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scene1: アリサ

 「1週間後、返事を聞きに来るから」
 玄関で靴を履きながら彼が呟いた言葉に、イエスもノーも答えられない。
 戸惑ったように佇む彼女に、彼は、躊躇いがちな笑みを浮かべ、触れるだけのキスを送った。
 「…縛るつもりはないんだ。でも―――亜里沙(アリサ)が必要だから、僕には」
 「…ええ」
 「いい返事を待ってる。…じゃあ、来週、また」
 「朔哉(さくや)
 帰ろうとする彼のスーツの袖を、思わず掴む。いや―――呼び止めたところで、一体何が言いたいのか、本当は自分でも分からないのだけれど。
 「―――何?」
 「…いいえ…。何でもない。ただ、名前呼びたくなっただけ」
 おかしなこと言うね、と苦笑する彼に、彼女も苦笑を返した。

 こんな日は、おかしなことの1つや2つ、口にしてしまうのは仕方ないと思う。
 あたしの望みは、一体何なんだろう―――その自問自答は、きっとこの先1週間、ずっと続くのだろう。そう思うと、気が重かった。


***


 「ありがとうございましたー」
 店員の元気な声を背中に聞きながら、アリサは花屋を出た。
 かすみ草にスプレーカーネーションを組み合わせた花束は、最近のアリサのお気に入りだった。ひとり暮らしの部屋にふさわしく、かすみ草1本にカーネーション3本という慎ましやかな花束を胸に抱くと、アリサは手にした傘をパッと開いた。
 ―――やんなっちゃうなぁ、雨だなんて。
 霧雨みたいな雨に煙る街を眺める、知らず溜め息をつく。
 ショパンの“雨だれ”の似合うような雨ならば、それなりに風情があって嫌いじゃない。けれど、こういう、ただ冷たいばかりで風情のない雨は嫌いだ。憂鬱な気持ちをさらに暗くさせる雨のような気がして、アリサは余計うんざりしてしまった。
 マンションまでの道を、いつもより急ぎ足で歩く。パン屋さんにも寄っていこうかな―――そう思った時、アリサはふと、10メートルほど前方の道端に目を留めた。

 そこに居たのは、男の子、だった。
 男の子、と表現するには、ちょっと微妙な年齢かもしれない。中学生? いや、高校生だろうか。ガードレールに腰掛けているので、はっきりとした身長は分からないが、それでも恋人の朔哉よりも更に背が高いのだけは間違いない。
 この霧雨の中、傘もささずにそこに佇む彼は、髪も服もすっかり濡れてしまっていた。彼が着ている真っ白なパーカーシャツが、雨を吸って体に貼り付いている。俯く彼の前髪も、今にも雫を落としそうに見える。よほど長い時間、この雨に体を晒していたのだろう。

 ―――風邪ひいちゃうわよ、あれじゃ。
 眉をひそめたアリサだったが、道行く人々は、誰も彼に気づきもしないようだ。彼の方を見ることもなく、勿論声をかけることもなく、まるで彼なんて全然見えてないみたいに、その前を通り過ぎていく。
 都会だものね、と、殺伐とした気持ちを覚えて、アリサは小さな溜め息をついた。アリサが生まれ育った北の町では、人が転べば「大丈夫?」と訊ねるし、気になる人がいれば「どうしたの?」と声をかけるのが当たり前だったのに―――大都会・東京は、好景気の真っ只中にあって、これまでより更に無機質で狂乱じみた街になったのかもしれない。
 ―――でも、こんな時、“どうしようかな”って躊躇っちゃうあたり、あたしも毒されてるのかもね。
 昔の自分なら、迷うことはなかっただろうか。声をかけることも、そして―――恋人に対して、何と返事をすればいいのかについても。

 「―――ねえ! そこのキミ!」
 おなかに力を入れ、雑踏の音に負けないように声をかける。
 すると、それまで俯いていた横顔が、ピクリと動いた。
 ゆっくりと、顔を上げる―――ネジが切れていたぜんまい仕掛けの人形が、その余力で動き出したような、緩慢でぎこちない動きで。彼はそのまま、アリサの方を見た。それと同時に、雨を含んだ前髪から、ポタッ、と雫が1滴落ちた。

