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scene4: メイ

 メイは、仕事のない昼間の時間を、そのファーストフード店で過ごすのが常となっていた。
 コーヒー1杯で、午後の数時間、窓際の席に居座る。客の出入りの激しい店なので、それでも店員に文句を言われることはなかった。
 この日課が始まったのは、今から1ヶ月ほど前―――偶然立ち寄ったこの店の窓から、“彼”の姿を見つけた時からだ。
 道端に座り込み、ぼんやり道行く人や灰色の空を眺めて過ごす彼は、メイの目には自分と同じ位の年齢に見えた。その服装から、彼が近所の高校に通う学生であることも分かった。何年生なのかは、分からないけれど。
 一体、何をしているのか…気になって、ずっと見ていた。待ち合わせだろうか? それともあの年齢で迷子にでもなったのだろうか? 彼は、何をするでもなく、ただぼんやり座っているだけ―――その姿が、どことなく寂しそうに見えて、気になってしまった。
 気づけば、手にしていた紙コップの中のコーヒーは空になっていた。そしてその時―――窓ガラス越しに、彼と目が合った。
 手前の歩道と、狭い車道を隔てた、その向こう。結構距離があるが、それでも彼の目がとても綺麗な目であることは分かった。
 メイと目が合った彼は、すっとその目を細め、微笑んだ。
 その天使を思わせる綺麗な笑顔に―――メイは、それ以上目を合わせていられずに、俯いてしまったのだった。

 以来、メイは、暇になるとこの店の同じ店で、外を眺めて過ごすのが日課になった。あの時の彼が、また同じ場所に来るかもしれない…そんな淡い期待を抱いて。そしてその期待は、週に1、2度の頻度で叶えられた。
 そして今日、目が合った彼は、笑顔でメイに手を振ってくれた。それだけで、生きてて良かった、なんて大げさな感慨を覚えた。

 この国に来て、10ヶ月―――これが恋というものなのだろう、と、メイはなんとなく思った。それは、メイにとって、初めての恋だった。

***

 ―――親愛なるお兄さん

 お元気でしょうか。お母さんの具合はどうですか? リンやルゥは、お兄さんを困らせてはいないでしょうか。サエはちゃんと、妹の面倒を見てますか?
 私は、元気です。
 この国は、本当に豊かです。私のような人間でも、毎日食べるものに困らず生きていけます。お母さんや兄弟たちのいない寂しさに、時々祖国に帰りたくなるけれど、仲間もいるし仕事もあるし、幸せにやっています。
 今月分のお給料を送ります。電話はいつも通り15日にかけます。

 最近、ちょっといいことがありました。
 色々迷ったけれど、やっぱり日本に来て良かったと思ってます。だから、電話ではいつもの元気なお兄さんの声を聞かせて下さい。

 いつも心は家族と一緒にあります。
 あなたの妹、メイより。

 

 書き終えた手紙を封筒に入れると、メイは、控え目に点けていた電気を消し、鉛のように重い体で立ち上がった。
 背後にある二段ベッドの下段に体を滑り込ませる時、同室の女の子がくしゅん、と小さなくしゃみをした。起こしてしまったかな、と不安になって息を潜めたメイは、やがて規則的に聞こえてくる静かな寝息を耳にして、ホッと胸を撫で下ろした。 目の下まで布団に覆われる位布団の中にもぐりこむと、メイは静かに目を閉じ、窓の外の喧騒に耳を澄ました。
 真夜中になっても止むことのない喧騒は、1ヵ月半前まで住んでいた新宿よりは静かだ。そろそろ新宿はヤバイらしい―――そんな噂が飛び交って、不安ながらも渋谷に移り住んだのだが、住みやすさから言ってもこちらに移って正解だったように思う。

