅前には巨大なビルが建っていた。
 新神戸の辺りや三宮の方も、随分復興が進んで活気を取り戻していたが、元々が近代的な街だったので、あまり違和感はない。それに比べて、かつて透子が住んでいた昔ながらの商店街は、復興前と後の違いが大きすぎて、どういう感情を抱いていいのか、透子にも分からなかった。
 透子の家があった場所は、たまたま大型再開発の対象地から僅かに外れていたため、まだ空き地になって残っていた。
 冬のこの時期、雑草もほとんど生えていないその土地は、黒っぽいむき出しの地面を晒しているだけで、かつての家を思い出すための手掛かりは、何ひとつ残っていない。ああ、本当に、何もなくなっちゃったんだな―――虚しさのようなものが、じわりと心の奥に広がった。
 「透子、寒くない?」
 ぼんやりと空き地を眺める透子を、慎二がそう言って心配そうに見下ろす。目を上げた透子は、微かに微笑み、「ううん」と答えた。
 けれど、繋いだ手の微かな震えは、誤魔化しようがない。慎二は、透子の手を握る手を、そのまま自分のダウンジャケットのポケットの中へ突っ込んだ。冷たさに慣れた手が暖かさに包まれると、透子の指先がじん、と痺れた。
 「…あったかい」
 ふふっ、と笑う。
 直後―――何故か突然、透子の目から、涙が1粒零れ落ちた。
 「…透子。我慢しなくていいよ」
 「…ん…」
 慎二の腕に、目元を押しつける。言葉には言い表せない感情が、静かな涙となって流れ出していった。それを宥めるかのように、慎二の指が透子の髪をゆっくりと梳いた。
 「透子―――来年の5月か6月にでも、また、ここに来ようか」
 「…5月か、6月…?」
 「ひまわりの種、蒔きに来ない? その頃に蒔くと、夏には花が咲くんだって。…お父さんと、お母さんと、紘太君の分」
 「…だったら、あと2つ、蒔こうよ」
 「え?」
 不思議そうな慎二の声に、透子は、押しつけていた目を離し、ゆっくりと慎二を見上げた。
 「私の分と、慎二の分も――― 一緒に蒔こう?」
 「―――そうだね」
 ふわりと、慎二が微笑む。その笑顔につられるように、透子も、空いている手で涙を拭い、微笑んだ。


 ―――キミ、大丈夫…? お父さんとお母さんは?

 …みんな、いなくなっちゃったの。…私、ひとりぼっちになっちゃったの。

 ―――じゃあ、オレ、一緒にいるよ。オレも一人だからさ。


 ここで、慎二と出会ってからの、6年間―――季節が過ぎるたびに、慎二を好きになっていった。
 優しさも、愛も、全部慎二が教えてくれた。慎二がいたから…生きられた。

 きっと、この先の年月も、慎二をもっと好きになる。

 季節が巡るたびに―――あなたを、もっと、好きになる。


 「…風邪ひきそうだな。そろそろ戻ろう?」
 「…ん、そうだね」
 ふわっ、と、肩に腕を回された。慎二に肩を抱かれるようにして歩き出した透子は、粉雪が舞う中、背後に遠ざかる空き地を振り返った。

 透子がそこに見たのは、5本のひまわりが、8月の風に揺れている、幻影。

 夢のようなその幻影に、透子は、心から幸せそうに笑った。

――― "二十四季" / END ―――  
2004.12.26  


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