 ―――なんだか、拾われるのを諦めかけてた捨て犬みたいに見える。

 そんな捨て犬、実際には見たことがないけれど―――何故かアリサは、彼の表情を見た瞬間、そう感じたのだった。

***

 「…はい、これ飲んで」
 コトン、と目の前のテーブルにココアの入ったマグカップを置くと、それまで落ち着かない様子で部屋中を見回していた少年は、アリサを仰ぎ見、続いてぺこりと頭を下げた。
 両手でマグカップを包み込むようにしてココアを飲む姿は、やっぱり“男の子”と表現した方がふさわしい。シャワーを浴びて少し体が温まったのか、顔色は最初見た時よりは幾分かマシになっているように見えた。
 ココアを一口飲んだ彼は、ほっ、と息をつくと、困惑したような目をアリサに向けた。
 「…あの…」
 「なぁに?」
 「服、は…」
 今、彼が身につけているのは、彼の体型には全然合っていない女物のバスローブだけだ。有無を言わさず風呂場に突っ込まれ、上がってみれば服がない、とくれば、困惑するのも無理はない。
 「大丈夫。シャツもジーンズも、洗って乾燥機にかけてるから」
 アリサが苦笑混じりにそう言うと、彼は少し顔を赤らめながら「すみません」と呟き、またマグカップに口をつけた。

 綺麗な子だな、と、彼の向かい側の席に腰を下ろしながら、そう思う。
 水に濡れてもなお明るい色に見える髪といい、長い睫毛や形のいい唇といい―――少年という年齢もあるのだろうが、その顔はどことなく中性的に見える。けれど、そうした顔立ちの綺麗さ以上に、なんというか…醸しだすムードが、純粋で無垢な感じがする。
 最近、この渋谷界隈でも、高校生の姿はよく見かける。ここいらの私立の男子校に通う高校生などが、いわゆる“渋カジ”というファッションに身を包んで闊歩する様は、現代の若者の代表のように扱われているのだから。けれど、目の前の彼の服装は、そうした少年たちが好む「紺のブレザーにインポートジーンズ」とは明らかに違っていた。着ていたパーカーは上質のものだったし、なんとなく育ちは良さそうに見えるが、オシャレをして渋谷や六本木のディスコを遊び歩く類の少年には見えなかった。
 「…ねぇ。キミって、いくつ?」
 自分の分のマグカップに手を伸ばしながらアリサが訊ねる。彼は、チラリと目だけを一瞬上げ、またすぐ俯いてしまった。
 「―――16」
 「じゃ、高校生?」
 こくん、と頷く。郷里にいる弟よりもまだ年下だ。弟はアリサとは4つ違い…今年大学を卒業する。
 「一体、なんだってあんな所で、雨の中傘もささずに座ってたの?」
 これには、何も答えなかった。俯いたまま、黙っている。
 「この辺の高校の子?」
 「…うん」
 「でも、今日って平日よね。サボリ?」
 「…今日は…母さんが…」
 呟くように言いかけて―――少年の言葉が、詰まる。
 俯いた肩が、小刻みに震えていた。眉をひそめたアリサが慌ててその顔を覗きこむと、彼の目に、次第に涙が浮かんできているのが分かった。
 「ちょ…っ、だ、大丈夫? どうしたの」
 この年頃の男の子が泣くなんて、思いもよらないことだ。思わずマグカップをテーブルに置いたアリサは、席を立って彼の傍らに駆け寄り、彼の背中を慰めるように抱いた。
 「お母さんと、喧嘩でもした…?」
 背中をさすりながら訊ねると、彼は何度か首を振った。そのはずみで涙が目から零れ落ちるのを見て、アリサは余計慌てた。
 「ご、ごめんね、立ち入ったこと訊いちゃってっ」
 「……」
 「非難するつもりはないのよ? ただ、キミが、もの凄く寂しそうに見えたから訊いただけで…」
 「……」

 …ああ、もう。
 失敗だった。今、この時期に、こんな子を拾ってしまったのは。
 アリサ自身、今は結構、弱っている。昨日恋人に告げられた言葉に、戸惑い、揺れている。そんな情緒不安定な時に、こんな風に静かに涙を流している姿を見せられると、なんだか―――胸がしめつけられて、放っておけなくなってしまう。