 父が亡くなり、母が倒れ―――2つ年上の兄とメイより2つ下の妹、更に幼い弟と妹というメイの家族は、今、兄とメイの稼ぎで暮らしているに等しい。しかも、稼ぐ金は、メイの方がはるかに上だ。メイの国でいくら頑張っても得られないほどの大金を、この国ではほんの数日で稼げてしまうから。
 なんて裕福な国なんだろう―――メイの国で一番裕福な者でも、この国の一番貧乏な者よりまだみすぼらしい格好をしているのではないだろうか。病弱な兄に無理をさせる位なら、自分がこの国で働く方がずっといい。入国管理局がちょっと怖いが、それ位のリスクは仕方ないだろう。年齢と仕事の内容を考える限り、メイがビザを取れる訳がないのだから。
 メイが働く店は、このアパートから歩いて10分の所にある。メイにとっては、これが3ヶ所目の職場だ。
 過激な服装で客の接待をするというあまり褒められた仕事ではないが、本番行為をさせられない分、日本に来て最初に働いた店よりは数段マシである。最初の店は最悪だった。覚悟の上で日本に来たとはいえ、処女は客に出せないと言われて無理矢理店長に奪われた時には、本当に死にたい気分になった。あの頃の屈辱感に比べたら、今の生活は天国だ。
 上のベッドに寝ている彼女などは、メイが思わず耳を塞ぎたくなるような変質的なサービスを強いられる店に雇われているから、毎晩帰宅するたびに生傷が絶えない。「下手な客がいるとこうなる」と憤慨したように言う彼女は、それでもその店を辞めたりはしない。彼女には、故郷に彼女の助けを待つ弟や妹、年老いた両親がいる。もっと稼げるなら、もっと危ない仕事でも構わないと彼女は笑う。兄の働きがある分、自分は恵まれている方だ―――メイは、そう思っている。

 ―――でも…私がせめて、この国の一番貧しい人位の人間だったら、あの人に勇気を出して声をかけるんだけどな…。
 昼間、笑顔で手を振ってくれた彼を思い出して、メイはちょっと寂しい気持ちになった。
 日本に来て1年近くなるが、まだそれほど流暢に日本語を喋られる訳ではない。相手の言うことが分からないことも度々ある。言葉の不自由さだけ考えても足が竦む。
 それに、なんと言っても、やっている仕事が仕事だ。きっとこの国の同世代の女の子は、こんな真似はしていないに違いない。そういう当たり前の女の子に慣れている筈の彼の目には、自分など薄汚くて最低な奴に見えるかもしれない。それを考えると、竦んだ足が地面にくっついて離れなくなる。

 1日でいいから、普通の日本人の女の子になれたらいいのに。
 そんな、叶う筈のない夢に誘われるように、メイは眠りの淵に落ちていった。

***

 数日後、偶然、通学途中の彼を見かけた。しかも、住んでいるアパートの窓から。
 夜の仕事をしているメイは、普段、午前3時頃に帰宅して、昼近くまで眠っていることが多い。けれどその日は、学生が登校する時間帯に目が覚めてしまい、窓から外を見たら偶然彼が通りかかっていたのだ。
 2階の窓から見かけただけなので、最初、彼とは分からなかった。けれど、眼下を急ぎ足で通り過ぎ、次第に遠ざかっていく背中と風にフワリと揺れた明るい色の髪に、それが彼であることに気づいた。気づいた途端―――思わず、大慌てで、カーテンの陰に隠れてしまった。
 まさか、ここを通学路として使っていたなんて…全然、気づかなかった。いや、こんな時間に起きていたなんて初めてだから、気づかなくて当然なのかもしれないけれど。
 もしかしたら帰りも通るかもしれない…そう思って、午後からもメイは、窓を少しだけ開けて、下を見ていた。
 こんな街中でも、窓から5月の風が流れてくるのを感じて、なんだか不思議な気がした。日本に来てから、こんな優しい風に気づいたのは、これが初めてだったから。
 残念ながら、彼は通らなかった。
 急ぎ足で歩き去った朝の様子を思い出して、もしかしたらこの道は、遅刻しそうになった時の近道なのかもしれないな、とメイは推理した。

 

 翌日は、同室の彼女との約束があるため、例のファーストフード店にはあまり長居できなかった。
 こういう日に限って彼が現われるのだから、ついていない。学校帰りらしく、制服姿で道端の縁石に腰を下ろした彼は、スケッチブックらしきものを持ってしきりに何かを描いていた。
 ―――そういえば、時々、絵を描いてるなぁ…。
 ぼーっとしている日が大半だが、過去にも1度か2度、ああして絵を描いている姿を目にしたことがある。多分、絵の好きな人なのだろう。郷里にいる2つ下の妹も絵が大好きで、小さな黒板に石灰でよく絵を描いていたのを思い出す。そんな、愛しい家族との共通項を見つけて、メイは少し嬉しくなった。
 絵を描いている時の彼は、いつも見る彼とはちょっと違っている。ピン、と研ぎ澄まされたようなムードを持っていて、優しそうというよりカッコイイ感じがする。そんな姿をぼんやり眺めていたら、店の壁に掛けられたからくり時計が午後3時を告げた。
 そろそろ、アパートに戻らなくてはいけない。メイは、残っていたコーヒーを一気に飲み干すと、名残惜しい気持ちで席を立った。