 「…ごめんね?」
 言いながら、ほとんど乾いていない彼の髪を撫でる。俯く頬に手をかけて、少し上を向かせると、涙を湛えた彼の目と、かなり近い距離で目が合った。
 ―――随分、綺麗な目してるんだな…この子って。
 一瞬、見惚れた。
 綺麗なものしか見てこなかったような、澄んだ目。胸の奥に、ほのかな憧れのようなものがフワリと浮き上がる―――それが、失ってしまったものへの憧憬なのか、単に美しいと感じるものへの恋慕なのかは、分からないけれど。
 自分なんかが触れてしまって、いいのかな、と、ふと思う。
 けれど、そう思うより先に、アリサは目を閉じて、彼の唇に宥めるようなキスをしていた。

 「……っ…」
 微かに、息を詰めるような気配―――手を置いた肩が、俄かに緊張する。やたら初々しいその反応に、アリサは違和感を感じて、早々と唇を離した。
 眼前にあったのは、キョトンとしたような、彼の泣き顔。それが―――アリサと目が合った途端、耳まで真っ赤になる。それは間違いなく、うろたえ、混乱している顔だった。
 「…もしかしてキミ、これが初めて?」
 まさか、と思って訊ねると、少年の顔が更に赤くなる。ふいっと逸らされた目が、アリサの質問にイエスと答えていた。
 ―――う…うわ、あたし、とんでもないことしちゃったかも…。
 ファーストキスが特別なのは、女の子に限ったことではないだろう。特に、こういう子にとっては。自らは初恋の相手と結構幸せなファーストキスを経験しているだけに、なんだかとてつもなく酷いことをしてしまったという罪悪感が襲ってくる。
 「ご…ごめんなさいっ! 嫌よね、あたしみたいな10も年上の女がファーストキスの相手なんて。ああ、どうしよう…返してあげようにも、返せるもんじゃないし…」
 慌てふためいてアリサがそう言うと、彼は目を逸らしたまま、小さく首を振った。そのはずみで、また涙が零れ落ちる。
 ―――思い出のワンシーンを奪っちゃった上に、涙が止まってないんじゃ、どうにもならないわね。
 つくづく、自分のしたことの馬鹿らしさに愛想が尽きる。何か方法はないか、と回らない頭で考えたアリサは、そうだ、と思い立って、おもむろに立ち上がった。
 不思議そうな顔をする彼の横をすり抜け、向かった先は―――アップライトピアノ。
 「―――ショパンの“雨だれ”って曲、知ってる?」
 ピアノの蓋を開けながら、振り返りつつ訊ねると、アリサの行く先を目で追っていた彼は、躊躇いがちに小さく頷いた。その戸惑った顔に、アリサは落ち着かせようとするように笑みを返した。
 「じゃあ、キミにその曲、プレゼントしてあげる。…あたしね、ピアニストなの。と言っても、この辺りのバーやレストランで弾くような、場末のピアノ弾きだけど」
 でも―――ピアノ弾いてる時が、一番、幸せ。
 恋人にも告げた言葉を、心の中で繰り返す。また、昨日からの動揺を思い出してしまったアリサは、ポーン…と黒鍵を人差し指で叩いて、その記憶を追い出した。
 「あたし、アリサよ。キミは?」
 椅子に腰掛けたアリサの問いかけに、少年は初めて、僅かな笑みを見せた。
 「―――シンジ」
 「そう、シンジ君ていうの」
 アリサが復唱すると、彼は不思議なほど、幸せそうに微笑んだ。

 何故、名前を呼ばれた位で、これほど幸せそうに笑うのだろう。
 不思議な子―――そう思いながら、アリサはピアノに向き直り、ショパンの調べを奏で始めた。

***

 シンジと名乗った少年は、服が乾くと同時に、アリサの部屋を後にした。外はまだ雨が降っていたので、アリサは彼に、安いビニール傘を貸してやった。
 どうせ数百円で買った間に合わせの傘だから―――そう考え、アリサはその傘を、そのまま彼にあげてしまったつもりでいた。だから、2日後、マンションの前に傘を手にした彼が立っているのを見つけた時には、本当に驚いてしまった。


 「シンジ君!」
 数メートル手前からアリサが声をかけると、向かい側の通りなどをぼんやり眺めていたシンジは、アリサの方に目を向け、ふわりと微笑んだ。
 「こんにちは、アリサさん」
 そう言う彼の表情は、2日前とはうって変わって穏やかだった。アリサも見覚えのある高校のブレザーを着ているところを見ると、今日は学校帰りなのかもしれない。
 「どうしたの? まさか、その傘返しに来たの?」
 「うん。それと…お礼に、これ渡そうと思って」
 そう言ってシンジがアリサに差し出したのは、先日貸した傘と、綺麗な瓶に入ったキャンディーだった。
 「別にいいのに、そんなことしなくても…」
 かえって恐縮してしまうアリサだったが、年下の少年が好意からしてくれたことを突っぱねるのも大人げないと思い、差し出された傘と瓶を素直に受け取った。
 「じゃあ、オレはこれで」
 「え?」
 軽く頭を下げてそう言ったシンジは、驚くアリサをよそに早くも踵を返した。慌てたアリサは、あたふたと空いている方の手で彼の制服の袖を掴んだ。
 「ちょ、ちょっと待って。そんな―――これ渡すだけに来てもらったなんて、悪いわよ」
 「いや、そんな…」
 そう言って困ったような笑い方をするシンジに、もしかして、こうして呼び止めるのは迷惑なのかな、と少し思う。でも―――…。
 「せっかくなんだから、上がっていって? 紅茶とクッキー位ならご馳走できるから」
 そう誘ってみる。するとシンジは、少し驚いた顔をした後、照れたような笑いを見せた。
 「…じゃあ、少しだけ」
 その笑顔を見て、アリサは何故か、ホッと安堵した。


 シンジは、控え目な少年だった。
 アリサの部屋へ上がっても、アリサが「どうぞ座って」と言うまでは座らないような、そんな遠慮がちな子だった。
 紅茶を淹れて、クッキーを並べて―――気づけば、アリサばかりが話をしていて、シンジはそれを楽しげに聞いているばかり。自分が東北出身であることや、地元の音大を辞めて19歳で上京したこと、実家には2匹の大型犬がいること…全部喋ってしまったというのに、聞き役に徹しているシンジの身の上は、ほとんど何も聞き出せなかった。

 ピアノで2曲ほど披露したところで、シンジは丁寧にお礼を言って、家に帰ると言った。
 「今日は時間があるから、夕飯くらいご馳走できるのに…」
 この前、母親と何かあったらしい気配を感じたので、そう言って少し引き止めてみた。が、シンジはふわりと微笑んで小さく首を横に振った。
 「待ってる人がいるから」
 そう言った時のシンジの目が、何故か酷く寂しそうに見えたのが、心に引っかかって。
 「また、学校帰りにいらっしゃい。午後なら夕方まで大抵1人でいるから」
 思わずアリサは、そう、シンジに告げていた。

***

 翌日の午後も、シンジはやってきた。
 「アリサさんに、お願いがあって」
 「なぁに?」
 「その…アリサさんの部屋に活けてあった花、スケッチさせてもらってもいいかなあ…?」
 シンジは、絵を趣味としているのだという。快くOKすると、彼は嬉しそうに笑い、テーブルの上に置かれた花瓶をせっせとスケッチしだした。
 途中、ちょっとそれを覗いてみたアリサは、彼の趣味がかなり高度なレベルであることに内心舌を巻いた。もしかしたら、美大でも目指してるのかもしれない―――本気でそう思った。
 「シンジ君は、アマデウスね」
 紅茶のおかわりを淹れながら、アリサが呟く。するとシンジは、不思議そうな顔をした。
 「アマデウス?」
 「モーツァルトの名前。“神に愛されている”っていう意味よ」
 「…それは、褒めすぎなんじゃないかなぁ…」
 困ったようにそう言うシンジは、首を捻りながらも、鉛筆をせっせと動かし続けている。そしてサラリと、アリサにこう返した。
 「アリサさんの方が、アマデウスだと思うけどな」
 「…えっ」
 「“天上の調べ”って気がした。初めてアリサさんのピアノ聴いた時」
 「……」