 ―――いつもなら、あの人があの場所離れるまで、ずっと見てるんだけどな。
 アパートまでの15分ほどの道のりの間、メイはそんな愚痴を心の中で繰り返していた。最近の唯一の楽しみだけに、いかに友達との約束があるとはいえ、いまだ彼があの場所に座っていると思うと、ちょっと悲しい。2階へと続く階段を上りながらも、つい溜め息をついてしまう。
 コンコン、と自室のドアをノックしたが、返事はなかった。
 「ミン?」
 同室の彼女の名前を呼んだが、やはり返事がない。どうやら、彼女の方はまだ帰ってきていないらしい。仕方ないので、Gパンのポケットから鍵を引っ張り出し、部屋の中に入った。
 昼に出た時と同じ状態の部屋は、なんだか埃っぽく感じられる。少し顔を顰めたメイは、狭い部屋を突っ切って、窓をカラリと開けた。
 そして、その眼下に目をやった瞬間―――あまりのことに、心臓が止まりそうになった。

 彼が、そこにいた。
 鞄とスケッチブックを小脇に抱え、メイのアパートの窓をキョロキョロと順番に見ている。そして、ちょうどメイが窓を開けたのに気づくと、パッ、とメイの方を見上げたのだ。
 ―――な…っ、なんで―――!?
 パニック状態のメイは、カーテンの陰に隠れることもできず、アルミサッシを掴んだまま固まってしまった。何故彼がそこにいるのか、全然分からない。もしかして、後をつけてきた…? いや、だとしても、何故?

 びっくり顔のまま固まっているメイとは対照的に、彼は不思議な位にほっとしたような笑顔を見せていた。斜めを向いていた体をきちんとメイの方に向けると、彼は空いている右腕を大きく使って、空中に字を書いてみせた。
 『2、0、2』
 小首を傾げるような様子からすると、どうやら「その部屋は202号室か」と訊いているようだ。確かにこの部屋の部屋番号なので、メイは戸惑いながらもコクンと頷いた。
 それを見た彼は、笑顔でOKサインを作って見せた。どうやら「分かった」ということらしい。一体どういう意味なのか、その続きを待ったメイだったが、なんと彼は、笑顔でヒラヒラと手を振ると、くるりと踵を返して歩き去ってしまった。
 ―――え…っ? な、何だったの、今の???
 目をパチパチと瞬いたメイは、何が何だかさっぱり理解できないものの、かと言って呼び止める訳にもいかず、呆気にとられたまま彼の背中を見送るしかなかった。
 彼の背中が、角を曲がって見えなくなって初めて、心臓がドキドキいっているのに気づいた。あまりにも驚きすぎたせいで、そんなことにすら気づかなかったのだ。固まっていた手をサッシから外したメイは、大きく息を吐き出し、その場にペタリと座り込んでしまった。

 言葉でではないけれど、話ができたことは、嬉しかった。
 でも、それ以上に―――辛い。知られたくなかった。ここに住んでいることは。
 このアパートは、外国人の居住者が多いことで有名なアパートなのだ。実際、メイにしても、以前からここに住んでいた前の店の同僚からの紹介で入居した。隣の部屋も、そのまた隣の部屋も、国は違えどもみな不法に滞在している外国人だ。入居条件が甘いから、こういう結果になったのだろう。
 メイは、パッと見た感じでは日本人だと言っても違和感がないような顔をしている。口を開かなければ、日本人で通せるかもしれない。彼がこのアパートについて知っているかどうか分からないが―――でも、自分より前からこの界隈を行き来していたらしい彼なら、知っていても当然のように思う。
 自分の国に、誇りは持っている。けれど…彼には、知られたくなかった。
 ただの日本人のありふれた女の子だと思って欲しかったのに―――…。

 