 ―――亜里沙のピアノは、天上の調べだ。僕は、亜里沙の一番のファンだよ。

 恋人の―――朔哉の言葉を思い出し、胸がしめつけられる。けれど、何も感じなかったフリをして、アリサはティーポットにお湯を注いだ。


 その次の日も、シンジはアリサの部屋を訪ね、今度はアリサをスケッチさせて欲しいと言った。
 「クッキーと紅茶とピアノのお礼に、アリサさんの絵を描いてあげたいと思って」
 自分が絵になるなんて、恥ずかしい。けれど、純粋にシンジの気持ちが嬉しくもあったので、アリサはピアノを弾いている姿をスケッチしてもらうことにした。
 ドビュッシーやラフマニノフを弾くアリサの傍らで、床に直接腰を下ろしたシンジが、無心に鉛筆をスケッチブックの上に走らせている。そんな時間が、ゆっくりと―――穏やかに、過ぎていく。

 1人の時間が減ることは、今のアリサにはありがたいことだった。
 1人でいると、考えたくないことを考えてしまう―――それが嫌だから、シンジをお茶に誘ったのではないか、そんな風に思う自分もいる。
 アリサは、孤独だから―――朔哉以外、心を開ける相手が、ここにはいないから―――朔哉の問題になると、もう逃げ場所がどこにもなくなってしまう。自分を追い詰め、考えすぎて、1人で自己嫌悪に陥ってしまう。
 柔らかなムードと綺麗な目を持つ少年は、そんな今のアリサにとって、格好の逃げ場となっていたのかもしれない。
 フワリと柔らかに受け止めてくれる空気に、その時間だけは全て忘れられるような気がして―――だから、マンション前で再会した日、シンジがアリサの誘いに応じてくれたことに、あれほど安堵したのかもしれない。

 その日もシンジは、夕方になるとスケッチブックを閉じ、帰り支度を始めた。よほど厳しい家の子なんだろうか―――今時珍しい子だな、と不思議に思う。
 「あたしのスケッチは描けたの?」
 若干の名残惜しさを感じて訊ねるアリサに、学生鞄を持ったシンジは軽く首を傾げた。
 「ほぼ…、かな? 家で仕上げたら、明日持ってくるつもりだけど…いいかな」
 「じゃあ、楽しみにしてるわね」
 明日も来てくれるんだと分かって、アリサはまたホッと胸を撫で下ろした。

***

 翌日、シンジは、3時過ぎに姿を現した。
 「はい、これ」
 部屋に入るなり、シンジがそう言ってアリサに差し出したのは―――水彩絵の具で綺麗に彩色された、アリサの肖像画だった。
 実物より美人に見えるその絵に、アリサは照れてしまって「ヨイショしたって何も出ないわよ」と憎まれ口を叩いてしまった。でも、喜んでいるのはシンジにも伝わったのだろう。アリサの憎まれ口にも、シンジは楽しげな笑いを返していた。
 「毎日紅茶とクッキーじゃ芸がないと思って、今日はケーキ買っておいたの。ショートケーキとチーズケーキ、どっちが好き?」
 「ええと…チーズケーキ、かな」
 「了解。じゃ、そこに座ってて」
 シンジに座るよう促し、冷蔵庫にアリサが手を掛けたその時、リビングに置かれた電話が突然鳴った。
 こんな時間に電話があるなんて、滅多にないことだ。不思議に思いながらも、アリサは冷蔵庫から手を離し、電話の置かれたローボードへと駆け寄った。
 「―――はい?」
 少し警戒気味の声で電話に出ると、受話器の向こうから聞こえた声は、予想だにしない声だった。
 『亜里沙? …僕だよ』

 どきん、と、心臓が鳴った。
 ―――何故、朔哉が。
 何故、今日、朔哉が電話してくるのか。一瞬、頭が混乱する。その混乱はアリサの足元をふらつかせ、後ろに1歩よろけてしまったアリサは、縋るようにローボードに手をついた。