 彼の謎の行動の意味をメイが知ったのは、翌日だった。

 「メイ! ほら、起きてごらんよ!」
 玄関口で騒いでいるミンの声で目を覚ましたメイは、目を擦りながらベッドから這い出た。
 「何…?」
 「あんたにラブレターだよ」
 「えっ!?」
 いっぺんで、目が覚めた。
 店の客に電話番号などを渡されることはあるが、彼らがメイの住まいを知る筈もない。質の悪いミンのジョークだと思いつつも、慌ててミンのもとに駆け寄ったメイは、ミンがからかうような笑顔でヒラヒラさせている何かを、空中でぱっ、と奪い取った。
 「ドアの郵便受けから投げ入れたらしいよ。さっき起きたら、玄関に落ちてたんだ。きっと朝、入れていったんだろうね」
 「―――…」
 それは、ちょうど彼が持っていたスケッチブックと同じ位の大きさの、白い紙だった。
 丸めてあったらしく、緩やかなカーブを描いている紙面には―――メイの横顔が描いてあった。
 色鉛筆で彩色されたメイは、白い紙コップを両手で包むようにして口に運んでいる。その様子からも、彼がこれをあの路上で描いたのだということが分かる。服装はよく分からないが、多分、昨日のメイだろう。部屋を確認した彼は、自宅かどこかで彩色を施して、今朝、学校に行く途中でこれを入れていったのに違いない。
 絵の右下には、紫色の色鉛筆で、カタカナが書かれていた。漢字や平仮名はまだちゃんと読めないメイだが、カタカナなら読めた。日本で最初に友達になった同郷の女の子に教えられたからだ。

 『ミツケテクレテ アリガトウ      シンジ』

 「…“ミツケテ…クレテ…”?」
 ―――何を?
 多分、見つけてくれて、という意味だけれど…何か自分が見つけたものがあっただろうか? ―――そう思って首を傾げるメイだったが、ふと、初めて彼に気づいた時のことを思い出して、なんとなくその意味を理解した。

 見つけてくれて、ありがとう―――“僕”を。

 「なぁに? メイ。あんたの知り合いなの、これ描いた日本人」
 「…ううん」
 知り合い、ではない。だって、まだ一言も言葉を交わしていないのだから。
 でも、メイは、彼のことを知っている。ふわふわとした幸せそうな微笑を持つ、ちょっと変わった、絵が大好きな男の子だということを。そして彼もまた、メイのことを知っていてくれた―――彼に憧れる、ちゃんとした日本語の読めない、寂しがりの異邦人の女の子があそこにいることを。
 「…“シンジ”って、いう名前なんだ…」
 右下に入っているカタカナを指でなぞり、メイはクスッと笑った。
 日本人の名前の良し悪しなど、わからないけれど―――なんだか似た形のカタカナが3つ並んだその名前は、バランスが良くて、彼によく似合うと、メイは思った。

***

 ―――お礼がしたいけど、何を買えばいいんだろう…?
 さんざん迷った末、メイは、日本に来て初めて画材屋に入り、12色入りの色鉛筆のセットを買った。
 買ったはいいが、今度は、それをどうやって渡すかで悩んだ。声を掛けて渡すなんて、恥ずかしくてできない。かといって、彼がアパートの前を通りかかるのをひたすら待つ手もいただけない。2階から放り投げたりしたら色鉛筆が折れてしまう。
 悩んでいるうちに、3日ほど経ってしまった。その3日の間、彼は一度も、例の道端に姿を現さなかった。
 勿論、これまでも毎日来ていた訳ではないが、3日連続なんて久々のことだ。もしかしたら、もう来れないから、最後の思い出にあの絵を描いてくれたのかもしれない―――どうやって渡すかも決めていないのに、いちいち色鉛筆セットを持参してファーストフードに行っていたメイは、ちょっとがっかりした。


 4日目の朝、珍しく早起きした。
 ちょうどいい時間帯だったので、窓を開けて外を見てみた。例の彼と同じ制服を着た少年が、何人か眼下を通り過ぎてゆく。やはり登校時間帯のようだが、まだ遅刻するような時間ではないようだ。可能性は低いな、と思いながらも、メイは窓枠に頬杖をついて、なんとなく彼らの様子を眺め続けた。
 同じ制服だというだけでドキッとしてしまう部分はあるが、やっぱり、誰も彼と似ていない。
 彼はいつも、真綿で包んだみたいに、ふわふわ優しい空気をいつも纏っている。眼下を通り過ぎる少年たちのようながさつさも荒削りさもないし、メイの客のような脂ぎったような男臭さもない。でも…女の人とも、全然違う。間違いなく男の子で、でも、全然怖いところのない人―――遠くから見ても、どれだけ同じ制服姿の中に紛れても、彼の姿は絶対見つけられる自信がメイにはあった。
 だから―――彼とそっくりの色の髪をした制服姿が角を曲がって現われた時、メイはすぐにそれに気づき、思わず屈めていた腰を伸ばして目を見開いた。
 彼は、今日は時間に余裕があるのか、のんびりした様子で歩いている。ブレザーのポケットに片手を突っ込んで、どこか遠いところに目をやりながら。別に、遅刻しそうでこの道を選んだ訳じゃないらしい。そして―――その目が、メイの部屋の窓を見上げた。

 …どうしよう。
 急すぎて、ちっともいいアイディアが浮かばない。でも、どうしよう。

 また、頭がパニックになりかける。オロオロしているメイを見つけた彼は、窓の下に足を止め、手を振ってくれた。
 その笑顔を見た瞬間―――ぐちゃぐちゃに乱れていた頭の中が、すーっと落ち着いた。
 メイは、彼の挨拶を「ちょっと待って」というように手で制すると、大慌てで机の上の紙袋を掴んだ。中には、例の色鉛筆セットと、ミンに指導を仰ぎながら書いた短い手紙が入っている。
 再びメイが窓から顔を出すと、彼はキョトンとした顔をして、そのままその場で待ってくれていた。ホッとしたメイは、手提げのついたその紙袋を窓の外に差し出し、彼に渡そうとするような仕草をしてみせた。
 オレにくれるの? という顔で、もの問い顔の彼が自分の胸の辺りを指差す。メイが笑顔で大きく頷くと、彼はパッ、と表情を明るくし、鞄を地面に置いて、紙袋を受け取ろうとするように両手を差し出した。
 タイミングを見計らい、紙袋の手提げから手を離す。
 色鉛筆のケースが金属でできていて、比較的重かったのが良かったのだろう。小さな手提げ袋は、ほぼ真下に落下した。ひっくり返ることも、キャッチし損ねて地面に落ちることもなく、ストン、と彼の両手の中に収まったそれを見て、メイは大きな安堵の息を吐き出した。
 目の下にいる彼は、彼女を見上げて嬉しそうに微笑むと、手の中に収まった紙袋の中身を確かめようとするように、その中を覗き込んだ。
 彼に気に入ってもらえるかどうか不安で、自分が見よう見真似で書いたカタカナが笑われてしまいはしないか不安で―――メイは結局、彼が再び顔を上げる前に、窓の内側へと引っ込んでしまった。


***


 以来―――メイは毎日、高校生が登校する時間帯に一旦起きることが日課となった。
 彼は、あの日もメイが顔を出すのを期待してこの道を選んでいたらしく、翌日も、その次の日も、毎日メイのアパートの前を通って登校してくれた。そして、窓からメイが顔を覗かせているのを見つけると、決まって嬉しそうに微笑み、手を振ってくれた。
 お返しを渡した翌日の彼の笑顔が「ありがとう」と言っていたから、メイも、微笑んで手を振り返すだけの勇気は持てるようになった。慌しい朝のひとコマ、ただ笑って手を振り合うだけのことだけれど―――それだけでメイは幸せだった。

 数日経った頃、店の厨房を借りて作ったクッキーを、彼に渡した。
 また窓から投げて落とすという方法だったが、彼は見事にキャッチし、それがクッキーだと分かると、その場であけて1枚食べてくれた。おいしかったのかどうか不安だったが、少なくとも、再び向けられた笑顔が引きつったりしてはいなかったので、一応気に入ってもらえたようだった。
 翌日、彼はメイの窓に向かって何かを投げてきた。
 不思議な軌道を描いて、窓の中へと滑り込んできたそれは、なんと紙飛行機だった。開いてみるとそれは、もの凄く綺麗なアネモネの花の絵だった。前回同様、右下に「クッキー アリガトウ」と書かれているのを見て、メイは嬉しくて泣きそうになった。それにしても、あの位置からよく見事に紙飛行機を飛ばしたものだ。どうやら彼は、こうした遊びが得意なタイプらしい。