 「さ…くや。どうしたの。今、どこなの?」
 『まだロスだよ。…予定通り、明日、帰る』
 「……」
 『その足で、亜里沙のとこに行こうと思うんだ。多分、夜遅くになると思うけど―――いい、かな』
 明日の、夜。
 鼓動が、速くなる。確かに1週間後と言っていたが―――それが明日であることも分かっていたが―――考えないようにしていたのかもしれない。目前に迫った時間をつきつけられて、妙な焦りが背筋を這い上がるのを感じる。
 「…ええ。いいわ。待ってる」
 『そう? 良かった。逃げられたらどうしようかと思った』
 ホッとしたような朔哉の声に、朔哉の不安を思い知らされ、また自己嫌悪に陥る。こんな風に、朔哉には不安ばかり与えてしまう。情けない―――朔哉より1つ年上だというのに。
 『外からなんで、もう切るよ。じゃあ…また、明日』
 「気をつけてね」
 電話の向こうの朔哉が、少し、笑う。その笑い声を最後に、電話は切れた。
 途端―――どっと襲ってくる、疲れと、恐怖。

 …明日の、夜。
 どう、返事すればいいのだろう? 朔哉を傷つけたくない。朔哉に軽蔑されたくない。けれど…離れたくない。朔哉から離れられない。
 かといって、黙っているなんて許されないことだ。黙って受け入れてしまえば、彼の人生を穢してしまうことになる。そんな真似はできない。それは罪だ。
 では、どうすればいいのだろう―――…?

 「…誰か来るんだったら、オレ、帰るよ?」
 電話の内容を察したらしいシンジの声で、アリサは我に返った。気づけば、まだ受話器を握り締めたままだ。力なく笑ったアリサは、受話器を置き、大きな溜め息をついた。
 「いえ―――違うの。彼が来るのは明日よ。だから帰らないで」
 1人で置いていかないで。
 叫びそうになった。今、1人になったら、本当にどうなってしまうか分からなくて、怖い。
 「あたし…、あたしって、ダメなのよ」
 ―――この子に言って、どうしようというのだろう?
 …分からない。でも―――ただ、聞いて欲しくて。
 この子なら聞いてくれるんじゃないか―――そんな甘えから、歯止めがきかなくなっていた。ローボードに縋ったアリサは、今にも泣き出してしまいそうな予感を覚えながら、震える唇を開いた。
 「―――彼…は…、朔哉は、綺麗なの。音大出身のバイオリニストで…音楽一筋で生きてきて、才能にも恵まれて―――ロスにある管弦楽団に呼ばれて、半月後にはロスへ行くことになっているの。一点の曇りもない…綺麗な人なの」
 「…うん…」
 「ついてきてくれって…あたしが必要だから、ロスで一緒に暮らそうよ、って、そう言ってくれたけど…あたしはダメ。あたしは全然、綺麗じゃないの。それを朔哉に言うのが怖い。…軽蔑されるのが怖いのよ」
 「…何が、そんなに怖いの?」
 「過去を知られるのが、怖いの」
 涙を堪えるにも、限界があった。零れ落ちた涙が、ローボードについた手の甲に落ちた。
 「上京したての頃、ね。あたし、夢はいっぱいあっても、それに見合うだけの才能もなくて…東京での暮らしって、お金お金―――お金ばっかりで、ホントに苦しくって―――あたし…、あたし、お金のために、何度か体を売っちゃったの…」
 「……」
 「それ以外でも、風俗のお店、何軒か転々として―――思い出すだけで虫唾が走るような仕事ばっかりだった。つい、2年前まで。…あたしは、女としての尊厳と引き換えに、お金をもらっちゃったの。あたしは汚れてる…最低の女なの。朔哉には全然似合わないのよ」
 「―――そんなこと、ないよ」
 少し眉を寄せてそう言うシンジに、アリサは激しく頭を振った。1年半前、朔哉と知り合った時から、ずっと抱えてた苦悩だ。キスも知らない高校生の慰めの一言くらいで、簡単に払拭できるものではなかった。

 一点の曇りもない、綺麗な人生を送ってきた朔哉。
 恋人になれた時、とても嬉しかった。…でも、朔哉は所詮、自分とは住む世界が違う人だと、心のどこかでずっと線を引いていた。彼が彼の世界へ戻る時、自分はまた1人きりでここに取り残されるのだと―――そう思っていた。だから、恋人でいる間は精一杯楽しく過ごそうと思ってきた。
 なのに…結婚してくれ、だなんて。
 所詮他人な恋人と、彼という人間の一部でもある伴侶とでは、全く意味が違う。朔哉の綺麗な人生の一部に、自分のような汚れた女がなってしまうなんて、彼に才能を与えた神様だって絶対許さない筈だ。彼の伴侶にふさわしいのは、彼同様、美しい人生を送ってきた、清廉な女性に違いない。金のために男に魂を売った女だなんて―――こんな自分が伴侶だなんて、どうしても思えない。
 それは、一種の、朔哉に対するコンプレックスかもしれない。恵まれた彼が妬ましい、そういう部分があるから、自分をひたすら卑下してしまうのかもしれない。でも…だからこそ、こんな醜い心の自分では駄目だと、余計思うのだ。