 日々は、毎日毎日、変わらず過ぎてゆく。
 仕事はキツいし、故郷で病に伏している母の病状もあまり思わしくない。1日の大半が灰色をしていて、楽しいことなんてほとんどない。
 その中で、朝のその時間だけが、幸せだった。他の時間全部の苦労を足し合わせてもまだ足りないほどに、幸せだった。
 その幸せを思うと、失礼な客を笑顔であしらうことも、チップをはずんでくれる客に甘えてみせることも苦にならない。そのせいか、店での評判も良くなり、もらえるお金も僅かだが増えた。あの人は、私に幸福を運んでくれる人なのかもしれない―――そんな気がして、メイは彼に、恋心以上に感謝の気持ちを抱くようになった。


 そんな日々が、1ヶ月近く続いた、ある夜―――同じことの繰り返しだったメイの生活に、1つの事件が起きた。


***


 ―――遅いなぁ…。
 布団からごそごそと頭を出したメイは、枕元に置いた目覚まし時計に目をやった。夜光塗料のついた針が指している時間を確認すると、既に明け方の5時過ぎだった。

 もう、夜が明ける。なのに―――ミンが、戻ってこない。
 ミンはいつも、メイが帰宅した30分後位に帰ってくる。それは、ミンの店の方がメイの店より遠くにあるからであり、また、傷を負ってしまった時などは、その手当てで店を出るのが遅くなってしまうからなのだが。
 なのに今日は、1時間待っても、2時間待っても、二段ベッドの上に上がるミンの気配は感じられなかった。ウトウトしながらミンの帰りを待っていたメイは、目が覚めるたびにミンが帰ってきたかどうか確認し、空っぽのベッドを見て不安を募らせていた。
 よっぽど「下手な客」がいて、とんでもない怪我でも負わされてしまったのだろうか?
 それとも、好きな人が出来て、その人と一緒に過ごしているのだろうか?
 それとも―――何かの犯罪にでも巻き込まれたのだろうか…。真夜中の繁華街を帰宅しなくてはいけない仕事だ。そういうことがあってもおかしくない。その可能性に行き当たって、メイはますます不安になった。
 メイの知らないうちに出て行ったことも考えたが、机の上には、彼女が命の次に大事にしているものが今も置かれている。ミンの一番下の妹の写真―――ミンが一番可愛がっていた妹で、日本に来る前の年に他界したそうだ。写真の裏には、妹の遺髪が貼り付けられている。だから、これを置いて出て行く筈がない。
 「どうしちゃったんだろう…」
 不安げに呟いたメイは、それでも仕事の疲れから、また浅い眠りについた。


 次に目が覚めたのは、目覚まし時計のせいだった。
 7時40分―――上のベッドは、まだ空のままだ。嫌な予感を覚えながらも、メイはミルクを1杯飲み、パジャマを脱いで部屋着に着替えた。いくら窓から顔を出すだけとはいえ、最初の時のようなパジャマ姿は恥ずかしすぎる。だから最近は、こうして着替えるようにしているのだ。
 着替えが終わって間もなく、部屋のドアがコンコン、とノックされた。
 ミンに違いない。そう思ったメイは、小走りにドアに近づくと、レンズから外の様子を確認した。案の定、ドアの外にはミンが立っていた。ただし―――その目は、泣き疲れたように真っ赤になっていた。
 「ミン?」
 メイが慌ててドアを開くと同時に、ミンの目から涙が零れ落ちた。何事かと眉をひそめるメイに、ミンは勢いよくガバッと抱きついた。
 「ゴメン…っ! ゴメンね、メイ…!」
 「ど、どうしたの、ミン…!?」
 「あ…あたし…ホントはここには戻りたくなかったけど…っ! でもっ、写真が…あの写真が、どうしても取りに帰りたくて…っ!」
 泣きじゃくるミンの背中を宥めるように叩きながら、メイは、ふと視線を感じて顔を上げた。
 そして―――その瞬間、全てを悟った。

 ミンの背後にいた、男性1人と女性1人。
 女性の方が、とても穏やかに、そして意外なほど流暢なメイの国の言葉で、メイに語りかけてきた。

 「入国管理局です。…分かってるわね? 荷物を纏めなさい。これから一緒に来てもらいます」

***

 仕度をするメイの背後でミンが泣きながら説明したところによれば、昨夜、ミンの勤める店に立ち入り検査が入ったのだそうだ。
 店の人間は逮捕され、雇われていたミンたち外国人労働者の女性は、入管に身柄を拘束された。一旦家に戻り、荷物を纏めるよう言われたミンは、一度はそれを拒否したものの、妹の遺髪のことがどうしても諦めきれず、メイがいると知りつつも戻ってきてしまったのだ。
 仕方ないよ、と言いながら、ボストンバッグに荷物を詰め込むメイの手は、知らず震えていた。
 入管に身柄を拘束される―――その意味は、十分分かっている。これまでも、仲間の何人かがこうして連れて行かれた。この先に待っているのは、祖国への強制送還…もう、日本を離れるしかない。

 十分、頑張ったと思う。
 兄は、毎月メイが送るお金の半分を貯金している。もうかなりの金額になっている筈―――暫くは、一家が食べ繋げるだけのお金は貯まった筈だ。それに、国に帰れば、もう寂しくない。心のどこかでずっと願っていた、帰りたい、帰りたい、と。だから、大丈夫…もう、十分、頑張った。
 だから、どうしても手の震えが止められないのは、強制送還されることに対する恐怖や、収入が途絶えることへの不安のせいではない。

 あの人に、もう、会えない―――多分、二度と。突然の別れに、心がついていけないのだ。

 「…お願いです、8時半まで、待ってもらえませんか…」
 ボストンバッグのファスナーを閉めながら、メイは掠れた声で、入管の女性局員にそう訴えた。彼が窓の下を通るのは、大体毎朝8時15分頃―――あと数分後だ。今下りてしまえば、最悪の場合、彼と下で鉢合わせになってしまう。もう会えないのは辛いけれど、せめて最後は、この窓から笑顔で手を振りたかった。
 しかし、女性は、気の毒そうな顔をしながらもゆっくりと首を振った。
 「ごめんなさいね。あなたは逃亡の意志はないでしょうけれど―――速やかに移送するのが規則ですから」
 「……」
 「働いていたお店のことなら、心配しなくて大丈夫。今、他の係官が行って、全て手続きを行ってます。あなたは安全なのよ。安心して」
 ―――そんな心配をしている訳じゃない。
 うな垂れたメイは、最後まで机の上に置いてあった、彼が描いてくれた自分の似顔絵に手を伸ばした。それを丁寧に丸めると、傍にあった輪ゴムで括り、胸に抱いた。
 初恋の思い出だから…大切にしたい。いつまでも、ずっと―――そう思ったら、涙がぽろぽろ零れ落ちてきた。こんな時、肩肘張って異国の地で頑張ってきたメイが、ただの17歳の女の子に戻ってしまう。心のストッパーが外れてしまったみたいに、涙が零れて止まらなかった。


 2人の局員に促されるようにして、メイとミンはアパートを出た。
 30メートルほど先にある車に向かって歩いていた4人だったが、その車より向こう側から現われた人影を目にして、メイは思わず、足を止めてしまった。
 「―――…」
 彼、だった。
 制服姿で、いつものように鞄とスケッチブックを小脇に抱えて―――彼は、メイを見て、メイから数メートルの地点で立ち止まり、目を丸くしていた。そして、メイの手にボストンバッグと丸めた絵があるのを見て、ある程度の状況を察したのだろう。直後、その目を、悲しげに細めた。
 「メイ、行かないと」
 ミンが、耳元でそう囁いて、肘を小突く。けれど、メイは動けなかった。

 だって、これが、最後だから。
 もう、次はない―――伝えたい想いは、今、伝えなくては、一生伝わらない。

 ボストンバッグを地面に置いたメイは、彼を見つめたまま、空いた手をゆっくり差し出した。いまだ涙は止まらないけれど―――自然と、口元が綻んだ。
 「……今マデ…アリガトウ…」
 この国の人とは明らかに違うイントネーションのメイの言葉を、彼は笑ったりはしなかった。
 一度きゅっ、と唇を噛むと、彼はメイの差し出した手を握り、目元だけは悲しみを残したまま、それでもフワリと微笑んでくれた。
 「…ありがとう、メイ。元気で」

 


 メイが、“シンジ”と交わした言葉は、これだけ。

 メイにとって“シンジ”は、決して忘れられない初恋の人になった。


 そして、慎二にとっても―――メイは、切なくて、少し悲しい思い出を伴った、初恋の人になった。


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