 「…そんなこと、ないよ…」
 もう一度、言い含めるような声が耳に届き、気配がすぐ傍に近づくのが分かった。そして―――伸びてきた手に、まるで子供か何かをヨシヨシとするみたいに、頭を撫でられた。
 「アリサさんは、綺麗だよ?」
 「…嘘…」
 「綺麗だよ」
 俯くアリサの顔を覗きこんだシンジは、そう言うと、ボロボロに泣いているアリサに向かって、やたら少年ぽく笑ってみせた。
 「だって、アリサさんは、オレを助けてくれたじゃない」
 「…助けた…?」
 「初めて会った時。…オレ、凄く苦しくて、倒れそうだったんだ。あのまま、雨に溶けて消えてなくなっちゃいたい、って思う位…辛かったんだ。あの時、アリサさんだけが、オレに気づいて声をかけてくれたじゃない。オレ―――嬉しかったよ。幸せだった、アリサさんが見つけてくれて」
 「……」
 「アリサさんの魂は、凄く綺麗だよ。オレには、ちゃんと見える。…きっと、アリサさんの恋人にも見えるよ」
 ―――魂が、綺麗―――…?

 ぼんやりとシンジの言葉を頭の中で繰り返した刹那、ふわり、と、何かが唇に落ちてきた。
 それがキスだということをアリサが理解するまで、少し時間がかかった。

 それは、とても、不思議な感覚。  
 触れ合った唇だけ、浄化されていくような感じがする。綺麗なものに触れて―――そこだけは、朔哉にふさわしい、まっさらなものに変わった気がする。何故なのか、アリサにも分からないけれど…シンジが触れてくれた唇は、さっきまでの自分とは、どこか違うように感じられた。

 「…シンジ君…」
 「…なに?」
 「キミ、本当は、天使なんでしょう…?」
 涙を零しながらのアリサのセリフに、シンジは可笑しそうに笑った。けれど、言葉では肯定も否定もしない。だから余計、本当は人間じゃないのかも、なんて馬鹿げたことを考えてしまう。

 …この子に触れてもらえば、全てが浄化されるだろうか。

 一時でも、まっさらな自分に戻って―――朔哉に真実を打ち明ける勇気をもらえるだろうか。

 思わず手を伸ばし、窓から射し込む光で金色に輝いてさえ見えるその髪に、指を差し入れる。
 アリサの方からの口づけに、シンジは一切、抵抗しなかった。ただ穏やかに、それを受け入れてくれた。
 「…キミって、女の人も、初めてよね」
 「…うん」
 「―――キミみたいな子に触れる最初の女の人が、あたしなんかでも、いいかな」
 「…いいよ」
 ふわり、と、柔らかい笑みを浮かべたシンジは、一切の躊躇なくそう答えた。
 「必要とされるって、もの凄く幸せなことだから―――アリサさんに、今、オレが必要なんだったら…いいよ」

 ―――必要とされるって、もの凄く幸せなことだから―――…。

 …じゃあ、あたしって、凄く幸せな人間ね。朔哉に、あんなにも必要とされて。

 シンジのその言葉は、アリサの耳から全身に伝わり、ゆっくりと胸の奥へと浸透していった。
 不思議なことに、その言葉の音色は―――アリサが一番好きな、エリック・サティのピアノ曲と、とても似ている気がした。

 

 

 アリサがベッドで目を覚ますと、既に日は落ち、カーテンが開けっ放しの部屋は真っ暗闇に包まれていた。
 「―――シンジ君…?」
 灯りをつけ、傍にいてくれた筈の少年を探したが、どこにも見当たらない。
 ベッドの隣の空間に手を置いてみると、まだ温もりが残っていた。出て行ってから、まだそう時間は経っていないようだ。そういえば、日が落ちる頃にはこの部屋を出て行くのが彼の常だった。“待ってる人がいるから”…そう言い残して。
 「…天国に帰っちゃったのね」
 そんな風に考え、ひとり、クスッと笑ってしまう。その時―――アリサは、シンジがいた筈のベッドの上に、何かが置かれているのに気づいた。
 体を起こし、落ちてきた髪を掻き上げながら、それに手を伸ばす。そこにあったのは…1枚の、スケッチ。描かれていたのは、アリサの眠っている顔だった。
 なんて子供みたいな、あどけない寝顔なんだろう―――自分の顔なのに、そのあまりの無垢さに思わず見入ってしまう。自分はこんな顔をして眠っていたのだろうか。それを知らせたくて、シンジはこのスケッチを置いていったのだろうか…。
 ―――人が悪いわ。寝てる間に、勝手にモデルにしちゃうなんて。
 苦笑しながら、心の中で抗議する。ちょっと困ったような笑い方をして「ごめん」というシンジの様子が、今目の前にいるみたいに脳裏に浮かんできた。

 …きっとあの子は、もう、来ない。
 あの子は、1週間だけ、神様があたしに与えてくれた子供なんだ。
 朔哉への返事に迷っているあたしに、神様がちょっとだけ貸してくれた子―――だから、役目を終えた今、彼はあたしの前から消えてしまったのに違いない。

 「…これは、天使が残していった羽根ね、きっと」
 スケッチに再び目を落として、アリサは思わずそう口にして笑った。
 そんな馬鹿げた御伽噺を、まるで小さな子供みたいに信じられてしまう自分が―――可笑しくて、愛しかった。


***


 翌日の夜、玄関に朔哉が入ってくると同時に、アリサはその首に腕を回し、抱きついた。
 「亜里沙……?」
 少し驚いたような声が、耳のすぐ後ろから聞こえる。1週間ぶりに聞く朔哉の声に、アリサはさらにきつく抱きついた。
 「…お帰りなさい」
 「―――ただいま。会えなくて、寂しかった」
 「…本当?」
 「本当だよ。亜里沙がいないと―――寂しくて、苦しくて、ただのバイオリン弾き人形になった気分だった」
 背中と腰に回された腕が、それが真実だと伝えてくれる。
 君が愛しいと―――言葉よりもっと饒舌に、朔哉のその想いを、伝えてくれる。

 ―――朔哉は、あたしがどんな人間でも、あたしを必要としてくれるかな。
 怖くて怖くて、仕方ない。でも―――シンジ君がくれたパワーを、今だけ、信じてみよう。

 「朔哉」
 目を閉じたアリサは、また縮こまってしまいそうになる自分を奮い立たせるように息を吸い込み、ずっとずっと言えなかった言葉を口にし始めた。

 「朔哉―――あたし、あなたにまだ言っていないことがあるの―――…」


***


 それから、半月後。
 マンションの前に立ち、3階の右から2番目の窓を見上げた慎二(シンジ)は、そこに“空き部屋有り”というステッカーが貼られているのを見て、微かに笑った。ほらね、朔哉さんにはちゃんと見えたでしょ?―――と。

 ―――朔哉さんと一緒に、天国へ行ったんだね、アリサさん。

 Los Angels ―――なんてピッタリな名前の街なんだろう。彼らにとっての新天地・ロスは、きっと天国みたいな所に違いない。…もっとも、2人でいれば、どんな場所だって天国なのだろうけれど。
 2人は今頃、新しい世界で、2人の音楽を奏でているだろう。バイオリンを弾く朔哉の隣、幸せそうな顔をしてピアノを弾くアリサを思い浮かべ、慎二は余計、口元を綻ばせた。

 耳に甦るのは、天上の調べ―――迷いと混乱の中、一時、慎二に全てを忘れさせてくれた、優しい音楽だ。

 「工藤ーっ。行こうぜ」
 同じ制服を着た同級生の声に、慎二は視線を移した。仲間が2人、20メートルほど先でぶんぶんと手を振っている。
 「うん―――待って。今、行く」
 ふわりと微笑んだ慎二は、スケッチブックを抱え直すと、彼らの方へと軽い足取りで駆けていった。


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